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「新人役者を入れること」と
「再演を繰り返すこと」は矛盾する


 前回の続きです。

 人生で初めて劇団四季を見て感動したのと同じ週に、演劇集団キャラメルボックスの活動休止(運営会社の倒産)という報にふれて、「演劇で食う」ことは可能だけど「劇団で食う」ことは不可能だと考えた、という話です。

 去年の暮れのことでした。Twitterかなにかでキャラメルの最新公演の情報を偶然目にして、何年ぶりかに彼らのHPを覗いたことがありました。んで、「えっ?」と驚いたんです。

 何に驚いたかというと、公演期間がわずか2週間しかなかったこと。僕が知ってる時代は、どんなに短くても1か月は東京公演をやっていました。つまり、いつの間にか動員力がかつての半分にまで落ち込んでいたのです。そのときの衝撃があったので、その半年後に倒産というニュースを聞いたときは、正直納得する部分もありました。

 さて、ここから書く内容は「だからキャラメル(の運営会社)は倒産した」という話ではなく、あくまで「僕がキャラメルを見なくなった理由」です。ただし、これが「劇団で食う」ことは不可能と考える理由と深く結びついています。まず、前回の続きで、定期的なオーディションによる「人材の確保」と、再演の多用による「作品の確保」では、なぜ「劇団で食う」には不十分なのか、という話です。

 そもそも今回の話は、演劇特有の<チケット料金×劇場の座席数×総ステージ数>という売り上げの上限問題について、劇団四季は「役者を交換可能にする仕組み」によってそれを克服したものの、演劇は一般的に「その役者であること」が重要なので、「役者を交換可能にする仕組み」を導入できる劇団は限られている、というところから出発しています。つまり、「その役者である必然」を担保することが前提になっています。

 んで、ものすごく当たり前の話ですが、役者は年を取ります。年を取れば、演技の質も変わるし、演じられる役柄も変わってきます。ある役者が、20代のころに演じた役を、40代、50代になってもう一度演じようとしても、ふつうは成立しません(本当は、そこで成立する場合があるのが演劇の面白さなのですが、ここでは端折ります)。とすると、劇団が過去の人気作を何度も再演していくためには、若い役者を確保し続けなければなりません。

 しかし一方で、「過去の人気作」がそもそもなぜ人気を博したかといえば、「今は40代、50代になってしまった役者」である彼/彼女が出演していたからともいえます。リメイク作品が「やっぱりオリジナルで主役を演じてたあの俳優のほうがよかった」などといわれるのは、よくあることです。

 だから、優れた若い役者が入ったのだとすれば、本来は過去の作品の再演などではなく「その若い役者にしかできない作品」を新たに作るべきなのです。「その役者である必然」とは、役者が一人ひとり異なることを前提とすることだからです。新しい人材を入れることと、再演を繰り返すことは、この点で根本的に矛盾しているのです。

レノン&マッカートニーは
「ライバル」だからうまく機能した


 ここで、いったん話題を変えて、「集団」ということについて話をしてみたいと思います(以下に述べる「集団」は、家族や友達グループではなく、作品など何らかの成果物を共同で作る生産集団のことだと思ってください)。

 僕らアラフォー世代には有名な話なのですが、90年代初めに人気のあったWANDSという音楽グループが、あるとき突然バックの一人を除いてメンバー総入れ替えをしたことがありました。ボーカルも別の人間に代わり、だけど名前はWANDSのままなのです。

 元々このグループはビーイングが作った即席バンドという成り立ちだったので、レーベル側の認識としては同じ要領を繰り返しただけだったのかもしれません。けれど、さすがにファンからすれば、元のメンバー=WANDSと認知されていたので、新生WANDSはすぐにそっぽを向かれて解散しました。

