前々回から書いてきたゴジラの話、今回が最終回です。
今回のテーマは、「どうやったら日本版ゴジラは復活できるか」
#前々回 ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その1
#前回 ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その2
先月から日本公開が始まったハリウッド版『GODZILLA』は好調なようです。
※作品のレビューについてはマイナビニュースさんに寄稿したこちらの記事をご覧ください。
↓↓↓
『ゴジラ』から『GODZILLA』に受け継がれた4つの魂、ハリウッド版ゴジラを薦めたい理由
思えば今回のハリウッド版公開では、あちこちの駅にポスターが貼られたり、
NHKのBSプレミアムが特集番組や過去作品の放映などのキャンペーンを組んだり、
ミッドタウンの庭園に巨大なレプリカが作られたりお、
にわかに「ゴジラブーム」が訪れたかのようでした。
かつて「ゴジラはダサい」「子どもっぽい」という偏見とレッテルのなか、
1人きりで映画館に通っていた頃を思えば、隔世の感があります。
(これが「ハリウッド」ということでしょうか…)
ファンの一人としては喜ばしいことですが、
しかし一抹の不安を覚えるのは、
「これでいよいよ日本ではゴジラが作られなくなるんじゃないか」ということ。
実際、ハリウッド版は続編の制作が決定したということですし、
今後「ゴジラシリーズ」というものは日本を離れた場所で展開していくのかもしれません。
その原因を作ったのは間違いなく平成シリーズの後半とミレニアムシリーズだと知っているので、
話は結局、前々回の「平成シリーズを総括する」の冒頭に戻ってしまうわけですが、
不毛な堂々巡りをしていても仕方ない。
日本版ゴジラが復活するとすれば、どういう道があるのかを僕なりに考えてみました。
■「特撮映画」という開き直りを
まず、平成シリーズの振り返りで書いたように、
映像技術で勝負しようとするのはやめた方がいいでしょう。
ハリウッド版ゴジラという明確な比較対象ができた今となっては、
映像そのもののリアルさや迫力を追求しても、勝負にはなりません。
それにそもそも、これだけSF映画やファンタジー映画が量産されている今では、
単に「映像がすごい」というだけでは見向きもされないでしょう。
CGと合成を駆使した映像と、最新の科学的見地やセンスを盛り込んだストーリーを特徴とする、
いわゆるハリウッドが得意とする「SFX映画」。
一方、かつてのゴジラのように、着ぐるみとミニチュアとピアノ線による撮影と、
怪獣同士の対決や怪奇性・民俗性にフォーカスしたストーリーを特徴とする「特撮映画」。
分かりやすく2つに分けるとするならば、平成シリーズ以降のゴジラ映画には、
実態は「特撮映画」なのに目指していたのは「SFX映画」という、根本的な矛盾がありました。
日本版ゴジラが復活するためには、
「自分たちは『特撮映画』なんだ」という開き直りがまずは第一歩となるでしょう。
■ヒントは「平成ガメラシリーズ」
ここでヒントになるのが、平成ガメラシリーズです。
『ガメラ 大怪獣空中決戦』、『ガメラ2 レギオン襲来』、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』と、
1995年から99年にかけて3部作で制作された平成ガメラシリーズは、
日本の特撮映画史に名を刻む、非常に優れた作品群です。
日本の地方の伝説や風俗を盛り込んだ、怪奇性に満ちたストーリー。
ガメラやギャオスの素朴な「非クリーチャー」的デザイン。
徹底して「人間の視点」にこだわったカメラワーク。
主役のガメラの腕が切り落とされる、血が噴き出るといった激しいアクション。
平成ガメラシリーズには、かつての特撮映画のエッセンスを農耕に受け継ぐ過去へのリスペクトと、
それらのエッセンスを平成の観客の感性にも耐えうるようアップデートしようとする、
未来への挑戦意欲とが同居しています。
僕らの世代(80年代生まれ)にとっては、
ある意味では平成ガメラこそが初めてのリアルタイムでの「特撮」体験であり、
ハリウッドの迫力あるSF作品や、そのハリウッドを追随するゴジラ映画を見慣れていた目には、
