週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【ロック】日本のロック

YUKI 『まばたき』

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わたしは何度でも
「わたし」を歌う


YUKIの通算8枚目のアルバム『まばたき』が3月にリリースされました。

前作『FLY』が非バンドサウンドを中心だったのに対し、
今作は再びバンドサウンド回帰。
YUKIの声はやっぱバンドだろ!と思ってる僕にとっては、うれしい変化でした。

なので、サウンド的には前々作『megaphonic』の路線と基本的には同じ。
曲数も同じだし、曲のタイプのバリエーションも大体一緒。
ところが、アルバム全体を通して聴くと、
聴き心地は過去の作品とはかなり異なります。

それはおそらく、歌詞の変化によるものだろうと思います。

1曲目<暴れたがっている>の一言目は、
「あがいてたら振り出しに戻ってた」
このフレーズでアルバム全体が幕を開けることに象徴されるように、
この作品は、原点回帰や初期衝動といったテーマに貫かれています。

<こんにちはニューワールド>では、函館にいた10代の頃や、
東京に出てきた20代はじめの頃をイメージさせるエピソードが登場し、
終盤「思い出は雨音に紛れ 消えた これからは 私次第」と歌われます。

<私は誰だ>という、タイトルからしてとても若い楽曲では、
「私はあまりいい人間(ひと)じゃない だから地獄に堕ちるかもしれない 時間がない」
「『生きてたい』より『生きたい』」

と、若いがゆえに感じがちな人生の残り時間に対する焦燥感が歌われます。

アルバムを聴いた後でいくつかインタビューを読んでいたら、
やはりYUKI自身も今作のキーワードとして「思春期」という言葉を挙げていました。
「思春期は10代特有のものだと思ってたけど、本当は人生に何度でも起きる」と、
今再び反骨心や自己主張の欲求が芽生えてきたんだそうです。

んで、これがなぜ「変化」なのかというと、
(このブログでフォローし始めた)2010年『うれしくって抱き合うよ』から『FLY』まで、
YUKIの歌のモチーフは基本的には「他者」でした。
家族だったり友人だったり、自分の大切な人への目線がどこかにあったし、
自分を主人公にしている歌でも、それは他者が感情移入し、
自己を投影するための「鏡」としての自分だったように思います。
それが、今作では「自分」をモチーフにした歌を歌うようになったのです。

ソロデビュー15周年というアニバーサリーイヤーゆえの原点回帰、
という面もあるのかもしれません。
歌詞のボキャブラリーはいたってソフトなのですが、
アルバム全体から受ける印象は、青臭いといってもいいほどに若く、
それゆえにどこか不器用でザラついたものです。


「ソロデビュー15周年」と書きました。
それってつまり、ジュディマリ解散の年に生まれた子が、今年高校生になるってことです。
信じられねえ。てゆうか信じたくねえ。

『まばたき』がリリースされるということもあり、
先日SpotifyでJudy And Maryの全アルバムを順番に聴き返しました。
今更ですけど、ジュディマリがメジャーで活動してたのって10年もないんですね。
それなのに『J.A.M』(1994年)から『WARP』(2001年)にいたる猛烈な振れ幅と濃密感。
「ビートルズみてえじゃん!」と思いました。

YUKIはバンド時代から歌詞を書いていましたが、
ソロ時代と比べて聴くと、雰囲気が違うのがわかります。
バンド時代の歌詞は記号的で遊戯的でフィクショナル(<くじら12号>や<そばかす>)、
一方ソロ時代は、今作『まばたき』がまさにそうであるように、
より平易な言葉を好むようになり、リアルさを重視する傾向があります。

僕は個人的には、今こそジュディマリ時代のような、
キャラクター性の強い、フィクショナルな歌詞の方が聴きたい。
ジュディマリが全盛だった10代の頃は今とは逆で、
YUKIの歌詞なんて、ウソ臭くて「軽い」と思ってました。
むしろ、今のYUKIが書くような、生な言葉をストレートにぶつけてくる曲の方が
なんとなく「本物っぽい」と感じていたのです。
皮肉だなあっていうか、「俺ってずれてるなあ」とつくづく思います。

YUKIについては、『うれしくって〜』以来ずっと、
新作が出るたびにこのブログで何かしら書いてきました。
めちゃくちゃ気合い入れてフォローしてるってわけでもないのに、
何かしら言いたくなる、どこかしら気になるアーティストなのです。
それは数少ない、リアルタイムで変化を目撃しているアーティストだからかもしれません。








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The Collectors 『Roll Up The Collectors』

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ファンタジックな未来を語る
「ストーリーテラー」としてのコレクターズ


先週に続きコレクターズの話。
コレクターズは今年結成30周年で、3/1には初の武道館公演を開催しました。
行きたかったなあ。

武道館公演の1か月くらい前だったかな?
彼らがNHK BSの『The Covers』に出演してたのをたまたま見たのですが、
そこで披露した新曲<悪の天使と正義の悪魔>があまりにかっこよくて、
すぐにアルバム『Roll Up The Collectors』を買いました。

いやー、すごい。
キャリア30年でなんでこんなにもフレッシュで、
まるでベスト盤のようなテンションのアルバムを作れるのか。
この作品を聴き終えたときの感想は「圧倒された」という一言に尽きます。

大滝詠一の執筆した原稿や、インタビューや対談での発言をまとめた、
『大滝詠一Writing & Talking』という本があるのですが、
その中でポップソングのメロディには「ドライ」と「ウェット」の2種類がある、
というような言葉があります。
ざっくり言うと、欧米のポップソングのメロディは「ドライ」で、
日本の歌謡曲のメロディは「ウェット」という分類になります。
僕は、前者はクラシック発祥で後者は民謡発祥、という風におおざっぱに理解しています。

んで、この表現を使うのであれば、
僕は以前からコレクターズの加藤さん(どうしてか加藤ひさしは「さん」付けになる)は、
日本では少数派の「ドライ」なメロディの書き手だなあと思ってたのです。
ただ、大滝詠一のドライをアメリカンポップス的とするならば、
加藤さんのドライはイギリス的と呼びたくなります(そんなのがあるのか?)。

イギリス的というのは、アメリカにくらべるとより情緒的でドラマチックで、
もっといえば青臭い感じ(アメリカはもっと産業的で理性的でシステマチック)。
僕は特に、ピート・タウンゼントのメロディとの間に共通するものを感じます。
フーキンクスといったモッズバンドを聴きこんでいた頃は、
どっぷり浸かりすぎて逆に気付けなかったのですが、
両者とも、オープンDコードをジャーンと弾く!みたいな衒いのなさと、
妙に生真面目で物語性の強いところがそっくりな気がする。

一方で、僕は『Roll Up The Collectors』を聴いて、コレクターズの中にある、
レトロでクラシックなモッズというスタイルとは真逆のキャラクターも感じています。
それは、歌詞にみられる「近未来的な世界観」です。

例えば<ロマンチック・プラネット>では宇宙人が登場します。
<That’s Great Future>はタイトルからして既に「未来」ですが、
前後左右にも動くエレベーターやレストランで食事を運ぶドローンといった光景が歌われます。
こういった、近未来をイメージさせるアイテムが、
コレクターズの歌詞の中にはちょいちょい登場します。

過去に目を向けても、タイムマシーンが登場する<僕の時間機械>などの曲もそうですし、
そもそもデビュー曲<僕はコレクター>の「コレクター」という概念からして非常に未来的です。

重要なのは、これらのアイテムは歌詞の中で近未来そのものを描くためではなく、
「恋人と過ごしていたあの頃に時間を戻してほしい」と歌われる<僕の時間機械>のように、
あくまで普遍的で素朴な感覚を歌うメタファーとして使われていることです。
PerfumeやかつてのTM Networkが体現するのが、
先端的なテクノロジーに彩られた「ありえそうな未来」だとしたら、
コレクターズの描くのは「ファンタジーとしての未来」といえるかもしれません。

