週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

Aretha Franklin『Aretha: With The Ray Bryant Combo』

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「自由に生きていい」と
彼女は歌っていた


 先月『村上RADIO』のなかで、村上春樹が「僕はシナトラの<My Way>は嫌いなんだけど、アレサ・フランクリンのカバーした<My Way>を聴いたら『なんていい曲なんだろう』と思った」というようなことを話していました。まさか、あの数日後にアレサ・フランクリンが亡くなるとは。

 亡くなったというニュースを聞いて思ったのは、悲しみや喪失感というよりも、彼女と同じ時間の空気を吸えたことへの感謝でした(僕はわずか2か月の差でジョン・レノンと同じ時代に生きられなかったので)。それくらい、彼女の存在は生前から既に「生きる歴史」だったし、その大きさは別格中の別格でした。

 彼女の代表作『Lady Soul』を初めて聴いたのは、20代の後半でした。めちゃくちゃ衝撃でした。あの「チェンチェンチェーィン…」という、ぬたぁーっと始まるゾクゾクするオープニング。当時ガレージとかパンクばかり聴いていてソウルミュージックには馴染みがなかったんですけど、このアルバムはパンクと同じ地平にあるような気がして、すげえかっこいいなと思いました

 このアルバムのなかで彼女はゴフィン&キングによる<Feel Like A Natural Woman>を歌っています。後年、『つづれおり』でキャロル・キングがこの曲をセルフカバーをしてますが、僕は圧倒的にアレサ版の方が好きだなあ。<People Get Ready>もオリジナルよりもアレサの方が好き。あの猛烈にエモーショナルなボーカルは、有無を言わさぬ説得力があります。

 アレサ・フランクリンというとこの『Lady Soul』をはじめアトランティック時代のイメージが強いですが、亡くなったのを機に、その前のコロンビア時代のアルバムも聴いてみました。その中でも特に印象に残ったのが、コロンビアと契約して最初のアルバム『Aretha: With The Ray Bryant Combo』

 ジャケット見てもわかる通り、若い!当時若干18歳です。笑ってるんだけどどこか緊張して見えるのが可愛らしいですね。でも歌はやっぱり圧倒的。後年の円熟味はありませんが、そのかわり瑞々しい躍動感があって、アトランティック以降を聴いていた耳にはとても新鮮です。

 プロデューサーはベニー・グッドマンやビリー・ホリデイといった「歴史上の人物」と仕事をしてきた大ベテラン、ジョン・ハモンド。タイトルからもわかるとおり、このアルバムで彼はピアニストのレイ・ブライアントをアレサにぶつけています。そのことによる緊張感がバンドのアンサンブルを引き立てていて、若いアレサの声ともマッチしています。

 収録曲は全てカバーなのですが、その中には彼女のルーツでもあるゴスペルだけでなく、ジャズやブルース、映画音楽まで含まれています。2曲目で『オズの魔法使い』の主題歌<虹のかなたに>を歌ってるんですけど、こういうモロに白人音楽な雰囲気の曲を、(少なくとも僕の印象では)黒っぽくなく歌い切ってしまうのがすごい。


 レイ・チャールズナット・キング・コールを聴くと、特定のジャンルに捉われないボーダレスなところに感動するのですが、アレサはその女性版というようなイメージを持ちました。「ソウルの女王」という彼女の異名が、実は一面的なものでしかないことがこのアルバムを聴くとわかります。

 まるで実際に飛び跳ねながら歌ってるんじゃないかと思うようなエネルギーで、どんな曲も伸び伸びと歌い切ってしまう18歳のアレサの声を聴いていると、「私は自由に生きていいんだ」「どこへでも行けるんだ」というような思いが湧いてきます。言葉に直すと陳腐だけど、そういう気分を純粋に音楽だけでリスナーに抱かせてしまうところが本当にすごい

 オバマ前米大統領はアレサの訃報に「彼女の声の中にアメリカの歴史を見ることができた」とコメントしました。「きっとそうなんだろうなあ」と想像します。








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Bob Dylan『Bringing It All Back Home』

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風景と音楽の組み合わせが
「自分だけの映画」を生む


 先月TOKYO-FMで、村上春樹が初めてラジオDJを務めた番組『村上RADIO』が放送されました。

 本人も番組の冒頭で「僕の声を初めて聴く人もいるかもしれません」と言ってましたが、確かに非常にレアな機会だったと思います。僕も、彼がまとまった量の日本語を、それもカジュアルな口調で喋るのを耳にしたのは初めてでした。意外だったのは、イメージよりも声が若かったこと。あと、村上春樹も普通に笑うんだってこと(当たり前か)。

