週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

映画

映画 『パシフィック・リム』

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ハリウッドが本気で
「特撮映画」を作ってきた!


太平洋の海底に生じた異次元の裂け目(=リム)から続々と出現する巨大怪獣。
世界各地の都市を蹂躙され滅亡の危機に瀕した人類は、
対怪獣用の最終兵器として、巨大ロボット「イェーガー」を建造する――。

ああ、もうあらすじを書いているだけで興奮が蘇ります。
「総製作費200億円」?「芦田愛菜ちゃんハリウッドデビュー」?
いやいや、そんなところだけがこの映画の素晴らしさじゃありません。

映画『パシフィック・リム』。
それは、巨大ロボットと大怪獣が2時間半ひたすら戦いまくるという、
今日び絶滅しかかっていた「ザ・特撮映画」なのです。
ギレルモ・デル・トロ監督の、東宝特撮やウルトラマン、日本のアニメなどへの愛に溢れた、
感動的で胸熱な超・王道特撮映画なのです!

じゃあ具体的にどこがそんなに素晴らしいのか。
以下に列挙します。



その1:巨大ロボット「イェーガー」がかっこいい!

主役メカ「イェーガー」のデザインが素晴らしいです。
あの重量感溢れる逆三角形フォルム。
そして鈍色に光るボディの鋼鉄感と、関節周りのむき出し感。
最高に武骨です。
流線型の未来的デザインではなく、鉄人28号やマジンガーZのようなずんぐりデザインにしたあたりに、
「そう!そういうこと!」みたいな興奮を覚えます。

ちなみに僕はロシアのイェーガー「チェルノ・アルファ」が一番好き。
あの顔周りのデザインがいいですね(見ようによってはカエルにも見えます)。
「旧型で動きが重い」という設定もたまりません。
ギレルモ監督曰く、「チェルノ・アルファ」のデザインはザクをモデルにしたとのこと。
くぅぅ〜!受け継がれる魂!!



その2:「怪獣」という設定が素晴らしすぎる!

怪獣ですよ?怪獣!
エイリアンとかサイボーグとかじゃなくて「怪獣」!

多くの作品において設定先行型、リアリティ重視型の敵キャラが主流となった昨今、
「怪獣」はもはや時代的な役割を終えた感がありました。

しかし、この映画を見た人は気付いたはずです。
ただ巨大であること。ただ凶暴であること。そしてそれが「生き物」であること。
このシンプルさがいかにスカッと気持ちいいかということに。
(僕なんかは、本当はもっと怪獣の都市破壊シーンを見たかったです)
決してトレンディではなかった「怪獣」という存在に再び息を吹き込んだという点が、
僕は『パシフィック・リム』の最大の功績なのではないかと思います。

しかも素晴らしいことに、劇中では怪獣のことをみんな「カイジュウ」と呼ぶんですね!
「怪獣」がついに国際公用語に!
これは本当に感涙ものです。



その3:戦闘シーンが「プロレス」!

イェーガーと怪獣との戦いは徹頭徹尾、肉弾戦です。
飛び道具なんて姑息な手段は(ほとんど)ありません。

殴る!
引き裂く!
(怪獣は)噛む!
港で拾ったタンカーを棒代わりにぶっ叩く!

かつてのゴジラやウルトラマンの戦いがそうであったように、
巨大生物同士の戦いはプロレスでなくちゃ面白くありません。
平成ゴジラ(特に『vsメカゴジラ』以降)が非常につまらかったのは、一つには光線を多用しすぎたからです。
やはり巨大なモノとモノがくんずほごれつしながら道路やビルや車がどんどんめちゃくちゃになっていくというのが、
「特撮映画」の重要な醍醐味です。
そこを押さえている『パシフィック・リム』は素晴らしい。

また、各イェーガーの「必殺技」もたまりませんね。
主役イェーガー「ジプシー・デンジャー」のキメ技の一つ「エルボーロケット」
(肘に装着したロケットを噴射させ、パンチの威力を倍加させる!)なんて、
見ていて「うおおおっ!」と叫びそうになりました。
僕が一番好きなのは、香港のイェーガー「クリムゾン・タイフーン」の「雷雲旋風脚」!
4本腕に装着したドリル的なものを振り回すという「天津飯+ゲッターロボ」みたいな最強の技!
そしてナイス・ネーミング!



その4:「超シンプル」なストーリー!

「怪獣がいきなり現れたから、ロボット作って戦う」。

どうです、ストーリーが1行に収まります!
バカにしているわけじゃありません。
特撮映画はこれくらいシンプルじゃないといけないんです。
あれこれと余計なテーマを盛り込んだ(また引き合いに出しますが)平成ゴジラがどうなったか。
子どもはワケが分からない、大人には物足りないという、
結局誰も満足しない映画になってシリーズは終わったのです。

まあ、『パシフィック・リム』も一応ハリウッドですから、
登場人物のトラウマやそこからの再生、お決まりのロマンスなんていう要素も入ってますが、
あれは多分、ギレルモ監督が映画会社へのエクスキューズとしてねじ込んだに過ぎません。
(ラストにヒーローとヒロインがキスをしなかったという点は評価すべきです)
怪獣がなぜ攻めてくるのかという謎についても説明はありますが、あれも基本的にはエクスキューズ。

この映画の本質は(何度も言うように)かっこいい巨大ロボットと「怪獣」が、
画面狭しと戦いまくるというその一点に尽きるわけです。

リアリティ?背景?設定?
そんなしゃらくさいものには目もくれず、
ただひたすらに、映画の原点である「ワクワク」を追求した作品。
それが『パシフィック・リム』なのです。




正直に言えば、悔しさもあります。
だって、怪獣ものや巨大ロボットもの、特撮ものは、
東宝をはじめ、日本の専売特許だったのです。
いえ、それを奪われたから悔しいというのではありません。
過去の遺物となった特撮映画について、
自身の手で作ってしまおうと考えるほど「特撮愛」に満ちた人間が、
日本ではなく海外から出てしまったということに、情けなさを感じるのです。

ただ、『パシフィック・リム』は同時に、日本にもチャンスがあることを示唆してもいます。
特撮映画を撮る場合、映像技術が(つまりはお金が)何よりも重要だと考えられがちですが、
それ以上に「センス」が必要なのだと教えているからです。
願わくば、特撮映画を撮りたいという才能ある若手にポンッと任せられちゃうような、
そんな(観客含め)環境が、日本映画に培われるといいなと思います。

『パシフィック・リム』予告編





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映画 『風立ちぬ』

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ナウシカ・ラピュタ世代の
「再びのリアルタイム」


宮崎駿の新作『風立ちぬ』を見てきました。

見終わった後、映画館のエレベーターで乗り合わせた客の一人(男性)が、
「あれで終わり?」と、不満を口にしていました。
その気持ち、分からないではないです。
確かに、これまでの宮崎作品にあったようなカタルシスや爽快感のあるラストではありませんでした。
でも、それが映画の価値を貶めているかというと、僕はそんなことはないと思います。
多分、この『風立ちぬ』という映画は、これまでの宮崎作品と根本的に違うんだと思います。

それを端的に表しているのが、「生きねば」というコピーです。
このコピーを見てパッと思い出すのは、『もののけ姫』のコピーである「生きろ」。
「生きろ」が他者に訴えかけるメッセージであるのに対し、
「生きねば」は自らに言い聞かせる独り言です。
これまでの宮崎作品は、宮崎駿が年下の世代(主に子どもたち)に対して物語を語りかけるように作られてきました。
しかし『風立ちぬ』は、宮崎駿が他の誰でもない自分自身に対して語りかける、
初めての一人称の映画だったんだと思います。

一人の男性が夢を追い、その中で一人の女性に出会い、別れ、そしてまた夢を追う。
『風立ちぬ』は、その姿をただ淡々と写した映画です。
それは物語というよりも、シンプルな風景画に近い。
これまで散々「物語」を語ってきた宮崎駿がいきなり一枚の風景画だけを提示してきたのだから、
人によってはがっかりもするでしょう。
風景画はそれ自体は何の説明もなく、その真意を理解できるのは本質的には風景を見た本人しかいないからです。

それは、ある意味では人生そのものであるとも言えます。
映画を見終わって感じる、映画と自分(観客)とが重なり合わない距離感のようなもの。
それは、壮大な冒険劇やファンタジックなキャラクターという
宮崎作品らしい「仕掛け」が無い、という不満などではなく、
「他人の人生と自分の人生とは同化できない」という、
生きる上での真理そのものなのです。
その意味で、僕はこの映画は宮崎駿が初めて作った「大人の映画」なんだと思います。
大人をターゲットにした映画、ではなく、大人の映画。
映画と観客との関係が、大人同士の関係性とそっくりそのまま同じであるという意味で、
『風立ちぬ』は「大人の映画」だと思います。