何らかの感情を表現する際にどんなものに例えるかによって、
そのアーティストの個性が表れるとすれば、近未来的アイテムを選ぶ感性は、
少なくとも僕がこれまでなんとなくとらえていた「コレクターズ像」からすると意外なものです。
ですが、この「ファンタジーとしての未来」を軸にすると、
おしゃれすぎるモッズファッションも、
加藤さんのキッパリハッキリしたボーカルも、
実は元々「ファンタジーとしての未来」を物語るための仕掛けだったようにも思えてきます。
つまりコレクターズが、デヴィッド・ボウイにも通じるような、
演劇的な感覚に満ちたストーリーテラーのように見えてくるのです。

前述の『The Covers』で、コレクターズは「同期のバンド」としてブルーハーツを挙げ、
<リンダリンダ>をカバーしました。
僕がブルーハーツの<リンダリンダ>に「おおお!」となったのはまだ10代の頃でした。
それに比べ、コレクターズの音楽にハッ!としたのは20代の終わりになった頃。
「同期」でありながらこのようなタイムラグが起きたのは、
コレクターズの方は、彼らの代名詞でもあるモッズのファッションや音楽スタイルが、
実はストーリーテラーとしての衣装であり仕掛けにすぎないという、
目に見えるものとその内側とに微妙なギャップがあり、
それを(少なくとも僕は)大人になるまでわからなかったからじゃないかという気がします。








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The Collectors 『The Rock'n'roll Culture School 〜ロック教室〜』

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「楽曲提供」という
不思議なトリビュートの形


スタイルもジャンルも異なるアーティストが一堂に会し、
あるアーティストの楽曲をそれぞれの歌い方、
それぞれのアレンジでカバーすることで、
元々の楽曲の新しい見え方が提示され、そのアーティストへの理解や思いが一段と深くなる。
そして同時に、カバーする側の個々のアーティストにも興味が湧いてくる――。

それがトリビュートアルバムの意義であるとしたら、
昨年12月にリリースされた銀杏BOYZのトリビュート『きれいなひとりぼっちたち』は、
本当に素晴らしいトリビュートアルバムでした。
トリビュートって、少なくとも僕は継続的に聴く作品ではないのですが、
『きれいなひとりぼっちたち』に関しては、
リリースから3か月経つ今も頻繁に聴き続けています。

麻生久美子の<夢で逢えたら>も、クボタタケシRemixの<ぽあだむ>も、
Going Under Groundの<ナイトライダー>も本当に最高。
ミツメの<駆け抜けて性春>なんて「卑怯だ!」とすら思います。
聴くたびに「ああ…銀杏は最高だなあ」という思いを改めて噛みしめると同時に、
食わず嫌いだったクリープハイプにも興味が湧いてきます。




ただ、世の中には「カバー」という形ではなく、
まったく別のスタイルでアーティストへのトリビュートを示したアルバムもあります。
その一つが、『きれいなひとりぼっちたち』にも参加しているコレクターズのトリビュートアルバム、
『The Rock'n'roll Culture School 〜ロック教室〜』

2006年にリリースされたこのアルバムは、
他のアーティストがコレクターズをカバーするのではなく、
コレクターズのために曲を書き下ろし、それをコレクターズ自身が歌う
という形をとっています。

楽曲を提供したアーティストは、
奥田民生、真島昌利、山口隆、曽我部恵一、ヒダカトオルスネオヘアーなど、
記名性の高い楽曲を書く、“濃い”メンツばかり。

山中さわお曰く、みんなコレクターズが大好きなので、
ぞれぞれが一番出来のいい楽曲を用意してきたらしく、
さながらトリビュートする側の意地の張り合いのようなところがあったそうです。
実際、例えば松本素生の書いた<19>などは、
「なぜ自分のバンドでやらないんだ?」と思うくらいの超絶名曲。
ヒダカトオルの<LAST DANCE>なんかもめちゃくちゃかっこいい。

しかも、コレクターズのために書き下ろしたとはいえ、
それぞれの楽曲には各アーティストの個性が発揮されているので、
コレクターズがGoingやビークルをカバーしているようにも聴こえてきて不思議です。

ただ、結局何よりすごいのは、
バラバラの色をもった楽曲を全て受けて立って、さも当然のように歌い倒す、
当のコレクターズ自身です。
だって、このアルバムを聴き終わって何が一番印象に残るかといえば、
結局加藤ひさしの声なんだもの。
トリビュートアルバムは基本的にVarious Artistsのコンピレーションですが、
このアルバムについては、間違いなく「コレクターズの作品」になっています。

各ソングライターの個性を感じられる一方で、
コレクターズの作品という説得力もある。
なんとも言えない、不思議な味わいが残る作品です。






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最終少女ひかさ 『グッドバイ』

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愛に対して誠実だからこそ
愛に対してブチ切れる


かっこいいものからウケ狙いの外したものまで、
世の中にはいろんなバンドの名前がありますが、
「ヘンな名前」という点では彼らは相当上位に食い込むと思います。
2013年結成の5人組、最終少女ひかさ

最終少女ってなんだよ。ひかさって誰だよ

そして、名は体をあらわすといいますが、
彼らの音楽も、その強烈に胡散臭いバンド名に負けず劣らず、
かなりエッジが利いています。


なんかもう自由すぎる。
だいたい<いぎありわっしょい>ってタイトルはなんだ。
ほかにも<すし喰いたい><かつき>なんていう、
それだけで濃厚にアクの強さが漂ってくる曲のタイトルとか、
BPM速めで踊れる風なのに合いの手とかが入って「音頭」みたいになっちゃうところとか、
紅一点ラモネスの鳴らす妙にオリエンタルなシンセとか、
このバンドの放つ「異物感」はなかなか強烈です。

いかにも関西出身のバンドっぽいのですが、
実は北海道の札幌発というのも面白い。
彼らのキャラクターはブッチャーズピロウズではなく、
村八分ミドリと同じ土壌から出てきたと言われたほうが納得できる。

そして、このバンドのキャラクターを最も体現しているのが、ボーカルの但野正和です。
メロディに載せない、歌と喋りの中間くらいのスタイルにしても、
わざと投げやりに言葉を放ってくるところにしても、今時珍しいくらいに反抗的です。
4つ打ちの性急さとここまでマッチした言語感覚は彼以外に知らないかも。
4畳半アパートとか飲み屋横丁とか、そういう昭和っぽいロケーションが似合いそうな
但野のアングラ詩人のような退廃的な佇まいも、時代に逆行している感じで痛快です。

ただ、表面上は退廃的で投げやりでも、
彼の真意は真逆な場所にあります。

たとえば先ほどの<いぎありわっしょい>。
「愛とか恋とか分かってますから、私もう歌いませんから」
これ、「歌いませんから」と口では言いながらも、
世の中に流れる愛や恋の歌なんて全部偽物で、自分だけがそれを歌えるんだ!という、
バカ真面目さと自負心が透けて見えます。

この後にくるフレーズもそう。
「愛の始まりはまずセックスから」
これも「セックスすりゃいいんだよ」という反モラル的なことを歌いたいのではなく、
セックスが先になって愛が生まれることもある。
愛の結果がセックスだとばかり思ってたのに、その逆が成立してしまうなんて、
俺はこの先何を「愛」と信じればいいのだろう。
そんな「愛に対して誠実であるがゆえの愛への怒り」みたいなものを感じます。

このバンドって、ほかの曲を聴いても常に何かしらに対して激しく憤ってるのですが、
全てその裏側には誠実さや優しさが見え隠れしています。

最初から最後まで怒りまくって、タイトルに「グッドバイ」とつけて、
ジャケットにはビルの屋上から飛び降りた写真を載せる。
こんな1stアルバムを作ってしまって、彼らはこの先どういう道へ進むのでしょうか。
そんな後先のことなんて考えてないんだろうなあと思わせる向こう見ずなところが、
とても愛しく、そして頼もしく感じさせるバンドです。

最終少女ひかさは3月22日に、
久々の音源となる1stミニアルバム『最期のゲージュツ』をリリースします。








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Num Contena 『Smile When You're Dead』

