週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【ロック】日本のロック

ザ・キングトーンズ『Soul Mates』

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「口当たりの良さ」にこそ
彼らの歴史が表れている


 今年2月、ザ・キングトーンズのリーダーでありメインボーカルの内田正人が亡くなりました。82歳でした。

 キングトーンズといえば<グッドナイト・ベイビー>ですが、僕にとって<グッドナイト・ベイビー>というと真っ先に思い出すのは第三舞台の『朝日のような夕日をつれて』です。あの作品の序盤で、第5のキャラクター「少年」が登場するときに流れるのが、この曲でした。

 派手な衣装を着た役者が振付つきで歌うという演出のインパクトもあって、僕はこの曲のことを長らくムード歌謡の一つとしか見ていませんでした。グループとしてのキングトーンズ、そして彼らのキャリアのなかでの<グッドナイト・ベイビー>というものを自分なりに解釈できるようになるのは、ドゥーワップを聴くようになってからのことでした。



 日本では現代にいたるまで、海外で最新の音楽スタイルが生まれると、耳の早いアーティストやミュージシャンが輸入してきて、カバーしたり自作曲に取り入れたりしながら、あの手この手で日本のマーケットに浸透させる、というパターンがあります。ドゥーワップに関しては、間違いなくキングトーンズがその「輸入業者」の代表格でした

 結成は1960年(母体となるグループは58年)。内田正人は「プラターズの<Only You>をカバーしたい」という動機でグループを作ったと語っていますが、<Only You>のリリースって1955年なので、当時の情報伝達速度を考えると、かなり早いリアクションだったのではないでしょうか。

 今聴くと「<グッドナイト・ベイビー>のどこがドゥーワップ?」と感じるかもしれません。しかし50年も前に、本場のフィーリングをそのまま持ってきて受け入れてくれるリスナーが、果たしてどれだけいたかは疑問です。あくまで演歌や歌謡曲をベースにしつつ、ファルセットやコーラスといったエッセンスをまぶしながら、徐々にリスナーを啓蒙し、開拓していくしかなかったわけで、<グッドナイト・ベイビー>のもつ昭和歌謡とドゥーワップが混じりあったような不思議な味わいには、そんなパイオニアの苦闘が表れています。(実際、彼らのレコードデビューが69年にまでずれこんだのは、歌謡曲化してしまうことを躊躇したからといわれています)

 シングル<グッドナイト・ベイビー>のB面は<捨てられた仔犬のように>という曲なんですが、メンバーの加生スミオが書いただけあって、グループの個性をそのまま出したような黒っぽい曲になっています。A面の取っつきやすさとB面の個性というメリハリもまた、彼らなりの折り合いの付け方のように見えます。



 そんなキングトーンズの代表的なアルバムといえば、なんといっても81年の『Doo-Wop! STATION』なのですが、僕はあえて『Soul Mates』(95年)を選びたい。グループ結成35年周年の記念盤で、高野寛や大沢誉志幸、上田正樹、佐野元春といった多彩な作家が曲を提供しています。

 スタンダードナンバーを中心に選曲された、ドゥーワップグループの面目躍如ともいうべき『Doo-Wop! STATION』に比べると、作家陣書き下ろしの新曲が中心の『Soul Mates』は、よりレンジの広い「ポップスアルバム」といった仕上がりです。けれど、この口当たりの良さと消化力の高さにこそ、キングトーンズというグループの歴史が表れているように思うのです

 白眉はなんといっても、1曲目に収録された、作曲山下達郎、作詞伊藤銀次の<Down Town>。僕はシュガーベイブ版しか知らなかったのですが、実は元々、75年前後に山下・伊藤コンビがキングトーンズの15周年記念盤への提供曲として作った曲だったのです(紆余曲折を経て当時はお蔵入り)。20年の時間を経て、本来歌うはずだったキングトーンズの元へ曲が帰ってきたことになります。

 キングトーンズ版の<Down Town>は見つからなかったので、カバーを2曲貼ります。なんてすばらしい歌声。








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Family Basik『A False Dawn And Posthumous Notoriety』

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秘密の場所で作り続けた
自分だけの「最終兵器」


 10代の頃、僕にはいくつかの「好きなもの」がありました。ギターだったり、アニメだったり、特撮だったり、そのときどきで対象は変わったのですが、共通していたのは、どれも「一人で楽しむもの」だった点でした、クラスには他にもアニメが好きな友達はいたし、バンドを組んだりもしたけど、その対象に情熱を注いでいる時間の大半は、一人でした。

 だから、僕が世界で一番好きな場所は、学校でも放課後の街でもなく、自分の部屋でした。家に帰って部屋に入りドアを閉めた瞬間が、楽園の時間の始まりでした。エヴァの第13話『使徒侵入』を1日に何回も繰り返し見たり、マクロスの<愛・おぼえていますか>を流しながら朝までギターとキーボードで耳コピしたり、部屋は僕にとってまさに秘密基地であり、どこまでも自由な場所でした。

 加藤遊加藤りまによる兄妹デュオFamily Basikが、2014年にリリースした1stアルバム『A False Dawn And Posthumous Notoriety』を聴いて最初に思い浮かんだのは、一人部屋で過ごしたそんな時間のことでした。

 古ぼけたラジオから記憶のトンネルをくぐりぬけて聴こえてくるような遠い音。誰にも向けられていない独り言のようなボーカル。自己主張が少ない、パステルカラーのように淡いメロディ。このアルバムにはどこにも「他者」の存在が感じられません。そのような閉鎖性と、閉じているからこその甘美さが、部屋で過ごしていた時間にそっくりなのです。

 メインコンポーザーは兄の加藤遊ですが、妹りまが以前組んでいたフォークデュオ、ストロオズや、後にソロで出したアルバム『Faintly Lit』(←素晴らしいアルバムです)を聴いていると、彼女の影響も非常に大きいように感じます。ちなみに、2人の父親は村八分でベースを弾いていた加藤義明だそうです。サウンドの表層はだいぶ違いますが、インディースピリットみたいなものは父子でそっくりですね。

 Family Basikは18年に2枚目のアルバム『Golem Effect』をリリースしましたが、世界から隔絶された場所で誰にも知られずに作っていた最終兵器のような1stに比べると、2ndは外の世界に開かれた作品になっています。僕は断然1stのほうが好き。

 でも、僕が1stのほうに惹きつけられるのは、「ベッドルームポップ」という言葉の極致のような閉鎖性(とそこから生まれる甘美さ)だけではありません。その甘美さと背中合わせで、「孤独」や「さみしさ」といった感情も一緒に含まれているからです

 誰にも干渉されない自分だけの世界。誰も知らない自分だけの秘密の楽しみ。それは裏を返せば、誰とも共有できないということでもあります。「好き」を追求すればするほど、誰かとその「好き」を分かち合うことからはどんどん離れていきました。そういう痛みの感覚もまた、このアルバムの音には込められているように思います。

 いま大人になってみると、そんなほろ苦さをひっくるめて、すべてを懐かしく感じます。「ほろ苦い」などと使い古された表現で茶化してしまえるほど、今の自分はさみしさや孤独といったものに鈍くなってしまいました。いま、僕が痛みを感じるとしたら、10代の頃からずいぶんと遠いところまできてしまった、その距離に対してかもしれません。








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佐野元春『Rock & Roll Night Live At The Sunplaza 1983』

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リスナーが待ち望んでいたものが
すべて「そこ」にある


 すげえライブアルバムと出会ってしまいました。佐野元春『Rock & Roll Night Live At The Sunplaza 1983』です。

 映画『No Damage』に映ってたのが、まさにこのときのライブですよね、たしか。映画を見たときも「かっけえなあ」と思ったんですけど、映像が無い分、かえってこっちのアルバムの方がライブのすさまじさを端的に伝えてくる気がしました。

 じゃあ何がすごいのか。大きく2つあります。

 まずは演奏のエネルギー。佐野元春とザ・ハートランドって、都会的で洗練されてて、汗なんかかきそうにないイメージがありますよね。でもこのライブの彼らはまるで暴走列車。猛烈なエネルギーとスピード感は、ほとんどパンクです。10分超の壮大な<ロックンロールナイト>を終えてからの<悲しきRADIO>の高速イントロは、なんかもう涙が出そうでした。

 ライブ盤の醍醐味の一つに、スタジオ音源とは異なるアレンジやニュアンスを聴くことで、アーティストのその曲に対する解釈や音楽的バックグラウンドを知ることが挙げられます。そういう意味でいうと、このアルバムから感じる佐野元春(とハートランド)は、非常にビートを重視するアーティストだということ。

 ビート、つまりリズムでありリフです。彼の場合は、それをギターではなくピアノとサックスで表現しようとしたところに独自性がありました。日本語ロックのイノベーターとして歌詞が注目される佐野元春ですが、実はその前提として、言葉を乗せるビートへのリテラシーが極めて高い人なんだということを、このアルバムは証明しています。佐野元春とほぼ同時代に、同じく日本語ロックのブレイクスルーを果たした桑田佳祐と初期サザンが、同じく「リズムのグループ」であったことは、必然的な符合なのでしょう。

 もう一つのすごいところは、観客の熱狂です。観客の熱狂と、それを受ける佐野元春とが生み出す会場全体の空気、みたいな風に表現したほうがいいかもしれません。なんていうんでしょう。どんな曲を演奏しても、そのすべてが観客が待ち望んでいたサウンドや歌詞にぴったりとはまるような、無敵の全曲アンセム感

 時代と呼吸してるっていうんでしょうか。メディアによる作られた流行なんかじゃなくて、街のストリートから押し上げられてきた「俺の」「私の」ムーブメントって感じがするんですよね。リスナーと深くコミットしてるからこそのアンセム感だってことがわかるから、余計にグッときます。

 歌詞のところどころには、今の感覚からすると正直古いなって感じるワーディングはあるし、MCのあの話し方なんて何度聞いても笑っちゃいます。そういう意味では、83年当時を生きていた世代だけのテンポラリーなムーブメントではあるわけです。

 にもかかかわらず、2018年の今聴いてもこのアルバムの佐野元春を「かっこいい」と感じることは、改めて考えると不思議です。ライブアルバムって瞬間を切り取るものですが、同時にその場の熱気やアーティストの体温すらも封じ込めるから、かえってスタジオ音源よりも古びないのかもしれません

 でも、このアルバムを聴いてちょっと悲しくなるのは、ロックというフォーマットが今ではもう現実とコミットする力を失い、趣味的で享楽的な音楽に変わってきていることが、逆説的に分かるからです。もちろん、それはアーティストだけの責任ではなく、声を上げなかったリスナーにも責任があるのかもしれません。そういうのをひっくるめて、ロックの役割は終わったといえるのかもしれません。感動が深い分、最後に苦い気持ちになるアルバムでした。








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平成が終わる前に「ZARD」を語ろう〜最終回:「音楽とはメロディだ」と信じられていた時代〜