 番組は、村上春樹がランニング中に聴く音楽(1000〜2000曲入っているiPodを7台ほど持っているらしい)から本人がセレクトしたいくつかの曲を紹介するというもの。ジャズからポップ、ロックまでジャンルはいろいろでしたが、本人曰くランニングに向いている音楽は「なるべくリズムが一定で、できれば勇気を奮い立たせてくれるようなもの」ということで、軽快で元気なナンバーが多かったですね。

 興味深いのはカバー曲が多いことでした。Zachariasの<Light My Fire>とかBen Sidranの<Knockin’ On Heaven’s Door>とか。ジョージ・ハリスンもカバー曲でした。しかしなかでも驚いたのはJoey Ramoneの<What A Wonderful World>。村上春樹、ラモーンズなんて聴くんだ!でもこの曲は確かにランニングにはすごい合いそう。

 そういえば、以前エッセイで、「ビートルズはもう山ほど聴いたから、今はもっぱらカバーしか聴かない」みたいなことを書いてましたね。その気持ちは分かる気がする。
(YouTube)

 僕もランニングをするけど、音楽は聴きません。走り始めた当初はiPodを必ず携帯してたんですが、2、3か月もすると聴かなくなりました。

 理由は2つあって、1つは汗が流れ込んでイヤホンを1本ダメにしてしまったこと。もう1つは、音楽が邪魔に感じるようになったこと。音楽を聴いていたのは走る間の退屈対策だったのですが、2、3か月経って徐々に身体がランニングに慣れてくると、走ること自体が楽しくなってくるので、音楽はむしろ余計だと感じるようになったのです。以来、一度も音楽を聴きながら走ったことはありません。

 だけど1つだけ、ランニング中に聴いていた音楽で忘れられない記憶があります。

 ランニングを始めて最初の冬のことでした。12月の頭、よく晴れた土曜日の早朝に、いつも走っていた近所の都立公園へ行くと、例年よりも長く枝にしがみついていた銀杏の葉が一斉に散り始めていました。まるで絨毯のように真っ黄色に染まった地面を走り始めたとき、イヤホンから流れてきたのは、ボブ・ディラン『Bringing It All Back Home』でした。

 1曲目の<Subterranean Homesick Blues>の乾いたギターの音、2曲目<She Belongs To Me>のディランの繊細な声と優しいメロディ。それらが、黄色い地面と青い空、冬のキンとした空気にピタリとハマりました。

 走りながら、まるで映画を見ているような錯覚に陥りました。風景と音楽が、僕のなかで宿命的なほど完璧に溶け合いました。あまりの美しさに「生きててよかった!!」と心の中でガッツポーズをとったのを、はっきりと覚えています。1965年にリリースされたこのアルバムは、ディラン初のエレクトリックアルバムとして知られる名盤中の名盤ですが、あの日以来、僕は聴くたびに12月の早朝の公園を思い出すのです。

 僕は村上春樹にとってのランニング音楽のように、行動(アクション)と音楽が結びついた経験はあまりないんですけど、そのかわりに、ボブ・ディランのときのような、風景と音楽が結びついた経験はたくさんあります。

 一番多いのは電車に乗ってるときで、たまたまイヤホンから流れてきた音楽によって、見慣れたはずの車窓の風景が物語のワンシーンのように見えることは、日常的によくあります。こないだも夕方の東横線に乗っていて、遠くに三軒茶屋のキャロットタワーが見えたんですけど、その瞬間ホムカミの2ndが流れて、「ああ、あの場所に行きたいなあ」というようなくらくらするほどの切なさを感じました。なんだったんだろう、あれは。

 こういうのって狙って味わおうとしてもダメで、ある風景とある音楽、さらにはそのときの自分の心理状態なんかも含めて偶然生まれるものなんですよね。そして、偶然だからこそ、この「自分だけの映画」を見られることにはある種の快感があります。僕が電車に乗るときに必ず音楽を聴く理由は、退屈対策もあるけど、それ以上にこの不思議な快感への期待が大きいかもしれない。さらにいえば、僕がずっと劇団で選曲をやってきたのも、「風景(シーン)と音楽の組み合わせ」への好奇心が、形を変えて表れた結果なんじゃないかという気がしてきました。

 …というようなことを『村上RADIO』を聴き終ってから考えていました。なんだか、自分の音楽遍歴をひもとくキーワードが、思いもかけず見つかったような気分です。番組の趣旨とはだいぶずれるけど、これもある意味では「風景と音楽」と同じ、偶然が生んだ何かに違いありません。

