週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

映画

映画『パシフィック・リム:アップライジング』

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巨大ロボット対巨大怪獣という
「バカバカしさ」よ、永遠に


 映画『パシフィック・リム』の続編にあたる『パシフィック・リム:アップライジング』を見てきました(第1作はもう5年も前になるのか…)。

 最初に言ってしまうと「良くも悪くも“2作目”」というのが結論。空飛ぶイェーガーとかイェーガー同士の本格的戦闘シーンとか、前作になかった新たな要素はいくつかあるものの、映像も演出もストーリーも、あらゆる面で前作からスケールダウンしてしまった印象は否定できません。

 特に脚本の練度が今ひとつという感じでした。まず登場人物が魅力的でない。主役のジェイクは、演じるジョン・ボイエガこそ『スターウォーズ/エピソードVIII』よりも生き生きしてましたが、序盤のアウトローから後半の軍のリーダーへと変わる変貌ぶりがあまりに雑です。準主役のアマーラも動機(目の前で家族を怪獣に殺された)も技能(自分でイェーガーを作れる)もポテンシャルのある設定なのに、最後まで影が薄いまま。

 シャオ産業のリーウェン社長も「人間同士の深刻な対立」という前作にはなかったドラマをもたらしそうなキャラクターだったのに、早い段階で「ニュートンに裏切られた被害者」であることがわかり、その後はにわかに味方になるなど、ご都合主義的で中途半端でした(演じていたジン・ティエンは「どこかで見たことあるなー」と思っていたら『ポリス・ストーリー/レジェンド』でジャッキー・チェンの娘役だった女優さんでしたね)。

 影が薄いといえば、一番痛かったのは肝心のイェーガーの存在感が薄いことです。戦闘シーンがそもそも少ないのに加えて、その戦闘シーンの演出も前作を超えるほどの興奮はありませんでした。

 パイロットと接続して起動するシークエンスや、イェーガーの重さや鋼鉄のきしみの描写、動力源の設定など、メカ・機械としての「定番の演出」が、既に前作でやっているからという理由からか大幅に刈り込まれていましたが、それに代わる新しい魅力(例えば新しい技とか武器とか)も特になし。個人的にはああいう「定番の演出」こそ『パシフィック・リム』の見どころだったので、自殺行為だなあと思いました(高速イェーガーと謳われた「セイバー・アテナ」に期待してたんですけど、大して速くなかったですね)。ギレルモ・デル・トロが監督じゃないから…という野暮なことは言いたかないんだけど、まあそういうことなんだろうなあ。

 また、無人イェーガーは明らかにエヴァ量産機だろうとか、小型怪獣はレギオンやデストロイアっぽいとか(あの小型怪獣の扱いももったいなかったですね。せっかくならあれとイェーガーを戦わせればよかったのに)、日本の観客にはストーリーや設定の随所にデジャヴ感がありました。そういえば、怪獣が加速度的に巨大化し知恵をつけていく設定や、「今度は人類から乗り込んでいく」という展開(を予感させるところ)とかは『トップをねらえ!』っぽい。

 …というように、作品の出来としては決して満足してはいないのですが、それでも僕は『パシフィック・リム』というシリーズそのものにはまったく失望してはいないし、この映画のさらなる続編が作られるなら、きっとまたワクワクして映画館に足を運ぶだろうと思います。理由は一つ。「巨大ロボット対巨大怪獣」というこのシリーズのコンセプトが、絶対的圧倒的に魅力的だからです

 宇宙規模のスケールで人類が一丸となって悪を倒す映画は他にもたくさんあります。でも、その手段が「巨大ロボット」で、相手もミュータントだとか古代文明とかでなく「怪獣」であるという、根本的なところでバカバカしい(最大級の褒め言葉です)のはこの『パシフィック・リム』シリーズだけです。

 これまでブログで書いてきたことの繰り返しなのですが、僕はとにかくSF怪獣映画はプロレス映画じゃないといけないと思っているので、「イェーガー」と「怪獣」が出てくる限り、僕は『パシフィック・リム』シリーズをフォローし続けるでしょう。






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映画『GODZILLA 怪獣惑星』

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見たことのないゴジラでありながら
「これぞゴジラ」だった


 昨年の11月、ゴジラを初めてアニメ化した映画『GODZILLA 怪獣惑星』が公開されました。正直、そこまで期待していなかったのですが、めちゃくちゃ面白かったです。

 期待できずにいたのは、ハリウッド版『GODZILLA』『シン・ゴジラ』と実写大作モノが続いた後だったので、「アニメ化」という切り口がスケールダウンに思えたから。でも、実際に見てみたら、アニメであることは弱点ではなく、むしろそこがこの作品の強みになっていました

 脚本の虚淵玄や監督の瀬下寛之「実写作品と勝負しても勝てない。アニメでしかやれないゴジラをやろう」という命題を出発点にしたそうです。その結果、実写はあくまで現実世界が舞台であるのに対し、アニメはぐっと空想を膨らませて「2万年後の地球」という途方もない遠未来が作品の舞台に選ばれました。

 20世紀の終わりに地球に出現したゴジラは破壊の限りを尽くし、人類はなす術もなく宇宙への脱出を決定。それから2万年後、環境も生態系も大きく変わった地球に人類が再び戻ってみると、(同一個体かは不明なものの)ゴジラはなおも生き物の頂点として君臨していた…というストーリー。この、アニメだからこそ表現できる極端に長い時間軸がとても効いていたのです。

 2万年も生きているゴジラ。300mもの体高にまで成長したゴジラ。ビルも道路もない、人類の文明が滅びた世界で暴れるゴジラ。過去の実写シリーズからすれば極端に映るこれらの設定は、極端だからこそ逆に、根本的な疑問を浮かび上がらせます。「ゴジラとはいったい何者なのか?」

 天変地異や外敵の侵略により人類が滅亡の危機に陥る映画を「災厄映画」と名付けるとすれば、ゴジラもそこにカテゴライズされるでしょう。しかし、ゴジラは『アルマゲドン』の隕石のような物理的現象ではありません。宇宙からやってきた侵略者でも暴走したロボットでもない。地球に元々住んでいた、独立した意思をもつ生き物です。

 宇宙からの侵略者であれば戦って倒してしまえばハッピーエンドが訪れます。なぜなら宇宙人は「外」から来たものなので、排除さえすれば世界は元通りに戻るからです。天変地異もそう。純粋な物理現象なので、基本的にはそれをどう乗り切るかということだけを考えれば済みます。

 しかし、同じ地球に住み、同じ生き物であるゴジラは、いわば人類の「内側」から現れた存在です。結果的に戦うことになったとしても、「なぜ現れたのか」「敵なのか味方なのか」「そもそもゴジラとは何者なのか」といった疑問がついて回ります。シリーズ化されてしまえばゴジラの存在は自明のものになりますが、第1作『ゴジラ』など人類とのファーストコンタクトを描いた作品には、このような疑問が物語の根柢に流れていました。キャラクターの核に「ゴジラとは何者なのか」というキャラクターそのものへの問いかけが含まれているのが、ゴジラの大きな特徴なのです。

 ハリウッド版『GODZILLA』、『シン・ゴジラ』、そして今回の『怪獣惑星』と、直近の3作はいずれも人類はそれまでゴジラの存在を知らないところからスタートします。その中でもっとも「ゴジラとは何者なのか」という疑問に迫ろうとするパワーがあったのは『怪獣惑星』でした。理由は前述のとおり、アニメだからこそ描ける遠大な時間や「人類を宇宙へ追い出す」という極端なストーリー、そして何よりも「初のアニメ版」というゼロベースからの挑戦だったことが挙げられるでしょう。異端であるはずの「アニメ版」が、むしろゴジラというキャラクターの核に迫っていたのです。

 アニメ版はこの『怪獣惑星』を皮切りに3部作のシリーズ展開を予定しています。第2作『決戦機動増殖都市』は5/18公開予定。『怪獣惑星』で大きく広げた「ゴジラとは何者なのか」という名の風呂敷を、2作目以降ではたたんでいく方向に舵を切ることになると思うのですが、今度はそのたたみ方に注目です。



※次回更新は5/10(木)予定です




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映画『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』

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「捨て去るべき過去」と
「捨ててはいけない過去」


『スター・ウォーズ』シリーズの最新作、『エピソード8/最後のジェダイ』を見てきました。公開から1か月経ったので、ネタバレありで感想を書いてみます。

 今回の作品は前作エピソード7以上に賛否両論みたいですね。僕の職場にも熱狂的なファンのおじさんがいるのですが、彼は猛烈な否定論者でした。その根拠は、劇中の「過去を葬れ」という台詞に端的に表れているように、このエピソード8という作品が過去のシリーズを全否定しているから、ということらしいです。

 確かに、今回の作品では、過去の作品が蓄積してきた重要な設定やキーワードに対して、積極的に新たな解釈を試みています。

 例えば、ルークの「フォースはジェダイだけのものではない」という台詞。フォースが万物の間に存在するエネルギーであるという説明は過去の作品でもなされていましたが、実際にはジェダイの専売特許であり、特にエピソード1〜3では『ドラゴンボール』における“気”のように、戦いのために使われる不思議なパワーという位置づけで描かれていました。

 そのフォースを、本来の定義通りとはいえ「ジェダイだけのものではない」と改めて強調することは、いわばフォースを相対化することにあたります。そして、フォースを相対化するということは、すなわちジェダイを相対化することでもあります。実際、ジェダイという名前や伝統からの解放がストーリーの大きな核であり、サブタイトルの由来でもあるわけですが、過去の新旧3部作の物語が、ジェダイの繁栄と衰亡(エピソード1〜3)、そこから復帰するまで(エピソード4〜6)と、ジェダイの存在を中心に回っていたことを考えると、ジェダイの相対化は取りようによっては確かに「過去の全否定」に映るかもしれません。

 また、フォースの光と闇という概念もスター・ウォーズの世界を支える重要な設定ですが、両者の境界線をこれまででもっとも薄く、あやふやなものだと描いた点も挙げられます。レイとカイロ・レンのテレパシー的な会話(このようなフォースの使い方も今までにはなかったことです)からは「完全なダークサイドなどない」ということが、過去の作品以上に明確に示されています。少し次元が違いますが、ここでも一種の相対化が起きています。

 ストーリーとしても、そこから読み取れる解釈としても、「過去」が大きなキーワードになっていること。もちろんこれは偶然などではなく、ジョージ・ルーカスの手を離れて新たなスター・ウォーズを作ろうとするライアン・ジョンソン監督ら新制作者陣の意気込みの表れであることは間違いないでしょう。

 ただ、ジェダイの遺産を残すことに執心していたルークが、最後にはその遺産を焼いてしまう(ようにヨーダに促される)一方で、過去を葬り去ることで新しい自分になれると考えていたカイロ・レンが、実際にはレイアを撃つことができなかったという対比が見られるように、この作品は「捨て去るべき過去」だけでなく「捨ててはいけない過去」もあると語っています

 両者はどこが違うのか。陳腐な表現を許してもらうとすれば、それは「魂」ということになるでしょう。魂さえあれば、ジェダイという形や器などなくたってかまわないし、反対に、まだ心のどこかに本当の気持ちが残っているならば、カイロ・レンは父親を殺したことを悔いるべきだし、母親を殺すべきではない。僕の目にはそんな風に映りました。

 では、スター・ウォーズという作品における「魂」とは何でしょうか。そしてその「魂」は、過去を清算したように見えるエピソード8の中にも残っているのでしょうか。それとも、やっぱりこの映画は「魂」すらも捨ててしまった過去の全否定作品なのでしょうか。スター・ウォーズの魂をどう捉えるかが、結局はこの作品に対する賛否の分かれ目になる気がします。

