週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

The Supremes 『Where Did Our Love Go? & I Hear A Symphony』

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今なおキラキラ輝き続ける
モータウンが生んだ「永遠の女の子」


1960年代の米デトロイトを舞台に、女の子3人のボーカル・グループが、
全米の大スターになるまでの栄光と挫折の物語を描いた映画『ドリームガールズ』。
そのモデルになったのがこのシュープリームスだ。

シュープリームスは50年代末に結成され、
61年に当時まだ設立して間もなかったモータウン・レコードと契約しデビューを果たす。
モータウンというと、今ではジャンルやスタイルを表す言葉にまでなっているけれど、
元々はレーベルの名前である。

黒人アーティスト専門の老舗レーベル、モータウン。
R&Bやソウル、ジャズなどの黒人音楽をベースとしながらも、
耳に馴染みやすいメロディやコーラス、転調の繰り返しといったポップス王道の手法を加え、
黒人リスナーだけでなく白人マーケットにも絶大な人気を誇った、60年代を代表する一大ブランドである。
映画ではジェイミー・フォックスがオーナーを演じていた。

初期モータウンの有名なアーティストには、例えば<My Girl>で有名なテンプテーションズ、
それから<You Really Got A Hold On Me>のミラクルズ
(僕はビートルズのカバーの方を先に知ったけど)なんかがいる。
さらにマーヴィン・ゲイもいるし、スティーヴィー・ワンダーもいるし、
70年代はジャクソン・ファイヴも所属していた。

現在もモータウンはレーベルとして現役だが、何といっても黄金期は60年代。
そしてその黄金期を支えたトップグループがシュープリームスである。

グループの中心はダイアナ・ロス。
最高にキュートな声と、背が小さくて、細くて、
いつも笑顔(化粧は濃いけど)というビジュアルを持つ、「ザ・女の子!」なボーカリストである。

おもしろいのは、少なくとも現代の感覚からすると、
彼女には男性に媚びるようなアイドル的な性というものが感じられないところだ。
「恋」「夢」「素敵な明日」といったものを一貫してテーマに据えたシュープリームスの歌は、
あくまで女の子の等身大の声なのである。

例えばビートルズが当時の男の子のありのままのファッションでもって
「I wanna hold your hand!」とダイレクトな欲求を歌にして、それが同世代の心を掴んだように、
シュープリームスというグループも、徒に男性のフィクションを引き受けずに
女の子の生の声として恋や夢の歌を歌ったからこそ、大きな支持を獲得したのではないだろうか。

もちろんそういった一般アイドルとの差別化自体がモータウンの仕組んだ戦略であり、
フィクションであると言われればそれまでだ。
しかし、たとえ当初はビジネス的な作為によるものだったとしても、
半世紀近く経った今もなおベスト盤が次々とリリースされ、幾多のカバーを生んでいるのは、
やはり彼女たちの歌には「永遠の女の子」が封じ込められているからだろう。

これは後世に生きる僕の勝手な物語であるが、
60年代といえばまだアメリカ公民権運動がバリバリだった頃で、
例えばキング牧師の「I have a dream」の演説はシュープリームスがデビューして2年後のことだし、
公然と黒人差別が残っていた時代である。
そういった社会のなかで、黒人で、しかも女性というシュープリームスが、
誰にも媚びずにある種超然と「ザ・女の子」の姿勢を貫いていたのは、
自分たちのバックグラウンドへのプライドと、社会への意思表示のようにも思えるのである。

最後になってしまったが、今回紹介するのは、
64年『Where Did Our Love Go?(愛はどこへいったの)』と、
66年『I Hear A Symphony(一人ぼっちのシンフォニー)』の2枚のアルバムを1枚にまとめて収録した、
オトクというか情緒も何もないというか、そういうアルバムである。