『村上RADIO』は10月に第2回が放送されるそうです。








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2018年8月の3冊 〜飯嶋和一は何を描こうとしているのか〜

命はまるで
「流れ星」のように


 先月紹介した『雷電本紀』をきっかけに、作家・飯嶋和一の作品をひたすら読んでいます。とりあえずKindle化されている作品は全て読みました。一人の作家をここまでむさぼるように読んだのは、10年前の吉村昭以来かもしれません。久しぶりに「面白くて頭がおかしくなりそう」という感覚を味わいました。

 なんでこんなに面白いんだろう。読んだことある人には同意してもらえると思うんだけど、飯嶋作品って爽快感とはまったく無縁ですよね。むしろ、読んだ後は、何とも言えない重たい感覚が残ります。飲み込みづらいものを無理に胃に流し込んだような、疲労感に似たカタルシス。にもかかわらず、面白い

 飯嶋作品の特徴としてまず挙げられるのは、「悲劇」が多いということ。その最たる例が『神無き月十番目の夜』(1997年)です。


 慶長7年(1602年)に常陸の小生瀬村で起きた、女子供を含む300人もの村民全員が皆殺しにされた事件「生瀬一揆」を題材にしたこの作品は、物語の冒頭にまず結末が示され、その後は「なぜこのような事態が起きたのか」を丹念にたどるという構成をとっています。最後には全員が死ぬことを分かったうえで、その動かしようのないラストに向ってページをめくり続けるという、なんとも精神的にタフな読書を強いられる作品です

 しかし、この作品の悲劇性は、単に惨劇の規模や残酷さだけによるものではありません。傭兵集団として自治権をもっていた小生瀬村の人々の誇りや平穏な暮らしが、ほんのささいなボタンの掛け違えによって、無残なまでに破壊され尽くす様があまりに悲しいのです。

 権力者の横暴や怠慢(『雷電本紀』『神無き月十番目の夜』など)、経済第一主義(『汝ふたたび故郷へ帰れず』)、戦争(『スピリチュアル・ペイン』)といった巨大なシステムによって、家族とのささやかな生活や夢を追い求める自由な心といった「個」の幸せが、徹底的に破壊される。飯嶋作品における悲劇とは、決まってこのように「システムが個を破壊する」という形を取ります。逆に言えば、飯嶋和一という作家は、常に弱い立場である「個」の側に立ってきたということでもあります。

 江戸時代後期に自作の凧で空を飛んだといわれる世界最初の「鳥人」、備前屋幸吉の生涯を描いた『始祖鳥記』(2000年)は、飯嶋作品における「個」の位置付けが、もっとも端的に表れている作品です。


 幸吉が空を飛ぼうとするのは、本人にとってはあくまで探究心や単純な好奇心によるものです。しかし「飛ぶ」という行為が当時の常識からすればあまりに奇抜で突飛なために、幸吉の行動は政治的な文脈で解釈され、ついには犯罪者に仕立てあげられます。

 賞賛や評価のためではなく、ましてや世間にメッセージを投げかけたいわけでもなく、子供が遊びに没頭するように、ただ純粋に自分の心が求めるものを希求していく。幸吉や廻船問屋の源太郎、船乗りの杢平、浦安の塩問屋・伊兵衛ら本書の登場人物たちは、そうした瞬間の中にのみ自らの「生」を燃やす場所を見出します。

 個人の魂の救済を描くのは、古今東西の多くの物語に共通している点ですが、飯嶋作品の特徴は、その「個」を前述の通り、システムと徹底的に対比させているところです。これでもか!というくらいにシステムに「個」を叩きのめさせることで、平穏な生活の貴重さや権力を前にした個人の幸福の儚さなどが際立ち、重たいカタルシスが生まれるのです。

 そうした「システム(=悪)のスケール」という点では、大佛次郎賞を受賞した『出星前夜』(08年)がもっとも残酷です。


 この作品では、江戸時代最大の民衆蜂起である島原の乱の一部始終が描かれます。民衆が蜂起した直接のきっかけは、領民を死の淵まで搾取し続けた肥前島原藩・松倉家の悪政ですが、何十年にもわたるキリシタンへの弾圧も大きな背景の一つにありました。さらにその背後には、幕府の貿易統制や強圧的な西国経営といった時代の大きな流れがあります。そうした巨大な存在によって、罪のない子供たちが次々と死んでいく(物語の冒頭は天草地方の子供たちに疫病が流行るというシーンなのです)様子は、あまりの不条理に胸が潰れそうになります。

