週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』<Reprise>

naotora

全てが地味なはずの「マイナー大河」が
大河ドラマの未来を拓いた


 今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』が終わりました。放映開始直後の記事で僕は「過去の大河ドラマとは別物なんだと分からせてくれた(でも僕は「過去の大河」の方が好きだけど)」という、極めて消極的で個人的な評価をしました。しかし、1年間の放送を見終えた今、僕はこの当初の評価を全力で撤回します。『直虎』という作品は、僕が思ってたよりもはるかに素晴らしいドラマでした。頭をすり下ろすくらいの勢いで土下座します。

 手のひらを返しすぎだと思われるかもしれませんが、僕は『直虎』は大河ドラマの未来を拓いたんじゃないかと思います。ポイントは、主人公の直虎含め、登場人物のほとんどが一般的に知られていないマイナーな人物ばかりだったこと

 誰もが知る歴史上の有名な人物ではなく、その脇にいた人物を主人公に据えるのは、近年の大河ドラマの流行りではありました。『天地人』の直江兼続や『軍師官兵衛』の黒田官兵衛、『花燃ゆ』の楫取美和など。大河も第1作から50年以上経ち、歴史上有名なメジャー人物はやり尽くしたという台所事情があるのでしょう。

 しかし、『官兵衛』でも指摘したように、いくらマイナー人物を主人公に据えたところで、物語は結局主人公の近くにいるメジャー人物を軸に進むことになるため、肝心の主人公は傍観者になったり、反対に主人公というだけでメジャー人物を超える活躍を見せたりといった、「ねじれ」が頻発していました。

(その点で僕は、メジャー人物がいなかった『八重の桜』に期待していたのですが、あの作品も中盤、京都の政治劇に話の重心が移ってしまい、せっかくのマイナー人物大河が生かせず惜しい結果になりました)

 これまで大河が取り上げてきたマイナー人物が、結局のところ「メイン人物の脇にいるマイナー人物」でしかなかったは、メジャー人物が映らないと関心を呼ばないだろう、歴史上有名な事件が絡まないと1年間もたないだろうといった、一種のマーケティング的発想によるものだったんだろうと思います。今回の『直虎』は、それが単なる幻想だったことを示しました。

 でもなぜ、メジャーな人物や有名な事件にも頼らなかった『直虎』が、あそこまで面白いドラマになれたのでしょうか。僕は、マイナー人物ばかりという従来の常識に反するこの作品の特徴が、むしろ面白さの大きな理由になっていると考えています。

 歴史上マイナーな人物は、残された史料が決して多くありません。直虎にしても直筆とされる史料は『龍譚寺文書』の1点だけですし、放映前には「直虎は実は男だった説」が報道されるなど、そもそも存在すら曖昧です。そうした人物を題材にドラマにするということは、必然的にフィクションの入り込む余地が大きくなります

『時代劇の「嘘」と「演出」』という本もありますが(めちゃくちゃ面白い本です)、歴史ドラマにおいてどこまで史実に基づくか、どこまでドラマとしての創造性を許容するかは常に制作者を悩ませる問題です。そして、取り上げる人物がメジャーな人物であればあるほど、フィクションの許容度は低くなる傾向があります。また、仮に従来とは異なる思い切った解釈をしたとしても、メジャーな人物や事件であれば、「独自の解釈をする」ということ自体が手垢にまみれてしまっていることが少なくありません(例えば、本能寺の変は秀吉が起こしたetc.)。

 その点、マイナーな人物であれば、史料という「縛り」も少なく、反対にフィクションに対する許容度は大きい。マイナー=話の結末を知らないから新鮮に見てもらえる視聴者が多いというシンプルな利点もあります。

 例えば『直虎』でいえば、寿桂尼と直虎との、緊張感がありつつも女城主同士で親近感を覚えあう関係などは、史実という「法の網目」をフィクションが上手くすり抜けた好例だったと思います。

 そして、フィクションと史実とが矛盾しないまま極めて高いレベルで融合したのは、なんといっても高橋一生演じる小野政次のキャラクターでしょう。「裏切り者として処刑された」とされる史実を維持しながら、その裏側に180度違う解釈のキャラクターと物語が築かれ、「本当はこうだったのかも」と想像が膨らみました。しかも、第33回「嫌われ政次の一生」放映直後、多くの人が指摘していたように、「今我々が知っている歴史とは、所詮勝者によって作られたものでしかない」という、歴史の見方そのものに対するメッセージが読み取れた点においても、素晴らしい脚本でした。

