週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

特集「Neil Sedakaという不思議」〜最終回〜

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「日本のブリル・ビルディング」に
“刻をこえて”転生する


 なんのかんので3回目に突入してしまったニール・セダカの話。今回が最終回です。
#第1回
#第2回

 先週までは“音楽出版社”や“職業作曲家”、“自作自演歌手”といった、時代を反映したキーワードを軸にニールのキャリアを見てきましたが、肝心の、彼の音楽の話にほとんどふれてませんでした。ということで、最後は彼の音楽について書いてみたいと思います。といっても、一般的に知られる60年代の楽曲ではなく、70年代以降の楽曲をとりあげてみます。

 1962年に<Breaking Up Is Hard To Do>が全米1位を獲得したニールですが、彼の時代が本格的に訪れるかと思いきや、意外なことにそこからみるみる人気が低下してしまいます。63年の<Bad Girl>を最後にトップ50から遠ざかり、シングルを出してもチャート入りしないことすら珍しくなくなります。

 ビートルズのアメリカ上陸が64年の頭なので、ちょうど時代の潮目だったのかもしれません。前回、ニールは旧来の音楽出版社主導の時代と新しい自作自演歌手主導の時代の二つを内包していると書きましたが、ビートルズの登場とロックの誕生による時代の変化のいわば第2波には、乗り切れなかったのです。66年にはデビュー以来契約を続けてきたRCAからも離れることを余儀なくされ、レコード会社を転々とする不遇の時代を過ごすことになります。

 復活は74年。エルトン・ジョンが設立したRocket Recordsからリリースしたシングル<Laughter in the Rain>が全米1位に上り詰めます。翌75年にはエルトン自身も参加した<Bad Blood>で再び1位を獲得。その後も70年代の後半にかけてコンスタントにヒット曲を発表し、ニールは見事に第2の黄金期を迎えるのです。チャートアクションだけ見たら、60年代よりも70年代のほうがむしろ絶頂期といえます。


 劇的なカムバックへの伏線は大きく3つあったと思います。まず一つは、50年代からの盟友ともいうべきドン・カーシュナー(アルドン・ミュージックのオーナー)が、自身のレーベルからニールのアルバムを出してくれたこと。それが71年の『Emergence』と72年の『Solitaire』。いつの時代も人とのつながりって大事だなあと思わせてくれるエピソードです。

 二つめは、その時に出した2作目のアルバム『Solitaire』で優れたバックバンドと組んだこと。メンバーの名前はグレアム・グールドマン、エリック・スチュアート、ケヴィン・ゴドレイ、そしてロル・クレーム。つまりは後の10ccです

 レコーディングを行ったイギリスのストロベリー・スタジオの人脈でこの人選になったのだと思うのですが、演奏はタイトでキレがあり、コーラスも素晴らしく、彼らの力によって60年代のニールとはまったく違う音像が作り上げられました。ひと言でいえば「イギリスの音」になり、実際このアルバムからのシングルはアメリカよりもイギリスでヒットをします。このアルバムがなければ、後にエルトン・ジョンと接近することもなかったでしょう。ちなみに、このアルバムの表題曲は後にカーペンターズがカバーしてヒットをします(僕はカーペンターズ版のほうを先に知っていた)

 最後の3つめは、70年代に入り、シンガーソングライターの時代が訪れたことです。特にエルトン・ジョンやニールの元カノであるキャロル・キングなど、ピアノで弾き語るアコースティックスタイルのアーティストが登場したことは、その先駆者ともいうべきニール・セダカに再び追い風を吹かせる力になったと思います。そういえば、ベン・フォールズもニールへのリスペクトを公言していますが、ニール・セダカをピアノSSWの系譜の祖とする見方は面白そうな気がします


 最後に、ちょっとこじつけ混じりなのですが、もう一度職業作曲家としてのニールの話をしたいと思います。

 彼の歌を聴いたことはなくても、「ニール・セダカ」という名前はアニメファンなら一度は目にしたことがあるはずです。あまりに有名なのでもったいぶるまでもないのですが、答えは85年のアニメ『機動戦士Zガンダム』ですね。このアニメの前期OP<Z・刻をこえて>、後記OP<水の星へ愛をこめて>、そしてED<星空のBelieve>という3曲は、全てニールが作曲しています。