 僕なりの答えを先に言えば、それは「世界観」です。作品を成り立たせる要素を、物語と世界観とに大きく分けるとすれば、僕は世界観こそがスター・ウォーズの魂だと思っています。

 ジェダイを葬ろうが、フォースをテレパシーのように使おうが、レイアがフォースで宇宙遊泳しようが、コメディ的な間の芝居が増えようが、違和感はあるけど許容はできます。なぜならこれらは「物語」の範疇だから。世界観とはそうではなく、過去の作品の衣装やセット、クリーチャーデザインなどから想像される、あの銀河世界のありようであり、過去の作品と今回の作品との連続性に対する納得感です。

 例えば、ドラえもんがキャラクターとしていかに愛嬌のあるデザインとはいえ、それがそのままBB-8のデザインになってしまったら、スター・ウォーズの世界観にはまったくフィットしません。過去の作品に登場してきたドロイドを想像したときに、その歴史の先にBB-8のあのデザインが生まれることを(好きか嫌いかは別として)許容できること。それがすなわち世界観ということです。

※そういう意味で、以前も書いたように、僕は『ローグ・ワン』という作品のチアルートというキャラクターは許容できないし、今回の作品でも中盤のカジノの町のデザインはアウトだと思いました。

 んで、スター・ウォーズがここまで人気が出たのも、続編がどんどん作られる余地があるのも、物語やキャラクターが魅力的だからというより、器である世界観が強固だからです。世界観が維持されていれば、たとえ登場するキャラクターやストーリーのタッチが変わっても、観客はそこを「つながった世界」だと認知できるし、何度でもその中に没入できます(ガンダムが宇宙世紀を舞台にした作品を次から次へと作れているように)。その意味で、スター・ウォーズを「スター・ウォーズ」たらしめているものは、物語ではなく世界観の方にあると思うのです。

 確かに、フィンとローズがカジノへ行く一連のくだりは蛇足感があるし、DJのキャラクターの扱いはもったいないし、肝心のレイの出生の秘密だって消化不良感が残ります。ただ、それでもあの物語の舞台が、「あのスター・ウォーズの世界」であることは概ね納得できます

 また、その一方で、フォースの相対化やジェダイの相対化といった「過去との決別」という点については、エピソード10以降の展開も示唆されているなか、将来にわたってこの長大なシリーズを続けていくためには、避けては通れないプロセスだったと思います。

 ということで、だいぶ前置きが長くなりましたが、以上のことから僕はエピソード8を評価する…とまで積極的にはなれないけど、少なくとも否定はしません。未来のことを考えたときに、この作品がとった選択は決して間違ってはいないと僕は思います。そういう意味では、この作品の本当の価値は、エピソード15くらいまで作られたときに振り返ってみて初めて分かるのかもしれません

 最後に余談ですが、僕がこの作品を映画館で見たのは、公開3日目の12/17でした。この日はちょうど、大河ドラマ『おんな城主 直虎』の最終回でした。「家名や城など失ってもかまわない。形ではなく魂こそが大事だ」とする『直虎』のテーマは、ちょうどエピソード8と通じる気がして、面白い偶然だなあと唸ったのでした(そこに共通点を見出すのは、僕の心境の反映なのでしょうが)。




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映画『キングコング:髑髏島の巨神』

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怪獣映画はやっぱり
「楽しく」なくちゃはじまらない


 子供が生まれると自分だけの可処分時間がほぼゼロになりますが、僕の場合、モロに影響を受けたのが映画を見る時間でした。音楽や読書は隙間時間でなんとかやりくりできますが、2〜3時間まとめて時間を作らなきゃいけない映画は、ほぼ不可能。ということで『この世界の片隅に』も『ラ・ラ・ランド』も『ベイビー・ドライバー』も、話題になってる作品はことごとく見れてません。

 大抵の作品なら見れなくても実は大して後悔はしないのですが、『キングコング:髑髏島の巨神』だけは、無理してでも映画館行っておけばよかったな〜と悔やんでます。こないだBlu-ray借りて見たのですが、めちゃくちゃ面白かった!

『パシフィック・リム』『キングコング対ゴジラ』でも書いてきたように、僕は怪獣映画というものは何よりもまず楽しくなくちゃいけないと思ってるのですが、その意味で『髑髏島の巨神』は、最高の怪獣映画でした。じゃあ具体的にこの映画のどこが「楽しかった」のか。4つのポイントを書いてみました。

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その1:ストーリーが「ありえなさそう」
 人類が未発見南海の孤島秘密機関モナーク正体不明の何かを調査しに赴く―。
 どうですか、言葉だけで既に溢れてくる強烈なアヤしさ。SF映画の多くが、いかに「ありえそう」かを物語に求めるのに対し、すがすがしいまでの「ありえなさそう」感。だからこそいいんです。「ありえない」からこそ楽しいんです。

その2:ネーミングがいちいち素晴らしい
『パシフィック・リム』が最高だった理由の一つは、「ジプシー・デンジャー」や「クリムゾン・タイフーン」、「チェルノ・アルファ」といったイェーガーのネーミングにあると思っています。ポイントは、オシャレじゃないところ。かっこつけてないところ
 その点、『髑髏島の巨神』は素晴らしい。島に生息する巨大生物たちの名前が「スカル・クローラー」に「リバー・デビル」、「サイコ・バルチャー」などなど。なんかもう名前全体から「悪いぜ!」「凶暴だぜ!」というアピールをビシビシと感じます。こういうプロレス的感覚、最高です。
 だいたい「髑髏島」っていうネーミングからしてたまんないですよね。今時子供向けのアニメですらもうちょいシャレた名前を付けそうな中で「髑髏島」という名前をぶち上げてきたスピリットにしびれます。そういえば、島全体を嵐が包んでてどの船も近づけないというラピュタの「龍の巣」的演出もツボでした

その3:島民という「型」を押さえている
 映画の設定で僕が一番いいなと思ったのは、髑髏島に島民が住んでるところ。どうやって住んでるの?何を食べてるの?てゆうかあの壁どうやって作ったの?と真面目に突っ込み始めたらキリがないのですが、それは野暮っていうものです。南海の孤島には、文明を解さない原住民が住んでなきゃいけないのです。キングコングを畏れ敬う存在として彼ら島民がいなきゃ「締まらない」のです。これはもう絶対に外せない型のようなものです
 中盤まで島民は登場しないので、「ひょっとしたらこの映画には出ないのかな」と思ったのですが、いざ出てきたときは喝采でした。
 …と書いたところでふと思ったのですが、この「型」ができたのって実はアメリカのオリジナルではなく、日本の『キンゴジ』じゃないですか?どうなんだろう。調べてみよう。
『キンゴジ』といえば、本作でコングが大ダコ(=リバー・デビル)と戦うって展開には思わずニコニコしちゃいましたね

その4:過剰に画面を盛り上げる「オールド・ロック」
 おそらくここまでロックが流れまくる怪獣映画は今までなかったんじゃないでしょうか。ロック、それもベトナム戦争直後という舞台設定から60〜70年代の古いロックがひっきりなしに流れます。
 選曲がまた良かったですね。主人公たちが乗る軍のヘリの編隊の前に初めてコングが姿を現す場面に流れるのがクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの<Bad Moon Rising>は、あの明るいノリが逆に嵐の前の静けさを際立たせていてドキドキしました。タイトルとシーンのハマり方も見事。

 CCRはもう1曲、<Run Through The Jungle>が使われていますが、これなんかも完全にタイトルで選んだだろって感じで痛快です。
 他にもストゥージズの<Down On The Street>とかチェンバース・ブラザーズの<Time Has Come Today>、ブラック・サバスの<Paranoid>など、とにかくコッテコテのクラシックがガンガン流れます。そういえばデヴィッド・ボウイ<Ziggy Stardust>もちょっとだけ流れます。
 こうした選曲が素晴らしいというのは別に僕がロックを好きだからってわけじゃなくて、コテコテのロックによってめったやたらと画面を盛り上げてくる演出が、実に「怪獣映画的」であるからです。
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 以上、僕が『髑髏島の巨神』を最高の怪獣映画だと評価する4つのポイントを挙げました。他にも、キングコングの(劇中のセリフでいうなら)「高層ビルのような」バカデカいキャラクター造形や、クライマックスのスカル・クローラーとの「プロレス」の気持ち良さなんかも挙げられます。

 僕が怪獣映画に求める「楽しさ」。それは、派手さやケレン味、ある種のくだらなさといった感覚です。頭で理解したり納得したりすることよりも、スカッとする爽快さやワクワクする興奮といった肉体的な快楽だと言い換えられるかもしれません。「東京にガチでゴジラが上陸したら日本の官公庁はどう対応するのか」というリアルで緻密なシミュレーションよりも、「南の島のジャングルに見たこともない巨大な霊長類が住んでた」という荒唐無稽なウソの方が、少なくとも僕は楽しい。例えとして通じるかわからないけど、だから僕はレディオヘッドよりもチャック・ベリーの方が好きなのです








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映画 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

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シリーズの命運は
「スピンオフ」が握ってるんじゃないか


遅ればせながら『スター・ウォーズ』のスピンオフ、
『ローグ・ワン』を見てきました。
めちゃくちゃ面白かった!

『エピソード4』の前日譚ということでしたが、
マジであの10分前までの話なんですね。
思わず家に帰ってから『エピソード4』見返しちゃいました

『ローグ・ワン』見た後だと『4』の見え方がまったく変わりますね。
序盤のR2-D2とC-3POの逃亡劇を、
今までは「2人とも可愛いなあ」なんて感じでのほほんと見てたけど、
もう一切笑えないです
あの2人のドロイドが、文字通り全宇宙の命運を握ってたわけで、
そう考えると、オーウェンおじさんが最初にジャワから買った赤いドロイドが、
もしあのとき壊れてなかったらどうなってたんでしょうか。
銀河帝国を倒した最大の功労者は、実はあの赤いドロイドだったんじゃないかと、
かなり本気で思っちゃいました。

あと『ローグ・ワン』は登場人物がみんな“濃くて”良かったです。
特にキャシアン・アンドー
物心ついたときから反乱軍に参加し、
善悪の区別も大義も分からないまま戦争に巻き込まれ、
暗殺やスパイといったほの暗い作戦に従事していた彼の存在は、
「反乱軍=善、帝国=悪」というこれまでの単純な捉え方に、一石を投じたと思います。

また、通して見ると悲しい物語であるという点も、
「本家」にはなかった魅力です。
単に番外編として楽しめるというだけでなく、
「本家」の解釈にも深さと奥行きを与えたという点で、
スピンオフ作品としては一つの究極形と言っていいと思います。


オリジナル作品が築いた強固な世界観を「器」として、
その中でさまざまな作家が実験を試みて、それがさらに器に広がりを与える。
こうして世界観が際限なく広がっていく作品群って何かあったよなと思ったら、
ガンダムがまさにそれですね。

スピンオフは今後も制作が予定されていますが、
今後は、ガンダムでいうところの『第08MS小隊』のような、
「同じ世界で起きていた全く別のドラマ」も見たいところです。
というのも、スター・ウォーズの世界が今後も支持され続けるには、
本家よりもむしろスピンオフの方が重要だと思うからです。

ディズニーの会長は一昨年から始まったシークエル・トリロジーの、
さらにその先(つまり『エピソード10』以降)の可能性を示唆しているそうですが、
垂直方向に続編を作り続けるだけでは、いずれ世界観は陳腐にならざるをえません。
必要なのはガンダムのように、水平方向に世界観を肥えさせることだと思います。
※スター・ウォーズはアニメがめちゃくちゃ面白いので、
※個人的にはアニメによる展開に期待しています

