週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【ロック】日本のロック

For Tracy Hyde『he(r)art』

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「明けない夜はない」という
儚さと希望と


 村上春樹の小説で一番好きなのは『羊をめぐる冒険』でも『ノルウェイの森』でもなく、実は『アフターダーク』なんですが、For Tracy Hyde(フォトハイ)の2ndアルバム『he(r)art』の印象は、この小説を初めて読んだときのそれと重なりました。

 どちらも舞台は東京で、時間帯は夜。『アフターダーク』は東京の渋谷のレストランやラブホテルで起きたある一晩の出来事を、深夜から日が昇るまで時系列を追って描いた作品ですが、『he(r)art』のほうも、明示はされていないものの、ある夜に東京のあちこちで起きるドラマを1曲1曲にしてつなげた、連作小説的なアルバムです

 ただ、僕が両者を似ていると感じたのは、単に作品の構成や舞台設定だけが理由ではありません。

 夜の電車に乗ると、オフィスやマンションから洩れる無数の光が次から次へと窓の外に流れていきます。その一つひとつの光のなかに誰かの人生とそれに伴うドラマがあって、しかもそのほとんどはお互いに関わり合うことがなく別々に存在しているんだと思うと、密度の濃さみたいなものに思わず眩暈がしそうになります。そして、無数に輝く星も太陽が昇れば消えてしまうように、東京の窓の明かりも朝が来ると全て消えて、夜の間にその明かりのなかで起きたさまざまなドラマなんてまるでなかったかのように、また1日が始まる。

 永遠に続けばいいのにと思うような夜も、朝日が昇れば瞬く間に消えてしまうのは、残酷で虚しいことかもしれません。でも、逆に言えばどんなに悲しい出来事があっても、朝が来ればとりあえず一旦リセットすることができるわけで、その意味では夜の終わりはある種の救いでもあります。儚いけれど、その儚さの中にこそ希望がある。『アフターダーク』と『he(r)art』が似ているのは、都会の夜がもつそうした二面性が、作品のなかに封じ込められているからです。



 先ほど「連作小説的」と表現しました。EP『Born To Be Breathtaken』のときにも書いたように、このバンドの楽曲はフィクショナルで情景描写的なところが大きな特徴ですが、今回のアルバムはその強みと作品のコンセプトの親和性が過去の作品以上に高かったと思います。

 彼らのそうしたストーリーテラー性について、これまでは歌詞がファクターとして大きいと思ってたのですが、今回の作品を聴いていると、メロディの影響も大きいのではないかと思うようになりました。理由は「Bメロ」

 フォトハイの楽曲は元々Bメロが多いのですが、今回のアルバムの楽曲ではそのBメロが非常に効いているなあという印象があります。ヴァース(Aメロ)とコーラス(サビ)をダイレクトにつなぐのではなく、その間に別種のメロディを置くことでサビへと向かう緊張感が生まれ、楽曲のドラマ性を強めるのがBメロの効果だとすれば、<Echo Park>や<Leica Daydream>はその見本のようです。これらの楽曲の、サビに入ったときに視界がバッと開けるようなドラマチックさは、直前のBメロがまるでサビへのジャンプ台のような役割を果たしているからでしょう

 蛇足ながら、欧米のポップソングはヴァース(Aメロ)からいきなりコーラス(サビ)へと移るのが圧倒的に多いので、Bメロは日本のポップソングの大きな特徴だともいえますが、フォトハイが「J-POPのお作法と海外インディーの感性との邂逅」とよく言われる理由は、実はこの「Bメロ」にあるんじゃないかと思ったりもします。



 最後にもう一度「東京の夜」に話題を戻します。

 僕がこのアルバムを聴いて最初に東京の夜と『アフターダーク』を思い出したのは、6曲目の<Dedication>でした。どちらかというと地味で、アルバム全体からみるとつなぎのような(まさにBメロ的な)ポジションの楽曲ですが、僕はこの<Dedication>が一番好き。

 他の曲がいずれも特定の誰かや場所にフォーカスしながら一人称的視点で作られているのに対し、この曲だけは三人称的で、淡くゆったりとしたサウンドとも相まって、まるで雲の上から街全体を見下ろしているような感覚があります。東京という街そのものが端的に表れているのは、実は控えめな存在のこの曲だと思うのです。

 eurekaのボーカルも非常に効いています。前代のボーカルであるラブリーサマーちゃんが、不完全さや傷つきやすさをさらけ出す人間臭いボーカルだったのに対し、eurekaの声は中性的で俯瞰的で、適度な距離感をとりながら、歌全体を俯瞰してみてるような響きをもっています。まるで都会の夜に生きる無数の主人公たちを空から見守る天使のような彼女の声は、<Dedication>のみならず、アルバムのコンセプト自体と非常にマッチしていると思います。

「シティポップ」というと先鋭的で享楽的なサウンドの代名詞のように捉えらがちですが、字義どおりに「都市」というものをテーマに据えた音楽と解釈するのであれば、このアルバムのような音楽こそ「シティポップ」と呼ぶべきでしょう








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Luby Sparks 『Luby Sparks』

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「ペインズ」という名の
夢の続き


 当初は、昨年の秋に出ると言われていた1stアルバムですが、2度ほどの発売延期を経て、ようやくこの1月にリリースされました。東京出身の5ピース、Luby Sparks。2016年に、現役の大学生男女5人で結成されたバンドで、僕にとってはフルアルバムのリリースをもっとも心待ちにしていたアーティストの一組でした。

 最初に聴いたのは、確かSoundCloudにアップされた<Hateful Summer>だったと思います。

 光の乱反射のようにキラキラしたギターのノイズ、細い糸を縫うような繊細なメロディ、遠くから聴こえてくる蜃気楼のような男女混声ボーカル。全ての要素が僕のハートを鷲掴みにして完璧なキムラロックを決めたのでした。そしてこの完璧ぶりに対して、僕は心の中でこう呟きました。「ペインズはここにいたのか」と。

 NYブルックリン出身のバンド、The Pains Of Being Pure At Heart。09年に出たセルフタイトルのデビューアルバムは、ひと言でいうなら「100点満点」のアルバムでした。この10年でもっとも影響を受けたアルバムを1枚選べと言われたら、僕はおそらくペインズの1stを選ぶと思います。特にここ数年は、自分が音楽を選ぶ基準に対し、ペインズの影響がいかに大きかったかを自覚する機会が増えました。And Summer ClubHomecomingsも、AlvvaysThe History Of Apple Pieも、ペインズがいなきゃ聴いてなかったと思います。

 ただし、ここでいうペインズは、あくまで2nd『Belong』まで。僕は何よりもバンドとしてのペインズのサウンドが好きだったので、フロントマンであるキップ・バーマンの実質ソロプロジェクトになった3rd『Days Of Abandon』以降は、少し距離を置いて眺めていました。(今思うと3rdがリリースされたのと同じ14年に、ホムカミ『Homecoming With Me?』とAlvvaysの1stと出会っているのは象徴的だなあ)

 僕はある意味では、ペインズ(の1stと2nd)という名の夢の続きをずっと探していたのだと思います。そして、1stから10年近く経ってようやく見つけた「夢の続き」が、Luby Sparksだったのです(他のアーティストに重ねあわせられるのは、本人たちにとっては不本意なことかもしれませんが、僕にとっては最大級の賛辞のつもり)。

 今回リリースされた1stは、想像に反してとてもフレッシュな印象のアルバムでした。というのも、これまでの音源から、僕は彼らに対してセピア色で、晴れよりも曇り空が似合うようなイメージを持っていたからです(Camera Obscureをカバーしてたのも理由の一つ)。ところが今回のアルバムは瑞々しい躍動感があってバンドの印象が変わりました。

 1曲だけ挙げるなら、10曲目の<Teenage Squash>。ガラス細工のようなヴァースと一気に加速するコーラスとを繰り返す激しい二面性を持つこの曲は、その構成自体が若い頃の気持ちのありようを表しているようです。世界の美しさに涙する心と、その美しさの前で自分はなんて醜いんだという激しい怒り。聴いていると、胸が引き裂かれそうな気持ちになります。

 実はこの曲、最初に聴いたのはアルバムではなく、ライブでした。そのライブというのは、1月末に行われた、他ならぬペインズの来日公演。Luby Sparksは東京のステージでサポートアクトに選ばれたのです。サポートアクトはチケット発売時には発表されてなかったので「Luby Sparksだといいなあ」とは思っていたんですが、まさか本当に実現するとは。

