週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

2017年2月の3冊 〜小池重明とJ-POPの「ヒット曲」と日本人の渡来ルート〜

『真剣師 小池重明』団鬼六

金銭を賭けた将棋で生計を立てる非プロ=アマの棋士「真剣師」。その中でも最強と言われた小池重明の評伝。先月読んだ『赦す人』から、団鬼六つながりで手に取ったんだけど、これはねー、めちゃくちゃ面白かったです。
2年連続アマ名人位を獲得したばかりか、当時将棋連盟の会長を務めていたプロの名人にも完勝してしまうという、無類の将棋の強さ。しかし、棋力とは裏腹に私生活は破滅的。金を盗んで女と逃げること5回(うち3回は人妻)。けれどすぐに生来の酒好きとギャンブル好きが祟って愛想を尽かされる。困り果てた小池を見かねた友人知人が援助の手(金)を差し伸べると、その時は涙を流して「今度こそ生まれ変わる!」というものの、舌の根も乾かないうちに借りた金で再び酒とギャンブルに溺れる…という、読んでて気持ちいいくらいのクズっぷり
将棋の才能がなければ本当にただのダメ人間ですが、しかし小池の破滅っぷりは将棋の才能の代償のようにも見えてきます。すさまじい光はその分深く濃い影を生むように。間違いなく後世にも語り継がれる不世出の天才ですが、本人にとってはあれほどの将棋の才能を持ったことが果たして幸せだったのかはわかりません。一種の寓話のような読後感を味わった一冊でした。




『ヒットの崩壊』柴那典

90年代と違い、今はミリオンセラーの曲といってもほとんどの人がタイトルすら知らない。売上と「流行ってること」がイコールではなくなり、その結果ヒット曲が見えなくなった。じゃあ「今流行ってる音楽」はどこにあるの?というのが本書のあらすじ。今起きている変化を整理して一つひとつ言語化してくれているので「なるほどー」という感じ。いい意味でサラッと読めます。
でも、なんとなく思ったんだけど、みんなが同じ曲を聴いて盛り上がったり、後でその曲を聴いて一緒に懐かしんだりという価値観そのものが今後は消えていくんじゃないかという気がします。個人的にもみんなバラバラの音楽を聴いてる状況の方が好き
本書では、人々の興味が細分化された現代においてもなお「共通体験」になりうるものもの(つまりヒット曲が生まれる基盤)として卒業式や結婚式というイベントを挙げているんだけど、僕は卒業式や結婚式のような極めて個人的なイベントだからこそ、「ヒット曲」なんかに蹂躙されたくないと思う。結婚式に<Butterfly>なんか流されたら、「私だけの大切なイベント」がたちまち他の人と交換可能なありふれたものになっちゃう気がしません?
とりあえず、ヒット曲でもなんでもないのに「これがヒット曲です」というツラをしたり、それが通用しないとなったら過去の(本物の)ヒット曲を引っ張り出して「音楽って素晴らしいですね」と臆面もなく語り始める音楽番組(大晦日のあの番組とかね)とか本当に滅びて欲しいですね




『日本人はどこから来たのか?』海部陽介

タイトルにもなっているこの謎は古典的といってもいいくらいお馴染みのもので、僕もこれまで何冊か同じテーマの本を読んだことがあります。が、その中では本書が最も面白かったです。理由は、とにかくロジカルなこと。国立博物館の博士を務める著者はこの本を書くにあたり「信頼に足る証拠(遺跡や化石)以外は参考にしない」という態度を徹底しています。数ある既存の学説や可能性を、証拠を基に一つひとつ排除していき、最後に残ったのが真実(だろう)という本書の進め方は、推理小説的な興奮があります。なかでも対馬ルートと沖縄ルートがぶつかる奄美大島の石器の話や、井出丸山遺跡(静岡県)から出土した3万7000年前の石器の中から、伊豆七島である神津島産の黒曜石が見つかった話なんかは「おおおう!」と唸りました。人類史や古代史って、一つの発見で簡単に定説が覆るから、歴史時代の研究よりもむしろ日進月歩な分野なんだなあ。
ただ、ひとつ言えるのは、渡来ルートについてはさまざまな説があるにせよ、日本人という民族の大半が大陸から渡ってきたことは明らかです。最近は在日外国人のことを悪く言う人が目立ちますが、日本列島に来たのが早いか遅いかというタイミングの違いがあるだけで、所詮は我々みんな「在日」なわけです。この極めて単純な事実にすら気づかずに聞くに堪えないヘイトをまき散らすああいうアホな輩には心底うんざりします。







