週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

2018年3月の3冊 〜「音楽史」あれこれ〜

 2018年はなんだか読書がはかどりません。あれこれ手を出してはちびちび読んでいるのですが、なぜか1冊読み終えられない。読書にスランプってものはあるんだろうか。そんな中で比較的読めているのは音楽関連の本、中でも「音楽史」に関する本でした。

 年明けあたりからちびちび読んでた『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』は、頭がクラクラするくらい面白い本でした。

 アメリカの商業音楽の歴史を19世紀のミンストレル・ショウから現代のヒップホップまで時代を追いながら見ていくのですが、本書の特徴は、よくある人物中心史観(ロックでいえば、プレスリー、ビートルズ、ツェッペリン、ピストルズと追っていくような見方)ではなく、当時のアメリカを取り巻く世界の政治状況や技術の発達といった社会の動向全体から音楽を捉まえていく文化史的なアプローチをとっていることです

 このことにより、例えば「ブルースは黒人の哀歌である」とか「モータウンレコードは白人ウケを狙っていた」といった通説が否定され、逆に50年代後期からブリティッシュ・インベイジョン前夜の、ブリル・ビルディング・サウンドと呼ばれる職業作家たちによる若者向けポップスなど、これまであまり重視されてこなかったジャンルの歴史的な役割が照射されます。

 非常に刺激的だったのが、終章となる第11章「ヒスパニック・インベイジョン」です。過去に公民権運動や女性の自立などが叫ばれた時代に、その動きに呼応して音楽史における黒人や女性の貢献度や重要度が“上方修正”されたことを例に引き、ヒスパニック系の人口が総人口の1/4を占めるようになる2050年前後には、ラテン音楽がアメリカ音楽史に果たした役割が大きく注目を集めるだろうと説きます。そこではロックンロールすらもラテン音楽の下位ジャンルとして認識されるという予想と説得力は目からウロコでした。

 著者の大和田俊之は慶応法学部の若い教授。ネットでは本書と同様の趣旨によって書かれたエッセイやインタビューなども読めます。最近は雑誌『BRUTUS』の山下達郎Sunday Songbook特集(←これはバイブル!)でも寄稿していました。


 続いて読んだのは、ゴジラをはじめとする東宝特撮映画の音楽で有名な作曲家、伊福部昭『音楽入門』。これもめちゃくちゃ面白かった。

 これは前述の『アメリカ音楽史〜』よりもさらに扱ってる範囲が広くて、原始音楽から人類がどうやって音楽を作ってきたかという、音楽の歴史全体について書かれた本なのですが、ここでも特定の作曲家や演奏家に焦点を当てる人物中心史観は採られていません。本書が一貫しているのは「人が音楽をどのように聴いてきたか」という素朴な視点です。

 例えば最初は単なるリズムだけだったのが、徐々にメロディが生まれ、別のメロディと重ねる和声が生まれ、それと同時に最初はごく原初的な祭礼のためのものだったのが、宗教や科学と結びついて「音楽以外の何かを表現するもの」に変遷していったりします。

 それは言い換えれば、新たな美を探していく過程なのですが、芸術で唯一モチーフを必要としない=現実にある事象や感情に縛られない音楽には、もしかしたらまだこれから先も人類が出会ったことのない美的感覚が発見されるかもしれないという期待を抱かせます。

 去年亡くなった遠藤賢司(エンケンさん)もこの本を愛読してたらしいです。


 3冊目は一転して日本の歌謡界についての本。金曜深夜にBS TwellVで放送されている『ザ・カセットテープ・ミュージック』(←毎回欠かさず見てます)でMCを務める音楽評論家、スージー鈴木『1979年の歌謡曲』

 なぜ「1979年」なのかというと、70年代の歌謡曲全盛期に陰りが見えはじめ、ニューミュージックの足音がひたひたと聴こえてきた時代の転換期であるから…というのが本書の主張。阿久悠と松本隆の交代劇やサザンオールスターズの登場が音楽史に果たした役割が読み進めるうちに次々と明らかにされ、まるで歴史小説を読んでいるかのような痛快さがあります。