 ペインズということで元々チケットを押さえてはいたものの、そこにLuby Sparksが登場したことで、僕の中ではこの日のステージが世代交代の象徴になるのではという予感が湧いてきました。事実、当日のLuby Sparksのステージは「09年の頃のペインズはきっとこうだったんじゃないか」と思わせる繊細さと緊張感がありました。「貴重なバトンタッチの儀式を見たなあ」と、ペインズが登場する前の時点ですでに僕は何かを見終えたような気分になっていたのです。

…ところが、その10分後、実際にはまったく「世代交代」でも「バトンタッチ」でもなかったことを僕は目撃するのですが、その話は次回。








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JINTANA & Emeralds 『Destiny』

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心にいつも「横浜」を

 スティールギタリストのJINTANAが、シンガーの一十三十一(ひとみとい)やギタリストのKashiffらとともに結成した6人組のドリームチーム的グループ、JINTANA&Emeralds。2014年にリリースされた彼らの1stアルバム『Destiny』は、ミュージックマガジンの2014年歌謡曲/J-POP部門で1位を獲得したばかりか、同誌の選ぶ2010年代の邦楽ベストアルバム部門でも7位を獲得するなど、非常に評価の高い作品です。

「ネオ・ドゥーワップ」と呼ばれる彼らの音楽は、その濃いビジュアルからもなんとなく想像つく通り、50年代のアメリカンポップスからフィル・スペクター大滝詠一までつながる、濃厚且つ涼やかなレイドバックサウンド。<Emerald Lover>なんて、イントロを聴いただけで僕はムフムフしてしまいました。買ってからだいぶ経つのですが、未だにかなりの頻度で聴き返すアルバムです。



 ただ、僕がこのアルバムをヘビロテする理由は、サウンドが好みというだけはありません。もう一つ、サウンド以上に重要な、そして個人的な理由があります。



 朝、自宅の最寄り駅から会社とは逆方向の電車に乗り込んで、1日だけの現実逃避を楽しむ―。世にいう「逆向き列車」というやつですが、僕の場合、この逆向き列車に乗って行きたい場所ベスト3に常にランクインする不動の「ザ・現実逃避な場所」が、横浜です。

 横浜というと、一般的には都心に近い観光地というような位置付けなのでしょうか。しかし、神奈川県南部で育った僕からすると、横浜は観光地というよりもまず「都会」というイメージになります。神奈川の南から都会へ向かおうとすると(だいたい東海道線です)、東京にたどり着く前にデーンと控えているのが横浜なのです。

 高いビルもあるし駅は大きい。もちろん人もたくさんいる。迷子になりそうな複雑さと規模感は、子供の頃の僕にとってはまさに「都会」のイメージそのものでした。中華街や元町といった、おそらく他の地域の人からするとザ・観光地に見えるであろう特別な景観も、僕には「都会はやっぱりいろんな場所があるんだな」と、都会であることの証明として見ていました。

 街が巨大であるがゆえの迫力や多様さ、大人の世界を垣間見るようなドキドキ感。そのようなものを最初に体験したのが、横浜だったのです。

 普通なら大人になるにつれて、かつては巨大に感じていた街も、訪れるごとに身の丈に合っていくはずですが、僕の場合は自分でお金を稼ぐようになったときにはすでに東京に出てきていたので、横浜の街をきちんと(というのも変ですが)体験しないまま今日まで来てしまいました。その中途半端さが逆に良かったのか、すっかり日常の風景になってしまった「地元・東京」に比べて、横浜は今でも僕の目には「非日常な大都会」として映っているのです(だからこそ逆向き列車の行先として魅力的なのです)。



 ここでようやく話はJINTANA & Emeraldsに戻ります。僕が彼らに惹かれる一番の理由は、彼らの音楽が、横浜を強烈にイメージさせるからなのです。

 彼らの音楽が醸し出すレイドバック感が、横浜のレトロできらびやかな様子を思い起こさせるから。もちろんそれもあります。しかしそれ以上に決め手になったのは、彼らの所属するレーベルが、Pan Pacific Playaという横浜のレーベルだったことでした。

「横浜のレーベルの音楽だから、聴いていると横浜の風景が浮かんでくる」だなんて、単純すぎるというか、ほとんど「思い込み」「気のせい」のレベルですが、浮かんでくるんだからしかたない。

 夜中に埠頭に忍び込んで眺めた対岸のみなとみらいや、元町から外人墓地へ向かう急な坂道、ビルや高速道路の間から覗くように見上げた横浜駅前の空。JINTANA & Emeraldsを聴いていると、記憶の片隅に引っかかっていた景色が次々と蘇り、胸の奥を締めつけてきます。彼らの音楽と横浜との連想が気のせいだとしても、この切なくもうっとりとしたこの感じは、紛れもなくリアルです

 所属レーベルの所在地という、音楽の本質とは関係のないはずの「周辺情報」が、作品の受け取り方を左右すること。人によってはそれを邪道と感じるのかもしれませんが、僕はむしろそういうところが面白いと肯定的に見ています。逆向き列車にはそうそう頻繁には乗れないぶん、その代わりにJINTANA & Emeraldsを聴いて、積極的に「気のせい」に身を委ねてやろうと思います。








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ハラフロムヘル 『みのほど』

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ナンセンスから神話まで

 2011年に千葉で結成された5ピース、ハラフロムヘル。名前からしてなかなか強烈ですが、サウンドの方も名前に負けず相当に個性的です。16年末にリリースされたフルアルバム『みのほど』は、ファーストアルバムに相応しく、彼らのキャラクターがこれでもかと詰め込まれた名刺代わりの1枚です。

 このアルバムについて語るために、話を3つのポイントに分けて進めます。歌詞メロディ、そして紅一点のボーカル、タテジマヨーコの声です。

 まずは歌詞から。これは読んでもらった方が早い。
横目いっぱい君の生存確認
星のマークをつけてきたんだ
うって変わってアマゾンデビュー
死んだと思った兄がいきてた映画
みたいな展開が続くのかい

<食べる人>

宝くじを買いましょう
3億円当てましょう ねえ3億円だよ?
3億円あったらどうする?

<宝くじ高い>

 特にインパクトの強い部分だけを引っ張ってきましたが、基本的にはどの曲の歌詞もこういう具合にシュールでナンセンス。「作者の言いたいことを述べなさい」という問題が出されたら、採点者も回答者もみんなが頭を抱えるでしょう。この独特な世界観が、ハラフロムヘルの個性の一つめです。

 次にメロディです。メロディは非常にドラマチックです。ヴァース、ブリッジ、コーラスと各パーツの境界線は明確で、それぞれがフックの強いメロディを持っているため、先へ先へと展開していく前進力があります。彼らの音楽が「ミュージカルのようだ」といわれる所以がここにあります。

 同時に、80年代から90年代はじめあたりのJ-POPに見られる、職業作曲家の手によるメロディのような情感もあって、僕なんかには懐かしい感じもします。玉置浩二の、日本っぽいんだけどカラッとしてる感じとか近いと思う。

 最後に、ボーカル・タテジマヨーコです。このバンドの一番の「顔」は、間違いなく彼女の声です。声量があって線が太い彼女の声は、最近のバンドの女性ボーカルでは珍しいタイプで、それゆえ非常にインパクトがあります。僕はCoccoとか安藤裕子とか、ナチュラル系SSWの系譜を継ぐボーカルだと見ているのですが、そんな彼女のオーガニックな声を手数の多いバンドの音で聴けることに、僕は「お得感」を感じます。

 んで。

 シュールな歌詞とドラマチックなメロディ、そしてタテジマヨーコの声が合わさると、結果としてどうなるのか。

 例えば前述の<宝くじ高い>のようなナンセンスな歌詞が、異様に高低差のあるメロディに乗っかり、さらにタテジマヨーコの声量で歌われると、まるで何らかの人生の真理を歌っているかのように思えてくるのです。「みんな当たり前のように口にしているが、宝くじって一体なんだ。俺は本当の宝くじを知っているんだろうか」と。

 シュールな歌詞が意味を持ち始めるということ自体がシュールで、まるで「シュールの入れ子」「メタシュール」みたいになってきて頭がおかしくなってくるのですが、一方で<パンツヒル>や<れない>といった抒情詩については、メロディとボーカルが言葉の抽象性を何倍にも増幅し、リスナーがどのようにも解釈できる余地を与えており、特に<パンツヒル>なんて、知らない国の神話かと錯覚してしまいそうなスケール感です。