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これまでの話
#第1回:ビーイングという名の「工場」
#第2回:カノン進行職人「織田哲郎」現る
#第3回:「アルバムアーティスト」としてのZARD
#第4回:OH MY LOVEという名の「惨劇」<前編>〜
#第4回:OH MY LOVEという名の「惨劇」<後編>

 年明けから延々書いてきたZARDの話も、今回でようやく最終回です。とはいっても、元々書こうと思ってた話は前回で終わっているので、今回は余談的な内容。「なぜ今ZARDのことを書いたのか?」です。

90年代に「思い入れが薄い」

 きっかけは、大きく二つあります。

 ひとつは、以前書いた『カセットテープ少年時代』の話に遡ります。あの記事で僕は「80年代ブームが過ぎればその次に90年代ブームがくるはず。80年代と違って90年代は自分が当事者として過ごした時代。ブームが到来したとき、自分は当事者として、何がそこで語られれば納得できるのだろう」と書きました。

 実は、あのときにはうまく書ききれなかったことがあります。それは、「当事者」と書いたものの、こと音楽に関して言えば、実は90年代に対して僕自身はそこまで思い入れが持てていない、ということでした。先日、たまたま自宅にあるCDを60年代、70年代、というふうにリリース年別に分類していたのですが、一番少なかったのが90年代でした。自分が青春時代を過ごし、世の中的にもCDがもっとも売れた時代だったにもかかわらず。

 そういう自分に、90年代という時代について納得できるものや、ましてや語れるものって何があるんだろうかという疑問が、折しも新元号への改元に伴い「平成の総括」が流行り始めたこともあって、むくむくと大きくなってきたのです。ちなみに、去年の暮れにサザンについて書いたときに、70〜80年代ではなく、あえて90年代の曲を取り上げたのも、実はこのことが頭にあったからでした。

 一方で、ここ数年「洋楽邦楽問わず、最近の曲って、メロディがあまり重視されてないんじゃないか」という感覚を抱くようになったことも背景の一つにありました。漠然とした言い方になりますが、「曲というものが歌(メロディ)ではなくグルーヴによって作られるようになった」「メロディは歌ではなくグルーヴの一要素になった」、そんな感覚です。

 音楽そのもののトレンドがグルーヴ重視になったのかもしれないし、アーティスト自身が曲を作って歌う自作自演が当たり前になり、メロディは他人に提供するものから自分で消化するものに変わったことで、アーティストのメロディに対する意識が相対的に低くなったといえるのかもしれません。ポップスにおけるメロディの位置づけの変化自体は歴史の自然な流れとしても、僕個人としては職業作曲家の手によってメロディが今よりも“立って”いた時代の音楽のほうに愛着があります。

 そう感じるようになったのは、ここ数年よく聴いている1950年代後半から60年代前半にかけて、リーバー&ストーラーやゴフィン&キングといった職業作曲家が活躍した時代のアメリカンポップス、俗に「ブリル・ビルディング・サウンド」とよばれる音楽からの影響があります、また、その日本版といってもいい松田聖子薬師丸ひろ子といった80年代アイドルの音楽からの影響もあります。

 以上に挙げた「90年代とは?」と「メロディはどこへいった?」という2つの関心のベクトルが、僕の中でちょうど交わったところにいたのが、ZARDだったのです。

「3つの時代」に分かれる90年代

 ところで、当時の空気を実際に吸ったひとりとして90年代という時代を振り返ってみて思うのは、音楽に関しては大きく3つの時期に分かれていたということです。

 まず前期は91年から94年の夏まで。米米CLUBの<君がいるだけで>が爆発的にヒットし、B’zがハードロック路線を定着させ、CHAGE&ASKAが怒涛の快進撃を見せ、ミリオンセラーが急速に日常化した時代です。僕らの世代の大半は、この時期にCDを初めて買ってるはずです(僕の年齢だとチャゲアスの<SAY YES>が定番でした)。ZARDもこの時期に含まれます。

 この時代に主力となって活躍したアーティストは、ほとんどが80年代にデビューした人たちでした。なので、90年代に入ったといっても楽曲のもつ雰囲気はどこか80年代の余韻が残っていたように思います。

 中期は94年夏から97年いっぱいまで。この時期はなんといっても小室哲哉です。94年の夏に出た篠原涼子<恋しさとせつなさと心強さと>とtrfの<Boy Meets Girl>が、まさに時代の幕開けを告げる号砲でした。ここから始まるえげつないまでの「小室時代」については周知の通り。

 小室哲哉自身は80年代から活動していましたが、彼がこの時代に手がけたアーティストはどれも新人ばかりでした。音楽的にもそれまでの邦楽にはないほどダンスミュージックに傾倒していて、実質的な「90年代」の始まりはこの時期だったと思います

 一方で、Mr. ChildrenやJudy And Mary、The Yellow Monkeyといった90年代に入ってからデビューしたバンドが人気を獲得します。これらのバンドは80年代のHR/HMの流れからは切り離された「90年代のバンド」と呼ぶべき一群で、彼らが認知されていくことで、ZARDをはじめとする80年代の流れを汲んだビーイング勢は徐々にその役割を終えていきます。

 よく覚えているのが、織田哲郎のプロデュースでデビューした相川七瀬です(95年)。当初2〜3枚のシングルは大ヒットしたし、未だに僕ら世代の女性はカラオケ行くとかなりの確率で彼女の曲を歌いますが、個人的にはああいう「ロック=不良」みたいなイメージ戦略は、当時の時点ですでに古臭く映っていました

 そして、後期は98年以降の時代。98年に何があったかというと、まず2月にMISIAが<つつみ込むように…>でデビューします。続いて5月に椎名林檎が<幸福論>でデビュー。そしてなんといっても宇多田ヒカルの登場です。彼女が12月に<Automatic>でデビューします。

 宇多田ヒカルのデビューを小室哲哉自身が「自分の時代の終わりがきたと感じた」と語っているように、彼女たちのように豊かな音楽的バックボーンをもち、訓練された技術をもつ本格派SSWがデビュー当初から一気に支持を集めたのは、オーディションで選ばれた素人を歌手デビューさせて稼ぐ小室時代的スタイルに対する「そういうのはもういいよ」の表れだったと思いますハイスタミッシェルというモロに海外と直結したグループがこの時期に前後して人気を拡大したのも、やはり大きくはこの文脈だったんじゃないかと思います。

 個人的にインパクトが強く残っているのはMISIAです。当時僕が知るレベルをはるかに超えた歌の上手さでした。上手いというか、声の質も曲調も何もかもが、それまで聴いていた日本の音楽とは根本的に違っているように感じました。余談ですが、今から10年ほど前にMISIAの歌を生で聴く機会があったのですが、本当にすごかったです。CDよりも上手いと思いました。僕が生で歌を聴いたことのある歌手のなかでは、いまだにMISIAがNo.1です。

「職業作曲家」はどこへいった

 話を元に戻します。

 職業作曲家は、レコード会社や音楽出版社から依頼を受けて曲を作ります。そこで重視されるのは、曲を通じて作曲家自身が自己表現をすることではなく、いかにクライアントのニーズを満たすか、そしていかにターゲット層に聴いてもらえるかです。そのようにして作られるメロディは、必然的に狙いが明確で形がハッキリしたものになるはずです。僕が「メロディが重視されなくなった」と感じるのは、職業作曲家の減少と無縁ではないと思うのです

 90年代の中期から後期への流れを今振り返ってみて、つくづく悔しいな〜と思うのは、小室哲哉やつんくによって「プロデューサー」という職業が脚光を浴びたものの、それが音楽を聴く際の切り口の一つとしては根付かずに、「有名タレントがプロデュースした●●」みたいな形でしか発展しなかったことです。「プロデューサー」が宣伝文句の一つに矮小化され、その反動として椎名林檎や宇多田ヒカルといったSSWが一挙に人気を集めたことが、結果的には「職業作曲家離れ」を加速させたんじゃないかという気がします。

 そういう意味でZARDは、職業作曲家が裏方に徹していて、なおかつヒットを放っていた最後の時代に位置するアーティストの一人でした第1回でZARDの所属レーベルであるビーイングをフィレス・レコードに例えたのは、単に音楽の生産システムだけを指していたわけではなく、音楽そのものも僕には似ているように映っていたからでした。

 先ほど僕は実質的な90年代の始まりは、小室時代が幕を開ける中期からと書きましたが、僕個人の好みとしては90年代前期がもっともフィットするので、中期以降の「90年代の音楽」に思い入れが持てないのはそのへんが関係しているのかもしれません。

「意外なところ」に息づいていた遺伝子

 と、なんとなくネガティブなトーンで話は終わりそうなんですが、実はつい最近、(僕が個人的に考える)職業作曲家の空気を、ある人の楽曲に発見しました。誰あろう、米津玄師です。

 彼が作詞作曲した<パプリカ>という曲が、娘とよく見るEテレの番組で流れるのですが、この曲が不思議と耳に残るんですね。いい意味でサラッと聞き流せないというか、お風呂でついつい口ずさんじゃうようなフックがあって、娘もこの曲が流れると必ずTVをじっと見つめます。ということでパパはこの曲のコード進行を調べてみたんですが、とても面白い構成をしていたんですね。

<パプリカ>コード進行

 AメロはAで始まり、BメロはF#m(つまり平行調)に変わります。本来であればBメロラストでF#mもしくはAのドミナントのEとかに持っていくところですが、実際にはF#に切り替わって、そこから長2度上がってサビでBに転調するのです。つまり、BメロのF#mの同主調であるF#にまず移行して一瞬の「揺らぎ」を表現し、さらにそのF#をドミナントに利用してBに転調しているのです。



 非常にロジカルで、ロジカルだからこそとてもシンプルで、見ているだけで楽しいコード進行です。ちょうどブログを書いていたタイミングだったのもあり、織田哲郎栗林誠一郎がZARD楽曲でたびたび見せてきた職人芸の数々と<パプリカ>には重なるものを感じました。

 娘といえば、日曜朝9時にテレ東で放映している少女向け特撮ドラマ『マジマジョピュアーズ』では、今やあまり聴かなくなった「大サビ半音上げ盛り上げ転調」がガンガン使われていて、これも驚きでした。

 職業作曲家って減ったなあと勝手に思っていたけど、子供向けのプログラムにはちゃんと息づいていて、その職人技はちゃんと若いリスナーの耳に向けて発揮されているんですね。そのことを自分の娘から教えてもらったことにしみじみとしたのでした。はい。






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平成が終わる前に「ZARD」を語ろう〜第5回:OH MY LOVEという名の「惨劇」<後編>〜

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これまでの話
#第1回:ビーイングという名の「工場」
#第2回:カノン進行職人「織田哲郎」現る
#第3回:「アルバムアーティスト」としてのZARD
#第4回:OH MY LOVEという名の「惨劇」<前編>

 前回の続きです。ZARD史上最高傑作『OH MY LOVE』の、その最高傑作たるゆえんが、ラスト2曲。9曲目<来年の夏も>(#9)、と10曲目<あなたに帰りたい>(#10)です。