 1979年を「時代の転換期」とする解釈が100%客観的事実かと問われれば、それを証明できる人は誰もいないでしょう。「所詮、著者の主観じゃないか」と指摘されたらそれまでです(それゆえ「歴史”小説”を読んでいるかのような」と書きました)。でも僕は、評論という名前にひるまずに、自身が少年時代に体験したリアルタイムの衝撃や感動といった「主観」をむしろ前面に押し出してくる著者のスタイルを強く支持します。説得力のある分析や独創性のある解釈といったものだけでなく、その人個人の思い入れが込められてないと、文章や話を聴いて「この音楽を聴いてみよう」とはならないんだよなあ。

 本書とその続編にあたる『1984年の歌謡曲』は、このブログを続けるうえでの大きなヒントになった気がします。





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JINTANA & Emeralds 『Destiny』

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心にいつも「横浜」を

 スティールギタリストのJINTANAが、シンガーの一十三十一(ひとみとい)やギタリストのKashiffらとともに結成した6人組のドリームチーム的グループ、JINTANA&Emeralds。2014年にリリースされた彼らの1stアルバム『Destiny』は、ミュージックマガジンの2014年歌謡曲/J-POP部門で1位を獲得したばかりか、同誌の選ぶ2010年代の邦楽ベストアルバム部門でも7位を獲得するなど、非常に評価の高い作品です。

「ネオ・ドゥーワップ」と呼ばれる彼らの音楽は、その濃いビジュアルからもなんとなく想像つく通り、50年代のアメリカンポップスからフィル・スペクター大滝詠一までつながる、濃厚且つ涼やかなレイドバックサウンド。<Emerald Lover>なんて、イントロを聴いただけで僕はムフムフしてしまいました。買ってからだいぶ経つのですが、未だにかなりの頻度で聴き返すアルバムです。



 ただ、僕がこのアルバムをヘビロテする理由は、サウンドが好みというだけはありません。もう一つ、サウンド以上に重要な、そして個人的な理由があります。



 朝、自宅の最寄り駅から会社とは逆方向の電車に乗り込んで、1日だけの現実逃避を楽しむ―。世にいう「逆向き列車」というやつですが、僕の場合、この逆向き列車に乗って行きたい場所ベスト3に常にランクインする不動の「ザ・現実逃避な場所」が、横浜です。

 横浜というと、一般的には都心に近い観光地というような位置付けなのでしょうか。しかし、神奈川県南部で育った僕からすると、横浜は観光地というよりもまず「都会」というイメージになります。神奈川の南から都会へ向かおうとすると(だいたい東海道線です)、東京にたどり着く前にデーンと控えているのが横浜なのです。

 高いビルもあるし駅は大きい。もちろん人もたくさんいる。迷子になりそうな複雑さと規模感は、子供の頃の僕にとってはまさに「都会」のイメージそのものでした。中華街や元町といった、おそらく他の地域の人からするとザ・観光地に見えるであろう特別な景観も、僕には「都会はやっぱりいろんな場所があるんだな」と、都会であることの証明として見ていました。

 街が巨大であるがゆえの迫力や多様さ、大人の世界を垣間見るようなドキドキ感。そのようなものを最初に体験したのが、横浜だったのです。

 普通なら大人になるにつれて、かつては巨大に感じていた街も、訪れるごとに身の丈に合っていくはずですが、僕の場合は自分でお金を稼ぐようになったときにはすでに東京に出てきていたので、横浜の街をきちんと(というのも変ですが)体験しないまま今日まで来てしまいました。その中途半端さが逆に良かったのか、すっかり日常の風景になってしまった「地元・東京」に比べて、横浜は今でも僕の目には「非日常な大都会」として映っているのです(だからこそ逆向き列車の行先として魅力的なのです)。



 ここでようやく話はJINTANA & Emeraldsに戻ります。僕が彼らに惹かれる一番の理由は、彼らの音楽が、横浜を強烈にイメージさせるからなのです。

 彼らの音楽が醸し出すレイドバック感が、横浜のレトロできらびやかな様子を思い起こさせるから。もちろんそれもあります。しかしそれ以上に決め手になったのは、彼らの所属するレーベルが、Pan Pacific Playaという横浜のレーベルだったことでした。