 このように、メロディは物語性を、タテジマヨーコの声は説得力をもたらしているのですが、組み合わされる歌詞が抽象的でクセが強いぶん、シュールになったり神話のようなスケールになったりと、予測不能な化け方をします。自分たちの個性をそのままアウトプットするとそれぞれが化学反応を起こして、不安定でカオスになるというのは、ある種の宿業といえますが、同時にそれ自体がものすごい個性だなあとも思います。

 ただ、個性が強烈なぶん、それを余すところなく出した『みのほど』は、ある意味では最高到達点であり、このまま同じやり方で2枚目3枚目を作っても陳腐になっていく可能性を孕んでいます。ハラフロムヘルは「次の作品に向けたバンドの再構築のために制作期間をもうけること」を理由に、17年3月いっぱいでライブ活動を休止しているのですが、僕はこの判断をリスペクトするし、休止するからこそ次回作への期待も高まりました。








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CHAI 『PINK』

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「ガールズバンド」
という括りはもう古い


 揃いのピンクのステージ衣装をまとった強烈なビジュアル(90年代育ちにはオ○ム真理教を彷彿としてしまうのでよけいに強烈)、歌とラップを自由自在に行き来するフリーダムなマナとカナのボーカル、「どこの腕利きおっさんミュージシャンだよ?」と突っ込みたくなるような、ユウキとユナの2人によるエッジ利きまくりのグルーヴ(これは本当にすごい)。

 このバンドは一つひとつのキャラクターがとにかく濃厚で、一発で依存症になるような猛烈な中毒性があります。このアルバム聴いた直後は、頭の中で「YOU!ARE!SO!CUTE!NICE!FACE!COME ON YEAH!」ってコーラスがずーっと鳴り響いてました。

 いやー、すごすぎてため息が出ますね、CHAI『PINK』。リリースされたのは去年の秋ですし、既にあちこちで激賞されているので今更ではあるのですが、僕も彼女たちのこの1stアルバムには、めまいを起こしそうなほどの衝撃を食らいました。

 正直CHAIを聴いてしまうと、他のガールズバンドが急に「過去のもの」に見えてきてしまうのを否定できません。もちろん、冒頭に挙げた彼女たちの強烈なキャラクターもその理由の一つではあるのですが、CHAIと他のガールズバンドと決定的に違うのは、彼女たちのスタイルや楽曲には「男の存在」が欠けていることです

 例えば<ボーイズ・セコ・メン>という曲で、「わたしはあなたを守りぬくわ」というフレーズが出てきます。ここでいう「あなた」は男性なんだけど、そこに恋とか愛とかいう文脈はありません。あるのは「私の方が強いからあなたを守ってあげる」という、純粋に物理的な力関係だけです

 もちろん、女性が男性を守るという歌詞は過去にもたくさんあるんだけど、程度の差こそあれ、そのほとんどは「本来は男性が女性を守るべきところを女性の私の方が男性を守る」というような、男性の存在を前提にしたうえでの価値観がベースにあったと思います。でもCHAIには「男性だから」という前提も、「女性だけど」という気負いもありません。「私の方が強いから守る」という、ただそれだけなのです。

 CHAIは「NEOかわいい」(NEOはニュー・エキサイト・オンナバンドの略)という造語をバンドのテーマに掲げていますが、ここで使われている「かわいい」も、「男性から見てかわいい」でもなければ、その反発としての「男性の価値観なんかに縛らない、女性自身が評価するかわいい」でもありません(後者も結局は男性が出発点であることは変わりがないから)。

 CHAIのいう「かわいい」は、<sayonara complex>で「どんなにファンデーションを塗ってもムダ毛を処理してもコンプレックスはなくならないよ(だから受け入れていこう)」と歌っていることに表れているように、「その人が本来持つ性質こそが一番かわいい」という意味なのでしょう。

 そういう意味では、CHAIのいう「かわいい」は男性にも当てはまります。つまり、「男性(女性)から見た女性(男性)」であれ「男性(女性)の存在から自由な女性(男性)」であれ、今まで歌われてきたのがそうした「異性との対比の中で位置づけられる相対的な女性(男性)」だとしたら、CHAIが歌っているのは性別という属性と分離された、純粋な「個人」だといえます

 そしてさらに言えば、冒頭に述べたような、いわゆる(従来的な意味での)「女性らしさ」とは一線を画すあの衣装も、あまりにフリーダムな音楽性も、そのようなCHAIの姿勢の表れだと僕には思えます(狙ってやってるわけではないでしょうが)。

 だから、本当は他のガールズバンドと比べることがおかしいし、そもそも「ガールズバンド(男じゃないバンド)」という括り方も実はおかしいんだと思わざるをえません。男性社会的な文脈や価値観を、ラディカルな形ではなくあくまでポップな音楽で軽やかに超えていくCHAI。どんなに誉めても足りないくらいめちゃくちゃ眩しいし、めちゃくちゃ素敵です。







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DYGL 『Say Goodbye To Memory Den』

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あえて今の時代に
「ギターロック」を選ぶ痛快さ


 先週に続いて今週も2017年の良かったアルバム(17年が終わってから紹介するのも間の抜けた話なのですが)。DYGLの1stアルバム『Say Goodbye To Memory Den』です。

 DYGLと書いて「デイグロー」と読みます。メンバーは4人。日本のバンドです。

 が、僕は最初、海外のバンドだと勘違いしました。元スーパーカーのナカコー(中村弘二)が以前、「最初の1音だけで日本のアーティストか海外のアーティストかわかる(それくらい明確な違いがある)」というようなことを呟いていましたが、僕はDYGLがロンドンのバンドと言われても信じちゃうと思う。そのくらい、サウンドにも英語の発音にも日本人ぽさが感じられません

 着古してあちこちほつれたり色が落ちたりした洋服なのに、その無造作感や自然さが新品の服よりもむしろ素敵に映ることがありますが、DYGLの音楽にもそれと同じような魅力を感じます。2本のギターの絡み方や、タイトなんだけど荒々しく聴こえるドラム、ボーカルとコーラスの重なり方。僕はかつてのリバティーンズを思い出しました。

 レコーディングの技なのかミックスの妙なのか僕にはわからないんですが、全体が1枚の薄皮に包まれてるようなデッド感のある音(イヤホンで聴くと強く感じます)もかっこいい。そう、このバンドに関してはとにかく「かっこいい」という言葉しか出てきません。こういうシンプルかつピュアな「これぞギターロック!」と呼びたいバンドが日本から出てきたことがめちゃくちゃ嬉しいです。

 実はDYGLのメンバー4人のうち、3人はYkiki Beatという別のバンドにも在籍していました(Ykikiは16年に活動休止)。Ykikiの結成が10年でDYGLが13年なので、丸3年は両方の活動が被ってたってことになります。

 ちなみに、ボーカル/ギターの秋山信樹とベースの加地洋太朗はどちらのバンドでも担当楽器は同じなのですが、嘉本康平はYkikiではギター、DYGLではドラムと担当が異なります。初期のDYGLではメンバーの担当楽器は流動的だったそうなので、その名残なんでしょうが、それにしても器用すぎてすげえ

 Ykiki Beatはどういうバンドだったかというと、シンセ担当のメンバーがいることに表れているように、カラフルで都会的でダンサブルで、一言でいえば「陽」な音楽を鳴らすバンドでした。僕はYkikiの方は前から知ってたのですが、DYGLはあまりにサウンドが違うので、まさか同じメンバーだとは思いませんでした。

 んで、僕が面白いなあと思うのは、地上波テレビのEDテーマに選ばれるほど「今風」なYkikiから、今や「古典的」といってもいいほどクラシックなスタイルとなった4ピースのギターロックまでカバーする、彼らの懐の深さ、レンジの広さです。偏見かもしれないですけど、今の時代ギターロックをやろうとする人間って、保守的で固陋なイメージないですか?