もう一つ、この映画について語る時に考えなければならないのは、「戦争」というファクターです。
戦争自体は、実はこれまでにも宮崎作品で絶えずその影がちらついていました。
『ナウシカ』は戦争の渦中の話だし、『ラピュタ』にも軍人が出てくるし、
『千と千尋』だって、湯婆婆と銭婆の間に暴力を用いた争いがある。
さらには『ポニョ』にだって、フジモトの抱える人間への敵意(争いの予感)があります。
そして、これまでの宮崎映画は、
そうした戦争に対してどの勢力にも与せず、
自分の道を進もうとする人物たちを描いてきました。

ところが、『風立ちぬ』の主人公・二郎は、戦闘機の設計を生業とする人物です。
つまり、間接的にせよ、結果として戦争に協力している。
ここが、これまでの宮崎作品のキャラクターたちと異なる点です。
二郎自身は、戦争に協力したいなんて露ほども思っていません。
考えているのはただ「美しい飛行機を作りたい」ということ。
しかし、現実にはその夢は「戦闘機を作る」ということでしか果たすことができないのです。

飛行機を作りたいという夢と、戦闘機を作らなければいけないという現実。
両者の間で二郎が葛藤を抱えていたことは、
たびたび出てくるカプローニとの会話で察することができます。
しかし、その二つになんとか折り合いをつけ、
さらには病気の妻と過ごす時間を削ってまでも仕事に力を注いだ結果、どうなったか。
国は戦争に負け、妻は彼の元からいなくなりました。
「持ち時間である10年」で、二郎は何かを手にするどころか、
一切を失ってしまったのです。
それでも明日はやってくる。
「生きねば」というコピーは、まさにこの瞬間の二郎の心情を表したものだったのでしょう。

僕は、これから二郎が何を頼りに生きていくのかが気になります。
菜穂子が夢の中で言ってくれた「生きて」という言葉なのか。
やっぱり、飛行機を作るという夢なのか。
傷は時間が経てば癒えるかもしれません。
でも、失った時間そのものは取り戻せない。
「生きねば」という言葉は、なんと残酷なのだろうと、
僕はラストシーンで感動するどころかむしろ慄然としました。
ラストシーンの映像そのものはとても美しいものでしたが、
しかし想像すればするほど、その美しさの中に悲しみの予感を感じました。

風景画のように静かで淡いキャラクターたち。
客席に近寄ってこないドラマ。
そして、「生きねば」という重たい決意。
心に秘めたものを正直に語ろうとすると、
言葉はミもフタもないものに、口調はぶっきらぼうになるように、
この映画のジブリらしからぬ「不親切」ともいえる要素はいずれも、
素の宮崎駿が自らの思いを語ろうとしていることの表れなんじゃないかという気がします。
鈴木プロデューサーはこの映画を「宮崎駿の遺言」と語ったそうですが、
(宮崎駿自身はそれを否定していますが)
あながち誇張であるとは思えません。

先日、池袋で開催されていた『風立ちぬ』の原画展に行ったら、グッズコーナーに、
僕が幼稚園とか小学校低学年の頃にボロボロになるまで見ていた『ナウシカ』のアニメ絵本が、
現役バリバリで置いてあってびっくりしました。
(第何版なんでしょうね)
かつてリアルタイムで『ナウシカ』や『ラピュタ』を見ていた世代は、
30〜40代という中堅の世代を迎えています(僕もその一人)。
そうしたナウシカ・ラピュタ世代にとって、ある時期以降のジブリ作品は、
リアルタイム感(自分がターゲットになっている感)よりも「ノスタルジア」を、
つまり、第2第3の『ナウシカ』『ラピュタ』の影を求めるものへと変わったと思います。
(僕にとっての境目は『千と千尋』でした)
しかしこの『風立ちぬ』は、僕たちナウシカ・ラピュタ世代にとっての、
「再びのリアルタイム」となる作品として位置づけられるのかもしれません。






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映画 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

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「シンジのための物語」なら
僕はもう見たくない


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のDVD/Blu-rayが発売されました。

劇場公開から約半年。
決して短くない時間が経っているにもかかわらず、
改めて見直してみると、
映画館で受けた「あの衝撃」がありありと蘇ってきます。

控えめに言っても、この『Q』という作品はかなりの問題作だったと思います。
いきなり「あれから14年経った」という展開の仕方は、
観客の予想の、遥か斜め上を行くものでした。
テレビ版とも劇場版とも異なる、
全く新しいエヴァの世界を目にすることができたこと自体は、
間違いなく興奮する出来事でしたが、
しかしその一方で、例えばヴィレ設立の経緯やサードインパクト直後の様子・描写など、
「空白の14年間」を埋めてくれる説明は驚くほど少なく、
それどころか「ヴンダーって何だ」「カシウスの槍って何だ」など、
新たな謎のバーゲンセール状態(しかもそれらはほとんど次回作への積み残し)になってしまったところに、
僕としては不満が残りました。

まるでとりつくシマがないところを指して
「そういうところこそが『本来のエヴァ』じゃないか」という、
「エヴァ原理主義」的意見も一定の理解はできます。
確かに、観客の「?」を無視してガンガン物語が進んでいく「取り残された感」は、
かつてのテレビ版や旧劇場版でさんざん味わった感覚です。
しかし、これまでの『序』『破』という2作を踏まえたときに、
つまり『エヴァンゲリオン』ではなく『ヱヴァンゲリヲン』という新たな物語と考えた場合、
僕は『Q』という作品が再び(『ヱヴァ』ではなく)『エヴァ』の雰囲気を持ち始めたことは、
「回帰」ではなく「後退」なんじゃないかと思います。


旧エヴァになくて新ヱヴァにある(正確に言えば「あった」)もの。
それは、シンジやレイ、アスカが「成長している」という実感でした。
より詳しく述べれば、成長を実感できる、という「達成感(カタルシス)」でした。
具体的には、『破』の記事で書きましたが、
シンジやレイやアスカが、
他人のことを思いやり、他人に対して心を開き、他人のために行動するようになるという「確かな温かさ」は、
かつての旧エヴァには見られなかったことです。

シンジたちは14歳のままなのに、間違いなく「成長」している。
かつて、彼らに自らを投影していた僕らリアルタイム世代にとって、
シンジたちの「成長した姿」は、僕ら自身が生きてきた証のように感じられました。
だからこそ、僕は映画館の座席で身体が震えるような感動を覚えたのです。

だから、『破』を見終えた時点で僕は、
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』という物語は、シンジたちの成長譚になるのだろうと予想しました。
それこそが、庵野秀明が当初語っていた
「閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だ」という言葉の意味なんだろうと。

しかし、その期待は(少なくとも『Q』では)裏切られました。

僕は、せめて空白の14年間におけるキャラクター達の変遷はもう少し描いてほしかったです。
『破』のラストで、レイを奪い返すために使徒に立ち向かうシンジに対し、
「行きなさいシンジくん!」とミサトが叫ぶ場面は、旧エヴァと新ヱヴァとを分つ象徴的なシーンでした。
あそこまでシンジの背中を押していたミサトが、
(14年経っているとはいえ)その直後に、なぜ同じシンジに対してああも冷たい態度を取るのか。

もちろん、ミサトの変化やその他の空白の14年間について、
経緯や背景を描かずに観客の想像力に委ねるのも一つの手です。
しかし、(くどいようですが「エヴァ」ではなく)「ヱヴァ」という物語においては、
ミサトの心理の変化を「描く」という選択肢をとってほしかったなあと思うのです。
正直、ヴンダーがどうした、カシウスの槍がどうしたという、
補完計画やネルフ絡みの謎については、僕はどうでもいいのです。
ただ、上述のようなミサトの14年間や、アスカやマリの14年間といった「人物の心理」については、
もう少し触れてもよかったんじゃないかと思います。
『序』『破』との最大の分断は、14年経ったという時間的な距離などではなく、
「誰の気持ちも分からなくなった」という、この落胆なんじゃないかと思います。

僕が今危惧しているのは、今回大量に放出された謎の解明と、
さらにうつ状態に陥ったシンジの回復という膨大な課題を、
果たして次回作だけで収拾できるのかということです。

群像劇だった『序』『破』から、『Q』で一気にシンジの一人称の物語に転換したことを考えると、
結局、新ヱヴァも旧エヴァと同様に、最終的には「シンジの物語」に絞ろうとしているんじゃないかと思います。
もしそうだとしたら、補完計画や、ヴィレとネルフの対決といった「ストーリー」としての決着よりも、
シンジがあの状況からどう希望を見いだすのかという、
観念の話に着地する ―かつてのテレビ版と同じ轍を踏む― ことになります。
それは避けてほしい。
新ヱヴァには観念ではなく、今度こそ具体的で肉体性のある希望を描いてほしいと願います。
「具体的で肉体性のある希望」とは何か。
それは、シンジ一人の「心の救済」などではなく、
あのサードインパクト後のめちゃくちゃになった世界について、
そして生き残った人々について、
何らかの形での回復・修復を描くということです。

