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『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』
村上春樹

(文藝春秋)



 僕が初めて読んだ村上春樹の小説は、『ねじまき鳥クロニクル』でした。たしか10代の終わり頃だったと思います。『ねじまき鳥』を最初に読んだというと、大体驚かれます。なんていうか、ビートルズで言えばいきなり『ホワイト・アルバム』から入る、みたいなものですから。しかし、これは狙ったものでもなんでもなくて、単に「実家の本棚にあったから読んでみた」という、ごく気軽なものでした。

 多くの読者と同じように、僕ももちろん、衝撃を受けました。「面白い!」という意味での衝撃ではなく、「わからん!」という混乱からくる、文字通りの衝撃でした。頭に焼き付いたのは強烈な性描写の多さと(ま、10代ですから)、あの皮剥ぎ人ボリスの場面。しかし、肝心の物語はというと、不可解すぎてまるで理解できませんでした。

 その後、デビュー作の『風の歌を聴け』から順を追って読んでいったのですが、正直、初めのうちは「村上春樹」というブランドへの憧れで読んでいたところが少なからずありました。しかし、それでも結局、一年か二年の間に長編も短編もエッセイもほぼ全作品を読んでしまったのは、やはり何か心に引っかかるところがあったからだと思います。ちょっとカッコつけた言い方をすれば、彼の作品には、当時の僕にとって何かしら大事なことが書かれているように思えていたのです。そのような予感が、しつこく僕を彼の作品世界へと導いたのでした。

 しかし、量を読んでもなお、「わからん!」という感覚は残りました。いくつか作品を読むことで、彼の作品に共通するコードのようなものが身に付くのではと考えていたのですが、いくら読んでも、むしろ読めば読むほど、物語の闇は深さを増しました。

 そうするうちに、僕は次第に「この物語は頭で理解するものではないのでは」と考えるようになりました。彼の小説には、不可解な出来事や意味深な台詞がたびたび登場します。その一つひとつの意味を解釈し、「正解」を解こうとする必要はないんじゃないかと思ったのです。なぜなら、なにも物語の謎が全て解けなくても、読み終えた時には必ず身体の中に何らかの強烈なイメージが残り、相変わらず彼の作品へと向かわせるあの「予感」めいたものが消えなかったからです。だったらそれでいいじゃないか。僕にとって彼の作品の面白さは、「理解できる」「できない」という範疇の外にあることに気付いたのです。

 先日、村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』を読みました。この本の中で、世の中に「村上春樹解読本」的なものが数多く出版されている風潮に対し、村上春樹自身は「虚しい」と語っていました。物語を、何でもかんでも整合性や意味付けに落とし込んで理解しようとするのは、一種のゲームです。頭の体操としてはそれなりに面白いかもしれませんが、「物語そのものを楽しむ」という点からすると、なんとなくそれは不毛ではないかと言うのです。

 では、整合性でも意味付けでもなく、トータルな世界として物語を楽しむために重要なのは何なのか。村上春樹はそれを「想像力」と答えます。

 「僕の物語では確かに不可解で脈絡のないような出来事が起きる。現実的な、物理的な観点からすれば、それらに整合性はない。しかし、肉体を離れ、自分が一つの想像力のカタマリになった時、どんな不思議な出来事も、それが真実であるということが、皮膚感覚でわかるのではないか」と、そのようなことを語っています。とても感覚的な話ですが、このイメージ自体が、まるで彼の小説のようで面白いですね。

 僕にとって村上春樹の小説は、冒険小説に似ています。彼の作品にはジャングルも深い海の底も宇宙も出てきませんが、そこには必ず不思議な体験があり、背筋の凍るような恐怖があり、何かへと向かう強い意志があります。それらは目に見えるものとは限らないし、特定の言葉で表せるものでもありません。しかし、確かに感じることができる。ページをめくるたびに、物語そのものに自分自身が溶けていくような感覚を味わいます。それは他の小説にはない感覚です。いわゆる冒険小説が未知の「場所」を旅するものだとすれば、村上春樹の小説は未知の「感覚」を旅するものと言えるかもしれません。「村上春樹の小説を読む」ということ自体が、僕にとっては冒険なのです。