週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

Liam Gallagher『As You Were』

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一周まわって頭をもたげた
太古の「恐竜」


「最初のロック体験」というものが誰にもあるのだとすれば、僕にとってのそれはオアシスの<Morning Glory>だったろうと思います。具体的に言えば、イントロのあの粘つくようなチョーキングであり、リアム・ギャラガーの死んだ魚のような瞳であり、そして彼のしゃがれた声でした。それは「髪の毛を逆立てた人が派手な照明を浴びながら大声で叫ぶもの」としか理解していなかった僕のロック観を根底から覆すのに、十分な衝撃でした。

 あれから四半世紀経っても、未だにリアムの新譜を追い続け、SNSをフォローし、(ゴシップ含めて)関連記事にもひと通り目を通しているのは、ひとえに彼が僕にとってただ一人の「リアルタイムで出会ったロックスター」だからです(ノエルではなくリアムに惹かれ続けるのは、最初の出会いの衝撃が、主にリアムの出で立ちや声によるものだったからでしょう)。

 ただ、それはあくまで僕にとっての話。いい年して(もう彼も40半ばですよ)Twitterでノエルに噛みつきまくるのも、自らを「ロックンロールの救世主」と信じて疑わない言動も、僕には「相変わらずだなあ」と微笑ましいけど、今の10代20代からすれば「だたのイタい中年」に映ってるんじゃないかとヒヤヒヤします

 ある海外のフェスで、リアムのステージは確かにめちゃくちゃ盛り上がってるんだけど、現地にいた人によれば観客の大半は40代のおじさんだった…という話をネットで読んだとき、僕は悲しいというよりも「そりゃそうだよな」と納得してしまいました

 だから、17年秋にリリースされたリアムにとっての初のソロアルバム『As You Were』が、本国チャートで1位を獲得し、特にアナログでは過去最高のセールスをたたき出すなど非常に高い評価を得ているのも、それを支えているのは結局往年のファンなんじゃないかとまだ疑っています(もちろん、そうだとしてもそれ自体は悪いことじゃないし、「往年のファン」といっても彼の場合は数百万人単位ではある)。

 とはいえ、アルバムは確かにいいです。僕はBeady Eyeをかなり応援してたので、解散してソロでアルバム出すっていったときはちょっと複雑だったんですが、実際聴いてみるとBeady Eye時代の2枚のアルバムよりも確かに良いですね。

 どう良いかというと、多くの人が指摘していることではありますが、徹底的に「リアムの魅力を余すところなく表現しきる」という点に焦点を絞っているところ。その最大の仕掛けが、アデルの『Hello』、SIAの一連の作品で知られるグレッグ・カースティンや、ヴァクシーンズやサーカ・ウェーヴスのプロデューサーでもあるダン・グレッグ・マーグエラットなど、多様なソングライター陣の参加。なかでもアンドリュー・ワイアットの作った<Chinatown>は、リアムの枯れた魅力が発揮された、今までなかったタイプの曲だと思います。



 リアムの最大の魅力は、14歳の僕がショックを受けたように、やはりあの強烈なキャラクターを持った声でしょう。そしてその声の強さが発揮されるためには、メロディにも同じだけの強度が必要でした。若手の才能あるソングライターを招集したのは、リアムの声に見合うメロディを作り出すためには必要な作戦でした(今回のアルバムの成功は、ある意味では逆説的にノエル・ギャラガーという人物の存在感をより一層強めたともいえます)。

 ハードロック的な高音シャウト系ではない歌い方で数万人規模のスタジアムを歌わせられるという点で、僕自身の個人的思い入れを抜きにしても、やはりリアムの歴史的インパクトはデカいと思います。それは、彼を凌ぐスタジアムボーカリストが、結局今に至っても現れていないことを見ても明らかです(ジョージ・エズラとかかなり可能性ありそうなんですけど)。

 そう考えると、今の若い子には、リアムの存在はかえって新鮮なのかもしれません。恐竜がロマンを誘うのは、今はもう滅んでしまったという前提があるからこそですが、いつでもどこでもコートを脱がずビッグマウスを叩くリアムのキャラクターも、もしかしたら若い子の目には恐竜のように映っているのかも。

