f8a2c

無数の命を吸い取った
「奈良の大仏」造立の物語


奈良の大仏さまの高さ(座高)は14.98メートル。
スカイツリーやヒルズを見慣れた目には、
造られた当時の人びとの感覚を想像するのは難しいですが、
それでもやはりいざ東大寺の大仏殿に入り大仏さまを目の前にすると、
「うおおお〜…」と圧倒されてしまいます。

大仏さまと大仏殿が完成し、開眼供養が行われたのは752年。
聖武天皇が大仏造立の詔を出したのが743年(建築が始まったのは745年)ですから、
工事は10年近くにも及んだことになります。
その間に動員されたのは、なんとのべ260万人。
まさに、当時の一大国家事業でした。


この、奈良の大仏造立をテーマに描いた小説が、
帚木蓬生(ははきぎほうせい)が書いた『国銅』(こくどう)です。
寝る間も惜しんでかじりつくように一気読みしました。
「読み終えるのがもったいない!」と感じたのは久しぶり。
つい最近読み終えたから印象が新鮮であるという点を差し引いても、
今年読んだ小説の中では一番かもしれません。

まず、舞台が奈良時代というところがマニアックというか、ニクイです。
日本人一般の歴史観って(特に根拠はないんですが)せいぜい平安時代くらいまでで、
奈良時代になると一気にボヤッとするところがないでしょうか。
感覚的にはほとんど「古代」というか、どこか外国の歴史を聞いているようにすら感じます。
そんなおとぎ話的な時代について、想像力の扉を開いてくれるという点を、
この作品の素晴らしさとしてまずは挙げなければならないでしょう。

とはいえ、戦国や幕末に比べれば圧倒的に少ないものの、
奈良時代について書かれた小説はこれまでにもありました。
しかし、その多くは皇族や貴族など、権力者の目線で語られたものでした。
『国銅』の面白いところは、主人公が権力者ではなく、
奈良の大仏造立に従事した名も無き人足(=現場作業者)であるという点です。

主人公の名は、国人(くにと)。
国人は物心ついたときから長門(現在の山口県)の銅山・奈良登りで、
一日に何度も重たい璞石(はく=銅の含まれた石)を背負って狭い坑道を行き来するという、
過酷な労働に従事していました。
大仏造立の詔が出され、全国有数の銅山である奈良登りでは、
大仏の表面を鋳造する銅を産出するため、何人もの人足が昼夜となく働いていたのです。
懸命に働く国人は、長ずるにつれ璞石から銅を精製する鍛冶場の仕事を覚え、
やがては奈良の都へ行き、大仏建造に直接従事する仕事に就くことになります。
物語は、国人の少年時代から、都へ行き大仏の完成を見届け、
やがて再び故郷の長門へ帰ってくる青年時代までのおよそ10年の歳月を描いています。

この小説には国人をはじめ、何人もの人足たちが登場します。
しかし、国人の兄・広国をはじめそのほとんどが、
過酷な仕事の中でケガをしたり病気をしたりして命を落としてしまいます。
前述のように、大仏造立に関わった人はのべ260万人といわれていますが、
果たしてそのうち何割が最後まで仕事を全うできたのかわかりません。
大仏は、まさにそうした無数の命を吸い取るようにして完成したといえます。
冒頭、「国家事業」と書きましたが、
それは時の最高権力者が直接号令を下したからというわけではなく、
国中から国人のような人々が集められ、
彼ら一人ひとりの人生の上に大仏が造られているという「重さ」にあります。

大仏は、木で骨組みを作りそれを土で塗り固めて形を整えた後、
それを「型」にして銅で鋳造されて完成します。
最終的には表面は金箔が塗られ、光り輝く黄金の仏像になるのですが、
しかし国人は、金の大仏よりも銅の大仏の方がいい、と語ります。
それは、自分や仲間たちの生きた証を、銅の放つ鈍い赤光の中にこそ感じたからでした。

国人は仕事は一切手を抜かず一生懸命働き、休みの日には病人のために薬草探しに奔走し、
読んでいて風に洗われるかのような見事な好青年なのですが、
何より彼のユニークなところは、奈良登り時代に僧・景信から「文字」を習ったことでした。
彼は独学で本を読み、都では詩を書くようになります。
仏の教えについて、都の生活について、仲間との別れについて、
国人は木の枝で砂に文字を書きながら、さまざまな感情を誰に読ませるでもなく詩に綴るのです。
その豊かな感受性は、過酷な労働の中で彼自身を大いに支えてくれることになります。
それ自体は余技、あるいは鑑賞物に過ぎない文化や芸術が、
生活者の心と呼応すると、現実に意味づけをし、
それまでとはまるで違う物の見方や価値観を宿してくれる。
この「芸術と現実」「アートと生活」ということについてさらりと、しかし明快かつ深く触れているところは、
奈良の大仏とはまるで関係のないテーマながらも、この小説の非常に重要な読みどころになっています。

国人はその豊かな感性で、大仏という存在に、その大仏を覆う銅の鈍色の光の中に、
亡くなっていった者たちの生きた証を見出したのです。
しかし同時に彼の胸に去来したのは、
命をまるで使い捨てるようにして造られたこの巨大な建造物に対する、やるかたない空しさでした。
その光と影の両方とを感じさせる哀しいラストを読み終えた瞬間、
『国銅』というタイトルの重みが、衝撃となって全身を震わせます。








sassybestcatをフォローしましょう
ランキング参加中!
↓↓よろしければクリックをお願いします

にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