 島原の乱は、最後は幕府軍によって鎮圧されます。2万とも3万とも呼ばれる蜂起軍は一人残らず殺されます。彼らは重い年貢に苦しみ、心の拠りどころだった信仰も奪われ、ついには権力に殺されるのです。殺された民衆の中には、キリストが誰かも理解できないような小さな子供もいます。

 物語のラスト、登場人物の一人が夜道を歩きながら、命というもののあまりの軽さに絶望します。命の本源は死という永遠の中にあり、生はまるで、死に向かう前に一瞬だけ見える流れ星のように儚いと。けれど、その一瞬の光芒こそ愛しく感じてしまう気持ちを認めて、物語は結ばれます。

 ここで述べられる、流れ星のような命の儚さは、システムを前にした個が常に潰されるという飯嶋作品の共通の型と重なります。その意味で、『出星前夜』は飯嶋作品の核の部分がストレートに出た、総決算的な作品のように僕は思います。

 飯嶋和一はこの後、15年に『狗賓童子の島』を、今年18年に『星夜航行』を上梓しています。『狗賓童子の島』は間もなくKindle化されるはず。今か今かと、首を長くして待っているところです。




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The Full Teenz 『ハローとグッバイのマーチ』

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「あの頃の自分の声」を
ハァハァせずには聞き返せない


 HomecomingsだったりHAPPYだったりAnd Summer ClubだったりHearsaysだったり、最近だとNum Contenaだったり、そのあたりの、つながってるんだかいないんだかよくわからない西日本のインディシーンを、ここ数年僕はよく聴いているのですが、その中で「この人たちは毛色が違うな」と感じるバンドがいます。京都の3ピース、The Full Teenzです。

 彼らの楽曲を聴いてまず真っ先に思ったのは、「この人たちの曲を『嫌い』っていう人いるのかな?」ということ。最初に音源化されたEPは非常に実験的だったそうですが、少なくとも2016年にリリースされた彼らの1stアルバム、『ハローとグッバイのマーチ』に詰まっているのは超陽性のメロディに平易な言葉で綴られる歌詞、バンド名のteen=10代の甘酸っぱさをそのまま封じ込めたような普遍的世界観。とにかく、このバンドのポップネスというのは、こちらが思わず恥ずかしくなってしまうくらいの“ど”ポップです。



 レーベル(Second Royal)メイトであるHomecomingsや、メンバーがMV出演しているAnd Summer Clubももちろんポップですが、彼らが英語詞であるのに対してThe Full Teenzは日本語詞である点に象徴されるように、どこかツウ好みっぽさを残すホムカミ、アンサマに比べると、The Full Teenzはごく一般のリスナー層にまで届きそうな波及性を備えています。一体どこからこのバンドは紛れ込んできたのでしょうか。

 ただし、サウンドは決して軽くはありません。僕が彼らを知ったのも、Second Royal経由ではなく、Kili Kili Villa所属のCAR 10NOT WONKといったパンクバンド経由でした。そういったバンドに通じるハードなサウンドと、彼ら自身のキャラクターや青臭いほどにポップな世界観とが不思議と融合しているのが、The Full Teenzというバンドの大きな個性になっています。

 でも、このバンドの魅力として僕が一番に挙げたいのは、ボーカル伊藤祐樹の声です。

 伝わるかどうかわからないんですけど、10代の頃、僕の頭の中に響いていた僕自身の声は、多分彼の声だった気がするのです。「生きる意味とはなんだ?」という哲学という名の遊びに耽り、「●●とキスしてええ!(←だいぶソフトに表現しています)」と性欲をたぎらせる。そんな脂臭い脳内ボイスに、もしアフレコするのであれば、それは僕自身の声よりも、伊藤祐樹の声の方が近いような感じがするのです。

 そしてさらにいえば、伊藤とボーカルを分け合う(時にメインボーカルを務める)ドラムの佐生千夏の声もまた、10代の頃に脳内プレイしていた「好きな子」の声だった気がするのです(この点についてはラブリーサマーちゃんもホムカミ畳野彩加もみんなそうですけど)。要するに、彼らの声を耳にするだけで、僕は10代の頃にタイムスリップするような気がしてハァハァしてくるのです。

 アルバムラストに収録された<ビートハプニング>の、「自分が誰かに影響するなんて思ってもいなかった」という歌詞なんて、最高ですね。ちょっと舌足らずで、日本語としてあか抜けない言い回しが逆にリアル。価値がないと思い込んでた自分が、思いがけず誰かの役に立った。そのときのうれしいような恥ずかしいような気持ちが蘇ってくるようで、このフレーズを聴くたびにくすぐったくなります。