書いていて思い出したのですが、
『序』そして『破』と見てきて、僕は新ヱヴァが「シンジとレイの物語」になるんだろうと予想していたのでした。
『破』の第10の使徒(前ゼルエル)との戦いにおいても、レイとの関係というものが、
シンジを動かす大きな動機となっていました。
だから、レイを救うことを通じて、シンジ自身も救われる物語になるんじゃないかと考えたのです。
すごく、ピュアなラブストーリーになるんじゃないかと。
だとすれば、すごく「アリ」だと思いました。
それは(繰り返すように)、テレビ版も旧劇場版も、結局はシンジ一人の物語だったから。
シンジだけでなく、シンジとレイと(願わくばアスカやミサトやゲンドウも)共に何らかの再生を遂げるのであれば、
リメイクされる意味があるなあと思ったのです。

完結編となる次回作のタイトルは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』。
ここで再びタイトルが「エヴァンゲリオン」に戻ったこと。
そして、「:||」という、楽譜上で「反復=同じことを繰り返す」を意味する記号が付けられていることに、
何やら不穏な予感を覚えます。
けれど、もはや作品として鑑賞するというよりも、
一つの事件として、とにもかくにも最後まで「目撃する」ことが、
「エヴァを見る」ということの意味だと思うので、
期待しながら完結編の公開を待ちたいと思います。


映画 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 予告







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『天才 勝新太郎』 春日太一 (文春新書)

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「夢中になること」の天才

酒とタバコと高級車。金遣いも遊び方もとにかく派手。
そんな豪放磊落なイメージの陰に隠れた、
創作者としての勝新太郎に迫ったドキュメンタリー。

いやあ、すごい本でした。
「作ること」にとり憑かれ、
一匹の“鬼”と化した男の姿が克明に記された衝撃の本です。

勝新太郎は1950年代半ばに映画俳優としてデビューしました。
当時は映画産業の華々しい勃興期だったので、
比較的早い段階から主演を任されるようになりますが、
市川雷蔵ら当時のスターと比べるとずんぐりした体形で声も野太い勝新太郎は、
長い間B級の、映画会社からすれば「つなぎ」の映画の話しか回ってきませんでした。

転機になったのは61年公開の『悪名』と、続く62年の『座頭市物語』。
従来にはなかった、哀愁と猥雑さが同居したエネルギッシュなヒーロー像に、
勝新太郎のパーソナリティーが見事にマッチし、
一気にスターに上り詰めます。

しかし、カメラの前で言われた通りに演技するだけでは
徐々に飽き足らなくなった勝新太郎は、
『座頭市』シリーズで監督や脚本、編集までを自らの手で行うようになります。
映画会社から独立して「勝プロダクション」を設立し、
「自分が作りたい作品」を目指して突き進みます。

勝新太郎は徹底的に現場にこだわります。
脚本家が上げてきた脚本が現場で捨てられて、
その場で全く新しいストーリーができるなんてことは日常茶飯事。
スタッフは混乱し、予算はガンガン嵩んでいきますが、
それでも勝新太郎の考えるアイデアは誰よりも面白く、
他のどんな映画よりも野心的で新しかった。
だからスタッフは文句も言わず彼に付き合い、
緒形拳をはじめ名だたる俳優たちが彼との共演を望みました。

その根底にあるのは、
「絶対にファンをガッカリさせない」という繊細なほどのサービス精神(あるいは強烈なプライド)と、
「この役はどういう人物なのか」という徹底したリアリティへのこだわりでした。
後年、黒澤明の『影武者』の現場で、
黒澤監督の演技プランに対して「武田信玄はそんなことはしない」と言い放ち、
それが監督の怒りを買って映画を降板することになりますが、
これは彼が創作者として飽くなき探求心を持っていたがために起きてしまった事件といえます。

勝新太郎と聞いて僕が真っ先に思い出すのは、
1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』での豊臣秀吉です。
あの演技は強烈でした。
人というよりも、もはや「怪獣」のようでした。
主演の渡辺謙を掌で転がすように扱う圧倒的な存在感。
政宗と初めて対面する小田原籠城戦の場面では、
カメラテストまで一切渡辺謙と顔を合わせないようにして、
血気盛んな政宗と老練な秀吉とのガチンコの緊張感を出した、
なんていうかっこよすぎるエピソードがあります。

とにかく規格外な勝新太郎。
人はここまで芸の虫になれるのかと、感動を通り越して呆然とする思いです。
本書のタイトルに「天才」とありますが、
これは単に演技の才能があるとか、そういう上辺のことを指した評価ではありません。
強いて言えば、「夢中になること」の天才。
作品に対して、時に非常識にも狂っているようにも見えるほど没頭できる、
その過剰な創作意欲こそが巨大な才能なのです。
劇作家の鴻上尚史は「才能とは夢を見続ける力のこと」と言いました。
だとすれば、勝新太郎はまさに「天才」と呼ぶに相応しい人物でした。


ニコニコ動画で見つけました。
『独眼竜政宗』(87年)での秀吉(勝)・政宗(渡辺謙)の初対面シーン







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「世界を好きになろう」という意志

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映画 『コクリコ坂から』

スタジオジブリの最新作『コクリコ坂から』を見てきました。
細かいストーリーやトータルとしての感想は、いろんなところで書かれているので、
今回は物語の本筋とは直接は関係のないところについて書きたいと思います。

物語の舞台は、1963年の横浜です。
当時の横浜は既に日本最大の港湾都市として発展していましたが、
主人公の少女・海の暮らす街は、
まだ都市化の波が押し寄せてはいない、横浜の外れの港街です。
海べりには小さな波止場と商店街があって、
船乗りとその家族が暮らす木造の家が立ち並んでいます。
海に目を向けると、
沖には大型のコンテナ船や積み荷を運ぶタグボートが、煙を吐き出しながら盛んに行き交っています。
高度経済成長期真っ只中ですが、
この街には何となくのどかさが残っています。

決して多くのシーンが割かれているわけではありませんが、
映画ではこの街の人々の暮らしがよく描かれています。
船乗りや商店街の肉屋、魚屋、主婦や子供たち。
別に裕福な街ではないので、経済成長の華やかさなどとは無縁の生活ぶりなのですが、
それでも各自がその小さな世界の中で淡々と暮らしているのです。

実は僕は、この街の風景に、涙が出てきて仕方がありませんでした。
いろんな人が生きているという、ただそれだけのことに僕はものすごく震えたのです。

主人公の海は、母親が家を空けているため、
毎日、家族の食事の用意や洗濯をしています。
まだ日が昇らない内に起きなければいけないし、
放課後も遅くまで学校に残ることはできません。
けっこう苦労人なのですが、海自身は(少なくとも表面的には)そういう自分の生活を受け入れていて、
淡々と同じような毎日を繰り返しているのです。

僕は街の人を、そして主人公の海を見ながら「なんて世界は美しいんだろう」と考えていました。
人生はいろいろうまくいかないことや、泣きたくなることや、後悔することがたくさんあるし、
たまに「ああ、もっと違う人生があったのでは」というようなことを考えたりするけれど、
そんなことは詮ないことだから、今いるこの場所で黙々と毎日を過ごしていくしかない。
あの街で暮らしている登場人物たちは、
そういう葛藤(というほど大げさなものではないにせよ)を乗り越えてきたんだと思うと、
海や、街の人の、淡々とした生活のリズム感は、
それ自体がものすごく美しいものに思えてきたのです。

実は、昨年の『借りぐらしのアリエッティ』でも、一昨年の『崖の上のポニョ』でも、
僕は同じことを感じて泣きました。
1か月くらい前に、金曜ロードショーで放送された『魔女の宅急便』を見ても、やっぱり泣きました。
スタジオジブリの作品は、この世界の一切を肯定しようという、
無謀と言えるほどの意志があるから好きです。
ジブリの作品はどれもが生命賛歌であり、世界賛歌だと僕は思います。
子供の頃は、そういう感覚を直感的に受け取っていたのでしょう。
そして大人になった今、世界を肯定することは、とんでもなくエネルギーが要ることを知りました。
膨大なエネルギーを消費してもなお、世界を好きなろうとする気持ちは、
多分毎日を淡々と笑顔で生きていくことと同じことなのだと思います。


『コクリコ坂から』予告編

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王様だって、頑張ってる

king's speech

映画『英国王のスピーチ』


 先日、『英国王のスピーチ』を見てきました。イギリス王室史上「もっとも内気な国王」と呼ばれた、ジョージ6世を描いた映画です。今年の3月に行われた第83回アカデミー賞では作品賞をはじめ計4部門を受賞しました。話題作なので、見た方も多いと思います。僕もようやく見ることができました。

 ジョージ6世は、現在のイギリス女王・エリザベス2世の父にあたります(先日結婚したウィリアム王子からすると曽祖父にあたる人物ですね)。彼は幼い頃から吃音症に悩まされ、そのせいで人前に出ることが極端に苦手でした。国王になる気などさらさらなく、社交的な性格の兄・エドワード8世が父の跡を継いで国王になると、自分は裏方役として兄を補佐したいと望んでいました。

