週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

映画『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』

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「捨て去るべき過去」と
「捨ててはいけない過去」


『スター・ウォーズ』シリーズの最新作、『エピソード8/最後のジェダイ』を見てきました。公開から1か月経ったので、ネタバレありで感想を書いてみます。

 今回の作品は前作エピソード7以上に賛否両論みたいですね。僕の職場にも熱狂的なファンのおじさんがいるのですが、彼は猛烈な否定論者でした。その根拠は、劇中の「過去を葬れ」という台詞に端的に表れているように、このエピソード8という作品が過去のシリーズを全否定しているから、ということらしいです。

 確かに、今回の作品では、過去の作品が蓄積してきた重要な設定やキーワードに対して、積極的に新たな解釈を試みています。

 例えば、ルークの「フォースはジェダイだけのものではない」という台詞。フォースが万物の間に存在するエネルギーであるという説明は過去の作品でもなされていましたが、実際にはジェダイの専売特許であり、特にエピソード1〜3では『ドラゴンボール』における“気”のように、戦いのために使われる不思議なパワーという位置づけで描かれていました。

 そのフォースを、本来の定義通りとはいえ「ジェダイだけのものではない」と改めて強調することは、いわばフォースを相対化することにあたります。そして、フォースを相対化するということは、すなわちジェダイを相対化することでもあります。実際、ジェダイという名前や伝統からの解放がストーリーの大きな核であり、サブタイトルの由来でもあるわけですが、過去の新旧3部作の物語が、ジェダイの繁栄と衰亡(エピソード1〜3)、そこから復帰するまで(エピソード4〜6)と、ジェダイの存在を中心に回っていたことを考えると、ジェダイの相対化は取りようによっては確かに「過去の全否定」に映るかもしれません。

 また、フォースの光と闇という概念もスター・ウォーズの世界を支える重要な設定ですが、両者の境界線をこれまででもっとも薄く、あやふやなものだと描いた点も挙げられます。レイとカイロ・レンのテレパシー的な会話(このようなフォースの使い方も今までにはなかったことです)からは「完全なダークサイドなどない」ということが、過去の作品以上に明確に示されています。少し次元が違いますが、ここでも一種の相対化が起きています。

 ストーリーとしても、そこから読み取れる解釈としても、「過去」が大きなキーワードになっていること。もちろんこれは偶然などではなく、ジョージ・ルーカスの手を離れて新たなスター・ウォーズを作ろうとするライアン・ジョンソン監督ら新制作者陣の意気込みの表れであることは間違いないでしょう。

 ただ、ジェダイの遺産を残すことに執心していたルークが、最後にはその遺産を焼いてしまう(ようにヨーダに促される)一方で、過去を葬り去ることで新しい自分になれると考えていたカイロ・レンが、実際にはレイアを撃つことができなかったという対比が見られるように、この作品は「捨て去るべき過去」だけでなく「捨ててはいけない過去」もあると語っています

 両者はどこが違うのか。陳腐な表現を許してもらうとすれば、それは「魂」ということになるでしょう。魂さえあれば、ジェダイという形や器などなくたってかまわないし、反対に、まだ心のどこかに本当の気持ちが残っているならば、カイロ・レンは父親を殺したことを悔いるべきだし、母親を殺すべきではない。僕の目にはそんな風に映りました。

 では、スター・ウォーズという作品における「魂」とは何でしょうか。そしてその「魂」は、過去を清算したように見えるエピソード8の中にも残っているのでしょうか。それとも、やっぱりこの映画は「魂」すらも捨ててしまった過去の全否定作品なのでしょうか。スター・ウォーズの魂をどう捉えるかが、結局はこの作品に対する賛否の分かれ目になる気がします。

 僕なりの答えを先に言えば、それは「世界観」です。作品を成り立たせる要素を、物語と世界観とに大きく分けるとすれば、僕は世界観こそがスター・ウォーズの魂だと思っています。

 ジェダイを葬ろうが、フォースをテレパシーのように使おうが、レイアがフォースで宇宙遊泳しようが、コメディ的な間の芝居が増えようが、違和感はあるけど許容はできます。なぜならこれらは「物語」の範疇だから。世界観とはそうではなく、過去の作品の衣装やセット、クリーチャーデザインなどから想像される、あの銀河世界のありようであり、過去の作品と今回の作品との連続性に対する納得感です。