 まあ、これは全て「若い世代がリアムに注目していたら」と仮定した上での想像ですが。ただそのうえで僕がいいなと思うのは、一周まわって過去を参照しようという気分が盛り上がったときに、それに応えられる存在が手に届くメジャーな場所に常に存在しているという、イギリスの文化的豊かさです。

 今年の9月にソロ名義では初の単独来日公演が予定されています。もちろんチケット取りました。








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シャネルズ『ダンス!ダンス!ダンス!』

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「カバーに寄せたオリジナル曲」で
最後にルーツ愛をもう一度


 先週に続いてシャネルズです。

 前回、シャネルズとラッツ&スターの違いを「ルーツへのこだわり」と書きました。そしてルーツであるドゥーワップやR&Bへの愛が爆発した作品として、1981年の『Live At "Wisky A Go Go"』を紹介しました。ただ、もしシンプルに「シャネルズとしての最高傑作は何か」と聞かれたら、僕は82年にリリースされた6th『ダンス!ダンス!ダンス!』と答えます。

 このアルバムは半分がカバー曲です。2nd『Heart & Soul』以降、スタジオアルバムは全曲オリジナルで統一していたので、久しぶりにカバーを取り入れた形です。とはいえ、オリジナルとカバーをA面、B面で区切った1st『Mr.ブラック』や、ほぼ全曲カバーといっていい『Live At "Wisky A Go Go"』とこのアルバムは大きく異なります。

 それは、カバー曲よりもむしろオリジナル曲の方に注目するとわかります。例えば2曲目の<週末ダイナマイト>。アルバムの実質的な幕開けを飾る派手なナンバーですが、この曲を流して聴いていると「あれっ?」と思うはずです。理由は、いつの間にか次の3曲目<Peppermint Twist>に移っているから。曲間が極端に短く、サウンドの感触も似ているのでじっと聴いていないと、曲が切り替わった瞬間がわからないのです。

 もっと顕著なのは、4曲目の表題曲<ダンス!ダンス!ダンス!>。この曲は明らかに5曲目の<Boogie Woogie Teenage>と、「つなげて1曲に聴こえるように」という意図をもって作られています。

<Peppermint Twist>も<Boogie Woogie Teenage>もカバー曲です(前者のオリジナルはJoey Lee & The Starliters、後者はDon Julian & The Meadowlarks)。つなげる2曲のうち片方がカバー曲ということはつまり、オリジナルの方をそのカバー曲に寄せて(合わせて)意識的に作っているということです

 このアルバムではほかにも、<Do You Wanna Dance>(オリジナルはBobby Freeman)に対する<Yeah!Yeah!Yeah!>や、<Lovers Never Say Good-bye>(オリジナルはThe Flamingos)に対する<星くずのダンス・ホール>など、1つ隣のカバー曲に寄せたと思われるオリジナル曲が見受けられます。

 オリジナルすらもカバー曲に合わせて作られている、いわば支配下にあるという点において、このアルバムは実質的には全曲カバーアルバムといえます。単にカバーするだけではなく、そのカバーに合わせて自分たちのオリジナル曲を作って組み合わせることで、カバーとオリジナルの垣根をなくす。この創造性とドラスティックさが、『Mr.ブラック』や『Live At "Wisky A Go Go"』との違いです(繰り返しますが、このような曲作りができる田代まさしと鈴木雅之のソングライティングチームはもっと評価されるべきだと思います)。



 ただ、一方で興味深いのは<ダンス!ダンス!ダンス!>の冒頭にあるコント(?)では、メンバーは明らかに黒人をパロディ化している点です。鈴木雅之らが演じる黒人のモノマネを聴く限り、彼らは決して原理主義的ではなく、盗むのはあくまで音楽だけというような割り切ったスタンスが垣間見えます。