 個人的には、Ykikiのようなところから、オーソドックスなガレージやパンクの匂いを感じさせるDYGLへと、まるで時代と逆行するように変化した彼らの意志が頼もしく感じます。その一方で、Ykikiがなくなったことで「Ykiki的な何か」が今後DYGLにもフィードバックされてスタイルが変化するとしても、それはそれで楽しみ。

 彼らは日本と海外を行き来しながら活動を続けてるらしいので、そんな感じで国内シーンと適度に距離を取りながら、屹立した存在として今後も突っ走ってほしいですね。

 最後に、音楽とは全然関係ないんだけど、DYGLのボーカルの秋山信樹って、菅田将暉に似てません?『直虎』見ながらずっと頭にDYGLがちらついて仕方なかった…。







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Hi-STANDARD 『The Gift』

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「裏切ったやつら」に
もう一度会いたくなった


 少し前の話ですが、Ken Yokoyamaがアルバム『Sentimental Trash』をリリースした頃(15年)、横山健のメディア露出が急激に増えました。かつては「TVに出たら魂を売ったと思ってくれていい」とまで言っていた彼が、『ミュージック・ステーション』をはじめ、地上波の音楽番組に顔を見せました。

 その背景には、「ロックがこのまま廃れてしまうのを、ただ黙って見ていていいのか」という危機感と、そしてコアなロックほどメディアを忌避し、それが結果として一般リスナー層離れを生んでしまったことの一因が、「TVには出ない」と言い切ったかつての自分自身にあるのかもしれないという責任感があったと、横山健自身は語っています。
『横山健の別に危なくないコラム』Vol.89

 そういえば、これも少し前のことですが、こんなニュースもありました。
音楽離れは「有料の音楽」離れに限らず「音楽そのものから距離を置く」と共に

 確かに、僕自身の実感に即してみても、積極的に音楽を聴く人なんて、10人に1人もいない気がします。20人に1人いればいいくらいじゃないだろうか。

 僕が中学高校の頃は音楽、とりわけロックはまだクラスの話題の中心にいました。イエモンはいたしジュディマリはいたしミッシェルはいたし、もちろん、ハイスタもいました。でも、今クラスで音楽が話題に上ったとしても、バンドの名前なんて一つも上がらないんじゃないでしょうか。てゆうか、そもそも「音楽が話題に上る」なんてこと自体が起きえないのかもしれません。

 でも、同時にこうも思います。実は、「音楽を聴く人」なんて、当時からほんの一握りしかいなかったんじゃないかと。僕も含めクラスのみんなが追いかけていたのは、音楽ではなくただの「流行」であり、音楽ソフトの売上が減っているのは、単に「流行を追いかける層」が音楽以外のところへ去ってしまったからで、「音楽を聴く人」の割合は、昔も今も変わらないんじゃないかと。

 もちろん、たとえ20人に1人だとしても、そうしたコアなファンを若い世代に確保し続けなければ、そのジャンルはいずれ滅びてしまいます。そして、そうしたコアなファンは「流行を追いかける層」の中から生まれるのも確かなことです。フジロックが中高年おひとり様だらけだった、なんて記事がありましたが、ロックのレコード売上が初めてR&Bの総売り上げに負けたことでも明らかなように、若い世代におけるロックの存在感は薄れつつあるのは確かなのでしょう。だから、もう一度「流行」を呼び込もうとする横山健のチャレンジは、とても大事だとは思います。

 ただ、その一方で、CDが100万枚売れたからといって、「音楽を好きな人」が100万人いるわけではないし、CDが売れなくなったからといって、音楽へのニーズ自体が減ったわけでもないだろうとも思うのです。

 高校時代、文化祭でハイスタをコピーしてた知人は、今ではK-POPしか聴かなくなりました。自分の携帯アドレスに「music」「love」と付けてる知人が最後にCDを買ったのは、10年近くも前だそうです。

 もちろん、流行を追うのも何かに飽きるのも、個人の自由です。K-POPだって歴とした音楽です。昔のCDだけを繰り返し聴くことだって悪いことじゃない。それが彼なりの「music love」なのだから。

 でも、それら全部をわかったうえで、どうして僕は彼らを「許せない」と感じるのか。「裏切り者」と感じるのか。彼らがハイスタ18年ぶりのアルバム『The Gift』を聴いて「やっぱハイスタだよな〜」などと言おうものなら、この18年の間に活動してた全てのアーティストに土下座しろ!と言いたくなってしまうのか。

(僕はいったい何が書きたいんだろうと思いながらずっと書いています)

 峯田和伸が銀杏BOYZを始める前に出演し、彼の俳優デビュー作となった『アイデン&ティティ』(2004年)という映画があるんですが、その中で、首がもげるくらいにうなずきながら「わかる!わかるぞ!!」と激しく同意したシーンがあります。

 峯田演じる売れないミュージシャンの中島が、大学時代のバンド仲間で、今は就職して働いている友人と飲み屋で飲んでるシーンです。「今どんな音楽を聴いてるか」という話題になったところで、かつてのバンド仲間の一人がこう言い放ちます。「やっぱベスト盤だよね!女口説くならベスト盤が一番だろ!」と。

 これ、伝わるでしょうか。「え?こないだまで一緒に夢見てたじゃん。一緒に熱狂してたじゃん。なんでそんなにあっさり割り切れちゃうの?なんでそんなにすぐ醒めちゃうえるの?あの熱狂は嘘だったの?」という怒りと悔しさ。そして、未だに同じ場所にいる自分が、まるで一人で道化を演じてるかのように思えてきてしまう恥ずかしさ。このとき中島が感じたであろう気持ちが、僕にはすっごいわかる気がして、僕は画面の中に飛び込んで彼を全力で抱きしめたくなりました。

 それがいくら一方的な思い込みであると分かっていても、あいつが自分と同じように熱狂していないと分かったときに「裏切られた」と感じたり、相変わらず熱狂している自分がたまらなく恥ずかしいと感じたりしてしまうのはなぜなのか。

 きっとそれは、さみしいからなんじゃないかと思います『シン・ゴジラ』の記事でも書いたように、僕は「何かを好きになるということは、孤独になるということだ」と考えています。だから、僕は基本的には音楽が好きなことも芝居をやってることも他人に話しません。それが人付き合いのマナーだとすら思ってきました。でも本当は、他人と一緒に何かに夢中になることや、一瞬でも誰かと「つながった!」と実感できることを求めてるのかもしれません。

 10月に『The Gift』を初めて聴いたとき、僕の中には「裏切っていった奴ら」への怒りが、身がよじれるくらいの勢いで湧いてきました。ロックを聴かなくなったあいつらが、久しぶりにハイスタを手に取るのは許しがたいと思いました。でもこの文章を書き終えた今は、なんとなく彼らに久しぶりに会いたいと思い始めています。








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HAPPY 『Stone Free』

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成長や進化なんていう
能天気な言葉は使いたくない


 京都出身の5人組、HAPPYの1stフルアルバム『Hello』は、僕にとっては100点満点といっていいアルバムでした。リリース時にこのブログでもがっつりと書きましたが、「この人たちは僕のために曲を書いてるんじゃないか?」と感じるくらいに、全ての音がピタッとハマりました。その快感といってもいい感覚は、3年経った今聴き直してみても変わりません。

 そうなのです、もう3年も前なのです。『Hello』が2014年。その次のリリースが翌15年の春に出したEP『To The Next EP』。ライブハウスもどんどん大きくなってきていたし、露出も増えていたし、そこからメジャーレーベルに移籍するという噂もありました(実際そういう話はあったそうです)。ところが彼らは、そこから突如長い沈黙の期間に入りました

 16年1月に<Count Your Memory>、同年6月に<Mellow Fellow>と、SoundCloudやYouTubeに新曲が公開されたことはありましたが、いずれも単発のみ。ライブ活動も、メンバーが個々にソロで出演することが増えてきて、「バンドとしてはこのまま終わるのかなあ」なんて思ってました。

 なので今年7月、CDリリースとしてはおよそ2年ぶりとなるミニアルバム『Stone Free』が発表されると聞いたとき、真っ先に感じたのは「嬉しい」というよりも「安心した」という気持ちでした。販売はHPからの注文とライブ会場の物販のみで、レコード店や通販サイトでは取扱いなし。かつてよりもさらにDIYでインディーなスタイルですが、手貼りの宛名シールの封筒で彼らの事務所から直接CDが届くのは、なんか温かみがあって、久々のリリースとしてはむしろ理想的な配布形態だった気がします。

 んで、『Stone Free』です。素晴らしいアルバムでした。めちゃくちゃ良かった。曲が良いっていうのはもちろんなんですが、アルバム全体からHAPPYというバンドが新しいステップに進んだことが強く伝わってきました

 それがもっとも端的に表れているのが、1曲目の表題曲<Stone Free>

 まず一つは、かつてよりも生音が重視されていること。冒頭いきなり聴こえてくるのがサックスの音という時点で、早くも『Hello』との違いに驚くはずです。彼らの代名詞だったキーボードも使われているのですが、その音の響き方はかつてよりもずっとくすんでいます。エレクトロポップ色が強かった前作までを思うと、まさか「ローファイ」という印象をこのバンドに対して抱くことになるとは

 もう一つは、BPMが遅いこと。これは16年の<Count Your Memory>や<Mellow Fellow>の時点から始まっていた変化ですが、<Stone Free>の放つ粘っこいグルーヴは、それがたまたまではなく意図的なものであったことを証明しています。

