週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

SOLEIL『My Name Is SOLEIL』

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ポップミュージックが
まだ「14歳」だった頃


 先週紹介したThe Yearningは、50〜60年代ポップスの影響を色濃く感じさせる、レトロなスピリットにあふれたグループでした。日本でもつい最近、似たコンセプトをもったグループがデビューアルバムをリリースしました。男性ベテランミュージシャン2人と14歳の現役女子中学生という異色の顔合わせによる3ピースバンド、SOLEIL(ソレイユ)です。

 メンバーは、「ネオGS」と呼ばれたザ・ファントムギフトのベーシスト、サリー久保田。ヒックスヴィルやましまろで活動するギタリスト、中森泰弘。そして、女子中学生ポップデュオ「たんきゅんデモクラシー」の元メンバー、それいゆの3人。2017年9月に1stシングル『Pinky Fluffy』、そして今年3月に初のフルアルバム『My Name Is SOLEIL』をリリースしました。

 このバンドのコンセプトは「1962年」。ガールズポップが全盛期を迎え、マージービートがいよいよステージ中央に躍り出ようとしていた時代の音楽的意匠がふんだんにこらされたサウンドです。アルバムには真島昌利や近田春夫、カジヒデキ、かせきさいだぁといった濃い面子が曲を提供しているのですが、彼らの作家性よりも「1962年サウンド」の方が前面に出ているので、バラバラ感はありません。全曲モノラル録音というラディカルぶりも相まって、非常にコンセプチュアルな作品という印象を受けます。



 The Yearningが、ジョー・ムーアというコンポーザーの考える世界観がまずあって、それを体現するためのいわば「出演者」としてボーカルのマディー・ドビーが存在していたように、SOLEILのサリー久保田とそれいゆの関係もまた演出家と役者のように見えます。結成当時のマディーとそれいゆが共に14歳というのも不思議な符合。

 サリー久保田はインタビューで「13歳だとまだ子供だけど、15歳だともう大人の感じが出てくる。14歳という年齢はそのどちらでもないから面白い」と語っています。

 一つのカラーに染まりきっていない。アンバランス。狭間。そのような意味でいうと、両者が志向している50年代末から60年代初頭の音楽もまた、混沌とした時期であるともいえます。50年代中盤はロックンロール誕生のムーブメントがあり、60年代も半ばになるとビートルズが現れてポップスの重心がロックへと傾倒し始めます。そのために従来は、この50年代末〜60年代初頭は音楽的には見るべきもののない退屈な時代と見られていました。

 確かに爆発的なムーブメントや誰もが知る天才的なアーティストは、この時期に見当たらないかもしれません。けれど実際には、ツイストやファンクなど新しいリズムの発明やフォークミュージックの誕生、黒人歌手や女性歌手のメインストリームへの登場など、後の音楽シーンに決定的な影響を与える出来事が起きたのはまさにこの50年代末〜60年代初頭だった…というのは大和田俊之『アメリカ音楽史』の論ですが、この時期の音楽にはそうしたプリミティブな魅力にあふれています。

 この時期のポップスをよく「キラキラした」と表現することがあります。僕もそのように実感することがあるのですが、この「キラキラ」は、あか抜けて洗練されたことによる輝きというよりも、ありったけのアイディアや生まれたてのエネルギーが詰まった、未成熟という名の眩しさなんじゃないかと思います。そう考えると、The YearningのマディーとSOLEILのそれいゆが共に「14歳」という年齢であることが、とても面白い偶然に思えてくるのです








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The Yearning『From Dawn Till Dusk (2011-2014)』

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「音楽は魔法」という言葉を
たまには信じてもいいじゃないか


 スペインのマドリードを拠点とするElefant Records(エレファント・レコード)は、世界中で僕がもっとも愛するレコードレーベルの一つです。そして、エレファントの所属アーティストのうち、レーベルの精神をもっとも色濃く体現している(と僕が感じる)のが、以前紹介したThe Schoolと、今回紹介するThe Yearning(ザ・ヤーニング)です。

 The Yearningはイギリスの2人組ユニット。シンガーソングライター、プロデューサーとして活動していたジョー・ムーアが、ボーカリストのマディー・ドビーをフィーチャーする形で2011年に結成されました。当時、マディーは若干14歳でした。

 ジョー・ムーアの作る音楽は、ブリル・ビルディング勢やブライアン・ウィルソンモータウンなど、50年代終わりから60年代前半あたりの遺伝子をダイレクトに受け継いだ、王道でキラキラしたポップス。それをそのままやると単に懐古主義的で暑苦しいだけになってしまいますが、マディーがその透き通るような歌声で、普遍的な響きをもつ「現代の音楽」へと中和しています。この「レトロなんだけどアップデートされている」というバランス感が、僕が思うエレファントのイメージそのものなのです。