『OH MY LOVE』収録曲
#1 Oh my love
#2 Top Secret
#3 きっと忘れない
#4 もう少し あと少し…
#5 雨に濡れて
#6 この愛に泳ぎ疲れても
#7 I still remember
#8 If you gimme smile
#9 来年の夏も
#10 あなたに帰りたい

「強がり」と「本音」の間で揺れ動く

 #9は「来年の夏も大好きなあなたと一緒にいたい」というシンプルなテーマのラブソング。耳触りのよいボサノヴァ調のアコースティックギターもあって、ようやく平穏が訪れたかのように思うのですが、引っかかるところが2つ。

 ひとつは、冒頭の歌詞「同じ血液型同士ってうまくいかないというけど 私達例外ね 今も2年前の気持ちと変わらない」に出てくる「2年」という数字が、#7で出てきた数字とピタリと重なること。#7では、付き合ったけど結局別れてしまう(その悲しみはちっとも癒えない)までの時間として「2年」が出てきたので、不気味な符合です。

 そしてもうひとつは、この曲の異様な構成です。最初はボサノヴァ調で始まるこの曲は、中盤でハードロックに変化、ブリッジを経た大サビからさらにギアが上がり、最後は40秒以上にも及ぶ壮大なピアノソロになだれ込むという怒涛の展開を見せます。もはやプログレのような、異様なまでのハイテンション。

 僕はこのアルバムを初めて聴いたとき、最後に「ジャンジャジャンッ!」とピアノが締めた瞬間、「これでエンディングだな」と思いました。アルバムのストーリーとしても演奏のテンションとしても、「もうこれ以上はないだろう」と納得させるなにかがあるように感じました。

 ところが、これで終わらないのです。ラテン風の乾いたギターの音とともに#10が始まります。そしてギターがひとしきりフレーズを弾き終わると、今度はピアノが入り、なんとも寂寥感のあるメロディを奏で始めます。この曲のイントロは90秒。ZARDの全ての曲のなかで最長級です。

 そして歌が始まります。最初のフレーズは「泣いてばかりいた あなたと別れてからずっと」。そうなのです、なんとここで再び別れの曲になるのです。ただし、#5#7のように別れの直後ではなく、「もうすぐ桜の咲く頃 この頃変わりました」とあるとおり、別れてから一定の時間が過ぎたタイミングに視点が設定されています。

 そしてサビ。「髪を切って明るい服を着て 目立たなかったあの日の私にgood-bye」と、悲しみを乗り越えるためにあえてそれまでの自分とは違った外見になったことが綴られ、もし街であなたに「今度会っても そう気付かないでしょう」と続きます。そして締めのフレーズが「そしてもう一度 あなたに帰りたい」

「私に気付かない」ことが、なぜ「もう一度あなたに帰りたい」につながるのか。それは、気付かれないことで「あなた」との最後の繋がりが断たれ、その瞬間に私の中の未練も無くなる。そうなって初めてあなたのことが思い出に変わる。つまり「あなたに帰りたい」というのは、「復縁したい」という意味ではなく「あなたを乗り越えたい」という意味のレトリックなのだ。そう考えれば、痛々しさには満ちているけれど、とても力強く前向きな響きがあります。

 ところが、です(今回何度「ところが」「しかし」と書いただろう)。2コーラス目、そして大サビになるとこの肝心の部分の歌詞が変わるのです。「今度会ったら私に気付いてね そしてもう一度悲しい思い出にgood-bye(大サビは”そしてもう一度 あなたに帰りたい”

 やっぱり気付いて欲しいのかーい! いや、もちろん気持ちはわかる。むしろ「気付いて欲しい」と思うほうが自然だと思う。でも、「きっとあなたは気付かない(=それでいい)」で締めていれば美しかったのに、あえて「やっぱり気付いて欲しい」という本音をその後に持ってくるのは、良くいえば正直、悪くいえば身もふたもない。

 でも、強がりと本音の間で揺れ動くさまは、実はアルバム全体を通じて何度も繰り返されてきたことでした#1、#2と来て#3で落とすのも、直後の#4で歌われる情念も、#6のシリアスさの後で#7の身もふたもなさがくるのも、結局は人と人が愛し合うことの綺麗ごとだけではすまないリアルさを表しているように思うのです(ここまでくれば、前述の#7#9との「2年」の符合は意図的と考えるべきでしょう)。

 そして、それがもっとも凝縮されているのが#9#10の2曲でした。もっと言ってしまえば#9のアウトロから#10のイントロ終わりまでの2分強。歌詞こそないものの、終わった!と思っても終わらないというあの展開そのものに、今作のテーマが端的に表れています。この2分強こそ、ZARDというアーティストの創造性が、全キャリアを通じてもっとも発揮された瞬間だったと思います

「落差」をコントロールする職人芸

 それにしても、なぜこの『OH MY LOVE』というアルバムは前作『揺れる想い』とは真逆と言ってもいいトーンに変わったのでしょうか。しかも、明らかにコンセプチュアルな意思のもとに。

 まず挙げられるのは、第1回でも書いたように、プロデューサーの長戸大幸はじめビーイングのクリエイターの多くがロック畑出身で、トータルアルバム志向が自明のものとして共有されていたからだろうという点です。坂井和泉によるセルフプロデュースに切り替わった『Today Is Another Day』以降、ベストアルバム的内容に変わったことが、それを逆に証明しています。ビーイングのスタッフたちは、商売人として売れるシングルをガンガン切りながらも、一方でアルバムにはポップさを残しつつシングルとは異なる創造性を追求していた。個人的には、なんとなくそういうロマンを見たくなります。

 ただ、そのうえで、このアルバムを支えた重要なファクターとして挙げたい人物が3人。

 ひとりはアレンジャーの明石昌夫。実はこのアルバム、収録曲全てが彼のアレンジです。ZARDでアルバム1枚が丸々ひとりのアレンジャーに投げられたのは、後にも先にもこの1作のみ。前期ZARDのアレンジャーというと明石昌夫と池田大介、葉山たけしのトリオですが、明石昌夫が3人のなかでもっともロック寄りです。別の言い方をすれば、派手で、重たく、ケレン味が強い。前述の#9アウトロ〜#10イントロなんかはまさにこの「ケレン」の部分が生きています。全編、明石昌夫のトーンで統一されていたということが、このアルバムの世界観をより強固にしていると思います。

 ふたり目は、他ならぬ坂井和泉です。第1回からここまで、ほとんど彼女について触れてきませんでした。しかしZARDとは言わずもがな坂井和泉そのものであり、ここまでたびたび書いてきた「透明感」「さわやか」といったZARDのパブリックイメージも、つまりは坂井和泉のイメージということです。

 そのイメージの根拠となっているのは、彼女のビジュアル以上に、彼女の作る歌詞の力が大きいのではないかと僕は思っています。たとえば「負けないで」「揺れる想い」「きっと忘れない」のように、シンプルだけどインパクトのあるパワーワードをサビの頭にぶつけて、しかもそれを曲タイトルにまでしてしまうという、ある種キャッチコピーのような歌詞の作り方は、ZARDの都会的で清潔感のあるイメージを大きく支えていました。

 しかしここまで見てきたように、『OH MY LOVE』の歌詞には、個々の曲を1つのシーンとしながら、それをつなげることで大きなストーリーを作ろうという意図が見えます。しかも、新しい恋人のことを想像して「きっと私より素敵な人に違いない」と自虐的になったり、不倫相手の生まれた家を訪ねるというエキセントリックな行動を取ったり、あるいは「乗り越えた」と口にはするものの、やっぱりあなたのことが忘れられないと告白したりと、J-POPというよりも演歌に近いような情念的な世界で統一しようとしているところも、従来にはほとんどなかったことです。

 コピーライター的な歌詞が、一瞬のインパクトで鮮烈なイメージを残そうとする絵画的な手法だとしたら、『OH MY LOVE』の歌詞の作り方は、アルバムという長い時間軸のなかで統一された世界を作ろうとする映画や小説の手法です。坂井和泉のこうした作家性は、この作品を「トータルアルバム」にするうえでは不可欠なものだったはずです。余談ながら、僕は坂井和泉の評価すべきポイントは何よりも作詞家としての彼女だと思っています。

 そして、最後のひとりが栗林誠一郎です。このアルバムでは10曲中6曲が彼の作曲。1枚のアルバムに占めるひとりの作曲家の曲数としては、ZARD史上最多です。そして、前作『揺れる想い』は織田哲郎カラーに寄せていたと書きましたが、このアルバムでは栗林本来のテイストがふんだんに発揮されています。それは前回も書いた通り、コードでいうと「マイナーコード」のトーンで、#4#6にとても顕著に表れています。

 ただ、僕がもっとも「栗林誠一郎すげえ」と思ったのは、(しつこくてすいません)#9#10です。前述の通り、この2曲は連続することでアルバムのなかで最大の「落差」を作っており、それを演出しているのが明石昌夫のハイテンションなアレンジであり、坂井和泉による真逆の歌詞だったわけですが、実はそれを裏で支えていたのが彼の絶妙なコード進行でした

 2つの曲の、サビの部分のコード進行を比較してみます。

#9<来年の夏も>
E♭M7 F Gm7 
来年の 夏も
E♭M7 F B♭M7
となりに いるのが
E♭M7 D7 Gm7
どうか あなたで
Cm7 Dm7 Gsus4G
ありますように


#10<あなたに帰りたい>
B♭ C   Dm    F C  Dm
髪 を切って 明るい服を着て
B♭  C   Dm     Gm7 Am7   Dm
目立たなかった あの日の私 に good-bye
B♭ C   Dm     F  C    Dm
今度会っても そう気付かないでしょう
B♭   C   Dm     Gm7 Am7 D7sus4 D7
そして もう一度 あなたに帰 りたい

 楽器やっている人ならすぐに気付くと思います。実はこの2曲のサビのコード進行は、キーこそ異なるものの、IV(とその平行調)→V(とその平行調)→I(とその平行調)という同じ構造をしているのです

 明石昌夫と坂井和泉が#9から#10にかけて「落差」を作りました。しかし、2つの曲が「ただ違う」というだけなら、それは落差にはならず単なる「異物感」で終わったはずです。2曲のつながりが異物感ではなく、狙ったとおりの「落差」を演出できるように、裏にいる栗林誠一郎がコード進行を揃えるという手法で最低限の統一感が維持されるようコントロールしていたのではないでしょうか。なんという職人芸。書いていて震えてきます。

----------------

 延々と書いてきた『OH MY LOVE』の話もこれでようやく終わりです。ZARDのことを書こうと決めたときに、まず触れなければいけないと思ったのが、このアルバムのことでした。

 このアルバムがリリースされた当時、僕は中学生でした。1枚3,000円もするアルバムは、中学生には何枚も買えるものではなくて、ZARDに限らず音楽に触れるメディアは必然的にシングルが主流でした。確かこのアルバムも、最初は友達に借りて聴いた気がします。

 しかし、ここでも繰り返し書いたように、アルバムを聴いた最初の印象は、それまでシングルを通じて思い描いていたものとだいぶ違ったものでした。そういう意味では、僕にとって初めて「アルバム」という概念に触れた最初期の1枚でした