2枚とも代表作なので絶対に損はしないと思うが、何せ彼女たちはヒット曲が多いので、
例えば<You Keep Me Hanging On>や<Stop In The Name Of Love>はここには入っていない。
そういえば<You Can’t Hurry Love>も漏れている。
オフィシャル盤、海賊盤含め、シュープリームスほどベスト盤がリリースされているアーティストも珍しいので、
ヒット曲だけをまとめて聴きたいという方はそちらがおすすめ。
個人的には06年に発売された『アルティメット・コレクション』がいいと思う。


<Where Did Our Love Go?>。日本のキャバ嬢もまだまだ甘いな、と思うこの髪形


続いて<I Hear A Symphony>を歌うシュープリームス

『おろしや国酔夢譚』 井上靖 (徳間文庫)

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電車も車もない時代
シベリアを横断した日本人がいた


 「おろしやこくすいむたん」と読む。発音するときには、「おろしやこく」と「すいむたん」で呼吸を分けて読むのが正しい。「おろしや国」とはつまりロシアのことである。

 この本の主人公は、江戸時代後期の船頭、大黒屋光太夫とその仲間たち。実在の人物である。1782年、彼らは船で江戸へ向かう途中に遭難し、そのまま流されてアリューシャン列島へと流れ着き、その後ロシアを延々と漂泊することになる。『おろしや国酔夢譚』は、そんな光太夫たちの数奇な運命と壮大な冒険を描いた物語だ。

 彼らがどういう足どりを辿ったかを書いてみる。大黒屋光太夫以下17人の船乗りを乗せた海上輸送船、神昌丸が伊勢の白子(今の三重県)を出港したのが前述の通り1782年。だがほどなく嵐に見舞われ、舵を折られた神昌丸は漂流する。漂流生活は8ヶ月間。この間に水夫1人が死ぬ。

 8ヶ月後、潮に乗るままに船が辿り着いたのはアリューシャン列島に浮かぶアムチトカ島。光太夫たちは荒涼としたこの北の最果ての島で、4年もの歳月を過ごす。この間、7人もの仲間が飢えと病で死ぬ。残された9人は、流木を材料になんと自分たちの手で船を作って島を脱出する。

 ここからが長い。アムチトカを離れた彼らはカムチャッカ半島のニジネカムチャツクに上陸する。ここにはロシア政府の出先機関があった。日本の方角すら定かではない光太夫たちは、ロシア政府に日本送還用の船を出してもらえるよう、援助を求めるしかなかったのだ。

 だが、固陋な官僚組織に阻まれて彼らの願いは一向に聞き届けられない。このニジネカムチャツクで、さらに3人が死んでしまう。待っていても埒があかないと考えた光太夫一行は、より強い決定権を持つ政府高官に訴えるべく、ロシア内陸への旅を決意する。

 カムチャッカから海を渡りオホーツクへ、そしてヤクーツク、イルクーツクと、極寒のシベリア内陸部を彼らは進んだ。「極寒」と簡単に書いたが、冬の最低気温が零下70度なんていう、地球上でもっともすさまじい土地を、馬とそりで何ヶ月も旅するのである。文字通り死を覚悟した旅である。

 一行は決死の旅程を経てイルクーツクの総督府へ訴え出たものの、依然として事態は進展しない。光太夫は、一縷の望みを賭けて、時の女帝エカチェリーナ2世に帰国の願いを直訴しようと、帝都ペテルブルグにまで足を延ばすのだった。ペテルブルグはバルト海にほど近い、地図で言えばほぼヨーロッパといっていい西の果ての都だ。つまり光太夫は、馬とそりと徒歩だけでシベリア大陸を横断したことになる。
 

 その後光太夫がどうなったのかは、是非小説を読んで確かめてもらいたい。ただとにかく強調したいのは、これがファンタジーではなく事実であるということだ。

 彼が辿った道のりはおよそ4万キロ。地球一周分である。距離というものは交通手段の速度と快適さによってその認識が変わるものだ。飛行機も列車もない200年前に身体一つでシベリアを横断したという事実は、到底現代のスケールで計ることはできない。さらにロシア語を難なく話せるまでに習得した知性、最高権力者との謁見にまで漕ぎつける胆力、そして何度も挫折しそうになりながらも希望を捨てなかった意志と勇気。光太夫の姿からは過酷な運命に負けない人間の力強さというものを、殴られたような衝撃でもって感じさせられる。

