linda
ロックミュージックはいつも
退屈な教室で産声をあげる


 僕は中学と高校でバンドをやったことがある。両方とも学校の文化祭のために組んだ、まあよくある話のバンドで、卒業後も定期的に活動をしようとかそういった話にはならず、今ではいい思い出である。だが、やっていた当時は思い出作りでもなんでもなくて、真剣そのものだった。

 中学生、高校生にとって「バンドをやる」ということは、小さな革命だ。「もしかしたらモテるかも」という、周囲に巻き起こる革命を妄想しつつ、しかし本当に革命だったのは、みんなで楽器を演奏するのはとてつもなく楽しい、という発見だった。もちろん演奏はヒドいし音は割れるし、客観的には惨たらしいのだけれど、放課後の教室でアンプのボリュームを全開にして演奏するというのは、おそらくこの世でもっとも興奮することなんじゃないかと思う。バンドという言葉を聞くと、僕は体育館のステージでも練習スタジオでもなく、放課後の教室が浮かぶのだ。

 そんな体験があるからだろう。バンドを題材にした作品には、映像にしろ活字にしろ、ものすごく感情移入する。少し前になるがハロルド作石のマンガ『BECK』は何度も読み返した。山下敦弘監督の『リンダリンダリンダ』(‘05)を観たのも、やはりバンド、しかも高校生のバンドが主人公だったからだ。


 文化祭の直前、ボーカルが抜けてライヴができなくなるピンチに瀕した女子高生3人は、たまたま目の前を通りかかった韓国人留学生を半ば強引にボーカルに誘い、数日後に迫った文化祭当日に向けて練習に励む。演奏するのは、ブルーハーツ。

 ・・・というあらすじは事前に知っていて、いわゆる青春映画のひとつだと勝手に思っていたのだが、実際はまったく違っていた。『リンダリンダリンダ』は歴とした“ロック”を描いた映画だったのだ。

 この映画は全編にわたり静かなタッチで進行する。無言のシーンが多く、台詞があってもボソボソと喋るだけだ。バンドメンバーである女子高生たちは、困難を乗り越えて盛り上がったり、感極まって泣いたりなどしない。

 僕は彼女たちを、ものすごくリアルだと思う。無気力だからリアルなのではない。感情の起伏が見えないのは、ただ退屈なだけだ。シーンの端々からひしひしと伝わる彼女たちの退屈が、とてもリアルなのだ。そしてその退屈が、彼女たちを<リンダリンダ>へと駆り立てる最大の、そして唯一のバックグラウンドだ。もちろん、画面はそのような動機も何も説明はしてくれない。だが伝わってくる。退屈は常にロックの源泉なのだ。

 映画の前半、バンドのギター担当である香椎由宇の台詞がとても印象的だった。本番数日前というのにボーカルを探している香椎由宇は、元メンバーの女の子に嫌味を言われる。「そんなことして何の意味があるの?」。香椎由宇はこう答える。「別に意味なんかない」。

 ただやりたいからやる。意味も見返りもいらない。こういう台詞はかっこいいけれど、現実の社会でそれを行動に移すには相当の勇気が必要だ。だが、ロックは全てを突き破る衝動である。意味も見返りもないけれど、でもそれ以上の興奮や自由や何かがあるから、人はロックに魅かれるのだ。

 そしてそのロックの精神を、シンプルな言葉と優しいメロディで教えてくれたのが、ブルーハーツ(現クロマニヨンズ)のヒロトとマーシーだった。だからこそ、この映画において彼らの作った歌は、ストーリー以上に、台詞以上に訴えかけるものがある。放課後の軽音部の部室で4人が演奏するヘタクソでグダグダの<僕の右手>は、間違いなく“ロック”だった。