 例えば、ドラえもんがキャラクターとしていかに愛嬌のあるデザインとはいえ、それがそのままBB-8のデザインになってしまったら、スター・ウォーズの世界観にはまったくフィットしません。過去の作品に登場してきたドロイドを想像したときに、その歴史の先にBB-8のあのデザインが生まれることを(好きか嫌いかは別として)許容できること。それがすなわち世界観ということです。

※そういう意味で、以前も書いたように、僕は『ローグ・ワン』という作品のチアルートというキャラクターは許容できないし、今回の作品でも中盤のカジノの町のデザインはアウトだと思いました。

 んで、スター・ウォーズがここまで人気が出たのも、続編がどんどん作られる余地があるのも、物語やキャラクターが魅力的だからというより、器である世界観が強固だからです。世界観が維持されていれば、たとえ登場するキャラクターやストーリーのタッチが変わっても、観客はそこを「つながった世界」だと認知できるし、何度でもその中に没入できます(ガンダムが宇宙世紀を舞台にした作品を次から次へと作れているように)。その意味で、スター・ウォーズを「スター・ウォーズ」たらしめているものは、物語ではなく世界観の方にあると思うのです。

 確かに、フィンとローズがカジノへ行く一連のくだりは蛇足感があるし、DJのキャラクターの扱いはもったいないし、肝心のレイの出生の秘密だって消化不良感が残ります。ただ、それでもあの物語の舞台が、「あのスター・ウォーズの世界」であることは概ね納得できます

 また、その一方で、フォースの相対化やジェダイの相対化といった「過去との決別」という点については、エピソード10以降の展開も示唆されているなか、将来にわたってこの長大なシリーズを続けていくためには、避けては通れないプロセスだったと思います。

 ということで、だいぶ前置きが長くなりましたが、以上のことから僕はエピソード8を評価する…とまで積極的にはなれないけど、少なくとも否定はしません。未来のことを考えたときに、この作品がとった選択は決して間違ってはいないと僕は思います。そういう意味では、この作品の本当の価値は、エピソード15くらいまで作られたときに振り返ってみて初めて分かるのかもしれません

 最後に余談ですが、僕がこの作品を映画館で見たのは、公開3日目の12/17でした。この日はちょうど、大河ドラマ『おんな城主 直虎』の最終回でした。「家名や城など失ってもかまわない。形ではなく魂こそが大事だ」とする『直虎』のテーマは、ちょうどエピソード8と通じる気がして、面白い偶然だなあと唸ったのでした(そこに共通点を見出すのは、僕の心境の反映なのでしょうが)。




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2017年12月の3冊 〜謎の一族「豊島氏」を追って〜

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※中野区松が丘2丁目に立つ江古田原沼袋古戦場碑

 秩父に河越(川越)、葛西に渋谷、江戸に河崎(川崎)…。かつての武蔵国である東京・埼玉・神奈川北部には、現在地名として残っている名前を苗字とした一族があちこちにいました。なので、謎の一族「豊島氏」を最初に知ったときも、豊島区という名前の由来になった一族、つまりは現在の池袋のあたりを治めていた小領主なのだろうと想像していました。

 ところが、それからしばらく経って、たまたま近所にある北区西ヶ原の平塚神社を訪れたところ、そこがかつて豊島氏が本拠とした平塚城の跡という伝説があることを知りました。平塚神社は最寄駅が京浜東北線の上中里駅。山手線でいうと、駒込駅の北の方にあります。池袋からかけ離れているどころか、豊島区ですらありません。

 また、同じく北区の王子の北側に「豊島」という番地があります。すぐ隣に足立区が迫り、北側を流れる荒川を渡れば埼玉県という、これまた池袋からは離れた地域です。この番地のことはランニングしてて偶然知ったのですが、東京に住んでる人間からすると「北区豊島」ってかなりの違和感。ですが調べてみると、むしろ北区豊島こそが「豊島」という地名の元祖であることがわかりました。上代の頃、現在の東京都北部一帯を指す豊島郡の群衙(役所)があったのも、そして初期の豊島一族が最初に拠点を構えたのも、実はこの「北区豊島」だったのです(諸説あり)。

