前回の続きです。
ハリウッドによるリメイク版の公開で世界的に注目を集めているゴジラですが、
「ところで本家の日本ゴジラはどうなってんの?」という話。
アメリカで公開第一週No.1を獲得し、早くも続編の制作が決まったハリウッド版に比べると、
「オワコン感」が漂う日本のゴジラは、果たしてこれからどうなるんだという危惧から、
前回はゴジラシリーズの最大の分岐点「平成シリーズ」の、前半4作を振り返りました。
→ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その1
今回は『ゴジラVSメカゴジラ』以降の、平成シリーズの迷走と終焉について書きます。
『ゴジラVSメカゴジラ』(1993年)

この作品が画期的だったのは、
メカゴジラという、人類が作り上げたロボットがゴジラの敵であること。
つまり、長らくゴジラと敵怪獣の戦いの傍観者であった「人間」が、
初めて堂々とメインの相手役を務めた点にあります。
僕はこの『VSメカゴジラ』で平成シリーズは終わりにすべきだったと思っています。
ゴジラの最後の敵役が人間、というのは終わり方としても美しかった。
実は、当初は東宝もこの作品でシリーズを一度終わらせるつもりだったようです。
実際、この映画の当初のメインコピーは「この戦いで、全てが終わる」でした。
そして、全身武器のメカゴジラのオールレンジ攻撃や、ゴジラが最後に繰り出す赤い熱線など、
映像としても『VSキングギドラ』以降の「光線偏重」「ゴジラ最強」路線の完成形でした。
当時僕は映画館で「もうこれ以上はないだろう」と感じたのを覚えています。
そしてもう一つ、この作品でシリーズを終わらせるべきだった理由があります。
それは、同じ年の夏に公開された『ジュラシックパーク』です。
この映画ほど、ハリウッドと日本の特撮映画の力の差を見せつけた作品はありませんでした。
『ターミネーター2』も圧倒的でしたが、
まだあの映画は「アンドロイドだから(怪獣じゃないから)」という言い訳が立ちました。
しかし『ジュラシックパーク』は、恐竜と怪獣という設定の違いがあるとはいえ、
「巨大な生き物が人間を襲う」という作品主旨で言えばゴジラと同じでした。
そして、本当に恐竜が生きて動いているかのような『ジュラシックパーク』の映像の迫力は、
ゴジラとは天と地ほどの差がありました。
日本の観客も東宝のスタッフも、あの映画によって完膚なきまでに叩き伏せられたのです。
だから、しつこいようですが、『VSメカゴジラ』で平成シリーズは終わらせるべきだったのです。
『ジュラシックパーク』への「負け試合」として、勇退の花道としてあげるべきだった。
ところが、相変わらず興業的にはヒットしていたために、
シリーズは「望まぬ延命」という運命を歩むことになるのです。
※一説には、ローランド・エメリッヒ版『GODZILLA』の公開とバッティングしないため、
シリーズを打ち切る予定だったのが、同作の制作が延びたためにやむなくシリーズが
続けられることになった、とも言われています。
その結果、『VSスペースゴジラ』という、全くの蛇足の作品を生み出す羽目になり、
そしてついには『VSデストロイア』という全シリーズ史上最大の悲劇を生み出すことになるのです。
『ゴジラVSスペースゴジラ』(94年)

平成シリーズ全7作品の中で、最低の作品がこの『VSスペースゴジラ』です。
スペースゴジラという全く魅力のない敵怪獣(大体ネーミングが安易すぎます)。
リトルゴジラという、前作『VSメカゴジラ』でのベビーの物語をぶち壊すような最悪のキャラ。
設定は新たにしたのに名前とデザインだけは引き継いだといういびつさの犠牲者、モゲラ。
そして、三枝未希のラブストーリーという、誰一人として望んでいない要素を入れた謎の脚本。
枚挙にいとまがありません。
出来の悪さは、後のミレニアムシリーズに匹敵します。
リトルというキャラクターやモスラのゲスト出演などを考えると、