ただ、「肥えさせる」といっても、
広げ過ぎて世界観そのものを逸脱してしまったらアウトなわけで、
どういうストーリーやキャラクターなら「アリ」でどこからが「ナシ」なのか、
その境界線の線引きは非常に難しそうです。

たとえば『ローグ・ワン』の場合、
チアルートをドニー・イェンが演じたことには、個人的には違和感がありました。
スター・ウォーズには元々、ライトセイバー剣術を代表とする、
アクションに関しての独自の様式美があります。
ところがドニー・イェンの参加によって、
そこに、中国武術という既存の(現実にある)様式美が
紛れ込んできてしまったような気がしました。
スター・ウォーズの世界ではアクションの様式美の元祖であるジェダイよりも、
設定上はジェダイよりも格下であるチアルートのアクションの方が洗練されているという、
奇妙な逆転現象が起きてしまっていたのです。

でも、ドニー・イェンのアクションを、
スター・ウォーズの新しいスタイルとして歓迎した人も大勢いたはずです。
だから、結局大事なのは、制作側のチャレンジを基本的には応援しつつ、
できあがった作品に対してその都度、
それぞれの観客が「アリ」「ナシ」と声を上げることなのかもしれません。

スピンオフ第2弾は若き日のハン・ソロを描くことが決まっていますが、
僕は是非、一度企画が頓挫したというボバ・フェット主役の作品が見たい。
あまりにかっこ悪い最期を遂げたボバの汚名をそそぐチャンスを…。






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映画 『Eight Days A Week』

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そして彼らは
「大人」になっていく


『アポロ13』や『ダヴィンチ・コード』で知られる映画監督ロン・ハワードによる、
ビートルズのドキュメンタリー映画『Eight Days A Week』を見てきました。
主にキャリアの前半期、特に63年から66年までの、
殺人的なスケジュールでツアーを回っていた時代のビートルズが取り上げられています。

ビートルズのドキュメンタリーというと、
アップルが95年に制作したTVシリーズ『アンソロジー』があります。
ちなみに『Eight Days A Week』もアップル作品で、
『アンソロジー』以来21年ぶりのビートルズ公式ドキュメンタリーに作品になります

結成前から解散までの全キャリアを取り上げ、
総収録時間10時間超という『アンソロジー』を「通史」とすると、
今回の『Eight Days A Week』は「テーマ史」というような位置づけです。
そのテーマとは「ビートルズはなぜツアーをやめたのか」

もっとも「なぜ」といっても既にあちこちでいわれている通り、
「あまりの人気の過熱ぶり(に伴うさまざまなストレス)にうんざりしたから」が
その理由なのですが、映画を見ると、
単に知識として知る以上の納得感が得られます。

滞在先のホテルには大勢のファンが四六時中詰めかけるから、
外に一歩も出られずライブ会場と往復するだけの缶詰め状態。
オーストラリアでは、空港からホテルまでの沿道に25万人集まったといいますが、
増え続ける観客を収容するため、ライブ会場はどんどん大きくなっていくけど、
音響環境は今とは比較にならないくらいチープだから、
観客に音が届かないどころか、自分たちの演奏する音すら聞こえない。
なのに続々と柵を乗り越えてステージに駆け寄るファンが続出するから、
ますます警備は厳重になり、ライブが終わると囚人護送車のような車に押し込まれる。
こんなのがほぼ毎日のように(30日間で25都市回るとか)続くわけです。
「そりゃあツアーやめるよ。これじゃあ仕方ねえよ。」としみじみ感じます。

4人を追い回すファンやライブ会場での観客の熱狂する姿を映した断片的な映像から、
僕のような後追い世代はビートルズの人気のすごさについて、
なんとなく漠然とでしか想像できないところがありますが、
この映画を見ていたら、彼らほどの人気者はそれ以前には存在しなかった、
つまり、「スター」という存在自体が人々にとっても初めて経験するもの
だったんだなあという気がしました。

んで、僕がもう一つ深く納得したのが、
4人がツアーにうんざりし始めた背景として、
それぞれが「ビートルズ以外の生活を持ち始めたこと」が挙げられていた点でした。
ジョンは息子が生まれ、リンゴは映画俳優として活動し始め、
ジョージはインド音楽に傾倒し、ポールは映画音楽を手掛けるようになり…などなど。

それぞれが個人としての人生を築き始めた結果、デビュー初期のように、
もてるエネルギーの全てをバンドに注ぐわけにはいかなくなったというのです。
(こうした時期に例の「ブッチャーズカバー」が撮影されたのは非常に象徴的です)
そして、そうした段階に進んだ彼らが、
バンドの目的から最も遠いものになってしまったライブ活動(ジョン曰く「サーカスの見世物」)を
真っ先に切ったのは必然でした。

まるでメンバー全員で一つの人格を共有していたかのように一枚岩だった集団が、
時間が経つにつれて、「個人」という名の溝を抱えるようになる。
これはどんな集団でも(若いころに組んだ集団は特に)避けては通れない宿命です。
僕自身も劇団という集団にいたから、身をもってわかる。

「溝」という表現をしましたが、集団が個人と個人の集まりである以上、
これは当たり前の、ごく自然の流れです。
ファンは(時には当事者であるメンバー自身も)変わらないことを望むけど、
もし実際に注ぐエネルギーも関心の高さも変わらないなんてことがあるとしたら、
思い出にしがみついているか、強権的な力で「個」を抹殺しているかのどちらかしかありません。
余談ですが、ビートルズ解散の理由について、僕が最も納得したのは、
リンゴがインタビューに答えた一言「大人になったから」でした。

もし仮に、当時の音響設備が格段に良くてツアー日程も余裕があって、
プライバシーも守られているような環境だったとしても、
遅かれ早かれビートルズはああいう形でのツアー活動は、
いずれ止めていたんじゃないかなあと、映画を見ながら考えてました。


最後に、映画の良かったところについてもう3点だけ。

一つは、64年のフロリダ州ジャクソンビルでの公演で、
当初会場の座席が黒人と白人に分けられていたのを、
それを聞いたビートルズの4人が、
「黒人も白人も一緒の席じゃなければ公演はやらない」と、
観客の人種差別的待遇を断固拒否したという事実。
これ、初めて知りました。
当時の時代状況と4人の年齢(20歳そこそこ)を考えると、
その根性のある姿勢に素直に感動しました。

もう一つは、ウーピー・ゴールドバーグのインタビュー。
少女時代、ビートルズの大ファンだったウーピーは、
地元NYのシェイスタジアムで彼らがライブを行うと聞き、
「どうしても行きたい!」と母親にお願いするのですが、
「お金がないの」と断られてしまいます。
ところがお母さんはウーピーに内緒でお金を工面し、なんとかチケットを2枚手に入れます
そしてライブ当日、何も知らないウーピーに「出かけるわよ」とだけ告げて、
シェイスタジアムの前まで連れて行き、そこで初めてチケットを彼女の前に差し出すのです。

最後の一つは、ポールのインタビュー。
彼は14歳のころ、既に作曲を始めていたのですが、
友人に「作曲が趣味なんだ」と言っても、
「ふうん。そんなことよりサッカーはどう?」と、
まるで興味をもってくれなかったそうです。

そんな彼に初めて「僕も作曲をしている」と言った少年がいました。
彼の名はジョン・レノン。
「ジョンは僕にとって初めて出会った同じ趣味の友達なんだ」という言葉は、
なんかとても泣けました。

以前、リバプールに行ったときの記事でも書きましたが、
ビートルズというのはイギリス中のエリートが集まって結成されたわけではなく、
偶然近所に住んでいた友達同士で組んだというだけの、
どこにでもいる普通のバンドだったのです。

この映画に収められたのは、
そんなリバプール郊外の少年たちが、
世界中を席巻し、やがて大人になっていく瞬間だといえます。








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映画 『シン・ゴジラ』

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何かを好きになるということは
「孤独になる」ということだ


「ソーシャルだ」「つながりだ」と盛んに言われる時代に、
こんなことを言うのはサムいのかもしれませんが、
僕はシェアとか共有なんてクソくらえだと思ってます。
もちろん、共有したいと思う気持ちはすごく理解できる。
でも、本当に共有したいと思うものほど、共有できない。
僕はそう思っています。

初めて僕が他人と何かを共有したいと激しく願ったのは、
小学校5年生のときにゴジラを好きになったことがきっかけでした。
当時僕は、文字通り寝食を忘れるくらいゴジラに夢中でした。
そして、「世の中にはこんなに面白いものがあるのに、クラスのみんなは知らないなんて!」という
(本人にとってはあくまで)正義感から、僕はクラスの友達にゴジラの面白さを「布教」しました。
ビデオを見せ、怪獣図鑑を貸し、自作のクイズを出題し続けた結果、
何人かの友人は僕の話に耳を傾けてくれるようになりました。

でも、僕は虚しい気持ちでいっぱいでした。
だって、友人たちが僕の話に耳を傾けていたのは、
ゴジラに興味を持ったからではなく、ヒマつぶしや、単なる僕への気遣いだったからです。
僕の情熱との間には、明らかに温度差があったのです。
そこでようやく僕は、友人たちと本当に共有したいのは、ゴジラの知識ではなく、
「僕がいかにゴジラを好きなのか」「なぜゴジラが好きなのか」という
“気持ち”だったんだと気付いたのです。

困ったことに、僕が共有したいと願った“気持ち”は、
僕自身でさえもうまく言葉に直すことができませんでした。
だって、「なんでそれを好きなのか」を誰にでもわかるように説明するなんて、
大人になった今でさえ無理なのですから。
だから、友人が僕の話に耳を傾けてくれる機会があっても、
モゴモゴするだけで、せっかくのチャンスをフイにしてばかりでした。

僕が当時、なぜあれほど「ゴジラへの愛の深さ」を共有したがっていたかというと、
それが最もよく「僕自身を理解してもらうこと」だったからです。
好きな食べ物や得意な教科をいくら知ってもらっても、
僕は僕自身を理解してもらえたとは思えませんでした。
それよりも、僕が本当に好きなものについて「なぜそれを好きなのか」を理解してもらえれば、
僕自身を理解してもらえるんじゃないかと思ったのです。


僕が本当に話したいのは、ゆうべのテレビ番組の感想でも、
「隣のクラスの誰が誰を好きで」みたいなどうでもいい噂話でもなかった。
でも、「本当に話したいこと」をうまく話せる自信もない。
そうするうちに、僕は「ゴジラが好き」という事実そのものを隠すようになりました。
ハイロウズの<青春>という曲に、
「心のないやさしさは 敗北に似てる」というフレーズがありますが、
自分の一番大事なものに中途半端に興味を示されることほど屈辱的なものもなかったからです。
「あ〜ゴジラね。口から火吐くんでしょ。」みたいな。

何かを好きであればあるほど、その気持ちは他人と共有できない。
何かを好きになるということは、孤独になるということだ。

10歳そこそこで実感したこの確信は、20年以上たった今も揺らぐことはありません。
変わったのは、「好きなものを共有できない孤独」に慣れたことです。

『シン・ゴジラ』を見ながら、僕はずっとそんなことを考えていました。






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映画 『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』

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美しさと、その代償

ビーチボーイズブライアン・ウィルソンの栄光と混乱に満ちた人生を、
実際のエピソードを基にして映画化した作品。

華々しい成功を得た大小に、精神に異常をきたしていく60年代のブライアンをポール・ダノが、
長い療養生活の果てに現在の妻メリンダとの出会いをきっかけに再生していく
80年代のブライアンをジョン・キューザックが、「二人一役」スタイルで演じています。
タイトルになっている「ラブ&マーシー」とは、
復活した88年のソロ第1作『ブライアン・ウィルソン』の1曲目に収録されている曲タイトル。

