週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

「川」こそアナーキーだ

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この「素晴らしい風景」は
俺にしか見えないんだぜ


ランニングを始めて間もないころに直面したのが、
「どこを走るか」という問題でした。

最初は近所の大きな公園を走っていたのですが、
何度も走っていると、次第に飽きてきてしまいました。
それに、だんだん走る距離が伸びてくると、
同じコースをグルグル回ることになり、
まるで学校の校庭でやらされる持久走のようで、うんざりしてきたのです。

仕方なく、近所の大きな国道や幹線道路沿いを走ることにしました。
これなら迷うこともないし、夜も明るい。
ところが、車の排気ガスや騒々しいエンジン音ですぐに嫌になりました。
信号ですぐに足を止めさせられるのもストレスでした。

そこで僕が目をつけたのが、でした。
川沿いなら静かだし、緑もあるし、信号も少ない。
長い距離を確保することも可能です。
東京だと荒川や多摩川といった大型河川沿いがランニングコースとして有名ですが、
僕が選んだのは、神田川や石神井川といった、小規模な都市河川でした。
景色の変化に乏しい大型河川沿いよりも、
商店街や住宅地を縫うようにして流れる小規模河川の方が、
いろいろな生活が垣間見られて面白かったのです。


一方で、走る場所のバリエーションをさらに増やそうと、
ポケット地図帳やGoogleマップを開いては、
自分だけの「マイ・ランニングコース」を探し続けました。
ポイントにしていたのは、幹線道路ではないこと、信号が少ないこと、
できるだけ長い一本道であること。

そういうコースを地図で探して、実際に走りにいくことを繰り返すうちに、
条件に合致する道の多くには、いくつかの共通点があることに気付きました。
やたらと道が細い。やたらと道がくねくねしてる。
車止めによって自動車が入ってこれない作りになっていて、
中は植物やベンチが置かれ、遊歩道のように整備されている。

それが、かつての川筋、つまり「暗渠」であることに気付くまで、
大して時間はかかりませんでした。

「そうか。今まで走ってた道は、元は川だったんだ」
そのことがわかると、目の前の世界が、
それまでと全く違って見えてきました。

自動車が行き交う幹線道路を横切りながら悠々と流れる細い川筋や、
立ち並ぶ住宅によって隠されている浸食崖の傾斜。
スマホの画面をかざすと別の世界が重なって見えるポケモンGOのように、
僕の網膜に特別なレイヤーがかかって、
幾筋もの川が流れていたかつての東京の風景が見えてくるようでした。

でも、ポケモンGOはアプリをインストールすれば誰でも見られるけど、
この風景は僕にしか見えません

古地図や地形図や、実際に走って見つけた微妙な傾斜を頼りに暗渠を探し当て、
「この先はどうなってるんだ?」と暗く細い道を進んでいく、冒険のような昂揚感。
食事の匂いや風呂場のシャンプーの匂いを嗅げるほど人の生活のすぐ真裏で、
そんな冒険をしているんだという、秘密めいた背徳感。
そしてなにより、この感動は僕しか知らないんだという優越感。
全て僕だけのものです。

暗渠との出会いはまるで、秘密の部屋の扉を開けて宝の地図を見つけたような、
そんなグーニーズ的大事件でした。
30歳を過ぎて、まさかこんなにも大きな宝の山にめぐりあえるとは。
早朝5時の苔むした暗渠の上で、汗だくのまま、僕はひっそりとガッツポーズをとったのでした。


よく考えてみれば、暗渠にしろ開渠にしろ、
僕のランニング生活はほとんど川沿いだけで営まれてきたことになります。
今でもほぼ毎週、どこかしらの川を走っています。
このあいだも、地形図を見ながら石神井川系の新しい暗渠を開拓しました。

なぜこんなにも川に惹かれるのでしょうか。
(このあたりからだんだん話は止まらなくなります)

