東京の日本橋から京都の三条大橋まで、旧東海道550kmをガチで走る「東海道ラン」。
前日は静岡の島田宿まで走りそのまま一泊。迎えた本日10日目は、掛川宿まで走ります。
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(24)金谷宿へ
朝6時、昨日訪れた大井神社前からスタートです。夜中に雨が降っていました。今はギリギリ止んでいます。

まずは1kmほど先の大井川を目指します。次の金谷宿は大井川の対岸にあります。島田宿と金谷宿は、大井川をわたる旅人の警戒と川止め時の逗留場所として東と西の両岸で栄えた、いわば双子の宿場だったんですね。
道路わきの用水路。

神社の境内にある用水路もそうだったんだけど、なぜか水が乳白色をしています。石灰分が多く含まれているせいなんだろうか。
やってきました、大井川。江戸時代は、川越人足に担がれたり背負われたりして渡るしかなかった大井川ですが、今はこの大井川橋で渡ることができます。

かつては、たびたび増水して旅人を足止めさせた難所でしたが、今はどうなんですかね。この日の水量はこんな感じ。きわめて少ない。

わたり切りました。ほぼ1km! たぶん、この旅始まって以来最長の橋でした。

旧東海道は、県道から1本南側に入った細い道。

島田宿と同様に、かつては金谷宿側のこちらにも川越人足たちの待機する番宿があったそうです。

大井川鐡道の線路をわたります。

と、ここで「模範的」といってもいい蓋暗渠を発見。


写真に収めずにはいられませんでした。
大代川をわたります。ここから2kmほど下流で大井川に合流する小さな川です。

もう1本川をわたります。こちらは清水川。橋の手前で2つの小河川が合流しています。水好きにはたまらない光景。

この先わずか300mほどで、先ほどの大代川に合流する超短命な川ですが、大井川という一級水系に属するので一級河川に指定されています。ちなみに「清水川」という川は全国に50本以上あります。川の世界の「鈴木さん」「佐藤さん」みたいなものか。
金谷の中心街に入ってきました。旧東海道がそのまま町のメインストリートになっています。早朝なので誰もいないけど、小さな商店が並んでいて、これまでいろんなところで見てきた宿場町独特の雰囲気を確かに感じます。

そして到着しました。金谷宿の本陣、柏屋本陣です。メインロードのちょうど真ん中あたりにあって、今はJAの建物になっています。

江戸幕府が宿場を整備した当初から本陣を任されていた土地の名家だったそうですが、火事や地震などの天災に何度も苦しめられた歴史があるそうです。
ということで金谷宿に到着です。
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(25)日坂宿へ
続いて向かう日坂宿までは、山を一つ越えなくてはなりません。「小夜の中山」と呼ばれる峠は、東海道有数の難所として知られています。金谷宿本陣を過ぎると早くも道はゆるやかな上り坂に。

坂を上りきったところにJR東海道本線と大井川鐡道大井川本線の金谷駅があります。その手前にあるのが金谷一里塚。日本橋から53番目の一里塚です。

金谷駅には東海道線が停まっていました。大井川鐡道のほうは、この金谷駅が終点になります。

金谷駅を後にして、さらに傾斜を増した坂道に挑みます。東海道の難所の一つ「小夜の中山峠」への上り坂は、すでに始まっています。

金谷駅からわずか5分でこの高さまで登ってきました。雲間から太陽が。

そして出ました!石畳!これが難所として有名な金谷坂です。

オリジナルの石畳はわずかしか残っていなかったところを、30年ほど前に地元の人たちの手によって復元されたそう。坂のスタートにはトイレなんかも整備されていて、地元の人の歴史を大事にする姿勢に頭が下がる思いです。

急な石畳は500mほどでおしまい。上りきるとそこには一面の茶畑が広がっていました。

そうか、このあたりはお茶の生産で有名な牧之原台地の一部なんですよね。
と、ここで諏訪原城跡という史跡と遭遇。ちょっと寄り道してみます。

諏訪原城は天正元年(1573年)、武田勝頼が遠江攻略のために家臣・馬場信春に築城させた山城で、曲輪や井戸などの遺構がほぼ完全な形で残っていることから、国指定文化財になっています。
なかでも圧巻だったのが空堀。