 そんな彼らのエッセンスが凝縮されているのが、『From Dawn Till Dusk (2011-2014)』(17年)。彼らの音源で最初にCD化されたのは、14年の1stアルバム『Dreamboat & Lemonade』なのですが、実はそれ以前にも配信限定でリリースした2枚のEPや、レーベルのコンピ盤への提供曲など、既発曲がたくさんありました。それらの初期音源をまとめてCD化したのがこの『From Dawn Till Dusk (2011-2014)』です。

 初期音源だけあって、結果的にジョー・ムーアのやりたいことがもっとも端的に表れたアルバムになっています。モロにビーチボーイズな<Why’s She Making Those Eyes At You>やフィル・スペクターとモータウンのハイブリッドのような<Don’t Call Me Baby>(タイトルからして最高です)など、一つひとつの楽曲の純度が高い。ノーランズのカバー<Gotta Pull Myself Together>も名演です。オリジナルとはまったく違う仕上がりですが、この曲を選んだ着眼点やその料理の仕方にThe Yearningの個性を強く感じます。

 彼らは2ndアルバム『Evening Souvenirs』(16年)や、現時点での最新音源であるEP『Take Me All Over The World』(18年)で、フォークやボサノヴァ、映画音楽などのジャンルを開拓しています。いわば「レトロ職人」のような独自の進化を遂げつつあるのですが、その原点は間違いなくこの1枚に詰まっているのです。


 さて、そんなThe Yearningですが、今年4月に初来日が実現しました。東名阪の3か所をめぐるツアーで、僕は最終日の東京公演に行ってきました。

 今回来日したのはジョーとマディー、そしてここ数作品のレコーディングに参加しているギタリストのマーク・キフの3人。ジョーは奥さんと3人の子供たちも連れてきていて、家族と一緒にオープニングアクトの演奏を聴いたり、ジョーが演奏しているのに途中で子供が疲れて寝ちゃったりと、ライブというよりもホームパーティのような雰囲気でした
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 子供たちが遊んでいて、僕ら観客もソファに座りながらお酒を飲んでいて、そのくつろいだ空間のなかで音楽を楽しむ。僕は何度も「ここは天国なんじゃないか」と思いました。生の演奏を聴けたのは感激だったし、特にドビーの歌声は音源以上に透明感があって素晴らしかったのですが、何よりよかったのは、会場のあの雰囲気を体験できたことかもしれません。「音楽は魔法」という言葉が陳腐ではなくリアルだと感じてしまうようなあの空間と時間こそ、The Yearningの音楽そのもののようでした。








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For Tracy Hyde『he(r)art』

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「明けない夜はない」という
儚さと希望と


 村上春樹の小説で一番好きなのは『羊をめぐる冒険』でも『ノルウェイの森』でもなく、実は『アフターダーク』なんですが、For Tracy Hyde(フォトハイ)の2ndアルバム『he(r)art』の印象は、この小説を初めて読んだときのそれと重なりました。

 どちらも舞台は東京で、時間帯は夜。『アフターダーク』は東京の渋谷のレストランやラブホテルで起きたある一晩の出来事を、深夜から日が昇るまで時系列を追って描いた作品ですが、『he(r)art』のほうも、明示はされていないものの、ある夜に東京のあちこちで起きるドラマを1曲1曲にしてつなげた、連作小説的なアルバムです

 ただ、僕が両者を似ていると感じたのは、単に作品の構成や舞台設定だけが理由ではありません。

 夜の電車に乗ると、オフィスやマンションから洩れる無数の光が次から次へと窓の外に流れていきます。その一つひとつの光のなかに誰かの人生とそれに伴うドラマがあって、しかもそのほとんどはお互いに関わり合うことがなく別々に存在しているんだと思うと、密度の濃さみたいなものに思わず眩暈がしそうになります。そして、無数に輝く星も太陽が昇れば消えてしまうように、東京の窓の明かりも朝が来ると全て消えて、夜の間にその明かりのなかで起きたさまざまなドラマなんてまるでなかったかのように、また1日が始まる。

 永遠に続けばいいのにと思うような夜も、朝日が昇れば瞬く間に消えてしまうのは、残酷で虚しいことかもしれません。でも、逆に言えばどんなに悲しい出来事があっても、朝が来ればとりあえず一旦リセットすることができるわけで、その意味では夜の終わりはある種の救いでもあります。儚いけれど、その儚さの中にこそ希望がある。『アフターダーク』と『he(r)art』が似ているのは、都会の夜がもつそうした二面性が、作品のなかに封じ込められているからです。



