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雷電という「鏡」に
名もなき人々の涙が映る


 江戸時代後期に活躍した大相撲力士、雷電爲右エ門は、身長6尺5寸(197cm)、体重45貫(169kg)という当時としてはまさに巨人と呼ぶべき恵まれた身体で、1790年から1811年まで21年もの間土俵に上がりました。その間の通算成績は、254勝10敗2分14預5無勝負。勝率は実に9割6分2厘。あらゆる面において史上最強と呼ぶのに相応しい力士です。その雷電を主人公に描いた小説が、飯嶋和一『雷電本紀』

 とても不思議な小説でした。「雷電を主人公」と書きましたが、厳密にいえば彼だけが主人公ではありません。雷電に化粧まわしを贈ったことで彼と友人のように親しくなる、鉄物卸問屋「鍵屋」の助五郎と妻のさよ、雷電の弟弟子の千田川、医者の恵船先生と彼の元に通う名もない人々、そして雷電の地元信州の力士であり悲劇的な最期をとげる日盛(ひざかり)。彼らは、雷電よりもむしろ強い印象を読後に残します。特に助五郎は第二の主人公というべき人物で、物語の中盤は一時雷電を完全に離れて彼の物語になります。

 不思議なのはもう一つ。時間の進み方がユニークなところです。時系列に沿って丹念にたどっていくのではなく、ある場面の後、いきなり10年ほど時間が飛んだりします。おまけに視点も次々と人物を乗り換えていくので、例えば人物Aの現在が描かれた後に、人物Bの過去の話になったりします。だからといって、物語の密度が薄いということはなく、むしろ潔いまでの時間軸のぶった切り方は、かえって描かれていない「余白」に対する想像を育みます

 その一番の例が、助五郎の妻・さよ。幼い頃に親に売られ、深川の花街で三味線の腕だけを頼りに生きてきたさよは、あることをきっかけに出会った助五郎に見初められ、身請けされます。そこまでの経過は丹念に描かれ、これでようやく彼女に平穏な生活が訪れるんだと思いきや、次の場面ではいきなり何年も時間が飛んで、既に彼女は病気で亡くなっているのです

 読者は意表を突かれ、突き放されたようにすら感じるのですが、このあっけなさは、実は時間というものの本質でもあります。ついこないだまで元気だった人が、急に亡くなってしまったり、そして癒えることなどないと思っていた悲しみも、時間が経てばいつの間にか消えてしまうように。この物語の、無慈悲のようにも思える時間の切り取り方は、だからこそ、そこに生きる人々の健気さや美しさを際立たせます。

 江戸時代は大きな戦争こそなかったものの、人々は飢饉や火事といった災害に怯えながら生きていました。一方で、幕府官僚の不正は日常化し、相撲においても各藩の見栄の張り合いなどを背景とした「拵え相撲」と呼ばれる八百長が横行しました。

 そこに突如現れたのが、八百長が入り込むスキすらないほどに常識はずれの強さを誇る雷電でした。人々は自らの苦しみを束の間忘れられる存在として、あるいは日頃の不満やうっぷんを晴らしてくれる存在として、雷電に夢を見たのです。この物語は雷電の評伝というよりも、雷電を巨大な鏡に仕立て、そこに映る江戸庶民たちの姿を描いた群像劇なのだという気がします。

 物語の序盤、雷電の少年時代の出来事として出てくるのが上州一揆です。そこでは、限界に達した人々の不平不満が巨大な奔流となって藩や幕府といったシステムを押し流していく様が、濃厚な筆致で描かれます。それと同じエネルギーが物語の終盤、もう一度江戸の町で巻き起こり、間接的に雷電の窮地を救う展開は、とても痛快です。一方で、一身に罪を被って死を受け入れる助五郎の姿には、人間の尊厳と、どんな権力者にも冒すことのできない魂の高潔さが表れています。山本周五郎の『さぶ』に通じるものを感じます。

 現代よりも制約が多い過去の時代に物語の舞台を移すことで、人間の本質をより露わにするのが歴史小説・時代小説なのだとしたら、まさにこの小説は、その鑑というべき作品だと思います。






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