320

「捨て去るべき過去」と
「捨ててはいけない過去」


『スター・ウォーズ』シリーズの最新作、『エピソード8/最後のジェダイ』を見てきました。公開から1か月経ったので、ネタバレありで感想を書いてみます。

 今回の作品は前作エピソード7以上に賛否両論みたいですね。僕の職場にも熱狂的なファンのおじさんがいるのですが、彼は猛烈な否定論者でした。その根拠は、劇中の「過去を葬れ」という台詞に端的に表れているように、このエピソード8という作品が過去のシリーズを全否定しているから、ということらしいです。

 確かに、今回の作品では、過去の作品が蓄積してきた重要な設定やキーワードに対して、積極的に新たな解釈を試みています。

 例えば、ルークの「フォースはジェダイだけのものではない」という台詞。フォースが万物の間に存在するエネルギーであるという説明は過去の作品でもなされていましたが、実際にはジェダイの専売特許であり、特にエピソード1〜3では『ドラゴンボール』における“気”のように、戦いのために使われる不思議なパワーという位置づけで描かれていました。

 そのフォースを、本来の定義通りとはいえ「ジェダイだけのものではない」と改めて強調することは、いわばフォースを相対化することにあたります。そして、フォースを相対化するということは、すなわちジェダイを相対化することでもあります。実際、ジェダイという名前や伝統からの解放がストーリーの大きな核であり、サブタイトルの由来でもあるわけですが、過去の新旧3部作の物語が、ジェダイの繁栄と衰亡(エピソード1〜3)、そこから復帰するまで(エピソード4〜6)と、ジェダイの存在を中心に回っていたことを考えると、ジェダイの相対化は取りようによっては確かに「過去の全否定」に映るかもしれません。

 また、フォースの光と闇という概念もスター・ウォーズの世界を支える重要な設定ですが、両者の境界線をこれまででもっとも薄く、あやふやなものだと描いた点も挙げられます。レイとカイロ・レンのテレパシー的な会話(このようなフォースの使い方も今までにはなかったことです)からは「完全なダークサイドなどない」ということが、過去の作品以上に明確に示されています。少し次元が違いますが、ここでも一種の相対化が起きています。

 ストーリーとしても、そこから読み取れる解釈としても、「過去」が大きなキーワードになっていること。もちろんこれは偶然などではなく、ジョージ・ルーカスの手を離れて新たなスター・ウォーズを作ろうとするライアン・ジョンソン監督ら新制作者陣の意気込みの表れであることは間違いないでしょう。

 ただ、ジェダイの遺産を残すことに執心していたルークが、最後にはその遺産を焼いてしまう(ようにヨーダに促される)一方で、過去を葬り去ることで新しい自分になれると考えていたカイロ・レンが、実際にはレイアを撃つことができなかったという対比が見られるように、この作品は「捨て去るべき過去」だけでなく「捨ててはいけない過去」もあると語っています

 両者はどこが違うのか。陳腐な表現を許してもらうとすれば、それは「魂」ということになるでしょう。魂さえあれば、ジェダイという形や器などなくたってかまわないし、反対に、まだ心のどこかに本当の気持ちが残っているならば、カイロ・レンは父親を殺したことを悔いるべきだし、母親を殺すべきではない。僕の目にはそんな風に映りました。

 では、スター・ウォーズという作品における「魂」とは何でしょうか。そしてその「魂」は、過去を清算したように見えるエピソード8の中にも残っているのでしょうか。それとも、やっぱりこの映画は「魂」すらも捨ててしまった過去の全否定作品なのでしょうか。スター・ウォーズの魂をどう捉えるかが、結局はこの作品に対する賛否の分かれ目になる気がします。

 僕なりの答えを先に言えば、それは「世界観」です。作品を成り立たせる要素を、物語と世界観とに大きく分けるとすれば、僕は世界観こそがスター・ウォーズの魂だと思っています。

 ジェダイを葬ろうが、フォースをテレパシーのように使おうが、レイアがフォースで宇宙遊泳しようが、コメディ的な間の芝居が増えようが、違和感はあるけど許容はできます。なぜならこれらは「物語」の範疇だから。世界観とはそうではなく、過去の作品の衣装やセット、クリーチャーデザインなどから想像される、あの銀河世界のありようであり、過去の作品と今回の作品との連続性に対する納得感です。

 例えば、ドラえもんがキャラクターとしていかに愛嬌のあるデザインとはいえ、それがそのままBB-8のデザインになってしまったら、スター・ウォーズの世界観にはまったくフィットしません。過去の作品に登場してきたドロイドを想像したときに、その歴史の先にBB-8のあのデザインが生まれることを(好きか嫌いかは別として)許容できること。それがすなわち世界観ということです。

※そういう意味で、以前も書いたように、僕は『ローグ・ワン』という作品のチアルートというキャラクターは許容できないし、今回の作品でも中盤のカジノの町のデザインはアウトだと思いました。

 んで、スター・ウォーズがここまで人気が出たのも、続編がどんどん作られる余地があるのも、物語やキャラクターが魅力的だからというより、器である世界観が強固だからです。世界観が維持されていれば、たとえ登場するキャラクターやストーリーのタッチが変わっても、観客はそこを「つながった世界」だと認知できるし、何度でもその中に没入できます(ガンダムが宇宙世紀を舞台にした作品を次から次へと作れているように)。その意味で、スター・ウォーズを「スター・ウォーズ」たらしめているものは、物語ではなく世界観の方にあると思うのです。

 確かに、フィンとローズがカジノへ行く一連のくだりは蛇足感があるし、DJのキャラクターの扱いはもったいないし、肝心のレイの出生の秘密だって消化不良感が残ります。ただ、それでもあの物語の舞台が、「あのスター・ウォーズの世界」であることは概ね納得できます

 また、その一方で、フォースの相対化やジェダイの相対化といった「過去との決別」という点については、エピソード10以降の展開も示唆されているなか、将来にわたってこの長大なシリーズを続けていくためには、避けては通れないプロセスだったと思います。

 ということで、だいぶ前置きが長くなりましたが、以上のことから僕はエピソード8を評価する…とまで積極的にはなれないけど、少なくとも否定はしません。未来のことを考えたときに、この作品がとった選択は決して間違ってはいないと僕は思います。そういう意味では、この作品の本当の価値は、エピソード15くらいまで作られたときに振り返ってみて初めて分かるのかもしれません

 最後に余談ですが、僕がこの作品を映画館で見たのは、公開3日目の12/17でした。この日はちょうど、大河ドラマ『おんな城主 直虎』の最終回でした。「家名や城など失ってもかまわない。形ではなく魂こそが大事だ」とする『直虎』のテーマは、ちょうどエピソード8と通じる気がして、面白い偶然だなあと唸ったのでした(そこに共通点を見出すのは、僕の心境の反映なのでしょうが)。




sassybestcatをフォローしましょう
ランキング参加中!
↓↓よろしければクリックをお願いします

にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