「横浜のレーベルの音楽だから、聴いていると横浜の風景が浮かんでくる」だなんて、単純すぎるというか、ほとんど「思い込み」「気のせい」のレベルですが、浮かんでくるんだからしかたない。

 夜中に埠頭に忍び込んで眺めた対岸のみなとみらいや、元町から外人墓地へ向かう急な坂道、ビルや高速道路の間から覗くように見上げた横浜駅前の空。JINTANA & Emeraldsを聴いていると、記憶の片隅に引っかかっていた景色が次々と蘇り、胸の奥を締めつけてきます。彼らの音楽と横浜との連想が気のせいだとしても、この切なくもうっとりとしたこの感じは、紛れもなくリアルです

 所属レーベルの所在地という、音楽の本質とは関係のないはずの「周辺情報」が、作品の受け取り方を左右すること。人によってはそれを邪道と感じるのかもしれませんが、僕はむしろそういうところが面白いと肯定的に見ています。逆向き列車にはそうそう頻繁には乗れないぶん、その代わりにJINTANA & Emeraldsを聴いて、積極的に「気のせい」に身を委ねてやろうと思います。








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CRX 『New Skin』

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バンドとの間に
緊張感を孕んだソロワーク


 メンバーのソロ活動が盛んなストロークスの中で、ただ一人ソロを行ってなかったニック・ヴァレンシ(Gt.)が、ついに自身のバンドを組んでデビューをしました。それがCRXの『New Skin』

 まず(やっぱりというべきか)ギターの音がとてもいいです。エッジの利いたシャープな音なんだけど、ニックのクセのあるフレージングが中和していて、攻撃的というよりも、むしろまろやかな感じ。<Ways To Fake It>とか<Unnatural>の、妙に愛嬌のあるフレーズとか、「コレだよコレ!」みたいになります。

 あと意外だったのが、ニックの声の良さ。渋くていい声してます。デビューして15年以上ずっとギター一本だったニックにとって、初めてのボーカリスト体験は想像以上にしんどかったらしく、インタビューでは「ジュリアンが本当にすごいんだなってわかった」と語ってました。

 あと、僕がいいなあと思ったのは本作のジャケット。凶暴さと可愛さとがあって、僕このジャケすごい好きだなあ。色使いもポップだけど、線の感じとかは日本の漫画っぽくもあります。ストロークスでは絶対やらないデザインでしょうね。

 ただ、アルバムとしての評価としては、せいぜい星3つというところ。どうも全体的に行儀がよすぎるというか、楽曲のバラエティはあるものの、どれもパンチが足りません。こっちとしてはもっとグイグイきてほしいのに、あと一歩、何かがこっちに届かない不完全燃焼感が残るのです。

 ということで、月並みですが次に期待。ニックには「やりきった!」みたいにはなってほしくないなあ。せっかく声がいいんだし、アコースティックなアルバムなんてどうだろう。すごくいい予感がするんだけど。



 一方で、僕が本作を聴いてて面白いなあと思ったのは、ストロークスの5人のソロワークは、みんな不思議とバンド本体と同心円上にいるということ。

 ソロってバンド本体の音楽性から離れるケースの方が多いと思うんだけど(それがソロの意義だし)、彼らの場合、音楽性は確かに5人ともバラバラなんだけど、目指しているゴールは結局みんな同じなように感じるのです。出発点もたどるルートもバラバラで、その選択の違いに個性が表れるんだけど、登ろうとしている山はみんな同じ、みたいな。ニコライのSummer Moonにしても、アルバートの『Momentary Masters』にしても、『Comedown Machine』から昨年の『Futer Present Past EP』と驚くほど同期してますよね(ファブのLittle Joyだけはちょい微妙だけど)。

 パズルのように、5人のソロを合わせるとちょうどストロークスになる気がするし、それぞれのソロを聴くことで、「<Under Cover Of Darkness>はニコライのカラーだな」とか、「<12:51>はアルバートが主導したんじゃないか」なんていう風に、バンドの曲が生まれる様子にも想像が膨らみます。