逆に新鮮に映ったのでした。
かつてはゴジラの二番煎じ的な地位に甘んじていたガメラが、
いつの間にか本家ゴジラを追い抜き、
むしろそのゴジラが失墜させた特撮映画の復権を一手に担うことになったのです。
平成ガメラシリーズを支えたのは、
当時若干30歳だった特技監督の樋口真嗣をはじめとする、若手のスタッフたちでした。
ゴジラシリーズのメインスタッフは、
昭和期のゴジラシリーズからのたたき上げが多かったのに対し、
ガメラシリーズのスタッフの多くは、子ども時代に特撮映画を見て育った「元観客」です。
僕は、スタッフが「元観客」出身であったからこそ、
旧ガメラシリーズの設定や伝統にとらわれないドラスティックなリメイクが可能であり、
同時にかつての特撮映画のエッセンスを再現することが容易だったのではないかと想像します。
『ガメラ2 レギオン襲来』のクライマックス。
進撃するレギオンの元に飛来したガメラが、着陸し地面を滑りながら口から火球を吐きまくる、
最高にかっこいいあのシーンは、若手主体のスタッフだったからこそ発想しえた名シーンだと思います。
ガメラシリーズが若手のスタッフを起用しえたのは、
業界(?)的にガメラがチャレンジャーの位置にいたという理由もあるでしょう。
「老舗」であるゴジラは、そうしたスタッフの新陳代謝が難しかったのかもしれません。
しかし、(以前書いたように)日本の大手家電メーカーの凋落にも似たこの構図を崩さなければ、
ゴジラシリーズは何度復活しようとすぐにまた固陋化し、
平成シリーズやミレニアムシリーズと同じ轍を踏むでしょう。
スタッフの人材戦略は、日本版ゴジラが復活する上では避けて通るわけにはいきません。
■魅力的な「新怪獣」は必須
ここまではプロダクション的なことばかりを指摘してきましたが、
内容にも踏み込んでみたいと思います。
僕が特撮映画に期待することは、
既に『パシフィック・リム』や『キングコング対ゴジラ』の記事で書いた通りなのですが、
もう一つ付け加えるならば、魅力的な新怪獣の登場でしょう。
ここで強調したいのは、「魅力的な」ではなく「怪獣」という部分です。
現在、SF映画に登場する巨大生物のデザインは、「クリーチャー系」が主流です。
クリーチャー系は確かに「本当に存在しそう」というリアリティはあります。
しかし「怪獣」のデザインに必要なのは、
リアリティよりも「派手さ」「奇抜さ」「愛嬌」である、というのが僕の考えです。
理想はウルトラ怪獣です。
バルタン星人、ゼットン、エレキング、ダダ。
なぜ今もって彼らがキャラクターとして認知され、定着しているのかといえば、
彼らのデザインにはリアリティよりも「こんなのがいたらすげえ」という興奮があるからです。
怪獣のデザインは、子どもが絵に描けるようなものでなければダメなのです。
こうした「怪獣」的デザインについては、今ハリウッドでは誰も生み出せていません。
ハリウッド版『GODZILLA』に登場する新怪獣ムートーも、
特撮映画へのリスペクトに溢れたあの『パシフィック・リム』のカイジュウでさえも、
やはりクリーチャー系のトレンド(あるいは罠)から抜け出せてはいませんでした。
だからこそ、この分野においては日本版ゴジラに十分チャンスがあると、僕は考えています。
東宝特撮でも、過去にはバラゴンやモゲラ、ガイガンといった、
素晴らしい「怪獣」たちがいました。
ああいうキャラクターを量産してきた実績や資産を、今こそ生かすべきです。
■「亜流」になることを受け入れろ
今回のハリウッド版『GODZILLA』は、ゴジラシリーズの正統な作品に位置づけられると思います。
それは、単に日本のゴジラの造形を踏襲した点だけを根拠に言っているのではなく、
善悪や、人間の敵・味方といった概念を超えた存在としてのゴジラを、
つまり本来ゴジラが持っていたテーマに対して彼らなりに真摯に向き合っていたからです。
少なくとも、日本のあのミレニアムシリーズよりは、よっぽど「ゴジラ」でした。
かつて1998年に制作されたローランド・エメリッヒ監督による前ハリウッド版『GODZILLA』
(もはや「黒歴史」化して誰も語ろうとしませんが)のときは、
デザインからしてあまりに日本のゴジラとかけ離れており、