ファミリー路線でヒットした『VSモスラ』の二匹目のドジョウを釣ろうとしたのか、
「スペースゴジラ」という安易なネーミングや、モゲラの合体ロボという設定は、
低年齢層の男の子狙いだったのか。
はたまた、三枝未希と新城、千夏と結城という2つのラブストーリー(もどき)は、
(僕は未だにこの作品で柄本明が出演したことがもったいなくて仕方ありません)
旧来のファンに向けた「新たなゴジラ映画」という挑戦だったのか。
全てが意味不明です。
かつては栄華を極めた業界のリーディングブランドであったゴジラが、
その地位を守ろうとして四方八方に手を伸ばした挙句、
それらがどれも顧客のニーズに合っていなかったというのは、
SONYやSHARPといった大手家電メーカーの凋落ととても似ています。
ついでに言えば、この翌年に「平成ガメラシリーズ」という、
若いスタッフの手による傑作特撮映画が始まることも、
新興企業に飲みこまれた老舗企業、という風にも見えます。
いずれにせよ、『VSスペースゴジラ』は既存の顧客をガッカリさせるのに、
そして東宝に、今度こそ本当にシリーズを終わらせることを決意させるのに、
十分すぎるほどのひどい作品でした。
僕自身もこの映画を見て「あ、ここまでだな」と、
それまでの情熱が急速に冷めていったのをはっきりと覚えています。
『ゴジラVSデストロイア』(95年)

84年『ゴジラ』から始まった平成シリーズは、11年後の『VSデストロイア』で、
「ゴジラが死ぬ」という結末とともに幕を閉じます。
ゴジラはこの映画で、最期の瞬間の姿をスクリーンに晒して死んでいきます。
ゴジラが死ぬ姿をはっきりと見せるのは、
全シリーズを通じて、第1作『ゴジラ』とこの作品だけです。
ただ、第1作ではあくまで物語の「ケリ」(平たく言えばオチ)としての死でしたが、
この作品では、既にキャラクターとして、
それも不死身の怪獣として定着していたゴジラが死ぬわけですから、
「死」そのものの意味合いやインパクトは第1作とは異なります。
そのため、『VSデストロイア』というタイトルではあるものの、
本作では敵怪獣との対決以上に「ゴジラの死」自体がテーマとなり、
物語もその一点に向けて進んでいくという、かつてないほど重たいものになりました。
作品の出来は素晴らしかったと思います。
オキシジェン・デストロイヤーや山根恵美子(河内桃子)の再登場といった第1作との連関や、
デストロイアが進化していく際のサスペンス的なタッチなど、
久々にスタッフに名を連ねた大森一樹の脚本が非常に良かったし、
久々に肉弾戦が豊富だったゴジラとデストロイアの戦闘シーンや、
ゴジラのジュニアに対する悲しみやデストロイアに向けた怒りなど、
怪獣の「感情」が見える特撮シーンも素晴らしかった。
また、エンドロールでテーマ曲から『キンゴジ』のファロ島の音楽に流れ込むというあの展開には、
伊福部昭のラスト!という気合いを感じました。
作品全体から、「ゴジラの最後の花道を飾ろう」という愛が見えるようでした。
僕自身にとっても、この作品がゴジラに対する情熱の大きな区切りとなり、
「劇場でゴジラを見るのはこれが最後だろう」という気持ちで映画館に足を運びました。
そして、三枝未希の「これで私の仕事は終わった」という台詞に涙を流しました。
このように、「ゴジラの死」というのは一種のイベントではありました。
しかし見方を変えれば、
シリーズとしての役割、キャラクターとしての役割は既に終えていたにもかかわらず、
『VSメカゴジラ』で終われずに延命措置を取られてしまった結果、
ゴジラには「死ぬ」という幕引きしか残されていなかったと見ることもできます。
この作品は、「ゴジラが死んでしまう」という物語上の悲劇と同時に、
制作陣と観客とがゴジラを殺したという、二重の悲劇を含んでいるのです。
だからやはり、この作品は全シリーズ史上最も悲しい作品であると僕は思います。