 しかし、いざ国王の座に就いたエドワード8世は、年上女性との不倫が原因で(実話!)、わずか1年足らずで退位。結局、弟のジョージ6世が、とばっちり的な形で王位を継ぐことになったのです。国王の座に就いたのは、1936年。ヨーロッパでは、ナチスドイツの脅威が吹き荒れようとしていた時代です。イギリスにとって、まさに国難と呼ぶべき時代に王座に就いたのです。

 破竹の勢いで進撃するドイツは、ついにイギリスとも戦端を開きます。国民は激しく動揺します。ジョージ6世は国王として、不安に揺れる国民に向けたスピーチを送ろうと決意するのです・・・。

 期待通りの素晴らしい映画でした。脚本も素晴らしいし、映像も美しい。とりわけ、ジョージ6世とスピーチ矯正の専門家・ライオネルとの会話シーンは、いずれも緊張感とユーモアとが混沌としていて、圧倒的な完成度を感じました。ジョージ6世を演じたコリン・ファースはこの映画でアカデミー賞の主演男優賞を受賞しましたが、ライオネルを演じたジェフリー・ラッシュや、ジョージ6世の妻・エリザベスを演じたヘレナ・ボナム=カーターなど、脇を支える俳優陣の演技も素晴らしかったですね。

 しかし、僕がもっともグッときたのは、物語を通じて描かれる、ジョージ6世の葛藤です。

 彼は、自分が国王に向いていないことを痛感しています。ほんの些細なスピーチですら言葉に詰まり、逆に聴衆から心配されてしまう始末です。「国王とはイギリスのスポークスマンだ」と父・ジョージ5世は言いますが、そんな役目を果たせるわけがないことは、自分が一番よく知っています。しかし、一方で彼はとても生真面目で、責任感が誰よりも強い。その性格が結局、国王を継がせることになるのです。

 前回、映画『SOMEWHERE』について書いた時に、「ここではないどこかへ」という話をしました。『SOMEWHERE』が、ここではない“どこか”へ向かう物語だったのに対し、『英国王のスピーチ』は“どこか”を心に描きつつも、“ここ”で生きていく決意を語った物語だったと言えます。

 ジョージ6世は何度も自分を変えようと努力します。吃音症を治そうと何人もの医者の診察を受け、見るからに怪しい治療法にまで手を出します。しかし、一向に成果は上がりません。さらに、決して望んでなどいなかった国王という重責を背負うことになります。彼は、心に描いていた「ありたい自分」からは遠くかけ離れた己の運命というものを受け入れるのです。この点、『SOMEWHERE』のジョニーとはとても対照的です(もちろん、ジョージ6世には現実的に“どこか”を選ぶ自由はなかったでしょう。なんといっても彼は「国王」ですから)。

 結局、ジョージ6世は最後のスピーチの場面に至っても、吃音症を治すことはできません。ではどうやったかと言うと、あの手この手で“ごまかす”んですね。なんとか“ちゃんと喋ってる風”を取り繕って、乗り切るのです。僕はここがとても面白いと思いました。堂々と淀みなく演説できるという、本来の「あるべき国王像」からすれば、それは欺瞞なのかもしれません。でも、それが彼の運命の受け入れ方であり、彼にしかできない国王としての生き方なのです。その必死さはなんとも悲哀があり、同時に滑稽でもあり、しかしなんだかムズムズと「人間っていいなあ!」と感じるのです。


『英国王のスピーチ』予告編



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余白でしか表現できないもの

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映画『SOMEWHERE』



 久しぶりに震災以外の話題を・・・。

 先日、映画『SOMEWHERE』を見てきました。あの『地獄の黙示録』で有名なフランシス・フォード・コッポラ監督の娘、ソフィア・コッポラが監督を務めた映画です。

 華やかな生活を送るハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ(スティーブン・ドーフ)と、別れた妻の元で暮らしている11歳の娘・クレオ(エル・ファニング)との数日間の同居生活を描いた物語。これといった事件は何も起こらず、大きな見せ場も練られた伏線も一切無い、ただ淡々と過ぎていく日常を追っていく、とても静かな映画です。

 台詞も極端に少ない。特に冒頭20分くらいはほとんど台詞らしい台詞はありません。そのかわり、登場人物の瞳の揺れや、ため息や、口元のわずかな動きといった、仕草の一つひとつが濃密で、「映画を見ている」というよりは、彼らに寄り添いながらその生活を覗いているような感覚を抱きます。

 主人公ジョニーは、フェラーリを乗り回し、毎晩のように酒と女に溺れる派手な生活を送っています。しかし、表面的な華やかさとは裏腹に、心の中では空しさを感じ続けています。

 彼は長い間ずっとホテル暮らしを続けているのですが、時折り部屋で一人になると、何もすることがなくなってしまいます。ぼんやりと煙草を吸うことくらいしか、退屈さを紛らわす術がありません(しつこいようですが、これらは全部ジョニーの仕草を通してしか窺い知れません)。しかし、台詞が少ないからこそ、彼の感じている退屈さや空しさが伝わってきます。

 もっともその虚無感は、決して切迫したものではありません。酒があれば簡単に洗い流せるし、目を背けようと思えば誰かしら女性を呼べば済んでしまう。しかし、その“差し迫っていない感じ”が、逆に厄介です。

 そんな彼の元へ、母(元妻)が家を空ける間だけ、娘のクレオがやってきます。これまでにもクレオはジョニーをたびたび訪れているので、2人で時間を過ごすことは珍しいことではありません。一緒にゲームで遊んだり、プールで泳いだり、料理を作ったりと、他愛のない父娘の生活が進んでいきます。静かに、淡々と。

 やがて、クレオはサマーキャンプに行くため、ジョニーの元を去ります。再び一人の暮らしに戻ったジョニー。しかし、何かが今までと違うことに気付きます。アルコールも裸の女も、もはや以前のようには彼を虚無から救ってはくれません。クレオの不在によって、ジョニーは初めて自分自身の空虚さに向き合わざるをえなくなるのです。

 彼は住み慣れたホテルをチェックアウトすることを決めます。車を飛ばして都会を離れ、そして、何もない田舎道の真ん中で不意に車を止め、今度は自分の足で歩き始めます。彼は、今までいた場所から、出ていこうとするのです。
 
 「ここではないどこかへ」。これは近代以来、物語が絶えず挑み続けてきたテーマです。しかしこの映画では、その「どこか」がどこ(何)なのかを描こうとはしません。クレオの元へ行くのか、俳優を廃業することを決めたのか、ただの衝動的な行動なのか、この映画はやはり何も説明してはくれないのです。何も語らず、何も指し示さず、すべては淡い余白のなかへ。

 しかし、本来「どこか」とは、淡い余白のような存在です。行き先も、道順も、そんな場所が本当にあるのかさえもわからない。今いる場所よりもさらに不幸になる可能性だってある。そもそも「ここではないどこかへ行く」ということは、一種の脱出です。脱出には、行き先のアテや、成功する保証はありません。何一つわからない。この映画の特徴である淡い余白は、実は“somewhere”(どこか)そのものだったのです。

 それよりも、脱出において重要なのは、とにかく何でもいいから外に出る!ということです。つまり、意志です。ジョニーがどれほどの強い意志を持っているかは(やっぱり)わかりません。しかし、彼はあの乗り慣れたフェラーリを捨てていくのです。それが象徴的です。

 キーを挿しっぱなしにしたフェラーリが、耳ざわりな警告音を、ジョニーの背中に向かって鳴らし続けます。それでも彼は歩みを止めません。ギュッギュッと、地面を踏みしめるようにして歩くジョニー。その姿は何かにひどく焦っているように見えます。彼を突き動かしているのは何なのだろう。幻想かもしれない“somewhere”に向かって、それでも彼を前に進ませる意志とは、一体何なのだろう。言葉にできそうで、できません。淡い余白でしか表現できない大切なものが、世界にはきっとあるのです。


『SOMEWHERE』予告編(英語)


映画 『ソーシャル・ネットワーク』

social network
便利なのは嬉しい
でも、便利すぎると空しい

 中東や北アフリカで起きている民主化運動に、facebookを初めとするSNSが大きな役割を果たしたというニュースを聞いて、最初は「すごいなあ」と思ったのだけれど、しかしよく考えてみると、何がどう「すごい」のか、実はイマイチよくわかっていないことに気付いた。mixiもtwitterもfacebookもmyspaceも、アカウントだけは取得したものの、一度も使わずに放置したまま。どんな機能があるのかすら把握していない僕には、「インターネットが革命を起こす時代になった」と言われても、なかなかその衝撃度合を具体的にイメージすることができない。なんとなく置いてけぼり感を抱く一方で、しかしきっと僕のような人は案外多いんじゃないかとも思う。