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「熱狂に代わる何か」を見つけるまで
僕は彼らの音楽を携えていくだろう


先日唐突に、以前劇団の芝居で作ったセットのことを思い出しました。
舞台の上手と下手に一本ずつ、「木」を立てることになったのですが、
僕らはそれを全て手作りで作ろうとしました。
「木」ということはつまり幹があって枝があり、その枝の先には「葉っぱ」があります。
必要な葉っぱの枚数は、2本合わせて数千枚という量でした。
そして僕らはその数千枚もの葉っぱを、本当に手作りで作ってしまったのでした。

客席から見える最小限の部分だけ作るとか、
お金を払って業者に頼むとかすればいいものを、
愚直さとエネルギーだけがあり余っていた(お金はなかった)学生だった当時の僕らは、
「全部手作り」という選択肢以外考えませんでした。
結果、ただでさえ朝から晩まで稽古をしているのに、
稽古が終わってから集まって徹夜でチョキチョキ葉っぱを作るという無茶苦茶な毎日を、
数週間にわたって送ることになったのです。

今だったらやりません。
時間がないというのが一番の理由ですが、多分、時間があったとしてもやらないと思います。
それは、「数千枚の葉っぱを手作りで作る」ということに、もう高揚できないからです。
当時は、そういう意味不明な作業に(意味不明であればあるほど)熱中できたし、
それを仲間と一緒にやるということも楽しかった。
でも、今は多分、(少なくとも僕は)楽しめない気がします。



福岡を中心に活動する4ピース、Num Contena
昨年12月にリリースした1stフルアルバム『Smile When You’re Dead』
「ギターロックの金字塔」などといった鼻息の荒い宣伝文句とは裏腹に、
実際の中身はReal Estateなどを彷彿とさせる、
クリーンギターを基調としたミドルテンポ&良質メロディの柔らかなタッチの楽曲ばかり。
落ち着いた声質のボーカルとマッチすることで、アコースティックな印象すらあります。

Dead Funny Recordsの所属ということもあって(僕このレーベル大好きなんです)、
聴く前から絶対好きだろうなあと思ってたのですが、
聴いてみたら期待以上でした。



この『Smile When You’re Dead』というアルバムに収められた楽曲は、
そのどれもが「僕」「今はここにいない(どこかへ行ってしまった)君」の物語です。
かつての恋人を歌っているラブソング、というのが素直な解釈かもしれません。
けれど僕は、この「君」という存在は必ずしも異性とは限らない、
もっと違う解釈があるんじゃないかという気がします。

僕たちはいつも探している 君のことを
今は何も分からない 天気さえも
(中略)
僕たちは相変わらず探している 僕のことを
きっとずっと分からない 僕の目の前にいる何かのことを

<Follow Me Not Forget>

君のことは忘れていた 忙しくしてた
楽しい日々 バンドもある 仲間もいる
でもふとした瞬間 君のことがよぎる
スミスが天国で 僕に優しく笑う

<Smile When You’re Dead>

1曲目の<Follow Me Not Forget>は、最初は「君のことを探している」と言いながらも、
最後は「僕のことを探している」と問題が深く掘り下げられます。
何より主語が「僕たち」であることに、単純なラブソングに収まらない複雑さと深刻さがあります。

2曲目の表題曲も、「君のことは忘れていたけどたまに思い出す」というフレーズはラブソング的ですが、
その後の「スミスが」のくだりが入ることで、歌われているのは「君との思い出」などではなく、
「バンドもいるし仲間もいるのに満たされない自分」のように僕には思えるのです。

僕は、このアルバムで歌われている「君」を、
「かつての自分」と解釈しながら聴きました。
いつの間にか自分は「かつての自分」とは別の人間になってしまった。
そのことに対する鈍い痛みと、
それでも前を向こう(向く以外ない)とする姿勢との間で揺れ動く心のさまを歌った、
「永遠の喪失の物語」だと僕は感じるのです。


先週、For Tracy Hydeの記事の中で、
「16年の後半は自分の中の何かが失われてしまったことを痛感した」と書きました。
Num Contenaを聴いたのも、ちょうどフォトハイと同じ時期でした。
(そういえば『Smile When You’re Dead』のジャケットも青い)
僕が彼らの曲の「君」を「かつての自分」だと解釈したのは、
僕の心境がそういう状態だったからです。

数千枚の葉っぱを手作りすることに、いつの間にか熱狂できなくなっている。
そのことに気づいたとき、
僕は、人生の大半が既に過ぎ去ってしまったような錯覚に陥りました。
何を大げさな、と思われるかもしれませんが、
このまま何に対しても熱狂できずにいるとしたら、
それはもう「余生」以外の何物でもありません。

とはいえ、いくら努力したところで、
あの頃の自分が戻ってくることはありえない。
「あの頃」は文字通り「過ぎ去ったもの」であり、どんなに足掻いたところで、
再び数千枚の葉っぱを手作りすることに熱狂していた自分は戻ってこないし、
数千枚の葉っぱを手作りしてでも成し遂げたかった「何か」は永久にわかりません。
今の僕がすべきなのは、以前の自分を取り戻そうとすることではなく、
年々深くなる喪失感や虚無感を淡々と受け入れていくことなのでしょう。
(…ということに気づくまで、かなり長い時間がかかりました)

その先に「熱狂に代わる何か」が見つかるまで、
フォトハイやNum Contenaやその他の多くの音楽を、
僕は自分の「テーマ音楽」として携えていくのだろうと思います。








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For Tracy Hyde 『Film Bleu』

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僕にとっての「青」は
喪失の色だった


東京で活動する5ピース、For Tracy Hyde(フォトハイ)が、
昨年12月にリリースした『Film Bleu』
フルアルバムとしてはこれが初になります。

以前もこのブログで取り上げたEP『Born To Be Breathtaken』などの
過去の楽曲と新しい曲とがほぼ同じ量盛り込まれていて、
収録曲の顔ぶれでいえば、現時点での彼らのベストアルバム的な作品。
ただ、バンドとしては『Born To Be Breathtaken』リリース後、
ボーカルのラブリーサマーちゃんが脱退し、
新ボーカルeurekaが加入するという大きな変化がありました。
今回の『Film Bleu』に収録された過去の曲もeurekaボーカルで録りなおされているので、
「知ってる曲なのに新しい」という、不思議な感覚を味わえるアルバムでもあります。

ラブリーサマーちゃんが思い出だけを残して転校していった淡く儚い少女だとすれば、
新ボーカルeurekaは少年のひたむきさやあどけなさを併せ持つ、中性的な存在。
「僕」という一人称や、その相手(異性)としての二人称「君」という歌詞は、
彼女の方がよりなじむ感じがします。
既発曲はどうしても他人の服を着せられてるような落ち着かなさは正直あるのですが、
<Shady Lane Sherbet>はeureka版の方がいい!)
eurekaを念頭に作られたであろう新曲は
「おお、これが今のフォトハイか!」というような納得感があります。



このアルバムで、彼らは「青」をキーカラーにしています。
10代の記憶を思い起こさせる夏の日の空や、「未完成」「未熟」というような青に結びつくイメージは、
元々フォトハイが描いてきた世界観でしたし、1stフルアルバムにこの色を持ってきたのを知った時は、
「やる気だな!」「ついに刀を抜いたな!」と思いました。

でも、ふと周りを見れば、例えばラブリーサマーちゃんのメジャー1st『LSC』も青でしたし、
『Film Bleu』と同日発売だったローリングストーンズの新作も、『Blue & Lonsome』でした。
そういえばビートルズの『Live At The Hollywood Bowl』もやはりジャケットは青でした。
ストーンズは原点回帰のブルースカバーアルバムに「青」を選んでいますし、
ビートルズのライブアルバムも、彼らの青春時代の終わりを記録したものでした。
16年後半はそうした若さや純粋さの象徴としての「青」を、
やたらと目にする機会が多かったのです。