 豊島氏とは、いったい何者なのか?ずっと気になってはいたのですが、ようやく腰を据えて関連本をいくつか読んでみました。

 ざっと概略を説明すると、豊島氏とは桓武天皇の曾孫である平良文を祖とする一族で、秩父氏や江戸氏、河越氏などと同じ、いわゆる秩父平氏に属する氏族になります。平良文より一代遡って高望王(桓武天皇の孫)を祖と考えると、千葉氏や三浦氏、土肥氏なども同族になり、逆に豊島氏から枝分かれした支族には、後に陸奥国の領主として戦国末期まで続いた葛西氏がいます。要するに、武蔵武士団の中では最古の部類に入る名門の一族ということになります。

 秩父平氏の一部が入間川を下って現在の北区豊島〜平塚神社あたりに入植し「豊島」を名乗り始めたのは10世紀末から11世紀初めごろ。その後豊島氏は武蔵の有力な領主として、源頼義・義家親子に従って前九年・後三年の役に従軍するなど、源氏との結びつきを強め、源頼朝が挙兵した際にも源氏方として働きます。

 鎌倉、南北朝期と時代が変わる中でも豊島氏は生き延び、最盛期は現在の板橋区、練馬区、北区、豊島区、荒川区、足立区といった東京の北部一円を所領としました。

 ところが15世紀。長尾景春が関東管領上杉家と争った際に景春方についた豊島氏は、上杉家の家宰である太田道灌と敵対することになり、1477年に現在の中野区江古田、沼袋付近で繰り広げた野外戦で大敗。そのまま豊島一族は滅亡してしまうのでした。

 その後、豊島という名前は、『のぼうの城』の題材になった忍城攻防戦の城方の武将や、『大奥』で知られる絵島事件の大奥女中・絵島の生家、さらには浅野内匠頭よりも前に江戸城内で刃傷事件を起こした豊島明重など、歴史上にチラホラと出てはくるのですが、彼らと武蔵の豊島氏とが明確につながっていることを示す証拠はないそうです。



 今回僕が読んだ豊島氏関連本の中で特に内容が充実していたのは、まず『豊嶋氏の研究』。情報の細かさと、豊島と名のつくものは片っ端から拾いまくる網羅性がとにかくすごい。初版が1974年という古い本なのですが、豊島氏全体の通史を知るにはこの1冊以上の本はありませんでした。

 著者の杉山博さんと平野実さんは共に仕事の傍らこつこつと研究を重ねた在野の郷土史家で、その人生をかけた仕事ぶりにひたすら頭が下がります。

 ちなみに、江戸中期の幕臣で、豊島氏に関する史料を集め、自身も豊島氏の子孫と名乗った豊島泰盈(やすみつ)という人物がいるのですが、本書によればこの泰盈さんの奥さんの実家というのが、僕の母方の祖母の実家と同じ家らしいのです。これは読んでて椅子から転げ落ちそうになりました。完全な他人だとばかり思ってた豊島氏が、まさか(遠くて薄い縁ですが)自分とつながりがあったとは


 次に『決戦−豊島一族と太田道灌の闘い』。これは豊島氏滅亡のきっかけとなった太田道灌との「江古田原・沼袋の戦い」にテーマを絞った本ですが、豊島氏という家の歴史にまで遡りながら戦いに至った背景にがっつりと言及しているため、豊島氏の概要を知るテキストとしても役立ちました。特に豊島氏の史跡に関する情報の緻密さは前述『豊島氏の研究』以上です。

 著者の葛城明彦さんは、近年の豊島氏関連の展示会やシンポジウムには必ず登壇する、現世代を代表する豊島氏研究家。文章がめちゃくちゃ明晰で、戦死者を弔ったといわれる「塚」の存在を発掘し、そこから江古田原・沼袋の戦いがどのエリアで行われたかを絞り込んでいく様子は、かなり興奮します。


 最後が『豊島氏とその時代−東京の中世を考える』。これは1997年に平塚神社のすぐ近くにある北区滝野川会館で行われた豊島氏に関する同名のシンポジウムの採録本です。9月に読んだ『戦国関東の覇権闘争』の著者で「国衆」研究の第一人者である黒田基樹さんをはじめ、錚々たる面子が豊島氏を語っています。内容は非常に専門的なのですが、シンポジウムそのものはあくまで一般向きだったので、各講演者が言葉を噛み砕いて説明しており、読みやすいです。