 僕が初めて携帯電話を持ったのは高校3年生のときだった。正確に言うと携帯ではなくPHSで(当時携帯の料金は高額だったのだ)、番号もまだ9ケタだった時代だ。ディスプレイはモノクロで、eメールなんて機能も当然無く、かろうじて同機種同士限定でカタカナ15文字程度の“メール的なもの”がやりとりできる、という代物だった。・・・あー、なんか年寄り臭いなあ。

 それでも、当時の僕らにとってその“ピッチ”の存在は、それまでの生活を一変させる、まさに革命的なツールだった。それまでは友達に連絡一つするにしても、まず相手の自宅に電話をかけ、受話器に出たご家族に「夜分遅くに・・・」などと詫びつつ、同時に自分の親の目も気にしながら、まるで役所の手続きのように一つひとつ段取りを踏まなければ相手と会話ができなかったのが、ピッチの登場で24時間いつでも自由に連絡が取れるようになったのである。

 僕らはいくつものくだらない言葉を、悩み相談を、女の子との約束を、電波に乗せまくった。慣れない手つきでカナ文字をせっせと打ちながら、あの頃、僕は確かに“誰かとつながっている感じ”というものを感じていたと思う。現在ではマナーモードにしっ放しだが、当時は誰かから連絡が来るのが嬉しくて、わざと着信音が鳴るように設定していたのを覚えている。

 あれから10数年が経ち、当時とは比較にならないほど携帯やパソコンやその他情報端末は便利になった。しかし、その便利さをどこまで実感できているかというと、僕の場合は結局、高校生の頃と大差ないんじゃないかと思う。写真や動画がメールに添付できるようになったり、ウェブに接続して電車の乗り換え時間を調べられるようになったりはしたけれど、それはやりとりできる情報の「精度」が上がっただけの話で、僕が携帯やパソコンに求めているものは、この10年間あまり変化していない。

 むしろ、いちいち「コミュニティ」に所属したり、つぶやいたり、レスをつけたりしなければ誰かとのつながりを維持できないような現行のシステムは、かつての「友人宅への電話」以上に煩雑な気がしてしまう。つまり「そこまでして・・・」なのである。本物と見紛うばかりの美しいグラフィックと多機能を誇る現在のゲームよりも、『スーパーマリオブラザーズ』の方がゲームとして面白い、というパラドックスに似て、技術は進化し続けるとどこか空しくなる。

 というようなことを、おそらくデヴィット・フィンチャー監督も考えているんじゃないだろうかと、映画『ソーシャル・ネットワーク』を観ていて思った。ハーバードの学生だったマーク・ザッカーバーグと仲間たちのfacebookの開発秘話、ともいうべき物語である。当初は学生限定のサイトだったfacebookは、瞬く間に全世界へと利用者を増やしていく。その加速度的な広まり方を表すように、映画も非常にスピード感のある演出がなされていて、登場人物たちはfacebookという怪物の成長速度に徐々に翻弄されるようになり、やがて人生が大きく変調をきたしていくのである。

 技術や産業や資本主義というものは、それ自体に進化・発展を目指すという本能が備わっているものだから、その良し悪しを論じるのは適当ではない。だが、どこか空しい。この映画を観終わると、そんな小さな虚無が胸の中で頭をもたげる。かつての仲間たちとの法廷闘争に巻き込まれ、facebookの輝かしい成長とは裏腹にプライベートは泥沼化していくマーク。彼は全編通してふてぶてしいほどに自信たっぷりで、余裕ありげな表情を崩さないのだが、それでもほんの一瞬、「こんなはずじゃなかったのにな」という表情を見せるラストシーンが、とても印象的な映画でした。

映画 『ドラえもん のび太の大魔境』

daimakyo
「ドラえもん映画」は
子供だけのものじゃない


 今年で映画化30周年のドラえもん。東宝映画のシリーズものでは『ゴジラ』を抜いて最多作品記録を塗り替えたそうである。第1作『のび太の恐竜』の公開が1980年。ちょうど僕より1歳上、ということでこの公開年は忘れずに覚えている。ということはつまり、僕が生まれてからこのかた、世にドラえもん映画が作られなかった年は(ほぼ)なかったわけで、そう考えるとすごい。僕らtheatre project BRIDGEもたかだか結成10周年で浮かれている場合ではないのである。

 というわけで今回はドラえもんの映画について大真面目に語ろうと思う。

 一般的に言って、マンガやTVアニメの映画版というものは、あくまで通常フォーマットからの番外編、作品の質云々よりもファンを喜ばせるために作られる“おまけ”的存在である。事実、『クレヨンしんちゃん』や初期『ルパン三世』などのごく限られた例外を除いて、原作よりもインパクトを残した映画化作品はほぼ皆無といっていい。ドラえもんの映画版も、マンガの連載長期化とテレビアニメ化を受け、人気の高さを担保に制作された点においては、他のケースと違わない。

 だが、ドラえもんの映画はおもしろい。マンガやTVアニメの従属的な存在ではなく、それどころかむしろ映画が“主”といってもいいようなレベルの高さを誇っている。しかも安定して。ちなみに僕は通常のコミックス版は持っていないが、映画の原作コミックス「大長編ドラえもん」シリーズは持っているのだ。

 おもしろさの理由はおそらく、藤子・F・不二雄自身が映画の原作を執筆しているからだろう。宇宙や深海や恐竜時代といった壮大な舞台に、練られた謎解きや緊迫したサスペンス(ドラえもん映画は実はけっこう怖いのだ)。僕らは映画版に「TVアニメサイズでは見られなかったスケール感」をいくつも目撃するわけだが、それは「普段は描けないことを描ききってやろう」という藤子・F・不二雄自身の充実感とイコールなのだと思う。特に初期10作あたりは「あれもやりたい、これもやりたい」という初期衝動が感じられ、まるで水を得た魚のように、藤子が映画という広大なフィールドにペンを疾走させているのがわかる。

 原作者が主体的に関わっているかどうかがその映画化作品の成否を分けることは、例えば鳥山明抜きで制作された『ドラゴンボール』映画版、井上雄彦抜きで制作された『スラムダンク』映画版などの劣悪さを見れば明らかだ。残念なことにドラえもんにおいても藤子・F・不二雄の死後(『のび太の南海大冒険』以降)、映画版には妙な説教臭さや押しつけがましさが出てきてしまった。「とりあえず友情とか環境保護とかそういうテーマを入れときゃいいでしょ」みたいな、制作者の言い訳が聞こえてきそうな作品ばかりで、ひどく退屈でつまらない。原作を映画化するにあたってどんな内容のものが相応しいか、どこまでが“アリ”でどこまでが“ナシ”なのか、そのさじ加減はやはり原作者がもっともよく理解しているということだろう。

 ではドラえもん映画のなかでどれが一番おもしろいかということになると、これはもう悶絶級に難しい。『のび太の恐竜』は最高に泣けるし……『のび太の宇宙開拓史』はスケールの点では他の作品に劣るものの叙情性ではシリーズ一番だし……『のび太の海底鬼岩城』はめちゃくちゃ怖いし(鉄騎隊が怖すぎる)……『のび太の魔界大冒険』もめちゃくちゃ怖いし(宇宙に浮かぶデマオンの心臓が怖すぎる)……『のび太の宇宙小戦争』は「スモールライト」という仕掛けが素晴らしいし(主題歌<少年期>は名曲)……『のび太と鉄人兵団』はハードボイルドだし(リルルはシリーズ最高のゲストキャラ)……『のび太と竜の騎士』は舞台設定とラストのどんでん返しが秀逸だし……『のび太のパラレル西遊記』もこれまた怖いし(新聞越しにのび太パパの頭に角が見えるところが怖すぎる)……『のび太の日本誕生』はやっぱり怖いし(ツチダマが怖すぎる)……『のび太とアニマル惑星』はチッポとの別れに泣けるし(主題歌<天までとどけ>は名曲)……『のび太のドラビアンナイト』は四次元ポケットがなくなるという展開が斬新だし(主題歌<夢のゆくえ>は隠れた名曲)……『のび太と雲の王国』はドラえもんが壊れたり過去のキャラクターが再登場したりと総決算的物語だし(主題歌<雲がゆくのは>は隠れた名曲)……『のび太とブリキの迷宮』はついにのび太がドラえもん抜きで冒険をするという点で画期的作品だし(ナポギストラーの声が森山周一郎というキャスティングが冴えている)……。

 だが僕はここで『のび太の大魔境』を一番に挙げたい。1982年公開のシリーズ3作目。そしてシリーズ中もっとも過小評価されている作品でもある。確かに、恐竜時代や宇宙や深海に比べると「アフリカ」という舞台設定は地味だ。確かに、魔族や地底人や鉄人兵団に比べると「犬」というゲストキャラは呑気すぎるかもしれない。

 しかしこの映画には、もっとも素朴な形の冒険と興奮が詰まっている。子供の頃、宇宙や海の底よりも、「アフリカ」という国の方が、はるかにミステリアスなものを感じなかったか。また、宇宙人や魔法の世界の住人ではなく、「犬」というどこにでもいる生き物だからこそ、「もし言葉を解し、自分たちだけの国を持っていたら」という想像が掻き立てられる。僕は初めて『のび太の大魔境』を見た子供の頃、道端で野良犬に出会っては「ひょっとしたら…」とじっと見つめたものである。