『直虎』の功績。それは、登場人物も取り上げる事件も一般的に知られていないという「マイナー大河」であることを逆手に取り、大河ドラマに「ドラマ」の面白さを取り戻したことです。違う言い方をするならば、「ここまでフィクションで作りこんでもいいんだ」と、創造の余地の上限を引き上げた(あるいはボーダーラインを引き下げた)ことです。僕が冒頭「『直虎』は大河ドラマの未来を拓いた」と書いたのは、この作品の成功により、これからの大河の題材選びと作り方がガラッと変わるんじゃないかと期待しているからです。

 にしても、16年『真田丸』と17年『直虎』は、前者は過去に散々題材になってきたメジャーなネタ、後者はほとんど取り上げられてこなかったマイナーネタという違いこそあれ、どちらも「大国に翻弄されながらなんとか生き残ろうとする小国の領主」という点で共通しているのが面白いですね。「天下をとる」や「新しい世を作る」といったプラスアルファで大きな何かをつかみ取ろうというのではなく、「生き残る」という究極の現状維持の方が感情移入を喚起するのは、今という時代性なのかもしれません。





sassybestcatをフォローしましょう
ランキング参加中!
↓↓よろしければクリックをお願いします

にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

Sia 『Everyday Is Christmas』

SIA-EIC-2017-billboard-embed

現代のオリジナルクリスマスソングは
「クラシックナンバー」たりうるか


 今年買ったクリスマスアルバムは3枚。

 1枚目はエルヴィス・プレスリー『Christmas With Elvis And The Royal Philharmonic Orchestra』。タイトルの通り、エルヴィスがクリスマススタンダードを歌い、そのバックをロンドンのロイヤルフィルが務めたアルバムです。

 実際に両者が共演したわけではなく、エルヴィスが50年代に作ったクリスマスアルバムのボーカルに、後からロイヤルフィルの演奏を重ねた、一種の企画アルバムです。エルヴィスのボーカルをステージで流しながら、それに合わせてロイヤルフィルが生で演奏をするという「ライブ」は既に00年代から行われていて、同じ趣旨でそれを音源化したのが今回のアルバム。

 残されたエルヴィスのボーカルに、ある意味では無理やりオーケストラが合わせているので、例えば1曲目に収録されたブルーステイストな<サンタが街に来る>など、「なぜこのボーカルトラックを選んだ?」みたいな曲もあったりします。

 ですが、エルヴィスの甘い声で歌われるクリスマススタンダードは問答無用に素晴らしく、特に後半の<アデステ・フィデレス>、<ファースト・ノエル>という2曲のクラシックにおけるエルヴィスのボーカルは、ただただ圧倒的です。


 2枚目はビーチボーイズ『Ultimate Christmas』。1964年にリリースされた『The Beach Boys Christmas Album』に、70年代半ばにお蔵入りになった幻のアルバム『Merry Christmas From The Beach Boys』の収録曲やシングル版の<Little Saint Nick>など、ビーチボーイズのクリスマス関連トラックのほぼ全てをまとめた企画盤です。

 64年の『Christmas Album』はクリスマスソングをただ集めた総花的なアルバムではなく、一貫した意思のもと、あくまで「ビーチボーイズのアルバム」として作られているのがわかります。ブライアンは明らかに、この前年にリリースされたフィル・スペクターの『A Christmas Gift For You From Phil Spector』を意識していたと思います。

 ただ、ブライアンがフィル・スペクターよりもさらにチャレンジングなのは、アルバムの半分をオリジナル曲にしたことでした。前半がオリジナル、後半がカバーという構成なのですが、うっかりすると前半も既存のスタンダードナンバーだと勘違いするくらい、ブライアンのオリジナル曲は「クリスマスソングらしさ」をもっています。

 後半の『Merry Christmas From』の方は、70年代の「ポスト・ブライアン期」の、ある意味百花繚乱的な雰囲気がそのまま反映されています。その中ではデニスが作曲した<Morning Christmas>が素晴らしい。ほぼアカペラのスローな曲で、他の収録曲の中でこれだけ異質です。しかし、こうした敬虔な気持ちになる静かな曲こそクリスマスアルバムには不可欠だと個人的には考えているので、実はアルバムを通じてもっとも印象に残ったのは、この<Morning Christmas>でした。