 時系列で見ると、1つ前のアルバム『Soul Shadows』でシャネルズは「ドゥーワップの雰囲気を残しつつポップミュージックの一般性も追求する」という試みに一定の成果を上げました。<憧れのスレンダー・ガール>や<もしかしてI Love You>、<渚のスーベニール>といった楽曲は、ラッツ&スターの音楽スタイルのヒントになったはずです。

 そして、『Soul Shadows』で次のステップに進める自信を得たシャネルズが、その前にもう一度だけ原点である黒人音楽に向き合って、「過去の名曲に合わせてオリジナルを作る」という方法論で自分たちなりのリスペクトを示したのが『ダンス!ダンス!ダンス!』だったのではないか…というのが僕の想像なのです。

 このアルバムでは鈴木雅之だけでなく、田代まさし、佐藤善雄、久保木博之、桑野信義、新保清孝という、グループの全ボーカリストがリードをとる曲が収録されています。6人全員のリード曲が1枚に収録されているのはこのアルバムだけです

 特に素晴らしいのは田代まさし。<Peppermint Twist>の鼻にかかったボーカルを聴かせ、<Boogie Woogie Teenage>で後半から入ってくるところなどは、グループの誰よりも色気があります。もちろん作品全体のポイントを締めるのは鈴木雅之なのですが、他のボーカリストの活躍により、このアルバムでは彼の存在感は相対的に後ろに下がっています。この「全員参加」なところも、グループとしての総決算であることを感じさせます。









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シャネルズ『Live At "Wisky A Go Go"』

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豊かな「カバー文化」が
かつて日本にもあったんだ


 最近どっぷりと聴いているのがシャネルズです。ご存知、鈴木雅之や田代まさし、桑野信義らを擁する、主に1980年代に活動していたグループですね。

 なんで今更シャネルズなのかという理由を一言で説明するのは難しいのですが、例えば去年からゴフィン&キングをはじめとする50年代後半〜60年代初頭のソングライターたちを横断的に聴いていて、そこからリーバー&ストーラー→コースターズ/ドリフターズというドゥーワップへの流れがあったり、一方で数年来続く大滝詠一への傾倒があったり、とにかく自分の中では必然的な帰結としてシャネルズがあったのです。

 ちなみに僕が聴いているのは基本的にはラッツ&スターに改名した後期の時代ではなく、前期のシャネルズ名義の時代。何が違うかっていうと、ルーツへのこだわりです。多様なジャンルを取り込んで最大公約数的なポップスを歌うようになったラッツ時代に比べ、シャネルズ時代はグループのルーツであるドゥーワップやR&Bへの強いこだわりが感じられます。

 ある意味ラッツはプロフェッショナルで、シャネルズはアマチュアともいえるかもしれません。「お前らもドゥーワップばっかりやってないでそろそろこういう大人な曲を歌え」という意味を込めて大滝詠一が<Tシャツに口紅>を書き下ろし、そのままラッツ名義での最初のアルバム『Soul Vacation』をプロデュースしたって話は象徴的な気がします。

 ただ、僕はあくまでドゥーワップという文脈で入った身なので(それはもちろん、ああいう古い音楽が好きだからなので)、頑なに原点に固執するシャネルズの方にシンパシーを覚えます。そして、ある意味武骨とすらいえるようなシャネルズのルーツ愛がもっとも爆発しているのが、81年7月にリリースされたアルバム『Live At "Wisky A Go Go"』です。

 タイトルのとおり、米LAにあるライブハウス「Whisky A Go Go」にシャネルズが出演したときのステージを収録したライブアルバム。出演日の情報がないのですが、YouTubeに残ってる映像を信じるのであれば、81年の5月28日のようです(だとするとわずか1か月でアルバム化して発売したってことになりますが)。いくらデビューシングル<Runaway>が大ヒットし、1st、2ndアルバムがともにオリコン1位を獲得していたとはいえ、デビューしてわずか1年の、それも日本から来た無名のアーティストが「Whisky A Go Go」のステージに立てるのは、80年代日本のオラついたエネルギッシュさゆえなのでしょうか。

 それはさておき、名門ライブハウスへの出演、しかもゲストには超大物コースターズということで、シャネルズの面々の気合の入りっぷりは、ありありとアルバムから伝わってきます

