週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

2017年9月の3冊 〜日本史の「難所」、関東中世史に足を踏み入れてみる〜

 日本史を一つの広大な森だとして、その森をあちこち探検してみると、蔦や草が絡み合ったり足元がぬかるんでいたりして、相当な準備をしないと深く分け入れない「難所」があります。その一つが、関東の中世史です。

 15世紀中ごろから16世紀終わりまでの戦国史だけに絞ったとしても、あまりの登場人物の多さと関係の複雑さに音を上げるはずです。『真田丸』を見ていた人は、前半の北条、上杉、徳川の間で繰り広げられる細かい話に正直うんざりしませんでした?あんなノリが200年以上ずっと続いているのが関東の中世なのです

 僕もこの「難所」に何度か挑んでそのたびに尻尾をまいて逃げてきたクチなんですが、7月、8月と久々に歴史絡みの本を読んでたので、その勢いを駆って再び挑むことにしました。

 まず手を伸ばしたのは、歴史小説家・伊東潤が書いた論評『戦国北条記』と、『真田丸』の歴史考証も担当していた黒田基樹の『戦国関東の覇権戦争』の2冊。実は後者の『戦国関東〜』は以前、意気揚々とチャレンジして無残に負けて(つまり途中で読むのを投げ出して)しまった経緯があります。なので今回は、ほぼ同じテーマを扱った『戦国北条記』をサブテキストにして、2冊を同時並行で読むことにしました。小説家の手によるものだけあって、『戦国北条記』は読みやすいだろうという目論見です。

 んで、これがうまく奏功して、めちゃくちゃスムーズに読めました。そういえば、あるジャンルについて勉強しようとするときに、いきなり専門書に手を出すのではなく、最初は新書や入門書のような軽い読み物から手を付けるのがいいと、立花隆も言ってた気がする。

 特に面白かったのは『戦国関東〜』のサブタイトルにもある「国衆」の存在です。たとえば後北条氏の領国は伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野と広大ですが、北条家が直接領域を支配しているのは、伊豆と相模、あとは武蔵の南側くらいだけ。じゃあ他の地域はどうなっていたかというと、北条に味方する小領主=国衆の支配領域だったのです。『のぼうの城』で有名になった忍城の成田氏も国衆です。今年の大河で舞台となっている遠江の井伊家も国衆ですね。つまり「●●家の領国」といっても、その実態は●●家が直接支配している領域だけではなく、主にその周縁部を拠点とする味方の国衆の領域を合わせたものだったわけです

 関東は15世紀半ばの享徳の乱以降、戦争が日常化したため、各地の領主は自立化し、城を拠点に一定の地域を領域化しました。これが国衆を生むきっかけになります。ある一定の領域を支配するという点では戦国大名と何ら変わりはなく、したがって国衆は北条や上杉の「家臣」ではなく、あくまで味方というだけです

 もちろん、軍事的には大名に比べると国衆は非力ですが、そのぶん生き残りに必死なので、少しでも自分が味方する大名の力に陰りが見えたりすると、即座に離反して敵方に付きます。しかも、こうした動きは周辺の国衆にも波及する傾向があります。大名同士が戦争をした結果、勝った方の支配領域が広がったり、負けたほうが狭まったりするのは、実は直接の勝負による領土の奪い合いというよりも、味方する国衆が離反した結果、彼らの領域がそのまま移動しただけ、というケースが多かったのです。こういったことから、規模は小さいとはいえ、大名は国衆を無下にはできませんでした

 僕が高校生の頃やりまくってたプレステの『信長の野望 天翔記』は、それまでのシリーズとは異なり国単位ではなく城単位で支配領域を広げながら天下統一を目指すという仕組みに変えた異端の作品だったのですが、今考えてみると実は歴史の実態に合っていたのは、むしろ異端の『天翔記』の方だったのかもしれません。