日本版は「主」、ハリウッド版はあくまで一段下がる「従」、
あるいは似て非なるものという意味での「亜流」という明確な地位の差がありました。
しかし今回のハリウッド版は、その差を逆転させました。
ゴジラが本来持っていたシリアスなテーマを体現する作品、
わかりやすく言えば「リアル路線」のゴジラは、
今後はハリウッドに期待した方がいいのかもしれません。
だとすれば、日本版ゴジラが復活するためには、
魅力的な新怪獣を作り、その怪獣とゴジラとの対決に主眼を置いた作品、
つまり昭和シリーズでいうなら『キンゴジ』や『モスゴジ』、『三大怪獣』といった、
リアル路線の対極にある「お祭り路線」に活路を見出すべきでしょう。
これは、決して自虐ではありません。
『パシフィック・リム』が改めて示したように、
「巨大な生き物同士が戦う」というストーリーは、特撮映画の醍醐味です。
さらに、平成ガメラシリーズが怪獣同士の対決をテーマに据え、独自のアクション演出で成功したこと。
そして、新怪獣の造形は本来日本の十八番であること。
これらを勘案すれば、この「お祭り路線」は日本版ゴジラの得意分野のはずなのです。
もし、この戦略に障害があるとすれば、
それは「元祖」「オリジナル」であるはずの日本のゴジラが、これからは「亜流」になることを、
ファンも作り手も受け入れられるかという、心理的な抵抗だけです。
日米双方で、それぞれの長所を生かしたゴジラ映画がシリーズ化される。
そんな状況を、僕はかなり本気で願っています。
確かに見方によっては、日本のゴジラはハリウッドのゴジラに
「一番おいしいところ」を持っていかれたと見ることもできます。
しかし本当は、今回のハリウッド版の成功を「日本のお株が奪われた」と見るのではなく、
「日本版」「ハリウッド版」という分け方自体がナンセンスになったことを、
むしろ喜ぶべきなんだろうと思うのです。
その上で、日米両方のゴジラが、
ライバルのような関係で互いのシリーズを刺激し合っていけたら、
ものすごくおもしろいなあと思うのです。
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今回のテーマは、「どうやったら日本版ゴジラは復活できるか」
#前々回 ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その1
#前回 ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その2
先月から日本公開が始まったハリウッド版『GODZILLA』は好調なようです。
※作品のレビューについてはマイナビニュースさんに寄稿したこちらの記事をご覧ください。
↓↓↓
『ゴジラ』から『GODZILLA』に受け継がれた4つの魂、ハリウッド版ゴジラを薦めたい理由
思えば今回のハリウッド版公開では、あちこちの駅にポスターが貼られたり、
NHKのBSプレミアムが特集番組や過去作品の放映などのキャンペーンを組んだり、
ミッドタウンの庭園に巨大なレプリカが作られたりお、
にわかに「ゴジラブーム」が訪れたかのようでした。
かつて「ゴジラはダサい」「子どもっぽい」という偏見とレッテルのなか、
1人きりで映画館に通っていた頃を思えば、隔世の感があります。
(これが「ハリウッド」ということでしょうか…)
ファンの一人としては喜ばしいことですが、
しかし一抹の不安を覚えるのは、
「これでいよいよ日本ではゴジラが作られなくなるんじゃないか」ということ。
実際、ハリウッド版は続編の制作が決定したということですし、
今後「ゴジラシリーズ」というものは日本を離れた場所で展開していくのかもしれません。
その原因を作ったのは間違いなく平成シリーズの後半とミレニアムシリーズだと知っているので、
話は結局、前々回の「平成シリーズを総括する」の冒頭に戻ってしまうわけですが、
不毛な堂々巡りをしていても仕方ない。
日本版ゴジラが復活するとすれば、どういう道があるのかを僕なりに考えてみました。
■「特撮映画」という開き直りを
まず、平成シリーズの振り返りで書いたように、
映像技術で勝負しようとするのはやめた方がいいでしょう。
ハリウッド版ゴジラという明確な比較対象ができた今となっては、