これは外堀の一部なんだけど、このデカさと深さ!ほとんど谷です。

洗練された都市部の城では感じることのできない、人をガチで殺してやろうという意図が生々しく感じられて、背筋がヒヤッとしました。なかなか見ごたえあります、諏訪原城。
東海道ルートに復帰しました。ここからは一転、下り坂です。

菊川坂と呼ばれる坂で、こっちの石畳は江戸時代後期のものが現役で残っています。

景色もいい。

坂を下りきると、間の宿(あいのしゅく)菊川宿に到着。

紛らわしいのですが、この菊川宿は、JRの駅がある静岡県菊川市とは関係ありません。菊川宿は島田市菊川。19世紀の終わりに明治政府が鉄道を敷設する際に、なぜか菊川駅(当時は堀ノ内駅)だけは旧東海道から5kmも離れた場所に作ったため、現在では「菊川」といえばJRの駅のほうを指すようになってしまいました。
ですが、地名のオリジナルはこっちの菊川宿。『吾妻鏡』の時代から名前が確認できるほど古い歴史があり、鎌倉末期には京都で捕らえられて護送される日野俊基が、この地で歌を残しました。

菊川宿を過ぎると、道は再び上り坂に。小夜の中山はまもなくです。

沿道は相変わらず茶畑。

かなりの傾斜です。

坂を上りきったところにあるのが真言宗の久延寺(きゅうえんじ)。

このあたりが小夜の中山の頂上付近です。標高は250m程度とたいしたことないのですが、一つひとつの坂が急なのと、上ったり下りたりを何度も繰り返さなくてはならないので、けっこう体力を使います。たしかにこれは難所。
ところで、小夜の中山といえば有名なのが、この久延寺の境内にある「夜泣き石」。

小夜の中山に住んでいた妊婦の魂が宿ったといわれる石で、生まれたばかりの赤子の代わりにこの石が泣き声を出して助けを求めたという伝説が残っています。
ややこしいのですが、実はこの久延寺にある石は「レプリカ」です。本物の夜泣き石は明治時代に東京に運ばれて見世物にされるのですが、帰ってくる途中にどういうわけか、ここから北へ1kmほどいった国道1号線の沿道に置かれてしまいました。
さて、道はゆるやかな下りへ。小夜の中山を越したのであとは下るだけです。

途中、佐夜鹿(さよしか)の一里塚を見かけました。

さらに下ると、夜泣き石跡を発見。

道が一部谷のようになっていた場所の、その底あたりにありました。先ほども出た夜泣き石ですが、元々はここにあったんですね。
下り坂は最後は急に。国道1号線の高架をくぐれば、まもなく日坂宿です。

日坂宿へ入りました。右に見えるのは秋葉常夜灯。

日坂宿はこれまでに何度となく火災にあってきました。そのため火除けにご利益があるといわれる秋葉信仰が盛んななんだそうです。
そしてここが本陣跡。

「扇屋」という屋号をもつこの本陣は、江戸時代が終わってからも地域の小学校として使われていたそうです。
ということで、25番目の宿場、日坂宿に到着です。
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(26)掛川宿へ
今日のゴールである掛川宿目指して日坂宿に別れを告げます。ここが宿場町の端っこ。高札場と下木戸がありました。

宿場の出入口は防備のため、木戸がもうけられたり道が枡形になっていたりするケースが多いですが、日坂宿の場合はさらに逆川という天然の要害も利用していたようです。

宿場を出るとすぐに出会うのが事任八幡宮。「ことのままはちまんぐう」と読みます。遠江国の一宮で、2世紀終わりに建てられたというめちゃくちゃ古い神社です。

旧東海道ルートは県道415号線に沿って進みます。先ほど日坂宿の手前で交差した国道1号線の高架を、ここで再びくぐります。

1号線を過ぎたところで伊達方(だてがた)の一里塚を発見。

ルートはいったん415号線の脇道にそれて、

再び415号線に合流。

このパターンをしばらく何度か繰り返します。
でも、それも本村橋の交差点でおしまい。ここからは左の脇道で一気に掛川市内を目指します。

ほどなく逆川をわたります。日坂宿の外れでわたったときはまだ山から出てきたばかりの細い渓流だったのに、いつのまにか護岸工事もしてもらえるような立派な都市河川になって…。