 この映画にあるのは“日常”の匂いなのだ。「アフリカ」「犬」「夏休みどこ行こう」といった子供時分のリアリティにおいても、普段のTVアニメ版と何ら変わらないテンションで物語が始まるという点においても、この映画の物語は日常と同一地平線上にある。そして、その“いつもと一緒”なところから、やがてはアフリカの奥にある謎の国にまで“物語が拡大していく”という点で、まさに「映画化」の模範のような作品なのである。

 ドラえもんの映画はおもしろい。特に藤子・F・不二雄原作の作品は、大人になった今観ても充分おもしろい。今の子供たちが、藤子の手を離れた現在の映画版だけではなく、昔の、ちょっと怖かった頃のドラえもん映画にまで手を伸ばしてくれたらなあと思う。最新作『のび太の人魚大海戦』はただ今公開中。久々に観に行こうか、そして果たして一人で観に行くか(行けるのか)、う〜ん、悩み中です。


『のび太の大魔境』は主題歌もとても良いのだ
<だからみんなで>

映画 『今度は愛妻家』

aisaika
8年前、舞台を観て泣き
今また映画を観て泣く


 映画『今度は愛妻家』は、2002年秋に六本木の俳優座劇場で上演された同名の舞台が原作になっている。当時21歳だった僕はこの舞台を観に行って、そして泣きに泣いた。

 サードステージ(第三舞台が設立した演劇制作会社)がプロデュースした作品で、主人公の北見を池田成志が、妻のさくらを長野里美が演じていた。こんなにも泣けるのは登場人物の心の中にいくつもの感情が波のように湧き立ち、それがこっちにも伝わってくるからで、そんな感情の運動過多のような芝居を平然と毎日こなしているプロの役者というものに、改めて畏敬の念を抱いたのを覚えている。脚本・中谷まゆみ、演出・板垣恭一というペアは、サードステージの「showcaseシリーズ」というヒットシリーズを生み出しているゴールデンコンビで、『今度は愛妻家』もそのシリーズの一作。僕は他の作品にも何度か足を運んだが、『今度は愛妻家』は別格の面白さだった。セットも衣装も台詞も、今でも鮮明に思い出せる。そのくらいインパクトのある作品だった。

 そんな『今度は愛妻家』が、8年を経て映画化された。豊川悦司と薬師丸ひろ子というスターを迎え、メジャー配給の作品としてより多くの人の目に触れることに、同郷の友人が有名人になったような誇らしさを感じた。

 この作品は、ある夫婦の物語である。なにかとケンカの絶えない夫婦、北見(豊川)とさくら(薬師丸)。ケンカの原因を作るのはいつも北見だ。さくらが話しかけても邪険にしたり無視したり。おまけに重度の浮気グセ。北見は絵に描いたようなダメ亭主なのである。そんな北見にいい加減愛想の尽きたさくらは、ついに離婚を切り出す。・・・というのが序盤から中盤までのお話。この後物語は息を呑むような意外な展開を見せるのだが、それは是非実際に映画を観て確かめていただきたい。

 映画版は、僕の記憶が間違っていなければ、台詞も演出も、主な舞台となる北見の家の造りも、舞台版をほぼ忠実になぞっていた。もちろん映画版だけのシーンもあるが、ストーリーは全て同じ。にもかかわらず、結局僕は映画でもウルウルしてしまった。オチも何も全て知っていたはずなのに。8年前と今とでは価値観も多少変わっているはずなのに。

 思うにこの作品は、夫婦というものをモチーフにしてはいるが、そこで描かれているのは「別れ」というとてもシンプルなものなのである。それも男女間の別れに絞ったものではなく、親子の別れもあれば、長年の夢を諦める、というような形の別れも含まれている。大事なものが手元から失われるときの辛さ、失って初めてその価値に気付いてしまう切なさ。そういう普遍的な感情に対して、堂々と真正面から描いているところにこの作品の持つ、舞台だろうが映画だろうが、8年前だろうが今だろうが、有無を言わさず感動させる力があるのである。

 それにしても、人と人とが一緒にいるというのはほとんど奇跡じゃないか、と思う。誰かと一緒にいることは、幸せを生む反面、所詮は他人なのだから、過ごす時間が長くなるにつれて、辛いことも増える。来月僕は3件もの結婚式に立て続けに出席するのだが、いろいろな不満やリスクを乗り越えて、他人と人生を共有しようと決意した僕の友人たちに、敬意と羨望を抱く。


『今度は愛妻家』予告編

映画 『風の谷のナウシカ』

naucica
「チコの実」って
どんな味なんだろう


 先週の「金曜ロードショー」で『風の谷のナウシカ』を観ていたら、子供の頃に観た記憶が重なって、いろいろなことを思い出した。例えば王蟲の黄色い触手が子供の僕にはスパゲッティに見えて仕方なかったことや、腐海の深部に溜まった砂がコーンポタージュの素に似ているなと思ったこと。「“チコの実”って一体どんな味なんだろう」と興味津々だったこと、などなど。・・・こうやって書いてみると、食い意地が張ってる子供だったみたいでイヤだなあ。

 あとは、音楽がものすごく好きだった。もちろん今でもグッとくる。メインテーマを聴くと相変わらず胸がいっぱいになるし、<メーヴェとコルベットの戦い>が流れると鳥肌が立つ。そういえば、<ナウシカ・レクイエム>を歌っていた久石譲の娘は、ついこないだ歌手デビューしましたね。もう30歳過ぎの立派な大人になっていました。

 とにかく、子供の頃から何十回と、それこそビデオテープが擦り切れるくらいに、台詞を全部覚えてしまうくらいに観た映画である。ワンシーン、ワンカットごとに思い入れが詰まっていて、久しぶりに観たらそれが一気に噴き出してきた。単なる懐かしさを超えた、胸の奥に炎が上がるような感覚だった。

 同時に、大人になった今の目で観ても優れた映画だと改めて実感した。腐海をはじめ背景美術は四半世紀前の作品とは思えないほど美しいし、王蟲の造形や動きの表現などは未だに驚かされる。衣装やメカなど、小道具一つひとつに固有の文化・歴史が感じられるところも素晴らしいし、他のアニメにはない強烈な世界観がある。

 だが、このように冷静に鑑賞して感動するよりも、「王蟲の手はスパゲッティだ」と思ってる方が、作品の感じ方としてはなんとなく正しいような気もする。宮崎作品の何が優れているかと言えば、テーマやドラマではなく、画面を通して伝わってくる肌感覚なんじゃないかと思う。たとえば、大ババ様の作る妙なスープには画面から匂いを嗅ぎ取れるし、バカガラスのコンテナに満ちた炎には熱さを感じられる。テトの頬ずりにはくすぐったさを感じる。自然との共生という、ある意味使い古されたテーマが観念的なものに陥らないのは、画面を通した五感への刺激、つまり肉体性がその裏にあるからなのではないか。久々に『ナウシカ』を観ながらそんなことをぼんやり考えていた。

 ところで、映画『ナウシカ』は観てない人を探すのが難しいくらい超メジャーだが、原作『ナウシカ』はそれほど浸透していないように思う。全7巻の大作で、実は映画はこのうち2巻途中までの内容を、それも細部を変えてまとめたものなのである。つまり、5巻以上にわたって、映画の“続編”があるのだ。

 紹介したらキリがないが、とにかく映画が全てだと思っていた人はぶっ飛ぶくらいの衝撃を受けるはず。特に作品のなかで最重要テーマである腐海の設定が、映画版と原作版では180度真逆であるのが面白い。宮崎駿は本当はこう描きたかったのかという、彼の本音や悔しさみたいなものが感じ取れて、再度映画版を観るとまた違った見え方になる。

 全然関係ないんだけど、僕の友人に「子供はジブリ作品で育てる」と宣言していた女の子がいる。彼女は数年前にママになったのだが、果たして実践しているのだろうか。娘がナウシカみたいに育ったらどうなんだろう。すごい優しい子なのは嬉しいけど、家中虫だらけになったりしたらちょっとやだ。

映画 『少年メリケンサック』

少年メリケンサック






No Futureなおじさんたちが
No Futureなことをする


宮藤官九郎脚本・監督、宮崎あおい主演の映画『少年メリケンサック』
昨年の公開時は観れなかったので、ようやくDVDを借りて観ました。
めちゃくちゃおもしろかった!