 タイトルに「とその時代」とあるように、豊島氏だけがテーマではなく、同時代の社会状況や歴史的な変化から豊島氏を捉えるという「横の視点」があるところが本書の大きな特徴です。この本を最後に読んだのですが、関東中世史という大きな枠から豊島氏に入っていった身としては、視点を再度俯瞰に戻してくれるという点で、締めに相応しい本でした。



 世間的にはほぼ無名といってもいい「豊島氏」。なぜ僕がこの謎の一族に興味を持ったかというと、「地元だから」という一点につきます。平塚城に北区の“元祖”豊島、軍事拠点だった練馬城(現・としま園)、そして彼らの領地のほぼ全域にわたって流れる石神井川。かつて豊島氏が支配した地域は、そのまま僕の生活エリアと重なるのです。

 ほとんどの人は知らないけれど、その人にとっては身近な歴史。教科書や歴史小説の対極にあるような、ローカルな歴史。こうした「小さな歴史」については、小倉美惠子の書籍『オオカミの護符』僕自身のファミリー・ヒストリーの話などで、これまで何度かブログにも書いてきました。今年書いた暗渠の話も、根っこは同じ気がします。

「小さな歴史」を知ると、見慣れたはずの景色がまったく違って見えてきます。近所のなんでもない公園が、実は昔は城だったと知れば、公園の前を横切る暗渠が天然の堀に見えてくるし、そこに城を建てようとした人の思考にも想像が働きます。その場所に馴染みがあるからこそ、見方が変わるのです。

 そうすると、ほんの少しだけ自分の住んでる地域が誇らしくなったり、好きになったりします。「小さな歴史」の積み重ねは、その人のアイデンティティを強く後押ししてくれるのです。これは、教科書に載るような「大きな歴史」にはできないことです。

 豊島氏は、日本の歴史全体から見れば大して重要ではない一族かもしれないけど、僕個人にとっては秀吉や竜馬よりも心惹かれる存在なのです。





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Spotifyを1年使ってあれこれ思うこと

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 去年の新年1回目の記事は、Spotifyの日本版ローンチを機に、それまで忌避していた定額制音楽配信ストリーミングサービスに手を出してみた…という内容でした。
2016.1.5の記事:ついに「ストリーミング配信」に手を出した

あれからちょうど1年。今回はSpotifyを実際に1年間使い続けてみて感じたことをいくつか書いてみたいと思います。


アーティストを「手軽に深堀り」できるのは便利

 Spotifyを使っていて僕が一番便利だなあと思うのは、ニュースサイトやSNSで知った新しいアーティストや、知ってはいたんだけどちゃんと聴いたことがなかったアーティストを、気になった瞬間にその場で深掘りできること。今までもYouTubeなどを使えば似たようなことはできましたが、アルバムごとの収録曲やリリース順なんかの情報は別に調べないといけなかったので、あるアーティストをカタログとして体系的に把握するのは骨が折れる作業でした。このあたりの負荷がゼロなのは本当に楽。

 そして、そういう使い方ができるのも、Spotifyが圧倒的な登録曲数を誇るからでしょう。これは前回の記事でも書きましたけど、検索して引っかからなかったことはほとんどありません。日本のアーティストは相変わらず薄いですが、海外のアーティストは相当マニアックな人たちまでカバーされてます。他にも定額配信サービスがある中でSpotifyを選んだ大きな理由が登録曲数の多さだったのですが、1年間の 僕の使い方を考えると正しい選択だったと思います(でも最近はApple Musicが猛追してるらしいですね)。


「とりあえずお気に入り」は結局聴かない

 一方で、(これも当初の予想通りではあるのですが)音楽を聴いているときの「感覚」はSpotifyとそれ以外とでは違います。今、僕にはCDとSpotifyでお気に入りに登録した楽曲という、大きく二つの音楽ライブラリがあるわけですが、どちらの音楽に「思い入れ」を抱きやすいかというと、迷わず即答で前者(CD)です

 身銭を切って買っているからでしょうか(Spotifyも一応月額1,000円払ってますが、感覚としてはタダです)、それともモノという物理的な説得力のせいなのでしょうか。いずれにしてもSpotifyでお気に入りしたアルバム一覧を眺めていると「あれ、これどんな音楽だっけ?」みたいなことがよくあります。「とりあえずブックマークしとくけど結局開かない」というよくあるパターン


