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頭で読むんじゃない
「身体」で読むのだ


非常にユニークな本でした。
内容そのものもさることながら、
本全体の流れがアップダウンの起伏に富んでいて、
まるで上級者向けのマラソンコースを走っているかのように、
読む者の体力が問われるような、そんな本でした。

本書の前半は、短いルポの連作で構成されています。
養護学校で陸上部のコーチをしている元ランナー。
病気を抱えながら、走って日本を一周したおじいさん。
ランニングにハマり、仕事を辞めてランナー達のサロンを開いた夫婦。
有名無名のランナー達の、タイトル通りの「走る生活」が、
まるでピッチ走法のように短いリズムで次々と紹介されていきます。

ここまではごく普通の、ランニングをテーマにしたノンフィクション。
しかし、著者自身が主人公として語り始める後半になると、様相が一変します。

いきなり出てくるのが、1971年の三里塚闘争の一幕。
デモに参加していた学生時代の著者が、
成田の農村地帯を、機動隊に追われながら必死になって走る場面が延々と続きます。
それも、「回想録」というような生易しい筆致ではなく、
村上龍の『五分後の世界』の戦闘シーンのような、異様な迫力とテンションで。
ジュラルミンの盾を振りかざして追ってくる機動隊員からなんとか逃げようと、
「私」は走り続けます。
転んでも、服が破れても、仲間が捕まっても、
心臓が破れ、肺が血を吹こうとも、
「私」は、とにかく走って走って走り続けるのです。

唐突に出てきたこの場面に、
おそらく読み手の大半は頭に「?」マークがダダダッと点灯するではないでしょうか。
確かに、「走って」はいる。
でも、競技や趣味、ライフワークとしての「ランニング」ではなく、
「私」が体験したのは、文字通り生死をかけた、
いわば生き物としての原初的な「走り」です。

続いて出てくるのは、
時代は遡って1969年のオーストラリア
(この不思議な時間軸の移動も藪から棒です)
19歳の著者が、オーストラリアの田舎に住む著名なランニングコーチに弟子入りする場面。
コーチの自宅の近所の砂丘で、
著者はマンツーマンの特訓を受けるのですが、
桜木花道と安西先生の夏合宿のように、
19歳の著者は74歳のコーチに、完膚なきまでに叩き伏せられます。

次の章では、もう走る場面すら出てきません。
1983年の初夏(またも時間が飛びます)、
北海道で酪農を営む友人の手伝いに訪れた筆者の、
1カ月間の牛との格闘の日々の記録です。

依然として、頭の中には再び「?」マークが激しく点灯します。
けれども、なぜだかページをめくる手は止まりません。
だんだんと、身体じゅうの筋肉がムズムズしてくるのが感じられます。
まるで、文字が直接、筋肉に刺激を与えてくるようです。

この、「牛の話」のあたりで、徐々に本書の全貌が見えてきます。
著者が語りたいのは、競技、あるいは趣味としての「ランニング」ではなく、
生物としての人間が、肉体を酷使することで見えてくる風景なのです。
「走ること」は、その端的な例にすぎません。

汗を滴らせながらトロッコで牛の糞尿を運ぶ。
1日15時間、ひたすらサイロにたまった牧草を踏み固める。
筋肉はあっという間に強張り、食事と睡眠だけでなんとか肉体を維持する毎日。
「走る」場面こそ出てこないものの、
肉体が悲鳴を上げるごとに世界が少しずつ再構築されていくような感覚は、
「走る」ことが人間に与えるものと同じものなのです。

本書では、「走る」(あるいは「肉体を酷使する」)ことの対極を表す言葉として、
経済効率」という言葉がしばしば出てきます。
著者は、さまざまな人物の言葉を借りて、
競技としてのランニングを「世俗的なもの」と批判します。
「走ること」は本来、もっと自由であり、
内なる魂を解き放つ行為なのだと。
そしてそれは、何もかもが経済に集約され、効率だけが重視される現代社会への、
強烈なアンチテーゼなのだと。

もう2年も前の記事になりますが、
年に1回以上ランニングをした成人の数が1000万人を超えた、というニュースが報じられました。
#ランナーが1000万人突破!“ブーム”を超えた背景は(Number Web)
この記事の時点から時間が経っているとはいえ、
僕自身の実感からいうと、少なくともランナー人口は減ってはいません。

「ランニングブーム」というものは、
もしかしたら著者の訴えるものとは相反するものかもしれません。
しかし、結局のところ、両者が求めるものは、
程度の差こそあれ、本質的には同じなのではないかと思います。

走る時に感じる激しい拍動。
息苦しさ。
ふと訪れる恍惚感。
それらは全て、自分が生きているということの最も強烈な実感であり、
「肉体」という固有のものを通してしか味わえない、
究極の「自分だけ」の感覚です。
経済の規模や効率を追求することの限界に、国全体が直面して約10年。
ブランド品や流行品を消費することではなく、
肉体を動かすことに充実感を覚える人が増えてきたことは、
極めて自然な流れであるように思います。

『走る生活』の初版は1996年。
ですが、ここに書いてあることは、
初版当時よりもむしろ2015年の今の方が、
よりリアリティを感じるかもしれません。






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