 でも、この2冊に書かれているのは、関東中世史の後半200年ほどの話。茫漠としまくっていて実態がつかめない謎期間なのは、さらにその前の時代です。

 そこで読んだのが、吉川弘文館の『武蔵武士団』。これ、超面白かったです。めちゃくちゃ勉強になりました。

 収穫はいろいろあるのですが、例えば長年気になっていた「坂東武者という言葉に象徴される、関東=武士というイメージはどこからきているのか?」という疑問。本書によると、ヒントは古代の蝦夷征伐にありました。関東は常に蝦夷征伐の最前線であり兵站基地だったため、自ずと武を尊ぶ伝統が生まれたんじゃないかと述べています。なるほど。

 そしてなんといっても秩父平氏です。平安時代になって、桓武平氏が秩父に入植します。この一族から、その後関東各地に蟠踞した中小領主たちに枝分かれしていくのですが、そのゴッドファーザーぶりがすごい。だって、千葉、土肥、三浦、葛西、畠山、豊島、江戸、河越、高坂などなど、この一族だけで関東全域が埋まりそうな勢いです。関東中世史に登場する名前の半分は秩父平氏系なんじゃないでしょうか。

 さらに武蔵には、後に「武蔵七党」と呼ばれた、より小規模な領主たちもたくさんいて、前述の戦国大名と国衆の関係のように、お互いにくっついたり離れたりしていました。関東戦国史を複雑怪奇にしている登場人物の多さと、それぞれがそれぞれの思惑で動きまくるカオスっぷりは、既にこの時代から見られていたわけです

 関東がユニークなのは、鎌倉政権が誕生してもおひざ元である相模と武蔵には守護が置かれず幕府の直轄地的な扱いをされたり、南北朝期以降も観応の擾乱や中先代の乱、鎌倉公方と上杉管領の争いなど戦争の火種が絶えなかったことで、強大な勢力による支配や統合を経験していないことです。例えば近畿のように、他の地域では中小領主たちがある程度強大な勢力に吸収されていくのに対して、関東では戦国期に入っても群雄割拠状態が維持されたのは、そのような地政学的な背景があったからだといえそうです。



 歴史を知ることの楽しさの一つは、地図や実際に目にする街の光景が、それまでとは違って見えてくることだと思います。そういう意味で、自分が住んでいる場所の歴史を知るのは一番楽しい。ただ、今回関東中世史の本を読んだのは、実は「本丸」へいくための準備段階でした。

 僕が本当に知りたいのは、今住んでいる東京23区北部をかつて収めていた秩父平氏の一族「豊島氏」です。その豊島氏という本丸にいきなり切り込む前に、まずは「関東」という大きな枠組みの中で秩父平氏や他の武蔵武士について知っておこうという作戦でした。これまでなかなか攻め落とせなかった関東中世史を(少しだけ)攻略できたので、この勢いでいよいよ次は豊島氏の本を読みます。




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映画『キングコング:髑髏島の巨神』

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怪獣映画はやっぱり
「楽しく」なくちゃはじまらない


 子供が生まれると自分だけの可処分時間がほぼゼロになりますが、僕の場合、モロに影響を受けたのが映画を見る時間でした。音楽や読書は隙間時間でなんとかやりくりできますが、2〜3時間まとめて時間を作らなきゃいけない映画は、ほぼ不可能。ということで『この世界の片隅に』も『ラ・ラ・ランド』も『ベイビー・ドライバー』も、話題になってる作品はことごとく見れてません。

 大抵の作品なら見れなくても実は大して後悔はしないのですが、『キングコング:髑髏島の巨神』だけは、無理してでも映画館行っておけばよかったな〜と悔やんでます。こないだBlu-ray借りて見たのですが、めちゃくちゃ面白かった!