川というのは、はっきりいって存在が地味です。
生活のすぐ隣にある存在なのに、その川がどこから来てどこへ行くのか、
川沿いに住む人すら知らないんじゃないでしょうか
実家に住んでいたころ、すぐそばに川が流れていたのですが、
その川の水源がどこなのかなんて考えたこともありませんでした。

僕はよく川と線路を対比させて考えるのですが(線路沿いもよく走ります)、
鉄道はもともと移動を目的としている分、出発点と目的地が明確です。
それに比べて川は、日常にあまりに溶け込みすぎているせいか、
本来もっているはずの移動性や連続性が抜け落ちて、
固定された風景の一つとして認識されているのかもしれません。

でも、一度でいいから地図を広げて見てほしい。
そうすれば気づくはずです。
近所の川が、いかに長い距離を旅する旅人かということを。
そしてその旅の道筋が、いかにダイナミックなものかということを。

例えば都心のど真ん中を流れる神田川
武蔵野市の井の頭公園で産声を上げ、
ゆったりとしたカーブを描きながら、一路東へと向かいます。
三鷹市、中野区、杉並区、新宿区と、いくつもの行政区域を股にかける様子は、
人間の決めたせせこましい約束事などあざ笑うかのようです。
はじめは子供の腕のようにか細い流れだったのが、
途中で善福寺川や妙正寺川といった旅の仲間との出会いもあり、
後楽園の前を横切るあたりでは、すっかり成熟した大人の川へと成長します。
地図を見ているだけでも感じるこのドラマチックさ。
人の一生や一つの時代を描くドラマを「大河ドラマ」と呼ぶ理由がよくわかります。

さらに地図をよく見てみてください。
注目してほしいのは行政区域の境界線です。
東京都と埼玉県の境の荒川や、東京都と神奈川県の境の多摩川のように、
川が行政区域の境界線として機能していることがよくあります。

しかも開渠とは限りません。
例えば不忍通りから50mほど東側に入ったところに、藍染川の暗渠があります。
大人がようやく一人通れるかどうかというものすごく細い路地なのですが、
実はこの路地が文京区と台東区の境界になっています。
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よく考えてみれば、そんなにも細い流路でありながら、
その上に建物の一つも建てられず、
人間が川筋を今でも道として保たざるをえないのも、痛快な話です。
誰にも見向きもされない小さな暗渠でさえも、
知らず知らずのうちに僕らの生活をコントロールしているのです。

人に関心など払われなくても、淡々とわが道を行く川。
曲がりたいときに曲がるし、近くに仲間(川)がいれば合流するし、
誰にも束縛されずに流れ続ける川。
たとえ暗渠になろうとも、大きな道路や線路やマンションにいくら遮られようが、
健気なほどにしぶとく流路を維持し続ける川。

なんて自由なんでしょう。
なんてアナーキーなんでしょう。


「目指すべき生き方は?」と問われれば、
僕は有名人や偉人の名を挙げるのではなく、ただ一言「川」と答えたい
川の流れに沿って、人生という名の道を敷いてみる。
そしたらそれは、まさに「俺暗渠」と呼べるんじゃないか。
そんな思い付きに「ククク」と暗い笑いを浮かべつつ、いったん記事を締めます。

川と暗渠の話、次回も続きます。




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Theピーズ30周年日本武道館

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武道館らしくないバンドの
もっとも「武道館らしい」ライブ


この数年、「ベテランバンドの初武道館」がすっかり恒例化しました。
怒髪天(2014年、結成30年目)、フラワーカンパニーズ(15年、結成26年)、
そしてつい先日のコレクターズ(17年、結成30年)。
※思えば09年のピロウズ(09年、結成20年)がその嚆矢だった気がします
そしてつい先日、過去のどのバンドよりも武道館らしくないバンド
ある意味「真打」が、あの八角形の屋根のあるステージに上がりました。

