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全てが地味なはずの「マイナー大河」が
大河ドラマの未来を拓いた


 今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』が終わりました。放映開始直後の記事で僕は「過去の大河ドラマとは別物なんだと分からせてくれた(でも僕は「過去の大河」の方が好きだけど)」という、極めて消極的で個人的な評価をしました。しかし、1年間の放送を見終えた今、僕はこの当初の評価を全力で撤回します。『直虎』という作品は、僕が思ってたよりもはるかに素晴らしいドラマでした。頭をすり下ろすくらいの勢いで土下座します。

 手のひらを返しすぎだと思われるかもしれませんが、僕は『直虎』は大河ドラマの未来を拓いたんじゃないかと思います。ポイントは、主人公の直虎含め、登場人物のほとんどが一般的に知られていないマイナーな人物ばかりだったこと

 誰もが知る歴史上の有名な人物ではなく、その脇にいた人物を主人公に据えるのは、近年の大河ドラマの流行りではありました。『天地人』の直江兼続や『軍師官兵衛』の黒田官兵衛、『花燃ゆ』の楫取美和など。大河も第1作から50年以上経ち、歴史上有名なメジャー人物はやり尽くしたという台所事情があるのでしょう。

 しかし、『官兵衛』でも指摘したように、いくらマイナー人物を主人公に据えたところで、物語は結局主人公の近くにいるメジャー人物を軸に進むことになるため、肝心の主人公は傍観者になったり、反対に主人公というだけでメジャー人物を超える活躍を見せたりといった、「ねじれ」が頻発していました。

(その点で僕は、メジャー人物がいなかった『八重の桜』に期待していたのですが、あの作品も中盤、京都の政治劇に話の重心が移ってしまい、せっかくのマイナー人物大河が生かせず惜しい結果になりました)

 これまで大河が取り上げてきたマイナー人物が、結局のところ「メイン人物の脇にいるマイナー人物」でしかなかったは、メジャー人物が映らないと関心を呼ばないだろう、歴史上有名な事件が絡まないと1年間もたないだろうといった、一種のマーケティング的発想によるものだったんだろうと思います。今回の『直虎』は、それが単なる幻想だったことを示しました。

 でもなぜ、メジャーな人物や有名な事件にも頼らなかった『直虎』が、あそこまで面白いドラマになれたのでしょうか。僕は、マイナー人物ばかりという従来の常識に反するこの作品の特徴が、むしろ面白さの大きな理由になっていると考えています。

 歴史上マイナーな人物は、残された史料が決して多くありません。直虎にしても直筆とされる史料は『龍譚寺文書』の1点だけですし、放映前には「直虎は実は男だった説」が報道されるなど、そもそも存在すら曖昧です。そうした人物を題材にドラマにするということは、必然的にフィクションの入り込む余地が大きくなります

『時代劇の「嘘」と「演出」』という本もありますが(めちゃくちゃ面白い本です)、歴史ドラマにおいてどこまで史実に基づくか、どこまでドラマとしての創造性を許容するかは常に制作者を悩ませる問題です。そして、取り上げる人物がメジャーな人物であればあるほど、フィクションの許容度は低くなる傾向があります。また、仮に従来とは異なる思い切った解釈をしたとしても、メジャーな人物や事件であれば、「独自の解釈をする」ということ自体が手垢にまみれてしまっていることが少なくありません(例えば、本能寺の変は秀吉が起こしたetc.)。

 その点、マイナーな人物であれば、史料という「縛り」も少なく、反対にフィクションに対する許容度は大きい。マイナー=話の結末を知らないから新鮮に見てもらえる視聴者が多いというシンプルな利点もあります。

 例えば『直虎』でいえば、寿桂尼と直虎との、緊張感がありつつも女城主同士で親近感を覚えあう関係などは、史実という「法の網目」をフィクションが上手くすり抜けた好例だったと思います。

 そして、フィクションと史実とが矛盾しないまま極めて高いレベルで融合したのは、なんといっても高橋一生演じる小野政次のキャラクターでしょう。「裏切り者として処刑された」とされる史実を維持しながら、その裏側に180度違う解釈のキャラクターと物語が築かれ、「本当はこうだったのかも」と想像が膨らみました。しかも、第33回「嫌われ政次の一生」放映直後、多くの人が指摘していたように、「今我々が知っている歴史とは、所詮勝者によって作られたものでしかない」という、歴史の見方そのものに対するメッセージが読み取れた点においても、素晴らしい脚本でした。

『直虎』の功績。それは、登場人物も取り上げる事件も一般的に知られていないという「マイナー大河」であることを逆手に取り、大河ドラマに「ドラマ」の面白さを取り戻したことです。違う言い方をするならば、「ここまでフィクションで作りこんでもいいんだ」と、創造の余地の上限を引き上げた(あるいはボーダーラインを引き下げた)ことです。僕が冒頭「『直虎』は大河ドラマの未来を拓いた」と書いたのは、この作品の成功により、これからの大河の題材選びと作り方がガラッと変わるんじゃないかと期待しているからです。

 にしても、16年『真田丸』と17年『直虎』は、前者は過去に散々題材になってきたメジャーなネタ、後者はほとんど取り上げられてこなかったマイナーネタという違いこそあれ、どちらも「大国に翻弄されながらなんとか生き残ろうとする小国の領主」という点で共通しているのが面白いですね。「天下をとる」や「新しい世を作る」といったプラスアルファで大きな何かをつかみ取ろうというのではなく、「生き残る」という究極の現状維持の方が感情移入を喚起するのは、今という時代性なのかもしれません。





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