宮崎あおいが演じるのは、大手レコード会社の契約社員。
ある日彼女はインターネットで、無名のパンクバンド
「少年メリケンサック」の衝撃的なライヴ映像を目にする。
早速スカウトをしにメンバーの元へ赴くが、現れたのはアルコール臭い中年親父(佐藤浩市)。
実は映像は25年も前のもので、少年メリケンサックはすでに解散していたのである。
だが、すでにライヴ映像はネット上で話題を呼んでしまい、
レコード会社は全国ツアーを組んでしまった。
宮崎あおいはやむなく、汚いおじさんに変わり果てたメンバーを連れてツアーに出る。
・・・というのが大まかなストーリー。

この、少年メリケンサックならぬ「中年メリケンサック」となってしまった
おじさんメンバー4人(佐藤浩市・木村祐一・田口トモロヲ・三宅弘城)が、アホで汚くて面白い。
他にも、田辺誠一演じる売れっ子アーティスト(黒人のガードマンが過剰なまでに取り巻いている)や、
勝地涼演じるアマチュア・ミュージシャン(愚にもつかない歌を弾き語る)など、
音楽好きの人には間違いなく“ツボ”な強烈キャラクターが続々登場する。
こういう「いかにも」なキャラクターで笑いを取りにくるのは、
ある意味音楽業界に対する宮藤官九郎なりの皮肉とも受け取れるが、
僕などはその毒気がツボにハマってしまい、ほとんどずっと笑ってしまっていた。

クドカンの笑いのセンスは非常に個性的なものと思われがちだが、
実はとてもオーソドックスであると僕は思う。
『少年メリケンサック』で例を挙げるなら、
足腰がフラフラすぎてマイクスタンドにぶらさがるようにして歌う田口トモロヲや、
緊張のあまり肩を叩かれただけでオナラが漏れてしまう三宅弘城などなど、
クドカンの笑いはあくまでキャラクターの生理が生み出す滑稽さや可笑しさであり、
「笑わせるための笑い」は実は一つもない。
笑いは脚本の枠を逸脱することはなく、計算され、制御されているのだ。
でなければ、彼は「脚本家」としてこれほど評価されていないはずである。

だが、この映画に関しては、他のクドカン作品に比べて情緒的である印象を受けた。
ギャグも台詞のノリも相変わらず冴え渡っている。
なのに観終わった後に残るのは儚さ、なのである。

酒浸りで、いい年して未だにエロ本読んだり喧嘩したり、
少年メリケンサックのおじさんたちは正真正銘のダメ大人ばかり。
身体もボロボロだから、もういつ死んでもおかしくない。
三宅弘城の劇中の台詞を借りれば「本格的に“No Future”」なのである。
そんなおじさんたちが、髪の毛を立てて汗だくになりながら「世界人類を撲殺せよ!」とか歌う姿は、
悲壮感を通り越してバカバカしく、滑稽を通り越して儚く映る。
No Futereな人たちがNo Futureなことをやっているのは、息が止まるくらいに美しい。

以前クドカンがインタビューで
ありったけのロックへの思い入れを『少年メリケンサック』に注いだ」と語っていたのを読んだことがある。
グループ魂というバンドを実際に組んでいることでも明らかだが、
それ以外でも、例えば刹那的で毒気のある笑いのセンスや、
情けない人間ほど愛しく書き込むキャラクター造形、
そして「意味」や「解釈」を無効化するストーリーなど、
宮藤官九郎という個性のなかには、たしかにロック的な匂いを嗅ぎ取ることができる。
インタビューの言葉をそのまま受け取れば、
『少年メリケンサック』は、クドカンにとってのいわば「私小説」ということになるかもしれない。
この映画にどことなく感じる湿り気は、そういうことなのだろう。

観終わった後、僕は無性にパンクが聴きたくなり、セックス・ピストルズを何度もぶっ通しで聴いた。
ジョニー・ロットンのがなる「No Future」は、いつにも増してキラキラしていた。


少年メリケンサック(25年前)の<ニューヨークマラソン>
この映像が物語の始まり。ボーカルは峯田和伸が演じている。

映画 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』

boys on the run movie





走れ!!
僕らのイケニエとして


現在公開中の映画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を観に行った。
同名コミックの映画化作品で、2006年に岸田國士戯曲賞を受賞した
ポツドールの三浦大輔が脚本・監督を手がけている。
主演は銀杏BOYZの峯田和伸
僕は、この峯田が演じる主人公、田西(たにし)を見ていて、切なくて仕方なかった。

あらすじは――不器用で口下手で、何かと空回りの多い29歳の営業マン田西は、
同僚のちはる(黒川芽以)に思いを寄せている。
ライバル会社の青山(松田龍平)の手を借りて、なんとかちはると親密になれた田西だったが、
ある事件をきっかけにちはるに軽蔑されてしまうことに。
その後、ちはるは青山と付き合い始めるが、妊娠させられた挙句捨てられてしまう。
それを知った田西は、青山に決闘を申し込む。

冴えない男が恋をきっかけに成長していく、というのは物語の定石の一つだが、
この『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は、そういった一般的なビルドアップ・ロマンスとは異なっている。
なぜなら、最後まで田西には救いというものが訪れないからだ。
救いとは「彼は、明日からきっと(ほんの少しだとしても)幸せな人生を送るだろう」という予感のことである。
それがこの映画にはない。
田西はタイトルの表すとおり、ひたすらガムシャラに走りまくって、
その過程でボロボロに傷つきまくるだけなのである。切ないのだ。

田西というキャラクターには吸引力がある。
だがそれは、彼の不器用さやかっこ悪さがいじらしいからではない。
彼のちはるを思う気持ちに魅かれるのだ。
劇中、田西は言う。
「おれ、本気になれるの、ちはるさんのことだけだった」と。
この台詞がえらく心に沁みる。

本気になれるということは、エネルギーを注ぎ込める何かを持っているということだ。
だが、その何かを見つけるのは、実際にはひどく難しい。
いかに多くの人が本気になれる何かを見つけられず、エネルギーを持て余しているのかは、
趣味的な資格試験の受験者の増加や、満員続出のカルチャー・スクールの習い事教室を見れば明らかだ。

エネルギーのハケ口としてもっとも手っ取り早いのは恋愛だ。
しかし、本気で人を好きになるのは、それはそれで難しい。
大人になればなるほど、気持ちは自然とコントロールできてしまうし、
傷つかないように演技をすることも上手くなる。
田西ほど女性に対しておっかなびっくりな人間は現実には稀だが、
それはこのキャラクターがリアルでないということではなく、単に現実の僕らが処世術に長けているにすぎない。だからこそ「本気」という言葉を口にできる田西に魅かれてしまうのだ。

しかし、田西は結局は報われない。
たとえ本気になっても、良い結果が訪れるとは限らないとこの映画はいうのである。
「ちょっとくらい田西に良い目を見させてやれよ」と思う。
だがその一方で、もしこれが明快なハッピーエンドであったなら、
果たして僕はこの映画に魅かれただろうか、とも思う。
ちはると結ばれたり、青山をボコボコにしてやっつけるようなラストであれば、
スカッとはするだろうが、リアルは感じない。
そう簡単に報われたら、こちらとしてはたまったもんじゃない。
簡単に報われないからこそ、大人は本気になりたくてもなれないのだ。

田西は観客のリアルを一身に背負い、
ある意味観客の人身御供として、本気で人を好きになり、本気で傷だらけになる。
そして、何もかもが無惨な結果に終わりボロボロになった田西は、街の中を全力疾走する。
涙を拭い払うためなのか単なるヤケクソなのか、田西が走りながら何を考えているのかはわからない。
ただ、そんなボロボロになっても人は全力で走れるんだという、奇妙な感動がある。
その田西の走る姿を映して、映画は終わる。

田西を演じる峯田和伸の存在感は圧倒的。
名演を通り越して“絶演”とも言うべき壮絶な芝居を見せており、
彼を観るためだけでも映画館に行く価値があると思う。
早くも今年の最高傑作の1つに出会ってしまった。


『ボーイズ・オン・ザ・ラン』予告編

映画 『THIS IS IT』

this is it
ただのリハーサルであっても
やはり彼は「大スター」だった


 公演が終わり、ようやく観ることができた『THIS IS IT』。公開最終日にギリギリ行くことができた。平日にもかかわらず、夕方以降の回は全て売り切れ。昼間の回の隅っこの席をなんとか手に入れることができたのだが、この回もほぼ満席。なんでも、日本における本作の興行収入はアメリカに次いで世界第2位なのだそうである。地球規模の大スターであるマイケルだが、とりわけ日本人は彼のことが大好きなのだ。

 映画館の客席はまさにそのことを証明していた。おばさんグループに若いカップル、小さい子連れの主婦(この子は<スリラー>の映像を見て大泣き)と、客層は文字通り老若男女。満席にもかかわらず上映前は奇妙に静かで、それが逆に観客のこの映画に対するモチベーションの高さ、マイケルに対する思い入れの深さを感じさせた。

 この『THIS IS IT』は、マイケルが生前取り組んでいた同名タイトルのコンサートのリハーサル映像を編集したもの。元々は公開する目的はなく、単なる記録用に回していたカメラの映像がその素材となった。内輪向けの映像だけに、作られていない等身大のマイケルを見ることができ、時折スタッフや出演者と交わす会話などには、これまでに感じたことのないような身近さを覚える。