Theピーズです。
6/9、結成30周年で初となる武道館ライブを見に行ってきました。

ベテランバンドの初武道館って、
「苦節何年、ついに光の当たる場所に出てきました…」みたいな
涙の「物語」とどうしてもセットになりがちです。
でもこの日のステージは、3人のキャラクターもあって、
まったく湿っぽくならず、終始笑いの絶えない「お祝い会」といった雰囲気でした。

「物語」はもう十分みんなの中で醸成されているんだから、
それをあえて口に出すのは野暮ってもんだろう。
そういう大人の信頼関係ができあがっていることに、
30年という時間の重さを感じました。

「物語」を明示しないもう一つの理由は、
必要な言葉や気持ちは、楽曲の中で既に語られているからです。
例えば、アルバム版よりもテンポを遅くして演奏された<鉄道6号>
いつも通り、本気と冗談の境界線がわからないゆるいキャラのままのハルが、
やっとこんないいとこまで たどりついてしまった
ああお疲れさんだよ

という冒頭のフレーズを歌ったときの、あのグッとくる感じは、
たとえメンバーが涙を流しながら感動的なMCをしたとしても生まれないでしょう。

そういえば<鉄道6号>だけでなく、
<線香花火大会>や<ドロ舟>、<実験4号>といった、
Theピーズの作品の中でも最も苦いアルバム『リハビリ中断』の楽曲が、
あの場で歌われるとハッピーで楽しい曲に聴こえたことも象徴的でした。



もう一つ、とても印象的だったのは、
「ピーズというバンドは、実は武道館がよく似合う」ということでした。
そうなのです、冒頭にも書いたように、
見る前は「武道館らしくないバンド」とばかり思ってたのですが
実際に見てみたら、武道館の雰囲気が心地よくハマッていたのです。
僕はかなり前の方で見てたのですが、2階席の人も似たようなことを言ってたので、
ステージとの距離の問題ではないようです。

では何が理由なのか。
高音が割れるギリギリ手前のつんざくような雑な感じの音は武道館らしくなくてよかったし、
曲のスケール感も武道館の大きさにまったく負けていませんでした。
特に<バカになったのに>、<底なし>、ラストの<グライダー>はすごい迫力だった。
その一方で、3人のMCは普段通りだから、心理的な距離感は普段と変わらない。
でも僕は、一番の理由は、ピーズだけがもつ客席の熱気なんじゃないかと思います。

終演後、出口に向かう人波の中で、近くにいた男性が、
「ピーズ聴いてる人、こんなにいたんだな」と呟いたのを聞きました。
多分ほとんどの人が同じ気持ちだったと思います。
僕だって、これまで出会った人の中で、
ピーズが好きという人なんて片手で数えられますから。

ピーズは、入口は誰の目にもわかりやすい場所にはないけれど、
一度入り込めばどこまでも奥にズブズブと入り込んでしまうバンドです。
僕が出会ったことのあるピーズが好きな人たちも、
一度口を開いたら、延々とピーズのことを話し続けるような人ばかりでした。

「自分だけがピーズを知っている」という誇りと、
「自分しかピーズを知らない」というさみしさ。
ピーズのファンは、おそらく他のどのアーティストのファンよりも、
「この気持ちを共有したい」という欲求に飢えてたんじゃないでしょうか。

30年分溜まったその欲求を、これまでで一番大きな規模で叶えられるとしたら。
その場所はやはり、武道館という聖地しかなかったと思います。
そういう意味で、僕は今回のピーズのステージこそ、
もっとも「武道館らしい」武道館ライブだったと思います。

今では、「ブレイク前夜」レベルの認知度でも
勢いがある若手アーティストであれば武道館でライブを行います。
武道館は今や到達点ではなく通過点に過ぎないのかもしれません。
そういう時代に「ベテランバンドの初武道館」という物語は、
若い人にはきっと時代遅れに映るでしょう。

