震災のことについて書いてみようと思います。
と言っても、多分大したことは書けません。
誰かに向けてというよりも、
僕自身が震災のことを忘れないために、
あの日のことや、この1年間で感じたことを言葉に直してみようと思います。


3月11日は、僕は東京の八重洲のビルの中にいました。
今まで感じたことのない揺れに、「ついに来たか」と思いました。
僕は神奈川県の出身なので、子供の頃から東海地震の可能性を聞かされていました。
「遅かれ早かれ、いつかやって来る」と教えられてきた“その瞬間”が、
ついにやって来たんだと、一瞬、死を覚悟しました。
揺れが収まってまずやったことは、
両親に「とりあえず無事!」とメールを送ることでした。
「こういう時にはやっぱり家族のことを最初に考えるんだなあ」と、
妙に冷静に納得したのを覚えています。

18時頃まで八重洲にいたのですが、
電車が動く気配がなかったので、歩いて帰ることにしました。
(震度5程度で首都圏の電車が全部止まってしまったことにも驚きました)
板橋区にある僕の自宅までは、約20キロ。
革靴というハンデはあったものの、なんとか歩けるだろうと思っていました。
それに、その時点では東北であんなにひどいことが起きているとは知らなかったので、
「疲れるけど、明日は土曜日だしまあいいか」と、
わりと呑気に考えていました。

八重洲から東京駅の地下に入り、大手町まで抜けて、
内堀通りの手前で地上に出ました。
すると、目の前を信じられないくらい大勢の人がゾロゾロと列をなして歩いていました。
最初はそれが、歩いて帰る人の列だとはわかりませんでした。
日が落ちて薄暗い皇居の周りを、黙々と歩く人たち。
まだニュースも何もほとんど情報は手に入ってはいませんでしたが、
その異様な光景を目にして、
僕はようやく「とんでもない災害が起きたのかもしれない」と思いました。

内堀通りからは竹橋、九段下、飯田橋と、
東京メトロ東西線沿い(目白通り)を歩きました。
地震による天井の崩落で死亡事故が起きた九段会館には、
警察官と報道のカメラが集まっていました。
通り沿いがオフィス街ということもあり、歩いて帰宅する人たちがあちこちから合流し、
歩道はまるで縁日のように人でいっぱいでした。
飯田橋交差点の歩道橋では、渡りきるのに20分近くかかりました。

そのまま目白通り沿いを歩いて江戸川橋。
神田川を渡り、目白台、雑司ヶ谷へ。
この辺りはたまたま裏道を知っていたので混雑は避けられたのですが、
池袋の手前で明治通りに出ると、
渋谷・新宿方面から来た人たちの列に再び巻き込まれました。

池袋が自宅までのちょうど中間地点にあたるため、
どこかで一休みしようかと思ったのですが、
どの店もことごとく満席で、結局そのまま自宅まで歩き通しました。
自宅に着いたのは21時半過ぎ。
さすがに疲れ果てていたのですが、玄関を開けてみると、
家具や本やCDが文字通りひっくり返っていて、
腰を落ち着けるのにさらに1時間近くかかりました。

※自宅はこんなでした
写真 (478x640)


自宅に帰って、初めてまともにテレビのニュースを見ました。
もっとも、ニュースの情報もその夜はまだ混乱していたので、
「何が起きたのか、そしてこれから何が起きようとしているのか」という、
漠然とした不安と恐怖だけを感じたまま、
とりあえず(本当に“とりあえず”という感じで)眠りにつきました。



・・・ここまでが僕の「3月11日」です。

死を具体的に覚悟したのも、
家がめちゃくちゃになったのも、
真剣に「日本がヤバイ」と思ったのも、
生まれて初めてのことでした。
そのせいもあって、僕は今回の震災が「他人事」だとは思えません。
自分に関わりのあることだと、
自分自身の身の上に起きた出来事なのだと感じています。
(そういう意味では、阪神大震災は僕にとって「他人事」だったんです)

しかし、その一方で、僕はちゃんと生きているし、家も失っていない。
家族や友人たちも元気です。
津波で家族や家を失った人や、
原発事故の被害を受けた人たちとの間には、
大きな隔たりがあります。
その悲しみを、僕が引き受けることはできません。
現実は「他人事」です。

とても情けない話ですが、
多くの人が即座にボランティアや物資輸送などのアクションを取っていく中で、
僕はただ、「他人事という現実」を認め、
自分の無力さを受け入れることに必死でした。

「できることをやろう」と色んな人が言いました。
じゃあ、自分にとって「できること」って何だろうと考えました。

僕はとりあえず、「生きること」に決めました。

2011年3月17日のブログに、僕はこう書いていました。


ちゃんと食べてちゃんと寝て、満員電車に揺られて一生懸命働いて、
家庭を築いて子供を産んで育てて。
そういう風に毎日をただひたすら生きていくことが、とても大事なことだと思う。
僕たちが、それぞれの場所で、ピンチをはねのけ、
ささやかでもいいから幸せを掴もうとすること。
今いる場所がたとえ自分が望んだ場所じゃなくても、
一人ひとりが今日を一生懸命生きることでしか日本の復興は遂げられないし、
それこそが亡くなった方や今も避難所で暮らしている方たちに対する誠意だと、
自戒も込めて、僕は思う。



1年経った今でも、この気持ちは変わっていません。
東北の被災者の人たちのことを考えれば、
僕には絶望する権利なんかない。
だったら、少なくとも僕は毎日を淡々と生きていかなくちゃいけない。
後悔しないように、一生懸命生活を送らなくちゃいけない。
それが、僕にとっての「できること」なんだと思っているのです。

この決意が正しいのかどうか、未だに迷います。
ものすごくレベルの低い「できること」なんじゃないかと、自分でも思います。
でも、それ以外に今のところ答えが見つかりません。

僕は、震災のちょうど1か月前に30歳になりました。
20代の10年間、実は僕は、ほとんど毎日死ぬことばかり考えていました。
些細なことに傷ついてばかりいて本当にいつも辛くて、
楽しいことや嬉しいことには目を向けることができませんでした。
何度か遺書も書きました。実際に死のうとしたこともありました。
30歳を迎えたられたのは、ただ「死ななかっただけ」でした。

そこへ震災がやってきました。
津波の映像を見て、流されてしまった人たちとその家族のことを想像して、
原発事故で「日本に住めなくなるかもしれない」と危機感を抱いて、
僕は初めて真剣に、「死にたい」と考えてばかりいた自分を恥じたのです。

・・・情けない話です。
とてもレベルの低い話だと思います。
「結局何も行動していない」と言われれば、認めるしかない。

でも、やっぱり正直に書くことが最低限の誠意だと思うから、
不謹慎だと思われるかもしれないけど、書きました。

僕は、震災によって「生きよう」と思った。
これが、僕が1年経って感じてる、今の正直な気持ちです。



さて、また明日から頑張ります!

sassybestcatをフォローしましょう