 収録曲のうちオリジナル曲は<Runaway>と<Hurricane>のみ(しかも前者は英語詞)であとは全部カバー。ドリフターズの<Fools Fallin’ Love>(桑野信義のボーカルが素晴らしい)やヴェルヴェッツの<Tonight (Could Be The Night)>、ジャクソン5の<Going Back To Indiana>といった真っ黒な名曲を、猛烈な熱量で演奏しまくります。名門ライブハウスにオリジナル曲ではなく、あくまで古いアメリカンポップスで臨むところに、シャネルズというグループがなんたるかが端的に表れているように思います。



 シャネルズは1stアルバム『Mr.ブラック』でB面全曲カバー、この3枚目で9割近くがカバーという荒業をやってのけます。そしてシャネルズ名義として最後のアルバムである6枚目『ダンス!ダンス!ダンス!』では、オリジナルとカバーを(ほぼ)交互に挟みつつ、カバーとつなげて違和感がないように“カバーっぽいオリジナル”を量産して「実質的には完全なカバーアルバム」をつくり、グループのもつアマチュアリズムの総決算を図りました(そういう曲作りができる田代まさしと鈴木雅之のソングライティングチームはもっと評価されるべきだと思います)。

 驚くべきは、最初の3枚のアルバムが全てオリコン1位を獲得している点です。繰り返しますが、1枚目はB面全部がカバー、3枚目は9割がカバー(しかもライブ盤)です。なんていい時代なんでしょうか。シャネルズももちろんすごいですが、それを受け入れていた世の中の感性もすごい。

 伊福部昭の『音楽入門』のなかに、15世紀前後のフランダース(フランドル)楽派の時代には、作曲家とは実質的には「編曲家」を指し、音楽において素材(=曲)に芸術的価値が置かれなかった、という話がありました。僕がこれを読んで連想したのは、50年代や60年代の欧米ポップスの「カバー文化」でした

 プレスリーの<Hound Dog>とかビートルズの<Please Mr. Postman>とか、かつてのポップスシーンにはオリジナルよりもカバーのほうが有名になったケースが山ほどあります。そこでは、いかにオリジナルよりもインパクトを与えるかというアーティストやアレンジャーの試行錯誤があり、同時にリスナーとしてはオリジナルを辿ったり他のカバーを探したりすること自体が一つの楽しみになります。

 伊福部昭は「音楽を単なる技巧と見なしている」として、フランダース楽派時代のマインドを批判的な立場で書いているのですが、これを欧米の「カバー文化」に置き換えて考えてみると、僕は意外と本質を捉えているんじゃないかという気になりました

 今の日本の音楽シーンでは、カバーというともっぱら、一番CDがバカ売れしてた90年代のヒット曲を今のアーティストにカバーさせて30代40代の中年にもう一度CD買わせようぜ!というような、マーケティング的発想で作られたものを指します。しかし、そういう“プロ目線”ではなく、「ドゥーワップってかっこ良くない?」「俺たちR&B大好きなんだけど、君も聴いてみない?」というようなアマチュアリズムを感じるカバー文化がもうちょっとあってもいいのにと、シャネルズを聴いてて思わずにはいられませんでした。






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2018年5月の3冊 〜ひたすらヤクザ本〜

 先月、中川右介の『角川映画1976-199』を読んだのがきっかけで、長い間読みたかったノンフィクション『映画の奈落 北陸代理戦争』(伊藤彰彦)を読みました。

 東映が1977年に製作した『北陸代理戦争』は、『仁義なき戦い』をはじめとする実録ヤクザシリーズの中の1作で、金沢で実際に繰り広げられていたヤクザ同士の抗争を題材にした映画です。他の実録ものは既に終わった事件を題材にしていたのに対し、『北陸代理戦争』は当時まさに進行していたリアルタイムの抗争をストーリーに絡めました。その結果、この映画の内容が逆に現実のほうにフィードバックされ、主役のモデルになった組長が映画と同じシチュエーションで殺されるという惨劇が起きたのです。