 コード進行のことや、細かい歌詞のつながりなどは今回書くうえで改めて聴きなおしていて気付いたことです。その作業は、自分が四半世紀近く前に抱いた漠然としたイメージを、焦点を絞ったり余計な埃を払ったりしながら、鮮明な像にブラッシュアップしていくかのようで、とても面白かったです。

 ZARDの話はほぼこれでおしまい。次回はほとんど余談です。






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平成が終わる前に「ZARD」を語ろう〜第4回:OH MY LOVEという名の「惨劇」<前編>〜

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甘いオープニングは
一気に落とすための「罠」である


 まだまだ続いてます、ZARDの話。

#第1回:ビーイングという名の「工場」
#第2回:カノン進行職人「織田哲郎」現る
#第3回:「アルバムアーティスト」としてのZARD

 前回は、ZARDの「アルバムアーティスト」という側面について書きました。今回はそのなかから5thアルバム『OH MY LOVE』を取り上げて、なぜこの作品がZARD史上最高傑作なのかについて書きます。長くなったので今回は前編です。

このアルバムについて、僕は前回、春夏秋冬の”秋”に例えました。空気は冷え、木々の葉は散り、終わりに向かってゆっくりと坂を下り始める季節のように、この『OH MY LOVE』というアルバムは前作『揺れる想い』とは打って変わり、悲しさや切なさに溢れた作品となっています

1曲目から順番に見ていきましょう。

#1 Oh my love
#2 Top Secret
#3 きっと忘れない
#4 もう少し あと少し…
#5 雨に濡れて
#6 この愛に泳ぎ疲れても
#7 I still remember
#8 If you gimme smile
#9 来年の夏も
#10 あなたに帰りたい

 #1「もう友達のエリアはみ出した」「あなたといるときの自分が一番好き」など、恋の始まりを瑞々しく歌った曲。#2は、同棲を始めたものの恋人が忙しくて一緒にいる時間が少ないことを不満に感じている女性が、思わず「昔の彼に電話」してしまうんだけど、結局最後は「やっぱりね、あなた(=今の恋人)の方がいい」と、聴いてて思わず赤面してしまうくらいにのろける曲。

 そうなのです。実は幕開けの2曲は悲しさなんて微塵も感じさせない、底抜けに甘いラブソングなのです。サウンド面で見ても、#1のイントロが清潔感のあるピアノと60年代ぽいコーラスで始まるように、聴き始めた瞬間は『揺れる想い』よりもむしろ明るい印象すら抱くほどです。実はこの2曲が、この後に襲いかかる悲劇に向けて仕掛けられた巧妙な罠だとも知らずに

 続く#3も非常にポップなナンバー。織田哲郎の手によるシングルカットもされた曲で(ただしアレンジはアルバムとシングルで微妙に異なる)、個人的にはZARD楽曲の最高傑作はこの曲だと思っています。なんてシンプルな歌詞とメロディ。

 しかしこの曲、よくよく聴くと「別れの曲」です。しかも「every day every night 泣いたりしたけど 誰にも話せなくて(中略)暮れゆく都会 あふれる人波 今にも笑顔であなたが現れそうで」などとあり、単なる失恋などではなく、恋人はもうこの世にいないことを匂わせます

 #3を単独で聴いたときはそこまで気にならないでしょう。しかし、#1、2からの流れで聴くと、#3なんて残酷な歌だろうと感じざるをえません。恋の始まりの甘酸っぱさや、恋が愛へと変わっていく模様が歌われた直後に、いきなりその恋人が死んでしまうわけですから、あまりの落差に呆然とします。というか、この落差を表現したいためにわざと#1、2にああいう曲を配置したようにも思えます。その証拠に#3以降、このアルバムはひたすら重く、苦しく、悲しみに満ちた展開を見せるからです。いよいよこのアルバムの正体が姿を現します

 #4は、ZARDでは珍しい不倫をテーマにした曲。「想い出の神戸の街」「あなたへの手紙をしたため」、その手紙の末尾に「追伸: あなたの生まれた家を見てきました」と書くなど、歌の端々から主人公の怨念めいた感情が見えてきます。『揺れる想い』にはありえなかった湿度の高さです

 続く#5は再び別れの曲。「今日で二人は他人同志だから別々に帰ろう」「雨に濡れて想い出ごと流して あなたのこと忘れられたら」と、リアルでなんとも悲しいフレーズが連発します。

 作曲は栗林誠一郎。第2回でも触れたとおりこの曲はカノン進行がベースになっているのですが、同じく栗林カノン進行である名曲<サヨナラは今もこの胸に居ます>を先取りしたような、哀切感のある楽曲です。織田哲郎のカノン進行楽曲と比べると対照的で、2人の資質の違いを端的に表しているようで面白いですね。Wikipediaによるとこの曲のドラムは青山純が叩いているらしい。そうなのか。

 ここで折り返しですが、まだまだこのダウナー系の流れは続きます。

 #6は別れの歌ではないものの、非常にしんどい恋愛の歌。「傷ついてもいい、愛したい」「もうひき返せないふたつの足跡」「失くすものなんて 思う程ないから」などと、明確には歌われていないもののこの曲も#4と同じく不倫を歌っているようにも読み取れます。曲調がシリアスなのこともあって、ZARDのシングルのなかでは1、2を争うくらい重たい曲なんじゃないでしょうか。

 #7は三たび別れの曲。ピアノをメインにしたアコースティックなアレンジでパッと見、温かな印象を受けますが、「無言で切った電話に私だと気付くわ そう願いをかけてあなたの連絡どこかで待ってた」「今頃あなたの横には私よりやさしい彼女がいると想像が先走る」「出合って2年の月日は長くて短かった 終わってしまえば花火のようね」など、実はこのアルバムのなかでもっともウジウジしている曲です。タイトルも、なんともストレート。

 続く#8で、ついに少しだけ光が射します。「なんてちっぽけな夢だったの 恋なんて季節のボーダーライン」「しがらみ捨てて明日を探そう」「恋はルーレット 巡りめぐる 気のいい家族が恋しい」と、別れの悲しさを乗り越えて前へ進もうとする姿が歌われます。

 さて、ここまで8曲分を見てきました。#1、2でバラ色の未来を想像させておいて#3で地獄に叩き落とし、そこから延々と辛く悲しい曲が続き、ようやく#8で道が開けたかも?というのがここまでの流れでした。残すところあと2曲#8の勢いで、再び#1、2のような明るい未来が訪れるのでしょうか。

 残念ながらそんなことはありません。むしろこのアルバムの真骨頂はここから。これまでの8曲は、最後の2曲に向けての伏線でしかなかったのです。

(後編へ続く)







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平成が終わる前に「ZARD」を語ろう〜第3回:「アルバムアーティスト」としてのZARD〜

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「春夏秋冬」で見る
前期アルバム4作品


 ここまですでに2回も書いてきたZARDの話ですが、まだ終わりません。

#第1回:ビーイングという名の「工場」
#第2回:カノン進行職人「織田哲郎」現る

 第3回の今回はタイトルの通り、アルバムアーティストとしてのZARDについて書いてみます。

 ZARDをアルバムアーティストとして見たことがある人って、ほとんどいないんじゃないでしょうか。シングルとベスト盤しか知らないっていう人の方が圧倒的に多いと思います。

 でも、実は1990年代の前半から中盤にかけて、ZARDは年に1枚のペースでオリジナルアルバムをリリースしていました。各作品にはシングルとは異なるカラーをもったアルバムオリジナル曲が数多く収録され、明らかにそこには一つひとつのアルバムを、あるコンセプトやトーンで統一しようというトータルアルバム的思想がありました。誰もが知ってるシングルのヒット曲は、あくまでZARDの一面でしかない!ということが今回の記事のテーマになります。

 ただ、ZARDはキャリアを通じて全部で11枚のアルバムをリリースしていますが、「アルバムアーティスト」としての全盛期は、先ほど書いたとおり90年代の前半から中盤にかけてです。具体的には3rd『HOLD ME』(’92)から6th『forever you』(’95)まで。7th『Today Is Another Day』以降は既発曲やストックの流用が収録曲の半分以上を占めるようになるため、純粋な意味での「オリジナルアルバム」からは遠ざかります。また1st『Good-bye My Loneliness』と2nd『もう探さない』(共に’91)は収録曲数・時間が少なく、僕が個人的に考えるアルバムの定義から外れるため除外しました。

 ということで『HOLD ME』、『揺れる想い』、『OH MY LOVE』、『forever you』の4枚ということになるのですが、シングルでいえば4th<眠れない夜を抱いて>から14th<Just believe in love>までになり、もっともZARDが売れていた全盛期と重なります。ZARDと言われて多くの人が名前を挙げるであろう代表曲を連発していたその裏で、作品ごとに異なるカラーをもったアルバムをコンスタントに作っていたというそのギャップがまずはすごい。

 では具体的にどう異なっていたのかという話ですが、この4枚のアルバムはちょうど「春夏秋冬」のイメージで説明することができます。

 まず”春”の3rd『HOLD ME』は、花があちこちで咲き始める季節のごとく、一言でいえば「カラフル」。背景には作曲家のバランスのよさがあり、織田哲郎、栗林誠一郎、川島だりあ、和泉一弥、望月衛介の5人ものクリエイターが参加しています。前回<眠れない夜を抱いて>の話で織田哲郎について書きましたが、実は彼がこのアルバムに提供したのはこの1曲しかありません。

 反対に存在感を発揮しているのが川島だりあ。栗林誠一郎と並んで11曲中4曲も提供していますが、川島だりあの4曲はすべてアルバムオリジナル曲です(栗林は内2曲がシングルB面)。

 織田、栗林、川島というZARD前期を代表する作曲家3人のなかでもっとも「洋楽ハードロックの匂い」を感じさせるのが川島だりあだと僕は思っているのですが、そういう彼女のトーンがそのままアルバムのカラーになっています。ラストの<So Together>なんていかにもって感じですね。第1回で「ZARDは元々メタルだった」と書きましたが、そのコンセプトがギリギリ残っているのがこのアルバムです。

 続いて4th『揺れる想い』。大ヒットした同名シングルをアルバムのタイトルにももってくる(しかも1曲目に)なんて、よほど自信があるんだなあと当時(中学生)から思っていましたが、ポカリスエットのCMソングだった表題曲のイメージどおり、スカッと突き抜けるようにポップな曲が連続する、まさに”夏”なアルバムです。おそらくZARDのパブリックイメージにもっとも近いのがこの作品

 次の『OH MY LOVE』は、タイトル通りラブソングが多いアルバムなのですが、『揺れる想い』に比べると別れや恋愛のしんどさを感じさせる歌詞が目立つ作品です。ポップさでは『揺れる想い』に比肩しますが、全体のトーンは淡いセピア色の雰囲気で、例える季節としては間違いなく”秋”です。