川の対岸に葛川の一里塚がありました。今回の旅では最後の一里塚です。

逆川をわたると、いよいよ掛川の町に入っていきます。実際、江戸時代もこの川が町の境界線であり、渡ったあたりに門があったそうです(そう考えると、逆川というのは日坂宿と掛川宿、2つの宿場の境界線を担っていることになるわけか)。
んで、川をわたって門(今はありません)をくぐったところに、掛川独自の防備のための仕掛けがありました。それが「七曲り」(看板が見切れててすいません)。

文字通り、道を7回曲げています。本来は直線で済むところを、わざと道を曲げることで大軍の侵入を阻む仕掛けは、これまでの宿場でもたくさん見てきましたが、7回というのはさすがに初めてですね。
では行ってみます。まず1個目の曲がり角。

2個目。今は普通の住宅街ですね。

3個目。

4個目。

5個目。ここは小さな枡形になってますね。

6個目。

そして最後、7個目。かつてはこのあたりに木戸と番所があったそうです。いやあ、七曲りしつこい!

城下町に入ってきました。

小さな川をわたります。先ほどの逆川が掛川城の南を流れており、そこから分流している無名の川なのですが、雰囲気的にはかつて堀だったように見えます。

ちなみに逆川は、掛川城の天然の内堀になってます。2つの宿場の境界線として機能し、さらに城の内堀としても働く。逆川、すごいです。
そして見つけました。本陣跡。このあたりにかつて連雀沢野屋という屋号で本陣が構えられていたそうです(掛川宿にはもう1軒本陣があります)。

いまは「本陣跡通り」という飲み屋街になっているようです。歴史と現代の生活とを結びつけるこういう利用の仕方、いいですね。

これでゴールですが、せっかくなので掛川城に上ってみることにしました。

天守に上ると掛川の町が一望できます。新幹線で通るたび「こじんまりしたいい町だなあ」と思ってたんですよね。

こちらが東側。こっちの方向から延々走ってきました。

そしてこっちが西側。つまりこれから走る方角です。ずっと向こうに浜名湖があるんだなあ。

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ということで掛川宿までたどりつきました。次回(いつできるんだろう…)は浜松宿を目指します。浜松までたどりつけば、長かった静岡県もいよいよ終わりが見えてきます。
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前日は静岡の島田宿まで走りそのまま一泊。迎えた本日10日目は、掛川宿まで走ります。
(前回まではこちら)
#0日目:ルールと計画編
#1日目:日本橋〜川崎
#2日目:川崎〜藤沢
#3日目:藤沢〜小田原
#4日目:小田原〜三島
#5日目:三島〜吉原
#6日目:吉原〜江尻
#7日目:江尻〜府中
#8日目:府中〜藤枝
#9日目:藤枝〜島田
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(24)金谷宿へ
朝6時、昨日訪れた大井神社前からスタートです。夜中に雨が降っていました。今はギリギリ止んでいます。

まずは1kmほど先の大井川を目指します。次の金谷宿は大井川の対岸にあります。島田宿と金谷宿は、大井川をわたる旅人の警戒と川止め時の逗留場所として東と西の両岸で栄えた、いわば双子の宿場だったんですね。
道路わきの用水路。

神社の境内にある用水路もそうだったんだけど、なぜか水が乳白色をしています。石灰分が多く含まれているせいなんだろうか。
やってきました、大井川。江戸時代は、川越人足に担がれたり背負われたりして渡るしかなかった大井川ですが、今はこの大井川橋で渡ることができます。

かつては、たびたび増水して旅人を足止めさせた難所でしたが、今はどうなんですかね。この日の水量はこんな感じ。きわめて少ない。

わたり切りました。ほぼ1km! たぶん、この旅始まって以来最長の橋でした。

旧東海道は、県道から1本南側に入った細い道。

島田宿と同様に、かつては金谷宿側のこちらにも川越人足たちの待機する番宿があったそうです。

大井川鐡道の線路をわたります。

と、ここで「模範的」といってもいい蓋暗渠を発見。


写真に収めずにはいられませんでした。
大代川をわたります。ここから2kmほど下流で大井川に合流する小さな川です。

もう1本川をわたります。こちらは清水川。橋の手前で2つの小河川が合流しています。水好きにはたまらない光景。

この先わずか300mほどで、先ほどの大代川に合流する超短命な川ですが、大井川という一級水系に属するので一級河川に指定されています。ちなみに「清水川」という川は全国に50本以上あります。川の世界の「鈴木さん」「佐藤さん」みたいなものか。
金谷の中心街に入ってきました。旧東海道がそのまま町のメインストリートになっています。早朝なので誰もいないけど、小さな商店が並んでいて、これまでいろんなところで見てきた宿場町独特の雰囲気を確かに感じます。