『パシフィック・リム』『キングコング対ゴジラ』でも書いてきたように、僕は怪獣映画というものは何よりもまず楽しくなくちゃいけないと思ってるのですが、その意味で『髑髏島の巨神』は、最高の怪獣映画でした。じゃあ具体的にこの映画のどこが「楽しかった」のか。4つのポイントを書いてみました。

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その1:ストーリーが「ありえなさそう」
 人類が未発見南海の孤島秘密機関モナーク正体不明の何かを調査しに赴く―。
 どうですか、言葉だけで既に溢れてくる強烈なアヤしさ。SF映画の多くが、いかに「ありえそう」かを物語に求めるのに対し、すがすがしいまでの「ありえなさそう」感。だからこそいいんです。「ありえない」からこそ楽しいんです。

その2:ネーミングがいちいち素晴らしい
『パシフィック・リム』が最高だった理由の一つは、「ジプシー・デンジャー」や「クリムゾン・タイフーン」、「チェルノ・アルファ」といったイェーガーのネーミングにあると思っています。ポイントは、オシャレじゃないところ。かっこつけてないところ
 その点、『髑髏島の巨神』は素晴らしい。島に生息する巨大生物たちの名前が「スカル・クローラー」に「リバー・デビル」、「サイコ・バルチャー」などなど。なんかもう名前全体から「悪いぜ!」「凶暴だぜ!」というアピールをビシビシと感じます。こういうプロレス的感覚、最高です。
 だいたい「髑髏島」っていうネーミングからしてたまんないですよね。今時子供向けのアニメですらもうちょいシャレた名前を付けそうな中で「髑髏島」という名前をぶち上げてきたスピリットにしびれます。そういえば、島全体を嵐が包んでてどの船も近づけないというラピュタの「龍の巣」的演出もツボでした

その3:島民という「型」を押さえている
 映画の設定で僕が一番いいなと思ったのは、髑髏島に島民が住んでるところ。どうやって住んでるの?何を食べてるの?てゆうかあの壁どうやって作ったの?と真面目に突っ込み始めたらキリがないのですが、それは野暮っていうものです。南海の孤島には、文明を解さない原住民が住んでなきゃいけないのです。キングコングを畏れ敬う存在として彼ら島民がいなきゃ「締まらない」のです。これはもう絶対に外せない型のようなものです
 中盤まで島民は登場しないので、「ひょっとしたらこの映画には出ないのかな」と思ったのですが、いざ出てきたときは喝采でした。
 …と書いたところでふと思ったのですが、この「型」ができたのって実はアメリカのオリジナルではなく、日本の『キンゴジ』じゃないですか?どうなんだろう。調べてみよう。
『キンゴジ』といえば、本作でコングが大ダコ(=リバー・デビル)と戦うって展開には思わずニコニコしちゃいましたね

その4:過剰に画面を盛り上げる「オールド・ロック」
 おそらくここまでロックが流れまくる怪獣映画は今までなかったんじゃないでしょうか。ロック、それもベトナム戦争直後という舞台設定から60〜70年代の古いロックがひっきりなしに流れます。
 選曲がまた良かったですね。主人公たちが乗る軍のヘリの編隊の前に初めてコングが姿を現す場面に流れるのがクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの<Bad Moon Rising>は、あの明るいノリが逆に嵐の前の静けさを際立たせていてドキドキしました。タイトルとシーンのハマり方も見事。

 CCRはもう1曲、<Run Through The Jungle>が使われていますが、これなんかも完全にタイトルで選んだだろって感じで痛快です。
 他にもストゥージズの<Down On The Street>とかチェンバース・ブラザーズの<Time Has Come Today>、ブラック・サバスの<Paranoid>など、とにかくコッテコテのクラシックがガンガン流れます。そういえばデヴィッド・ボウイ<Ziggy Stardust>もちょっとだけ流れます。
 こうした選曲が素晴らしいというのは別に僕がロックを好きだからってわけじゃなくて、コテコテのロックによってめったやたらと画面を盛り上げてくる演出が、実に「怪獣映画的」であるからです。
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 以上、僕が『髑髏島の巨神』を最高の怪獣映画だと評価する4つのポイントを挙げました。他にも、キングコングの(劇中のセリフでいうなら)「高層ビルのような」バカデカいキャラクター造形や、クライマックスのスカル・クローラーとの「プロレス」の気持ち良さなんかも挙げられます。