 先ほど「連作小説的」と表現しました。EP『Born To Be Breathtaken』のときにも書いたように、このバンドの楽曲はフィクショナルで情景描写的なところが大きな特徴ですが、今回のアルバムはその強みと作品のコンセプトの親和性が過去の作品以上に高かったと思います。

 彼らのそうしたストーリーテラー性について、これまでは歌詞がファクターとして大きいと思ってたのですが、今回の作品を聴いていると、メロディの影響も大きいのではないかと思うようになりました。理由は「Bメロ」

 フォトハイの楽曲は元々Bメロが多いのですが、今回のアルバムの楽曲ではそのBメロが非常に効いているなあという印象があります。ヴァース(Aメロ)とコーラス(サビ)をダイレクトにつなぐのではなく、その間に別種のメロディを置くことでサビへと向かう緊張感が生まれ、楽曲のドラマ性を強めるのがBメロの効果だとすれば、<Echo Park>や<Leica Daydream>はその見本のようです。これらの楽曲の、サビに入ったときに視界がバッと開けるようなドラマチックさは、直前のBメロがまるでサビへのジャンプ台のような役割を果たしているからでしょう

 蛇足ながら、欧米のポップソングはヴァース(Aメロ)からいきなりコーラス(サビ)へと移るのが圧倒的に多いので、Bメロは日本のポップソングの大きな特徴だともいえますが、フォトハイが「J-POPのお作法と海外インディーの感性との邂逅」とよく言われる理由は、実はこの「Bメロ」にあるんじゃないかと思ったりもします。



 最後にもう一度「東京の夜」に話題を戻します。

 僕がこのアルバムを聴いて最初に東京の夜と『アフターダーク』を思い出したのは、6曲目の<Dedication>でした。どちらかというと地味で、アルバム全体からみるとつなぎのような(まさにBメロ的な)ポジションの楽曲ですが、僕はこの<Dedication>が一番好き。

 他の曲がいずれも特定の誰かや場所にフォーカスしながら一人称的視点で作られているのに対し、この曲だけは三人称的で、淡くゆったりとしたサウンドとも相まって、まるで雲の上から街全体を見下ろしているような感覚があります。東京という街そのものが端的に表れているのは、実は控えめな存在のこの曲だと思うのです。

 eurekaのボーカルも非常に効いています。前代のボーカルであるラブリーサマーちゃんが、不完全さや傷つきやすさをさらけ出す人間臭いボーカルだったのに対し、eurekaの声は中性的で俯瞰的で、適度な距離感をとりながら、歌全体を俯瞰してみてるような響きをもっています。まるで都会の夜に生きる無数の主人公たちを空から見守る天使のような彼女の声は、<Dedication>のみならず、アルバムのコンセプト自体と非常にマッチしていると思います。

「シティポップ」というと先鋭的で享楽的なサウンドの代名詞のように捉えらがちですが、字義どおりに「都市」というものをテーマに据えた音楽と解釈するのであれば、このアルバムのような音楽こそ「シティポップ」と呼ぶべきでしょう








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2018年4月の3冊 〜「80年代アイドル」の世界へ〜

 3月に読んだ『1979年の歌謡曲』『1984年の歌謡曲』からの流れで、日本の歌謡界が「J-POP」という名前で呼ばれるようになる前の時代について興味が湧いてきました。はっぴいえんどやYMOを軸とした70〜80年代のサブカル論やロック論なら何冊か読んだことがあるのですが、今回僕が興味をもったのは、ヒットチャートや賞レースといった、もっとマス向けな「芸能界」の話。

 ということで、最初に手を伸ばしたのが中川右介『山口百恵 赤と青とイミテイション・ゴールド』。タイトルのとおり、「山口百恵」という日本の戦後芸能史を代表する一つの「事件」に関する論考なのですが、同時代の歌手の動向やプロダクションとテレビ局の話などにも細かく触れていて、当時の雰囲気を知るにはうってつけでした。


 本書を読んで素朴に驚いたのは、山口百恵は女優としても成功した人だったということ。三浦友和との出会いが映像の仕事だったということはなんとなく知ってたんですけど、この2人をペアにして時代や舞台設定だけ変えた「百恵・友和映画」が、彼女が引退するまで映画会社のドル箱シリーズだったとまでは知りませんでした。