そして到着しました。金谷宿の本陣、柏屋本陣です。メインロードのちょうど真ん中あたりにあって、今はJAの建物になっています。

江戸幕府が宿場を整備した当初から本陣を任されていた土地の名家だったそうですが、火事や地震などの天災に何度も苦しめられた歴史があるそうです。
ということで金谷宿に到着です。
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(25)日坂宿へ
続いて向かう日坂宿までは、山を一つ越えなくてはなりません。「小夜の中山」と呼ばれる峠は、東海道有数の難所として知られています。金谷宿本陣を過ぎると早くも道はゆるやかな上り坂に。

坂を上りきったところにJR東海道本線と大井川鐡道大井川本線の金谷駅があります。その手前にあるのが金谷一里塚。日本橋から53番目の一里塚です。

金谷駅には東海道線が停まっていました。大井川鐡道のほうは、この金谷駅が終点になります。

金谷駅を後にして、さらに傾斜を増した坂道に挑みます。東海道の難所の一つ「小夜の中山峠」への上り坂は、すでに始まっています。

金谷駅からわずか5分でこの高さまで登ってきました。雲間から太陽が。

そして出ました!石畳!これが難所として有名な金谷坂です。

オリジナルの石畳はわずかしか残っていなかったところを、30年ほど前に地元の人たちの手によって復元されたそう。坂のスタートにはトイレなんかも整備されていて、地元の人の歴史を大事にする姿勢に頭が下がる思いです。

急な石畳は500mほどでおしまい。上りきるとそこには一面の茶畑が広がっていました。

そうか、このあたりはお茶の生産で有名な牧之原台地の一部なんですよね。
と、ここで諏訪原城跡という史跡と遭遇。ちょっと寄り道してみます。

諏訪原城は天正元年(1573年)、武田勝頼が遠江攻略のために家臣・馬場信春に築城させた山城で、曲輪や井戸などの遺構がほぼ完全な形で残っていることから、国指定文化財になっています。
なかでも圧巻だったのが空堀。

これは外堀の一部なんだけど、このデカさと深さ!ほとんど谷です。

洗練された都市部の城では感じることのできない、人をガチで殺してやろうという意図が生々しく感じられて、背筋がヒヤッとしました。なかなか見ごたえあります、諏訪原城。
東海道ルートに復帰しました。ここからは一転、下り坂です。

菊川坂と呼ばれる坂で、こっちの石畳は江戸時代後期のものが現役で残っています。

景色もいい。

坂を下りきると、間の宿(あいのしゅく)菊川宿に到着。

紛らわしいのですが、この菊川宿は、JRの駅がある静岡県菊川市とは関係ありません。菊川宿は島田市菊川。19世紀の終わりに明治政府が鉄道を敷設する際に、なぜか菊川駅(当時は堀ノ内駅)だけは旧東海道から5kmも離れた場所に作ったため、現在では「菊川」といえばJRの駅のほうを指すようになってしまいました。
ですが、地名のオリジナルはこっちの菊川宿。『吾妻鏡』の時代から名前が確認できるほど古い歴史があり、鎌倉末期には京都で捕らえられて護送される日野俊基が、この地で歌を残しました。

菊川宿を過ぎると、道は再び上り坂に。小夜の中山はまもなくです。

沿道は相変わらず茶畑。

かなりの傾斜です。

坂を上りきったところにあるのが真言宗の久延寺(きゅうえんじ)。

このあたりが小夜の中山の頂上付近です。標高は250m程度とたいしたことないのですが、一つひとつの坂が急なのと、上ったり下りたりを何度も繰り返さなくてはならないので、けっこう体力を使います。たしかにこれは難所。
ところで、小夜の中山といえば有名なのが、この久延寺の境内にある「夜泣き石」。

小夜の中山に住んでいた妊婦の魂が宿ったといわれる石で、生まれたばかりの赤子の代わりにこの石が泣き声を出して助けを求めたという伝説が残っています。
ややこしいのですが、実はこの久延寺にある石は「レプリカ」です。本物の夜泣き石は明治時代に東京に運ばれて見世物にされるのですが、帰ってくる途中にどういうわけか、ここから北へ1kmほどいった国道1号線の沿道に置かれてしまいました。
さて、道はゆるやかな下りへ。小夜の中山を越したのであとは下るだけです。