実際の出来事を忠実に再現している、ある意味ドキュメンタリーなので、
映画を見て初めて知った(気付いた)ことはいくつもあります。

例えば、アルバム『ペット・サウンズ』の挑戦と『グッド・バイブレーション』の成功、
そして『スマイル』の頓挫という、60年代の出来事は有名ですが、
その後の停滞期と復活までの経緯は、実はそこまで詳しく知りませんでした。
なので、この映画がその空白を埋める、一種の歴史資料になりました。

それと、マイク・ラブ
マイクって『ペット・サウンズ』のサウンドを聴いて「こんなの犬にでも聴かせとけ!」って言い放ったり、
今でも我が物顔でビーチボーイズ名義の使用権を独占してたり(書いていてムカついてきた)、
ビーチボーイズ物語(というかブライアンの物語)では間違いなく「悪役」じゃないですか。

だけど、映画を見て、
まあ、マイクもマイクなりに考えてのことだったのかなあ」なんて思いました。
彼はリスナーがバンドに求めているもの(男女で踊れる軽快な音楽)が分かっていたからこそ、
ブライアンが『ペット・サウンズ』で飛躍していくことが「バンドの危機」に映ったのでしょう。

それまでとは打って変わり、極めて内省的で、
ときにドラッグを連想させるような歌詞を書いてきたヴァン・ダイン・パークスをクビにしたのは、
マイクが単に作詞家の座を奪われて嫉妬しただけではなかったのかもしれません。

#でも、2012年のリユニオンの後、(やっぱり)ブライアンとアルをバンドからクビにしたので、
#僕は相変わらず嫌いですが

あと、ブライアンの「弱さ」
彼は長らく臨床心理医のユージン・ランディのコントロール下にあり、
それは病気に苦しむブライアンをさらに追い詰める原因にもなっていました。

しかし、子どもの頃から暴力的な父マリーに抑圧され、
マリーをマネージャーから解雇した後も「父だから」と必死に歩み寄っていたブライアンは、
誰かに導いてもらわなければダメなタイプ」であり、たとえその人物が自分を抑圧しようとも、
自分を「愛している」と言われてしまえば(方便だとしても)従ってしまう、
生来の甘えん坊だったのかもしれないと思いました。
そして、妻メリンダさえも、ブライアンにとってはユージンに代わる新たなメンターだったのでは、とも。


…と、いろいろ書いてきましたが、
この映画の一番の見どころは、やはり「音楽」です
<神のみぞ知る>をピアノで初めて披露する場面(父にはクソミソに言われますが)や、
その後のスタジオでの、まるで科学実験室のようなレコーディング風景。
そして、<グッド・バイブレーション>の最初のリフが生まれる瞬間

『ペット・サウンズ』から『スマイル』にかけての、あの鬼気迫る名曲群が生まれる瞬間は、
たとえドラマと分かってはいても、鳥肌が立ちまくりでした。
自身もミュージシャンとして活動しているポール・ダノがブライアンを演じているのも奏功しています。

ブライアンって本当に細部から曲を作っていくんですよね。
1つの楽器の、わずか数秒のフレーズを何十テイクも繰り返し録って、
そうやって溜まった無数の曲の断片を、
彼の頭の中だけになっている完成図を頼りに、パズルのようにつなぎ合わせていく。
天才だよなあと改めて感じると同時に、そりゃ消耗するよなあとため息がもれました。
実際、音楽が完成に向かうのに合わせて、ブライアン自身はどんどんおかしくなっていきます
それはまるで、音楽が無上の美しさを手に入れていくのと引き換えに、
その代償を作曲者であるブライアンに払わせているかのように映りました。


この映画、去年の8月で公開はとっくに終わっているのですが、
なんで今さら書いたかというと、実は今年の4月にブライアンは来日し、
最後と言われる『ペット・サウンズ』の完全再現ライブを行うのです。
もちろん、僕はチケット取りました。






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映画 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』

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世界最高峰の映像技術でも
逃れられない「俳優の肉体」


公開から1か月経ったので、
ネタバレ気にせず感想書きます(そろそろいいだろう!)。

まず、そもそもの大前提として、
『スター・ウォーズ』旧3部作(エピソード4〜6)の後追い世代である僕にとって、
ストーリーを全く知らないまま見るスター・ウォーズ」というのは、これが初めてになります。

1999年から始まった新3部作(エピソード1〜3)は違いました。
誰が何をどうしたのかという途中の展開については分からなくても、
共和国は倒れて帝国になり、アナキンはダース・ベイダーになる」という、
物語の最終的な着地点は、『エピソード1』が始まった段階で、
すでに(分かりすぎるほど)分かりきっていたからです。

ところが、エピソード7から始まる今回の3部作は、未だかつて誰も見たことのない、
スター・ウォーズという世界の未踏の地へと分け入っていくものです。
なので、僕が映画を見るにあたりもっとも楽しみにしていたのは、
これから何が起きるんだろう?」ということでした。
(その結果、上映中ずっと「早く次行け!」「で?で?」とイライラしていました)

ストーリーについては「前作の焼き直し」という批判が出ているそうですが、
僕は、あれは「歴史は何度でも繰り返す」というメッセージなのだと捉えています。
宇宙というバカでかいスケールの場所を舞台にしながら、
そこで描かれているのは「一つの家族の失敗(と再生)」という、
超ドメスティックなストーリーといのも、個人的には好きです。

ただし…ただしですね。
期待を受けて登場した新たな悪役「カイロ・レン」は、どうなんですか?アレ。
僕、正直言ってまったく魅力を感じないんですけど。
悪評高かったダース・モール(EP1)の方が全然いいですよ。

ダース・ベイダーの壊れたマスクを床の間に飾って、
「私がお祖父さんを継ぎます」とか言ってましたけど、
ちょっとムシャクシャするとライトセイバーで物に当たるし、
フォース覚えたてのレイにあっという間にやられるし、
(レイのフォースの覚醒もイージーすぎやしないか?というのも気になるっちゃ気になる)
ベイダー卿がもっていた「品格」なぞ露ほどもないじゃないですか。

大体、アダム・ドライバーが見るからに弱そうなんですよね。
ハン・ソロの息子があんなに不健康でいいのだろうか。
それとも「戦後に生まれた子供たちは軟弱」という、僕ら世代への皮肉なのか?

まあ、そんなこと言ったら、
『エピソード1』でのジェイク・ロイドの無垢な姿に、これから起こる悲劇にドキドキしていたら、
『2』になったらいきなり人相の悪いヘイデン・クリステンセンが出てきてずっこけたという、
「負の前例」もありますけども。
いやしかし、次作以降も登場するキャラクターなんだろうから、もうちょっとなんとかしてほしい。

んで、それなりに不満を残しつつ、それなりに満足もしたのですが、
映画を見終わって「ううむ」と考えたことがあります。
それは、「俳優」という存在について。

今作は『エピソード6』の30年後ということで、
ハリソン・フォードキャリー・フィッシャー、そしてマーク・ハミルが同じ役で続投しています。
これ、もし他の俳優が演じてたら、成立しない…とは言わないまでも、
「『EP6』の続きですよ」という説得力、言い換えれば感動が決定的に欠けていたと思います。

特にマーク・ハミル。
最後の最後、「」がフードを取った瞬間に、
若かりし頃の面影を残しつつも、年老いて疲れたマーク・ハミルの顔がのぞいたからこそ、
僕らは確かにあの世界の30年後を目撃しているんだというリアリティを感じるし、
さらには「この30年で彼の身にどんな苦悩があったのだろう?」という想像を掻き立てられるわけです。

あれだけ緻密に作られた空想の世界で、
なおかつ世界最高峰の映像美術が駆使されている作品であっても、
「俳優」という生身の人間の絶対性は揺るぎないんだなあと思いました。

ハリソン・フォードは現在73歳。
もし、あと10年制作が遅かったら、彼は出演できなかったでしょう。
「技術の粋」のような映画であるにもかかわらず、
俳優の肉体からは逃れられないことが、なんだか不思議な気がします。

いろいろな突っ込みどころとは別に、
妙に「肉体の生々しさ」が印象に残った映画でした。






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『END OF THE CENTURY』と『I Love RAMONES』

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なぜ彼らは最後まで
「パンク」でいられたのか


先週、ラモーンズのドキュメンタリー映画『END OF THE CENTURY』のリバイバル上映を見てきました。
オリジナルが公開されたのは2003年。
メンバーや家族、関係者のインタビューを基に、
バンドの結成から解散、そして02年のロックの殿堂入りまでを追った、
ラモーンズそのものに焦点を当てたドキュメンタリーとしては唯一の映像作品です。

そして映画を見終わった直後、僕は自宅の本棚で読まずにとっておいた、
書籍『I Love RAMONES』を手に取りました。
こちらは、ラモーンズ愛が高じてメンバーと友達になり、
ついには日本のラモーンズファンクラブを設立した、
カメラマンの畔柳ユキが2007年に書き下ろしたものです。

バンドのドキュメンタリーというと、
そのバンドが「いかにすごかったか」だけを手放しで褒めまくる作品が多いものですが、
この2作品はラモーンズに対する冷静な(けれど愛のある)批評性があって、
どちらも非常に見ごたえ(読みごたえ)がありました。

映画『END OF THE CENTURY』では、メンバーの不和や解散、「レコードが売れない」といった、
いわばバンドの「負の歴史」を描くことに多くの時間を割いています。
メンバーに対する個別のインタビューで、それぞれが語る言い分が全く異なっていることも、
そのまま映像に収められています。

書籍『I Love RAMONES』は、メンバーと個人的に親交のある著者が、
プライベートやバックステージで実際に体験した出来事を軸に書かれているため、
メンバーの日常をすぐ横で眺めているような臨場感があり、
僕のような後発のファンにとっては、いわゆる記録本や資料本よりも貴重な本でした。
映画を「正史」とすれば、本はちょうど「裏面史」のような位置づけになるでしょうか。

2つの作品を見て(読んで)驚いたことはいくつもあります。
例えば、オリジナルメンバーの中で最も早くバンドを抜けた初代ドラマーのトミーが、
実は結成時はバンドのマネージャー兼プロデューサー兼エンジニア役であり、
ラモーンズ・サウンドの草創期に置いて非常に大きな役割を果たしたこと。
しかし、そのトミーの脱退について「ショックだった」としながらも、
ジョニー(Gt)もディー・ディー(Ba)も、サウンドへの影響は「全くなかった」と答えていること。
特に映画の中でジョニーが語った、
誰が歌っても誰が演奏してもラモーンズはラモーンズだ」という言葉は、とても意外でした。

また、イギリスではピストルズクラッシュらの「兄貴分」として、ロンドンパンク・ムーブメントのきっかけをつくり、
アルゼンチンでは7万人収容のスタジアムでのライブをソールドアウトさせたりと、
海外では圧倒的な影響力と人気を誇っていたにもかかわらず、
本国アメリカでは解散間際までストリップ小屋と一緒になった汚いライブハウス回りを続けていたことも、
やはりとても意外でした。

ただ、中でも最もショッキングだったのは、
(おそらく多くの観客・読者もそうだったように)ジョーイ(Vo)とジョニーの関係です。

かつて、ジョーイにはリンダという仲の良いガールフレンドがいました。
しかしリンダはその後、あろうことかジョニーと付き合うことになってしまいます。
ジョニーが奪ったのか、リンダの意志だったのかは定かではありませんが、
いずれにせよ結果的に2人はリンダをめぐって非常にナイーブな関係になってしまうのです。