<Z・刻をこえて>は『Solitaire』に収録された<Better Days Are Coming>が、<星空のBelieve>は76年のアルバム『Steppin' Out』の<Bad And Beautiful>が原曲。そして<水の星へ愛をこめて>は、なんとZガンダムのための書き下ろしです。<水の星へ〜>は2018年にNHKの番組で行われた「全ガンダム大投票」のガンダムソング部門で1位を獲りました。僕も人生で最初に聴いたガンダムソングはこれでしたね。

 タネとしては、富野由悠季監督がニールの大ファンで、アメリカまでいって直接オファーしたからという、わりと普通なものなんですが、それがわかっていても、ガンダムとニール・セダカという組み合わせの不思議さには何度でも唸ってしまいます。



 んで、ここからは半分僕の妄想です。ニールがキャリアをスタートした50年代のように若い職業作曲家が同じく若いリスナーに向けてポップスを量産していた時代が日本にもあったとすれば、それは松田聖子中森明菜をはじめとする80年代のアイドルポップだったと僕は考えているのですが、そこに準じるのが同じく80年代のアニメソングシーンじゃないかと思うのです

 加藤和彦と安井かずみが手がけた、映画版『超時空要塞マクロス』(84年)の主題歌<愛・おぼえていますか>。松本隆と細野晴臣というはっぴいえんどコンビが作った『風の谷のナウシカ』(84年)の主題歌。そして、森雪之丞と玉置浩二による『めぞん一刻』の初代OP<悲しみよこんにちは>。いずれも、当時第一線でヒット曲を連発していた作家陣ばかりです(安田成美や斉藤由貴など、アニメソングの歌い手をそもそもアイドルたちが担っていたという背景はあるとは思います)。

 そうした日本のブリル・ビルディング期たる80年代アニメソングシーンの、それもガンダムシリーズというど真ん中の作品に、元祖ブリル・ビルディング期の中心的作家だったニール・セダカが乗り込んできたということに、なんとも因縁めいたものを感じる・・・と書いたらこじつけが過ぎると言われてしまうでしょうか。







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特集「Neil Sedakaという不思議」〜第2回〜

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「2つの時代」を
同時に抱える不思議


 先週に続きニール・セダカの話です。

 前回は、職業作曲家が音楽出版社を通じて曲を提供し、歌手はもっぱらそれを歌うだけという長く続いてきた分業体制が、1950年代から歌手自身が作詞作曲する自作自演が増えてきたことで崩れ始めた、という話を書きました。そして、白人ポップスの分野でもっとも初期に登場した自作自演歌手の一人としてニール・セダカの名前を挙げました

 1939年にNYブルックリンで生まれたニール・セダカは、高校在学中に仲間とコーラスグループを結成。「トーケンズ」という名前でレコードデビューを果たしますが、後にニールは脱退し、57年にRCAからソロ歌手としてデビューします(トーケンズは後に<The Lion Sleeps Tonight>で全米1位を獲得する、あのトーケンズです)。

 ソロデビューしたもののしばらくはヒットに恵まれませんでしたが、58年秋に<The Diary>が全米14位を記録。59年に<Oh!Carol>(9位)、61年に<Calendar Girl>(4位)と着実に人気を広げ、62年の<Breaking Up Is Hard To Do>でついに全米1位を獲得し、人気の絶頂を迎えます。これらの楽曲は全てニール自身が作曲を手掛けました。もしシンガーソングライター(SSW)という言葉が、既に当時存在していれば、その呼び名で呼ばれた最初期の一人になっていたでしょう。

 しかし、SSW(便宜上この言葉を使います)というのはあくまでニールの一面でしかありません。実は彼にはもう一つ、他の歌手に曲を提供する職業作家としての一面があるのです。というよりも、むしろ彼の音楽家としてのキャリアは職業作家のほうから始まります。

