2年前の秋、89歳で亡くなった祖父のお葬式で、
祖父の弟(つまり僕にとって大叔父さん)という人に会いました。
本当はそれまでにも何度か会ったことはあるはずなのですが、
地方に住んでいる大叔父と顔を合わせる機会など滅多になく、
彼を大叔父だと認識したのは、それが初めてでした。
葬式の後、精進落としの席で、
大叔父から祖父の家の話をたくさん聞きました。
祖父がバリバリのスポーツマンで、それもテニスや乗馬なんていう、
当時からするとものすごくハイカラな競技にのめり込んでいたこと。
祖父の父(つまり僕にとっての曽祖父)が若い頃、
東海道歩きにチャレンジし、全行程を踏破していたこと。
このブログでも書いているように、
僕も今、東海道を全て走りきる「東海道ラン」を続けています。
実は僕の叔父も東海道を制覇していて、彼もそれをブログに書いています。
そして曽祖父も、(残念ながら紛失してしまったのですが)旅の様子を絵日記に残していたそうです。
わずか4代の間に、家族の中から3人も東海道を歩く(走る)人間が出てきて、
しかも全員日記を書いているだなんて、やっぱり遺伝なんだろうかと笑いました。
しかし、大叔父の話の中で最も驚いたのは、祖父が岡山の出身だったことでした。
祖母が岡山の出ということは知っていたのですが、
祖父自身も岡山の人間だったなんて、僕はそのときまで知りませんでした。
祖父母がともに岡山の人間ということは、
僕の体に流れる血の半分は岡山の血ということになります。
つまり、僕は岡山のハーフだったのです。
それまで一度も訪れたことのない土地なのに、そこに自分のルーツがある。
その事実はかなり衝撃的でした。
しかし、ネガティブな衝撃などではなく、むしろ「自分の知らない自分」を知ることに、
くすぐったいような嬉しさがありました。
そのときから、僕は「家族の歴史」に興味を持つようになりました。
大叔父は、そんな僕の好奇心を歓迎してくれました。
そして翌年のGW、わざわざ岡山を案内してくれたのです。
向かったのは岡山県高梁市。
もちろん行くのは初めて。
街の名前すら聞いたことがあるかないか程度の、
つまりはこれまでの人生で一度もかすりもしなかった土地です。

江戸時代、高梁は備中松山藩の城下町でした。
備中松山藩は江戸時代を通じて何度か藩主が入れ替わっていますが、
最後に藩主となったのが、18世紀に転封してきた板倉家です。
僕の祖父の家は、その板倉家の家臣でした。
高梁は静かでこじんまりとした街でした。
けれど、現在も水路として街の中を流れる城の外堀の跡や、
その周囲に広がる整然とした町割りには、
かつてここが城下町だったという名残を色濃く残しています。

当時の武家町には今でも塀と門を構えた大きな家が並んでいます。
もちろん、建物自体は何度も建て替えられているのでしょうが、
当時の雰囲気もそう変わらないだろうという気がしました。
そのくらい、静かで時間の流れ方がゆっくりとした街なのです。

僕のご先祖様の「ご本家」も、この武家町のなかにありました。
そして、近所のお寺の墓地には、僕から数えて6代前の家族たちが眠っていました。
お墓に手を合わせながら「本当にここに住んでたんだ」という感慨と、
初めて訪れた場所で、初めて知った家族に向かって手を合わせることの不思議さを感じました。
僕の遠い家族たちも、武家町のどこまでも高い塀が続く道を歩いたのでしょうか。
そして、備中松山城の、あの長く険しい坂を(日本一標高の高い場所に天守閣をもつ城だそうです)、
汗をかきながら登ったのでしょうか。