このエピソード自体は有名な話ですので僕も知ってはいたのですが、
2つの作品、とくに書籍『I Love RAMONES』には、
当時の2人の関係やバンドの空気がどのようなものだったかが、克明に記録されています。
詳しく説明するのは野暮なので書きませんが、
バンドやスタッフにとっても、そして本人たちにとっても、相当ストレスフルな状態だったようです。

で、僕は何に驚いたかというと、
そんなナーバスな状態に陥ったにもかかわらず、バンドが存続し続けたということです。

ジョーイが、リンダとジョニーとの出来事を題材にして作ったといわれる、
<The KKK Took My Baby Away>という曲があります。


KKKが彼女を奪い去ってしまった。彼女はもう戻ってこない」という歌詞を、
当のKKK=ジョニーを前に堂々と歌うジョーイもすごいですが、
それを平然と弾きこなし、さらにはライブで定番のセットリストに加えてしまうジョニーもすごい。

この曲が発表されたのは1981年ですから、
リンダをめぐる「事件」が起きたのは70年代末から80年代初頭だと推測できます。
そしてラモーンズの解散は96年。
ということはつまり、ラモーンズは10年以上にわたってこのストレスを抱え続けたわけです。
しかも、ツアーを回り、毎日のようにステージに立ち、合間にアルバムを出すという、
超コンスタントな活動をいっさい緩めることなく。

興味深いのは、普段はまったく口を利かないほどギスギスしていたジョーイとジョニーが、
「ラモーンズ」という場所においては、ある種の信頼関係で結ばれていたことです。
普段は口を利かないのに、ステージ上のリハーサル中だけは言葉を交わすこと。
ジョーイの死の翌年、ラモーンズがロックの殿堂入りを果たした際に、
授与式で恒例となっているライブをやるのかと聞かれたジョニーが、
ジョーイが歌わなきゃラモーンズじゃないから」と断ったこと。
書籍『I Love RAMONES』には、そうしたエピソードが綴られています。
特にジョニーの発言は、
前述の「誰が歌っても誰が演奏してもラモーンズ」という言葉と明らかに矛盾するのですが、
本人はリップサービスなどではなく、本気でそう思っていた節がある。

他の全てはバラバラでも、肝心の音楽で信頼関係があったからこそ、
彼らはバンドを続けられたのでしょうか。
僕も劇団という生産集団をやっていましたが(てゆうか今でも一応やってますが)、
実際、ある生産集団内における人間関係の煩わしさは、
才能や作品と全く関係ないにもかかわらず、それだけで十分、創作への動機をくじきます。
僕がもしジョニーかジョーイの立場だったら、多分辞めてるでしょう。
それが容易に想像つくだけに、僕は彼らのことをすごくプロフェッショナルだなあと思うし、
それでも辞めない」という情熱に対して(妙な言い方ですが)うらやましいと感じました。


映画も書籍も、ラモーンズの生々しい空気が封じ込められています。
そのことで、確かに意外に感じたり、ショックを受けたりすることはありますが、
だからといって別に幻滅したりはしません。
むしろ、彼らを手放しで称賛するような内容だった方がガッカリしたでしょう。
なぜなら、ドキュメンタリーだからといって取り繕わない姿勢、
あるいは畔柳ユキの目に映った「不完全なバンド」としての彼らの姿に、
評価されなかろうが、仲が悪かろうが、
結局最後までスタイルがブレなかったラモーンズの「頑固さ」と同じものを感じて、
奇妙に安心してしまうからです。


映画『END OF THE CENTURY』予告編









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「日本版ゴジラ」復活への道

前々回から書いてきたゴジラの話、今回が最終回です。
今回のテーマは、「どうやったら日本版ゴジラは復活できるか

#前々回 ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その1
#前回   ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その2

先月から日本公開が始まったハリウッド版『GODZILLA』は好調なようです。
※作品のレビューについてはマイナビニュースさんに寄稿したこちらの記事をご覧ください。
↓↓↓
『ゴジラ』から『GODZILLA』に受け継がれた4つの魂、ハリウッド版ゴジラを薦めたい理由

思えば今回のハリウッド版公開では、あちこちの駅にポスターが貼られたり、
NHKのBSプレミアムが特集番組や過去作品の放映などのキャンペーンを組んだり、
ミッドタウンの庭園に巨大なレプリカが作られたりお、
にわかに「ゴジラブーム」が訪れたかのようでした。
かつて「ゴジラはダサい」「子どもっぽい」という偏見とレッテルのなか、
1人きりで映画館に通っていた頃を思えば、隔世の感があります。
(これが「ハリウッド」ということでしょうか…)

ファンの一人としては喜ばしいことですが、
しかし一抹の不安を覚えるのは、
これでいよいよ日本ではゴジラが作られなくなるんじゃないか」ということ。
実際、ハリウッド版は続編の制作が決定したということですし、
今後「ゴジラシリーズ」というものは日本を離れた場所で展開していくのかもしれません。

その原因を作ったのは間違いなく平成シリーズの後半とミレニアムシリーズだと知っているので、
話は結局、前々回の「平成シリーズを総括する」の冒頭に戻ってしまうわけですが、
不毛な堂々巡りをしていても仕方ない。
日本版ゴジラが復活するとすれば、どういう道があるのかを僕なりに考えてみました。


■「特撮映画」という開き直りを

まず、平成シリーズの振り返りで書いたように、
映像技術で勝負しようとするのはやめた方がいいでしょう。
ハリウッド版ゴジラという明確な比較対象ができた今となっては、
映像そのもののリアルさや迫力を追求しても、勝負にはなりません。
それにそもそも、これだけSF映画やファンタジー映画が量産されている今では、
単に「映像がすごい」というだけでは見向きもされないでしょう。

CGと合成を駆使した映像と、最新の科学的見地やセンスを盛り込んだストーリーを特徴とする、
いわゆるハリウッドが得意とする「SFX映画」。
一方、かつてのゴジラのように、着ぐるみとミニチュアとピアノ線による撮影と、
怪獣同士の対決や怪奇性・民俗性にフォーカスしたストーリーを特徴とする「特撮映画」。
分かりやすく2つに分けるとするならば、平成シリーズ以降のゴジラ映画には、
実態は「特撮映画」なのに目指していたのは「SFX映画」という、根本的な矛盾がありました。

日本版ゴジラが復活するためには、
自分たちは『特撮映画』なんだ」という開き直りがまずは第一歩となるでしょう。



■ヒントは「平成ガメラシリーズ」

ここでヒントになるのが、平成ガメラシリーズです。
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『ガメラ 大怪獣空中決戦』『ガメラ2 レギオン襲来』『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』と、
1995年から99年にかけて3部作で制作された平成ガメラシリーズは、
日本の特撮映画史に名を刻む、非常に優れた作品群です。

日本の地方の伝説や風俗を盛り込んだ、怪奇性に満ちたストーリー。
ガメラやギャオスの素朴な「非クリーチャー」的デザイン。
徹底して「人間の視点」にこだわったカメラワーク。
主役のガメラの腕が切り落とされる、血が噴き出るといった激しいアクション。

平成ガメラシリーズには、かつての特撮映画のエッセンスを農耕に受け継ぐ過去へのリスペクトと、
それらのエッセンスを平成の観客の感性にも耐えうるようアップデートしようとする、
未来への挑戦意欲とが同居しています。
僕らの世代(80年代生まれ)にとっては、
ある意味では平成ガメラこそが初めてのリアルタイムでの「特撮」体験であり、
ハリウッドの迫力あるSF作品や、そのハリウッドを追随するゴジラ映画を見慣れていた目には、
逆に新鮮に映ったのでした。
かつてはゴジラの二番煎じ的な地位に甘んじていたガメラが、
いつの間にか本家ゴジラを追い抜き、
むしろそのゴジラが失墜させた特撮映画の復権を一手に担うことになったのです。

平成ガメラシリーズを支えたのは、
当時若干30歳だった特技監督の樋口真嗣をはじめとする、若手のスタッフたちでした。
ゴジラシリーズのメインスタッフは、
昭和期のゴジラシリーズからのたたき上げが多かったのに対し、
ガメラシリーズのスタッフの多くは、子ども時代に特撮映画を見て育った「元観客」です。
僕は、スタッフが「元観客」出身であったからこそ、
旧ガメラシリーズの設定や伝統にとらわれないドラスティックなリメイクが可能であり、
同時にかつての特撮映画のエッセンスを再現することが容易だったのではないかと想像します。

『ガメラ2 レギオン襲来』のクライマックス。
進撃するレギオンの元に飛来したガメラが、着陸し地面を滑りながら口から火球を吐きまくる、
最高にかっこいいあのシーンは、若手主体のスタッフだったからこそ発想しえた名シーンだと思います。

ガメラシリーズが若手のスタッフを起用しえたのは、
業界(?)的にガメラがチャレンジャーの位置にいたという理由もあるでしょう。
「老舗」であるゴジラは、そうしたスタッフの新陳代謝が難しかったのかもしれません。
しかし、(以前書いたように)日本の大手家電メーカーの凋落にも似たこの構図を崩さなければ、
ゴジラシリーズは何度復活しようとすぐにまた固陋化し、
平成シリーズやミレニアムシリーズと同じ轍を踏むでしょう。
スタッフの人材戦略は、日本版ゴジラが復活する上では避けて通るわけにはいきません。



■魅力的な「新怪獣」は必須

ここまではプロダクション的なことばかりを指摘してきましたが、
内容にも踏み込んでみたいと思います。
僕が特撮映画に期待することは、
既に『パシフィック・リム』『キングコング対ゴジラ』の記事で書いた通りなのですが、
もう一つ付け加えるならば、魅力的な新怪獣の登場でしょう。

ここで強調したいのは、「魅力的な」ではなく「怪獣」という部分です。
現在、SF映画に登場する巨大生物のデザインは、「クリーチャー系」が主流です。
クリーチャー系は確かに「本当に存在しそう」というリアリティはあります。
しかし「怪獣」のデザインに必要なのは、
リアリティよりも「派手さ」「奇抜さ」「愛嬌」である、というのが僕の考えです。

理想はウルトラ怪獣です。
バルタン星人、ゼットン、エレキング、ダダ。
なぜ今もって彼らがキャラクターとして認知され、定着しているのかといえば、
彼らのデザインにはリアリティよりも「こんなのがいたらすげえ」という興奮があるからです。
怪獣のデザインは、子どもが絵に描けるようなものでなければダメなのです。

こうした「怪獣」的デザインについては、今ハリウッドでは誰も生み出せていません。
ハリウッド版『GODZILLA』に登場する新怪獣ムートーも、
特撮映画へのリスペクトに溢れたあの『パシフィック・リム』のカイジュウでさえも、
やはりクリーチャー系のトレンド(あるいは罠)から抜け出せてはいませんでした。
だからこそ、この分野においては日本版ゴジラに十分チャンスがあると、僕は考えています。

東宝特撮でも、過去にはバラゴンモゲラガイガンといった、
素晴らしい「怪獣」たちがいました。
ああいうキャラクターを量産してきた実績や資産を、今こそ生かすべきです。



■「亜流」になることを受け入れろ

今回のハリウッド版『GODZILLA』は、ゴジラシリーズの正統な作品に位置づけられると思います。
それは、単に日本のゴジラの造形を踏襲した点だけを根拠に言っているのではなく、
善悪や、人間の敵・味方といった概念を超えた存在としてのゴジラを、
つまり本来ゴジラが持っていたテーマに対して彼らなりに真摯に向き合っていたからです。
少なくとも、日本のあのミレニアムシリーズよりは、よっぽど「ゴジラ」でした。

かつて1998年に制作されたローランド・エメリッヒ監督による前ハリウッド版『GODZILLA』
(もはや「黒歴史」化して誰も語ろうとしませんが)のときは、
デザインからしてあまりに日本のゴジラとかけ離れており、
日本版は「主」、ハリウッド版はあくまで一段下がる「従」、
あるいは似て非なるものという意味での「亜流」という明確な地位の差がありました。