映像そのもののリアルさや迫力を追求しても、勝負にはなりません。
それにそもそも、これだけSF映画やファンタジー映画が量産されている今では、
単に「映像がすごい」というだけでは見向きもされないでしょう。
CGと合成を駆使した映像と、最新の科学的見地やセンスを盛り込んだストーリーを特徴とする、
いわゆるハリウッドが得意とする「SFX映画」。
一方、かつてのゴジラのように、着ぐるみとミニチュアとピアノ線による撮影と、
怪獣同士の対決や怪奇性・民俗性にフォーカスしたストーリーを特徴とする「特撮映画」。
分かりやすく2つに分けるとするならば、平成シリーズ以降のゴジラ映画には、
実態は「特撮映画」なのに目指していたのは「SFX映画」という、根本的な矛盾がありました。
日本版ゴジラが復活するためには、
「自分たちは『特撮映画』なんだ」という開き直りがまずは第一歩となるでしょう。
■ヒントは「平成ガメラシリーズ」
ここでヒントになるのが、平成ガメラシリーズです。
『ガメラ 大怪獣空中決戦』、『ガメラ2 レギオン襲来』、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』と、
1995年から99年にかけて3部作で制作された平成ガメラシリーズは、
日本の特撮映画史に名を刻む、非常に優れた作品群です。
日本の地方の伝説や風俗を盛り込んだ、怪奇性に満ちたストーリー。
ガメラやギャオスの素朴な「非クリーチャー」的デザイン。
徹底して「人間の視点」にこだわったカメラワーク。
主役のガメラの腕が切り落とされる、血が噴き出るといった激しいアクション。
平成ガメラシリーズには、かつての特撮映画のエッセンスを農耕に受け継ぐ過去へのリスペクトと、
それらのエッセンスを平成の観客の感性にも耐えうるようアップデートしようとする、
未来への挑戦意欲とが同居しています。
僕らの世代(80年代生まれ)にとっては、
ある意味では平成ガメラこそが初めてのリアルタイムでの「特撮」体験であり、
ハリウッドの迫力あるSF作品や、そのハリウッドを追随するゴジラ映画を見慣れていた目には、
逆に新鮮に映ったのでした。
かつてはゴジラの二番煎じ的な地位に甘んじていたガメラが、
いつの間にか本家ゴジラを追い抜き、
むしろそのゴジラが失墜させた特撮映画の復権を一手に担うことになったのです。
平成ガメラシリーズを支えたのは、
当時若干30歳だった特技監督の樋口真嗣をはじめとする、若手のスタッフたちでした。
ゴジラシリーズのメインスタッフは、
昭和期のゴジラシリーズからのたたき上げが多かったのに対し、
ガメラシリーズのスタッフの多くは、子ども時代に特撮映画を見て育った「元観客」です。
僕は、スタッフが「元観客」出身であったからこそ、
旧ガメラシリーズの設定や伝統にとらわれないドラスティックなリメイクが可能であり、
同時にかつての特撮映画のエッセンスを再現することが容易だったのではないかと想像します。
『ガメラ2 レギオン襲来』のクライマックス。
進撃するレギオンの元に飛来したガメラが、着陸し地面を滑りながら口から火球を吐きまくる、
最高にかっこいいあのシーンは、若手主体のスタッフだったからこそ発想しえた名シーンだと思います。
ガメラシリーズが若手のスタッフを起用しえたのは、
業界(?)的にガメラがチャレンジャーの位置にいたという理由もあるでしょう。
「老舗」であるゴジラは、そうしたスタッフの新陳代謝が難しかったのかもしれません。
しかし、(以前書いたように)日本の大手家電メーカーの凋落にも似たこの構図を崩さなければ、
ゴジラシリーズは何度復活しようとすぐにまた固陋化し、
平成シリーズやミレニアムシリーズと同じ轍を踏むでしょう。
スタッフの人材戦略は、日本版ゴジラが復活する上では避けて通るわけにはいきません。
■魅力的な「新怪獣」は必須
ここまではプロダクション的なことばかりを指摘してきましたが、
内容にも踏み込んでみたいと思います。
僕が特撮映画に期待することは、
既に『パシフィック・リム』や『キングコング対ゴジラ』の記事で書いた通りなのですが、
もう一つ付け加えるならば、魅力的な新怪獣の登場でしょう。
ここで強調したいのは、「魅力的な」ではなく「怪獣」という部分です。