 最後の『forever you』は、再び前向きなラブソングに戻ってくるのですが、明らかに「1周回ってきた」感があります。

 それが端的に表れているのが、1曲目の<今すぐ会いに来て>と表題曲<Forever you>。<今すぐ〜>はシャッフルリズム、<Forever〜>はアコースティックと、どちらもZARDではかなり珍しいアレンジの楽曲です。ラストに収録されたDEENのセルフカバー<瞳そらさないで>もアコースティックアレンジで、全体的にオーガニックな温かさが目立つアルバムです。

 そういう意味で”冬”なのですが、ハードなギターサウンドが中心だったかつてを思えば、音楽的にも季節が一巡したことを感じさせます。この後7枚目から、既発曲が大半を占める実質的なベストアルバムへと変わっていくのは、自然な流れだったのかもしれません。

 ここまで4枚のアルバムをざっと紹介しました。「春夏秋冬」というのは僕の例えですが、少なくともそれぞれが異なった色をもっている、すなわち一つひとつのアルバムが異なるコンセプトによって作られていることがなんとなくわかってもらえたかと思います。特に『揺れる想い』からの3作は1枚ごとにガラリと変わるので、その変化自体が聴きどころであり、シングルだけではわからないZARDの一面を見ることができます。

 そして、このアルバムごとの変化の立役者となったのが織田哲郎と並ぶもう一人のメインコンポーザー、栗林誠一郎でした。

 前回、織田哲郎はシングル曲を多く作ったと書きましたが、実はアルバムオリジナル曲は栗林誠一郎の方が多いのです。実際、ここに挙げた4作品で栗林は常に提供曲数がもっとも多い作曲家であり、『揺れる想い』からの3作に関しては、どれも半数以上を彼の楽曲が占めています。シングルは織田、アルバムは栗林という意図的な役割分担があったのでしょう(したがってZARDに書いた曲数は栗林の方が多い)。必然的に、アルバムのカラーを演出する役割は彼が背負っていました。

 それを象徴するのが4th『揺れる想い』。前述の通り、このアルバムは表題曲のもつ「さわやか」「透明感」なイメージをそのまま拡大したアルバムなのですが、言い換えればそれは「織田哲郎っぽいアルバム」なわけです。しかし実際に収録された織田曲は3曲(しかも内2曲は既発シングル)のみで、一方の栗林曲は全体の半分に及ぶ5曲。

 本来この2人の作風は正反対と言っていいくらい違うのですが、それでもこのアルバムが「織田哲郎っぽい」と感じるのは、(実際そこまであからさまだったかは置いといて)栗林が織田哲郎の作風に寄せているということです。正直に言うと、僕は今回この記事を書くためにクレジットを確認するまで<Season>、<君がいない>、<あなたを好きだけど>の3曲は織田哲郎の曲だと思ってました。この僕の長年の勘違いこそ、栗林のアルバムへの貢献度合いを逆に証明しています。

 しかし、栗林誠一郎の本来の持ち味は、前回触れたとおり「マイナー調」。織田哲郎が心を湧き立たせるメジャー調の世界だとしたら、栗林は心をギュッと締め付ける淡く切ないモノトーンの世界です。

 そして、その魅力が大爆発しているアルバムが、5枚目のアルバム『OH MY LOVE』。僕はこのアルバムがZARDの最高傑作だと思います。思いますが、長くなってきたのでこのアルバムの話は次回。やべえ。マジで終わらねえ。








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平成が終わる前に「ZARD」を語ろう〜第2回:カノン進行職人「織田哲郎」現る〜

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短3度転調のドラマ性と
マイナーコードの胸の痛み


 先週から書き始めたZARDの話。

#第1回:ビーイングという名の「工場」

 第1回は、所属レーベルであるビーイングについて書きました。第2回はいよいよZARDの曲の話に踏み込んでいきます。

 前回軽く触れたとおり、ZARDがブレイクするきっかけとなったのは4枚目のシングル<眠れない夜を抱いて>(1992年)でした。オリコンランキングで過去最高位となる8位にランクインし、初のテレビ出演も果たします。

 しかし、具体的に<眠れない夜を抱いて>のどこがそんなにも支持されたのでしょうか。実はこの曲は、後にZARDの人気を不動のものとした、ある「必勝パターン」の原型が隠されています。それをひも解くために、まず下の一覧を見てください。

<不思議ね>(‘91)★
<眠れない夜を抱いて>(‘92)★
<あの微笑みを忘れないで>(〃)
<負けないで>(‘93)★
<雨に濡れて>(〃)
<サヨナラは今もこの胸に居ます>(‘95)
<マイフレンド>(‘96)★
<心を開いて>(〃)★
<DAN DAN 心魅かれてく>(〃)★

 これは、ZARDの全盛期であるデビューから7枚目のアルバム『Today Is Another Day』期までの楽曲のうち(なぜこの時期までを「全盛期」と呼ぶのかという話は次回)、ある共通点をもつものを時系列に並べた一覧です。

 その共通点とはズバリ「カノン進行」。

 上記に挙げた9曲のうち、シングルカットされたのは6曲にのぼります。<心を開いて>が18枚目のシングルなので、実に3割以上のシングルがカノン進行をベースにした楽曲だったことになります。ZARD最大のヒットとなった<負けないで>が含まれていることから見ても、カノン進行はZARDが人気を獲得する大きな起爆剤の一つであり、「顔」だったともいえます

 そして、その多くを手掛けた作曲家が織田哲郎でした。上記の一覧で「★」マークがついているのが、織田哲郎が作った楽曲です。なんと9曲中6曲。しかも、セルフカバーの<DAN DAN〜>も元はFIELD OF VIEWのシングルであることを考えれば、全てがシングルカットされた曲ということになります。織田哲郎はまさに、ZARDの人気を中心になって支えたクリエイターでした。

 んで、話は<眠れない夜を抱いて>に戻ります。先ほどこの曲を「ZARDの必勝パターンの原型」と書きましたが、前掲の一覧を見てもらうとわかるとおり、カノン進行としては<不思議ね>の方が先です。しかし、2つのポイントにおいて、<眠れない〜>の方がZARDの歴史により重要な役割を果たしました。

 一つは転調。この曲はAメロからカノン進行に入り、サビで再びカノン進行を繰り返すという、かなり純度の高いカノン進行楽曲になっていますが、単調に聴こえないのは途中で入るBメジャー→Dメジャーという短3度の転調が利いているからです

 絶妙なのは転調する位置。Bメロで短3度上がってサビで戻るというパターンはポップスでは比較的多い手法ですが、この曲の場合はAメロの途中で転調するのです。これは歌詞と連動しています。まず「ざわめく都会(まち)の景色が止まる あの日見たデ・ジャ・ヴと重なる影」という冒頭部分がBメジャー。ここは言ってみればプロローグで、歌詞は情景描写に徹しており、これからどんなドラマが起きるのかはまだ分かりません。

 転調するのはこの後。Aメロはまだ続いていて、この後もう一度同じメロディを繰り返すのですが、キーはBからDに変わります。歌詞はこう続きます。「もしもあの時出逢わなければ 傷つけ合うことを知らなかった」。我々はここで初めてこの曲が別れの歌だと気付くわけですが、このタイミングで転調することで客観から主観へと曲調の面においても視点が劇的に変わり、一気に気持ちを奪われるのです

 やや専門的な話になりますが、肝なのは「短3度の転調」という点です。よくある半音もしくは全音上がる盛り上げ系の転調とは異なり、短3度の転調は平行調の同主調への転調なので、スムーズに変化しつつも視点や風景を変える効果があります(有名なところだとビートルズの<Here, There, And Everywhere>)。この「Aメロ途中での短3度転調」によって生み出されたドラマ性は、同じカノン進行の先行曲<不思議ね>よりも一段深い奥行きを与えています。

 もう一つのポイントは、要所で挟まれるマイナーコードです。ここまで<眠れない夜を抱いて>をカノン進行と言ってきましたが、正確には「カノン進行をベースにした」というべきであり、実は細かいところでいわゆるカノン進行とは異なる和音が混じります。この「異なる和音」がミソなのです。

 例えば、先ほども紹介したAメロ冒頭のフレーズ「ざわめく都会(まち)の景色が止まる あの日見たデ・ジャ・ヴと重なる影」を見てみます。

「ざわめく」から「止まる」までの前半のコードは、B→F#→G#m→D#mで、ここまでは普通のカノン進行。問題は後半です。いわゆるカノン進行であればE→B→E→F#なのですが、実際にはE→Bと来た後にG#m→C#mと2つのマイナーコードを挟んでからF#に行きます

 これと似たパターンはサビのカノン進行部分にも登場します。「眠れない夜を抱いて 不思議な世界へと行く」の後半部分。ここでもE→Bと来てEではなくC#mを挟んでからF#にいきます

 共通するのは、どちらもメジャーコードを使うべきところをマイナーコードに切り替えていること。マイナーコードを挟むことで、明るい光沢を放っていたそれまでの世界に一瞬だけ陰影が生まれます。まるで、忘れたと思ってもふとした瞬間に別れの痛みが蘇って胸を刺すかのように。これらの「カノン進行にはないマイナーコード」は、使われているのは一瞬なものの、この曲のテーマを考えると、実は極めて重要な存在なのです。

 このように<眠れない夜を抱いて>にはさまざまな演出や仕掛けが施されており、そのために単なるカノン進行とは一枚も二枚も違う新鮮さがあります。使い古されたはずのカノン進行で、繰り返しヒット曲を放った織田哲郎の「カノン進行職人」たる所以がこの曲に詰まっているのです。さらに言えば、この曲に関しては明石昌夫・池田大介両巨頭によるアレンジも素晴らしく(特にイントロのマリンバのようなあの音)、あらゆる面で後のヒット曲の原型を見ることができます。

 ちなみに、最後にマイナーコードの話に触れましたが、ZARDというと一般的には「さわやか」「透明感」「キラキラしてる」といった、コードでいうとメジャーのイメージが強いと思います。しかし、ZARDのリリース履歴を見てみると、<もう少しあと少し>、<この愛に泳ぎ疲れても>、<Just Believe In Love>など、意外とマイナー調の曲も頻繁にシングルを切っていることがわかります

 考えてみれば当たり前の話で、ずっと同じような調子の楽曲ばかりでは早々に飽きられてしまいます。ZARDが長らく人気を誇ったのは、カノン進行をはじめとするメジャーコード楽曲の裏でマイナー調の楽曲がうまくコントラストをつけていたからでした。<負けないで>があそこまでの爆発的ヒットを記録したのも、<眠れない夜を抱いて>からの連続リリースではなく、その間に<In My Arms Tonight>というワンクッションを挟んだからこそだったのです。そういう意味では、ZARDのイメージを支えていたのは、むしろマイナーコードの楽曲の方だったともいえます。

 そして、ZARDのマイナー調の楽曲を一手に手掛けていたのが、織田哲郎と並ぶもう一人のメインコンポーザー、栗林誠一郎でした。次回は栗林誠一郎に触れつつ、アルバムアーティストとしてのZARDについて書いてみます(マジでいつ終わるんだろう)。