 そして最後の1枚が、オーストラリア出身の女性SSW、Sia『Everyday Is Christmas』。このアルバムは本当に素晴らしかった。今年のクリスマスは結局このアルバムばかり聴いてる気がします。

 まず驚かされるのが、11曲すべてがオリジナルという点です。クリスマスアルバムは世の中に数多くあれど、全曲オリジナルというのはかなり珍しいのではないでしょうか。前述の通り、少なくともブライアン・ウィルソンでさえ半分はカバーだったのですから。

 そして何より素晴らしいのは、オリジナルにもかかわらず、どの曲も昔からあるスタンダードナンバーのような輝きと風格を持っていることです。


 さまざまなベルの音色や鍵盤主体(ギターが非主体)の楽器構成、そしてシャッフルリズム。このアルバムを聴いていると、クリスマスソングには「お作法」があるんだなあということがよくわかります。

 上に挙げた<Candy Cane Lane>や<Sunshine>は、王道のシャッフルソングだし、<Snowman>の3連符のピアノのアルペジオもクラシックの<O Holy Night>を彷彿とさせます。一方で<Underneath The Mistletoe>や<Underneath The Christmas Lights>のような聖歌的でトラッドな雰囲気をもつ曲もあり、単なるパーティーアルバムではなく、静謐で宗教的な部分も含めた、トータルなクリスマスアルバムに仕上がっています。


 現代のポップソングから世界的なスタンダード曲になった例って、マライア・キャリーの<All I Want For Christmas Is You>以降出てきてないと思うのですが、あれももう20年以上前です(1994年)。そろそろ「リリース即クラシック」なナンバーが出てきてもいい頃かもしれません。

 何度も書いちゃいますが、僕はクリスマスというのは楽しいパーティーというだけでなく、暖炉の中で薪がはぜる音とか、教会のろうそくのきらめきとか、朝カーテンを開けると灰色の空から静かに雪が舞い落ちてくる光景とか、人を謙虚な気持ちにさせる、パーティーとは真逆の側面もあると思っているので、マライアのオラついたノリよりも、Siaの粘っこくてどこか陰のある曲の方が僕が描くクリスマスにはフィットします。<Ho Ho Ho>のシャッフルなんだけどちょっと悲し切ない感じとか最高なんだけどな。







sassybestcatをフォローしましょう
ランキング参加中!
↓↓よろしければクリックをお願いします

にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

Fazerdaze 『Morningside』

_SS500

「一人きり」であることが
パーティーよりも親密さを生むこともある


 ニュージーランドのウェリントンで、ヨーロッパ系の父とインドネシア人の母のもとに生まれたアメリア・マーレイは、14歳のときに両親が離婚したことをきっかけに音楽にのめりこむようになりました。そして19歳のとき、それまで活動していたバンドが解散したのを機に宅録を開始。「Fazerdaze」という名前でソロ活動を始めました。

 17年6月にリリースされた『Morningside』は、Fazerdazeにとって初のフルアルバム。もう半年以上が経ちましたが、未だに強烈な印象が残っている作品です。今年の年間ベストを選べと言われたら、僕の中では確実にベスト3には入ります

 僕がFazerdazeを知ったきっかけは、The Courtneysでした。彼女たちと同じFlying Nun Recordsのレーベルメイトということで認識したのが初めてだったと思います。その後、本作のリードトラックとしてSound Cloudで公開された<Lucky Girl>がめちゃくちゃ良かったので、即アルバムを予約したのでした。



 ただ、いざ聴いてみたアルバム『Morningside』全体の風合いは、疾走感のあるギターポップだった<Lucky Girl>から予想していたものとは、少し違っていました。それは、タイトルの「Morningside」という言葉に込められた意味に表れています。

 Morningsideはニュージーランドのオークランド郊外の小さな町の名前で、Fazerdazeがアルバムを録り終えたのが、まさにこの町でした。この町の名前は、作品にとって記念碑的な響きをもっているのでしょう。しかし同時に彼女は、「Morning」と「Side」とに分けられるこの言葉について、「人生の暗い部分を通り抜け、向こう岸にたどり着いて、それによって強くなるということの象徴」という風にも捉えているそうです。

 ライナーノーツに書かれている彼女のこの言葉が示唆している通り、アルバムはポップなんだけど決して陽気ではなく、むしろ内省的で、どこか陰のある雰囲気に包まれています。メリハリがあってスピード感のある<Last To Sleep>も90sオルタナのような<Friends>も、さらには前述の<Lucky Girl>でさえも、このアルバムの文脈の中で聴くと、静謐な印象を受けます。