 ニールは幼少期からクラシックピアノの英才教育を受けていましたが(後にジュリアード音楽院に進学)、13歳のとき、近所に住む3つ年上の詩人の卵、ハワード・グリーンフィールドと出会い2人で曲を作り始めます。2人はやがて新興の音楽出版社アルドン・ミュージックと契約を結び、キャロル・キングジャック・ケラーと並んで同社の第1号ライターチームの一組となります。

 作曲ニール、作詞ハワードというこのコンビの最初のヒット作は、58年夏にリリースされ、全米14位に上ったコニー・フランシス<Stupid Cupid>。ニール自身の最初のヒット曲<The Diary>が58年の秋だったので、彼自身の名前が最初に世間に認知されたのは、歌手としてではなく作曲家としてだったということになります。当時若干19歳でした

 前述の通り、ニール自身の歌手としての人気もこの頃から急上昇していくのですが、同時並行でハワードとのソングライターチームもたくさんのヒット曲を連発し始めます。ラヴァーン・ベイカーの<I Waited Too Long>(59年)やジミー・クラントンの<Another Sleepless Night>(60年)、そしてなんといってもコニー・フランシスの<Where The Boys Are>(61年)。全米4位の大ヒットとなり彼女の代表曲になりました。僕が最初に聴いたコニーの歌もこの曲でした。

 このように、ニール・セダカというアーティストは、自作自演歌手でありながら音楽出版社と契約した職業作曲家でもあるという2つの面を併せ持っていました。自作自演歌手が一般的になるにつれて、それまで業界の重要なプレイヤーだった音楽出版社は徐々にその存在感が薄くなっていったと書きましたが、そういう意味ではニールという一人のアーティストのなかに、既存のシステムとそれを壊す新しい波とが同居していたわけです。ニールのキャリアが面白いと書く根拠は、まさにこの矛盾にあります。

 さて、2週にわたってニール・セダカについて書いてきましたが、肝心の音楽の話にふれてませんでした。ということで来週もう1回ニール・セダカやります。

 ちなみに、ニール・セダカの名前で音源やCDを検索すると基本的にはほとんどニール自身が歌う作品しかヒットしません。職業作曲家としての彼の作品がまとまったものは、ハワード・グリーンフィールドと組んでいた60年代の楽曲を集めた『Where The Boys Are: The Songs Of Neil Sedaka And Howard Greenfield』が僕の知る限りは唯一です。







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特集「Neil Sedakaという不思議」〜第1回〜

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「シンガーソングライター」
という呼び名がなかった頃の話


 オールディーズを聴きこんでいくと、途中でぶち当たる壁の一つが「音楽出版社」という存在です。「音楽の出版」ってどういうこと?レコード会社とは違うの?

 1960年代の半ばまで、曲を作る人とそれを歌う/演奏する人とは、別々であるのが一般的でした。歌手はもっぱら与えられた歌を吹き込むのが仕事で、彼らが歌う曲を作るのは大勢の専門的な職業作曲家たちでした。そして、歌手がレコード会社に所属して自分のレコードを世に出すのと同じように、職業作曲家が自身の曲を売るためにエージェント契約を結ぶのが、音楽出版社でした。

 レコードが普及する以前、音楽は楽譜の形で流通していました(シートミュージックと呼ばれます)。音楽出版社はこの時代に、楽譜を販売する文字通りの出版社としてスタートします。彼らは優れた作曲家を抱え込み、ピアノと机を与えて次から次へと曲を書かせました。音楽出版社が集まるNYの通りが、四六時中ピアノが鳴り響き、まるで鍋や釜を叩いているように騒々しかったところから「ティン・パン・アレー」と名付けられたのは有名な話。やがてレコードが一般的になると、歌手や演奏家が録音する曲(今風にいえばコンテンツ)をレコード会社に向けて売る業態にシフトしていきます。

 例えばScepter Recordsが、出戻りガールズグループのシュレルズでシングルを1曲作ろうと思ったとします。するとディレクターは(ひょっとしたらプロデューサーのルーサー・ディクソンも)まず、音楽出版社を片っ端から訪ねて、カタログを眺めながらシュレルズに合う曲を探します。