ここまで平成シリーズの11年に及ぶ歩みを振り返ってきました。
前回の冒頭で書いたように、僕はこの平成シリーズについて、
「偉大で無謀なチャレンジャー」だったと見ています。
成果はどうあれ、どの作品においても試行錯誤やチャレンジがあったし、
そしてその先には「ハリウッド」という目標を(意識的にも無意識的にも)見据えていました。
問題は、その高い目標に対して、技術も予算も足りないにもかかわらず、
真っ向から勝負を挑んでしまったことでした。
言ってみれば、根本的な戦略ミスだったわけです。
日本のゴジラには日本のゴジラなりのストロングポイントがあり、それに見合った戦略があるはず。
だからこそ、「無謀なチャレンジャー」だった平成シリーズを振り返ることは、
意味があるだろうと思うのです。
なぜそのような見直しや総括をせずに、
わずか4年のブランクだけでミレニアムシリーズを始めたのか、
返す返すも無念でなりません。
では、「日本のゴジラに合った戦略」とは一体何なのか。
次回はそのことについて書いてみます。
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ハリウッドによるリメイク版の公開で世界的に注目を集めているゴジラですが、
「ところで本家の日本ゴジラはどうなってんの?」という話。
アメリカで公開第一週No.1を獲得し、早くも続編の制作が決まったハリウッド版に比べると、
「オワコン感」が漂う日本のゴジラは、果たしてこれからどうなるんだという危惧から、
前回はゴジラシリーズの最大の分岐点「平成シリーズ」の、前半4作を振り返りました。
→ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その1
今回は『ゴジラVSメカゴジラ』以降の、平成シリーズの迷走と終焉について書きます。
『ゴジラVSメカゴジラ』(1993年)

この作品が画期的だったのは、
メカゴジラという、人類が作り上げたロボットがゴジラの敵であること。
つまり、長らくゴジラと敵怪獣の戦いの傍観者であった「人間」が、
初めて堂々とメインの相手役を務めた点にあります。
僕はこの『VSメカゴジラ』で平成シリーズは終わりにすべきだったと思っています。
ゴジラの最後の敵役が人間、というのは終わり方としても美しかった。
実は、当初は東宝もこの作品でシリーズを一度終わらせるつもりだったようです。
実際、この映画の当初のメインコピーは「この戦いで、全てが終わる」でした。
そして、全身武器のメカゴジラのオールレンジ攻撃や、ゴジラが最後に繰り出す赤い熱線など、
映像としても『VSキングギドラ』以降の「光線偏重」「ゴジラ最強」路線の完成形でした。
当時僕は映画館で「もうこれ以上はないだろう」と感じたのを覚えています。
そしてもう一つ、この作品でシリーズを終わらせるべきだった理由があります。
それは、同じ年の夏に公開された『ジュラシックパーク』です。
この映画ほど、ハリウッドと日本の特撮映画の力の差を見せつけた作品はありませんでした。
『ターミネーター2』も圧倒的でしたが、
まだあの映画は「アンドロイドだから(怪獣じゃないから)」という言い訳が立ちました。
しかし『ジュラシックパーク』は、恐竜と怪獣という設定の違いがあるとはいえ、
「巨大な生き物が人間を襲う」という作品主旨で言えばゴジラと同じでした。
そして、本当に恐竜が生きて動いているかのような『ジュラシックパーク』の映像の迫力は、
ゴジラとは天と地ほどの差がありました。
日本の観客も東宝のスタッフも、あの映画によって完膚なきまでに叩き伏せられたのです。
だから、しつこいようですが、『VSメカゴジラ』で平成シリーズは終わらせるべきだったのです。
『ジュラシックパーク』への「負け試合」として、勇退の花道としてあげるべきだった。
ところが、相変わらず興業的にはヒットしていたために、
