61YOTnBlb8L._SY355_

「2つの時代」を
同時に抱える不思議


 先週に続きニール・セダカの話です。

 前回は、職業作曲家が音楽出版社を通じて曲を提供し、歌手はもっぱらそれを歌うだけという長く続いてきた分業体制が、1950年代から歌手自身が作詞作曲する自作自演が増えてきたことで崩れ始めた、という話を書きました。そして、白人ポップスの分野でもっとも初期に登場した自作自演歌手の一人としてニール・セダカの名前を挙げました

 1939年にNYブルックリンで生まれたニール・セダカは、高校在学中に仲間とコーラスグループを結成。「トーケンズ」という名前でレコードデビューを果たしますが、後にニールは脱退し、57年にRCAからソロ歌手としてデビューします(トーケンズは後に<The Lion Sleeps Tonight>で全米1位を獲得する、あのトーケンズです)。

 ソロデビューしたもののしばらくはヒットに恵まれませんでしたが、58年秋に<The Diary>が全米14位を記録。59年に<Oh!Carol>(9位)、61年に<Calendar Girl>(4位)と着実に人気を広げ、62年の<Breaking Up Is Hard To Do>でついに全米1位を獲得し、人気の絶頂を迎えます。これらの楽曲は全てニール自身が作曲を手掛けました。もしシンガーソングライター(SSW)という言葉が、既に当時存在していれば、その呼び名で呼ばれた最初期の一人になっていたでしょう。

 しかし、SSW(便宜上この言葉を使います)というのはあくまでニールの一面でしかありません。実は彼にはもう一つ、他の歌手に曲を提供する職業作家としての一面があるのです。というよりも、むしろ彼の音楽家としてのキャリアは職業作家のほうから始まります。

 ニールは幼少期からクラシックピアノの英才教育を受けていましたが(後にジュリアード音楽院に進学)、13歳のとき、近所に住む3つ年上の詩人の卵、ハワード・グリーンフィールドと出会い2人で曲を作り始めます。2人はやがて新興の音楽出版社アルドン・ミュージックと契約を結び、キャロル・キングジャック・ケラーと並んで同社の第1号ライターチームの一組となります。

 作曲ニール、作詞ハワードというこのコンビの最初のヒット作は、58年夏にリリースされ、全米14位に上ったコニー・フランシス<Stupid Cupid>。ニール自身の最初のヒット曲<The Diary>が58年の秋だったので、彼自身の名前が最初に世間に認知されたのは、歌手としてではなく作曲家としてだったということになります。当時若干19歳でした

 前述の通り、ニール自身の歌手としての人気もこの頃から急上昇していくのですが、同時並行でハワードとのソングライターチームもたくさんのヒット曲を連発し始めます。ラヴァーン・ベイカーの<I Waited Too Long>(59年)やジミー・クラントンの<Another Sleepless Night>(60年)、そしてなんといってもコニー・フランシスの<Where The Boys Are>(61年)。全米4位の大ヒットとなり彼女の代表曲になりました。僕が最初に聴いたコニーの歌もこの曲でした。

 このように、ニール・セダカというアーティストは、自作自演歌手でありながら音楽出版社と契約した職業作曲家でもあるという2つの面を併せ持っていました。自作自演歌手が一般的になるにつれて、それまで業界の重要なプレイヤーだった音楽出版社は徐々にその存在感が薄くなっていったと書きましたが、そういう意味ではニールという一人のアーティストのなかに、既存のシステムとそれを壊す新しい波とが同居していたわけです。ニールのキャリアが面白いと書く根拠は、まさにこの矛盾にあります。

 さて、2週にわたってニール・セダカについて書いてきましたが、肝心の音楽の話にふれてませんでした。ということで来週もう1回ニール・セダカやります。

 ちなみに、ニール・セダカの名前で音源やCDを検索すると基本的にはほとんどニール自身が歌う作品しかヒットしません。職業作曲家としての彼の作品がまとまったものは、ハワード・グリーンフィールドと組んでいた60年代の楽曲を集めた『Where The Boys Are: The Songs Of Neil Sedaka And Howard Greenfield』が僕の知る限りは唯一です。







sassybestcatをフォローしましょう
ランキング参加中!
↓↓よろしければクリックをお願いします

にほんブログ村 音楽ブログ CDレビューへ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