 ここからいえることは、バンドでも劇団でも、集団において重要なのは看板(=集団の名前)ではなく、中身(=構成員)であるということです。これは決してイメージだけの話ではありません。構成員が変われば、集団としての作品まで変わるからです。WANDSの例でいえば、いくら楽曲や演奏は裏方が支えたとしても、ボーカルは間違いなく変わってしまいます。それはグループの作品としては、同じWANDSであるという説得力を失うほど、決定的な違いです。

 さらに例を出します。ビートルズの<We Can Work It Out>はポールが書いた曲ですが、ポール一人の力によってあの曲が完成したわけではありません。ポールの甘いヴァースの後に、ジョンが「Life Is Very Short...」とニヒルなフレーズを歌い、その後にジョージがアイデアを出したワルツのリズムを、リンゴが独特のバラけたリズムで叩くことで、ようやくこの曲は完成形にたどりつきます。このうち誰か一人でも欠けたら、僕らが知っている「あのフィーリング」は生まれなかったはずです。

 このように、集団の作品は、異なる人間の嗜好やキャラクターが複雑に絡み合うことで作られます。個人でつくるものよりも、集団でつくる作品のほうが、構成員一人への依存が少ないと一般的には考えられがちですが、5月にリリースされたヴァンパイア・ウィークエンドの4thがロスタム・バドマングリの不在を強く感じさせたように、むしろ、個人よりも集団のほうが、「その人である必然」が目立つともいえます

 でも、それは特別「集団」という形でなくたって、たとえば演劇でいうところのプロデュース公演のような、その場限りで作られたグループによる作業でも同じだと思われるかもしれません。確かに、原理的には同じでしょう。でも、一つの作品だけのために集められた即席グループよりも、作品をまたいで何年も共同作業を続ける「集団」のほうが、その時間の蓄積により、構成員同士の相互理解が圧倒的に深いはずです。集団の作品が構成員のパーソナリティーを強く反映するのは、この「相互理解の深さ」が背景になっています。

 相互理解が深いとは、仲が良いという意味とはちょっと違います。むしろ、関係が深まるほど見えてくるお互いの違いを乗り越えて、どうやって全員が納得できる作品をつくるかという、一種の緊張感のある関係のことです。レノン&マッカートニーがなぜあれほどの名曲を短期間に量産できたかといえば、2人が単に仲が良かったからではなく、相手の才能が分かっているからこそ「負けたくない」と考えるライバルのような関係が、二人の間にあったからです。

 これは完全に余談ですが、最近のポールのインタビューで「あなたはいろんなアーティストとコラボしているけど、もっとも相性がよかったのは誰か?」という質問に対し、彼が「ジョンに決まってるじゃん」と即答していたのには、ちょっと涙が出ました。

 んで、レノン&マッカートニーにしろ、モリッシー&マーにしろ、バラー&ドハーティにしろ、そこからいえることは、集団の作品やそのなかで行われるコミュニケーションの質は、構成員の関係がイーブンに近く、一定の緊張感があるほどうまくいく、ということです。

 さっき、若い役者が入ってきたら、その若い役者のための作品を別に作るべきだと書きました。しかし、実際にやろうと思っても、それは難しいだろうと思います。なぜなら、作・演出家(普通は劇団の旗揚げメンバーでしょう)は年を取っていく一方で、毎年入団してくる役者は常に若いため、年齢とキャリアの差は年々広がっていくからです。成井豊は、西川浩幸・上川隆也・近江谷太朗という同世代トリオがいたからこそ『サンタクロースが歌ってくれた』が書けたのであって、若い役者で同じ成果を目指そうとしても、本質的に無理だろうと思うのです。

 僕がキャラメルを見なくなったのは、端的に「役者が魅力的ではなくなったから」でした。その境目がちょうど、ベテランと若手の年齢差がひと回りを迎えたであろう劇団結成15年目あたり(2000年ころ)だったのは、偶然じゃないと思っています。