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Num Contena 『Smile When You're Dead』

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「熱狂に代わる何か」を見つけるまで
僕は彼らの音楽を携えていくだろう


先日唐突に、以前劇団の芝居で作ったセットのことを思い出しました。
舞台の上手と下手に一本ずつ、「木」を立てることになったのですが、
僕らはそれを全て手作りで作ろうとしました。
「木」ということはつまり幹があって枝があり、その枝の先には「葉っぱ」があります。
必要な葉っぱの枚数は、2本合わせて数千枚という量でした。
そして僕らはその数千枚もの葉っぱを、本当に手作りで作ってしまったのでした。

客席から見える最小限の部分だけ作るとか、
お金を払って業者に頼むとかすればいいものを、
愚直さとエネルギーだけがあり余っていた(お金はなかった)学生だった当時の僕らは、
「全部手作り」という選択肢以外考えませんでした。
結果、ただでさえ朝から晩まで稽古をしているのに、
稽古が終わってから集まって徹夜でチョキチョキ葉っぱを作るという無茶苦茶な毎日を、
数週間にわたって送ることになったのです。

今だったらやりません。
時間がないというのが一番の理由ですが、多分、時間があったとしてもやらないと思います。
それは、「数千枚の葉っぱを手作りで作る」ということに、もう高揚できないからです。
当時は、そういう意味不明な作業に(意味不明であればあるほど)熱中できたし、
それを仲間と一緒にやるということも楽しかった。
でも、今は多分、(少なくとも僕は)楽しめない気がします。



福岡を中心に活動する4ピース、Num Contena
昨年12月にリリースした1stフルアルバム『Smile When You’re Dead』
「ギターロックの金字塔」などといった鼻息の荒い宣伝文句とは裏腹に、
実際の中身はReal Estateなどを彷彿とさせる、
クリーンギターを基調としたミドルテンポ&良質メロディの柔らかなタッチの楽曲ばかり。
落ち着いた声質のボーカルとマッチすることで、アコースティックな印象すらあります。

Dead Funny Recordsの所属ということもあって(僕このレーベル大好きなんです)、
聴く前から絶対好きだろうなあと思ってたのですが、
聴いてみたら期待以上でした。



この『Smile When You’re Dead』というアルバムに収められた楽曲は、
そのどれもが「僕」「今はここにいない(どこかへ行ってしまった)君」の物語です。
かつての恋人を歌っているラブソング、というのが素直な解釈かもしれません。
けれど僕は、この「君」という存在は必ずしも異性とは限らない、
もっと違う解釈があるんじゃないかという気がします。

僕たちはいつも探している 君のことを
今は何も分からない 天気さえも
(中略)
僕たちは相変わらず探している 僕のことを
きっとずっと分からない 僕の目の前にいる何かのことを

<Follow Me Not Forget>

君のことは忘れていた 忙しくしてた
楽しい日々 バンドもある 仲間もいる
でもふとした瞬間 君のことがよぎる
スミスが天国で 僕に優しく笑う

<Smile When You’re Dead>

1曲目の<Follow Me Not Forget>は、最初は「君のことを探している」と言いながらも、
最後は「僕のことを探している」と問題が深く掘り下げられます。
何より主語が「僕たち」であることに、単純なラブソングに収まらない複雑さと深刻さがあります。

2曲目の表題曲も、「君のことは忘れていたけどたまに思い出す」というフレーズはラブソング的ですが、
その後の「スミスが」のくだりが入ることで、歌われているのは「君との思い出」などではなく、
「バンドもいるし仲間もいるのに満たされない自分」のように僕には思えるのです。

僕は、このアルバムで歌われている「君」を、
「かつての自分」と解釈しながら聴きました。
いつの間にか自分は「かつての自分」とは別の人間になってしまった。
そのことに対する鈍い痛みと、
それでも前を向こう(向く以外ない)とする姿勢との間で揺れ動く心のさまを歌った、
「永遠の喪失の物語」だと僕は感じるのです。