でも、たとえ時代遅れだとしても、
僕はピーズのライブのような「武道館」が好きだなあ。






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2017年5月の3冊 〜ジャイアント馬場と永大産業サッカー部の奇跡〜

『巨人軍の巨人 馬場正平』広尾晃

 ジャイアント馬場はプロレスラーになる前、実は巨人軍のピッチャーだったことは、どのくらい知られているのでしょうか。そんな「“ジャイアント馬場”になる前の馬場」を題材にしたノンフィクション。3月にプロレス関連本を立て続けに読みましたが、そのときはアントニオ猪木&新日系と女子プロレス系の本ばかりだったので、やはり次は全日系、つまりジャイアント馬場を読まずばなるまいと思い手に取ったのですが、いい意味で期待を裏切られました。
 というのは、馬場が巨人に入団したのは長嶋茂雄、王貞治の入団前夜(王貞治の最初の打撃練習で投手を務めたのは馬場だったそうです)。つまり、プロ野球が国民的なスポーツとして爆発的な人気を誇るようになる直前の時代になります。当時の各球団の二軍(馬場は野球選手時代のほとんどを二軍で過ごします)が一軍とは別に興業を組んで全国を廻り、しかもそれなりの人気を誇っていたこと。プロレスという文脈よりも、そうした当時のプロ野球の雰囲気が面白く、戦前のプロ野球の草創期を描いた激熱ノンフィクション『洲崎球場のポール際』を読んだ身としては、その続編のような気分で読みました。





『1964年のジャイアント馬場』柳澤健

 柳澤健のプロレス関連の著書は3月にさんざん読みましたが、なんと彼はジャイアント馬場についても本を書いていました。
 プロレスラーは「アスリートである前にエンターテイナーである」という矛盾を抱えていて、その矛盾の中でもがき続けたのがアントニオ猪木であり、その前提を逆転させてあくまでアスリートであろうとしたレスラーたちの苦闘が日本の総合格闘技の歴史であり、逆にエンターテイナーとして振り切った真の「プロレスラー」であるのが長与千種であり、そしてジャイアント馬場である…というのが僕の解釈。
 んで、僕はなにせ史上最強のキング・オブ・ガチファイトを描いた『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』から格闘技周辺に興味を持ってきた人間なので、心情的には馬場よりは猪木寄り。だからこそ本書で書かれた伝説の「木村政彦VS力道山」戦における木村政彦評(ガチファイトを望んでたくせに、いざ本当にガチファイトを仕掛けられたら日頃の不摂生がたたってボロクソに負けた)を読んで「クソーッ!」という気分になりました。
 でも同時に一連の柳澤本、とりわけ本書中盤に出てくる、1950年代から60年代前半にかけての、アメリカのプロレス界におけるプロモーターやレスラーたちによる激しい興亡記を読んでいると、プロレスラーを「プロフェッショナル」と表現することに納得できるようにもなります。観客の心理を読む洞察力とそれに応える演技力、与えられたキャラクターを演じる冷静さなど、エンターテイナーに徹することは、ある意味ではアスリートであることよりもよっぽど賢明さや忍耐力が必要かもしれません。
 本書は馬場一人の評伝というよりも、馬場の目を通して見る日米プロレスの文化の違いや歴史に主眼が置かれています。これまで読んだ柳澤健の著作もそうだったように、本書もやはり「歴史書」でした。