途中、佐夜鹿(さよしか)の一里塚を見かけました。

さらに下ると、夜泣き石跡を発見。

道が一部谷のようになっていた場所の、その底あたりにありました。先ほども出た夜泣き石ですが、元々はここにあったんですね。
下り坂は最後は急に。国道1号線の高架をくぐれば、まもなく日坂宿です。

日坂宿へ入りました。右に見えるのは秋葉常夜灯。

日坂宿はこれまでに何度となく火災にあってきました。そのため火除けにご利益があるといわれる秋葉信仰が盛んななんだそうです。
そしてここが本陣跡。

「扇屋」という屋号をもつこの本陣は、江戸時代が終わってからも地域の小学校として使われていたそうです。
ということで、25番目の宿場、日坂宿に到着です。
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(26)掛川宿へ
今日のゴールである掛川宿目指して日坂宿に別れを告げます。ここが宿場町の端っこ。高札場と下木戸がありました。

宿場の出入口は防備のため、木戸がもうけられたり道が枡形になっていたりするケースが多いですが、日坂宿の場合はさらに逆川という天然の要害も利用していたようです。

宿場を出るとすぐに出会うのが事任八幡宮。「ことのままはちまんぐう」と読みます。遠江国の一宮で、2世紀終わりに建てられたというめちゃくちゃ古い神社です。

旧東海道ルートは県道415号線に沿って進みます。先ほど日坂宿の手前で交差した国道1号線の高架を、ここで再びくぐります。

1号線を過ぎたところで伊達方(だてがた)の一里塚を発見。

ルートはいったん415号線の脇道にそれて、

再び415号線に合流。

このパターンをしばらく何度か繰り返します。
でも、それも本村橋の交差点でおしまい。ここからは左の脇道で一気に掛川市内を目指します。

ほどなく逆川をわたります。日坂宿の外れでわたったときはまだ山から出てきたばかりの細い渓流だったのに、いつのまにか護岸工事もしてもらえるような立派な都市河川になって…。

川の対岸に葛川の一里塚がありました。今回の旅では最後の一里塚です。

逆川をわたると、いよいよ掛川の町に入っていきます。実際、江戸時代もこの川が町の境界線であり、渡ったあたりに門があったそうです(そう考えると、逆川というのは日坂宿と掛川宿、2つの宿場の境界線を担っていることになるわけか)。
んで、川をわたって門(今はありません)をくぐったところに、掛川独自の防備のための仕掛けがありました。それが「七曲り」(看板が見切れててすいません)。

文字通り、道を7回曲げています。本来は直線で済むところを、わざと道を曲げることで大軍の侵入を阻む仕掛けは、これまでの宿場でもたくさん見てきましたが、7回というのはさすがに初めてですね。
では行ってみます。まず1個目の曲がり角。

2個目。今は普通の住宅街ですね。

3個目。

4個目。

5個目。ここは小さな枡形になってますね。

6個目。

そして最後、7個目。かつてはこのあたりに木戸と番所があったそうです。いやあ、七曲りしつこい!

城下町に入ってきました。

小さな川をわたります。先ほどの逆川が掛川城の南を流れており、そこから分流している無名の川なのですが、雰囲気的にはかつて堀だったように見えます。

ちなみに逆川は、掛川城の天然の内堀になってます。2つの宿場の境界線として機能し、さらに城の内堀としても働く。逆川、すごいです。
そして見つけました。本陣跡。このあたりにかつて連雀沢野屋という屋号で本陣が構えられていたそうです(掛川宿にはもう1軒本陣があります)。

いまは「本陣跡通り」という飲み屋街になっているようです。歴史と現代の生活とを結びつけるこういう利用の仕方、いいですね。

これでゴールですが、せっかくなので掛川城に上ってみることにしました。

天守に上ると掛川の町が一望できます。新幹線で通るたび「こじんまりしたいい町だなあ」と思ってたんですよね。

こちらが東側。こっちの方向から延々走ってきました。

そしてこっちが西側。つまりこれから走る方角です。ずっと向こうに浜名湖があるんだなあ。

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ということで掛川宿までたどりつきました。次回(いつできるんだろう…)は浜松宿を目指します。浜松までたどりつけば、長かった静岡県もいよいよ終わりが見えてきます。
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