 やがて、新興の音楽出版社アルドン・ミュージックのカタログで、ジェリー・ゴフィンとキャロル・キングという若いソングライターが作った<Will You Love Me Tomorrow>が目に留まります。レーベルはアルドンに既定の使用料を払ってこの曲を録音する権利を買い、スタジオに戻る…というのがおそらく一般的なパターンだったろうと想像します。当時は音楽出版社が、音楽業界の重要なプレイヤーであり、ヒットのカギを握る存在でした。


 エルヴィスのようなスーパースター歌手が登場すると、レコード会社がカタログのなかから既存の曲を選ぶのではなく、音楽出版社のほうから「この曲をエルヴィスに歌わせませんか?」と営業をかけるようになるのですが、60年代に入るとさらに一歩進んで、レコード会社が「今度Aというアーティストが●●っていうテーマでシングル出すんだけど、いい曲ない?」と今でいうコンペのようなやり方で音楽出版社から曲を募るようになります(このやり方を最初にやり始めたのは、かのフィル・スペクターだそうです)。

 ちなみに、日本にもシンコーミュージックとか音楽之友社とか歴史の古い音楽出版社はありますが、アメリカのそれとはだいぶ立ち位置が異なります。日本の場合は作曲家や作詞家もレコード会社が契約で囲い込んで、自社に所属する歌手だけに曲を書かせる「専属制度」とよばれる仕組みが一般的だったので、音楽出版社は音楽書籍や楽譜の出版を事業の核としていました。

 音楽学者の輪島裕介が著書『作られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』で指摘していますが、アメリカでは曲を提供する側と録音する側が切り分けられていたことで、同じ曲を異なるアーティストがカバーすることが可能になり、その結果時代を超えて愛聴される「スタンダードナンバー」が数多く生まれたのに対し、作曲家が自社以外の歌手には曲を提供できない日本の「専属制度」のもとでは、スタンダードナンバーやカバー文化が生まれにくかったという側面がありました。


 ただし、アメリカでも60年代が終わる頃には音楽出版社の存在感はぐっと小さなものになります。理由は単純で、歌手自身が曲を作る自作自演が一般的になったから。歌手が自分で歌を作ってそれがヒットするのであれば職業作曲家は相対的に減少し、必然的に「職業作曲家のエージェント」としての音楽出版社も力を失います。

 自作自演の歌手は50年代から増え始めます。当時はまだ「シンガーソングライター」なんていう言葉はありませんでした。レイ・チャールズサム・クック、やや時代がくだってチャック・ベリーリトル・リチャードなど、R&Bにおいて活躍が顕著でしたが、50年代後半からはポップスでも自作自演歌手がちらほら登場し始めます。その代表格がポール・アンカデル・シャノン、そしてニール・セダカでした。

 ようやく出てきました、今回の主人公ニール・セダカ。なぜニール・セダカの話を始めるのに音楽出版社の話を枕にしたのかは・・・次回書きます!







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人生で初めて「劇団四季」を見てきた〜後編

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「新人役者を入れること」と
「再演を繰り返すこと」は矛盾する


 前回の続きです。

 人生で初めて劇団四季を見て感動したのと同じ週に、演劇集団キャラメルボックスの活動休止(運営会社の倒産)という報にふれて、「演劇で食う」ことは可能だけど「劇団で食う」ことは不可能だと考えた、という話です。

 去年の暮れのことでした。Twitterかなにかでキャラメルの最新公演の情報を偶然目にして、何年ぶりかに彼らのHPを覗いたことがありました。んで、「えっ?」と驚いたんです。

 何に驚いたかというと、公演期間がわずか2週間しかなかったこと。僕が知ってる時代は、どんなに短くても1か月は東京公演をやっていました。つまり、いつの間にか動員力がかつての半分にまで落ち込んでいたのです。そのときの衝撃があったので、その半年後に倒産というニュースを聞いたときは、正直納得する部分もありました。