先週、For Tracy Hydeの記事の中で、
「16年の後半は自分の中の何かが失われてしまったことを痛感した」と書きました。
Num Contenaを聴いたのも、ちょうどフォトハイと同じ時期でした。
(そういえば『Smile When You’re Dead』のジャケットも青い)
僕が彼らの曲の「君」を「かつての自分」だと解釈したのは、
僕の心境がそういう状態だったからです。

数千枚の葉っぱを手作りすることに、いつの間にか熱狂できなくなっている。
そのことに気づいたとき、
僕は、人生の大半が既に過ぎ去ってしまったような錯覚に陥りました。
何を大げさな、と思われるかもしれませんが、
このまま何に対しても熱狂できずにいるとしたら、
それはもう「余生」以外の何物でもありません。

とはいえ、いくら努力したところで、
あの頃の自分が戻ってくることはありえない。
「あの頃」は文字通り「過ぎ去ったもの」であり、どんなに足掻いたところで、
再び数千枚の葉っぱを手作りすることに熱狂していた自分は戻ってこないし、
数千枚の葉っぱを手作りしてでも成し遂げたかった「何か」は永久にわかりません。
今の僕がすべきなのは、以前の自分を取り戻そうとすることではなく、
年々深くなる喪失感や虚無感を淡々と受け入れていくことなのでしょう。
(…ということに気づくまで、かなり長い時間がかかりました)

その先に「熱狂に代わる何か」が見つかるまで、
フォトハイやNum Contenaやその他の多くの音楽を、
僕は自分の「テーマ音楽」として携えていくのだろうと思います。








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For Tracy Hyde 『Film Bleu』

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僕にとっての「青」は
喪失の色だった


東京で活動する5ピース、For Tracy Hyde(フォトハイ)が、
昨年12月にリリースした『Film Bleu』
フルアルバムとしてはこれが初になります。

以前もこのブログで取り上げたEP『Born To Be Breathtaken』などの
過去の楽曲と新しい曲とがほぼ同じ量盛り込まれていて、
収録曲の顔ぶれでいえば、現時点での彼らのベストアルバム的な作品。
ただ、バンドとしては『Born To Be Breathtaken』リリース後、
ボーカルのラブリーサマーちゃんが脱退し、
新ボーカルeurekaが加入するという大きな変化がありました。
今回の『Film Bleu』に収録された過去の曲もeurekaボーカルで録りなおされているので、
「知ってる曲なのに新しい」という、不思議な感覚を味わえるアルバムでもあります。

ラブリーサマーちゃんが思い出だけを残して転校していった淡く儚い少女だとすれば、
新ボーカルeurekaは少年のひたむきさやあどけなさを併せ持つ、中性的な存在。
「僕」という一人称や、その相手(異性)としての二人称「君」という歌詞は、
彼女の方がよりなじむ感じがします。
既発曲はどうしても他人の服を着せられてるような落ち着かなさは正直あるのですが、
<Shady Lane Sherbet>はeureka版の方がいい!)
eurekaを念頭に作られたであろう新曲は
「おお、これが今のフォトハイか!」というような納得感があります。



このアルバムで、彼らは「青」をキーカラーにしています。
10代の記憶を思い起こさせる夏の日の空や、「未完成」「未熟」というような青に結びつくイメージは、
元々フォトハイが描いてきた世界観でしたし、1stフルアルバムにこの色を持ってきたのを知った時は、
「やる気だな!」「ついに刀を抜いたな!」と思いました。

でも、ふと周りを見れば、例えばラブリーサマーちゃんのメジャー1st『LSC』も青でしたし、
『Film Bleu』と同日発売だったローリングストーンズの新作も、『Blue & Lonsome』でした。
そういえばビートルズの『Live At The Hollywood Bowl』もやはりジャケットは青でした。
ストーンズは原点回帰のブルースカバーアルバムに「青」を選んでいますし、
ビートルズのライブアルバムも、彼らの青春時代の終わりを記録したものでした。
16年後半はそうした若さや純粋さの象徴としての「青」を、
やたらと目にする機会が多かったのです。

そういうたくさんの「青」を見るたびに僕は、実はイヤ〜な気持ちになっていました
なぜなら、「青」という色に込められたさまざまな感情や思いを、
僕自身はもう失ってしまったことを痛感してしまうからでした。
「何かをやりたい!」という情熱や、未知のものに対する興味、
あるいは「自分を良く見せよう」という虚栄心や異性に対する憧れ。
そういったものが以前に比べて(元々多い方ではないけど)はるかに少なくなって、
ひたすら内へ内へとこもるようになっていることに気付いたのが、まさに16年の後半でした。