そういうたくさんの「青」を見るたびに僕は、実はイヤ〜な気持ちになっていました
なぜなら、「青」という色に込められたさまざまな感情や思いを、
僕自身はもう失ってしまったことを痛感してしまうからでした。
「何かをやりたい!」という情熱や、未知のものに対する興味、
あるいは「自分を良く見せよう」という虚栄心や異性に対する憧れ。
そういったものが以前に比べて(元々多い方ではないけど)はるかに少なくなって、
ひたすら内へ内へとこもるようになっていることに気付いたのが、まさに16年の後半でした。

単調な仕事によって何かが摩耗してしまったのか、
子供が産まれたことによる意識の変化なのか、
それらをひっくるめて単に「年を取った」ということなのか。
いずれにせよ、そんなときに目にする「青」は、僕にとっては喪失の色でしかなかったのです。
逆に言えば、僕はまだそんな自分を「俺も年取ったな〜」と茶化せるほどには、
大人にはなりきれていないのです。

『Film Bleu』のラストに収録された<渚にて>の中に
「この休暇を終えたら、ちゃんと大人になろうね。」という歌詞があります。
このフレーズを聴くたびに、
「そんな簡単に大人になれねえぞ」と歌に対して説教を垂れつつ、
「僕は休暇を終えたことは間違いない。でも、大人になれたのだろうか」と、
僕はぼんやりと途方に暮れてしまうのです。








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L⇔R 『Singles & More』

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14歳の頃よりも
今のほうが彼の音楽が好き


中学2年で初めてギターというものを手に入れたとき、僕にはまだ、
「ギターという楽器はコードをジャカジャカかき鳴らすか、
指を魔術のようにくねらせながらティロリロ弾くもの」

という程度のイメージしかありませんでした。

そのイメージを最初に変えたのが、L⇔Rでした。
彼らの代名詞となったミリオンセラーシングル、
<Knockin' On Your Door>のバンドスコアを開いてみると、
そこにはコードをひたすら弾く単純なものでもなく、
かといって、記号だらけで見るからに「無理!」と投げ出したくなるようなものでもない、
単音をベースとしたシンプルな譜面がありました。

当時の僕の知識といえばフォークギターの教本(のサワリ)しかなかったので、
コードを弾くときはピック、単音を弾くときは指という思い込みがありました。
なので、「単音をピックで弾く」ということ自体が新鮮でした。

そしてさらに衝撃的だったのは、CDを聴いても、
この譜面に書かれているはずの音が聞き分けられなかったことでした。
「エレキギターの音はギュイイインと歪んでるはず」という(これまた)思い込みがあったので、
まさかこのクリアーに澄んだ音がギターの音だとは予想していなかったのです。

じゃあ最初からその音や弾き方に夢中になったかというと、実はそういうわけでもなく、
「目立たないし地味だし、ギターのくせになんか弱っちいな」という半信半疑な気持ちのまま、
なんとなくCDに合わせて弾いていたのでした。
ただ、単音のアルペジオは当時の僕には練習しやすくて、
<GAME>も<BYE>も、その頃のシングル曲はだいたいスコアを買って弾いていました。
<DAY BY DAY>は、曲を聴くよりも先に楽譜を買って歌メロを自分で弾いて、
それを後から実際のCDで確認する、なんてことをしました。

とにかく、僕がギターを通じて音楽を吸収し始めた最初期の頃に、
「メロディは好き」「ギターはよくわかんない」という不思議な距離感のまま、
知らない世界を開いてくれたアーティストが、L⇔Rだったのです。


昨年12月に黒沢健一が亡くなって、僕は20年ぶりくらいにL⇔Rを聴きました。
懐かしさを感じるかと思いきや、むしろ新鮮で、
初めて本当にL⇔Rを聴いたかのような驚きがありました。
<Lime Light>の分厚いドラムとベースには鳥肌が立ち、
<Nice To Meet You>のイントロのシタールには思わずニヤリとしました。
「えっ?俺は昔こんなにかっこいい音楽を聴いていたのか?」と、
今現在の僕の感覚としてL⇔Rの音楽に興奮したのです。

でも、本当に驚いたのは、彼らがブレイクする前の曲にまでさかのぼって聴いたときのことでした。
彼らは一度レコード会社を移籍しています。
一般に知られる彼らの楽曲は、1994年にポニーキャニオンに移籍して以降のもの。
僕が今回聴いたのはその前の、ポリスター在籍時の楽曲を集めたベスト盤『Singles & More』です。

ポニーキャニオン時代の曲でさえも、
今聴けば彼らがものすごく(古い)洋楽志向の強いバンドだったことがわかりますが、
ポリスター時代の曲はさらに振り切っています。

<Bye Bye Popsicle>の12弦ギターや、
モロにフィル・スペクター<Now That Summer Is Here>
(この曲、一瞬<Good Vibrations>のフレーズが流れますよね?)
<Lazy Girl><(I Wanna)Be With You>なんて、
メロディの感じとかファルセットとかめちゃくちゃビーチボーイズじゃないですか。


「60年代ポップスの体現」という点でいえば、
黒沢健一こそ大滝詠一の後継者だったのでは?と思っちゃいます。
実際、このベスト盤の前半の曲がそのまま『EACH TIME』に入ってても違和感なさそう
音楽的バックグラウンドをそのまま自分流にアレンジして再現できるだけでなく、
それを自分自身の声で表現できるシンガーであるという点も、両者は似ています。

黒沢健一はL⇔Rの活動休止後も音楽活動を続けていました。
You Tubeで何曲か聴いたけど、どれも素晴らしかったです。

※この曲なんてポール・マッカートニーの生まれ変わりか?という感じ


元Spiral Lifeの石田ショーキチやスピッツの田村明浩らと組んだバンドMotorworksもかっこよかった。
なんで僕は20年も彼のことを無視していたのでしょう。
後悔しても遅すぎるのはわかっていますが、悔しいです。


14歳の頃、僕はL⇔Rの音楽がどういうバックグラウンドを持っているかまではわかりませんでした。
彼らの音楽を好きだったとはいえ、それは「なんとなく」という括弧つきのものであり、
正確には「好き」というよりも「気になる」というような距離感だったと思います。
だけど、当時聴いていた他の音楽はほとんど忘れてしまった中で、
L⇔Rの音楽はなぜか今でも歌えるし、今でもギターで弾けます
その理由を、20年経って改めて聴いた今、納得しています。

僕は当時よりも今の方が、L⇔Rが好きです








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And Summer Club 『Heavy Hawaii Punk』

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鳴ってる音のすべてが
僕の音楽遍歴そのもの


YouTubeやSoundCloudのおかげで、
「自分の知らない曲」を毎日手軽に聴けるようになりました。
もちろん、隅から隅までなんて到底聴けないので、
(各種のWebサービスが作り手に発表の場を広げたことで、日々の音楽の供給量は天文学的です)
僕が1日に聴く「新曲」は、多くてもせいぜい10曲程度。
それでも年間通せば3000曲以上の未知の曲を聴いてることになります。

んで、曲を聴くたびに「最高!」とか「ピンとこないな」とかいろいろ反応するわけですが、
ひたすらそれを繰り返していると「自分がどういう音楽を好きなのか」という、
好みの傾向みたいなものを自覚するようになります。
自覚することで、自分が好きそうな音楽をより効率的に嗅ぎ分けられるようになったり、
逆に、感性の硬直化に危機感を覚えたりします。

面白いのは、好みを自覚することで、
その好みの直接のルーツがどこ(誰)なのかが分かったりすることです。
そして、その「どこ(誰)」が、必ずしも「聴いてきた時間の総量」や「思い入れ」に比例しないことです。

例えば僕の場合、以前も書いたように20代前半にどっぷりとthe pillowsを聴いていました。
聴いた量的にも、のめり込んだ深さ的にも、おそらく彼らが一番です。
ところが、今の僕の「好み」というものは、
決してthe pillowsのような音楽そのものではありません。
むしろ、the pillowsきっかけで聴くようになったストロークスや、
ストロークスがきっかけとなって聴いたさらに別のバンドの方が近かったりします。
自分の好みを自覚することの面白さは、
そういう自分のルーツに対する意外な発見ができることです。