 さて、ここから書く内容は「だからキャラメル(の運営会社)は倒産した」という話ではなく、あくまで「僕がキャラメルを見なくなった理由」です。ただし、これが「劇団で食う」ことは不可能と考える理由と深く結びついています。まず、前回の続きで、定期的なオーディションによる「人材の確保」と、再演の多用による「作品の確保」では、なぜ「劇団で食う」には不十分なのか、という話です。

 そもそも今回の話は、演劇特有の<チケット料金×劇場の座席数×総ステージ数>という売り上げの上限問題について、劇団四季は「役者を交換可能にする仕組み」によってそれを克服したものの、演劇は一般的に「その役者であること」が重要なので、「役者を交換可能にする仕組み」を導入できる劇団は限られている、というところから出発しています。つまり、「その役者である必然」を担保することが前提になっています。

 んで、ものすごく当たり前の話ですが、役者は年を取ります。年を取れば、演技の質も変わるし、演じられる役柄も変わってきます。ある役者が、20代のころに演じた役を、40代、50代になってもう一度演じようとしても、ふつうは成立しません(本当は、そこで成立する場合があるのが演劇の面白さなのですが、ここでは端折ります)。とすると、劇団が過去の人気作を何度も再演していくためには、若い役者を確保し続けなければなりません。

 しかし一方で、「過去の人気作」がそもそもなぜ人気を博したかといえば、「今は40代、50代になってしまった役者」である彼/彼女が出演していたからともいえます。リメイク作品が「やっぱりオリジナルで主役を演じてたあの俳優のほうがよかった」などといわれるのは、よくあることです。

 だから、優れた若い役者が入ったのだとすれば、本来は過去の作品の再演などではなく「その若い役者にしかできない作品」を新たに作るべきなのです。「その役者である必然」とは、役者が一人ひとり異なることを前提とすることだからです。新しい人材を入れることと、再演を繰り返すことは、この点で根本的に矛盾しているのです。

レノン&マッカートニーは
「ライバル」だからうまく機能した


 ここで、いったん話題を変えて、「集団」ということについて話をしてみたいと思います(以下に述べる「集団」は、家族や友達グループではなく、作品など何らかの成果物を共同で作る生産集団のことだと思ってください)。

 僕らアラフォー世代には有名な話なのですが、90年代初めに人気のあったWANDSという音楽グループが、あるとき突然バックの一人を除いてメンバー総入れ替えをしたことがありました。ボーカルも別の人間に代わり、だけど名前はWANDSのままなのです。

 元々このグループはビーイングが作った即席バンドという成り立ちだったので、レーベル側の認識としては同じ要領を繰り返しただけだったのかもしれません。けれど、さすがにファンからすれば、元のメンバー=WANDSと認知されていたので、新生WANDSはすぐにそっぽを向かれて解散しました。

 ここからいえることは、バンドでも劇団でも、集団において重要なのは看板(=集団の名前)ではなく、中身(=構成員)であるということです。これは決してイメージだけの話ではありません。構成員が変われば、集団としての作品まで変わるからです。WANDSの例でいえば、いくら楽曲や演奏は裏方が支えたとしても、ボーカルは間違いなく変わってしまいます。それはグループの作品としては、同じWANDSであるという説得力を失うほど、決定的な違いです。

 さらに例を出します。ビートルズの<We Can Work It Out>はポールが書いた曲ですが、ポール一人の力によってあの曲が完成したわけではありません。ポールの甘いヴァースの後に、ジョンが「Life Is Very Short...」とニヒルなフレーズを歌い、その後にジョージがアイデアを出したワルツのリズムを、リンゴが独特のバラけたリズムで叩くことで、ようやくこの曲は完成形にたどりつきます。このうち誰か一人でも欠けたら、僕らが知っている「あのフィーリング」は生まれなかったはずです。