 僕が怪獣映画に求める「楽しさ」。それは、派手さやケレン味、ある種のくだらなさといった感覚です。頭で理解したり納得したりすることよりも、スカッとする爽快さやワクワクする興奮といった肉体的な快楽だと言い換えられるかもしれません。「東京にガチでゴジラが上陸したら日本の官公庁はどう対応するのか」というリアルで緻密なシミュレーションよりも、「南の島のジャングルに見たこともない巨大な霊長類が住んでた」という荒唐無稽なウソの方が、少なくとも僕は楽しい。例えとして通じるかわからないけど、だから僕はレディオヘッドよりもチャック・ベリーの方が好きなのです








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Hazel English 『Just Give In / Never Going Home』

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ポップソングでありながら
「讃美歌」の響きをもつ声


「English」という苗字が本名なのか芸名なのかハッキリしないのですが、Hazel English自身はイギリス人ではありません。出身はオーストラリアのシドニーで、現在はアメリカのオークランドを活動拠点にしています。

 彼女の出身がオーストラリアであることは、かなり意外でした。だって、オーストラリアのアーティストというと、ジャンルにかかわらずアクが強いイメージがあったのですが、彼女はむしろ淡く控えめな印象だったから。その一方で、アメリカのアーティストという匂いも僕は感じてはいませんでした。

 じゃあやはりイギリスっぽいのか。彼女はインタビューで好きなアーティストを聞かれて、Cocteau TwinsThe SmithsThe Cureといったイギリスのバンドばかりを挙げています。彼女自身もイギリス音楽志向であることを認めています。でも、少なくとも僕は彼女がイギリスっぽいという印象も持ちませんでした。

 Hazel Englishは特定の国や地域を連想しづらい、無国籍なアーティストです。その理由は、彼女の声。機械的とまで言えるほど淡々としていて体温が低いのに、声が折り重なって空間に広がっていくような不思議な響きをもっています。サビで、普通だったらエモく歌いそうなところを、彼女の場合はスーッと力を抜いていくように歌うのです。この特別な歌い方と声の響きは、「イギリスっぽい」「アメリカっぽい」といった、思い込みによる安易な紐づけを跳ね返します。

 僕が最初に聴いたときに真っ先に惹かれたのも、この不思議な声と歌い方でした。16年の5曲入りEP『Never Going Home』だったと思うのですが、まだそのときはCDでのリリースはなかったので、ひたすらSoundCloudとSpotifyで聴いてました。僕にとって17年にもっとも新譜を待ち望んでいたアーティストの一人は、彼女でした。



 5月にリリースされた『Just Give In/Never Going Home』は、正確に言うとアルバムではなく、前半に新たな5曲入りEPを収録し、後半には前述した昨年のEPを入れて2作のEPをくっつけた「ダブルEP」という扱い。「ダブルEP」なんて僕初めてだったんですけど、本来は別々の作品をくっつけてるぶん、ある意味フルアルバムよりもメリハリが利いていて、ベスト盤を聴いてるみたいな感覚で、これはこれでいいかも。

 再度「無国籍なアーティスト」ってことに話題を戻すと、今回のダブルEPで一気に聴ける音源が増えたわけですが、集中的に彼女の声を聴いていると、ふと、ずいぶん前にブログに書いた、Bill Douglasの音楽の響きが頭をよぎりました。