 この『おろしや国酔夢譚』は1992年に映画化されている。ちなみに上の画像はそのDVDの表紙。ストーリーは大幅に省略され、またキャラクターもデフォルメされているが、少しも面白さは損なわれていない。緒形拳演じる知的で清廉な大黒屋光太夫は、原作のイメージ以上である。

映画 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』

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少年から大人へ
憎しみから愛へ


「自分は誰からも必要とされてない人間だ」。
僕が初めてそう思ったのは中学2年生のときだった。14歳だった。

足は遅いし球技は何をやってもヘタクソだし、運動はてんでダメ。
友達を笑わせられる話一つできない。
おまけにルックスも、クリクリでゴワゴワの髪の毛に牛乳瓶の底のような眼鏡という、
今で言う“イケてない”の極致。
ただ一つ、成績だけは飛び抜けて良かったのだが、
14歳の社会のなかで“勉強ができる”ということは、妬みの対象にこそなれ、
認められ、一目置かれることではなかった。
だから「自分はこの世に必要ない存在だ」という結論は、
僕にとって実にナチュラルな実感だった。
そして僕は生まれて初めて「死んでもいいや」と考えたのだ。

その年の冬、僕はギターを始めた。
何がきっかけで始めたのか、よく覚えていない。
しかしギターは、ギターだけは、他人から褒められ、認められるものだった。
だから僕は必死に練習した。
「ギターが上手ければ、僕は誰かに必要とされる」「ギターが弾ける僕は生きていてもいいんだ」。
そう考えていたのだ。
だが、翌年の春にギターがとてつもなく上手い転校生がやってきて、
僕のアイデンティティは脆くも崩れ去ってしまった。

『新世紀エヴァンゲリオン』は、誰かに必要とされ、愛されることを願う14歳の少年たちが、
巨大ロボットに乗り込み「使徒」と呼ばれる謎の生物と戦うことで、自分の価値を探す物語だ。
ストーリーのあちこちにばら撒かれたミステリアスな謎や、
ディティールの細かいクールなメカ描写にも夢中になったが、
それ以上に僕は物語の主人公たちに自分自身を投影した。
特にエヴァに乗ることに意地とプライドの全てを賭けているアスカというキャラクターには、
ギターに存在価値を預けていた自分と重なり、観ていて胸が苦しかった。
『エヴァ』は紛れもなく“僕の物語”だった。

本放送、そして当時の完結編にあたる映画『Air/まごころを、君に』からおよそ10年。
エヴァンゲリオンが“ヱヴァンゲリヲン”と名を改めて再び制作されるという話を聞いたときには、
「なぜ今更?」と思った。
ブームを支えたかつての中高生たち(つまり僕たち)を当て込んだ、
多分に商業的な匂いのする試みにしか見えなかった。
何より、思春期が終わると同時にエヴァを“卒業”した身としては、
徒に当時の記憶を掘り起こされたくはなかった。


だがそれは杞憂に過ぎなかった。
結論から言うと、素晴らしい。
「素晴らしい」という言葉などでは足りないほど、本当に素晴らしい。
かつて10年前の旧エヴァンゲリオンは、全てこの新ヱヴァンゲリヲンのためにあったのではないか。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は単なるリメイクではない。
2年前に『序』を観た段階で、すでにその思いは強くあったのだが、
今回の『破』を観て、それは確信に変わった。

では「単なるリメイク」と一体何が異なるのか。
マリやヱヴァ6号機といった新たなキャラ、新たな設定の登場か。
「人類補完計画」の全貌が今度こそ明らかにされるという期待か。
はたまた、美しく生まれ変わった映像か。