なんで延々こんな話を書いているかというと、
実は2016年は僕にとって、音楽の好みのルーツというものについて、
発見をしたり考えたりする機会が、いつにも増して多い1年だったからです。

今年ブログに書いたアーティストだと、例えばThe LemonsThe School
この2組は最初に聴いた瞬間から「ど」が付くほどハマったのですが、
そのことで「自分は黒人音楽よりも白人ポップスの方にシンパシーを感じるんだな」と、
大げさに言えば「発見」をしました。

この「発見」によって、
サイモン&ガーファンクルとか、50〜60年代のアメリカンポップスとか、
主に僕が20代前半の頃に聴いていた音楽を改めて聴き直したり、
ビーチボーイズ(ブライアン・ウィルソン)を「白人ポップス」という文脈で聴くようになったり。
さらには、新しい音源を買い求めてルーツをさらに掘り下げてみたりと、
普段の音楽の聴き方に新たな「テーマ」をもたらしました。

そして、「好みのルーツを発見した」という点で、
今年聴いたアーティストの中で最も影響が大きかったのが、
大阪出身の4ピース、And Summer Club(アンサマ)でした。



文字通り「どハマり」でした。
今年7月に出た1stアルバム『Heavy Hawaii Punk』は一体何回聴いたでしょう。
今年の夏はアンサマに始まりアンサマに終わった気さえします。
遠くから聞こえてくる、控えめで朴訥とした男女ボーカル。
シンプルな歌メロと、それに絡みつく力の抜けたギター。
アルバムタイトルの3つのキーワード(Heavy、Hawaii、Punk)に表される、
スカスカでチープな音像と前へ前へとつんのめる疾走感の不思議な同居は、
強烈な中毒性があります。

でも、音楽そのもの以上に衝撃だったのは、アンサマを聴いたことで、
「あ、俺ものすごくThe Pains Of Being Pure At Heart好きなんだ」とか、
「だから俺The Vaccinesにハマッたんだ」とか、
「そう考えるとOgre You Assholeとの出会いはめちゃくちゃ大きかったんだな」とか、
過去に聴いてきた音楽たちが、樹形図のようにつながっていったことでした。
まるで、バラバラの星と星を結んで星座ができていくみたいにして、
自分の音楽遍歴というものにストーリーが見えた気がしたのです。

なので、アンサマの音楽はもちろん大好きなんだけど、
彼らがいかにすごいかとか、他のアーティストに比べてどう優れているとか、
そういうことが僕にとって大事なわけではありません。
『Heavy Hawaii Punk』というアルバムは、
そこで鳴っているすべてのサウンドが僕の感性そのものであり、
これまで聴いてきた音楽とこれから聴くであろう音楽との間に挟まれた、
本のしおりのような存在のような気がするのです。








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ラブリーサマーちゃん 『LSC』

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大人になる一歩手前の
「憂い」と「揺らぎ」


毎日顔を合わせていたクラスメイトの女の子が、
実は某国のお姫様だった。

あるいは、

いつまでも子供だと思っていた近所の女の子が、
ふと気づいたらいつの間にか大人の女性に変身し、
手の届かないところへ羽ばたいていってしまった。

…みたいな例えをアラフォー男がブログに書くのは、
本当にキモいって分かってはいるんだけど、
ラブリーサマーちゃんのメジャーデビューアルバム『LSC』
最初に聴いたときの感想は、まさにそんな感じだったのです。
いや〜、「衝撃」と表現してもいいくらい、素晴らしいアルバムでした。

僕がラブリーサマーちゃんをフォローするようになったのは、
彼女がFor Tracy Hydeに加入する前だったので、2年以上前になると思います。
フォトハイはもちろん、『よしよしサマー』以降、
彼女のソロ音源も熱心に買っていたのですが、
それはなんというか、「面白そう」「なんか気になる」というような気持ち、
要するに興味や好奇心からでした。
それが、今回のアルバムではっきりと「好き」になったような気がします。

何がそんなに良かったのか。

まず、ソングライターとしてすげえ
という点が挙げられます。

これまでの彼女の楽曲は、いい意味でも悪い意味でも、まだどこか垢抜けない、
「アングラさ」があったと思います。
ところが今回の『LSC』では、
(おそらく以前からストックしていたのだろうけど)一気に洗練されました。

個々の楽曲のポップさもさることながら、
特筆すべきは楽曲のバラエティの広さです。
<青い瞬きの途中で>オアシスを彷彿とさせる90年代ブリットポップ、
<202>はソフトなR&B、
そして<PART-TIME ROBOT>はヒップホップと、
「これマジで1人の人が書いたの?」という感じ。
アコースティックなバラード<わたしのうた>なんて、
音の中に沈んでいくようでホントに好きだなあ。
<天国はまだ遠い>の寒々しいギターの音なんかもすごくいい。
(あと<私の好きなもの>にこんなに長く付き合うことになるとも思ってなかった)



そしてもう一つ。
こっちが冒頭述べた“例え”につながるんだけど、
ラブリーサマーちゃんの声は、これまでとは明らかに変わった気がします。

これまではやくしまるえつこにも似た、
幼さや拙さが残る「ロリ声」だったのが、
このアルバムでは大人になる一歩手前のような、
「憂い」や「揺らぎ」のある声になりました。
再録された<ベッドルームの夢>なんて、かつてのep版とはまるで別の曲です。
そういう意味では本作のジャケットが、これまでのような可愛いイラストではなく、
青一色であることは象徴的です。

これはどういう変化なんだろう。
年齢に伴う自然な変化なのであれば、ドキュメンタリーを目撃したようなドキドキがあるし、
意図的な変化だったとしても、それはそれで彼女の底なしの才能を見た気がして身ぶるいします。
少なくとも、この声の変化によって、歌える歌の幅は格段に増したはずだし、
前述の楽曲のバラエティとも無縁ではないはず。
彼女はthe brilliant greenが好きだと公言してるけど、
川瀬智子の声に似てきた気がします。

メジャーデビューすると聞いたときは、
正直「やっていけるのだろうか」とちょっと懐疑的だったのですが、
現実の『LSC』は、そんな僕の「上から目線」をひねり潰すような、
素晴らしいアルバムでした。
(死語ですが)セルアウトだと言い出す人はいるんだろうなあ。
でもこういうアルバムこそ売れないで何がポップスだよと僕は思います。








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Car10 『BEST SPACE』

car10 - Best Space

「地方」「食えない」を
軽やかに飛び越えて


3ピースバンド、Car10(カーテン)を最初に聴いたとき、
「あ、イギリスのバンドだな」と思ったんだけど、
調べてみたら日本の、それも栃木県足利市を拠点に活動する地方のバンドで驚きました。
そのくらいこのバンドはスケールがデカく、日本的な匂いを感じさせません。

猛烈なスピード感と潰れたギターの音は最高にかっこよく、
英語と日本語がごくナチュラルに入り混じった歌詞のセンスも素敵。
何より、彼らの「声」が素晴らしいなあと感じます。
思わず笑ってしまうくらいに絶曲するコーラス(ギャングコーラスというらしい)と、
「お前やる気あんのか!」とユッサユッサしたくなるような、脱力しきった川田晋也のボーカル。

ぶっ壊れてるパンクバンドってたくさんいるけど、
Car10はすきま風がビュービュー吹くあばら家のように、かなり徹底的にボロボロです。
でも、逆にそこに昔のマッチョ系パンクバンドにはない繊細さや軽やかさを感じます。

2008年に結成して14年にレコードデビュー。
15年にリリースした2ndアルバム『Rush To The Funspot』からは、
銀杏BOYZ安孫子真哉が主宰するレーベル、KiliKiliVillaに所属しています。
そして今年6月、5曲入りで収録時間10分という(彼らの曲はほとんど2分以下なのです)、
暴風のような爆速EP『BEST SPACE』をリリースしました。