「劇団で食えない人」に支えられる
劇団という文化


 ここで、話をもう一度整理します。多くの劇団は「その役者である必然」が問われる。過去の人気作を定期的に再演していくために若い役者を入れても、それは過去のコピーに過ぎず、いずれ劣化することは免れない。一方で、集団は構成員のキャリアや年齢が一定以上離れると機能しない。若い役者のための作品をベテラン作家が書こうと思っても、それは本質的に難しい…という話でした。

 キャラメルボックスが、もしこの悪循環に陥ったのだとしたら、どうしたらよかったのだろうと考えます。

 すぐに思いつくのは公演ペースを落とすことです。1年に1回、あるいは数年に1回に公演ペースを落とせば、役者を新しく確保する必要もなくなり、そうすればベテラン劇団員たち同士で、相応に年を取った作品を作ることができます。それは、『サンタクロースが歌ってくれた』のようなエネルギッシュに舞台を走り回る物語ではないかもしれないけれど、年齢を重ねた成井豊と劇団員だからこそできる「その役者である必然」のある作品のはずです。

 でも、1年に1度の公演じゃ、とても食えません。劇団員は、劇団の外に食い扶持(TVとか客演とか)をみつけてもらうしかない。そのうえで、劇団はある種趣味として続けるのです。大人計画NYLON100℃といった超有名劇団のほとんどはこのスタイルです。ただ、当然ながらこれは「劇団で食う」ことにはなりません。

 あるいは、劇団☆新感線のように、何本も公演を打つものの、出演者の大半は外部から連れてくる、劇団といいながら実質的にはプロデュース公演スタイルという選択肢もあるでしょう。これなら、過去の人気作を半永久的に再演し続けることが可能です(実際、キャラメルも00年代半ばあたりから、主役など一部の出演者を外部から呼ぶスタイルを採用し始めたようですが、結果的には人気の回復には至らなかったということでしょう)。ただし、これもやはり「劇団で食う」ことにはなりません。

 結局、キャラメルは公演をハイペースで打ち続けました。僕には、彼らはあくまで「劇団で食う」ということにこだわっていたように見えます。でも、しつこいようですが、「劇団で食う」ためには「原理的な売り上げの限界」問題をどうにかしなくてはいけません。そのためには、四季のように役者を匿名性のベールで包んでしまうしかない。「その役者である必然」を残して、出演者の大半を自前の劇団員でまかない、なおかつオリジナルの作品にこだわる、つまりはオーソドックスな「劇団」のスタイルを貫いたままで「食う」ことは、ここまで書いてきたように不可能であるという結論にならざるをえないのです。これが、僕が「演劇で食う」(役者や作家が個人で食う)のは可能だけど「劇団(の売上だけ)で食う」のは不可能だと考える理由です。

 ここまで3回にも分けて延々と書いてきて、「劇団で食うのは無理」という結論は、我ながらなんとも虚しい。けれど、他の収入に頼らず、純粋に「劇団だけで食う」ことは可能なのかという問いは、おそらくたくさんの演劇人がこれまでに考えてきた命題であり、きっとそのほとんどが「無理!」という同じ結論に至ったはずです。僕が前回、「これから書こうとしている話は『何を今更言ってんだ』という内容」と書いた理由はそれでした。

 個人的には、「劇団で食う」ことよりも「劇団を続ける」ことのほうがはるかに大事だと思っています。僕の所属する劇団theatre project BRIDGEが、早々と社会人劇団という形に移行したのも、ある意味では食い扶持を他で見つけて劇団は課外活動化するという手法の亜種だったともいえます。だから、「劇団では食えない」という結論そのものは、大してショッキングではありません。

 ただ、本当にそれでいいのか?という問いは多分これからも考えていく気がします。劇団という文化が、プロにしろアマにしろ、劇団外で稼ぐ劇団員たちの、一種の自助努力によってのみ支えられているという状況が、演劇全体にとってどういう意味があるのかという問いです。




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