 映画という繋がりで手に取った本でしたが、実は読み終えて俄然興味が湧いてきたのは、「ヤクザ」という存在に対してでした(ちなみにノンフィクションとしては文句なしの面白さでした)。興味というのは「ヤクザって普段何してるの?」「どうやって暮らしてるの?」「どういう人がなるの?」といった、本当に素朴な好奇心です。

 ということで、ヤクザのことを知ろうといろいろ本を読んだのですが、その歴史についてもっとも体系的で詳しかったのが猪野賢治『やくざと日本人』。絶版だったので、わざわざ定価の数倍の値段で古書を買ったのですが、その価値はありました。

 まず、ヤクザの起源が戦国期の「かぶき者」にまで遡れるという、予想外の歴史の長さに驚き。その後、江戸時代になると「町奴」「旗本奴」といった形で、ヤクザも体制の下に組み入れられていくのですが、その人材的基盤となったのが、関ヶ原の西軍や大坂の陣の豊臣方についていた武士でした。

 戦に負けて浪人となった彼らは、なんとか次の時代での居場所を探そうと、仕官先を探したり寺社に居候したりするのですが、1635年の旗本諸法度で浪人の仕官や寺社・武家屋敷での寄宿を全面的に禁止されると、完全に前途を絶たれてしまいます。1651年の由井正雪の乱は、そうした行き場を失った浪人たちの不満が大きな背景になっていたとする本書の説はとても新鮮でした(これって常識なのかな)。


 実はこれを読みながら思い出したのが、山口組六代目組長・司忍が暴対法について語ったインタビュー(ネットで偶然目にしたことがあったのです)。司忍組長の発言の趣旨としては、「暴対法の締め付けが厳しくなり我々がいなくなると、行き場のない人間が生まれる。そうした人間は食べるために手っ取り早く犯罪に走るので、かえって治安が悪くなる」といった内容だったと思います。

 ヤクザは必要悪か絶対悪かという議論は、ヤクザをめぐる話のなかで頻繁に出てくるテーマですが、由井正雪の話を見ると、司組長の話が事実であることは歴史が証明してるんだよな〜と思いました。

 廣末登という若手の社会学者が書いた『ヤクザになる理由』『ヤクザと介護』という本があります。前者がヤクザになる人間を生む社会的環境について、後者がヤクザを辞めた人の実態について書かれた本で、この2冊を読むといわばヤクザの「入口」と「出口」を詳しく知ることができます。

 これらの本の中に、ヤクザを辞めた人が定職に就ける割合はわずか1%という驚異的な数字が出てきます。一方で、ヤクザを辞める人の多くが、そのきっかけを「家族ができたから」と答えるとも書かれています。

 子供が生まれたから真っ当に働こうと組を抜けたけど、仕事が見つからない。でもお金はいる。手元にあるのはヤクザ時代に身につけた犯罪の技術とネットワークだけ。となると、定職に就けなかった99%の元ヤクザは必然的に犯罪に手を染めます。しかも、今度は組の掟や暴対法といった縛りもないので、ヤクザ時代よりもむしろ凶悪な犯罪に手を付けやすくなる

 暴対法でヤクザを締め付けるのはいいけど、組を抜けた元ヤクザの人たちをどうフォローして社会復帰するかという「出口戦略」とセットで取り組まないと大問題になるよ…というのが著者の論ですが、これは司組長のインタビューと本質的には一致しています。

「入口」にしても、ヤクザを生む環境が、貧困や、古くは被差別部落など社会構造的な問題と関わっているのは明らかなので、「悪い人をやっつけろ」的に矮小化できる話じゃないんだよなあ…というのが何冊かヤクザ本を読んだ上での感想。そういう意味では、実録ものとか抗争ルポものとか、ヤクザをエンタメとして消化する系の本も何冊か読んではみたものの、個人的にはしっくりきませんでした。



 ただ、ヤクザをリアリズムで見ようとすると、当然ですがやはり(暴対法への疑問とかも含めて)陰惨で、1か月にわたってひたすら本を読んでたらさすがにしんどくなってきました。来月はもうちょい軽い本を読もう。