満たされない「俺だけの音楽」という欲求

 Spotifyを始めた一番の動機は「子供が生まれてこのまま野放図にCDを増やしていったら家がパンクする」という極めて物理的な問題でした。ならば「お金を払って買いたい」「でも場所は取りたくない」という両方をとって、iTunes Storeなどでデータだけ購入すればいいじゃないかと思うかもしれませんが、それはそれで嫌なのです。配信の購入は、買いたいけどフィジカルが廃盤になっている場合などの最後の手段。

 不思議なのは、CDを買ったとしても、僕の場合実際に聴くシーンとしては8割以上がスマホ経由です。つまり、その点ではデータと変わらないわけです。なのに、iTunes StoreとCDとどっちを買うかと言われたら、僕は迷わずCDを選ぶでしょう。スマホ上は同じデータでしかない両者の何が違うかと言えば、後者には「俺の音楽」という実感、すなわち思い入れがあるという点です。

 同じ曲を聴くのでも、SpotifyとCD(からiPhoneに取り込んだ「ミュージック」の曲)と両方にあるなら、迷わずCDで聴きます。Spotifyで出会ってしばらくはアプリ上で聴いていたんだけど、どうにも落ち着かなくてCDで買ったアルバムが実際に何枚もありました。このように、どうしても僕は「フィジカルを買う」という行為を経たものでないと、落ち着かないっていうか気に入らないっていうか「これは俺の音楽だ」っていう実感がもてない。

 逆に言えば、僕にとってはその思い入れこそが重要なので、ただ財布のひもをゆるめればいいわけでもないし、モノがいいならレンタルCD借りてくればいいじゃんって話でもないのです。Spotifyに足りないもの。それは「俺だけのもの」という実感です。そりゃあそうですよね。だってあれはみんなでシェアしているものだから、当然「俺のもの」であるはずがないもの。

 これって僕がCD世代だからなんでしょうか?今の若い子はこういう感覚を持たないのかしら。でも、その感覚をどういうメディアに抱きやすいかは世代に依存するとしても、「これは私の音楽」という思い入れを持てることが音楽を聴く喜びであることは普遍的な気がします。Spotifyという膨大なライブラリにアクセスできるようになったからこそ、逆になけなしのお小遣いでCDを買っていた子供の頃の気持ちを思い出した気がします。




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Chuck Berry 『Chuck』

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「納豆とご飯とみそ汁」
さえあればいい


 大林宣彦監督の映画『青春デンデケデケデケ』(1992年)のラストで、林泰文演じる主人公のちっくんが、文化祭のステージで最後に演奏する曲をこう紹介します。
世界のロックのなかで、1つだけ挙げてみぃ言われたら…。それではみなさん、感謝の気持ちを込めて精一杯歌います。<ジョニー・B・グッド>。

 14、5歳の頃だったと思います。この映画のこのセリフで、僕は人生で初めて「チャック・ベリー」という人の存在を認識しました。

 2017年最後の投稿は、今年の3月に亡くなったチャック・ベリーの遺作『Chuck』です。スタジオアルバムとしては1979年の『Rock It』以来、なんと38年ぶりとなる作品です。

 元々、昨年のチャックの90歳の誕生日に「17年には新作を出す」と発表されていたのですが、チャックが亡くなったことで、計画が白紙になることが危ぶまれました。しかし、チャックが生涯で200回以上ステージに上がったセントルイスのクラブ、ブルーベリー・ヒルの経営者であるジョー・エドワーズと、チャックの家族たちの支援によって、なんとか今年の6月、無事にリリースされました。

 経緯を細かく書いたのは、このアルバムが、アーティストの死後に生前に残した未発表曲を編集して作られた、よくある追悼盤ではなく、チャック自身が作ることを望み、実際に作業を行っていた、正真正銘の「新作」だったことを強調したいからです。

 ということで、このアルバムの価値について真っ先に語らなければならないのは、内容よりも何よりも「アルバムが出た」という事実そのものです。まさか僕の人生に、「チャック・ベリーの“新作”を買う日」が訪れるとは思ってもいなかった。そんな夢のような体験をさせてくれただけでもこの作品に感謝です。

 音楽評論家の故中山康樹の著書に、年老いたロックミュージシャン達はピークを越えた今、どんな音楽をやってるのか?という視点で、レイ・デイヴィスアート・ガーファンクルの最新作なんていう誰も見向きもしないアルバムばかりを集めた『愛と勇気のロック50』という異色のディスクガイドがあります。もし今中山がこの本を書くとしたら、『Chuck』は間違いなく目玉として収録され、そして高く評価されたんじゃないでしょうか。