 このように、集団の作品は、異なる人間の嗜好やキャラクターが複雑に絡み合うことで作られます。個人でつくるものよりも、集団でつくる作品のほうが、構成員一人への依存が少ないと一般的には考えられがちですが、5月にリリースされたヴァンパイア・ウィークエンドの4thがロスタム・バドマングリの不在を強く感じさせたように、むしろ、個人よりも集団のほうが、「その人である必然」が目立つともいえます

 でも、それは特別「集団」という形でなくたって、たとえば演劇でいうところのプロデュース公演のような、その場限りで作られたグループによる作業でも同じだと思われるかもしれません。確かに、原理的には同じでしょう。でも、一つの作品だけのために集められた即席グループよりも、作品をまたいで何年も共同作業を続ける「集団」のほうが、その時間の蓄積により、構成員同士の相互理解が圧倒的に深いはずです。集団の作品が構成員のパーソナリティーを強く反映するのは、この「相互理解の深さ」が背景になっています。

 相互理解が深いとは、仲が良いという意味とはちょっと違います。むしろ、関係が深まるほど見えてくるお互いの違いを乗り越えて、どうやって全員が納得できる作品をつくるかという、一種の緊張感のある関係のことです。レノン&マッカートニーがなぜあれほどの名曲を短期間に量産できたかといえば、2人が単に仲が良かったからではなく、相手の才能が分かっているからこそ「負けたくない」と考えるライバルのような関係が、二人の間にあったからです。

 これは完全に余談ですが、最近のポールのインタビューで「あなたはいろんなアーティストとコラボしているけど、もっとも相性がよかったのは誰か?」という質問に対し、彼が「ジョンに決まってるじゃん」と即答していたのには、ちょっと涙が出ました。

 んで、レノン&マッカートニーにしろ、モリッシー&マーにしろ、バラー&ドハーティにしろ、そこからいえることは、集団の作品やそのなかで行われるコミュニケーションの質は、構成員の関係がイーブンに近く、一定の緊張感があるほどうまくいく、ということです。

 さっき、若い役者が入ってきたら、その若い役者のための作品を別に作るべきだと書きました。しかし、実際にやろうと思っても、それは難しいだろうと思います。なぜなら、作・演出家(普通は劇団の旗揚げメンバーでしょう)は年を取っていく一方で、毎年入団してくる役者は常に若いため、年齢とキャリアの差は年々広がっていくからです。成井豊は、西川浩幸・上川隆也・近江谷太朗という同世代トリオがいたからこそ『サンタクロースが歌ってくれた』が書けたのであって、若い役者で同じ成果を目指そうとしても、本質的に無理だろうと思うのです。

 僕がキャラメルを見なくなったのは、端的に「役者が魅力的ではなくなったから」でした。その境目がちょうど、ベテランと若手の年齢差がひと回りを迎えたであろう劇団結成15年目あたり(2000年ころ)だったのは、偶然じゃないと思っています。

「劇団で食えない人」に支えられる
劇団という文化


 ここで、話をもう一度整理します。多くの劇団は「その役者である必然」が問われる。過去の人気作を定期的に再演していくために若い役者を入れても、それは過去のコピーに過ぎず、いずれ劣化することは免れない。一方で、集団は構成員のキャリアや年齢が一定以上離れると機能しない。若い役者のための作品をベテラン作家が書こうと思っても、それは本質的に難しい…という話でした。

 キャラメルボックスが、もしこの悪循環に陥ったのだとしたら、どうしたらよかったのだろうと考えます。

 すぐに思いつくのは公演ペースを落とすことです。1年に1回、あるいは数年に1回に公演ペースを落とせば、役者を新しく確保する必要もなくなり、そうすればベテラン劇団員たち同士で、相応に年を取った作品を作ることができます。それは、『サンタクロースが歌ってくれた』のようなエネルギッシュに舞台を走り回る物語ではないかもしれないけれど、年齢を重ねた成井豊と劇団員だからこそできる「その役者である必然」のある作品のはずです。

 でも、1年に1度の公演じゃ、とても食えません。劇団員は、劇団の外に食い扶持(TVとか客演とか)をみつけてもらうしかない。そのうえで、劇団はある種趣味として続けるのです。大人計画NYLON100℃といった超有名劇団のほとんどはこのスタイルです。ただ、当然ながらこれは「劇団で食う」ことにはなりません。