単調な仕事によって何かが摩耗してしまったのか、
子供が産まれたことによる意識の変化なのか、
それらをひっくるめて単に「年を取った」ということなのか。
いずれにせよ、そんなときに目にする「青」は、僕にとっては喪失の色でしかなかったのです。
逆に言えば、僕はまだそんな自分を「俺も年取ったな〜」と茶化せるほどには、
大人にはなりきれていないのです。

『Film Bleu』のラストに収録された<渚にて>の中に
「この休暇を終えたら、ちゃんと大人になろうね。」という歌詞があります。
このフレーズを聴くたびに、
「そんな簡単に大人になれねえぞ」と歌に対して説教を垂れつつ、
「僕は休暇を終えたことは間違いない。でも、大人になれたのだろうか」と、
僕はぼんやりと途方に暮れてしまうのです。








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映画 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

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シリーズの命運は
「スピンオフ」が握ってるんじゃないか


遅ればせながら『スター・ウォーズ』のスピンオフ、
『ローグ・ワン』を見てきました。
めちゃくちゃ面白かった!

『エピソード4』の前日譚ということでしたが、
マジであの10分前までの話なんですね。
思わず家に帰ってから『エピソード4』見返しちゃいました

『ローグ・ワン』見た後だと『4』の見え方がまったく変わりますね。
序盤のR2-D2とC-3POの逃亡劇を、
今までは「2人とも可愛いなあ」なんて感じでのほほんと見てたけど、
もう一切笑えないです
あの2人のドロイドが、文字通り全宇宙の命運を握ってたわけで、
そう考えると、オーウェンおじさんが最初にジャワから買った赤いドロイドが、
もしあのとき壊れてなかったらどうなってたんでしょうか。
銀河帝国を倒した最大の功労者は、実はあの赤いドロイドだったんじゃないかと、
かなり本気で思っちゃいました。

あと『ローグ・ワン』は登場人物がみんな“濃くて”良かったです。
特にキャシアン・アンドー
物心ついたときから反乱軍に参加し、
善悪の区別も大義も分からないまま戦争に巻き込まれ、
暗殺やスパイといったほの暗い作戦に従事していた彼の存在は、
「反乱軍=善、帝国=悪」というこれまでの単純な捉え方に、一石を投じたと思います。

また、通して見ると悲しい物語であるという点も、
「本家」にはなかった魅力です。
単に番外編として楽しめるというだけでなく、
「本家」の解釈にも深さと奥行きを与えたという点で、
スピンオフ作品としては一つの究極形と言っていいと思います。


オリジナル作品が築いた強固な世界観を「器」として、
その中でさまざまな作家が実験を試みて、それがさらに器に広がりを与える。
こうして世界観が際限なく広がっていく作品群って何かあったよなと思ったら、
ガンダムがまさにそれですね。

スピンオフは今後も制作が予定されていますが、
今後は、ガンダムでいうところの『第08MS小隊』のような、
「同じ世界で起きていた全く別のドラマ」も見たいところです。
というのも、スター・ウォーズの世界が今後も支持され続けるには、
本家よりもむしろスピンオフの方が重要だと思うからです。

ディズニーの会長は一昨年から始まったシークエル・トリロジーの、
さらにその先(つまり『エピソード10』以降)の可能性を示唆しているそうですが、
垂直方向に続編を作り続けるだけでは、いずれ世界観は陳腐にならざるをえません。
必要なのはガンダムのように、水平方向に世界観を肥えさせることだと思います。
※スター・ウォーズはアニメがめちゃくちゃ面白いので、
※個人的にはアニメによる展開に期待しています

ただ、「肥えさせる」といっても、
広げ過ぎて世界観そのものを逸脱してしまったらアウトなわけで、
どういうストーリーやキャラクターなら「アリ」でどこからが「ナシ」なのか、
その境界線の線引きは非常に難しそうです。