 そうなのです。この『Chuck』、普通にいいアルバムなんです。「普通にいい」って言っちゃうのもあれですが、いっても90歳のじいさんが(80年代に作っていた曲なんかもあるとはいえ)作ったアルバムですから、正直「記念」以上の何かを期待はしないじゃないですか。「出してくれるだけでいい」「死に水を取る」とばかり思っていたのですが、どっこい、じっくり聴けるしガンガンにノれるアルバムだったのです。

 特に後半がいいです。攻めてます。ギターよりもピアノを利かせた超モダンな<She Still Loves You>、リズムが楽しい<Jamaican Moon>(<Havana Moon>のアンサーソングなんでしょうね)、ほぼワンコードで押し続けるじっとりとしたブルース<Dutchman>、そしてラストを締めくくるにはあまりに渋すぎる<Eyes Of Man>。「ドッツ、ドッツ…」というブルースの基本フレーズだけが鳴り、そこに語るような調子で、「男はいつも女に救われてきた」というような、自虐的でユーモラスな詩が乗っかります。

 このように、「いわゆるチャック・ベリー」を外してくる姿勢(そもそも、よくよく聴くとこのアルバムに「いわゆるチャック・ベリー」は半分もない)、すごくかっこいいです。

 あとやっぱり声がいいですね。チャックというともちろんギターの人なんですけど、僕は実は彼の「声」が好きなんです。カラッとしているのに色気があって、1曲目の<Wonderful Woman>の声なんてホント最高。彼のあの声を、現代の録音環境で音源化してくれたってことも、このアルバムの価値といえます。



 当然ながら、僕はチャック・ベリーに直接影響を受けた世代ではありません。僕が最初に「ロック的な体験」を受けたのは、チャックの4世代くらい下のオアシスでしたし、その後ビートルズストーンズを聴くようになっても、そのさらに上の世代であるチャックとなると距離があまりに遠すぎて、しばらくその姿は茫洋としていました。でも、その後、古今東西のいろんなロックをたくさん聴いていたら、いつの間にか僕はチャック・ベリーのことが大好きになっていました。

 チャック・ベリーの音楽を聴くと、落ち着くというかホッとするというか「ああこれこれ」という、理屈を超えた納得感があります。どんな有名レストランの料理を食べても、「結局、納豆とご飯とみそ汁が一番」と感じるみたいに。何かこう、プリミティブなものを思い出せる気がします。

 映画『青春デンデケデケデケ』を初めて見たとき、なぜでちっくんが「ロックの中で一番好きな曲」として<アイ・フィール・ファイン>でも<ロング・トール・サリー>でもなく<ジョニー・B・グッド>を挙げたのか、僕はわかりませんでした。でも、今なら心の底からわかります。僕も間違いなく、数えきれないほどいる彼の子供の一人だってわかっているから。

 ありがとう!チャック・ベリー!








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2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』<Reprise>

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全てが地味なはずの「マイナー大河」が
大河ドラマの未来を拓いた


 今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』が終わりました。放映開始直後の記事で僕は「過去の大河ドラマとは別物なんだと分からせてくれた(でも僕は「過去の大河」の方が好きだけど)」という、極めて消極的で個人的な評価をしました。しかし、1年間の放送を見終えた今、僕はこの当初の評価を全力で撤回します。『直虎』という作品は、僕が思ってたよりもはるかに素晴らしいドラマでした。頭をすり下ろすくらいの勢いで土下座します。

 手のひらを返しすぎだと思われるかもしれませんが、僕は『直虎』は大河ドラマの未来を拓いたんじゃないかと思います。ポイントは、主人公の直虎含め、登場人物のほとんどが一般的に知られていないマイナーな人物ばかりだったこと

 誰もが知る歴史上の有名な人物ではなく、その脇にいた人物を主人公に据えるのは、近年の大河ドラマの流行りではありました。『天地人』の直江兼続や『軍師官兵衛』の黒田官兵衛、『花燃ゆ』の楫取美和など。大河も第1作から50年以上経ち、歴史上有名なメジャー人物はやり尽くしたという台所事情があるのでしょう。