 でも、この「あか抜けないフィーリング」を、楽曲という「あか抜けた表現」へと昇華させていくのって、めちゃくちゃすごいことなんじゃないかと思います。








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『雷電本紀』飯嶋和一(小学館文庫)

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雷電という「鏡」に
名もなき人々の涙が映る


 江戸時代後期に活躍した大相撲力士、雷電爲右エ門は、身長6尺5寸(197cm)、体重45貫(169kg)という当時としてはまさに巨人と呼ぶべき恵まれた身体で、1790年から1811年まで21年もの間土俵に上がりました。その間の通算成績は、254勝10敗2分14預5無勝負。勝率は実に9割6分2厘。あらゆる面において史上最強と呼ぶのに相応しい力士です。その雷電を主人公に描いた小説が、飯嶋和一『雷電本紀』

 とても不思議な小説でした。「雷電を主人公」と書きましたが、厳密にいえば彼だけが主人公ではありません。雷電に化粧まわしを贈ったことで彼と友人のように親しくなる、鉄物卸問屋「鍵屋」の助五郎と妻のさよ、雷電の弟弟子の千田川、医者の恵船先生と彼の元に通う名もない人々、そして雷電の地元信州の力士であり悲劇的な最期をとげる日盛(ひざかり)。彼らは、雷電よりもむしろ強い印象を読後に残します。特に助五郎は第二の主人公というべき人物で、物語の中盤は一時雷電を完全に離れて彼の物語になります。

 不思議なのはもう一つ。時間の進み方がユニークなところです。時系列に沿って丹念にたどっていくのではなく、ある場面の後、いきなり10年ほど時間が飛んだりします。おまけに視点も次々と人物を乗り換えていくので、例えば人物Aの現在が描かれた後に、人物Bの過去の話になったりします。だからといって、物語の密度が薄いということはなく、むしろ潔いまでの時間軸のぶった切り方は、かえって描かれていない「余白」に対する想像を育みます

 その一番の例が、助五郎の妻・さよ。幼い頃に親に売られ、深川の花街で三味線の腕だけを頼りに生きてきたさよは、あることをきっかけに出会った助五郎に見初められ、身請けされます。そこまでの経過は丹念に描かれ、これでようやく彼女に平穏な生活が訪れるんだと思いきや、次の場面ではいきなり何年も時間が飛んで、既に彼女は病気で亡くなっているのです

 読者は意表を突かれ、突き放されたようにすら感じるのですが、このあっけなさは、実は時間というものの本質でもあります。ついこないだまで元気だった人が、急に亡くなってしまったり、そして癒えることなどないと思っていた悲しみも、時間が経てばいつの間にか消えてしまうように。この物語の、無慈悲のようにも思える時間の切り取り方は、だからこそ、そこに生きる人々の健気さや美しさを際立たせます。

 江戸時代は大きな戦争こそなかったものの、人々は飢饉や火事といった災害に怯えながら生きていました。一方で、幕府官僚の不正は日常化し、相撲においても各藩の見栄の張り合いなどを背景とした「拵え相撲」と呼ばれる八百長が横行しました。

 そこに突如現れたのが、八百長が入り込むスキすらないほどに常識はずれの強さを誇る雷電でした。人々は自らの苦しみを束の間忘れられる存在として、あるいは日頃の不満やうっぷんを晴らしてくれる存在として、雷電に夢を見たのです。この物語は雷電の評伝というよりも、雷電を巨大な鏡に仕立て、そこに映る江戸庶民たちの姿を描いた群像劇なのだという気がします。

 物語の序盤、雷電の少年時代の出来事として出てくるのが上州一揆です。そこでは、限界に達した人々の不平不満が巨大な奔流となって藩や幕府といったシステムを押し流していく様が、濃厚な筆致で描かれます。それと同じエネルギーが物語の終盤、もう一度江戸の町で巻き起こり、間接的に雷電の窮地を救う展開は、とても痛快です。一方で、一身に罪を被って死を受け入れる助五郎の姿には、人間の尊厳と、どんな権力者にも冒すことのできない魂の高潔さが表れています。山本周五郎の『さぶ』に通じるものを感じます。

 現代よりも制約が多い過去の時代に物語の舞台を移すことで、人間の本質をより露わにするのが歴史小説・時代小説なのだとしたら、まさにこの小説は、その鑑というべき作品だと思います。






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