現在、SF映画に登場する巨大生物のデザインは、「クリーチャー系」が主流です。
クリーチャー系は確かに「本当に存在しそう」というリアリティはあります。
しかし「怪獣」のデザインに必要なのは、
リアリティよりも「派手さ」「奇抜さ」「愛嬌」である、というのが僕の考えです。
理想はウルトラ怪獣です。
バルタン星人、ゼットン、エレキング、ダダ。
なぜ今もって彼らがキャラクターとして認知され、定着しているのかといえば、
彼らのデザインにはリアリティよりも「こんなのがいたらすげえ」という興奮があるからです。
怪獣のデザインは、子どもが絵に描けるようなものでなければダメなのです。
こうした「怪獣」的デザインについては、今ハリウッドでは誰も生み出せていません。
ハリウッド版『GODZILLA』に登場する新怪獣ムートーも、
特撮映画へのリスペクトに溢れたあの『パシフィック・リム』のカイジュウでさえも、
やはりクリーチャー系のトレンド(あるいは罠)から抜け出せてはいませんでした。
だからこそ、この分野においては日本版ゴジラに十分チャンスがあると、僕は考えています。
東宝特撮でも、過去にはバラゴンやモゲラ、ガイガンといった、
素晴らしい「怪獣」たちがいました。
ああいうキャラクターを量産してきた実績や資産を、今こそ生かすべきです。
■「亜流」になることを受け入れろ
今回のハリウッド版『GODZILLA』は、ゴジラシリーズの正統な作品に位置づけられると思います。
それは、単に日本のゴジラの造形を踏襲した点だけを根拠に言っているのではなく、
善悪や、人間の敵・味方といった概念を超えた存在としてのゴジラを、
つまり本来ゴジラが持っていたテーマに対して彼らなりに真摯に向き合っていたからです。
少なくとも、日本のあのミレニアムシリーズよりは、よっぽど「ゴジラ」でした。
かつて1998年に制作されたローランド・エメリッヒ監督による前ハリウッド版『GODZILLA』
(もはや「黒歴史」化して誰も語ろうとしませんが)のときは、
デザインからしてあまりに日本のゴジラとかけ離れており、
日本版は「主」、ハリウッド版はあくまで一段下がる「従」、
あるいは似て非なるものという意味での「亜流」という明確な地位の差がありました。
しかし今回のハリウッド版は、その差を逆転させました。
ゴジラが本来持っていたシリアスなテーマを体現する作品、
わかりやすく言えば「リアル路線」のゴジラは、
今後はハリウッドに期待した方がいいのかもしれません。
だとすれば、日本版ゴジラが復活するためには、
魅力的な新怪獣を作り、その怪獣とゴジラとの対決に主眼を置いた作品、
つまり昭和シリーズでいうなら『キンゴジ』や『モスゴジ』、『三大怪獣』といった、
リアル路線の対極にある「お祭り路線」に活路を見出すべきでしょう。
これは、決して自虐ではありません。
『パシフィック・リム』が改めて示したように、
「巨大な生き物同士が戦う」というストーリーは、特撮映画の醍醐味です。
さらに、平成ガメラシリーズが怪獣同士の対決をテーマに据え、独自のアクション演出で成功したこと。
そして、新怪獣の造形は本来日本の十八番であること。
これらを勘案すれば、この「お祭り路線」は日本版ゴジラの得意分野のはずなのです。
もし、この戦略に障害があるとすれば、
それは「元祖」「オリジナル」であるはずの日本のゴジラが、これからは「亜流」になることを、
ファンも作り手も受け入れられるかという、心理的な抵抗だけです。
日米双方で、それぞれの長所を生かしたゴジラ映画がシリーズ化される。
そんな状況を、僕はかなり本気で願っています。
確かに見方によっては、日本のゴジラはハリウッドのゴジラに
「一番おいしいところ」を持っていかれたと見ることもできます。
しかし本当は、今回のハリウッド版の成功を「日本のお株が奪われた」と見るのではなく、
「日本版」「ハリウッド版」という分け方自体がナンセンスになったことを、
むしろ喜ぶべきなんだろうと思うのです。
その上で、日米両方のゴジラが、
ライバルのような関係で互いのシリーズを刺激し合っていけたら、
ものすごくおもしろいなあと思うのです。
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