※2ndアルバムより<Bustard Blues>


いやしかし、こういうかっこいいバンドが、
栃木県足利市という「ド」がつくほどローカルな場所から出てきたことが、
一番素晴らしいことなのかも。

このブログでも地方出身のバンドってたくさん紹介してきたけど、
なんだかんだ言っても県庁所在地級の規模の都市だったり、
そうでない場合も拠点を大都市に移していたりするケースがほとんどでした。
ところが、Car10の場合は今でも活動拠点は足利のままです。
ちなみに栃木県足利市の人口はわずか15万人(2010年)。

インタビュー記事を読むと、彼らは地方で活動を続けることに、
決意や信念が特別あるわけではないようですが、
そういう気負ってないところが逆に頼もしく見えます。

気負ってないといえば、彼らは昼間は普通に働いてます
会社員なのかアルバイトなのかはわからないですけど、
とにかく昼間は音楽以外の仕事をしながらバンド活動を続けているようです。
そういえば、レーベルオーナーのあびちゃん(安孫子真哉)も、
こないだ地元の牛乳屋さんに就職したそうです。

全国流通盤をリリースして、大手レコード店にCDが置かれているようなバンドでも、
昼間はバンド以外の仕事をしているケースは、決して珍しいわけではありません。
ひと昔前なら、そういう「食えない」状態は「恥」と思われてたところがありました。
でも、Car10のように昼間働いてることを(本人たちの目標はあくまで「食う」ことかもしれませんが)
あっけらかんとオープンにすることは、僕としてはとても素敵だなと思う。


よく「プロとアマチュアの違いは『食える』か『食えない』か」
というような言い方をする人がいます。
僕も芝居をやっていたので、こういう言い方を何度か耳にしたことがあります。
芝居だろうが音楽だろうが、あくまで一つの「仕事」なんだから、
それ一本で生活できるかどうかをバロメーターにすべきだ。
こういう割り切り方は、一見クールでかっこいいかもしれません。

でも、じゃあCar10やあびちゃんは「アマチュア」なのでしょうか。
そして、TVに出てるあのクソみたいなバンドは「プロ」なのでしょうか。
1万人以上動員してるけど公演費用がかかるからバイトしてる食えない劇団員は「アマチュア」で、
芝居はロクに作らずカルチャースクールの講師だけで食える劇団員は「プロ」なのでしょうか。

以前、この記事でも似たようなことを書きましたが、
僕の結論としては「どうでもいい」です。
僕はCar10がプロだから聴いてるわけでもアマチュアだから聴いてるわけでもなく、
単純に彼らの音楽が好きだから聴いてるわけで、それ以上でもそれ以下でもありません。

たしかに、一度は日本のバンド界の頂点を極めたといっていいあびちゃんが、
今は音楽とは関係ない仕事をしているのは、少なからずショックではあります。
ですが、そんなことはそもそも他人の僕が心配するような問題ではなく、
僕は彼が送り出す音楽に興味があるからフォローするわけで、
彼が昼間何をしているのかは、本質的に関係のないことです。
あびちゃんが何をしてようが、彼が作る音楽が良ければ聴くし、そうでなければ聴かないだけ

だから、少なくとも僕には「食える食えない理論」はまったく本質を突いていないので、
それを口にする人とはなるべく関わり合いにならないようにしてきました。
まあ、「食える食えない理論」って大体、その世界でギリギリ食えてる人が、
食えてない人を威圧させて優越感を味わうために振りかざすケースが多いんですけど。

とはいえ、実は僕も偉そうなことはあんま言えません。
20代の頃は「本当に創作に打ち込むためには仕事なんかしてちゃダメだ!」
「他の人が仕事してる時間も創作をしないといいものなんて作れない!」
なんてことを大マジで議論してました。
Car10の爪の垢でも煎じて飲ませてそのまま蟹工船にでも押し込んでやりたくなります。

でも、だからこそ、地方で働きながら、かっこいい音楽を作り続けている彼らのような存在は、
本気でリスペクトするしめちゃくちゃ応援したいです。








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宇多田ヒカル 『Fantome』

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「母になった私」ではなく
「母と私」を歌う


娘(0歳)が毎朝『とと姉ちゃん』を見てたら、
主題歌の<花束を君に>に反応を示すようになったので、
父さんは宇多田ヒカルの新作『Fantome』を買ってしまいましたよ。

宇多田ヒカルが『Automatic』でデビューしたのは、僕が高校3年生のときでした。
彼女とは2歳差なのでほぼ同世代です。
『Fantome』の発売前に超久々に『First Love』を引っ張り出して聴いてみたら、
一瞬で心が17歳の頃にワープしました。

僕が彼女をちゃんとフォローしてたのは2nd『Distance』までで、
決して熱心なリスナーというわけではなかったのですが、
今回、彼女が母親になって初めての作品を、
僕自身も親になったタイミングで聴くことになったり、
彼女が33歳になったと聞いて「俺も年を取ったな」と思ったりして、
同世代としての連帯意識みたいなものを感じました。

んで、『Fantome』です。
1曲目の印象的なイントロで一気に持っていかれるし、
<ともだち>椎名林檎とのコラボ曲<二時間だけのバカンス>なんて、
「さすがだな〜」「相変わらずかっこいいな〜」と思わず息がもれそうになるし、
最初に聴いたときは「ものすごく上質のポップアルバム」という印象。
買った初日、帰りの電車で夜の東京を眺めながらこのアルバムを聴いていたのですが、
椎名林檎のコメントにもあったとおり、
確かに彼女の音楽は東京の街によくフィットする気がします。

ただ、二度三度と聴き返しながら歌詞に耳を傾けるようになると、
<花束を君に><真夏の通り雨>そして<道>の3曲が気になるようになりました。

世界中が雨の日も
君の笑顔が僕の太陽だったよ
今は伝わらなくても
真実には変わりないさ
抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に

<花束を君に>


誰かに手を伸ばし
あなたに思い馳せる時
今あなたに聞きたいことがいっぱい
溢れて 溢れて

<真夏の通り雨>


私の心の中にあなたがいる
いつ如何なる時も
一人で歩いたつもりの道でも
始まりはあなただった

<道>


上記の歌詞に見られるとおり、
この3曲は明らかに、母・藤圭子のことを歌っています。
さよならさえも告げずに去っていった母への怒りがあり、
その葛藤を乗り越えて「始まりはあなただった」と言える心境になるまでの過程が、
かなり生々しく吐露されています。

デビュー当時の宇多田ヒカルは、
14歳という年齢と、その若さに似つかわしくない圧倒的な「本格派」オーラ、
そしてTVに出ないという当時の常識の逆をいく神秘さから、
「本当にこんな人がいるのか?」というようなフィクショナルな存在でした。
その印象を未だに強くもっている僕には、
今作の彼女の生々しさはとても衝撃的でした。
まるで宇多田ヒカルが初めて「人間」になったみたいに。

自身が母になって初めて作るアルバムで、
「母になった私」ではなく「母と私」を歌うところに、
僕は彼女の葛藤の深さを感じます。
※もちろん、彼女が母との葛藤を乗り越えていく中で、
 彼女自身が母になったことが少なからず影響しているはずであり、
 間接的に「母としての自分」が歌われているとも言えますが。


でも、だからこそ響くんだと思います。
自分も親になってみてつくづく感じるのですが、
人は親になったからといって、
聖人君子になるわけでも悩みがなくなるわけでもないんですよね。

だから、もしこのアルバムが、
子供への愛情だったり母性的なテーマを歌ったりして、
「母になった私」を全肯定するような内容だったら、多分僕は引いてたと思います。
そうではなく、「さよならの前に私を抱きしめてほしかった」と満たされない思いがくすぶる、
「母なのに不完全な私」をさらけ出すからこそ、
僕はぬくもりをもったシンパシーを感じるのです。

僕にとっての宇多田ヒカルはやはり
一人のアーティストというよりも、
仲間意識のもてる一人の同世代の人間という位置づけなんだなあと、
今回のアルバムで改めて感じました。
同じように感じてる僕ら世代の人、少なくないんじゃないかなと思います。