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平成が終わる前に「ZARD」を語ろう〜第1回:ビーイングという名の「工場」〜

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元をただせば
実は「メタル」だった


 新年1回目は「ZARD」です。そう、あの<負けないで>で有名な、坂井和泉のZARDです。今週から何回かにわたってZARDについて書きたいと思います。これまで散々インディーロックについて書いてきた後でなぜZARD?と訝しむ方もいそうですが、理由は追々説明していきます。

 第1回はZARDの所属レーベル「ビーイング」を切り口に語ってみます。

 僕は1981年生まれなので、10代というもっとも音楽を聴く時期とZARDの全盛期とがちょうど重なっている世代なのですが、こないだたまたま同い年の人と当時の音楽の話をしたところ、その人はビーイングという名前を知りませんでした。

 レーベルの名前こそ一般的じゃないのかもしれませんが、手掛けたアーティストは錚々たる面子です。ZARDをはじめT-BOLAN、大黒摩季、WANDS、FIELD OF VIEWなど、90年代前半のJ-POPを代表する名前ばかり。所属アーティストのCD売上枚数を合計したら、軽く3,000万枚は超えるはずです。まさに一時代を築いたレーベルでした。

 ヒット曲の量産を可能にしたのは、ビーイングの特殊な音楽生産システムでした。それはどういったものかというと、オーディションで別々に集めたボーカルやミュージシャンでその場でバンドを組ませ、お抱えの作曲家とアレンジャーに曲を書かせ、ビジュアルからメディア露出までレーベルが主導し管理するという、徹底的なトップダウンの手法でした。ひとつのアーティストを、あちこちから部品を集めて組み立てて、いわば工業製品のように売り出すわけです。ちなみに、日本最大のヒットグループの一つであるB’zは、ビーイングのこの手法で生まれたユニットがそもそものはじまりでした。

 仲間とのサクセスストーリーも情緒もへったくれもないわけで、保守的な音楽ファンは鼻白みそうですが、ある意味では究極に音楽主義的ともいえます。なかでも、明石昌夫池田大介、春畑道哉、川島だりあいった作曲家・アレンジャーたちの仕事は素晴らしかった。単にメロディがキャッチーでアレンジにフックがあってというだけではなく、アーティストをまたいで「ビーイングの音」として認知されるような共通のサウンドを、彼ら腕利きの職人集団が作り上げていました

 ところで、話はそれるのですが、アメリカだとこういう風に一つのレーベルがお抱えのクリエイターやミュージシャンを駆使してブランド感のあるサウンドを作り上げ、所属する大勢のアーティストを通じて世の中に供給するっていうスタイルはわりとよく見ます。フィレス・レコードなんていうのはまさにそうですよね。モータウンもそう。

 ところが日本だとそういう例は見当たりません。90年代半ばに小室哲哉が出てきますが、彼の場合はほとんど一人でコントロールしているので、集団でサウンドをマネージしていたフィレスやモータウンとは違います。そういう意味で中田ヤスタカもちょっと違いますね。

 ベビメタは複数のクリエイターをチーム制で回していますが、複数のアーティストに曲を提供しているわけじゃないので、これも該当しない。なので、フィレスやモータウンスタイルの、日本における唯一にして最大の成功例がビーイングなんじゃないかと僕は思うんですね。

 話を戻します。

 では、その「ビーイングの音」というのは具体的にどういったものか。ひと言でいえば「ハードロック」です。それも、80年代のLAメタルを継承した、歪み系よりも空間系を強調されたエレキギターを中心に据えたサウンドです。これはマーケティングによるものというよりも、プロデューサーでありレーベルトップの長戸大幸をはじめ上記の腕利きクリエイターたちの多くがロック畑出身で、且つ80年代から活動していたからということの自然ななりゆきのような気がするんですけど、どうでしょう。

 んで、ZARDも例外じゃないんですね。ZARDとメタルってイメージは結びつきづらいと思うんですけど、実は初期の頃の曲ってよくよく聴くとエレキギターがめちゃくちゃ強い。イントロなどでフレーズを奏でるのは大体ソリッドなギターの音だし、メタル色が顕著です。

 デビュー当初のZARDが「バンド」だったということはよく知られていますが、当時の曲を改めて聴いてみると、最初はビーイングももっとゴリゴリのロックバンドとして彼女たちを売り出したかったんだろうなあと感じます。2ndアルバムの『もう探さない』なんて、後年のさわやかなイメージが想像つかないほど暗くて重い。ジャケットもアルバムタイトルもえらいダークですよね。




 ただ、残念ながらこのハードな路線のZARDは売れませんでした。多分、この路線をそのまま突き進んだら、今我々の知るZARDはなかったでしょう。そのような状況を打破したのが92年8月に出た4枚目のシングル<眠れない夜を抱いて>でした。ZARDはこの曲でオリコンランキングのトップ10内に入り、ブレイクのきっかけをつかみます。

 ではこの曲の何が良かったのか。ここには、後にZARDとヒット曲を量産し、90年代を代表する大作曲家となる織田哲郎の素晴らしい職人芸が発揮されているのですが、長くなってきたのでこの話は次回。ちなみにこのあと、織田哲郎の話、アルバムアーティストとしてのZARDの話、そして「90年代」という話にまでいこうと思ってるんですが、おお、一体何回書けば終わるんだろう。






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サザンオールスターズ『愛の言霊〜Spiritual Message〜』

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「意味はないけどノリはある」
それでいいじゃないか


 今の若い子たちにとっては、サザンというとやはり<TSUNAMI>のイメージなんでしょうか。

 僕はあの曲がバカ売れしたとき、苦々しい気持ちになりました。確かに<TSUNAMI>は”いい曲”だけど、この曲によってサザンそのものが「”いい曲”を歌うバンド」とだけ印象付けられたらもったいない。サザンと桑田佳祐はもっと奥深いし面白いのに、と思ったのです。

 前回、<涙のキッス>よりも<シュラバ★ラ★バンバ>に惹かれた理由として、意味で理解する音楽よりも、フィジカルで理解する音楽の方がグッとくるから、と書きました。実はこのことをさらに確信させるきっかけになった曲がありました。それが1996年のシングル<愛の言霊〜Spiritual Message〜>です。

 有名な曲なので今更ですが、この曲のサビ部分の歌詞を以下に抜粋します。
生まれく抒情詩(セリフ)とは
蒼き地球(ほし)の挿話
夏の旋律(しらべ)とは
愛の言霊(ことだま)

 小学生の頃はサザンの話ができる同級生はいなかったけど、中学に上がるとT君というサザン好きな友達ができました。そのT君が、<愛の言霊>がリリースされた直後、歌詞についてこんなことを言っていました。「サビの歌詞のお尻が『とわ』『そわ(挿話)』『とわ』って音になってるでしょ。これはフランス語の詩でよく使われる韻の踏み方なんだよ」と。

 T君の話を聞いて僕は「うおお、やっぱ桑田佳祐はすげえなあ!」と興奮したのですが、同時にこうも思いました。「なぜフランス語なの?」と。だって、<愛の言霊>はフランス的なテーマをもつ歌ではありません。むしろ東南アジアとかそっちのほうの雰囲気です。

 でも、この韻が利いているのは間違いありません。「とわ」「そわ」「とわ」という音のハネは、夕闇に炎がポッと上がるようで、「言霊」というスピリチュアルな言葉のもつムードを具現化しています。

 逆に、例えばサビの歌詞を「夏を楽しむ恋人たちが交わす愛の言葉は、この地球が誕生してから絶えず繰り返されてきた一種の叙事詩のようなものだろう」と書き換えたらどうなるか。確かに意味は通るかもしれないけど、はっきり言って陳腐です。この曲のムードはまるで生まれません。この歌はあくまで「生まれく抒情詩とは蒼き地球の挿話」という言葉のつなぎ方で、「とわ」「そわ」とセットで歌われなければいけないのです。そういう意味では、このフランス語の韻こそが曲の顔だともいえます

 結局僕の出した結論は「どーでもいい」でした。なぜフランスなのかという問いに答えはなく、この曲の前ではそんな問いなど実につまらないことのように思えました。「意味はないけどノリはある」、結局それで何の問題もないじゃないかと。

 前回、僕はサザンを聴いて初めて音楽を意味ではなくフィジカルで理解することを知った、と書きました。ここでいう「意味」とは、歌詞を文章として理解し、そこに明確なストーリーやテーマを見出せるということです。ところが桑田佳祐が示したのは、意味よりも音(=フィジカル)を優先するという手法で、結果として意味で伝えるよりもはるかに豊かなイメージを聴き手に想起させられるという事実でした。

 このような趣旨の話は、さまざまな場所で「桑田論」として語り尽くされていることではあります。1978年当時、日本の音楽ファンが<勝手にシンドバッド>で味わった衝撃は、まさに上記のような衝撃だったのだろうと想像します。僕の場合は<シュラバ★ラ★バンバ>と<愛の言霊>でそれを追体験したということでしょう。

 しかし、今振り返ってみてもっとも驚くのは、当時受けた衝撃そのものよりも、サザンという名のインパクトが、デビューから15年以上経っていた当時も10代半ばの田舎の少年にさえ有効だったという、その持続性と絶倫ぶりです。<TSUNAMI>も<涙のキッス>も<いとしのエリー>もいいけれど、サザンというグループさの普遍的な魅力をより表しているのは、一般には刹那的と(平たく言えば「名曲度が低い」と)思われている<勝手にシンドバッド>や<シュラバ★ラ★バンバ>、<愛の言霊>といった曲の方だと僕は改めて確信するのです。




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サザンオールスターズ『シュラバ★ラ★バンバ』

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音楽は「カラダ」で聴け!と
サザンが教えてくれた


 今年はサザンオールスターズの結成40周年でした。

 僕が人生で初めて自分のお金で買ったCDはサザンです。小学校6年生のときに買った、シングルの<シュラバ★ラ★バンバ>でした。

 まだ短冊形の8cmシングルの時代で、確か930円だった気がする。真っ白なジャケットに凹凸が掘られていて、斜めにすると光の加減で「Southern All Stars」の文字が見えるデザインでした。1992年なので、当時サザンはまだ結成15年にもなってない時代だったんですね。桑田佳祐はちょうど今の僕と同じくらいの年齢だったことになるのか

 その頃クラスでは、みんなが歌番組やヒットチャートに興味を持ち始め、お小遣いで好きなアーティストのCDを買うことが流行りだしていました。でも、<シュラバ★ラ★バンバ>が好きだという同級生や、ましてやシングルを買ったという友達は一人もいませんでした。

 サザンを知っている友達は何人かいましたが、みんな<シュラバ〜>と同時発売だった<涙のキッス>のほうが好きだと言っていました。実際、<涙のキッス>は年間のシングル売上で5位に入りましたが、<シュラバ〜>は13位に留まりました。でも僕は、子供ながらに確信をもって、<涙のキッス>よりも断然<シュラバ〜>の方がいいと思っていました