 針葉樹に覆われた深い森にゆっくりと朝が訪れる様子を描いた『A Place Called Morning』というアルバムは、ロックという、基本的には人間社会をモチーフにする音楽よりも、より普遍的で時間軸の長い作品です。Hazel Englishの不思議な声によって描かれる風景は、オーストラリアでもアメリカでもイギリスでもなく、『A Place Called Morning』のあの風景に近いんじゃないかと感じたのです。

 ポップソングでありながらも「聖なるもの」をも射程に捉えられる。そんなスペシャルでユニークな声を、おそらくいずれ発表されるであろう1stアルバムでどう生かしてくるのかが、今からとても楽しみです。








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ザ・クロマニヨンズ 『ACE ROCKER』

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「大好きなものがあると
人生は楽しくなる」ということ


 活動してきた全てのバンドのアルバムを持ってるし、本や雑誌のインタビューも大事にとってあるし、自分で作った芝居でも何度も曲を流したし、多分、日本のアーティストで一番多く歌を知ってるのも彼らだと思います。

 にもかかわらず、これまで一度も彼らのことをブログで取り上げなかったのは、受けた影響の大きさを、とてもじゃないけど言葉に言い表せられないと思ったから。それに、この人たちの魅力は既にみんな十分すぎるほどわかってるから、今更僕なんかが語ることなんてないし、そもそも、彼らの音楽を言葉に直すことほど野暮なこともないと思ってました。

 甲本ヒロトと真島昌利。ヒロトとマーシー。

 この2人のことを、多くの人が「変わらない」といいます。確かに、ブルーハーツハイロウズという伝説的なバンドを経て、今なおクロマニヨンズで歌を歌い、ギターを弾き続けてる2人の姿は、「海」とか「山」とかと同じレベルで、いつ見ても変わらない風景という感じがします。あの2人の姿をたまにTVとかで見かけると、「本当に30年以上経ったのかな?」とさえ思います。

 でも、あえて言うけど、僕は、バンドごとに彼らは変わってきたと感じているし、バンドごとに異なる微妙なキャラクターの違いを楽しんでいます。

 ブルーハーツは3つのバンドの中で一番、世の中にコミットしようとしてるバンド。その分だけ、感情が一番爆発してるバンドでもあります。いつか僕がよぼよぼの老人になっても、ひとたびブルーハーツを聴けば、きっと一発でアドレナリンがぶわーっ溢れてきて、胸がいっぱいになるんだろうなあ。

 ハイロウズは、ブルーハーツの反動か、ちょっと世捨て人になった感じ。でも、その分3つのバンドの中でもっとも情緒に溢れ、一番キラキラしてます。音楽的にももっともバラエティに富んでいて、楽しさでいえば僕はハイロウズがNo.1だと思う。

 そしてクロマニヨンズは、ブルーハーツ、ハイロウズに比べると、よりサウンド先行型のバンド。<ギリギリガガンガン>とか<ニャオニャオニャー>とか、曲のタイトルを見てもわかる通り、言葉すらも音とイメージだけで紡ぐようになりました。ひたすら心地よい音とリズムを追求し、そのためには歌詞の意味やメッセージすらも、余分なものとしてそぎ落とす。極限まで肉体を絞り込んだボクサーのようなバンドです。

 ただ、クロマニヨンズの近年の作品では、歌詞にも変化が見られます。例えば、15年のアルバム『JUNGLE 9』に収録された<エルビス(仮)>。この曲の歌詞には、忘れられて朽ち果てていく者の哀れさやいじらしさがあります。聴き終えた後にカタルシスではなく、疲労感にも似た苦い後味が残るなんて、それまでにはなかったことです。


 契機となったのは、12年のアルバム『ACE ROCKER』だと思います。<他には何も><ハル><バニシングポイント>そして<欲望ジャック>という幕開けの4曲には、それまでの作品にはなかったシリアスさがありました。