たとえば『ローグ・ワン』の場合、
チアルートをドニー・イェンが演じたことには、個人的には違和感がありました。
スター・ウォーズには元々、ライトセイバー剣術を代表とする、
アクションに関しての独自の様式美があります。
ところがドニー・イェンの参加によって、
そこに、中国武術という既存の(現実にある)様式美が
紛れ込んできてしまったような気がしました。
スター・ウォーズの世界ではアクションの様式美の元祖であるジェダイよりも、
設定上はジェダイよりも格下であるチアルートのアクションの方が洗練されているという、
奇妙な逆転現象が起きてしまっていたのです。

でも、ドニー・イェンのアクションを、
スター・ウォーズの新しいスタイルとして歓迎した人も大勢いたはずです。
だから、結局大事なのは、制作側のチャレンジを基本的には応援しつつ、
できあがった作品に対してその都度、
それぞれの観客が「アリ」「ナシ」と声を上げることなのかもしれません。

スピンオフ第2弾は若き日のハン・ソロを描くことが決まっていますが、
僕は是非、一度企画が頓挫したというボバ・フェット主役の作品が見たい。
あまりにかっこ悪い最期を遂げたボバの汚名をそそぐチャンスを…。






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2017年1月の3冊 〜ブータンと脱北者支援と団鬼六〜

『未来国家ブータン』高野秀行

昨年末に『謎の独立国家ソマリランド』を読んで衝撃を受けて、高野秀行による同じ「異国冒険ルポ」というつながりで手に取ったのが本書。ブータンというと経済ではなく国民の「幸福度」で豊かさを測るGNH(国民総幸福)を提唱していることで有名でだけど、ブータンの幸福というのは仏教によって生活も人生の目的も規定され、「あれこれ迷わない安心感」という側面が強く、決して「自由」という意味ではない。また、GNHというアイデアが生まれた背景には、インドと中国という大国に挟まれて、いつ併合されるかわからないから「なんとかブータンのオリジナリティをひねり出さないと」という危機感もあった。…なんて地政学的歴史的なリアルを本書で知って、GNHにロマンを感じてた僕としてはしょっぱい気持ちになっちゃったんだけど、それでもなお、本書で描かれるブータンは魅力的な国に映ります。仏教にせよ、民族の伝統にせよ、その社会の中で合理性をもち、その合理性を住民も信じていて、社会が自己完結してる姿こそ「幸福」なんじゃないか。軽い読み口とは裏腹に「幸せって何なんだろう」という命題について考えさせられる、重い読後感が残る本でした。




『脱北、逃避行』野口孝行

Kindleで積ん読になってた本。著者は脱北者支援のNPOで活動をしている男性。本書の前半は、著者が中国まで赴いて脱北女性を保護し、中国公安の目を逃れながら日本への脱出を目指す、さながらサスペンス小説のような緊迫感のある逃避行劇が書かれる。…が、個人的には本書で面白かったのは前半よりも、中国の公安に捕まった著者が、看守所で拘束されていた1年間の生活が記録された後半。意気軒昂だった著者が、単調で自由のない生活の中で徐々に精神的にしんどくなっていく様子は、吉村昭的なドライな筆致もあって、読んでて辛くなります。でも、同房の中国人犯罪者達と花を育てたり、旧正月はみんなでTVで歌番組を見たり、不思議なユーモアもある。読みながら僕は、(本書のテーマとは外れるけど)中国の田舎ってこんななんだなーと想像しました。




『赦す人 −団鬼六伝−』大崎善生

団鬼六といえば言わずもがな、『花と蛇』に代表されるSM小説のパイオニア。本人もさぞかし背徳的で変態的な「陰」な人物なんじゃないかと思い込んでいたら、本書を読んで驚きました。確かに鬼六はギャンブルもお酒もすごいし女性関係だって派手なんだけど、でも決してジメジメと暗いわけではなく、むしろサービス精神が過剰で周囲に人が絶えない、徹頭徹尾「陽」の人でした。そして、SM小説というジャンルを確立したのも、崇高な何かがあったとかではなくて、「とにかく読者が楽しめればいい」という、これも一種のサービス精神によるものだった。鬼六の生き様を見てると「ああ、俺は人生をまだまだ楽しんでないんだな」なんて気持ちになります。
大崎善生は20歳の頃、夢中になって読んでいた作家でした。でも当時は小説家として。『聖の青春』を機に、まさか10年以上の時を経て、今度はノンフィクション作家として再び付き合うことになるとは。






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