しかし今回のハリウッド版は、その差を逆転させました。
ゴジラが本来持っていたシリアスなテーマを体現する作品、
わかりやすく言えば「リアル路線」のゴジラは、
今後はハリウッドに期待した方がいいのかもしれません。

だとすれば、日本版ゴジラが復活するためには、
魅力的な新怪獣を作り、その怪獣とゴジラとの対決に主眼を置いた作品、
つまり昭和シリーズでいうなら『キンゴジ』や『モスゴジ』、『三大怪獣』といった、
リアル路線の対極にある「お祭り路線」に活路を見出すべきでしょう。

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これは、決して自虐ではありません。
『パシフィック・リム』が改めて示したように、
「巨大な生き物同士が戦う」というストーリーは、特撮映画の醍醐味です。
さらに、平成ガメラシリーズが怪獣同士の対決をテーマに据え、独自のアクション演出で成功したこと。
そして、新怪獣の造形は本来日本の十八番であること。
これらを勘案すれば、この「お祭り路線」は日本版ゴジラの得意分野のはずなのです。
もし、この戦略に障害があるとすれば、
それは「元祖」「オリジナル」であるはずの日本のゴジラが、これからは「亜流」になることを、
ファンも作り手も受け入れられるかという、心理的な抵抗だけです。

日米双方で、それぞれの長所を生かしたゴジラ映画がシリーズ化される。
そんな状況を、僕はかなり本気で願っています。
確かに見方によっては、日本のゴジラはハリウッドのゴジラに
「一番おいしいところ」を持っていかれたと見ることもできます。
しかし本当は、今回のハリウッド版の成功を「日本のお株が奪われた」と見るのではなく、
「日本版」「ハリウッド版」という分け方自体がナンセンスになったことを、
むしろ喜ぶべきなんだろうと思うのです。
その上で、日米両方のゴジラが、
ライバルのような関係で互いのシリーズを刺激し合っていけたら、
ものすごくおもしろいなあと思うのです。




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ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その2

前回の続きです。
ハリウッドによるリメイク版の公開で世界的に注目を集めているゴジラですが、
ところで本家の日本ゴジラはどうなってんの?」という話。

アメリカで公開第一週No.1を獲得し、早くも続編の制作が決まったハリウッド版に比べると、
「オワコン感」が漂う日本のゴジラは、果たしてこれからどうなるんだという危惧から、
前回はゴジラシリーズの最大の分岐点「平成シリーズ」の、前半4作を振り返りました。
 →ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その1
今回は『ゴジラVSメカゴジラ』以降の、平成シリーズの迷走と終焉について書きます。



『ゴジラVSメカゴジラ』(1993年)

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この作品が画期的だったのは、
メカゴジラという、人類が作り上げたロボットがゴジラの敵であること。
つまり、長らくゴジラと敵怪獣の戦いの傍観者であった「人間」が、
初めて堂々とメインの相手役を務めた点にあります。

僕はこの『VSメカゴジラ』で平成シリーズは終わりにすべきだったと思っています。
ゴジラの最後の敵役が人間、というのは終わり方としても美しかった。
実は、当初は東宝もこの作品でシリーズを一度終わらせるつもりだったようです。
実際、この映画の当初のメインコピーは「この戦いで、全てが終わる」でした。
そして、全身武器のメカゴジラのオールレンジ攻撃や、ゴジラが最後に繰り出す赤い熱線など、
映像としても『VSキングギドラ』以降の「光線偏重」「ゴジラ最強」路線の完成形でした。
当時僕は映画館で「もうこれ以上はないだろう」と感じたのを覚えています。

そしてもう一つ、この作品でシリーズを終わらせるべきだった理由があります。
それは、同じ年の夏に公開された『ジュラシックパーク』です。
この映画ほど、ハリウッドと日本の特撮映画の力の差を見せつけた作品はありませんでした。

『ターミネーター2』も圧倒的でしたが、
まだあの映画は「アンドロイドだから(怪獣じゃないから)」という言い訳が立ちました。
しかし『ジュラシックパーク』は、恐竜と怪獣という設定の違いがあるとはいえ、
「巨大な生き物が人間を襲う」という作品主旨で言えばゴジラと同じでした。
そして、本当に恐竜が生きて動いているかのような『ジュラシックパーク』の映像の迫力は、
ゴジラとは天と地ほどの差がありました。
日本の観客も東宝のスタッフも、あの映画によって完膚なきまでに叩き伏せられたのです。

だから、しつこいようですが、『VSメカゴジラ』で平成シリーズは終わらせるべきだったのです。
『ジュラシックパーク』への「負け試合」として、勇退の花道としてあげるべきだった。
ところが、相変わらず興業的にはヒットしていたために、
シリーズは「望まぬ延命」という運命を歩むことになるのです。

※一説には、ローランド・エメリッヒ版『GODZILLA』の公開とバッティングしないため、
 シリーズを打ち切る予定だったのが、同作の制作が延びたためにやむなくシリーズが
 続けられることになった、とも言われています。

その結果、『VSスペースゴジラ』という、全くの蛇足の作品を生み出す羽目になり、
そしてついには『VSデストロイア』という全シリーズ史上最大の悲劇を生み出すことになるのです。







『ゴジラVSスペースゴジラ』(94年)

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平成シリーズ全7作品の中で、最低の作品がこの『VSスペースゴジラ』です。
スペースゴジラという全く魅力のない敵怪獣(大体ネーミングが安易すぎます)。
リトルゴジラという、前作『VSメカゴジラ』でのベビーの物語をぶち壊すような最悪のキャラ。
設定は新たにしたのに名前とデザインだけは引き継いだといういびつさの犠牲者、モゲラ
そして、三枝未希のラブストーリーという、誰一人として望んでいない要素を入れた謎の脚本。
枚挙にいとまがありません。
出来の悪さは、後のミレニアムシリーズに匹敵します。

リトルというキャラクターやモスラのゲスト出演などを考えると、
ファミリー路線でヒットした『VSモスラ』の二匹目のドジョウを釣ろうとしたのか、
「スペースゴジラ」という安易なネーミングや、モゲラの合体ロボという設定は、
低年齢層の男の子狙いだったのか。
はたまた、三枝未希と新城、千夏と結城という2つのラブストーリー(もどき)は、
(僕は未だにこの作品で柄本明が出演したことがもったいなくて仕方ありません)
旧来のファンに向けた「新たなゴジラ映画」という挑戦だったのか。
全てが意味不明です。

かつては栄華を極めた業界のリーディングブランドであったゴジラが、
その地位を守ろうとして四方八方に手を伸ばした挙句、
それらがどれも顧客のニーズに合っていなかったというのは、
SONYやSHARPといった大手家電メーカーの凋落ととても似ています。
ついでに言えば、この翌年に「平成ガメラシリーズ」という、
若いスタッフの手による傑作特撮映画が始まることも、
新興企業に飲みこまれた老舗企業、という風にも見えます。

いずれにせよ、『VSスペースゴジラ』は既存の顧客をガッカリさせるのに、
そして東宝に、今度こそ本当にシリーズを終わらせることを決意させるのに、
十分すぎるほどのひどい作品でした。
僕自身もこの映画を見て「あ、ここまでだな」と、
それまでの情熱が急速に冷めていったのをはっきりと覚えています。







『ゴジラVSデストロイア』(95年)

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84年『ゴジラ』から始まった平成シリーズは、11年後の『VSデストロイア』で、
ゴジラが死ぬ」という結末とともに幕を閉じます。
ゴジラはこの映画で、最期の瞬間の姿をスクリーンに晒して死んでいきます。

ゴジラが死ぬ姿をはっきりと見せるのは、
全シリーズを通じて、第1作『ゴジラ』とこの作品だけです。
ただ、第1作ではあくまで物語の「ケリ」(平たく言えばオチ)としての死でしたが、
この作品では、既にキャラクターとして、
それも不死身の怪獣として定着していたゴジラが死ぬわけですから、
「死」そのものの意味合いやインパクトは第1作とは異なります。
そのため、『VSデストロイア』というタイトルではあるものの、
本作では敵怪獣との対決以上に「ゴジラの死」自体がテーマとなり、
物語もその一点に向けて進んでいくという、かつてないほど重たいものになりました。

作品の出来は素晴らしかったと思います。
オキシジェン・デストロイヤー山根恵美子(河内桃子)の再登場といった第1作との連関や、
デストロイアが進化していく際のサスペンス的なタッチなど、
久々にスタッフに名を連ねた大森一樹の脚本が非常に良かったし、
久々に肉弾戦が豊富だったゴジラとデストロイアの戦闘シーンや、
ゴジラのジュニアに対する悲しみやデストロイアに向けた怒りなど、
怪獣の「感情」が見える特撮シーンも素晴らしかった。
また、エンドロールでテーマ曲から『キンゴジ』ファロ島の音楽に流れ込むというあの展開には、
伊福部昭のラスト!という気合いを感じました。
作品全体から、「ゴジラの最後の花道を飾ろう」という愛が見えるようでした。

僕自身にとっても、この作品がゴジラに対する情熱の大きな区切りとなり、
「劇場でゴジラを見るのはこれが最後だろう」という気持ちで映画館に足を運びました。
そして、三枝未希の「これで私の仕事は終わった」という台詞に涙を流しました。

このように、「ゴジラの死」というのは一種のイベントではありました。
しかし見方を変えれば、
シリーズとしての役割、キャラクターとしての役割は既に終えていたにもかかわらず、
『VSメカゴジラ』で終われずに延命措置を取られてしまった結果、
ゴジラには「死ぬ」という幕引きしか残されていなかったと見ることもできます。
この作品は、「ゴジラが死んでしまう」という物語上の悲劇と同時に、
制作陣と観客とがゴジラを殺したという、二重の悲劇を含んでいるのです。
だからやはり、この作品は全シリーズ史上最も悲しい作品であると僕は思います。








ここまで平成シリーズの11年に及ぶ歩みを振り返ってきました。
前回の冒頭で書いたように、僕はこの平成シリーズについて、
偉大で無謀なチャレンジャー」だったと見ています。
成果はどうあれ、どの作品においても試行錯誤やチャレンジがあったし、
そしてその先には「ハリウッド」という目標を(意識的にも無意識的にも)見据えていました。
問題は、その高い目標に対して、技術も予算も足りないにもかかわらず、
真っ向から勝負を挑んでしまったことでした。
言ってみれば、根本的な戦略ミスだったわけです。

日本のゴジラには日本のゴジラなりのストロングポイントがあり、それに見合った戦略があるはず。
だからこそ、「無謀なチャレンジャー」だった平成シリーズを振り返ることは、
意味があるだろうと思うのです。
なぜそのような見直しや総括をせずに、
わずか4年のブランクだけでミレニアムシリーズを始めたのか、
返す返すも無念でなりません。

では、「日本のゴジラに合った戦略」とは一体何なのか。
次回はそのことについて書いてみます。




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ゴジラの分かれ道「平成シリーズ」を総括する その1

いよいよ今週末からハリウッド版ゴジラ映画『GODZILLA』の日本公開が始まります。


ゴジラというキャラクターが世界的に注目されるのは嬉しいのですが、
その一方で、元祖である日本のゴジラはこれからどうなるんだという危惧もあります。

そこで、当ブログでは今週から3回にわたって、
日本のゴジラシリーズの来し方・行く末について書いてみたいと思います。
1回目、そして次回2回目は、ゴジラシリーズの最大の「分岐点」となった、
平成シリーズ」を総括します。