シリーズは「望まぬ延命」という運命を歩むことになるのです。
※一説には、ローランド・エメリッヒ版『GODZILLA』の公開とバッティングしないため、
シリーズを打ち切る予定だったのが、同作の制作が延びたためにやむなくシリーズが
続けられることになった、とも言われています。
その結果、『VSスペースゴジラ』という、全くの蛇足の作品を生み出す羽目になり、
そしてついには『VSデストロイア』という全シリーズ史上最大の悲劇を生み出すことになるのです。
『ゴジラVSスペースゴジラ』(94年)

平成シリーズ全7作品の中で、最低の作品がこの『VSスペースゴジラ』です。
スペースゴジラという全く魅力のない敵怪獣(大体ネーミングが安易すぎます)。
リトルゴジラという、前作『VSメカゴジラ』でのベビーの物語をぶち壊すような最悪のキャラ。
設定は新たにしたのに名前とデザインだけは引き継いだといういびつさの犠牲者、モゲラ。
そして、三枝未希のラブストーリーという、誰一人として望んでいない要素を入れた謎の脚本。
枚挙にいとまがありません。
出来の悪さは、後のミレニアムシリーズに匹敵します。
リトルというキャラクターやモスラのゲスト出演などを考えると、
ファミリー路線でヒットした『VSモスラ』の二匹目のドジョウを釣ろうとしたのか、
「スペースゴジラ」という安易なネーミングや、モゲラの合体ロボという設定は、
低年齢層の男の子狙いだったのか。
はたまた、三枝未希と新城、千夏と結城という2つのラブストーリー(もどき)は、
(僕は未だにこの作品で柄本明が出演したことがもったいなくて仕方ありません)
旧来のファンに向けた「新たなゴジラ映画」という挑戦だったのか。
全てが意味不明です。
かつては栄華を極めた業界のリーディングブランドであったゴジラが、
その地位を守ろうとして四方八方に手を伸ばした挙句、
それらがどれも顧客のニーズに合っていなかったというのは、
SONYやSHARPといった大手家電メーカーの凋落ととても似ています。
ついでに言えば、この翌年に「平成ガメラシリーズ」という、
若いスタッフの手による傑作特撮映画が始まることも、
新興企業に飲みこまれた老舗企業、という風にも見えます。
いずれにせよ、『VSスペースゴジラ』は既存の顧客をガッカリさせるのに、
そして東宝に、今度こそ本当にシリーズを終わらせることを決意させるのに、
十分すぎるほどのひどい作品でした。
僕自身もこの映画を見て「あ、ここまでだな」と、
それまでの情熱が急速に冷めていったのをはっきりと覚えています。
『ゴジラVSデストロイア』(95年)

84年『ゴジラ』から始まった平成シリーズは、11年後の『VSデストロイア』で、
「ゴジラが死ぬ」という結末とともに幕を閉じます。
ゴジラはこの映画で、最期の瞬間の姿をスクリーンに晒して死んでいきます。
ゴジラが死ぬ姿をはっきりと見せるのは、
全シリーズを通じて、第1作『ゴジラ』とこの作品だけです。
ただ、第1作ではあくまで物語の「ケリ」(平たく言えばオチ)としての死でしたが、
この作品では、既にキャラクターとして、
それも不死身の怪獣として定着していたゴジラが死ぬわけですから、
「死」そのものの意味合いやインパクトは第1作とは異なります。
そのため、『VSデストロイア』というタイトルではあるものの、
本作では敵怪獣との対決以上に「ゴジラの死」自体がテーマとなり、
物語もその一点に向けて進んでいくという、かつてないほど重たいものになりました。
作品の出来は素晴らしかったと思います。
オキシジェン・デストロイヤーや山根恵美子(河内桃子)の再登場といった第1作との連関や、
デストロイアが進化していく際のサスペンス的なタッチなど、
久々にスタッフに名を連ねた大森一樹の脚本が非常に良かったし、
久々に肉弾戦が豊富だったゴジラとデストロイアの戦闘シーンや、
ゴジラのジュニアに対する悲しみやデストロイアに向けた怒りなど、