 活動期間の短さとその中で成し遂げた変化の振れ幅、そして今なお伝説として名を残すインパクト。本書を読みながら何度もイメージを重ねあわせたのは、ビートルズでした。




 そして、本書の続編に位置づけられるのが『松田聖子と中森明菜』(執筆はこっちが先)。


 本書では「アイドルポップス」について、洋楽の影響下にあった和製ポップスが発展したもので、演歌や反戦フォークなどの自虐的な世界観とは異なり、軽やかで幸福感に満ちた世界観をもつ音楽と定義しています。そして、70年代は亜流に過ぎなかったアイドルポップスを、一気に歌謡界の主流に押し上げて、業界の仕組みも人々の好みも全ての地図を「80年代仕様」に塗り替えたのが松田聖子であり、中森明菜でした。

 彼女たちの功績は、「歌が上手い」「可愛い」といった個人の才能だけによるものではなく、ウォークマンの登場による音楽をめぐるライフスタイルの変化や、享楽的で物質主義的なマインドに傾く世相の変化といった「時代」と彼女たちの資質とが呼応した結果でした。松田聖子の圧倒的な声量と「ぶりっ子」とまで呼ばれた仕草やビジュアル。それらは70年代でも90年代でもなく、1980年という時代だったからこそ支持されたのです。松田聖子のデビューにはさまざまな幸運が重なっていますが、本書を読むと、歴史的な必然でありそれが彼女の運命だったのだと、非科学的な納得をしてしまいそうになります。

 著者の中川右介『歌舞伎 家と血と藝』を読んで以来、絶対的な信頼を寄せているノンフィクション作家です。今回は上記2冊のほかにも『阿久悠と松本隆』、『角川映画 1976-1986』を読んだのですが、その芸能文化に関する圧倒的な知識と、それらを一種の「歴史書」としてまとめ上げる筆力には改めて舌を巻きました。







 そして、上記の2冊とは視点も切り口もまったく違うのですが、非常に面白かったのがクリス松村の『「誰にも書けない」アイドル論』


 上記2冊と何が違うかというと、こっちは徹底的に「主観」によって書かれているところ。主観といっても2万枚ものレコードを所蔵する、知る人ぞ知る音楽マニアのクリス松村ですから、その知識量はハンパじゃありません。しかも自分自身が熱心なアイドルファンとして当時を体験しているので、「高田馬場にあった通称『ポルノ噴水』のところに、なぜか看板をずっと掲げていた北泉舞子さん」とか、盛り込まれてるエピソードがいちいちリアリティありすぎ。下手なデータ本よりもむしろ資料性があります。ネットの存在で音楽の「消費速度」が加速していることへの批判も、著者がいうと説得力が違う。

 本書でクリス松村は、「アイドルは可愛くなくていい」と説きます。「アイドル」というものの魅力は、初めはあか抜けない少女だったのが、華麗な歌姫や女優として成長していく様を目撃することである。未完成だからこそファンは応援しようと思えるのだから、最初は「いも姉ちゃん」で構わないのだと(あるオーディション番組の審査員として著者が呼ばれた際、「歌姫の誕生ですね」という台詞をあてがわれたが断固拒否したというエピソードはかっこよすぎます)。

 考えてみると、確かに山口百恵も、デビュー当時はまだ子供の面影を残す少女でした。だから、80年代終わりに宮沢りえや後藤久美子といった「初めから完成された美少女」が登場したのは、アイドルブーム終焉を感じさせる出来事だったと書いています。

 しかし、「アイドルは応援するもの」という論で行くなら、今のAKBなどはまさに正統的なアイドルといえそうです。実際、握手会や総選挙といった「応援」を具現化できる仕掛けも豊富です。けれどクリス松村は、所詮は同じグループ、事務所内での閉じた競争であるところに(明記はしてないものの)不満を述べます。

 著者が、80年代のアイドルブームを終わらせた大きな契機の一つとして見ているのが、おニャン子クラブです。素人性を売りにしたことでアイドルから「成長」という重要な物語を奪い取り、しかもグループという形で売り出したことで一人ひとりが記憶に残らなくなり、結果的にアイドルの消費期限を早めました。

 松田聖子や中森明菜、小泉今日子といった少女たちが、並み居るベテラン勢の向こうを張って孤独な戦いに挑んでいた様を知っている身からすると、今のAKB総選挙など、閉鎖された世界で行われる学芸会のようにしか思えないのかもしれません(明確に書かれていはいませんが、本書は秋元康批判が大きな裏テーマになっています)。

「みんなで応援する」という感覚、そして応援するアイドルを送り込む「ヒットチャート」という場所。それらは人々の好みが細分化された今となっては消えてしまった、あるいは意味をなさなくなってしまったものです。「アイドル好き」がムーブメントではなく細分化された一つのクラスタと考えるなら、AKBの総選挙が「閉じた世界」であるのは、ある意味当然だともいえます。80年代のアイドルブームとは「みんな一緒」だった時代の、最後の花火だったのかなあなんて思いました。