『歓喜の歌は響くのか』斎藤一九馬

 ジャイアント馬場の余韻のなか、なかなか異なるジャンルの本には移れず、結局次に手に取ったのもスポーツノンフィクションものでした。まったくのゼロから作られた実業団サッカーチームが、創部してからわずか3年で正月の天皇杯決勝戦に進むという、ウソみたいな本当の話。ワンマン社長と熱血コーチの2人がタッグを組んで、強引なまでに上へ上へと上り詰めていく話自体も読み応えがあったのですが、同時に時代の空気のようなものに触れられるという点でも面白い本でした。
 舞台は1970年代。Jリーグが開幕したのは今から四半世紀近くも前のことですが、この本で描かれているのはそこからさらに20年近くも昔の話。Jリーグなんか影も形もない、それこそ実業団の選手レベルなのに練習方法をみんなで本で読んで考えるなんていう時代です。しかし、結局当時の強豪チームがその後のJリーグのチームの母体になったり、主役の永大産業にしても、チーム自体は潰れたものの育った選手たちが地元山口を拠点に子供たちのサッカー指導にあたって後年Jリーガーを輩出したりと、今につながるエピソードの数々には、知られざる歴史を読み解く興奮があります。一方で、社長とコーチの強引なやり方も、今の時代だったら許されないだろうなあという部分がたくさんあって、笑える半面、70年代だからこそ起きた奇跡という風にも思えてちょっと複雑。
 柳澤健のプロレス本にしてもそうでしたが、やはり僕は「それまで知らなかった歴史を知る」ということを読書に対して激しく求めているんだなあと思いました。






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Beverly 『The Blue Swell』

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「軽くなった」は
褒め言葉である


元Vivian Girlsのフランキー・ローズ
Pains Of Being Pure At Heartのキーボード、ドリュー・シトロン
この2人が組んだギターロックデュオ、Beverlyを最初に知ったのは、
確か彼女たちが1stアルバムを出す前だったと思うので、もう2年以上前になるはずです。

重たい轟音ギターによる、靄のかかった深い森のような陰鬱さと、
その森に差し込む朝日のように荘厳な、フランキーとドリューのコーラス。
一見、正統派グランジ系オルタナバンドのようなのに、
教会の讃美歌のようにも聴こえるという不思議な音の風合いは、めちゃくちゃインパクトがありました。

1stアルバム『Careers』がリリースされた2014年というと、
ホムカミHAPPYフォトハイといったバンドの名前が真っ先に浮かぶのですが、
その次に名前を挙げろと言われれば、Beverlyがその筆頭だったろうと思います。


あれから2年、彼女たちの2枚目のアルバム『The Blue Swell』が昨年5月にリリースされました。
この2年の間にフランキーは脱退し、代わりにギタリストのスコット・ローゼンタールが加入。
Beverlyは女性2人のデュオから男女のデュオへと装いがガラリと変わりました。
しかし、変わったのはグループの構成だけではありません。

アルバムから先行して発表された曲は<Victoria>
ドリューとPainsのキップ・バーマンとの共作曲だそうです。


ポップはポップでも、1stの質感と比べると軽やかに聴こえるのは、キップの個性でしょうか。
彼女たちのSoud Cloudでは、その後も続々と新作の音源が公開されていったのですが、
この<Victoria>に代表されるように、1stに比べるとどの曲も相対的に軽くなった印象でした。

「軽い」と書くと、ネガティブな表現になる場合もありますが、Beverlyの2ndについては逆。
「洗練された」という意味に近いです。
例えば<Bulldozer><Lake House>なんかを聴いていると、
(僕の好きな)シューゲイザーっぽい展開を予感させられます。

あるアーティストの1stアルバムがめちゃくちゃ良かったのに、
2ndアルバムを聴いてみたら、あまりに前作の延長線そのままで、
その変わり映えのなさにがっかりしてしまった、という経験があります。
片や、ラモーンズに対しては「変わらないところがいい!」とか言ってるし、
我ながら勝手だなあと思うのですが、一般論でいえば、
やっぱり(程度の大小はあっても)何らか前作と違うところを見たいというのが、
多くのリスナーの思いであり、アーティスト側もきっと思いは同じでしょう。

Beverlyについては、確かに1stの頃の「モワァッ…」とした重たい煙たい感じも捨てがたいんですが、
2作連続で「モワァッ…」とされるよりも、
こういう新しい展開のあるアルバムの方が聴きごたえがあるし、
次の作品に対する期待がグンッと上がります。








