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何かを好きになるということは
「孤独になる」ということだ


「ソーシャルだ」「つながりだ」と盛んに言われる時代に、
こんなことを言うのはサムいのかもしれませんが、
僕はシェアとか共有なんてクソくらえだと思ってます。
もちろん、共有したいと思う気持ちはすごく理解できる。
でも、本当に共有したいと思うものほど、共有できない。
僕はそう思っています。

初めて僕が他人と何かを共有したいと激しく願ったのは、
小学校5年生のときにゴジラを好きになったことがきっかけでした。
当時僕は、文字通り寝食を忘れるくらいゴジラに夢中でした。
そして、「世の中にはこんなに面白いものがあるのに、クラスのみんなは知らないなんて!」という
(本人にとってはあくまで)正義感から、僕はクラスの友達にゴジラの面白さを「布教」しました。
ビデオを見せ、怪獣図鑑を貸し、自作のクイズを出題し続けた結果、
何人かの友人は僕の話に耳を傾けてくれるようになりました。

でも、僕は虚しい気持ちでいっぱいでした。
だって、友人たちが僕の話に耳を傾けていたのは、
ゴジラに興味を持ったからではなく、ヒマつぶしや、単なる僕への気遣いだったからです。
僕の情熱との間には、明らかに温度差があったのです。
そこでようやく僕は、友人たちと本当に共有したいのは、ゴジラの知識ではなく、
「僕がいかにゴジラを好きなのか」「なぜゴジラが好きなのか」という
“気持ち”だったんだと気付いたのです。

困ったことに、僕が共有したいと願った“気持ち”は、
僕自身でさえもうまく言葉に直すことができませんでした。
だって、「なんでそれを好きなのか」を誰にでもわかるように説明するなんて、
大人になった今でさえ無理なのですから。
だから、友人が僕の話に耳を傾けてくれる機会があっても、
モゴモゴするだけで、せっかくのチャンスをフイにしてばかりでした。

僕が当時、なぜあれほど「ゴジラへの愛の深さ」を共有したがっていたかというと、
それが最もよく「僕自身を理解してもらうこと」だったからです。
好きな食べ物や得意な教科をいくら知ってもらっても、
僕は僕自身を理解してもらえたとは思えませんでした。
それよりも、僕が本当に好きなものについて「なぜそれを好きなのか」を理解してもらえれば、
僕自身を理解してもらえるんじゃないかと思ったのです。


僕が本当に話したいのは、ゆうべのテレビ番組の感想でも、
「隣のクラスの誰が誰を好きで」みたいなどうでもいい噂話でもなかった。
でも、「本当に話したいこと」をうまく話せる自信もない。
そうするうちに、僕は「ゴジラが好き」という事実そのものを隠すようになりました。
ハイロウズの<青春>という曲に、
「心のないやさしさは 敗北に似てる」というフレーズがありますが、
自分の一番大事なものに中途半端に興味を示されることほど屈辱的なものもなかったからです。
「あ〜ゴジラね。口から火吐くんでしょ。」みたいな。

何かを好きであればあるほど、その気持ちは他人と共有できない。
何かを好きになるということは、孤独になるということだ。

10歳そこそこで実感したこの確信は、20年以上たった今も揺らぐことはありません。
変わったのは、「好きなものを共有できない孤独」に慣れたことです。

『シン・ゴジラ』を見ながら、僕はずっとそんなことを考えていました。






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