 遅いっていうだけならこれまでも<To The Next>や<Color>といった曲がありましたが、どちらもバラードであり、当時のHAPPYのなかではあくまで亜流でありアクセント的な存在でした。しかし、<Stone Free>がリードトラックであり表題曲であることに表れているとおり、今作では遅い曲をポップチューンに昇華させているところがこれまでと大きく違います

 これら2つの大きな変化によって、アルバムはトータルとして、『Hello』よりもグッと重たく、サイケデリックな印象を与えます。試しに『To The Next EP』のリードトラック<R.A.D.I.O.>と<Stone Free>を聴き比べてみると、まるで華奢で髪もサラサラだった高校生の少年が、いつの間にか汗の匂いを漂わせる大人の男に変わっていたような、親戚のおじさん気分を味わえます。


 んで、僕は彼らの変化を、ものすごく肯定しています。理由は2つ。

 一つは、15年の『To The Next EP』の時点で、僕は正直、これ以上このバンドがエレクトロポップ路線に走っていくとついていけないかもなあと危惧していたこと。なので、今回の変化は僕にとって歓迎すべきものだったし、おそらくバンド自身も、もうエレクトロポップ路線はないだろうと考えてたんじゃないかと想像します。

 もう一つは、確かにサウンドは大きく変わりましたが、ちゃんと(というのも変ですが)<Lucy>や<Lift This Weight>のような素晴らしいメロディセンスや愛嬌のあるポップネスが感じられるところ。おそらくこれこそがHAPPYというバンドの変わらない個性なんだろうと思います。そういう意味でいえば、僕にとってHAPPYは「変わってない」のです。

 Stone Freeという言葉には「束縛やしがらみ(=Stone)からの解放(=Free)」といった意味があるそうです。そして、アルバムのタイトルがこの言葉になった背景には、メジャーレーベルからの誘いがあったものの「このままメジャーへ行っても自分たちがなりたいバンドになれないんじゃないか?」という疑問(おそらく前述の、飽和気味だったエレクトロポップ路線を期待されていたという意味なんじゃないかと想像してます)がありました。

 この作品はいろんな真理を示唆しているように思います。自分の思ったとおりの自分になるためには、誰かの力はあてにできないこと。自分だけの力による、長い時間の地道な努力が必要なこと

 僕は、「成長」や「進化」なんていう言葉をこの作品に対して使いたくない。成長や進化という言葉には、結果のみを見て、「全てのものは良くなるはずだ」という能天気な前提で作られたストーリーにあてはめようとする浅はかさがあるからです。成長した、進化したという評価には、その過程にある痛みが抜け落ちているように思います。だから僕は、やはりタイトルにならって、HAPPYが前よりも「自由」になった作品と呼びたい。彼らが誰の力も借りずに、実際に自分たちの足で歩くことで、「自分たちはこういう場所にもいけるんだ」ってことを示して見せた作品だと思います



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Satellite Young 『Satellite Young』

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90年代生まれによる
「80年代」の再発見


 日本の3人組ポップユニット、Satellite Young。彼らが今年5月にリリースしたセルフタイトルの1stアルバムが、めちゃくちゃ面白いです。

 いい!でも感動した!でもなく「面白い」と表現したのはなぜなのか。その理由は、彼らの音源を聴いてもらえば一発で理解してもらえるはずです。

 キッパリハッキリしたメロディに、気恥ずかしくなるくらいにギラギラしたビート。この匂いは…そう、80年代です。80年代以外にありえません。Satellite Youngは「80年代アイドル歌謡」をコンセプトに活動するグループなのです。

 僕はサウンドもさることながら、歌詞に激しく惹かれます。「胸さわぎとまらない午前零時 通知がきてるわ エメラルドのアイコン」<ジャック同士>なんてたまりません。アルバムにはほかにも、<ブレイク ブレイク ティクタク><卒業しないで、先輩!>なんていう、タイトルからしてたまらない曲もあります。

 ちっともおしゃれじゃないガリ勉(これも死語だな)タイプのボーイフレンドを歌った<Geeky Boyfriend>も、いかにも80年代センスでいいですね。でも、80年代当時は「ギーク」なんて言葉は使われてなかったので、あくまで視点は2017年の今ということがうかがえます。こうした、80年代テイストに隠れた現代の感覚を探すことも、Satellite Youngを聴く楽しさの一つです。

 僕は81年生まれなので、リアルタイムで80年代カルチャーを味わった世代よりは、少し下になります。にもかかわらずSatellite Youngを「懐かしい」と感じるのは、子供だったぶん、アニメをたくさん見ていたからです。当時のアニメ番組の主題歌はアイドル歌謡の主戦場だったので、メイン視聴者層だった僕らは、アニメを見る一環でアイドル歌謡の雰囲気も味わっていたのです。Satellite Youngを聴いていて頭に浮かんだのも、<悲しみよこんにちは>(斉藤由貴)とか<水の星へ愛をこめて>(森口博子)とかでした。<Sniper Rouge>なんて、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』の主題歌<愛はブーメラン>にそっくりです。

 んで、Satellite Youngを最初に聴いたとき、僕はてっきり80年代をリアルに経験してきた人たちが、「青春をもう一度」的に始めたグループなんだろうと思ってました。でも、だとしたら、メンバーは最低でも40代後半でないと辻褄が合いません。なのに、Satellite Youngのメンバーの見た目はせいぜい30代。後から調べたら、ボーカルの草野絵美は90年生まれで、80年代生まれですらありませんでした。つまりSatellite Youngが描いている「80年代」は、実際には80年代をまったく経験していない人たちの手によるものだったのです。僕はこれがすごい面白いなあと思いました。

 ものすごく当たり前の話ですが、元々「80年代」という言葉は、音楽のジャンルやコンセプトを指す言葉ではありません。にもかかわらず、80年代の音楽って、ジャンルを問わず、なんかこう同じ匂いがします。知らない曲でも「あーこれ80年代だな」となんとなくわかる。

 洋楽に目を向けてみても、80年代のポップスってやっぱり独特です。<Girls Just Wanna Have Fun>のMVで見せたシンディ・ローパー派手なメイクと、オリビア・ニュートン・ジョンの<Physical>のあのチカチカしたMV、あとデュラン・デュランの<Reflex>でステージの上から滝が落ちてくる、今でいうAR映像みたいないやつ。80年代の洋楽と言われて僕がパッと思い浮かぶのはこのあたりなんですが、日本とは多少趣きが違うとはいえ、ギラギラとしたバイタリティに溢れているところは共通しています。

 80年代って、今振り返ってみると、テクノロジーに対する信頼がもっとも厚かった時代という気がします。音楽業界ではそれがシンセやリズムマシーンといった電子サウンドの一般化と、映像との結びつきの強化によるド派手化ショー化になって表れたのかなあと。80年代の音楽が共通してもつ匂いは、そのような「未来に対する無邪気な憧れ」なのかもしれません。90年代のグランジの登場やオアシスのような「古典派」の復権は、享楽的な80年代からの揺り戻しという文脈で捉えられる気もしてきます。

 Satellite Youngを聴いていて、キッパリハッキリとニュアンスを出す80年代的思い切りの良さが、「あか抜けない」ではなく「眩しい」と映るのは、それが(大げさに言えば)未来を信じているがゆえのものだからです。そして、未来を信じていることが「眩しい」と感じるのは、何かとキナ臭い2017年の日本社会に僕が生きているからです。

 この点で、Satellite Youngがやっていることは、単なる80年代サウンドのリバイバルではなく、新たな文脈に基づいた「再発見」と呼ぶべきものだと思います。








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Car10 『Car10』

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大きくなった彼らの背中を
僕は呆然と見送るだけ


 大滝詠一の長年の盟友である音楽家・井上鑑は、初めて『A Long Vacation』のデモを聴いたとき、「曲が“上等”になったな」と感じたそうです。今年6月にリリースされたCar10(カーテン)の新作アルバムを聴いて、僕の頭にパッと浮かんだのも、まさに「上等」という言葉でした。3枚目にして初めてバンド名をタイトルに冠したこの作品は、セルフタイトルに相応しい彼らの最高傑作だと断言できます

 ただし、このアルバムは、2枚目『Rush To The Funspot』(2015年)やEP『Best Space』(16年)の、単なる延長線上にはありません。このことは1曲目<くらい夜に>を聴けばすぐにわかります。

 まずは、この曲が「日本語詞」であること。これまでこのバンドには日本語の曲が圧倒的に少なかったことを思えば、プレイボタンを押すといきなり日本語詞が聴こえてくること自体が意外です。アルバム全体でみても、英語詞と半々くらいのバランスにまで、日本語詞の曲が増えています。新曲は全て日本語詞じゃないでしょうか。