いや、そうではない。
そんな些末なことはどうでもいいのだ。
新ヱヴァが紡ごうとしているもの、それは旧エヴァの時には希薄だった“生への意志”である。

例えばそれは、復元されたセカンドインパクト前の海の匂いを嗅いでシンジが言う
「本当の海って生臭いんですね」という言葉に対し、加持が言う台詞。
例えばそれは、「他人と話すのもそんなに悪くないって思った」というアスカの言葉に対し、ミサトが言う台詞。
本編では実にサラッと挿入されるこれらの台詞には、かつてのエヴァにはなかった、
世界を肯定しようとする前向きな思いが宿っている。

旧エヴァが14歳の少年たちの視点に座し、
他人の存在を、世界を受け入れようともがき苦しんだ結果、
ヒリヒリとした痛みと絶望に満ち満ちていたのに対し、
新ヱヴァには「確かに世界は汚濁と混沌だらけだけど、それでもきっとどこかに愛はあるよ。
世界は生きるに値する場所だよ」という力強いメッセージがこめられている。
まるで大人になった今の自分が、
「死んでもいいや」とばかり考えていた、少年(チルドレン)だったかつての自分に向けて、
救いの手を差し伸べているかのように、僕には思える。

少年から大人へ。
憎しみから愛へ。
10年の重みがここにある。
この変化は総監督庵野秀明の変化であり、そしてまた僕ら自身の変化でもある。
楽観的になったわけではない。
絶望を叫ぶよりも希望を語る方がはるかに痛みを伴うものだ。
僕らはただ、10年間を経て、その痛みに耐えようとする覚悟が強くなっただけだ。
しかし、だからこそ今、本気で誰かを愛し、
他人を受け入れみんなで生きていくことの大切さを共有したいと願っている。

『破』では、シンジはレイのために、レイはシンジのために、そしてアスカはシンジとレイのために行動する。
彼らがはっきりと他人のために行動を起こすのは、旧エヴァでは見られなかったことだ。
10年前も今も、3人は変わらずに14歳だ。
だが、彼らは「変化」している。
この変化はつまり、庵野秀明、そして僕らの10年を反映したものなのだ。

僕は一昨日映画を観たのだが、まだ熱にうなされているような状態が続いている。
ちょっとでも思い出せば涙が溢れてきてしまう。
気持ちは醒めるどころか、ますます加速して渦を巻いている感じだ。
実はあまりに興奮してしまい、昨日も劇団のメンバーと観に行ってしまった(ちなみに全員ともすでに2回目)。

客層はやはり同世代の20〜30代くらいが多いように見えた。
おそらく全員が、10年前からのファンなのだろう。
そしてみんなきっと、シンジやレイやアスカの変化を感じ、
そしてその変化を感じ取れるようになった自分自身の変化に気付き、
あれから過ごしてきた時間について思いを馳せているんじゃないだろうか。

『エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)』とは、僕らの世代にとっての貴重なアンセムだ。
10代半ばに、そして20代の終わりに再びエヴァに出会えたことはなんと幸せなことだろう。

テレビ本放送がスタートした1995年という20世紀末からこの21世紀初頭へ、
10年間で現実はどんどん行き詰まりを見せている。
だからこそ、ささやかな愛と優しさに満ちた作品として生まれ変わったヱヴァンゲリヲンには、
勇気をもらうことができる。

素晴らしい。
何度言っても足りない。
身体が震えるほど素晴らしい。


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』予告編

MICHAEL JACKSON 『BAD』

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最高の、そしておそらく最後の
「スーパースター」


マイケル・ジャクソンが亡くなってしまった。
本当にショックだ。
今年から世界ツアーを始めるというアナウンスが本人から発せられたばかりだっただけに、
余計に悲しい(最初のロンドン公演が急遽延期になるというお騒がせも相変わらずだった)。
兄思いの妹ジャネットは今何を思っているのだろうと考えると胸が痛い。

多分、僕が人生で最初に出会った洋楽アーティストは彼だ。
「多分」と書いたのは、本当に幼い頃なので記憶が曖昧なのだ。
小学校に上がったくらいだろうか、とにかくまだ10歳にもなってなかった頃のことだ。