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桑田佳祐 『ヨシ子さん』

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現代の「ええじゃないか」は
悲しいほどに不真面目


桑田佳祐が6月にリリースした新曲<ヨシ子さん>
誰も賛同してくれなさそうなので恐る恐る書くんですけど、
僕はこの曲が、ソロ、バンド含めた彼の全キャリアの中で、
ベストな楽曲だと思っています。

最初に聴いたときにまず「おおおっ」と思ったのは、イントロ。
エスニックな響きを奏でる怪しいキーボードの音は、
ロックでもポップスでもなく、強いて言えば日本の「音頭」
音頭で曲を始めちゃうなんて、
いかにも桑田佳祐らしい音楽的アメーバっぷりです。

でも、このイントロの一番の聴きどころは、
音頭のようでありながらも、陽気さや明るさがなく、
むしろ不穏な、暗い緊張感を漂わせているところです。

そもそもこの曲は、「R&Bって何だよ」と嘆く、
中年の悲哀を描いたコミックソングなのでしょうか。
それとも「ニッポンの男達よ Are You Happy?」と投げかける
よくあるメッセージソングの一つなのでしょうか。

僕は違うと思う
コミックソングもメッセージソングも、桑田佳祐の「擬態」にすぎません。
イントロの不気味さに表れているように、
この曲は本当はもっとひねくれているし、
もっとまがまがしいものをはらんでいます。

例えばこの歌詞です。
EDMたぁ何だよ、親友(Dear Friend)?
“いざ”言う時に勃たないやつかい?

この歌詞が、主人公(桑田)が本当にEDMを知らないのか、
本当は知っているのかで、意味合いはまるで違ってきます。

前者ならば、時代についていけずに恥ずかしい間違いを犯してしまった、
悲しいけれどちょっと愛嬌のある中年男性。
ところが後者ならば、分からないフリをしながらわざと間違えることで、
「流行」の虚飾を引きはがし、権威をコキ下ろそうとする策士の顔が見えてきます。
そして、桑田佳祐は間違いなく後者です。

大体、なぜあんなに得体の知れないイントロを、
シングルの、しかもA面曲に持ってくるのか。
彼はちょっと本気を出せば<いとしのエリー>や<Oh!クラウディア>のような名曲を量産できるのです。
それなのに、やらない。
期待に応えられるのに、応えない。

本当は分かってるのに、分からないフリをする。
本当はマジメにできるのに、できないフリをする。
これは、一流の意地悪にしかできない芸当です。
そして、その意地悪の動機になっているのは、怒りです。

では彼は何に対して怒っているのか。
矛先は表面上、現在の音楽業界やJ-POPに向けられているように見えます。
あえて「外した」イントロを持ってくるのもあてつけだし、
「こっち側」の人間としてディランボウイの名前が出てくるのも象徴的です。
でも、彼は決してR&BやEDMをバカにしたいわけじゃない。
本当の獲物、バカにすべき「本丸」は別にあります。

<ヨシ子さん>の意味不明っぷりは、これまでの曲よりもさらに加速しています。
だって「チキドン エロ本」なんていうコーラス、ありますか?
「上鴨そば!」なんていう合の手、ありますか?
例えば「マンピーのGスポット」にも意味はありませんでしたが、
「エロ」「ギャグ」という一種の役割はありました。
でも「上鴨そば!」にはそんな役割すらもない。
お得意の親父ギャグやダンスやらで相当口当たりをマイルドに仕上げていますが、
<ヨシ子さん>のシュールさ、意味不明っぷりは、
まるで聴く人を突き放しているようにすら思えます。

それを考えると、僕はこの曲が作られた背景として、
2014年の紅白と年越しライブでの、例の謝罪事件が頭に浮かびます。
僕はあの程度のことで謝罪する必要なんて少しもなかったと思うし、
日本で一番のロックバンドとして謝罪すべきでないとすら思っていたので、
すごく残念だったし、ああいう思想が一定の圧力を持つようになった現実に心底暗澹としました。

でも、桑田佳祐自身もあの事件で、<ピースとハイライト>のような、
マジメなポップソングでマジメに世相を揶揄することが嫌になったんじゃないかと思います。
無力感や虚無感で、「マジメ」にやることが本当にバカバカしくなったんじゃないかと思います。
ただ、いきなりバンドでその心境を露わにするのはためらわれたから、
ソロのシングルで行動に移した。
それが<ヨシ子さん>だったのです。
つまり、この曲の怒りの矛先は「日本」だったんじゃないかと思うのです。

怒りが沸騰するあまり、ひたすら享楽的で意味不明なものに走る。
僕はこの<ヨシ子さん>は現代の「ええじゃないか」なんじゃないかと思います。
参院選の後にこの曲を聴くと、このヤケクソ感はさらに強くシェアできそうな気がします。
桑田佳祐の曲で、<ヨシ子さん>ほどエモーショナルな曲を、僕は知らない。








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toddle 『the shimmer』

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「ボーカリスト・田渕ひさ子」
というぜいたく


NUMBER GIRLbloodthirsty butchersという伝説的な、
そして圧倒的にクセのある2つのバンドでギタリストを務めてきた田渕ひさ子
彼女は、自分が所属するバンドとは別に、
自らがリーダーとなって率いるバンド、toddle(トドル)でも活動を続けています。

元々はNUMBER GIRLが解散した直後の2002年に、
田渕が「自分のバンドを作ろう」と始めたバンドで、
その後彼女がブッチャーズに加入して以降もマイペースな活動を続け、
これまで3枚のアルバムを発表しています。

僕が田渕ひさ子のギターを初めて聴いたのは、
NUMBER GIRLの名曲<鉄風鋭くなって>でした。


もっともそのときは、曲はかっこいいなーと思ったものの、
向井秀徳(Vo)のインパクトが強すぎて、
田渕ひさ子のギターは耳に引っかかりませんでした。
ただ、「激しい曲なのに女の人がギターを弾いている」という光景が、
すごく意外に映ったのを覚えています。
僕が彼女のギターをちゃんと意識したのはずっと後、
彼女がブッチャーズに加入して以降のことでした。

田渕ひさ子のギターはすごく不思議ですよね。
テクニックで押してくるわけでも、アクションで激しく存在をアピールしてくるわけでもないのに、
なぜか記憶に残るというか、強烈な記名性があります。
単に音が歪んでいるとか重たいとかいうことを超えて、
聴いているだけで悲しくなってくるような、あるいはギターを通して胸を直接かき鳴らされてるような、
感情にダイレクトに訴えかけてくるギターだなあと感じてきました。
陽性の感情ではなく、陰のある感情を刺激するところも、
洋楽では見られない、日本的なギタリストの感性という気がします。

ただ、自身のバンドtoddleでは、
ナンバガやブッチャーズのようなギターの音は、あまり目立ちません。
どちらかというと、バンド内のもう一人のギタリストである
小林愛との音の絡みに重点を置いている印象です。
では、このバンドtoddleの聴きどころは何なのかといえば、
ギタリスト・田渕ひさ子ではなく、「ボーカリスト・田渕ひさ子」にあります。

向井秀徳、吉村秀樹という、超がつくほど個性的なボーカリストが横にいたので霞みがちですが、
これまでも田渕は(数は多くないものの)コーラスとして歌を歌う機会はありました。
ブッチャーズの最新アルバム『YOUTH』でも、リードトラック<デストロイヤー>において、
彼女の素朴で力の抜けた声が吉村のアクの強い声をうまく中和し、
ある意味では吉村以上の存在感を放っています。


11年にリリースされた現時点でのtoddleの最新アルバムにあたる『the shimmer』は、
過去の2枚よりも楽曲がポップに進化していて、
田渕の優しいボーカルが最も生き生きと聴こえるアルバムです。
特にリードトラック<shimmer>や<melancholic blvd.>といった楽曲では、
少女のような瑞々しさと母性とが同居していて、すごく不思議で素敵。