 どうしてそんなに<シュラバ〜>に惹かれたのか。

 この曲はドコモのCMソングでした。そのCMはメンバー自身が出演するPV風のもので、桑田佳祐が白バックでこの曲のサビを歌っていました。祖父母の家の居間で初めてこのCMを見たことを今でも覚えています。そして僕は、その場で家族にたずねました。「これは誰?」と。

 何がそんなに衝撃だったのかというと、まず歌詞がまったく聞き取れないこと。僕は、少なくとも日本語じゃないと思いました。でも何語かはわかりませんでした。そして、決して美声ではなく、ハンサムというわけでもなく、わざとくぐもったような声でがなるように歌うボーカルが衝撃でした。このボーカルの男の人が意味不明な言葉を、さらに意味不明にしているかのように見えました。

 しかし、一番衝撃だったのは、そのような意味不明な曲を「かっこいい」と感じる僕自身の反応でした。92年というと、米米CLUBの<君がいるだけで>や大事MANブラザーズバンドの<それが大事>、浜田省吾の<悲しみは雪のように>なんかがめちゃくちゃ売れた年だったのですが、それらとは真逆といってもいいこの曲の方に、僕はなぜか惹かれました。

 僕はそれまで「歌を好きになる」ということは、「歌詞を好きになる」ということなんだと漠然と思っていました。歌詞は共感されるためにあり、メロディも「失恋の歌は悲しい調子」「元気づける曲は明るい調子」といった具合に、歌詞の情景やテーマを説明するためにある。つまり僕は、歌は「意味」で理解するものなんだと思っていたのです。

 ところが<シュラバ★ラ★バンバ>の歌詞は、意味を理解するどころか、そもそも言葉を聞き取ることすらできませんでした(シングルを買って歌詞カードを見て、サビは「修羅場穴場女子浮遊」と歌ってるんだとわかっても、やっぱり意味はちんぷんかんぷんでした)。

 でも、意味はわからなくても、「シュラバナバジョージピユー」という言葉の「音」そのもののおもしろさや、その後に「アイノーブラーバダンスモユー」というこれまた正体不明の言葉を続けて畳み掛ける「スピード感」「韻」の心地よさといった、意味がわかる/わからないという次元とはまったく別のおもしろさが、この曲にはありました。

 実はこの後、僕は実家にあった伝説の4枚組ベストアルバム『すいか』に手を伸ばしたのですが(今思うとなんて恵まれた環境だったんだろう)、そのなかで最初に好きになった曲が<思い過ごしも恋のうち>でした。

 この曲の中盤に出てくる「どいつもこいつも話の中身はどうなれこうなれ気持ちも知らずに」という一節を、早口言葉のようなスピードで畳み掛けるところが面白くて何度も巻き戻して聴いてました。あれなんて、当時の歌謡界の文脈では(そしておそらく今でもなお)完全にギャグなんだけど、あのとんでもないスピードでまくしたてるデタラメ感を、僕は「なんかいいな」と思ったんですね。

 今になってみるとわかるのですが、僕はサザンで初めて音楽を、意味ではなくフィジカルで理解したんだと思います。そして、意味でしか理解できない音楽よりも、フィジカルで感じられる音楽のほうが、おもしろさやかっこよさがよりダイレクトに伝わってくる、平たく言えば「グッとくる」ことにぼんやりと気付いたのです。だからこそ僕は<涙のキッス>ではなく、<シュラバ★ラ★バンバ>のほうに惹かれたんだと思うのです。

 このことを思い出すたびに「小6の俺、なかなかやるな」という気持ちになります。自分の音楽遍歴が<涙のキッス>ではなく<シュラバ★ラ★バンバ>から始まっていることを、僕はひそかに誇りに思っているのです。





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薬師丸ひろ子『Best Songs 1981-2017〜Live in 春日大社〜』

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一緒に年を取るという
「器」のあり方


 80年代アイドルの歌、それもデビュー曲やキャリア初期の歌を2018年の今聴きなおしてみると、あまりの「アイドル然」「女の子然」とした世界観に気恥ずかしさを覚えることがあります。そのなかにあって、薬師丸ひろ子<セーラー服と機関銃>は異質な響きをもっています。別れを予感させる歌詞とシリアスな曲調、当時17歳の瑞々しく生硬な彼女の声は、アイドルという瞬間性を真空パックした存在とは真逆の、普遍的な何かを感じさせます。

 多くのアイドルがオーディションなどを通じて、あくまで歌手としてデビューしたのに対し、薬師丸ひろ子は映画女優としてキャリアをスタートしました。歌手デビューした後もしばらくの間は、シングルは全て自身が主演する映画の主題歌でした。それらの歌に投影されるのは薬師丸ひろ子自身ではなく、彼女が演じる役であり映画の世界観でした。いってみれば、薬師丸ひろ子は歌という水を注ぐための「器」に徹していたのです

 実際、彼女自身も「歌を歌うときは、リスナーの記憶や作り手の思いをできるだけ損なわないように、なるべく当時のまま歌いたい」と語っています。歌が歌手のキャラクターとは切り離され、独立を守っているところがアイドルとしては異質であり、だからこそ、今聴いてもハッとする普遍性をもっているんだろうと思います。

 2016年に奈良の春日大社で行われた初の野外ライブを収録した『Best Songs 1981-2017〜Live in 春日大社〜』というアルバムがあります。実はこのアルバム、ライブ本編で歌われた曲順のままではなく、<セーラー服と機関銃>から、ほぼリリース順に沿って曲を並べ直して収録されています。つまり、当時を知る人は思い出をトレースできるような仕掛けになっているわけです。これは間違いなく「リスナーの記憶を大事にする」という彼女の意向なんだろうと思います。

 じゃあ肝心の歌は「当時のまま」なのか。もちろん、そんなことはありません。(多分)キーは当時と同じですが、声質はそれなりに年齢の変化を感じさせ幾分低くなった印象です。一方で、30年以上のキャリアの積み重ねによって、圧倒的に歌は上手くなっています。そして、当然ながら歌い手の変化は、歌そのものの印象も大きく変えます。それがもっとも端的に表れているのが、1stアルバム『古今集』の1曲目であり、竹内まりやのセルフカバーでも有名な<元気を出して>

 薬師丸ひろ子がまだ10代だったオリジナル版は、若い主人公が失恋した同世代の友人を励ますという、まさに歌詞の通りの、牧歌的で他愛のない「励ましソング」でした。ところが、50代半ばを迎えた現在の彼女の声には、かつてはなかった母性的な包容力や一つひとつの言葉への説得力があります。そのためこの曲は、失恋だけでなくあらゆる悲しみを射程に捉えた「人生の励ましソング」に聴こえます。


 2曲目の<探偵物語>も、オリジナルとは印象ががらりと変わった曲です。例えば2コーラス目サビ前の「昨日からはみ出した私がいる」という部分。これ、オリジナルだと少女から大人へ一歩を踏み出した心情を歌っているように聴こえますが、現在の薬師丸ひろ子が歌うと「戻れない一線を越えてしまった」という、道ならぬ恋への抗いがたい情熱を表現しているように感じるのです(それでもいやらしさをまったく感じさせない彼女の透明感がすごい)。

 以前、70歳を超えたポール・マッカートニーが歌う<Blackbird>について書いたことがあります。歌い手の変化とともに歌そのものも変化し、それまでとはまったく違う世界が見られるようになること。それはまるで、終わったと思っていた物語にまだ続きがあることを発見したような気分になります。

 そしてもう一つ、今回このライブ盤を聴いて思ったのは、歌が「年をとる」ことで、その変化のなかに聴き手は自分自身の人生の経過をも重ねあわせられるということ。<元気を出して>のなかに「人生はあなたが思うほど悪くない」というフレーズがありますが、このアルバムで聴くと、なんだか自分のこれまでの人生を肯定されたような気持ちになるんですよね。言うまでもなくこれは、現在の薬師丸ひろ子の声で、しかも僕自身も大人になった今(初めてこの曲を聴いたのは確か中学生の頃でした)聴くからこその感慨です。

 時間の経過を感じさせない「当時のまま」のパフォーマンス(たとえばマドンナのような)もいいけれど、歌い手が年齢を重ね、それに伴って歌の聴こえ方も変わり、その聴こえ方の変化のなかにリスナー自身の物語も重なること。いわば、歌手と歌とリスナーがみんなで一緒に年をとっていくこと。それはそれで、とても素敵なことじゃないかと思います。そして、それもまた「器」の一つのあり方なんじゃないかとも思います。








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松田聖子『Candy』

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「古くない」という感覚の理由は
“彼”の存在にあるのではないか


 前回、まったくといっていいほど興味がなかった(どちらかというとネガティブな印象すらもっていた)松田聖子を、大滝詠一というハブ(結節点)を経由することで聴くようになったという話を書きました。

 大滝詠一が松田聖子に書き下ろした曲は他に2曲あります。それが1982年にリリースされた6枚目のアルバム『Candy』に収録された<四月のラブレター>と<Rock’n’Roll Good-bye>。どちらも『風立ちぬ』A面に負けず劣らずナイアガラサウンドで、あえてなぞらえるなら<四月のラブレターは>は<A面で恋をして>、<Rock’n’Roll Good-bye>は<恋のナックルボール>…でしょうか。<Rock’n’Roll Good-bye>の間奏で<むすんでひらいて>のメロディがチラッと載ってくるところなんかはいかにも大滝詠一っぽいなあと感じます。

 しかし『風立ちぬ』というアルバムは、僕の中で大滝詠一が手掛けたA面だけで完結しているのに対し、『Candy』というアルバムは大滝楽曲以外の8曲のほうにこそハイライトがありました

 理由は大村雅朗。このアルバムで大滝詠一の2曲以外の全ての曲でアレンジを手掛けたのが大村です。彼の名前は知ってはいたけど、本当にすさまじいアレンジャーだったということを、僕はこのアルバムでまざまざと知りました。

 例えば<星空のドライブ>におけるあのリフ。イントロからサビ、アウトロまで音色を変えながら繰り返されるあのリフは、メロディや歌詞以上にこの曲の「顔」になっています。<黄色いカーディガン>のあのイントロもそう。この曲の力強さと繊細さの両方を併せ持つ見事な幕開けは、2年後の大沢誉志幸<そして僕は途方に暮れる>を予言しているかのようです。そしてアルバムラストには、大村雅朗自身の作曲による<真冬の恋人たち>という、大村と松田聖子の両者にとっての代表曲となった<Sweet Memories>の姉妹編ともいえる名曲が控えています。

 中でも僕がうなったのは3曲目<未来の花嫁>です。友人たちが結婚していくなかで自分だけが取り残されている。隣にいる彼はプロポーズしてくれる気配もない。あなたの未来の花嫁はここにいるのに…。歌詞だけを取り出してみると、結婚を人生のゴールと捉えているこの曲の女性像は、正直2018年の今聴くとかなり古臭く感じます。

 しかし完成された曲として聴くと、決して古臭いという印象は抱きません。なぜなら、大村雅朗が仕立てたファンキーで軽快なアレンジによって、この歌の主役の女性は、口では「結婚したい」といいつつも、「それならそれでいい」「結婚なんて選択肢の一つだもんね」と、どこか今の自分の状況を楽しんでさえいるような、たくましい人物像へと変わるからです