僕は<BAD>が好きだった。
しかし歌詞の意味が理解できていたはずはない。
「“BAD”ってナアニ?」と親に聞いていたくらいだ。

じゃあ何が好きだったかと言えば、ダンスである。
僕はレコードではなくPVが好きだった。
廃ビルみたいな地下鉄の駅構内みたいな、
とにかく薄汚れた場所でマイケルとダンサーたちが踊りまくるアレである。
やたらと細かくて素早い動き、独創的な振付。とにかくあのダンスに夢中になった。
僕にとってマイケルは「聴く」ものではなく「観る」ものだったのだ。

なんだか僕が異様にマセていたように見えるが、
現在20代後半から30代前半くらいの人にとっては決して珍しいことじゃないはずだ。
当時の小学生は小学生なりに、マイケルに洗礼を受けたのである。



YouTubeでPVを見て改めて思う。
マイケルのダンスはやっぱりすごい。
何年か前に、あるセレモニーのステージでマイケルとN’SYNCが共演したのを観たことがあるけれど、
当時ボーイズ・グループのなかでは飛び抜けてダンスが上手かったN‘SYNCも、
マイケルの存在感には叶わなかった。

彼のダンスは他人にはコピーできない。
ただ、それは単純な肉体の修練度の差だけではないと思う。
彼のダンスはいわゆる「ダンス」というよりも、ビートと肉体が密接に絡みついた、
ある意味洗練されていない原初的な身体表現なのではないか。
マイケルのダンスは彼の感性の塊であり、
他人の声や顔を真似ることができないのと同じように
彼以外にあのダンスは生み出せないのである。


個人的な思い出をもう一つ。
僕は小学2年生の時にアメリカに引っ越して、現地の学校に転入した。
アメリカ社会というのは、とにかく自分から発言し、自分の意思を明確に相手に伝えることを要求される。
小学生であってもそれは同じで、
黙っていても近くの席同士でなんとなく友達になれる日本とはクラス事情が決定的に異なるのである。
だから“shy”である人間はアメリカでは疎まれる。
日本で「あいつはシャイだ」というと、ちょっとした愛嬌と親しみのこもった表現になるが、
アメリカでは相手をバカにした表現なのだ。

僕は明らかに“shy”な生徒だった。
日本語でさえ上手く話すことが苦手なのに、
言葉が通じない人間たちに囲まれればどうしたって“shy”になってしまう。
英語が徐々に話せるようになるまで、僕は“shy”であることにじっと耐えなければならなかった。
う〜ん、よく登校拒否にならなかったものだ。

で、ちょうどその頃のことなのだが、ある時テレビでマイケルのインタビューを観た。
マイケルの喋っている姿を見たことがある人はわかると思うんだけど、
彼はいつも恥ずかしそうにはにかみながら、ポツポツと小さな声で喋る。
そんな彼に対し、インタビュアーが「君はshyだね」と言ったのである。
それはバカにした言い方ではなく、とても好意的な一言だった。
ステージ上の姿とのギャップに親しみを覚えたのかもしれない。

ある人間が同性愛であることをカミングアウトして、
それが他の同性愛者に勇気を与えるように、と言ったら大げさなのはわかっている。
だが、僕はあのマイケル(とそのコメント)に、ちょっとだけ救われたような気持ちになったのだ。
「そうか、マイケルもshyなのか。マイケル・ジャクソンがshyなら、僕もshyでいいんじゃないか」と。
同じ「shy村」出身だと知って以来、僕はマイケルに対してなんとなく親近感を感じてきたのだった。


最後に作品について。
僕がマイケルの作品で好きなのは『オフ・ザ・ウォール』(‘79)からこの『BAD』(’87)までの3作だ。
すなわちクインシー・ジョーンズが関わった作品である。
マイケルとクインシーは二人三脚で、
ポップなディスコチューンでありながらもブラックな棘をさりげなくちりばめた、
素人にも玄人にも波及性のある楽曲を量産し、
スーパースター「マイケル・ジャクソン」の黄金期を作り上げた。
あえて3作の特徴を分ければ『オフ・ザ・ウォール』はスイート、『スリラー』はポップ、
そして『BAD』はワイルド、という感じだろうか。
個人的な思い入れから今回は『BAD』を挙げているけれど、この3枚全てが必聴盤である。