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『騎士団長殺し』村上春樹(新潮社)

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「68点や43点の人生」だって
そんなに悪くはないはずだ


発売前に予約して買っていたのですが、
一度読み始めたら止まらなくなるだろうからと、
読み始めるタイミングを計っていたら、
実際に手に取るまでに2か月以上かかってしまいました。
でも、やはり予想通り読み始めたら止まらなかったです。
文句なしに面白かった。

今回はいつにも増して、映像が頭に浮かんでくる作品だったように思います。
雨田具彦の家のリビングやアトリエの様子、裏庭の祠とその背後にある「穴」、メンシキさんの自宅…。
読み終えた今、この小説のことを思い出そうとすると、
真っ先に浮かんでくるのはストーリーよりも、物語の舞台になった場所の方です。
そういえば、広尾、東北、そして小田原と、
具体的な場所の名前が登場する頻度も、他の作品に比べて多いように感じました。

以前、僕は村上春樹の小説について、
読者をいつの間にか現実とは異なる位相の世界へと迷い込ませ、
最終的には(たとえそこが物理的には元いた場所であっても)思いもよらぬ場所へと
連れられてきてしまうという点で、
「冒険小説」であると書きました。
(過去記事:『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』
今回の作品を読んで、改めてその思いが強くなりました。

ただ、今回は僕にとって、おそらく初めて「主人公がほぼ同年齢である村上作品」でした。
そのせいか、「冒険」のもつ意味についてより深く納得できるような気がしました。
何を納得したのか、うまく伝わるかわからないけれど、
絶望するほど年老いてはいないけど、楽観できるほど若くもない。
人生の分水嶺を間もなく超えようとしている年齢を迎えた僕らには、
『とことん腰を据えて向き合わなければならないもの』がある

というような、ある世代になると共通してもつであろう、一種の人生観です。
冒険とはその「とことん腰を据えて向き合わなければならないもの」のことです。

そして、冒頭に述べた「具体的な地名が多く登場した」というのは決して偶然ではないと思っています。
30代も後半に入ると、健康でも仕事でも生活のさまざまな面で、
本当に引き返せないポイント(point of no return)がそこかしこにあるのを実感します。
そういうポイントに差し掛かったら、腰を据えてとことんその「何か」に向き合わないといけなくて、
そのためには、まずは今いる場所へのコミットメントが必要です。
具体的な地名が登場するのは、主人公が腰を据えた決意であり、
同時に彼に対する「縛り」でもあるように思うのです。


こないだ、劇団を旗揚げしてから今年で17年にもなることに気づいて、ゾッとしました。
だって、この17年なんて本当にあっという間だったから。
この「あっという間」をもう1回繰り返したら、
僕はもう50代の後半で今1歳の娘は18歳になっていて、
そしてさらにもう1回「あっという間」を繰り返したら、僕は後期高齢者の仲間入りです。

自分の人生の残りは「あっという間」2回分しかないんだ。
そう思ったら若い頃には無数にあったはずの選択肢が、
驚くほど少なくなっていることに気づきました。
そして、「ありえたかもしれない別の人生」に対する未練が急に湧いてきて、
(馬鹿な話と笑われるかもしれませんが)とても苦しくなりました。

そんなときに『騎士団長殺し』を読んだのです。
この作品で描かれる「冒険」は、本人が好むと好まざるとにかかわらず、
人生のある局面で向こうからやってくる、一種の宿命のようなもののように感じました。
その宿命に対して、戸惑ったり迷ったりしつつも、
粛々と一つひとつの課題や作業をこなしていく主人公に、僕は心から共感したのです。
今いる場所がベストな場所ではないかもしれないけれど、
それでも今いる場所で生きていくしかない。
100点の人生ではないかもしれないけど、
68点や43点の人生だってそんなに悪くはないはずだ、と。








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