僕の肩に乗るもの
新たな「日常」に向けて


 正岡子規の残した小説(というよりも書きなぐったメモという方が近いのだが)に『四百年後の東京』という作品がある。タイトル通り、未来の東京を描いたSF小説(?)なのだが、例えば400年後の御茶ノ水は日本一の歓楽街になっていて(なぜ御茶ノ水なのかはよくわからない)、地上よりもむしろアリの巣のように発達した地下街に飲み屋や娯楽施設が並んでいると書かれている。また、東京湾には大小何百もの船が停泊していて、中には青物船や洗濯船、蒸気風呂船、外科医船など船員たちを相手にした“生活サービス船”もあり、それらが行き交い海の上に一つの街を作っている、などとも書かれている。

 なんてことはない、子規の妄想をただ書きなぐったメモのような小品だ。だが、なんだか面白くて惹かれる。子規というと「俳句」だが、僕は彼の自由闊達な散文の方が好きだ。そして、彼の文章には深い日本への愛が感じられる。

 『四百年後の東京』にしても、今読めばそのイメージは決して目新しいものではないし、現実の東京は400年どころかわずか100年でこの小説の世界よりも発展した。だが、この小説には、日本土着の、なんともいえない、湿気混じりの猥雑な空気感がある。そして猥雑なくせにどこか品があるのだ。おそらくその品は、彼の綴る日本語のリズムの美しさが大いに関係していると僕は思っている。短文詩研究の第一人者だからなのか、散文の律動の美しさについても、品と色気があるのだ。

 この1ヶ月の間、何度となく思い出す言葉がある。
「国が滅ぶということは、その国の文化が滅ぶということだ。連綿と築かれてきた歴史が無に帰するということだ。それは絶対にあってはならないことなんだ」
 これは正岡子規の言葉である。と言っても、実際に本人が残した言葉ではない。一昨年から放送を続けているNHKドラマ『坂の上の雲』の台詞だ。日露開戦前夜、出征する秋山真之に向けて、病床の子規がこの台詞を口にする。

 正岡子規は俳句や和歌などの日本古来の定型詩に、自然主義的な方法論を持ち込んで、「描写」という新たなスタイルを作り上げた人物である。だが、彼自身が生涯のテーマとして掲げていたのは、単に句法を練り上げることではなく、日本の短文詩を研究することで、日本の文化そのものを捉え直すことにあった。日本が急速に近代化を遂げていく中で、産業や軍事力だけでなく、自国の文化も世界照準で考えていかなくてはならないと考えたところに、近代人・正岡子規の凄さがある。

 その子規が病床で、帝国ロシアとの国の存亡をかけた戦いに向かう真之に、ほとんど哀願するような勢いで言うのが上記の台詞である。子規を演じる香川照之の壮絶な演技と相まって、この台詞は脳裏に刻みつけられた。そしてこれは、子規と同じく「日本とは何か」をテーマに作品を書き続けた原作者・司馬遼太郎自身の思いでもあるように感じられた。この言葉が3月11日以来、何度となく頭に浮かぶ。

 今まで僕は、日本のことを、どちらかと言えば嫌いな方だったと思う。細かく言えば「嫌い」とハッキリ書くほどでもなく、「興味がない」「どうなってもいい」みたいな、取り立ててこれといった感情を抱くことすらない、突き放した感覚を持っていた。

 僕らの世代はバブルが弾けた後に思春期を迎え、日本全体に徐々に停滞感が漂ってきたのを肌に感じながら育った。「いい大学に入っていい会社に入って…」という従来のスタンダードは崩壊したものの、それに代わる新たな幸福のスタンダードは誰も見出せてはいなくて、将来について悩む僕らに対し、学校やマスコミは「やりたいことをやるのが一番」というあまりに無責任な言葉で突き放した。

 僕が10代の頃にブームになった松本大洋の『ピンポン』に、「人生は死ぬまでの暇潰し」という台詞が出てくる。日本がなんとなく年老いていく空気に侵されていく一方で、携帯やコンビニやインターネットなんかが急速に普及するという享楽的な雰囲気のなか、その『ピンポン』の台詞は強烈なリアリティがあった。日本という国に興味など、ましてや誇りなど、持ちようがなかったのだ。

 そのような鈍い退廃感の中で成人し、仕事をするようになり、そして、3月11日が来た。

 電車が止まり、物が無くなった。さらには放射能被爆するかもしれないという、予想だにしなかった恐怖に晒された。テレビやネットでは、次々と悲惨なニュースが流れた。自分の生まれた国が瀕死の重傷を負った姿を目にしながら、僕は初めて、自分が日本人であるという自覚を持った。

 それまでは、「日本」という国と「僕」という個人との間には、大きな隔たりがあった。もちろん、日本の社会保障制度なんかが自分の将来設計に少なからず影響を与える事実は認識していたし、選挙だって一応は毎回投票に足を運んできた。でも、例えば何らかの事情で急に外国籍を取ることになっても、僕は多分躊躇しなかったと思う。「日本」と「僕」との間に精神的なつながりはまるでなかった。

 だが、今回の震災で、日本という国の、その責任の一端を、僕も背負っているのだということを、俄かに知らされた。それまでは観客の一人だと思いこんでいたのに、いきなりスポットライトを浴びせられて、登場人物の一人になってしまったような気分だ。

 日本への情。それは僕の場合、日本の歴史や文化への愛情である。もちろん、今回の震災が、日露戦争のような国家そのものが滅びるような危機に晒されるわけでは(多分)ない。そういう意味では、上記の正岡子規の言葉がリフレインしている僕は、単なる誇大妄想の自意識過剰なのかもしれない。

 ただ、僕は初めて、自分が歴史の外にいるわけではなく、歴史の一部なのだと感じている。正岡子規や先人たちが受け継いできたものは、教科書や小説を通じて享受するものではなく、実際に僕の肩の上にも乗っているのだということを、ぼんやりと、だが確かに感じる。そうやって僕は、なんとなくではあるけれど、自分が日本人であることを感じているのだ。

 長かったような、あっという間だったような、時間感覚のおかしい1ヶ月だった。首都圏では電車のダイヤはほぼ元に戻り、コンビニの店頭にも徐々に品物が並び始めた。しかしその一方で、被災地では未だに行方がわからない人が1万人を超す。福島第一原発の事故も出口が見えない状態が続いている。放射線の検出量は基準値の周辺を行ったり来たりしている。

 そして、もはやテレビやネットを見なくても、日本が今危機的な状況にあることを身体が覚えてしまっている。東京に住む僕の生活は、一見震災前と変わらない。だが、身体の奥深くに根を張った危機感が、絶え間なく緊張を強いてくる。

 いつか原発の事故処理が終息し、放射能の脅威が去り、電力が復旧したとしても、決して“元通り”になどならないだろう。異常と正常の両極に引っ張られ、奇妙に捻じ曲げられた今のこの状態が、僕の新たな「日常」なのだという気がする。

 1ヶ月ぶりのブログである。正直、何を書いていいのかわからなくて、ずっと書けなかった。今もわからずに書いている。でも、混乱しながらでもいいから、「とりあえず」でもいいから、書いていかなきゃいけないと思っている。書くことで、考えていかなきゃいけないと思っている。