 あるいは、劇団☆新感線のように、何本も公演を打つものの、出演者の大半は外部から連れてくる、劇団といいながら実質的にはプロデュース公演スタイルという選択肢もあるでしょう。これなら、過去の人気作を半永久的に再演し続けることが可能です(実際、キャラメルも00年代半ばあたりから、主役など一部の出演者を外部から呼ぶスタイルを採用し始めたようですが、結果的には人気の回復には至らなかったということでしょう)。ただし、これもやはり「劇団で食う」ことにはなりません。

 結局、キャラメルは公演をハイペースで打ち続けました。僕には、彼らはあくまで「劇団で食う」ということにこだわっていたように見えます。でも、しつこいようですが、「劇団で食う」ためには「原理的な売り上げの限界」問題をどうにかしなくてはいけません。そのためには、四季のように役者を匿名性のベールで包んでしまうしかない。「その役者である必然」を残して、出演者の大半を自前の劇団員でまかない、なおかつオリジナルの作品にこだわる、つまりはオーソドックスな「劇団」のスタイルを貫いたままで「食う」ことは、ここまで書いてきたように不可能であるという結論にならざるをえないのです。これが、僕が「演劇で食う」(役者や作家が個人で食う)のは可能だけど「劇団(の売上だけ)で食う」のは不可能だと考える理由です。

 ここまで3回にも分けて延々と書いてきて、「劇団で食うのは無理」という結論は、我ながらなんとも虚しい。けれど、他の収入に頼らず、純粋に「劇団だけで食う」ことは可能なのかという問いは、おそらくたくさんの演劇人がこれまでに考えてきた命題であり、きっとそのほとんどが「無理!」という同じ結論に至ったはずです。僕が前回、「これから書こうとしている話は『何を今更言ってんだ』という内容」と書いた理由はそれでした。

 個人的には、「劇団で食う」ことよりも「劇団を続ける」ことのほうがはるかに大事だと思っています。僕の所属する劇団theatre project BRIDGEが、早々と社会人劇団という形に移行したのも、ある意味では食い扶持を他で見つけて劇団は課外活動化するという手法の亜種だったともいえます。だから、「劇団では食えない」という結論そのものは、大してショッキングではありません。

 ただ、本当にそれでいいのか?という問いは多分これからも考えていく気がします。劇団という文化が、プロにしろアマにしろ、劇団外で稼ぐ劇団員たちの、一種の自助努力によってのみ支えられているという状況が、演劇全体にとってどういう意味があるのかという問いです。




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人生で初めて「劇団四季」を見てきた〜中編

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演劇は稼ごうと思っても
原理的に限界がある


 前回の続きです。

 演劇集団キャラメルボックスが運営会社の倒産により活動休止を発表したのと同じ週に、人生で初めて劇団四季を見てきたことで、「演劇で食う」ことは可能だけど「劇団で食う」ことは不可能だと考えた、という話です。

 最初に断っておくと、これから書こうとしている話は、多分「何を当たり前のこと言ってんだ」という内容だろうという気がします。ただ、演劇に関わったことのある人間として、どうもこの話は無視できないので、たとえ結論は自明なものだとしても、考えを整理するために一つひとつ順を追いながら書いてみます。

 まず、演劇は売り上げの上限というものが存在するメディアです。上限はすなわち<チケット料金×劇場の座席数×総ステージ数>です。音楽や映画であれば、フィジカルにせよストリーミングにせよ、物理的な限界というものはないので、原理的にはどこまでも売り上げを伸ばすことができます。演劇だけが、「どれだけ売れてもここまで」という上限が引かれているのです。これが生(LIVE)=再生産できないことの、興業という面における最大の弱点です。

 劇団四季がすごいのは、ずばりこの弱点を乗り越えているところです。「再生産できない」のはつまり「生身の人が演じるから」ですが、四季は前回書いた「役者を交換可能にする仕組み」に徹することでこの制約を乗り越え、さらに専用劇場をもつことで「総ステージ数」の上限も外しました。これにより、劇団四季は本来演劇がもっていた「どんなに売れても限界がある」という弱点を克服し、「劇団で食う」を成し遂げたのです。