 バンドから完全に切り離されたソロというものもいいけれど、ストロークスの5人のように、バンドとの間に、一種の緊張感を持ちながら(つまり連続性をもちながら)展開するソロというのも、ファンとしては物語を妄想できるから楽しいです。








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『ビニール・ジャンキーズ』 ブレット・ミラノ (河出書房新社)

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彼らが「狂ってる」のならば
僕も一緒に狂いたい


 アナログレコードはポリ塩化ビニールでできていることから、「ビニール盤」などと呼ばれることがあります。ビニールのジャンキーとはつまり、レコードマニアのこと。この本は世界中のレコードマニアたちを著者が訪ねて取材したルポ。どの本だったか忘れちゃったけど、村上春樹のエッセイでもこの本が出てきました。

 マニアといっても、この本に出てくるのはハンパなマニアじゃありません。1枚のレコードに100万円以上ポンッと支払った猛者とかレコードを集めやすいからという理由だけでナッシュヴィルの大学に入学した人とか。ソニック・ユースのサーストン・ムーアや、R.E.M.ピーター・バックら、ミュージシャン界のヘビージャンキーたちも登場します。そして、世界中のジャンキーを訪ね歩く合間に、「9分間ウサギの悲鳴だけが録音されたレコード」や、「スーパーの棚に口内洗浄剤を並べる喜びを歌ったアルバム」なんていう、素晴らしくイッちゃってるレコードの話が挿入されます。

 中でも印象的だったのは、本書の後半に出てくる、オリビア・ニュートン・ジョンの強烈なマニアだったゾーイ。最初は単なるオリビアのファンだったのが、次第にエスカレートしていって、オリビアの名の付くものなら片っ端から手に入れなければ気が済まなくなり、「オリビア本人よりもオリビアに詳しい」と言われるほどに。やがて、ふとしたことから彼女はオリビアを追いかけることをやめるんだけど、そのときの「熱が冷めたとき、自分がおとなになったと気づいた」という言葉がやけに印象的です。

 似たような本に、北尾トロの『ニッポン超越マニア大全』があります。こっちは『ビニール・ジャンキーズ』よりもさらにニッチで、世界各国の軍隊用携帯食(戦闘糧食)だけを集める人とか、バスの降車ボタンだけを収集する人とか、なぜそれにハマるのか常人には理解できない圧倒的マニアたちが大勢登場します。


 趣味というものは、一般的には「余暇を活用して行うもの」と思われてます。つまり、仕事や本業があって初めて成り立つものであり、人生に華を添えるスパイスにはなったとしても、人生そのものにはなりえないと考えられがちです。ところが、これら2冊の本に登場する人たちは違います。趣味こそが生きがいであり、趣味こそが人生そのものなのです。

 彼らは皆、控え目に言っても「やりすぎ」です。自宅を潰してまで、家族に逃げられてまでレコードを集めてしまう(それも、残りの人生全てを使っても聴ききれない量を)なんて、到底理解できません。

 ですが、彼らはそもそも「他人に理解してもらおう」などとは露ほども考えていません。誰かに評価されることや、誰かと共有することを、まったく念頭に置いていないのです。確かに、中には仲間のレコードマニアと語り合う人や、収集したニッチなコレクションを整備して公開しようとする人もいます。でも、それは彼らが追究した結果であり、最初からそれが目的だったわけではありません。他人から白い目で見られようが非常識と思われようが、それが彼らの暴走を止めるブレーキにはなりえないのです。

 彼らのことを狂ってると思うでしょうか。それとも、彼らのことがうらやましいと思うでしょうか。

 僕は後者だなあ。もし彼らを狂ってるとするなら、僕は喜んで一緒に狂いたい。

 彼らのようなレベルとは到底比べ物にならないけれど、僕もこれまでの人生で「マニア」「オタク」と、あまりポジティブでない評価を、まあ平たく言えばバカにされたことがありました。でも、当時僕をバカにしてた連中が、30過ぎて趣味の一つも持てなくて、必死にカルチャースクールみたいの通ってたり、やることないから子供の写真と飲み会の写真ばっかりFacebookにアップしてたりするの、本当にざまあみろって思います