やらずにいられない ことがあります
やらずにいられない ことをやるだけなんだ
ただ それだけ
他には何も 他には何も 何も何も何も

<他には何も>

 ここには、ブルーハーツのような感情の爆発や、ハイロウズのような詩情ではなく、透明になるまで研ぎ澄まされた、求道者のような姿勢があります。それはまさに、クロマニヨンズというバンドの姿勢そのものです。

 言葉すらも音とみなすという点で、それまでの歌詞は、サウンドとはいわば主従関係にありました。ところが彼らはこの作品でついに、歌詞までもをサウンドと同じストイックな領域に踏み込ませたんだと思います。僕は『ACE ROCKER』でむしろクロマニヨンズが好きになりました。


 ヒロトとマーシー。2人のことを、多くの人が「変わらない」といいます。何が変わらないのか。
50歳を過ぎてもパンクを続けてるのがすごいという人もいれば、それを永遠の初期衝動という言葉で表現する人もいます。2人の体型と答える人もいるかもしれません(あれは本当にすごい)。

 以前、ヒロトがある雑誌のインタビューで、「なんでそんなに長く続けられるんですか?」という記者の質問に対し、こんな風に答えていました。
「よく聞かれるんだけどさ、続けようと思って続けてるわけじゃないの。ロックンロールがすごすぎるんだよ。だってこんだけ続けててもまだ飽きないんだもん。だから長く続ける秘訣を聞きたいならロックンロールに聞いてくれって思うよ」と。

 この言葉を思い出すと、彼らの中でもっとも「変わらないもの」は、「音楽が好き」という気持ちなんじゃないかという気がしてきます。30年以上も音楽が好きで、ロックが好きで、おじさんになってもなお、「僕はこれが好きなんだ」と大声で言い続けてる。僕が彼らの音楽から教わった一番のこと。それは「大好きなものがあると、人生は楽しくなる」ということです。

 クロマニヨンズは結成以来、(ほぼ)毎年1枚アルバムをリリースし続けていますが、今年もまた10/11にニューアルバム『ラッキー&ヘブン』をリリースします。










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2017年8月の3冊 〜岡っ引きと渡世人と座頭市〜

タカとユージの生きる場所は
「捕物帳」の中しか残ってないんじゃないか


 7月に東郷隆作品を読んでいたら止まらなくなって、結局8月も引き続き彼の作品に手を出してました。

 ただ、7月に読んでいたのは歴史小説だったのに対し、8月に読んだのは時代小説。同じジャンルと思われがちですが、過去に実在した人物を主人公にして、史実に基づいた物語を描いている作品が歴史小説で、歴史上の一時代を舞台にしているものの登場人物も物語もあくまでフィクションであるのが時代小説…というのが僕の解釈です。

 ちなみに、以前紹介した『国銅』や、2014年の本屋大賞を受賞した『村上海賊の娘』は、主人公はフィクションなものの周辺の登場人物や物語は史実に基づいているので、僕の感覚ではギリギリ歴史小説の範疇です。

 んで、東郷隆の時代小説です。まず読んだのは、芝の増上寺前を縄張りとする目明しが事件を解決していく、王道の捕物小説「とげぬきの万吉」シリーズ。『異国の狐』を皮切りに『のっぺらぼう』、『くちなわ坂』と計3作品があります。

 目明しというのはいわゆる「岡っ引き」のことで、正規の警察官である町奉行の下について実際の捜査を行う現場担当者のこと。警察といっても、当時はもちろんいわゆる法治国家なんかじゃないですから、賄賂を握らせて情報を聞き出したり、疑わしいと思えば多少強引でも捕えてしまったりと、なかなか手荒です。なので、目明しに任命されるのも、自ずと腕っぷしが強くて、なおかつその土地に顔が利く「ワル」が多かったそうです。当然、正規の武士ではなく、今風に言えば地元の祭を仕切るヤンキー上がりのおじさんを、非正規雇用で現場の警察官にしちゃうみたいなイメージでしょうか。