■日本のゴジラシリーズは「3期」に分かれる

そもそもを説明しておくと、ゴジラシリーズと呼ばれる作品群は、
時期によって大きく3つに分かれます。

1つ目が、第1作『ゴジラ』(1954年)から『メカゴジラの逆襲』(75年)までの計15作品。
ゴジラが生まれ、人気を獲得し、現在に至るまでの基礎を作ったのがこのシリーズです。
以降、この元祖となったシリーズを「昭和シリーズ」と呼びます。

実は当初、東宝はこの昭和シリーズでゴジラを終わらせようと考えていました。
60年代も終わりになる頃にはウルトラマンをはじめとするTVの特撮ヒーロー人気に押され、
かつては人類の敵だったゴジラも、昭和シリーズの中盤からは、
宇宙からの侵略者と戦う正義の怪獣」というキャラ設定へと転換を余儀なくされていました。
70年代中盤には特撮ブーム自体に陰りが見え始め、
「オワコン」化していたゴジラシリーズは、『メカゴジラの逆襲』で幕が引かれたのです。
(ゴジラほどマーケットの変化に翻弄された哀れな怪獣はいないのです…)

しかし9年後の1984年。
第1作公開からちょうど30年となったこの年に、ゴジラは復活します。
ここから始まる2つめのシリーズが、今回取り上げる「平成シリーズ」です。
復活作『ゴジラ』(第1作と同名タイトル)から95年の『ゴジラVSデストロイア』までの計7作品。
シリーズ2作目の『ゴジラVSビオランテ』(89年)以降、タイトルに必ず「VS」が付くことから、
このシリーズは「VSシリーズ」とも呼ばれます。

そして3つめが、『ゴジラ2000 ミレニアム』(2000年)から
『ゴジラFINAL WARS』(2004年)までの6作品。
『パシフィック・リム』『キングコング対ゴジラ』の記事でも書いたように、
僕は今でもこのシリーズは作るべきじゃなかったと思ってます。
この作品が原因で、それまで築き上げてきたゴジラシリーズの資産は食いつぶされ、
ゴジラという世界は草一本も生えない荒野に変えられてしまいました。
忌むべきこのシリーズを、以降「ミレニアムシリーズ」と呼びます。


■「偉大で無謀なチャレンジャー」だった平成シリーズ

さて、この3つの中で、平成シリーズはどのようなシリーズだったのか。
結論だけ先に述べると、「ハリウッドにチャレンジし、敗れ去ったシリーズ」だと考えています。
順を追って見ていきましょう。



『ゴジラ』(84年)

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9年ぶりにスクリーンに復帰するにあたり、
昭和シリーズで染みついた「怪獣映画は子どものもの」という評価を覆そうと、
本作では「実際にゴジラが現れたら日本社会はどうなるのか」というシミュレーションに基づいた、
一種のリアル・パニック映画という路線を目指しました。

その結果、「登場人物の半分が閣僚」という、
画面が初老の男たちに埋め尽くされる地味な映画になってしまいましたが、
(沢口靖子の清廉さも焼け石に水でした…)
しかし、本作の無骨で硬派な作風はそれまでのゴジラ映画にはなかったものであり、
そのチャレンジ精神は評価すべきじゃないかと思います。


※伊福部昭の音楽が使われていますが実際に本作の音楽を担当したのは小六禮次郎





『ゴジラVSビオランテ』(89年)

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平成シリーズで最も大きな功績を果たしたのが、この『VSビオランテ』です。
復帰第2作であるにもかかわらず、
ゴジラの相手役に新怪獣を選んでいるあたり、制作陣の志の高さを感じます。
しかも、そのビオランテを「バイオ技術でゴジラの細胞から生まれた怪獣」という設定にし、
生物としてのリアルなゴジラ」に切り込んだ点でも、非常に野心的です。
黒木特佐(高嶋政伸)や権藤一佐(峰岸徹)など、自衛隊の存在感もある。
以降『VSデストロイア』まで続くゴジラの造形デザインの基礎がつくられたのも、この作品です。

しかしこの作品の最大の功績は、ゴジラシリーズ史上(ほぼ)初めて、
前作のストーリーを踏襲する」という概念を持ち込んだことです。
たとえば、前作で三原山火口に沈んだゴジラは、今作では再び三原山から登場します。
また、前作に登場した自衛隊の兵器「スーパーX」の後継機である「スーパーXII」が登場し、
劇中「前回のスーパーXの2倍の強さです」と、わざわざ「前回」という言葉を使った台詞も出てきます。

このように、前作と今作がここまで明確に連続しているというのは、
第2作『ゴジラの逆襲』を除けば『VSビオランテ』が初めてであり、
これがきっかけになって、以降の平成シリーズは全て「連続した物語」になりました。
この作品が、いかにエポックメイキングなものだったかが分かります。







『ゴジラVSキングギドラ』(91年)

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当時、ゴジラ映画は「ハリウッド」という存在を相当意識していたんじゃないかと思います。
『VSキングギドラ』の半年前には『ターミネーター2』が公開され、
「コンピューター・グラフィクス(CG)」という言葉が一般にも浸透し、
従来にはなかった映像表現の可能性が、ハリウッドで急速に広がり始めていた時期でした。
海外のそうした最先端の映像作品に対し、
日本国内で唯一対抗できるコンテンツとして期待されたのが、ゴジラでした。

実際、この『VSキングギドラ』から『VSモスラ』、『VSメカゴジラ』あたりまで、
ゴジラはヒットを飛ばし続けます。
(確かこの3作品は当時の同シーズンに公開された映画の中で一番の動員数だったと思います)

内容もエンターテイメント色が加速していきます。
『VSキングギドラ』では、タイムマシンに乗って「未来人」がやってきたり、
明らかにターミネーターを真似た未来のアンドロイドM-11が登場したり、
さらにはゴジラ誕生の秘密という「タブー」に切り込むなど(ファンからは賛否両論でしたが)、
ハリウッド的なド派手志向の演出が増えました。

既にこの時点でゴジラは40年近い歴史がありましたし、
初代の特技監督を務めた円谷英二は海外の映像作家にも影響を与えたパイオニアでしたから、
東宝サイドには「ゴジラでハリウッドには負けられない」という
自負やライバル意識があったんじゃないかと想像します。
(もちろん、それを煽った一因は僕らファンでもあるわけですが)

しかし、こうした「ハリウッドへの対抗意識」が、
結果的にはゴジラを終わらせることになるのです。







『ゴジラVSモスラ』(92年)

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ハリウッドへの対抗意識がゴジラ映画にもたらした最も大きな影響は、「光線の多用」でした。
前作『VSキングギドラ』まではギリギリ残っていた怪獣同士の肉弾戦は、
この作品でほぼ無くなります。

かわって画面の主役になったのが光学合成、
つまり、ゴジラが口から吐く熱戦をはじめとする「光線」でした。
モスラやラドンといった、元々は光線を使えなかった怪獣でさえ、
平成シリーズに登板する際は光線を吐けるように「仕様変更」されました。
その背景には、「ハリウッドに負けないために画面を派手にしなきゃいけない」と考える、
制作サイドの対抗心があったはずです。

しかし、それはあまりに安易な選択でした。
光線だけで戦うのであれば、ロボットや戦艦でもできます。アニメでもいいわけです。
僕ら観客は、怪獣同士の身体がぶつかる際にグッと力が入るからこそ、
また、かみついたり血を流したりして「痛そう!」と感じるからこそ、興奮するのです。

それにひきかえ、光線の打ち合いは「派手さ」はあっても「痛さ」はありません。
そうした生身のリアリティを失ってしまったら、
なんのためにCGではなくわざわざ着ぐるみとミニチュアで撮影しているのでしょうか。
過剰な「光線依存」は、ハリウッドに張り合うどころか、
怪獣映画の醍醐味を観客から奪ったのです。

そして、対ハリウッドのもう一つの表れが、ゴジラの「最強感」を演出することでした。
平成シリーズ開始時では身長80mだったゴジラの身体は、
前作『VSキングギドラ』で100mに巨大化。
かつては最強の敵だったキングギドラにも圧勝するなど、
ちょっとやそっとではもはや負けないくらいに強くなってしまったゴジラですが、
『VSモスラ』では、太平洋の海底火山からマントルに潜り、
そのまま1500℃のマントルの中を泳いで富士山の火口から再び地上に出てくるという、
もはやそれって生き物じゃないだろ的なことを平然とやるようになったのです。
そして、こうした安易で過剰な最強感の演出は、当然ながら強さのインフレ化を招き、
その後の作品づくりを「さらに派手な光線」や「さらに強そうな兵器」に走らせる結果になりました。

人気怪獣モスラの復活と、モスラのキャラクターを生かしたファミリー向けストーリーにより、
『VSモスラ』は平成シリーズ最大のヒット作になりました。
しかし、実は既に崩壊は始まっていたのです。






次回後編は、『ゴジラVSメカゴジラ』(93年)以降の、
平成シリーズの瞑想と終焉について書きます。




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映画 『夢と狂気の王国』

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「ジブリに未来はない」と
監督は語った


『エンディングノート』で脚光を浴びた映画監督・砂田麻美が、
スタジオジブリを約1年間かけて撮影したドキュメンタリ映画、
『夢と狂気の王国』を見てきました。

とても面白かったです。
面白かったし、とても新鮮でした。
ジブリを題材にしたドキュメンタリというのはこれまでにも何本も作られているので、
企画自体は目新しいものではありません。
(実際、鈴木プロデューサーは当初はこの企画に難色を示したそうです)
ではいったい何が「新鮮」だったのかといえば、
これまでのドキュメンタリのほとんどが「映画制作の舞台裏」を撮影していたのに対して、
この映画は「スタジオジブリの日常」を撮ることに焦点を当てていたからです。

例えば、黙々と机の上で鉛筆を走らせ続けるスタッフや、
うんうんと唸りながら絵コンテを切る宮崎監督といった「よくある光景」は、
この映画にはあまり映りません。
そのかわり、スタッフが仕事の合間にスタジオの屋上の庭園で休憩する風景や、
そこで交わす雑談といった、仕事以外の様子がたくさん映っています。

宮崎監督や鈴木プロデューサーのインタビュー的なシーンも挿入されますが、
話している内容も、例えば鈴木さんが「同僚としての宮崎駿」をどう見ているかだったり、
宮崎監督がスタジオの将来をどう考えているのかといった、
作品論から離れた、より漠然と「仕事」に関する話題が多い。
これまでのドキュメンタリが「創作集団としてのジブリ」を映していたとすれば、
この映画は「職場としてのジブリ」をとらえていると言い換えられるかもしれません。
一つの職場、一つの社会としてのジブリの空気というものを体験できる点が、
『夢と狂気の王国』という映画のもつ新鮮さではないかと思います。

とはいえ、被写体として最も多く画面に映るのは、やはり宮崎駿です。
スタジオの自分の席で、あるいはアトリエの部屋で、
彼はカメラ(砂田監督)を相手にいろいろな話を語るのですが、
その口調も内容も、とにかく常に怒りに溢れ、そして圧倒的に諦めきっているのが印象的です。

「20世紀の人間(自分のこと)は21世紀なんて生きたくないんだよ」
「スタジオ(ジブリのこと)の未来は決まってますよ。先細りで潰れます」

ジブリを描いたドキュメンタリの最高傑作である
「『もののけ姫』はこうして生まれた」が制作されたのは1997年。
当時50代だった宮崎監督も、このドキュメンタリの中でかなり辛辣な言葉を吐いていましたが、
あれから20年近く経って70歳を超えた今、その言葉の鋭さはほとんど抜身の刃のようです
ジブリの作品で育った世代の一人としては、
監督の絶望しきった言葉の一つひとつに冷や水を浴びせられ、突き放される思いがします。