 重要なのは数が増えたことではなく、日本語詞の曲の「存在感」が強くなったことです。<くらい夜に>や2曲目の<マチフェス>といった曲では、メロディへの言葉の載せ方や言葉自体の選び方が過去の日本語詞の曲とはまったく異なります。特に<マチフェス>は川田晋也の脱力ボーカルともかみ合って、相当にユニークな世界観を生んでいます。これまではCar10のことを「英語詞のバンド」と認識している人が多かったと思うのですが、今作を機に「日本語詞のバンド」にパブリックイメージが変わるんじゃないでしょうか

 そして、<くらい夜に>で日本語詞以上に驚くのは、この曲の展開です。サビに入り、これまでならギターがガツン!と鳴って全力疾走し始めるところを、この曲の場合はゆったりしたシャッフルリズムに切り替わるのです。しかも、ビーチボーイズのようなコーラス付きで。

 似たような印象を受けるのはアルバムラストの<Block Party>で、こちらは<くらい夜に>よりもさらにめまぐるしくテンポが変わります。コーラスもやはりビーチボーイズ風。これらの曲に見られる今までになかったアレンジには、完全に意表を突かれます。特にコーラスなんて、絶叫系の「ギャングコーラス」こそ彼らの代名詞だったわけですから。

 ちなみに、インタビューを読んで後で知ったのですが、川田晋也はこのアルバムの制作前に映画『ラブ・アンド・マーシー』を見て、ブライアン・ウィルソン(そしてそこからの大滝詠一)を聴きこんでいたそうです。なので「ビーチボーイズ風」と書いたのは。あながち間違いではなかったらしい。そういわれると<Block Party>の、さまざまなシークエンスをつなぎ合わせながら曲が進んでいく感じは、どことなく<Heroes And Villains>っぽいです。

 んで、話を戻して、結局これまでの作品とアルバム『Car10』は何が違うのか。日本語詞の増加と楽曲のバリエーションが広がったことの2つのポイントで書いてきましたが、それらは単なる「現象」にすぎません。それらの現象の結果として、このアルバムからトータルで受ける印象は、彼らが「大人になった」という言い方が一番しっくりきます。

 今作で最初に公開された楽曲は<マチフェス>でしたが、この曲は過去の楽曲とは明らかに次元が違っています。パンクやインディーの世界を飛び越えて、もっとメジャーでライトな層までをも捉える射程の広さを備えています。僕が冒頭に述べた「上等」という表現で指したのは、この射程の広さのことです。

 彼らがそれだけの器量をもつバンドであることは、例えば『Best Space』の<ミルクティー>などで明らかでしたし、この作品でこれまで以上に人気が広がっていったとしても、それは正当な評価だと思います。ただ、自分自身で勝手だなあと思うのですが、こうなると逆に『Rush To The Funspot』の頃の、あの青さが途端に懐かしくなってきてしまう気持ちもあるのです。一度も後ろを振り返らずに遮二無二前へと突っ込んでいくようなエネルギーが。

 成熟していくことは喜ばしいことなのに、もう二度と元には戻れないことに寂しさも覚えてしまう。そういう感覚を表現すると「大人になる」という言葉が、僕にはもっともしっくりくるのです。

 ただ、最高傑作であることは間違いありません。いつのまにか自分よりも背が高くなった少年の顔を仰ぎ見るような、そんな気持ちにさせられるアルバムです。








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ザ・クロマニヨンズ 『ACE ROCKER』

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「大好きなものがあると
人生は楽しくなる」ということ


 活動してきた全てのバンドのアルバムを持ってるし、本や雑誌のインタビューも大事にとってあるし、自分で作った芝居でも何度も曲を流したし、多分、日本のアーティストで一番多く歌を知ってるのも彼らだと思います。

 にもかかわらず、これまで一度も彼らのことをブログで取り上げなかったのは、受けた影響の大きさを、とてもじゃないけど言葉に言い表せられないと思ったから。それに、この人たちの魅力は既にみんな十分すぎるほどわかってるから、今更僕なんかが語ることなんてないし、そもそも、彼らの音楽を言葉に直すことほど野暮なこともないと思ってました。

 甲本ヒロトと真島昌利。ヒロトとマーシー。

 この2人のことを、多くの人が「変わらない」といいます。確かに、ブルーハーツハイロウズという伝説的なバンドを経て、今なおクロマニヨンズで歌を歌い、ギターを弾き続けてる2人の姿は、「海」とか「山」とかと同じレベルで、いつ見ても変わらない風景という感じがします。あの2人の姿をたまにTVとかで見かけると、「本当に30年以上経ったのかな?」とさえ思います。

 でも、あえて言うけど、僕は、バンドごとに彼らは変わってきたと感じているし、バンドごとに異なる微妙なキャラクターの違いを楽しんでいます。

 ブルーハーツは3つのバンドの中で一番、世の中にコミットしようとしてるバンド。その分だけ、感情が一番爆発してるバンドでもあります。いつか僕がよぼよぼの老人になっても、ひとたびブルーハーツを聴けば、きっと一発でアドレナリンがぶわーっ溢れてきて、胸がいっぱいになるんだろうなあ。

 ハイロウズは、ブルーハーツの反動か、ちょっと世捨て人になった感じ。でも、その分3つのバンドの中でもっとも情緒に溢れ、一番キラキラしてます。音楽的にももっともバラエティに富んでいて、楽しさでいえば僕はハイロウズがNo.1だと思う。

 そしてクロマニヨンズは、ブルーハーツ、ハイロウズに比べると、よりサウンド先行型のバンド。<ギリギリガガンガン>とか<ニャオニャオニャー>とか、曲のタイトルを見てもわかる通り、言葉すらも音とイメージだけで紡ぐようになりました。ひたすら心地よい音とリズムを追求し、そのためには歌詞の意味やメッセージすらも、余分なものとしてそぎ落とす。極限まで肉体を絞り込んだボクサーのようなバンドです。

 ただ、クロマニヨンズの近年の作品では、歌詞にも変化が見られます。例えば、15年のアルバム『JUNGLE 9』に収録された<エルビス(仮)>。この曲の歌詞には、忘れられて朽ち果てていく者の哀れさやいじらしさがあります。聴き終えた後にカタルシスではなく、疲労感にも似た苦い後味が残るなんて、それまでにはなかったことです。


 契機となったのは、12年のアルバム『ACE ROCKER』だと思います。<他には何も><ハル><バニシングポイント>そして<欲望ジャック>という幕開けの4曲には、それまでの作品にはなかったシリアスさがありました。

やらずにいられない ことがあります
やらずにいられない ことをやるだけなんだ
ただ それだけ
他には何も 他には何も 何も何も何も

<他には何も>

 ここには、ブルーハーツのような感情の爆発や、ハイロウズのような詩情ではなく、透明になるまで研ぎ澄まされた、求道者のような姿勢があります。それはまさに、クロマニヨンズというバンドの姿勢そのものです。

 言葉すらも音とみなすという点で、それまでの歌詞は、サウンドとはいわば主従関係にありました。ところが彼らはこの作品でついに、歌詞までもをサウンドと同じストイックな領域に踏み込ませたんだと思います。僕は『ACE ROCKER』でむしろクロマニヨンズが好きになりました。


 ヒロトとマーシー。2人のことを、多くの人が「変わらない」といいます。何が変わらないのか。
50歳を過ぎてもパンクを続けてるのがすごいという人もいれば、それを永遠の初期衝動という言葉で表現する人もいます。2人の体型と答える人もいるかもしれません(あれは本当にすごい)。

 以前、ヒロトがある雑誌のインタビューで、「なんでそんなに長く続けられるんですか?」という記者の質問に対し、こんな風に答えていました。
「よく聞かれるんだけどさ、続けようと思って続けてるわけじゃないの。ロックンロールがすごすぎるんだよ。だってこんだけ続けててもまだ飽きないんだもん。だから長く続ける秘訣を聞きたいならロックンロールに聞いてくれって思うよ」と。

 この言葉を思い出すと、彼らの中でもっとも「変わらないもの」は、「音楽が好き」という気持ちなんじゃないかという気がしてきます。30年以上も音楽が好きで、ロックが好きで、おじさんになってもなお、「僕はこれが好きなんだ」と大声で言い続けてる。僕が彼らの音楽から教わった一番のこと。それは「大好きなものがあると、人生は楽しくなる」ということです。