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THE STROKES 『IS THIS IT』

is this it
「さよなら20世紀」と告げた
原点回帰ロックンロール


 現代の洋楽ロック・シーンにおいて最重要バンドの一つに数えられるストロークス。この『IS THIS IT』は彼らのデビュー・アルバム。21世紀最初の年である2001年にリリースされ、まさにロックの“旧世紀”と“新世紀”の分水嶺となった象徴的な作品である。

 と言っても、彼らは別に新しいロックを発明したわけではない。むしろその逆で、楽器編成は2本のギターとベースとドラムだけ。その使われ方も実にシンプル且つオーソドックス。60年代のようなプリミティブなロックンロールの勢いとピュアネスがある。ストロークスは「王道」というイメージだ。ロックの初期衝動に忠実なサウンドが、前世紀の間に溜まった垢と虚飾を洗い流し、再びロックは裸一貫となって新世紀を歩み始めたのである。

 なんだか音楽ジャーナリズム的な物言いばかりでカユいのだけど、例えば80年代のビジュアル先行型のエンターテイメント的ロックが衰微し、それとは真逆の、暴力的で憂鬱な音が特徴のグランジが90年代初頭に台頭したように、ロックの流行り廃りは常に反動のようなもので起きる気がする。

 90年代は、ロックなのにラップを歌ってしまうミクスチャーをはじめ、斬新で奇抜な音楽的アイディアの百花繚乱的な10年間だったが、今振り返ればそれはグランジを最後にロックの手法というものが粗方出尽くしてしまった後に行われた、不毛な実験の繰り返しであったように見える。何より90年代はヒップホップやR&Bなどのブラック・ミュージックが、ロックに代わってポップ・カルチャーの主役であった。

 だからこそ、ストロークスの登場は必然だったのだ。ロックが再びロックとしての存在感を取り戻すには、原点回帰しかなかったのである。

 だがその一方で、もはや21世紀のロックには、前世紀に培われた手法の順列組み合わせしか期待できないのだろうか、とも思う。

 音楽的試行錯誤の果てにオーセンティックなストロークスが登場し、その後今日まで続くギター・ロックのムーヴメントを作ったように、2010年代になれば今度はテクノとロックの近未来的クロスオーヴァーが流行ったり、第2次パンクブームなんてのが来たりするのかもしれない。

 だがそれはロックがその歴史のなかですでに経験したことの繰り返しだ。その時その時で、常に時代とマッチした新しい表現を獲得し、同時に古くなったスタイルは脱ぎ捨てて、新陳代謝を繰り返しながらコンテンポラリーを保つことこそがロックがロックたる所以だ。21世紀にいつかロックが「クラシック音楽」と呼ばれる日が来るのかなと、なんとなく地味に心配になる。ま、そうなったとしても聴き続けるけど。


 ストロークスやホワイト・ストライプス、リバティーンズなどの登場で印象的且つとても嬉しかったのが、エレキギターが再び「カッコイイ楽器」になったことである。

 僕が熱心にギターを練習していた高校生の頃(90年代後半)、MTVを見ていると、どのビデオでもエレキギターは音が異常にぶ厚く加工されていて、弦楽器というよりもシンセサイザーの一種のようであり、おまけにやたらととんがったフォルムをしていたり、ゴテゴテしたペイントが塗られていたりして、まるで趣味の悪い装飾品か何かに見えた。今思えばそれはごく一部のギタリストに過ぎなかったのだろうけど、当時の僕は次第にエレキギターを練習するのが嫌になり、3年生の文化祭の時以外はずっとアコースティックギターを触っていた。

 だが、2000年代に入り、上に挙げたようなバンドたちが次々とエレキギター本来の色気を取り戻したのである。彼らのギターの音はワイルドで無造作で、プレイスタイルもほとんど突っ立ったままなのだが、その姿がロックとしての説得力に溢れていたのである。


<THE MODERN AGE>PV

<LAST NITE>を演奏するストロークス
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