 そこには松田聖子の、情緒を後ろに残さないカラッと乾いた歌い方の効果もあると思います。このアルバムを聴く限り、松田聖子のもつキャラクターと相性がよかったのは、松本隆よりも大村雅朗であると感じます。



 このアルバムにおける大村雅朗の何が素晴らしいかといえば、彼のアレンジがアルバム全体のカラーを決定している点です。『風立ちぬ』は「大滝詠一のアルバム」ではないけれど、『Candy』は「大村雅朗のアルバム」といっていいと思います。そのくらい、この作品における彼の寄与度は高い。

『作編曲家・大村雅朗の軌跡』を読むと、彼の仕事の姿勢はあくまで「アーティスト(レコード会社)がどうしたいか」を重視する職業編曲家だったと語られています。しかし、『Candy』を聴く限り、彼は「このアルバムはこう聴いてほしい」「このアルバムを通じてアーティストのこういう面を出したい」といったプロデューサー的な視点を持っていたことは明らかです。そうした姿勢は、彼が晩年、フリーからレーベル所属となって、宣伝や育成まで含めたトータルのプロデューサーを目指していたことにも端的に表れています。同書のなかで「もし存命なら今頃誰と組んでいたか?」というインタビュアーの質問に対し、生前の彼を知る多くの人が「宇多田ヒカル」と答えていたのはゾクッとしました。



 にしても、これまでにもR.E.M.スミスなど、自分のなかの「古い/古くない」の分水嶺に位置するアーティストについて考える機会がありましたが、まさかそこに、30年近く「懐メロ歌手」「過去の人」と感じていた松田聖子が加わることになるとは思いもよりませんでした。








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松田聖子『風立ちぬ』

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81年生まれが感じる
「こちら側」の声


 まず初めに言っておくと、僕は松田聖子というアーティストに特別興味はありません。僕がテレビの音楽番組やヒットチャートを見るようになったのは1990年代初頭でした。松田聖子が歌手デビューしたのは80年ですので、その時点で10年ほどのキャリアがあったことになります。アーティスト寿命が長寿化した現在では、10年選手などせいぜい中堅扱いですが、当時はベテラン歌手の一人といった印象でした。なので、(当時バリバリ新曲を出していて第2の全盛期を迎えようとしていましたが)僕の中では「懐メロ歌手」「大人が聴くもの」といったネガティブなイメージしか持てませんでした。そのまま今に至っています。

 それなのに、なぜ今僕は松田聖子の『風立ちぬ』を聴いているのか。理由は単純。大滝詠一です。81年10月にリリースされたこの4枚目のアルバムは、表題曲含むA面5曲全てを大滝詠一が作曲・編曲を担当しているのです。

 大滝詠一がアルバム『A Long Vacation』をリリースしたのは81年3月ですが、時期的な面だけでなく、サウンドから受ける印象という面でも、『風立ちぬ』はまるで『ロンバケ』の姉妹編のようです。実際、大滝詠一本人も「“女性版ナイアガラ”を意識した」と語っています。曰く、<冬の妖精>=<君は天然色>、<ガラスの入江>=<雨のウェンズデイ>、<千秒一秒物語>=<恋するカレン>、<いちご畑でつかまえて>=<FUN×4>、<風立ちぬ>=<カナリア諸島にて>。

 ナイアガラサウンドというと音の分厚さやゴージャスさ、スケールの大きさがよく語られますが、僕はそれらのアレンジがメロディと高次元で結びついているところこそが最大の聴きどころだと思っています。<千秒一秒物語>のあのセンチメンタルさ、<いちご畑でつかまえて>のつかみどころのなさ、そして<風立ちぬ>の大河の流れのような官能性。メロディが先にあったのか、それともアレンジが先にあってメロディが生まれたのか、まったくわからないほどに両者は同じ方向を向き、曲の中で自然に溶け合っています。そういう曲としての密度の濃さみたいなものに、僕はナイアガラを感じます。



 んで、大滝詠一という軸でこのアルバムを何度もリピートしていたのですが、しばらくするうちにあることに気づきました。かつて「古臭いもの」と思い込んでいた松田聖子が、実際には決して古くなどないということに

 このアルバムを聴く直前、僕は山口百恵を聴いていました。実は山口百恵は「古い」と感じたのです。でも、松田聖子は古くはなかった。ちなみに「古い」というのは「嫌い」という意味ではありません。わかる/わからない、近い/遠いといった、好悪とは別なところで感じる直感的な距離感のようなものです。

 正確に言えば、松田聖子でも<青い珊瑚礁>は古いと感じます。じゃあ境目はどこなのか。アルバムでいえば、まさに『風立ちぬ』がそれにあたります。

 じゃあ『風立ちぬ』と3枚目『シルエット』とは何が違うのか。それは、松本隆が登板しているところです。厳密には彼は『シルエット』期から参加してますが、当時はまだレコード会社に指名され、純粋に職業作詞家としてかかわったにすぎませんでした。それが、プロデューサー的な立ち位置で、より能動的に松田聖子というプロジェクトに関わり始めた最初のアルバムが『風立ちぬ』だったのです。そして、彼が自分の人脈から引っ張ってきた最初のメロディメーカーが、かつてのバンドメンバーである大滝詠一でした。…というのは知っている人には今更すぎるネタではあります。

 初期の三浦徳子・小田裕一郎時代は、僕には古いと感じます。どこか70年代の時代がかったアイドル像を引きずってる気がするのです。でも、大滝詠一や南佳孝、財津和夫、来生たかお、そして呉田軽穂(松任谷由実)。このあたりの、当時の言葉でいえばニューミュージック出身の作曲家たちが参加し始めた以降の曲はまったく古さを感じません。完全に「こちら側」という感じがします。

 実は、三浦徳子も小田裕一郎も古い作家ではありません。世代としてはニューミュージック勢と変わらない。でも、三浦・小田ペアがどこか70年代に規定された「アイドル」という枠の中で仕事をしていた(職業作家として仕事をしていた)のに対し、その枠を壊してアイドル像というものを80年代型へとアップデートしようとしたのが松本隆だったのではないかと思います

 ただ、ここで一つ強調したいのは、僕が「古くない」と感じる根拠は松本隆の歌詞ではない、ということです。むしろ、言葉の意味や使われ方は時代の影響をモロに受けるので、ニューミュージック勢の作るメロディに比べて当の松本隆の歌詞は(距離感ではなく、文字通り「今の時代とは違う」という意味で)古いと感じます。

 では何が「古くない」のか。中川右介は著書で、松本隆の功績の一つに、日本の歌謡曲から「情緒」や「説明」を排除したことを挙げています。そうした志向をもっていた彼が松田聖子を選んだのは、彼女の圧倒的な声量とカラッと乾いた声質なら、それができると考えたからでした。松田聖子の歌の上手さに注目した人はそれまでにもたくさんいましたが、彼女の声に時代を見出して、それを歌詞という方法でプロデュースしようとしたのは松本隆が初めてだったんだろうと思います。つまり、僕が松田聖子を「古くない」と感じた一番の理由は、彼女の「声」だったのです

 彼女の声に時代の変化を見出した松本隆。その彼が積極的にイニシアチブを取り始めた『風立ちぬ』プロジェクト。そこに、81年生まれの僕が「古い」「古くない」の分水嶺を感じることは、決して偶然ではないと思います。








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The Full Teenz 『ハローとグッバイのマーチ』

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「あの頃の自分の声」を
ハァハァせずには聞き返せない


 HomecomingsだったりHAPPYだったりAnd Summer ClubだったりHearsaysだったり、最近だとNum Contenaだったり、そのあたりの、つながってるんだかいないんだかよくわからない西日本のインディシーンを、ここ数年僕はよく聴いているのですが、その中で「この人たちは毛色が違うな」と感じるバンドがいます。京都の3ピース、The Full Teenzです。

 彼らの楽曲を聴いてまず真っ先に思ったのは、「この人たちの曲を『嫌い』っていう人いるのかな?」ということ。最初に音源化されたEPは非常に実験的だったそうですが、少なくとも2016年にリリースされた彼らの1stアルバム、『ハローとグッバイのマーチ』に詰まっているのは超陽性のメロディに平易な言葉で綴られる歌詞、バンド名のteen=10代の甘酸っぱさをそのまま封じ込めたような普遍的世界観。とにかく、このバンドのポップネスというのは、こちらが思わず恥ずかしくなってしまうくらいの“ど”ポップです。



 レーベル(Second Royal)メイトであるHomecomingsや、メンバーがMV出演しているAnd Summer Clubももちろんポップですが、彼らが英語詞であるのに対してThe Full Teenzは日本語詞である点に象徴されるように、どこかツウ好みっぽさを残すホムカミ、アンサマに比べると、The Full Teenzはごく一般のリスナー層にまで届きそうな波及性を備えています。一体どこからこのバンドは紛れ込んできたのでしょうか。

 ただし、サウンドは決して軽くはありません。僕が彼らを知ったのも、Second Royal経由ではなく、Kili Kili Villa所属のCAR 10NOT WONKといったパンクバンド経由でした。そういったバンドに通じるハードなサウンドと、彼ら自身のキャラクターや青臭いほどにポップな世界観とが不思議と融合しているのが、The Full Teenzというバンドの大きな個性になっています。

 でも、このバンドの魅力として僕が一番に挙げたいのは、ボーカル伊藤祐樹の声です。

 伝わるかどうかわからないんですけど、10代の頃、僕の頭の中に響いていた僕自身の声は、多分彼の声だった気がするのです。「生きる意味とはなんだ?」という哲学という名の遊びに耽り、「●●とキスしてええ!(←だいぶソフトに表現しています)」と性欲をたぎらせる。そんな脂臭い脳内ボイスに、もしアフレコするのであれば、それは僕自身の声よりも、伊藤祐樹の声の方が近いような感じがするのです。

 そしてさらにいえば、伊藤とボーカルを分け合う(時にメインボーカルを務める)ドラムの佐生千夏の声もまた、10代の頃に脳内プレイしていた「好きな子」の声だった気がするのです(この点についてはラブリーサマーちゃんもホムカミ畳野彩加もみんなそうですけど)。要するに、彼らの声を耳にするだけで、僕は10代の頃にタイムスリップするような気がしてハァハァしてくるのです。

 アルバムラストに収録された<ビートハプニング>の、「自分が誰かに影響するなんて思ってもいなかった」という歌詞なんて、最高ですね。ちょっと舌足らずで、日本語としてあか抜けない言い回しが逆にリアル。価値がないと思い込んでた自分が、思いがけず誰かの役に立った。そのときのうれしいような恥ずかしいような気持ちが蘇ってくるようで、このフレーズを聴くたびにくすぐったくなります。

 でも、この「あか抜けないフィーリング」を、楽曲という「あか抜けた表現」へと昇華させていくのって、めちゃくちゃすごいことなんじゃないかと思います。








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