 それは歌詞にも表れていて、例えば<Take It Slow>という曲では、何かに夢中になり、囚われ、執着していた時間の終わりが歌われています。
「ずいぶん遠くへ来てしまった。どこへ向かえばいいのかわからないけど、また私たちは旅立つ」
「私たちは慎重に、ゆっくり時間をかけて進んでいく」

 僕がいいなあと思うのは、ここでは何かが終わることの不安や徒労感といったものを「乗り越えるべき障害」や「敵」といった自分の外にあるものとしてではなく、必然的なもの、あるいは人生の一部として描いていることです。そして、そこからの再生も、ドラマチックなものではなく、「慎重に」「ゆっくり」とあくまで淡々としたものです。そうした抑制された筆致に僕は知性を感じるし、共感を覚えます。

 こうした淡くて繊細なトーンは、「ながら聴き」ではキャッチできません。僕はCDが届いて初めの数回は家事をしながら流しっぱなしにしてただけだったので、実はまったくピンときませんでした。ようやくこのアルバムの真価に触れたのは、スピーカーの前に座ってじっと耳を傾けたとき、そして、電車に乗りながらイヤホンでじっくりと聴いたときでした(ちなみにこのアルバムはめちゃくちゃ音がいいので、そういう点からも「ながら」ではなくしっかり耳を傾けて聴くのがおすすめです)。

 Fazerdazeの音楽は、本に似ています。音楽は複数の人間でも楽しめるけど、本は基本的に一人しか読めません。また、「ながら聴き」はできるけど「ながら読み」はできません。本は音楽よりも、受け手に対して厳密に「一人きり」であることを要求します。しかしそのぶんだけ、本は読者との間に、マンツーマンの閉じた世界を作ることに長けています。『Moringside』も、大勢でワイワイやるパーティーで流すようなタイプの音楽ではないけど、部屋の本棚に眠る一冊の本のように、長い時間に渡って親密な関係を結べる極めてパーソナルな作品なのです。



余談ですが、このアルバムが気に入ったら、ぜひFazerdazeがSpotifyで公開しているプレイリスト「alone in ur room」も聴いてみてください。

スマパンの<1979>、The XXの<VCR>、Cat Powerの<The Greatest>などが入っているこのプレイリストは、タイトルからなんとなくイメージできるかもしれませんが、『Morningside』と同じカラーを持っています。僕が唯一お気に入りに登録しているプレイリストでもあります。

おまけ。今年10月の初来日公演にて。
IMG_4111







sassybestcatをフォローしましょう
ランキング参加中!
↓↓よろしければクリックをお願いします

にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

Hi-STANDARD 『The Gift』

detail-jkt

「裏切ったやつら」に
もう一度会いたくなった


 少し前の話ですが、Ken Yokoyamaがアルバム『Sentimental Trash』をリリースした頃(15年)、横山健のメディア露出が急激に増えました。かつては「TVに出たら魂を売ったと思ってくれていい」とまで言っていた彼が、『ミュージック・ステーション』をはじめ、地上波の音楽番組に顔を見せました。

 その背景には、「ロックがこのまま廃れてしまうのを、ただ黙って見ていていいのか」という危機感と、そしてコアなロックほどメディアを忌避し、それが結果として一般リスナー層離れを生んでしまったことの一因が、「TVには出ない」と言い切ったかつての自分自身にあるのかもしれないという責任感があったと、横山健自身は語っています。
『横山健の別に危なくないコラム』Vol.89

 そういえば、これも少し前のことですが、こんなニュースもありました。
音楽離れは「有料の音楽」離れに限らず「音楽そのものから距離を置く」と共に

 確かに、僕自身の実感に即してみても、積極的に音楽を聴く人なんて、10人に1人もいない気がします。20人に1人いればいいくらいじゃないだろうか。

 僕が中学高校の頃は音楽、とりわけロックはまだクラスの話題の中心にいました。イエモンはいたしジュディマリはいたしミッシェルはいたし、もちろん、ハイスタもいました。でも、今クラスで音楽が話題に上ったとしても、バンドの名前なんて一つも上がらないんじゃないでしょうか。てゆうか、そもそも「音楽が話題に上る」なんてこと自体が起きえないのかもしれません。