 クロマニヨンズは結成以来、(ほぼ)毎年1枚アルバムをリリースし続けていますが、今年もまた10/11にニューアルバム『ラッキー&ヘブン』をリリースします。










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Theピーズ30周年日本武道館

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武道館らしくないバンドの
もっとも「武道館らしい」ライブ


この数年、「ベテランバンドの初武道館」がすっかり恒例化しました。
怒髪天(2014年、結成30年目)、フラワーカンパニーズ(15年、結成26年)、
そしてつい先日のコレクターズ(17年、結成30年)。
※思えば09年のピロウズ(09年、結成20年)がその嚆矢だった気がします
そしてつい先日、過去のどのバンドよりも武道館らしくないバンド
ある意味「真打」が、あの八角形の屋根のあるステージに上がりました。

Theピーズです。
6/9、結成30周年で初となる武道館ライブを見に行ってきました。

ベテランバンドの初武道館って、
「苦節何年、ついに光の当たる場所に出てきました…」みたいな
涙の「物語」とどうしてもセットになりがちです。
でもこの日のステージは、3人のキャラクターもあって、
まったく湿っぽくならず、終始笑いの絶えない「お祝い会」といった雰囲気でした。

「物語」はもう十分みんなの中で醸成されているんだから、
それをあえて口に出すのは野暮ってもんだろう。
そういう大人の信頼関係ができあがっていることに、
30年という時間の重さを感じました。

「物語」を明示しないもう一つの理由は、
必要な言葉や気持ちは、楽曲の中で既に語られているからです。
例えば、アルバム版よりもテンポを遅くして演奏された<鉄道6号>
いつも通り、本気と冗談の境界線がわからないゆるいキャラのままのハルが、
やっとこんないいとこまで たどりついてしまった
ああお疲れさんだよ

という冒頭のフレーズを歌ったときの、あのグッとくる感じは、
たとえメンバーが涙を流しながら感動的なMCをしたとしても生まれないでしょう。

そういえば<鉄道6号>だけでなく、
<線香花火大会>や<ドロ舟>、<実験4号>といった、
Theピーズの作品の中でも最も苦いアルバム『リハビリ中断』の楽曲が、
あの場で歌われるとハッピーで楽しい曲に聴こえたことも象徴的でした。



もう一つ、とても印象的だったのは、
「ピーズというバンドは、実は武道館がよく似合う」ということでした。
そうなのです、冒頭にも書いたように、
見る前は「武道館らしくないバンド」とばかり思ってたのですが
実際に見てみたら、武道館の雰囲気が心地よくハマッていたのです。
僕はかなり前の方で見てたのですが、2階席の人も似たようなことを言ってたので、
ステージとの距離の問題ではないようです。

では何が理由なのか。
高音が割れるギリギリ手前のつんざくような雑な感じの音は武道館らしくなくてよかったし、
曲のスケール感も武道館の大きさにまったく負けていませんでした。
特に<バカになったのに>、<底なし>、ラストの<グライダー>はすごい迫力だった。
その一方で、3人のMCは普段通りだから、心理的な距離感は普段と変わらない。
でも僕は、一番の理由は、ピーズだけがもつ客席の熱気なんじゃないかと思います。

終演後、出口に向かう人波の中で、近くにいた男性が、
「ピーズ聴いてる人、こんなにいたんだな」と呟いたのを聞きました。
多分ほとんどの人が同じ気持ちだったと思います。
僕だって、これまで出会った人の中で、
ピーズが好きという人なんて片手で数えられますから。

ピーズは、入口は誰の目にもわかりやすい場所にはないけれど、
一度入り込めばどこまでも奥にズブズブと入り込んでしまうバンドです。
僕が出会ったことのあるピーズが好きな人たちも、
一度口を開いたら、延々とピーズのことを話し続けるような人ばかりでした。

「自分だけがピーズを知っている」という誇りと、
「自分しかピーズを知らない」というさみしさ。
ピーズのファンは、おそらく他のどのアーティストのファンよりも、
「この気持ちを共有したい」という欲求に飢えてたんじゃないでしょうか。

30年分溜まったその欲求を、これまでで一番大きな規模で叶えられるとしたら。
その場所はやはり、武道館という聖地しかなかったと思います。
そういう意味で、僕は今回のピーズのステージこそ、
もっとも「武道館らしい」武道館ライブだったと思います。

今では、「ブレイク前夜」レベルの認知度でも
勢いがある若手アーティストであれば武道館でライブを行います。
武道館は今や到達点ではなく通過点に過ぎないのかもしれません。
そういう時代に「ベテランバンドの初武道館」という物語は、
若い人にはきっと時代遅れに映るでしょう。

でも、たとえ時代遅れだとしても、
僕はピーズのライブのような「武道館」が好きだなあ。






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YUKI 『まばたき』

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わたしは何度でも
「わたし」を歌う


YUKIの通算8枚目のアルバム『まばたき』が3月にリリースされました。

前作『FLY』が非バンドサウンドを中心だったのに対し、
今作は再びバンドサウンド回帰。
YUKIの声はやっぱバンドだろ!と思ってる僕にとっては、うれしい変化でした。

なので、サウンド的には前々作『megaphonic』の路線と基本的には同じ。
曲数も同じだし、曲のタイプのバリエーションも大体一緒。
ところが、アルバム全体を通して聴くと、
聴き心地は過去の作品とはかなり異なります。

それはおそらく、歌詞の変化によるものだろうと思います。

1曲目<暴れたがっている>の一言目は、
「あがいてたら振り出しに戻ってた」
このフレーズでアルバム全体が幕を開けることに象徴されるように、
この作品は、原点回帰や初期衝動といったテーマに貫かれています。

<こんにちはニューワールド>では、函館にいた10代の頃や、
東京に出てきた20代はじめの頃をイメージさせるエピソードが登場し、
終盤「思い出は雨音に紛れ 消えた これからは 私次第」と歌われます。

<私は誰だ>という、タイトルからしてとても若い楽曲では、
「私はあまりいい人間(ひと)じゃない だから地獄に堕ちるかもしれない 時間がない」
「『生きてたい』より『生きたい』」

と、若いがゆえに感じがちな人生の残り時間に対する焦燥感が歌われます。

アルバムを聴いた後でいくつかインタビューを読んでいたら、
やはりYUKI自身も今作のキーワードとして「思春期」という言葉を挙げていました。
「思春期は10代特有のものだと思ってたけど、本当は人生に何度でも起きる」と、
今再び反骨心や自己主張の欲求が芽生えてきたんだそうです。

んで、これがなぜ「変化」なのかというと、
(このブログでフォローし始めた)2010年『うれしくって抱き合うよ』から『FLY』まで、
YUKIの歌のモチーフは基本的には「他者」でした。
家族だったり友人だったり、自分の大切な人への目線がどこかにあったし、
自分を主人公にしている歌でも、それは他者が感情移入し、
自己を投影するための「鏡」としての自分だったように思います。
それが、今作では「自分」をモチーフにした歌を歌うようになったのです。

ソロデビュー15周年というアニバーサリーイヤーゆえの原点回帰、
という面もあるのかもしれません。
歌詞のボキャブラリーはいたってソフトなのですが、
アルバム全体から受ける印象は、青臭いといってもいいほどに若く、
それゆえにどこか不器用でザラついたものです。


「ソロデビュー15周年」と書きました。
それってつまり、ジュディマリ解散の年に生まれた子が、今年高校生になるってことです。
信じられねえ。てゆうか信じたくねえ。

『まばたき』がリリースされるということもあり、
先日SpotifyでJudy And Maryの全アルバムを順番に聴き返しました。
今更ですけど、ジュディマリがメジャーで活動してたのって10年もないんですね。
それなのに『J.A.M』(1994年)から『WARP』(2001年)にいたる猛烈な振れ幅と濃密感。
「ビートルズみてえじゃん!」と思いました。

YUKIはバンド時代から歌詞を書いていましたが、
ソロ時代と比べて聴くと、雰囲気が違うのがわかります。
バンド時代の歌詞は記号的で遊戯的でフィクショナル(<くじら12号>や<そばかす>)、
一方ソロ時代は、今作『まばたき』がまさにそうであるように、
より平易な言葉を好むようになり、リアルさを重視する傾向があります。

僕は個人的には、今こそジュディマリ時代のような、
キャラクター性の強い、フィクショナルな歌詞の方が聴きたい。
ジュディマリが全盛だった10代の頃は今とは逆で、
YUKIの歌詞なんて、ウソ臭くて「軽い」と思ってました。
むしろ、今のYUKIが書くような、生な言葉をストレートにぶつけてくる曲の方が
なんとなく「本物っぽい」と感じていたのです。
皮肉だなあっていうか、「俺ってずれてるなあ」とつくづく思います。