では彼が、そんな諦念の中で一体何に作品づくりの動機を見出しているのか。
そのことについて映画には、鈴木プロデューサーが語る「宮崎駿評」とともに、
一つの答えが映されています。
それが何なのかは実際に映画を見ていただくとして(監督がこれまでもずっと口にしてきたことです)、
僕にはモチベーションそのものよりも、
彼の抱える諦念が深まれば深まるほどそのモチベーションが強くなることに「凄み」を感じました。

跳び箱の踏切板が、下へ沈む力が強いほど反動でより高く飛べるように、
宮崎監督の旺盛な創造力は、実は怒りや絶望といった感情が源泉となっている。
そしてその倒錯した創造力によって支えられたスタジオジブリ。
そこは確かに「夢」だけではなく「狂気」の王国なのかもしれません。

印象的だったのは、宮崎吾朗監督と川上量生プロデューサーのぶつかり合いや、
30代という若さで『かぐや姫の物語』のプロデューサーを務めた西村義明の奮闘といった、
次代のジブリを支えるであろう人物たちの姿でした。
(あるいはここに庵野秀明を含めてもいいかも?)
彼らの姿と、前述の「スタジオの未来はない」という宮崎監督の言葉との対比が、
映画を見終わっても頭の中で緊張感を生み、
スタジオジブリ自体が一つの物語になっていく予感を感じさせました。

<予告編>





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映画 『キングコング対ゴジラ』

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特撮映画の面白さは
「くだらなさ」と表裏一体だ


映画『パシフィック・リム』を見てからというもの、特撮映画のことばっかり考えてます。
あの映画がなぜあんなに面白かったのかというと、
最先端の映像技術云々ではなく(それももちろんすごかったけど)、
巨大ロボットと怪獣が戦う!という、
「ど」がつくほどシンプル且つストレートな物語にあったんだと思うのです。

僕はずっと、CG(をはじめとする映像技術)がいかにリアルか、いかに美しいかということと、
「面白さ」というものは、本質的に関係ないんじゃないかと考えてました。

映像技術は本来、頭の中にしか描けないイメージを具現化する「手段」であるはずなのに、
近年のSFものやパニックものは、「映像技術の進化を観客に見せつけるために作られたもの」、
つまり、映像自体が目的化しているように思えてなりませんでした。
J・キャメロン監督の『アバター』が大ヒットしましたが、
あの作品のストーリーを正確に思い出せる人は、一体何人いるのでしょう。

確かに映像技術の進化は表現の可能性を広げましたが、
(ブラッド・ピット主演の『ワールドウォーZ』では、モブシーンに映る何百体というCGのゾンビの一つひとつに対し、
 AI(人工知能)を付けて「勝手に」「自由に」演技をさせたそうです。つまりこれからはエキストラが要らなくなる?)
ストーリーもそれにつられて複雑化の一途をたどり、
その結果、映像の印象は残っても肝心のストーリーが頭に入らない、本末転倒な作品が増えた気がするのです。
(僕は映像技術とストーリーがいいバランスで拮抗していたのは、
 『ターミネーター2』と『ジュラシック・パーク』が頂点だったと思います)

もちろん、ストーリーよりも「映像ショー」を見たいという人、
あるいは「複雑さのための複雑さ」を究めたような難解なストーリーを好む人もいるでしょう。
でも僕は、こと特撮に関しては、シンプルで素朴で、もっといえばくだらないくらいの方がいい。
『アバター』の大ヒットを苦々しく思っていた僕は『パシフィック・リム』を見て、
「ほ〜らやっぱり!」と痛快な気持ちになったのです。


1962年に公開された『キングコング対ゴジラ』という映画があります。
『ゴジラ』(54年)、『ゴジラの逆襲』(55年)に続く3本目のゴジラ映画、
しかもシリーズ初のカラー作品として制作されたこの映画は、
動員数1255万人という空前の大ヒットを記録。
これは計算上、当時の日本人約7.5人に1人が観たことになり、
今日に至るまで、ゴジラシリーズでこの記録を破った作品は生まれていません。

さらにはこの作品によって「主役のゴジラと敵役のゲスト怪獣が戦う」という、
その後のシリーズの原型が作り上げられました。
この映画がなければゴジラはシリーズ化されず、
それどころか、その後60〜70年代へと続く東宝特撮映画の黄金期も無かったでしょう。
ウルトラマンや大映の『大魔神』『ガメラ』シリーズまで含めた日本の特撮映画の歴史の中で、
『キングコング対ゴジラ』は極めて重要な役割を果たしたのです。

このように、まさに記念碑と呼ぶべき作品なのですが、
実はこの映画には「突っ込みどころ」が満載です。

例えばゲスト怪獣であるキングコングの造形。
起きてるのか寝てるのかわからない、常に半眼気味の顔つきはどう言い繕っても不細工だし、
着ぐるみの設計ミス(?)により肘と手首の間にあるはずのない関節が生まれ、
いつも腕が折れてるように見えるのも、かなり不気味。
コングの権利者である米映画会社RKOは、出来上がった映画を見て
あまりに造詣のひどさにブチ切れたそうです。

僕が一番おかしかったのは、キングコングが眠る南海の孤島・ファロ島の住人を、
生粋の日本人たちが演じていることです。
日本人の集団が、褐色の肌を表現するために顔や手足に茶色のドウランを塗りたくり、腰みのを付けて、
怪しい言語を口にしている光景というのは、いくら映画とはいえ、かなりクルものがあります。
(一番面白いのは、現地人の通訳役を演じる大村千吉で、終始カタコトの日本語でお芝居をします)

映像技術だって、ハリウッドのCGを見慣れた身からすれば、そりゃあ拙いもんです。
戦車もミニチュアも手作り感に溢れてるし、
そもそもゴジラもコングも「中に人が入ってる」感に満ち満ちています。

で、僕が何を言いたいかというと、このようにたくさんの「突っ込みどころ」があるにもかかわらず、
この『キングコング対ゴジラ』という作品はめっぽう面白い、ということなのです。
なぜなのか。
それは、この映画が徹頭徹尾「怪獣の大暴れ」を描いているからです。

この映画のストーリーについて説明しようとすると、

「南の孤島に伝わる謎の巨獣伝説!」
「深海より現れた大ダコが、いたいけな母子に魔の手を伸ばす!」
「ベーリング海で見つかった謎の発光現象と、消息を断った原子力潜水艦!」
「自衛隊出動!ゴジラ埋没作戦実行セラル!」
「若き乙女をさらったキングコングが国会議事堂に迫る!」
「ゴジラ勝つかコング勝つか!富士山麓を舞台に繰り広げられる果てなき死闘!」

どうです。ほとんどコピーになっちゃいます。
しかもこの、「!」が連続する、ギラギラに脂ぎったエンターテインメント感。
『キングコング対ゴジラ』という映画は、過剰なほどのサービス精神をもって、
とにかく始めから終りまでひたすら怪獣が暴れまくるシーンの連続なんです。

こういうのを「くだらない」と思った方は、ある意味では正しい。
というのも、特撮映画の面白さは常に「くだらなさ」と表裏一体で、
むしろ、どれだけ「くだらなさ」に肉迫できるかに比例するといっても過言ではないからです。
だって、僕らが「見たい!」と考えるもの、ロマンを感じるものって、大体がくだらないものです。
くだらないというのが言いすぎなら、「素朴」あるいは「プリミティブ」と言い換えます。
例えば「宇宙」。
例えば「恐竜」。
例えば「深海の巨大イカ」(←国立博物館、結局見に行けませんでした…)。

僕らが特撮映画に求めるものって、所詮その程度のシンプルなものだと思うのです。
というか、そもそも特撮映画って、そういうシンプルな「興奮欲求」に応えるためのものだった。
(怪獣とかロボットとかフランケンシュタインなどのモンスターとか)
『パシフィック・リム』が面白かったのは、そういう特撮映画の原点があったからだと思います。
逆に言えば、最近のSF映画は、僕ら観客の欲求が追いつかないレベルの映像まで作りだすことができるから、
大して面白くないのです。
(平成ゴジラシリーズが面白さを失ってしまったのは、
ハリウッドに対抗して「映像技術の進化」を最終目標にしてしまったからだと思います)


特撮映画の映像技術について最後にフォローしておくと、
僕は先ほど「ハリウッドのCGを見慣れた身からすれば拙い」と書きましたが、
特撮映画の方が優れているところだって、ちゃんとあります。

例えば怪獣の質感。
円谷英二の孫で、円谷プロの第6代社長を務めた円谷英明氏は、
著書『ウルトラマンが泣いている』(←これは面白い本でした)の中で、
「皮膚や体毛などの質感は、どう頑張ってもCGは特撮にかなわない」と書いていました。
僕もそう思います。
CGで作られたモンスターが傷を負うシーンを見てもなんとも思わないのに、
着ぐるみの怪獣がやられると「痛いッ!」と感じるんですよね。
これはもう絶対に、着ぐるみというリアルの「モノ」で撮影しているからに他なりません。
CGって乾いた質感になりますが、着ぐるみは濡れた質感になります。
この、怪獣の「ヌメッ」とした感じが「アヤしさ」を演出し、CGの迫力では出せない「怖さ」を醸し出します。
これが特撮が圧倒的に優れているところです。

また、怪獣のデザインも日本の特撮の方が優れていると感じます。
『パシフィック・リム』で唯一不満があったのは、怪獣のデザインでした。
あれだと、ただ単に気持ち悪いだけなんです。気持ち悪くて、でかいだけ。
怪獣に必要なのは気持ち悪さではなく、「アヤしさ」です。
例えばモスラ。成虫時の羽根のデザインとかものすごく美しいんだけど、
同時に体毛の質感とか、すごくアヤしい。
あの美しい羽根の中に、大量の毒粉が含まれている設定も、すごくアヤしい。
『地球防衛軍』のモゲラなんかも、ロボットという設定なのにやたらと生き物っぽくてアヤしい。
白川由美が入ってるお風呂の窓から見えるカットとか、たまらないですよねえ。

ハリウッドの場合、怖さだったら怖さ、かっこよさだったらかっこよさなど、
なにかと「完璧なデザイン」を追求しますが、
それに対して日本の怪獣は、どこか不完全で「抜け」があります。
(ウルトラマンの怪獣とか、妙なデザインのオンパレードです)
しかし、この「抜け」ている部分が、アヤしさだったり、妙に脳裏に残るインパクトを与える。
こういう独特の美学は、日本の特撮にしかないものだと思います。



それにしても、「特撮」とか「怪獣」とか、この字面だけでうっとりとしてしまいますねえ。
日本では1960年代に爆発的な怪獣ブームが起きました。
火付け役になったのはゴジラシリーズをはじめとする東宝特撮映画とウルトラマンです。
僕は『ゴジラvsビオランテ』(89年)から入った超後発世代ですが、
夢中になったのは、リアルタイムの平成ゴジラシリーズよりも、
昔の特撮映画の方でした。

見まくりましたねえ。近所のレンタルビデオショップにローラー作戦かけて。
あまりに特撮映画が好きなもんだから、
同級生たちにもその魅力を教えてあげたくてたまらなくなって、
怪獣の図鑑とか写真集を貸したり、
型紙で作ったジオラマの上にソフビ人形並べて「撮影会」を開いたり、
ビデオを見せて、その直後に理解度を深めるために「勉強会」開いたりしてました(全て善意です)。
そしたら、半年くらいで友達がいなくなりました。
「好き」を追求すると孤独になるという人生の真理を、僕は10歳にして特撮から学んだのです。
そしてその孤独さが、今度はロックに走らせる原動力となって、そのまま今に至るのです。はい。


浜美枝さんの色気も素晴らしい<キングコング対ゴジラ>予告編







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