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ハラフロムヘル 『みのほど』

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ナンセンスから神話まで

 2011年に千葉で結成された5ピース、ハラフロムヘル。名前からしてなかなか強烈ですが、サウンドの方も名前に負けず相当に個性的です。16年末にリリースされたフルアルバム『みのほど』は、ファーストアルバムに相応しく、彼らのキャラクターがこれでもかと詰め込まれた名刺代わりの1枚です。

 このアルバムについて語るために、話を3つのポイントに分けて進めます。歌詞メロディ、そして紅一点のボーカル、タテジマヨーコの声です。

 まずは歌詞から。これは読んでもらった方が早い。
横目いっぱい君の生存確認
星のマークをつけてきたんだ
うって変わってアマゾンデビュー
死んだと思った兄がいきてた映画
みたいな展開が続くのかい

<食べる人>

宝くじを買いましょう
3億円当てましょう ねえ3億円だよ?
3億円あったらどうする?

<宝くじ高い>

 特にインパクトの強い部分だけを引っ張ってきましたが、基本的にはどの曲の歌詞もこういう具合にシュールでナンセンス。「作者の言いたいことを述べなさい」という問題が出されたら、採点者も回答者もみんなが頭を抱えるでしょう。この独特な世界観が、ハラフロムヘルの個性の一つめです。

 次にメロディです。メロディは非常にドラマチックです。ヴァース、ブリッジ、コーラスと各パーツの境界線は明確で、それぞれがフックの強いメロディを持っているため、先へ先へと展開していく前進力があります。彼らの音楽が「ミュージカルのようだ」といわれる所以がここにあります。

 同時に、80年代から90年代はじめあたりのJ-POPに見られる、職業作曲家の手によるメロディのような情感もあって、僕なんかには懐かしい感じもします。玉置浩二の、日本っぽいんだけどカラッとしてる感じとか近いと思う。

 最後に、ボーカル・タテジマヨーコです。このバンドの一番の「顔」は、間違いなく彼女の声です。声量があって線が太い彼女の声は、最近のバンドの女性ボーカルでは珍しいタイプで、それゆえ非常にインパクトがあります。僕はCoccoとか安藤裕子とか、ナチュラル系SSWの系譜を継ぐボーカルだと見ているのですが、そんな彼女のオーガニックな声を手数の多いバンドの音で聴けることに、僕は「お得感」を感じます。

 んで。

 シュールな歌詞とドラマチックなメロディ、そしてタテジマヨーコの声が合わさると、結果としてどうなるのか。

 例えば前述の<宝くじ高い>のようなナンセンスな歌詞が、異様に高低差のあるメロディに乗っかり、さらにタテジマヨーコの声量で歌われると、まるで何らかの人生の真理を歌っているかのように思えてくるのです。「みんな当たり前のように口にしているが、宝くじって一体なんだ。俺は本当の宝くじを知っているんだろうか」と。

 シュールな歌詞が意味を持ち始めるということ自体がシュールで、まるで「シュールの入れ子」「メタシュール」みたいになってきて頭がおかしくなってくるのですが、一方で<パンツヒル>や<れない>といった抒情詩については、メロディとボーカルが言葉の抽象性を何倍にも増幅し、リスナーがどのようにも解釈できる余地を与えており、特に<パンツヒル>なんて、知らない国の神話かと錯覚してしまいそうなスケール感です。

 このように、メロディは物語性を、タテジマヨーコの声は説得力をもたらしているのですが、組み合わされる歌詞が抽象的でクセが強いぶん、シュールになったり神話のようなスケールになったりと、予測不能な化け方をします。自分たちの個性をそのままアウトプットするとそれぞれが化学反応を起こして、不安定でカオスになるというのは、ある種の宿業といえますが、同時にそれ自体がものすごい個性だなあとも思います。

 ただ、個性が強烈なぶん、それを余すところなく出した『みのほど』は、ある意味では最高到達点であり、このまま同じやり方で2枚目3枚目を作っても陳腐になっていく可能性を孕んでいます。ハラフロムヘルは「次の作品に向けたバンドの再構築のために制作期間をもうけること」を理由に、17年3月いっぱいでライブ活動を休止しているのですが、僕はこの判断をリスペクトするし、休止するからこそ次回作への期待も高まりました。








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