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映画『パシフィック・リム:アップライジング』

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巨大ロボット対巨大怪獣という
「バカバカしさ」よ、永遠に


 映画『パシフィック・リム』の続編にあたる『パシフィック・リム:アップライジング』を見てきました(第1作はもう5年も前になるのか…)。

 最初に言ってしまうと「良くも悪くも“2作目”」というのが結論。空飛ぶイェーガーとかイェーガー同士の本格的戦闘シーンとか、前作になかった新たな要素はいくつかあるものの、映像も演出もストーリーも、あらゆる面で前作からスケールダウンしてしまった印象は否定できません。

 特に脚本の練度が今ひとつという感じでした。まず登場人物が魅力的でない。主役のジェイクは、演じるジョン・ボイエガこそ『スターウォーズ/エピソードVIII』よりも生き生きしてましたが、序盤のアウトローから後半の軍のリーダーへと変わる変貌ぶりがあまりに雑です。準主役のアマーラも動機(目の前で家族を怪獣に殺された)も技能(自分でイェーガーを作れる)もポテンシャルのある設定なのに、最後まで影が薄いまま。

 シャオ産業のリーウェン社長も「人間同士の深刻な対立」という前作にはなかったドラマをもたらしそうなキャラクターだったのに、早い段階で「ニュートンに裏切られた被害者」であることがわかり、その後はにわかに味方になるなど、ご都合主義的で中途半端でした(演じていたジン・ティエンは「どこかで見たことあるなー」と思っていたら『ポリス・ストーリー/レジェンド』でジャッキー・チェンの娘役だった女優さんでしたね)。

 影が薄いといえば、一番痛かったのは肝心のイェーガーの存在感が薄いことです。戦闘シーンがそもそも少ないのに加えて、その戦闘シーンの演出も前作を超えるほどの興奮はありませんでした。

 パイロットと接続して起動するシークエンスや、イェーガーの重さや鋼鉄のきしみの描写、動力源の設定など、メカ・機械としての「定番の演出」が、既に前作でやっているからという理由からか大幅に刈り込まれていましたが、それに代わる新しい魅力(例えば新しい技とか武器とか)も特になし。個人的にはああいう「定番の演出」こそ『パシフィック・リム』の見どころだったので、自殺行為だなあと思いました(高速イェーガーと謳われた「セイバー・アテナ」に期待してたんですけど、大して速くなかったですね)。ギレルモ・デル・トロが監督じゃないから…という野暮なことは言いたかないんだけど、まあそういうことなんだろうなあ。

 また、無人イェーガーは明らかにエヴァ量産機だろうとか、小型怪獣はレギオンやデストロイアっぽいとか(あの小型怪獣の扱いももったいなかったですね。せっかくならあれとイェーガーを戦わせればよかったのに)、日本の観客にはストーリーや設定の随所にデジャヴ感がありました。そういえば、怪獣が加速度的に巨大化し知恵をつけていく設定や、「今度は人類から乗り込んでいく」という展開(を予感させるところ)とかは『トップをねらえ!』っぽい。

 …というように、作品の出来としては決して満足してはいないのですが、それでも僕は『パシフィック・リム』というシリーズそのものにはまったく失望してはいないし、この映画のさらなる続編が作られるなら、きっとまたワクワクして映画館に足を運ぶだろうと思います。理由は一つ。「巨大ロボット対巨大怪獣」というこのシリーズのコンセプトが、絶対的圧倒的に魅力的だからです

 宇宙規模のスケールで人類が一丸となって悪を倒す映画は他にもたくさんあります。でも、その手段が「巨大ロボット」で、相手もミュータントだとか古代文明とかでなく「怪獣」であるという、根本的なところでバカバカしい(最大級の褒め言葉です)のはこの『パシフィック・リム』シリーズだけです。

 これまでブログで書いてきたことの繰り返しなのですが、僕はとにかくSF怪獣映画はプロレス映画じゃないといけないと思っているので、「イェーガー」と「怪獣」が出てくる限り、僕は『パシフィック・リム』シリーズをフォローし続けるでしょう。






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