 だが、映画の中心はあくまでマイケルのパフォーマンスだ。本番さながらにステージ上で歌って踊るマイケルの映像が、コンサートのセットリスト順に1曲ごとに編集され、本番で使用される予定だった特殊映像の断片なども挟みながら、僕ら観客は開催されるはずだった“幻のコンサート”を想像していく。この映画は、作業風景や舞台裏を見せるメイキング映像ではなく、ましてや思い出を振り返るような湿っぽい追悼映像集でもなく、堂々たる1本の“ライヴ・ムービー”なのである。

 それにしてもマイケルのコンサートってすごい。聴覚だけでなく、さまざまな特殊効果を用いて視覚に訴えかける演出や、「I Love You」「Heal The World」という強いメッセージ。そして何よりもあのダンス。1992年の「デンジャラス・ツアー」を収録したDVD『ライヴ・イン・ブカレスト』を観ていたら、ラストにはでっかい地球が舞台上に現れ、それをマイケルと世界中の民族衣装を着た子供たちがグルッと囲み、そしてラストにはマイケルがロケットを背負って空に飛んでいってしまった。まるで一人でディズニー・ランドをやっているかのような、ものすごいエンターテイメント性の高さである。

 そのようなハイテンションのステージを作るのは、やはり並大抵のことではない。『THIS IS IT』を観ていて興味深かったのは、自らが細かくスタッフに指示を与え、気に入るまで何度でもやり直すマイケルの姿である。この映画を観るまでは、マイケル自身があれほどまでに主体的にディレクションをしているとは思わなかった。TV画面では見ることのできない、ゴシップやスキャンダルとも切り離された、一人のアーティストとしてストイックに作品作りに臨むマイケル・ジャクソンの姿は新鮮だった。

 映画のハイライトは何といってもラスト手前の<ビリー・ジーン>。マイケルが一人、スポットライトを浴びながらあのダンスを踊る。リハなのでダンス自体はかなりラフなのだが、「貫禄」というか「オーラ」というか、言葉では説明できない、世界でただ一人彼しか持ち得ない圧倒的な空気があり、観客全員がゴクリと唾を飲み込んだように思えた。

 今月19(土)から再公開が始まる。もう一度観に行ってしまうかも・・・。


『THIS IS IT』予告編

映画 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』

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少年から大人へ
憎しみから愛へ


「自分は誰からも必要とされてない人間だ」。
僕が初めてそう思ったのは中学2年生のときだった。14歳だった。

足は遅いし球技は何をやってもヘタクソだし、運動はてんでダメ。
友達を笑わせられる話一つできない。
おまけにルックスも、クリクリでゴワゴワの髪の毛に牛乳瓶の底のような眼鏡という、
今で言う“イケてない”の極致。
ただ一つ、成績だけは飛び抜けて良かったのだが、
14歳の社会のなかで“勉強ができる”ということは、妬みの対象にこそなれ、
認められ、一目置かれることではなかった。
だから「自分はこの世に必要ない存在だ」という結論は、
僕にとって実にナチュラルな実感だった。
そして僕は生まれて初めて「死んでもいいや」と考えたのだ。

その年の冬、僕はギターを始めた。
何がきっかけで始めたのか、よく覚えていない。
しかしギターは、ギターだけは、他人から褒められ、認められるものだった。
だから僕は必死に練習した。
「ギターが上手ければ、僕は誰かに必要とされる」「ギターが弾ける僕は生きていてもいいんだ」。
そう考えていたのだ。
だが、翌年の春にギターがとてつもなく上手い転校生がやってきて、
僕のアイデンティティは脆くも崩れ去ってしまった。

『新世紀エヴァンゲリオン』は、誰かに必要とされ、愛されることを願う14歳の少年たちが、
巨大ロボットに乗り込み「使徒」と呼ばれる謎の生物と戦うことで、自分の価値を探す物語だ。
ストーリーのあちこちにばら撒かれたミステリアスな謎や、
ディティールの細かいクールなメカ描写にも夢中になったが、
それ以上に僕は物語の主人公たちに自分自身を投影した。
特にエヴァに乗ることに意地とプライドの全てを賭けているアスカというキャラクターには、
ギターに存在価値を預けていた自分と重なり、観ていて胸が苦しかった。
『エヴァ』は紛れもなく“僕の物語”だった。

本放送、そして当時の完結編にあたる映画『Air/まごころを、君に』からおよそ10年。
エヴァンゲリオンが“ヱヴァンゲリヲン”と名を改めて再び制作されるという話を聞いたときには、
「なぜ今更?」と思った。
ブームを支えたかつての中高生たち(つまり僕たち)を当て込んだ、
多分に商業的な匂いのする試みにしか見えなかった。
何より、思春期が終わると同時にエヴァを“卒業”した身としては、
徒に当時の記憶を掘り起こされたくはなかった。


だがそれは杞憂に過ぎなかった。
結論から言うと、素晴らしい。
「素晴らしい」という言葉などでは足りないほど、本当に素晴らしい。
かつて10年前の旧エヴァンゲリオンは、全てこの新ヱヴァンゲリヲンのためにあったのではないか。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は単なるリメイクではない。
2年前に『序』を観た段階で、すでにその思いは強くあったのだが、
今回の『破』を観て、それは確信に変わった。

では「単なるリメイク」と一体何が異なるのか。
マリやヱヴァ6号機といった新たなキャラ、新たな設定の登場か。
「人類補完計画」の全貌が今度こそ明らかにされるという期待か。
はたまた、美しく生まれ変わった映像か。

いや、そうではない。
そんな些末なことはどうでもいいのだ。
新ヱヴァが紡ごうとしているもの、それは旧エヴァの時には希薄だった“生への意志”である。

例えばそれは、復元されたセカンドインパクト前の海の匂いを嗅いでシンジが言う
「本当の海って生臭いんですね」という言葉に対し、加持が言う台詞。
例えばそれは、「他人と話すのもそんなに悪くないって思った」というアスカの言葉に対し、ミサトが言う台詞。
本編では実にサラッと挿入されるこれらの台詞には、かつてのエヴァにはなかった、
世界を肯定しようとする前向きな思いが宿っている。

旧エヴァが14歳の少年たちの視点に座し、
他人の存在を、世界を受け入れようともがき苦しんだ結果、
ヒリヒリとした痛みと絶望に満ち満ちていたのに対し、
新ヱヴァには「確かに世界は汚濁と混沌だらけだけど、それでもきっとどこかに愛はあるよ。
世界は生きるに値する場所だよ」という力強いメッセージがこめられている。
まるで大人になった今の自分が、
「死んでもいいや」とばかり考えていた、少年(チルドレン)だったかつての自分に向けて、
救いの手を差し伸べているかのように、僕には思える。

少年から大人へ。
憎しみから愛へ。
10年の重みがここにある。
この変化は総監督庵野秀明の変化であり、そしてまた僕ら自身の変化でもある。
楽観的になったわけではない。
絶望を叫ぶよりも希望を語る方がはるかに痛みを伴うものだ。
僕らはただ、10年間を経て、その痛みに耐えようとする覚悟が強くなっただけだ。
しかし、だからこそ今、本気で誰かを愛し、
他人を受け入れみんなで生きていくことの大切さを共有したいと願っている。

『破』では、シンジはレイのために、レイはシンジのために、そしてアスカはシンジとレイのために行動する。
彼らがはっきりと他人のために行動を起こすのは、旧エヴァでは見られなかったことだ。
10年前も今も、3人は変わらずに14歳だ。
だが、彼らは「変化」している。
この変化はつまり、庵野秀明、そして僕らの10年を反映したものなのだ。

僕は一昨日映画を観たのだが、まだ熱にうなされているような状態が続いている。
ちょっとでも思い出せば涙が溢れてきてしまう。
気持ちは醒めるどころか、ますます加速して渦を巻いている感じだ。
実はあまりに興奮してしまい、昨日も劇団のメンバーと観に行ってしまった(ちなみに全員ともすでに2回目)。

客層はやはり同世代の20〜30代くらいが多いように見えた。
おそらく全員が、10年前からのファンなのだろう。
そしてみんなきっと、シンジやレイやアスカの変化を感じ、
そしてその変化を感じ取れるようになった自分自身の変化に気付き、
あれから過ごしてきた時間について思いを馳せているんじゃないだろうか。

『エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)』とは、僕らの世代にとっての貴重なアンセムだ。
10代半ばに、そして20代の終わりに再びエヴァに出会えたことはなんと幸せなことだろう。

テレビ本放送がスタートした1995年という20世紀末からこの21世紀初頭へ、
10年間で現実はどんどん行き詰まりを見せている。
だからこそ、ささやかな愛と優しさに満ちた作品として生まれ変わったヱヴァンゲリヲンには、
勇気をもらうことができる。

素晴らしい。
何度言っても足りない。
身体が震えるほど素晴らしい。


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』予告編
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