怪獣の「感情」が見える特撮シーンも素晴らしかった。
また、エンドロールでテーマ曲から『キンゴジ』のファロ島の音楽に流れ込むというあの展開には、
伊福部昭のラスト!という気合いを感じました。
作品全体から、「ゴジラの最後の花道を飾ろう」という愛が見えるようでした。
僕自身にとっても、この作品がゴジラに対する情熱の大きな区切りとなり、
「劇場でゴジラを見るのはこれが最後だろう」という気持ちで映画館に足を運びました。
そして、三枝未希の「これで私の仕事は終わった」という台詞に涙を流しました。
このように、「ゴジラの死」というのは一種のイベントではありました。
しかし見方を変えれば、
シリーズとしての役割、キャラクターとしての役割は既に終えていたにもかかわらず、
『VSメカゴジラ』で終われずに延命措置を取られてしまった結果、
ゴジラには「死ぬ」という幕引きしか残されていなかったと見ることもできます。
この作品は、「ゴジラが死んでしまう」という物語上の悲劇と同時に、
制作陣と観客とがゴジラを殺したという、二重の悲劇を含んでいるのです。
だからやはり、この作品は全シリーズ史上最も悲しい作品であると僕は思います。
ここまで平成シリーズの11年に及ぶ歩みを振り返ってきました。
前回の冒頭で書いたように、僕はこの平成シリーズについて、
「偉大で無謀なチャレンジャー」だったと見ています。
成果はどうあれ、どの作品においても試行錯誤やチャレンジがあったし、
そしてその先には「ハリウッド」という目標を(意識的にも無意識的にも)見据えていました。
問題は、その高い目標に対して、技術も予算も足りないにもかかわらず、
真っ向から勝負を挑んでしまったことでした。
言ってみれば、根本的な戦略ミスだったわけです。
日本のゴジラには日本のゴジラなりのストロングポイントがあり、それに見合った戦略があるはず。
だからこそ、「無謀なチャレンジャー」だった平成シリーズを振り返ることは、
意味があるだろうと思うのです。
なぜそのような見直しや総括をせずに、
わずか4年のブランクだけでミレニアムシリーズを始めたのか、
返す返すも無念でなりません。
では、「日本のゴジラに合った戦略」とは一体何なのか。
次回はそのことについて書いてみます。
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まずキャラクターの魅力ですが、築き上げた「ゴジラ」のブランドに、宇宙怪獣と珪素生物?の綺羅星のような要素をプラスして今までに無かった怪獣像に仕立て上げ、当時の少年層からの人気を掴んでおり(玩具大ヒット)、今なおその世代のゴジラファンの間では話題性が高く、新怪獣の中では成功例と言える存在ではないでしょうか。
次にネーミングが安易とのことですが、安易かどうかは別にしてもその「ゴジラ」と「宇宙」という、少年層にとって2大要素がわかりやすく合わさった怪獣名は、シンプルながら脅威性の伝わりやすいネーミングではあったと思います。
ネーミングのタイプとしては「メカゴジラ」と大して変わらないかと。
最後に顧客のニーズについては、キャラクターの魅力とネーミングで述べたとおり、決してどの顧客にも合わなかったという結果ではなかったかと思います。それどころかメインターゲットのハートを掴むのに充分すぎる存在だったかと。次作のデストロイアがスペゴジに比べ敵怪獣として地味になったという声も聞くほどです(その地味さを補っていたのがバーニングゴジラなので問題はありませんが)。
ついでにハリウッドとの比較については、結果としてそこまで問題ではなかったかと思います。向こうが「モンスター」「クリーチャー」を扱い、こちらは「怪獣」を扱っており、当時はうまく別物として差別化できていたのでは?むしろ向こうに対抗してリアルリアリティを過剰に意識してしまうことこそ、比較対象としての土俵に踏み込んでしまう結果になっていたかと思います。以上、長文失礼致しました。