現実に「寄り添う」のか
現実を「忘れさせる」のか


NHKの朝ドラ『純と愛』が先週土曜日に最終回を迎えました。
放送中から賛否両論の激しいドラマでしたが、
最終回の終わり方については、
ネットを中心にものすごいたくさんの批判・バッシングが巻き起こりました。

見終わった直後は僕も唖然としました。
「え?これで終わり??」と。
最後の最後まで主人公の純ちゃんは残酷な現実から抜け出せないまま、
ハッピーエンドとはほど遠い結末に、
半年間見続けたことが全て徒労に終わったような、
そんなやるせない気持ちを感じました。

「これじゃ視聴者が怒るのもムリないよなあ」とネットの意見に同意する一方で、
しかし、もし僕がこの物語の脚本を書いていたらどうしただろうかと、
考え込まざるをえない部分もありました。
というのも、好きか嫌いかという感情は別として、
『純と愛』の最終回は、「『物語』をどういう態度で作るか」という、
個人的にすごく重要な問題を突きつけてきたからでした。
うまく書けるかどうかわからないのですが、
この数日間考えたことを備忘録として書き残してみたいと思います。



多分、最終回の最大の焦点は、
「果たして愛くんは目覚めるのかどうか」だったと思います。

勤めていたホテルが外資に乗っ取られたり、
再就職した民宿が火事で全焼したり、
お母さんが若年性アルツハイマーにかかってしまったり、
さらに、それが遠因となってお父さんが亡くなったりと、
半年間の放送のあいだ、主人公の純ちゃんの身にはとんでもない災難と不幸が降り続きました。
そして訪れた、「最愛の人が植物状態になる」という、
最後にして最大の悲劇。

「脳に腫瘍ができたんだから、そう簡単には目覚めないだろう」と冷静に予想する一方で、
「ここまでずっとかわいそうな目にあってきたんだから、
最後に一つくらい奇跡が起きてもいいだろう」という期待もありました。
じゃなきゃあ、あんまりだろうと。
王子様のキスでお姫様が目を覚ますという『ねむり姫』の絵本が、
物語の中でずっとキーになってきたという伏線も、
奇跡を期待する根拠でした。

しかし結局、愛くんは目覚めませんでした。

『純と愛』が、半年間かけてたどり着いた着地点。
それは、『ねむり姫』のような愛の奇跡などではなく、
最終回の、あの5分にも及ぶ純のモノローグで語られた、
「どんな過酷な運命に見舞われても、私は前を向いて生きていく」という、
悲壮なまでの決意だったのです。
確かに、じりじりと這い上るようにして純ちゃんがその決意に至った直後に、
愛くんがやすやすと目覚める場面を描いてしまったら、物語は台無しだったでしょう。

明確な救いもなく、明るい予感さえもなく、あるのはただ強烈な意志のみ。
そこにカタルシスはありません。
ありませんが、納得はできます。それも深いところで。
だって、「キスをすれば最愛の人が目を覚ます」なんていう奇跡が、
現実の人生には起きうるはずがないことを、僕らは知っています。

悲観論とは違います。
ニュースをつければ、いじめられていることを誰にも打ち明けられずに自殺したり、
わけも分からずに通り魔に刺し殺されたりすることは、
ごくありふれた日常として、すぐそこに現実として存在します。
ましてや、つい2年前に、2万人もの人の命とその人たちの生きていた日常が、
まったく唐突に失われるという巨大な絶望を目の当たりにした今、
「どんなに救いがなくても、私は生きていくんだ」というメッセージは、
なんというのでしょう、「それしかないよなあ」と諦めにも似た深い納得感を感じるのです。
『純と愛』は、視聴者にカタルシスを与えなかったのではなく、
「与えられなかった」のだと思います。
突き放すような結末のつけ方は、
あの物語がどこまでも現実にコミットしようとした結果なんじゃないかという気がするのです。



しかし……、
その一方で、こうも思うのです。
「物語は『物語』でいいじゃないか」と。

今回、ネットの感想を見ていて、僕が気になったのは、
「(『純と愛』は)朝から辛い気分になるからイヤだった」という意見がけっこう多いことでした。

「いかに現実が残酷か」ということを、わざわざ物語に教わるまでもない。
そんなことはもう十分わかってるから、
せめて朝の15分くらいは、それを忘れるくらい楽しい気持ちにさせてほしい――。

物語に束の間の「ブレイク」を期待する気持ちは、よくわかります。
というか、ぶっちゃけた話、現実にコミットしたシリアスな話よりも、
底抜けにバカなコメディを見て大笑いした方が、
明日を生きる活力が湧いてきたりするものです。

愛くんが目覚めないことに納得する一方で、
純のキスで愛くんがパッと目覚めるお気楽なハッピーエンドを見て、
「そりゃねえよ〜!」とテレビに向かって突っ込みたいという、
そんな真逆の欲求も僕の中にはあるのです。
そして、物語を作ることを考えたときに、
理屈に合わないそういう欲求は、決して否定すべきじゃないとも思うのです。

現実に「寄り添う」のか、現実を「忘れさせる」のか。
もちろん、これはあまりに極端な二元論であり、
物語を作るにはどちらか片方を選ばなきゃいけない、というわけではありません。
両方を同時に兼ね備えた優れた物語というのも、世の中にはたくさんあります。
完璧に寄り添うのも、完璧に忘れさせるのも幻想で、
要は作り手のバランス感覚なんじゃないかとも思います。

ただ、あえていえば、現時点での僕は後者の立場を取ります。
つまり、僕がもし『純と愛』の脚本を書いていたら、
なんとかして愛くんを目覚めさせるか、
もしくは全く別の展開を用意して、
強引にでも明るい予感を残して物語を終わらせたと思います。

僕は12年間、劇団で戯曲を書いてきましたが、
はじめの6年間は、実は圧倒的に前者の立場でした。
当時(20代前半)の僕にはまだ、
底抜けに明るいコメディを作ることが、現実から目をそむけているようにしか考えられなかったのです。
逆にいえば、ニュースも新聞もネットの掲示板も友人の噂話も、
あらゆる現実を取り込んでそこに切り込むことだけが「物語をつくる」ということなんだと、
当時の僕は思っていたのです。
だから(というのも変ですが)、最初の頃は悲惨で苦しい物語ばかり作ってました。

それが6年間続いた後に、僕は一気に方向転換して、コメディばかり書くようになりました。
その時期は、ちょうど僕やメンバーが社会に出た時期に重なります。
仕事でしんどい思いをしたり、病気をしたり、壮絶な離婚をした友人の話を見たり聞いたりするうちに、
自然と「笑える話」を求めるようになったんだと思います。

ある意味では、現実逃避的な心理だったのかもしれません。
しかし、言い換えればそれは(今にして思えば)、
僕が頭の中でこねくり回した「観念的な悲劇の物語」などよりも、
目の前の現実の方がはるかに複雑でシビアであることを、
身をもって体験したのだと思います。
だから僕は、観念よりも肉体(=ワッハッハと笑うこと)を重視するようになったのです。

だけど、そうは言っても、『純と愛』の最終回で描かれたような、
ああいうミもフタもないようなストレートなメッセージというのも捨てがたい。
捨てがたいというか、やっぱりあそこまで突き詰めていく姿勢が、
物語を作る基本だろうと今でも僕は思っているのです。

ただ、もしできるなら、僕はそれを笑いのオブラートに包んだり、
スカッとするようなカタルシスを担保にした上で、
ああいうストレートなメッセージを成立させたいなあと思います。
…ま、言うのはタダですから(笑)。





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