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「地域のリアル」は
演劇だからこそすくい取れる


 僕は、仲間と作った劇団で戯曲を書いたり演出したりすることをかれこれ18年も続けていますが(もっともここ数年は活動休止中ですが)、一人の観客・一人の消費者としては、演劇よりも音楽や読書のほうに圧倒的な時間と情熱を注いでいます。演劇なんて、最後に劇場に足を運んだのはいつだろう。

 でも、演劇にしかできないものがあるということは、はっきりと理解しているつもりです。

 まず、演劇は言葉を使います。言葉を使うことで、音楽や絵画に比べると圧倒的に多い情報量を作品に載せることができます。単に伝達手段としての言葉だけではなく、例えばモノローグや群唱(複数の人間による台詞のユニゾン)といった、理性よりも肉体に訴えかけるような詩的な言葉まで、あらゆる言葉を扱うことができます。

 また、演劇は物語を得意とします。ある人物の変化やある出来事の推移を観客に見せる、時間を使った表現ができます。その一方で、一瞬の光景でインパクトを与える視覚的な表現もできます。照明や音楽、ダンスといった手段もあります。

 このように、具体的なものから抽象的なものまで、あらゆる表現手段を詰め込むことができる許容度の深さ、いわば雑食性が、演劇の強いアドバンテージです。もし「何かを表現したいけどどう表現していいかわからない」という人がいたとしたら、僕は演劇をやればいいと思う。

 話は変わります。

「地域演劇」という言葉があります。その名の通り、大都市で職業俳優によって行われる商業演劇ではなく、主として地方において、その土地の住人自らが作り、演じる演劇のことです。「リージョナル・シアター」といって、海外ではその地域の名物ともなっている有名なカンパニーがたくさんあります。

 日本において、地域演劇の草分けとも呼べる存在が、1978年の旗揚げから一貫して地元・弘前を拠点に活動を続ける劇団、弘前劇場です。その主宰者である長谷川孝治が、劇団の歴史と自身のキャリア、そして地域演劇への思いについて書きおろした『地域と演劇 弘前劇場の三十年』という本があります。この本のなかで著者は、単に地元の仲間と趣味で活動するアマチュア劇団と地域演劇とを明確に区別しています。

 峽は何故演劇をやっているの?」
◆峽たちは何故劇団をやっているの?」
「しかも、公的な助成を受けて」
の問いかけがない場合の答えは簡単である。「好きだから」「やりたいから」でよろしい。それ以外の答えなど不要だ。しかし、私たちはに対しての答えを完全に導き出すことができるだろうか。

 著者は地域演劇を、単に地方在住の人間が参加するだけではなく、公的な助成金をもらって活動するものと捉えています。「公的な助成金をもらう」ということは、その地域に住む人にとってなんらかの恩恵やプラスの効果が期待できることが前提になります。じゃあ、演劇が地域に還元できるものって何なのでしょうか。

 本書の中に、このような一節があります。

ことさらに役など作らなくても人間は充分に演技する存在である。(中略)ならば、商業的に役を演じ分ける必要がない地方の演劇で成立する演技とは、中央のプロと呼ばれる俳優たちの演技とはおのずから違ってくるのではないか。

 弘前劇場の劇団員は、主宰である長谷川孝治も含めて、昼間は別の仕事をしています。会社員や公務員として働きながら、家庭をもち、地域社会ともコミットしながら暮らしています。つまり、「普通の生活」を送っている人たちです。

 その「普通の生活」は彼らに、例えば「中間管理職である自分」や「夫/妻である自分」「親である自分」など、何らかの「役」を演じることを要求します。生活者だからこそ、演技をすることが常態化しているのです。だとしたら、舞台に上がって今更「殺人犯と刑事」や「王子と姫」を演じることに意味はあるのか。そんなことは中央の職業俳優による商業演劇に任せておけばよい。地域に根差している者だけが体現できるリアルな「演技」は他にあるんじゃないか―。

 著者がこの命題に対する一つの解として取り入れたのが、淡々とした日常会話が中心の物語進行と、標準語で書かれた台詞を役者が自分自身の手(口)で使い慣れた津軽弁に「翻訳する」という手法でした。

 例えば、リンゴ農家を舞台に登場人物が津軽弁で喋るシーンがあるとしたら、東京の人間には言葉すら聞き取れない可能性がありますが、地元の観客にはごく日常の馴染みのある場面でしょう。標準語よりもむしろ細かいニュアンスが伝わるかもしれません。

 大都市から発信される最大公約数化された「中央のリアル」とは別に、そこに住む人たちのなかでのみ共有される「地域のリアル」があるのだとすれば、それを反映した作品を作ることが、「公的な助成」を受けた地域演劇の役割である。…本書を読んで僕はそう考えました。

 なぜ「地域のリアル」を反映することが、その地域にとって恩恵になるのか。それは、同じ土地に住む人が作り、その土地の言葉で語られる物語は、単なるエンターテインメントという枠を超え、「自分たちの物語」になる可能性を秘めているからです。以前『オオカミの護符』僕自身のファミリーヒストリー豊島氏の話などで書いてきたことと同じように、「自分たちの物語」は、その土地に住んでいることに意味を与え、ひいてはその人のアイデンティティを強化してくれます。自治体が地域の史跡を整備したり、郷土資料館を公開したりするのと本質的には同じことです。

 そして、「地域のリアル」を反映しようとしたときに、音楽や絵画などさまざまなアートがあるなかで、演劇は非常にそれに向いているメディアだと思います。一つは冒頭に書いた雑食性です。言葉や物語を持ち、視覚も聴覚も使い、具体から抽象まであらゆるタイプの表現に対応できるからこそ、中央のリアルとの微妙な差をすくい取ることに長けています。

 また、祝祭という側面をもつ演劇には、観客として見るだけでなく、自ら参加するという楽しみ方もあります。地元の祭りが地域の結びつきや土地の人のアイデンティティを強化するのと同じような役割を、演劇が果たすことも可能かもしれません。このように考えていくと、「地域音楽」や「地域絵画」という言葉をなかなか聞かない一方で、地域演劇という概念が成立している理由がわかってくる気がします。


 僕らの劇団は結成して最初の4年間を、地元である神奈川県の藤沢で活動していました。でも当時、自分たちが藤沢の地域演劇であると考えたことはありませんでした。

 藤沢は、ほんの一時間電車に乗るだけで新宿や渋谷、銀座といった大都市の中心部にたどり着けます。経済面でも文化面でも東京圏に属する藤沢に、あの町だけのリアルというものがあったのだろうかと、本書を読んで考えてしまいました。あのまま藤沢で活動を続けていたら、もしかしたら今頃僕は「故郷の再発見」をできていたのかもしれません(それができずに今に至るという話は『あまちゃん』のときに書いたとおりです)。

 ただ、本書は別に、地方在住の演劇人のみに向けて書かれた本ではありません。「中央と地域」というファクターを取り除いてみれば、本書に書かれているのは「結局、その作品は誰にとってのリアルを反映しているのか」という、アーティストにとっては根本的で普遍的な問題だからです。






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