 当時を知らない後追い世代の僕としては、もし当時を体験したら「みんなで応援するなんて気持ち悪い」と感じるだろうなあと思うのですが、同時に、そういう雰囲気がうらやましいという気持ちも、実を言えばちょっとだけあります。





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映画『GODZILLA 怪獣惑星』

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見たことのないゴジラでありながら
「これぞゴジラ」だった


 昨年の11月、ゴジラを初めてアニメ化した映画『GODZILLA 怪獣惑星』が公開されました。正直、そこまで期待していなかったのですが、めちゃくちゃ面白かったです。

 期待できずにいたのは、ハリウッド版『GODZILLA』『シン・ゴジラ』と実写大作モノが続いた後だったので、「アニメ化」という切り口がスケールダウンに思えたから。でも、実際に見てみたら、アニメであることは弱点ではなく、むしろそこがこの作品の強みになっていました

 脚本の虚淵玄や監督の瀬下寛之「実写作品と勝負しても勝てない。アニメでしかやれないゴジラをやろう」という命題を出発点にしたそうです。その結果、実写はあくまで現実世界が舞台であるのに対し、アニメはぐっと空想を膨らませて「2万年後の地球」という途方もない遠未来が作品の舞台に選ばれました。

 20世紀の終わりに地球に出現したゴジラは破壊の限りを尽くし、人類はなす術もなく宇宙への脱出を決定。それから2万年後、環境も生態系も大きく変わった地球に人類が再び戻ってみると、(同一個体かは不明なものの)ゴジラはなおも生き物の頂点として君臨していた…というストーリー。この、アニメだからこそ表現できる極端に長い時間軸がとても効いていたのです。

 2万年も生きているゴジラ。300mもの体高にまで成長したゴジラ。ビルも道路もない、人類の文明が滅びた世界で暴れるゴジラ。過去の実写シリーズからすれば極端に映るこれらの設定は、極端だからこそ逆に、根本的な疑問を浮かび上がらせます。「ゴジラとはいったい何者なのか?」

 天変地異や外敵の侵略により人類が滅亡の危機に陥る映画を「災厄映画」と名付けるとすれば、ゴジラもそこにカテゴライズされるでしょう。しかし、ゴジラは『アルマゲドン』の隕石のような物理的現象ではありません。宇宙からやってきた侵略者でも暴走したロボットでもない。地球に元々住んでいた、独立した意思をもつ生き物です。

 宇宙からの侵略者であれば戦って倒してしまえばハッピーエンドが訪れます。なぜなら宇宙人は「外」から来たものなので、排除さえすれば世界は元通りに戻るからです。天変地異もそう。純粋な物理現象なので、基本的にはそれをどう乗り切るかということだけを考えれば済みます。

 しかし、同じ地球に住み、同じ生き物であるゴジラは、いわば人類の「内側」から現れた存在です。結果的に戦うことになったとしても、「なぜ現れたのか」「敵なのか味方なのか」「そもそもゴジラとは何者なのか」といった疑問がついて回ります。シリーズ化されてしまえばゴジラの存在は自明のものになりますが、第1作『ゴジラ』など人類とのファーストコンタクトを描いた作品には、このような疑問が物語の根柢に流れていました。キャラクターの核に「ゴジラとは何者なのか」というキャラクターそのものへの問いかけが含まれているのが、ゴジラの大きな特徴なのです。

 ハリウッド版『GODZILLA』、『シン・ゴジラ』、そして今回の『怪獣惑星』と、直近の3作はいずれも人類はそれまでゴジラの存在を知らないところからスタートします。その中でもっとも「ゴジラとは何者なのか」という疑問に迫ろうとするパワーがあったのは『怪獣惑星』でした。理由は前述のとおり、アニメだからこそ描ける遠大な時間や「人類を宇宙へ追い出す」という極端なストーリー、そして何よりも「初のアニメ版」というゼロベースからの挑戦だったことが挙げられるでしょう。異端であるはずの「アニメ版」が、むしろゴジラというキャラクターの核に迫っていたのです。

 アニメ版はこの『怪獣惑星』を皮切りに3部作のシリーズ展開を予定しています。第2作『決戦機動増殖都市』は5/18公開予定。『怪獣惑星』で大きく広げた「ゴジラとは何者なのか」という名の風呂敷を、2作目以降ではたたんでいく方向に舵を切ることになると思うのですが、今度はそのたたみ方に注目です。



※次回更新は5/10(木)予定です




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