自分のルーツがここにある。
実際に高梁を訪れても、なかなかその実感までは湧いてきません。
しかし代わりに、「もっと知りたい」という欲求が湧いてきました。
30歳を過ぎるまで訪れたことはおろか、気に留めたことすらなかったこの小さな街と、
ここで暮らしていた、会ったことのない僕の家族について、
「もっともっと知りたい」という興奮を覚えながら、僕は帰途に着きました。
…んで、2015年。
そんな「家族の歴史」をがっつりと知ることのできる、絶好の機会が訪れたのです。
(後編へ続く)
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祖父の弟(つまり僕にとって大叔父さん)という人に会いました。
本当はそれまでにも何度か会ったことはあるはずなのですが、
地方に住んでいる大叔父と顔を合わせる機会など滅多になく、
彼を大叔父だと認識したのは、それが初めてでした。
葬式の後、精進落としの席で、
大叔父から祖父の家の話をたくさん聞きました。
祖父がバリバリのスポーツマンで、それもテニスや乗馬なんていう、
当時からするとものすごくハイカラな競技にのめり込んでいたこと。
祖父の父(つまり僕にとっての曽祖父)が若い頃、
東海道歩きにチャレンジし、全行程を踏破していたこと。
このブログでも書いているように、
僕も今、東海道を全て走りきる「東海道ラン」を続けています。
実は僕の叔父も東海道を制覇していて、彼もそれをブログに書いています。
そして曽祖父も、(残念ながら紛失してしまったのですが)旅の様子を絵日記に残していたそうです。
わずか4代の間に、家族の中から3人も東海道を歩く(走る)人間が出てきて、
しかも全員日記を書いているだなんて、やっぱり遺伝なんだろうかと笑いました。
しかし、大叔父の話の中で最も驚いたのは、祖父が岡山の出身だったことでした。
祖母が岡山の出ということは知っていたのですが、
祖父自身も岡山の人間だったなんて、僕はそのときまで知りませんでした。
祖父母がともに岡山の人間ということは、
僕の体に流れる血の半分は岡山の血ということになります。
つまり、僕は岡山のハーフだったのです。
それまで一度も訪れたことのない土地なのに、そこに自分のルーツがある。
その事実はかなり衝撃的でした。
しかし、ネガティブな衝撃などではなく、むしろ「自分の知らない自分」を知ることに、
くすぐったいような嬉しさがありました。
そのときから、僕は「家族の歴史」に興味を持つようになりました。
大叔父は、そんな僕の好奇心を歓迎してくれました。
そして翌年のGW、わざわざ岡山を案内してくれたのです。
向かったのは岡山県高梁市。
もちろん行くのは初めて。
街の名前すら聞いたことがあるかないか程度の、
つまりはこれまでの人生で一度もかすりもしなかった土地です。

江戸時代、高梁は備中松山藩の城下町でした。
備中松山藩は江戸時代を通じて何度か藩主が入れ替わっていますが、
最後に藩主となったのが、18世紀に転封してきた板倉家です。
僕の祖父の家は、その板倉家の家臣でした。
高梁は静かでこじんまりとした街でした。
けれど、現在も水路として街の中を流れる城の外堀の跡や、
その周囲に広がる整然とした町割りには、
かつてここが城下町だったという名残を色濃く残しています。

当時の武家町には今でも塀と門を構えた大きな家が並んでいます。
もちろん、建物自体は何度も建て替えられているのでしょうが、
当時の雰囲気もそう変わらないだろうという気がしました。
そのくらい、静かで時間の流れ方がゆっくりとした街なのです。

僕のご先祖様の「ご本家」も、この武家町のなかにありました。
そして、近所のお寺の墓地には、僕から数えて6代前の家族たちが眠っていました。
お墓に手を合わせながら「本当にここに住んでたんだ」という感慨と、
初めて訪れた場所で、初めて知った家族に向かって手を合わせることの不思議さを感じました。
僕の遠い家族たちも、武家町のどこまでも高い塀が続く道を歩いたのでしょうか。
そして、備中松山城の、あの長く険しい坂を(日本一標高の高い場所に天守閣をもつ城だそうです)、
汗をかきながら登ったのでしょうか。


自分のルーツがここにある。
実際に高梁を訪れても、なかなかその実感までは湧いてきません。
しかし代わりに、「もっと知りたい」という欲求が湧いてきました。
30歳を過ぎるまで訪れたことはおろか、気に留めたことすらなかったこの小さな街と、
ここで暮らしていた、会ったことのない僕の家族について、
「もっともっと知りたい」という興奮を覚えながら、僕は帰途に着きました。
…んで、2015年。
そんな「家族の歴史」をがっつりと知ることのできる、絶好の機会が訪れたのです。
(後編へ続く)
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