『九重の雲 闘将 桐野利秋』

「嫌がる西郷隆盛を無理やり担いで暴発した狂犬の親玉」というイメージがあるかと思えば、「いやいや、単なる過激主義者とは違う合理的思考の持ち主で彼もまた下の者に担がれただけの犠牲者だった」という意見もあり、毀誉褒貶激しい人物である桐野利秋
 本書はその桐野を主人公にしているだけあって、基本的には彼を肯定的に描いてはいるのですが、一面的ではありません。たとえば「人斬り」と呼ばれたほどの男であるにもかかわらず、洋式銃の威力を知ると早々と刀に見切りをつけて乗りかえる合理的精神の持ち主として描く一方で、その合理的精神も「西郷」という理屈を超えた存在を前には退化してしまい、西南戦争に突入していく桐野については否定的に描いています。
 職業テロリストの陰惨さと古武士のような颯爽とした色気を併せ持ち、頭では分かっていてもついには近代人への一歩を踏み越えられなかった本書での桐野には、「最後の中世的英雄」というようなイメージを抱きます。





『狙うて候 銃豪村田経芳の生涯』

 村田経芳というと、明治陸軍に制式採用された初の国産洋式銃「村田銃」を発明した人物、としか知識がなかったのですが、タイトルにもある通り、彼は研究者であると同時に優れた射撃手=銃豪でもありました。
 彼の腕前がどのくらい優れていたかというと、幕末期に横浜で開かれた射撃大会に出場して、日本に駐留してた欧米の軍人を圧倒して優勝したほか、明治8年の欧州視察旅行では、イギリス、フランス、ドイツ、スイスと各地の射撃大会や軍人との試合を転戦して全て勝利を収めたほどでした。彼の活躍は欧州各地の新聞に載り、「ヨーロッパで一番の射撃手」と呼ばれたそうです。
 村田の出身地は薩摩です。同郷の友人や兄弟たちが、明治維新と西南戦争で次々と死んでいくなか、彼は天寿を全うして83歳まで生きます。晩年、「なぜあなたは生き延びられたのか」という質問に対して「技術屋に徹していたのがよかった」とした彼の答えには唸るものがありました。
 技術に徹していた=政治には手を出さなかったという意味なのですが、村田が国産様式銃の開発と軍制式化という壮大な夢に向けて突き進んでいる間に、友人たちは次々と非業の死に倒れ、西南戦争では同郷の人間同士が殺し合う(村田自身も参戦)ことになります。村田は「技術に徹していた」という言葉を、誇らしさと後ろめたさの両方を感じながら語っていたような気がします。





『銃士伝』

 関ヶ原の戦いの際、いわゆる「島津の退き口」で島津軍の殿を務め、追撃してくる井伊直政に重傷を負わせた兄弟の銃士や、高杉晋作が香港で買い求め、贈られた坂本竜馬が寺田屋事件の際に捕方に向けて発砲したといわれるリボルバー銃、近藤勇が伏見で狙撃されたときの銃など、日本史のさまざまな事件で登場する「銃」にフォーカスして書かれた話を集めた短編集
 著者の東郷隆(“りゅう”と読みます)は作家になる前、『コンバットマガジン』というガンマニア向けの雑誌の編集をしていました。『九重の雲』の桐野のウェストリー・リチャーズ銃にしても、『狙うて候』の村田銃にしても、この人の作品にやたらと銃が登場し、しかもその描写がめちゃくちゃ細かいのはこの経歴のためでしょう。
 ちなみに、この『銃士伝』にも桐野利秋と村田経芳が登場します。鳥羽伏見の戦いで、幕府軍の銃弾が降り注ぐまっただ中で村田が桐野にウェストリー・リチャーズ銃の撃ち方を教えるというシーンで、この場面は前述の2作品にもそれぞれの視点で描かれています。別々の3作品を読んだはずなのに、結果的には桐野利秋と村田経芳という、薩摩人でありながら明治以降対照的な人生を歩んだ2人のトリロジーを読んだような気分になりました。



 ということで、2年ぶりくらいに歴史小説を読みまくった7月でした。





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