 話は変わるんですけど、こないだTVで『あぶない刑事』の再放送を見てたら、タカとユージがほとんどヤクザみたいで笑いました。囮を仕掛けて犯人にわざと証拠を出させたり、口を割らない容疑者を射撃場に連れて行って的の横に立たせてガンガン銃を撃って脅したり、当時はそれが痛快に映ったんだろうけど、今見るともはやリアリティを失い過ぎて、ただただ「古ッ!」という感じでした。

 乱暴だけども正義感が強く人情もあって痛快な江戸の目明しの捕物帳。それを現代に置き換える形で刑事ドラマが生まれたのだとしたら、昭和の刑事ドラマがコンプライアンスなんてものよりも人情に重きを置いていたのは必然だったのかもしれません。しかし、『踊る大捜査線』(1997年)の登場によってそうした刑事ドラマが一気に時代遅れになってしまった今、タカとユージみたいなタイプが生きられるのは、江戸の目明しという、永久に古びない歴史の世界の中しかないのかなあなんて思いました。



 次に読んだのは『いだてん剣法―渡世人 瀬越しの半六』。武士に生まれたものの、理由があって全国の博徒(平たく言えばヤクザ)専門の飛脚として生計を立てている男、半六の物語で、大前田英五郎大垣屋清八、若い頃の会津の小鉄といった幕末の大侠客たちが登場します。悪を懲らしめる捕物帳が時代小説の代表的な「陽」のジャンルだとすれば、「陰」の代表格が本書のようなアウトローものです。

 東郷隆のアウトローものだと他に『御用盗銀次郎』シリーズがあってこちらも滅法面白いのですが、ガンガン人を斬っていく銀次郎のほの暗い狂気がハラハラ感を生むのに比べると、『瀬越しの半六』は春風のようにさわやかな読後感があります。

 なかでも読んでて面白かったのは、彼ら渡世人の細かい所作の描写です。彼らは、世間のしがらみには縛られない代わりに、裏社会だけの厳格なルールがはりめぐらされた、ある意味では堅気の人よりもがんじがらめの世界で生きています。宿場に入ったらまず誰に仁義を切る(挨拶をする)のか、そしてその仁義の切り方はどういう段取りとセリフで行うのか、全部がきっちり決まっていて、それを一つでも間違えると瞬く間に自分の評判が落ちるのです。本書ではそういう細かい描写が随所に出てきます。



 この本を読んでいるとき、録りためておいた『座頭市物語』のTVシリーズ(74年)をたまたま見てたんですが、座頭市にもああいう博徒たちの所作なんかが細かく出てきます(座頭市自身が渡世人ですから)。んで、『瀬越しの半六』や『座頭市』を見ながら、今こういう江戸時代のアウトローたちのドラマを作ろうと思ったら技術的(知識の蓄積的)にできるんだろうか、と思いました。

 これは春日太一『時代劇はなぜ滅びるのか』『あかんやつら』に詳しいことですが、『水戸黄門』を最後に地上波から時代劇のレギュラー放送枠が消えたことは、単にブームの終焉というだけでなく、一つの技術体系が失われることを意味しています。21世紀において時代劇や時代小説は、エンターテインメントコンテンツというだけでなく一種の歴史的史料という面も持つのかもなあと思ったりします。(実際、映画『男はつらいよ』に映る1970年代の地方の風景なんて、もはや社会民俗学上の重要な史料になりえる気がします)

『座頭市』シリーズを見返しつつ、映画専門誌『シナリオ』の座頭市特集号(2014年9月号別冊)を買って読んでいたら、池広一夫監督がロングインタビューの中で「映画は一人じゃできない。いろんな人の力でできるもの」というようなことを語っていました。言葉自体は決して目新しいものではないものの、この一言には「技術体系が一度失われれば容易に取り戻せない」ということの証明のようにも思えて「うーん」と唸らざるをえなかったです。






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