 しかし、全ての劇団が「役者を交換可能にする仕組み」を採用できるわけではありません。バックアップの人間を用意しておくということは、その分コストがかかることを意味しているからです(舞台に出ていない役者を一定数確保しておけるのは、そもそも劇団が「食える」ほど稼げているからであるともいえます)。

 それに、一般的に劇団の魅力とは、所属している役者の魅力です。劇団を作品と言い換えてもいいでしょう。観客にとって「誰が出演しているか」は、ときに「どんな作品をやるか」以上に重要です。過去に何万回と上演され、誰もがストーリーを知っている『ロミオとジュリエット』が、なぜ未だに観客を呼び続けているかといえば、「誰が2人を演じるのか」にみんなが興味をもっているからです。現に、一定規模以上の演劇興行において、チラシなどの宣伝媒体でもっとも大きくスペースを割いているのは、出演者の情報です。

 もちろん、これは映画やTVでも同じことがいえるでしょう。しかし、演劇は観客の目の前に役者が直に肉体をさらすぶん、その人自身のパーソナリティが露呈してしまうメディアです。映像であれば、たまたまかっこよく映った画だけを切り取ってつなげることもできますが、演劇はそれができません。その人が力を抜いている瞬間も、取り繕おうとしている瞬間も、全部が目撃されます。それゆえに演劇は「その役者である必然」がもっとも問われるメディアであり、役者の魅力が作品の魅力を凌駕するのです(だからこそ、その常識を覆しながら観客を呼び続けている劇団四季に僕は「すげえええ!」と思ったのです)。

 話が横にそれてしまいました。「演劇は稼ごうと思っても原理的に限界がある」という話です。

 では、劇団で食おうと思ったら、他にどんな選択肢があるのか。作品的にも興行的にも役者を交換可能にしてロングラン公演を打つのが難しいのであれば、作品数を増やすしかありません。

 最盛期のキャラメルボックスがとっていたのが、まさにこの方法でした。総ステージ数は1〜2か月に収まる程度に抑えて、そのかわりに何本も公演を打つのです。そうすれば、役と役者を固定したうえで(つまり「その役者である必然」を担保したうえで)、なおかつ劇団全体としてのステージ数をギリギリまで増やすことができます。確か、当時のキャラメルは年間6本くらい公演を打っていたんじゃないでしょうか。

 ただし、この方法には大きく2つの問題があります。

 1つは、リソースの問題。1〜2か月の公演を年に6本やるとしたら、単純計算でほとんど毎日稼働することになります。これでは結局のところ体力的な問題をクリアできないし、そもそも次の作品の準備ができません。

 そのため、最低でも劇団員を2チームに分けて、片方がある作品を上演しているあいだに、もう片方のチームが稽古場で次の作品の準備をする、というようなサイクルで回していく必要があります。当然、そのためには2チーム組めるだけの人数を確保しなくてはなりません。これは、レベルの高い人材をどうやって確保するかという問題もセットになります。

 もう1つの問題は、作品の確保です。仮に年に6本の公演ができるとしても、それだけの数の作品をどうやって供給し続けるのか。一人の作家が、質を落とさずに年に6本も新作を書くのは(断言しますが)不可能です。これもある意味ではリソースの問題ですね。

 では、キャラメルボックスはこれらの問題にどう対処していたのか。僕の考えでは、前者の人材確保については定期的なオーディション開催が、後者の作品確保については過去の人気作の再利用(=いわゆる再演)という手法が、その対策でした。90年代後半から00年代初頭あたりは、このシステムは非常にうまく回っていたと思います。

 しかし、10年20年という中長期的な視点でみたときに、つまり「劇団で食う」という前提で考えたときに、これらの手法は、実は不十分だったのではないかと思うのです。ようやく本題に近づいたのですが、すいません、長くなってしまったので次回に続きます。




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