 しかし、『官兵衛』でも指摘したように、いくらマイナー人物を主人公に据えたところで、物語は結局主人公の近くにいるメジャー人物を軸に進むことになるため、肝心の主人公は傍観者になったり、反対に主人公というだけでメジャー人物を超える活躍を見せたりといった、「ねじれ」が頻発していました。

(その点で僕は、メジャー人物がいなかった『八重の桜』に期待していたのですが、あの作品も中盤、京都の政治劇に話の重心が移ってしまい、せっかくのマイナー人物大河が生かせず惜しい結果になりました)

 これまで大河が取り上げてきたマイナー人物が、結局のところ「メイン人物の脇にいるマイナー人物」でしかなかったは、メジャー人物が映らないと関心を呼ばないだろう、歴史上有名な事件が絡まないと1年間もたないだろうといった、一種のマーケティング的発想によるものだったんだろうと思います。今回の『直虎』は、それが単なる幻想だったことを示しました。

 でもなぜ、メジャーな人物や有名な事件にも頼らなかった『直虎』が、あそこまで面白いドラマになれたのでしょうか。僕は、マイナー人物ばかりという従来の常識に反するこの作品の特徴が、むしろ面白さの大きな理由になっていると考えています。

 歴史上マイナーな人物は、残された史料が決して多くありません。直虎にしても直筆とされる史料は『龍譚寺文書』の1点だけですし、放映前には「直虎は実は男だった説」が報道されるなど、そもそも存在すら曖昧です。そうした人物を題材にドラマにするということは、必然的にフィクションの入り込む余地が大きくなります

『時代劇の「嘘」と「演出」』という本もありますが(めちゃくちゃ面白い本です)、歴史ドラマにおいてどこまで史実に基づくか、どこまでドラマとしての創造性を許容するかは常に制作者を悩ませる問題です。そして、取り上げる人物がメジャーな人物であればあるほど、フィクションの許容度は低くなる傾向があります。また、仮に従来とは異なる思い切った解釈をしたとしても、メジャーな人物や事件であれば、「独自の解釈をする」ということ自体が手垢にまみれてしまっていることが少なくありません(例えば、本能寺の変は秀吉が起こしたetc.)。

 その点、マイナーな人物であれば、史料という「縛り」も少なく、反対にフィクションに対する許容度は大きい。マイナー=話の結末を知らないから新鮮に見てもらえる視聴者が多いというシンプルな利点もあります。

 例えば『直虎』でいえば、寿桂尼と直虎との、緊張感がありつつも女城主同士で親近感を覚えあう関係などは、史実という「法の網目」をフィクションが上手くすり抜けた好例だったと思います。

 そして、フィクションと史実とが矛盾しないまま極めて高いレベルで融合したのは、なんといっても高橋一生演じる小野政次のキャラクターでしょう。「裏切り者として処刑された」とされる史実を維持しながら、その裏側に180度違う解釈のキャラクターと物語が築かれ、「本当はこうだったのかも」と想像が膨らみました。しかも、第33回「嫌われ政次の一生」放映直後、多くの人が指摘していたように、「今我々が知っている歴史とは、所詮勝者によって作られたものでしかない」という、歴史の見方そのものに対するメッセージが読み取れた点においても、素晴らしい脚本でした。

『直虎』の功績。それは、登場人物も取り上げる事件も一般的に知られていないという「マイナー大河」であることを逆手に取り、大河ドラマに「ドラマ」の面白さを取り戻したことです。違う言い方をするならば、「ここまでフィクションで作りこんでもいいんだ」と、創造の余地の上限を引き上げた(あるいはボーダーラインを引き下げた)ことです。僕が冒頭「『直虎』は大河ドラマの未来を拓いた」と書いたのは、この作品の成功により、これからの大河の題材選びと作り方がガラッと変わるんじゃないかと期待しているからです。

 にしても、16年『真田丸』と17年『直虎』は、前者は過去に散々題材になってきたメジャーなネタ、後者はほとんど取り上げられてこなかったマイナーネタという違いこそあれ、どちらも「大国に翻弄されながらなんとか生き残ろうとする小国の領主」という点で共通しているのが面白いですね。「天下をとる」や「新しい世を作る」といったプラスアルファで大きな何かをつかみ取ろうというのではなく、「生き残る」という究極の現状維持の方が感情移入を喚起するのは、今という時代性なのかもしれません。





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