 でも、同時にこうも思います。実は、「音楽を聴く人」なんて、当時からほんの一握りしかいなかったんじゃないかと。僕も含めクラスのみんなが追いかけていたのは、音楽ではなくただの「流行」であり、音楽ソフトの売上が減っているのは、単に「流行を追いかける層」が音楽以外のところへ去ってしまったからで、「音楽を聴く人」の割合は、昔も今も変わらないんじゃないかと。

 もちろん、たとえ20人に1人だとしても、そうしたコアなファンを若い世代に確保し続けなければ、そのジャンルはいずれ滅びてしまいます。そして、そうしたコアなファンは「流行を追いかける層」の中から生まれるのも確かなことです。フジロックが中高年おひとり様だらけだった、なんて記事がありましたが、ロックのレコード売上が初めてR&Bの総売り上げに負けたことでも明らかなように、若い世代におけるロックの存在感は薄れつつあるのは確かなのでしょう。だから、もう一度「流行」を呼び込もうとする横山健のチャレンジは、とても大事だとは思います。

 ただ、その一方で、CDが100万枚売れたからといって、「音楽を好きな人」が100万人いるわけではないし、CDが売れなくなったからといって、音楽へのニーズ自体が減ったわけでもないだろうとも思うのです。

 高校時代、文化祭でハイスタをコピーしてた知人は、今ではK-POPしか聴かなくなりました。自分の携帯アドレスに「music」「love」と付けてる知人が最後にCDを買ったのは、10年近くも前だそうです。

 もちろん、流行を追うのも何かに飽きるのも、個人の自由です。K-POPだって歴とした音楽です。昔のCDだけを繰り返し聴くことだって悪いことじゃない。それが彼なりの「music love」なのだから。

 でも、それら全部をわかったうえで、どうして僕は彼らを「許せない」と感じるのか。「裏切り者」と感じるのか。彼らがハイスタ18年ぶりのアルバム『The Gift』を聴いて「やっぱハイスタだよな〜」などと言おうものなら、この18年の間に活動してた全てのアーティストに土下座しろ!と言いたくなってしまうのか。

(僕はいったい何が書きたいんだろうと思いながらずっと書いています)

 峯田和伸が銀杏BOYZを始める前に出演し、彼の俳優デビュー作となった『アイデン&ティティ』(2004年)という映画があるんですが、その中で、首がもげるくらいにうなずきながら「わかる!わかるぞ!!」と激しく同意したシーンがあります。

 峯田演じる売れないミュージシャンの中島が、大学時代のバンド仲間で、今は就職して働いている友人と飲み屋で飲んでるシーンです。「今どんな音楽を聴いてるか」という話題になったところで、かつてのバンド仲間の一人がこう言い放ちます。「やっぱベスト盤だよね!女口説くならベスト盤が一番だろ!」と。

 これ、伝わるでしょうか。「え?こないだまで一緒に夢見てたじゃん。一緒に熱狂してたじゃん。なんでそんなにあっさり割り切れちゃうの?なんでそんなにすぐ醒めちゃうえるの?あの熱狂は嘘だったの?」という怒りと悔しさ。そして、未だに同じ場所にいる自分が、まるで一人で道化を演じてるかのように思えてきてしまう恥ずかしさ。このとき中島が感じたであろう気持ちが、僕にはすっごいわかる気がして、僕は画面の中に飛び込んで彼を全力で抱きしめたくなりました。

 それがいくら一方的な思い込みであると分かっていても、あいつが自分と同じように熱狂していないと分かったときに「裏切られた」と感じたり、相変わらず熱狂している自分がたまらなく恥ずかしいと感じたりしてしまうのはなぜなのか。

 きっとそれは、さみしいからなんじゃないかと思います『シン・ゴジラ』の記事でも書いたように、僕は「何かを好きになるということは、孤独になるということだ」と考えています。だから、僕は基本的には音楽が好きなことも芝居をやってることも他人に話しません。それが人付き合いのマナーだとすら思ってきました。でも本当は、他人と一緒に何かに夢中になることや、一瞬でも誰かと「つながった!」と実感できることを求めてるのかもしれません。