YUKIについては、『うれしくって〜』以来ずっと、
新作が出るたびにこのブログで何かしら書いてきました。
めちゃくちゃ気合い入れてフォローしてるってわけでもないのに、
何かしら言いたくなる、どこかしら気になるアーティストなのです。
それは数少ない、リアルタイムで変化を目撃しているアーティストだからかもしれません。








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The Collectors 『Roll Up The Collectors』

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ファンタジックな未来を語る
「ストーリーテラー」としてのコレクターズ


先週に続きコレクターズの話。
コレクターズは今年結成30周年で、3/1には初の武道館公演を開催しました。
行きたかったなあ。

武道館公演の1か月くらい前だったかな?
彼らがNHK BSの『The Covers』に出演してたのをたまたま見たのですが、
そこで披露した新曲<悪の天使と正義の悪魔>があまりにかっこよくて、
すぐにアルバム『Roll Up The Collectors』を買いました。

いやー、すごい。
キャリア30年でなんでこんなにもフレッシュで、
まるでベスト盤のようなテンションのアルバムを作れるのか。
この作品を聴き終えたときの感想は「圧倒された」という一言に尽きます。

大滝詠一の執筆した原稿や、インタビューや対談での発言をまとめた、
『大滝詠一Writing & Talking』という本があるのですが、
その中でポップソングのメロディには「ドライ」と「ウェット」の2種類がある、
というような言葉があります。
ざっくり言うと、欧米のポップソングのメロディは「ドライ」で、
日本の歌謡曲のメロディは「ウェット」という分類になります。
僕は、前者はクラシック発祥で後者は民謡発祥、という風におおざっぱに理解しています。

んで、この表現を使うのであれば、
僕は以前からコレクターズの加藤さん(どうしてか加藤ひさしは「さん」付けになる)は、
日本では少数派の「ドライ」なメロディの書き手だなあと思ってたのです。
ただ、大滝詠一のドライをアメリカンポップス的とするならば、
加藤さんのドライはイギリス的と呼びたくなります(そんなのがあるのか?)。

イギリス的というのは、アメリカにくらべるとより情緒的でドラマチックで、
もっといえば青臭い感じ(アメリカはもっと産業的で理性的でシステマチック)。
僕は特に、ピート・タウンゼントのメロディとの間に共通するものを感じます。
フーキンクスといったモッズバンドを聴きこんでいた頃は、
どっぷり浸かりすぎて逆に気付けなかったのですが、
両者とも、オープンDコードをジャーンと弾く!みたいな衒いのなさと、
妙に生真面目で物語性の強いところがそっくりな気がする。

一方で、僕は『Roll Up The Collectors』を聴いて、コレクターズの中にある、
レトロでクラシックなモッズというスタイルとは真逆のキャラクターも感じています。
それは、歌詞にみられる「近未来的な世界観」です。

例えば<ロマンチック・プラネット>では宇宙人が登場します。
<That’s Great Future>はタイトルからして既に「未来」ですが、
前後左右にも動くエレベーターやレストランで食事を運ぶドローンといった光景が歌われます。
こういった、近未来をイメージさせるアイテムが、
コレクターズの歌詞の中にはちょいちょい登場します。

過去に目を向けても、タイムマシーンが登場する<僕の時間機械>などの曲もそうですし、
そもそもデビュー曲<僕はコレクター>の「コレクター」という概念からして非常に未来的です。

重要なのは、これらのアイテムは歌詞の中で近未来そのものを描くためではなく、
「恋人と過ごしていたあの頃に時間を戻してほしい」と歌われる<僕の時間機械>のように、
あくまで普遍的で素朴な感覚を歌うメタファーとして使われていることです。
PerfumeやかつてのTM Networkが体現するのが、
先端的なテクノロジーに彩られた「ありえそうな未来」だとしたら、
コレクターズの描くのは「ファンタジーとしての未来」といえるかもしれません。

何らかの感情を表現する際にどんなものに例えるかによって、
そのアーティストの個性が表れるとすれば、近未来的アイテムを選ぶ感性は、
少なくとも僕がこれまでなんとなくとらえていた「コレクターズ像」からすると意外なものです。
ですが、この「ファンタジーとしての未来」を軸にすると、
おしゃれすぎるモッズファッションも、
加藤さんのキッパリハッキリしたボーカルも、
実は元々「ファンタジーとしての未来」を物語るための仕掛けだったようにも思えてきます。
つまりコレクターズが、デヴィッド・ボウイにも通じるような、
演劇的な感覚に満ちたストーリーテラーのように見えてくるのです。

前述の『The Covers』で、コレクターズは「同期のバンド」としてブルーハーツを挙げ、
<リンダリンダ>をカバーしました。
僕がブルーハーツの<リンダリンダ>に「おおお!」となったのはまだ10代の頃でした。
それに比べ、コレクターズの音楽にハッ!としたのは20代の終わりになった頃。
「同期」でありながらこのようなタイムラグが起きたのは、
コレクターズの方は、彼らの代名詞でもあるモッズのファッションや音楽スタイルが、
実はストーリーテラーとしての衣装であり仕掛けにすぎないという、
目に見えるものとその内側とに微妙なギャップがあり、
それを(少なくとも僕は)大人になるまでわからなかったからじゃないかという気がします。








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The Collectors 『The Rock'n'roll Culture School 〜ロック教室〜』

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「楽曲提供」という
不思議なトリビュートの形


スタイルもジャンルも異なるアーティストが一堂に会し、
あるアーティストの楽曲をそれぞれの歌い方、
それぞれのアレンジでカバーすることで、
元々の楽曲の新しい見え方が提示され、そのアーティストへの理解や思いが一段と深くなる。
そして同時に、カバーする側の個々のアーティストにも興味が湧いてくる――。

それがトリビュートアルバムの意義であるとしたら、
昨年12月にリリースされた銀杏BOYZのトリビュート『きれいなひとりぼっちたち』は、
本当に素晴らしいトリビュートアルバムでした。
トリビュートって、少なくとも僕は継続的に聴く作品ではないのですが、
『きれいなひとりぼっちたち』に関しては、
リリースから3か月経つ今も頻繁に聴き続けています。

麻生久美子の<夢で逢えたら>も、クボタタケシRemixの<ぽあだむ>も、
Going Under Groundの<ナイトライダー>も本当に最高。
ミツメの<駆け抜けて性春>なんて「卑怯だ!」とすら思います。
聴くたびに「ああ…銀杏は最高だなあ」という思いを改めて噛みしめると同時に、
食わず嫌いだったクリープハイプにも興味が湧いてきます。




ただ、世の中には「カバー」という形ではなく、
まったく別のスタイルでアーティストへのトリビュートを示したアルバムもあります。
その一つが、『きれいなひとりぼっちたち』にも参加しているコレクターズのトリビュートアルバム、
『The Rock'n'roll Culture School 〜ロック教室〜』

2006年にリリースされたこのアルバムは、
他のアーティストがコレクターズをカバーするのではなく、
コレクターズのために曲を書き下ろし、それをコレクターズ自身が歌う
という形をとっています。

楽曲を提供したアーティストは、
奥田民生、真島昌利、山口隆、曽我部恵一、ヒダカトオルスネオヘアーなど、
記名性の高い楽曲を書く、“濃い”メンツばかり。

山中さわお曰く、みんなコレクターズが大好きなので、
ぞれぞれが一番出来のいい楽曲を用意してきたらしく、
さながらトリビュートする側の意地の張り合いのようなところがあったそうです。
実際、例えば松本素生の書いた<19>などは、
「なぜ自分のバンドでやらないんだ?」と思うくらいの超絶名曲。
ヒダカトオルの<LAST DANCE>なんかもめちゃくちゃかっこいい。

しかも、コレクターズのために書き下ろしたとはいえ、
それぞれの楽曲には各アーティストの個性が発揮されているので、
コレクターズがGoingやビークルをカバーしているようにも聴こえてきて不思議です。

ただ、結局何よりすごいのは、
バラバラの色をもった楽曲を全て受けて立って、さも当然のように歌い倒す、
当のコレクターズ自身です。
だって、このアルバムを聴き終わって何が一番印象に残るかといえば、
結局加藤ひさしの声なんだもの。
トリビュートアルバムは基本的にVarious Artistsのコンピレーションですが、
このアルバムについては、間違いなく「コレクターズの作品」になっています。

各ソングライターの個性を感じられる一方で、
コレクターズの作品という説得力もある。
なんとも言えない、不思議な味わいが残る作品です。






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