 10月に『The Gift』を初めて聴いたとき、僕の中には「裏切っていった奴ら」への怒りが、身がよじれるくらいの勢いで湧いてきました。ロックを聴かなくなったあいつらが、久しぶりにハイスタを手に取るのは許しがたいと思いました。でもこの文章を書き終えた今は、なんとなく彼らに久しぶりに会いたいと思い始めています。








sassybestcatをフォローしましょう
ランキング参加中!
↓↓よろしければクリックをお願いします

にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

銀杏BOYZ日本武道館公演「日本の銀杏好きの集まり」

694a4c4ff08a990a1a1e983d23825020

「そこにいるマイ・フレンド」は
僕自身のことでした


 アンコールが終わって客席の電気が着くと、僕の席の近くにいた女の子が「こんなに泣くと思わなかった」と呟きました。一緒にライブを見てた妻も「これまでで一番泣いたライブだった」と言いました。そして僕にとっても、初めてポール・マッカートニーを生で見た2013年の東京ドーム公演を超えて、過去一番泣いたライブになりました。

 銀杏BOYZの武道館公演「日本の銀杏好きの集まり」は、初の武道館ワンマンとは思えないほど、雰囲気はいたって淡々としていました。あいにくの雨のせいもあったのかもしれませんが、お祝いムードという点では、6月にあったTheピーズの30周年公演のときのほうが、はるかに「お祭り」的な空気に包まれていたと思います。にもかかわらず泣けて泣けて仕方なかったのです。

 今年の7月、銀杏BOYZがリリースしたシングル<エンジェル・ベイビー>を初めて聴いたとき、僕は駅のホームで文字通り号泣しました。発売前だったのでYouTubeにアップされた粗い音質のラジオ音源だったのですが、いくら我慢しても次から次へと涙があふれてきました。

 その時に僕が思ったのは「これは俺だ」ということでした。ここで歌われているのは僕自身のことで、だからこの曲は「俺の曲」なんだと思いました。そして、俺の曲なんだから何度でも聴かなきゃと思って、家でも電車の中でも歩いているときも、しばらくのあいだは四六時中ずっと、粗い音質の<エンジェル・ベイビー>だけを聴いていました。この曲以外に聴くべき曲なんてないと思いました

 でも、ちょっと観念的な話になっちゃうのですが、ここで僕が言う「僕自身」というのは、会社に毎日おとなしく通って仕事をしたり、家で親としてふるまったりしている「今の僕」というのとは少し違うのです。じゃあどの「僕」なのかというと、毎日「死にたい」「消えたい」とばかり考えていた、20歳前後の頃の僕自身です

 当時からたくさん時間が経って、いつの間にか僕は「死にたい」「消えたい」と考えることは滅多になくなったけど、それは気づかないふりをしたり目をそらしたりするのが上手になっただけで、一枚皮を剥いでしまえば、依然としてそこには当時と何も変わらない、弱くて甘ったれで自分に自信が持てない、クソな僕がいます。<エンジェル・ベイビー>は、まさにその「クソな僕」に向けて歌われていました

 ただ、僕が泣いたのは「クソな僕」が未だに残っていることにショックを受けたからでも、「死にたい」という当時の悲しさが蘇ってきたからでもありません。むしろその逆で、そういうクソな僕でも許されたような、クソな僕でも「生きてていいんだよ」と言われたような、そういう感じがしたからでした。

 僕のちっぽけな青春や、今思うと死ぬほどイタイことやってたなって恥ずかしさや、「自分は特別だ」と思い込んでた自分の平凡さ、そしてそれを思い返して懐かしさを覚えてしまう俗っぽさまで含めて、そんなありきたりな自分というものが、銀杏の歌を聴いていると愛しく思えてくるのです。

 優しいふりをした歌があふれまくってるこの世界で、峯田は「お前はゴキブリだ」「蛆虫だ」と歌ってきます。なんて自分はちっぽけなんだろうと悲しくなります。でもその悲しさでこそ僕は救われる。どこまでもどこまでも自分のことを否定して、もうこれ以上否定しきれない、あとは死ぬだけってときに、最後に自分を肯定してくれる防波堤のような音楽です。

 10/13の武道館、1曲目に<エンジェル・ベイビー>を演奏するとき、峯田は「ハローマイフレンド!そこにいるんだろ!」と叫びました。その「マイフレンド」とは、僕のことでした。<夢で逢えたら>を演奏するとき「夢で会えたぜ!」と叫んだけど、あの瞬間に僕が会えたのは、他ならぬ僕自身でした。僕が武道館で泣けたのは、相変わらず僕がクソだからでした。そして、クソだけど生きていたいと思えたからでした。






sassybestcatをフォローしましょう
ランキング参加中!
↓↓よろしければクリックをお願いします

にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
記事検索
プロフィール

RayCh

twitter
読書メーター
ReiKINOSHITAの最近読んだ本
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