フルカワミキnoodlesのyoko、最近だとやくしまるえつこラブリーサマーちゃんなど、
90年代後半以降の邦ロック界の女性ボーカルには、
「脱力系」「少女系」というような訥々と歌うスタイルが、常に一定以上の支持を集めてきました。
田渕ひさ子もその系譜に連なるボーカリストだと思うのですが、
その中で「母性」までをも声ににじませられるのは彼女くらいしか思い浮かばないかも。

いよいよ来週7/27、この『the shimmer』以来、
実に5年ぶりとなるtoddleの新作『Vacantly』がリリースされます。







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Homecomings 『SALE OF BROKEN DREAMS』

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傷つく人ではなく
傷つく人を見守る人になった


1曲目に置かれたのは<THEME FROM SALE OF BROKEN DREAMS>という、アルバムタイトルを冠した曲。
さぞかしド派手な曲かと思いきや、わずか2分弱の、ボーカルはハミングのみというインスト曲で、
この1曲目が終わると、その残響の中で2曲目のギターリフが静かに始まり、
まるで序章を終えていよいよ本編が始まると言わんばかりに、
畳野彩加のゾクゾクとした予感をはらんだ歌声が聴こえてくる――。

改めて過去の作品を思い返して見れば、
このバンドがアルバムを単なる曲の寄せ集めではなく、
「一つの作品」として、トータルに捉える傾向が強いことが分かります。
例えば2014年の暮れにリリースされた前作『Somehow, Somewhere』でも、
<I Want You Back>をはじめとする既存曲をわざわざレコーディングし直してまで、
アルバムを一つのトーン、一つのカラーに統一しようとしていました。

しかし、我が愛するHomecomingsが、まさか2枚目にして、
ここまでコンセプチュアルに作り込んだアルバムを持ってくるとは。

冒頭に、インストの1曲目と2曲目の関係を「序章と本編」と書いたのは、
丸っきりの比喩というわけではありません。
福富優樹(Gt.)がライナーノーツで語っているようにこのアルバムは、
先行シングル<Hurts>制作時に彼が思いついた
SALE OF BROKEN DREAMS」という一つのフレーズを基にして、
ある架空の街を舞台にした一種の短編小説のようなつくりをしています。

歌詞からひも解けば、この街には「野球の球場」があり、街灯は「オレンジのライト」をしていて、
公園とベンチ」があって…とまあ、どこにでもある街ではあるのですが、
じっくり歌詞を読んでいくと、それぞれの曲で登場人物は異なりながらも、
皆同じ空の下で、同じ空気を吸っていることがなんとなくイメージできます。
安心しなよ
何にもないように見えるこの街からだって
始まったことはたくさんあるんだよ

<DON’T WORRY BOYS>

ひとりぼっちに見える街灯は
誰にも気づかれないようにしているだけ

<BLINDFOLD RIDE>

あと何時間かしたら
すっかり明るくなってしまうとは到底思えないほど
夜はどこまでも真っ暗に見えた

<BUTTERSAND>

細かいディティールは分からなくても、なんとなく伝わってくるというか、
どの主人公も、決して幸せの絶頂!というわけではない。
むしろ、誰かと別れ一人になってしまった寂しさや、
眠れずに朝を迎えようとしているぼんやりとした不安といった感情が見えます。

以前、僕はホムカミの音楽を表すキーワードとして「喪失感」を挙げました。
今回、2枚目となるこのアルバムを聴いて、
(少なくとも僕の感じ方からすると)改めてこのキーワードを強く意識したのですが、
歌詞としても、音の質感の統一という点でも、
「喪失感」を物語として仕上げていく才能が、前作より一段と開花していると感じます。

確かに1曲1曲の強度(インパクト)という点では、
前作や『Homecoming with Me?』の方が上かもしれません。
しかし、一つの作品として見るなら、やはり今作『SALE OF BROKEN DREAMS』が優れていると思います。

実は、ちょうどこのアルバムのわずか1週間前にリリースされたのが、
先週紹介したスカートの『CALL』でした。
「ストーリーテラー」という性格の強い2つのアルバム(バンド)が続いたのは、面白い偶然でした。



最後にもう一度「喪失感」という話に戻ります。
1年半前の前作『Somehow, Somewhere』のときは、曲の主人公は僕自身でした。
歌詞やメロディに塗り込まれた喪失感を、自分自身のものとして、僕は感情移入していました。

ところが今回のアルバムでは、以前に比べてその感情と距離が生まれたことに気づきました。
もちろん感情移入はするんだけど、当事者という感覚ではなく、
主人公を応援したり、見守ったりする目線の方が近いのです。
改めて前作を聴き直してみても、やはり同じように距離を感じるので、
原因は作品ではなく、僕自身にあります。

この1年半の間に何があったんだろう…と考えて、あっさり答えが見つかりました。
子供ができたことでした。
自分に子供ができたことで、ちょっと大げさですが、僕は世界の主役から脇役へと移り、
そのことがホムカミの音楽に対する距離感や立ち位置を変化させたんだろうと思うのです。
スカートとホムカミを聴いて、一番ハッとしたのは、実はこのことでした。








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スカート 『CALL』

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僕が作れなかった歌は
永遠に僕のもの


東京出身のシンガーソングライター、澤部渡によるバンド、スカート
元々は彼のソロ企画的なアーティストネームでしたが、
最近はカメラ=万年筆の佐藤優介や昆虫キッズの佐久間裕太らがほぼ固定でサポートに入っていて、
邦インディーズ界のスーパーバンドとして認知されています。

澤部さんは1987年生まれなのでまだ20代で、僕よりひと世代下。
でも10代の頃からスカートとして活動しているからキャリアは長いし、
ギターやベースだけでなく、ドラムやサックスまで演奏できるマルチプレイヤーだし、
(先日はMステでスピッツのバックでタンバリンと口笛を担当していましたね→まとめ記事になってた!
なんとなく僕は「澤部さん」とさん付けで呼んでしまう(彼の風貌から来る貫禄、というわけじゃない)。

ちょっとマニアックだけど、僕が「澤部さんかっこいいな!」と感心したのは、
いつだったかココナッツディスク池袋店で期間限定で配布されていた、
澤部さんミックスのCD-R「’86-’90 CHAGE&ASKA」。
いきなり<WALK>から始まるという、うおおお!な選曲に興奮してたんだけど、
何よりすげーなと思ったのは、確かこれ、ASKAが覚せい剤で捕まった直後だったんですよね。
このタイミングでチャゲアスを選んでくる澤部さんのスピリット(音楽に罪はない)にシビレました。

んで、前置きがだいぶ長くなってしまったのですが、
そんなスカートの3枚目となるフルアルバム『CALL』が4月にリリースされました。

幕開けに置くにはあまりに情感たっぷりな<ワルツがきこえる>
夏の日の夜明けを思わせる、静かな中にも始まりを予感させるタイトル曲<CALL>と、
その姉妹編のような<どうしてこんなに晴れているのに>の甘く美しい展開。
反対に、夜の街の光に溶けていくようなファンキーなチューン<暗礁><回想>



元々ソングライティングについて高く評価されていたスカートですが、
それを踏まえても今回の作品はこれまで以上にカラフルでドラマチックです。
初めてレーベルに(それもインディーの雄、カクバリズムに)所属して制作したことで、
いろいろな面で自由度が上がったのかもしれませんが、
これまでは美しいメロディを歌っていても、その歌声にはどこか焦燥感や不安が滲んでいたのが、
今作では歌の中身に寄り添った、純粋な「語り手」に、
収録曲のタイトルを借りれば、ストーリーテラーに徹しきれている感じがします。

そういう意味では、『ストーリー』(2011年)のような前のめり感を期待すると、
バランスのとれた今作は物足りないかもしれません。
でも、決定的に変わらないのは、歌詞の紡ぐ世界観です。

どうしてこの人の書く歌詞はこんなにも悲しいんだろう
具体的なディティールは分からなくても、どの曲の主人公も間違いなく、
大切な誰かと別れた、あるいは大切な何かを失ってしまったことがうかがえるのです。
針のような痛みを見せたい
あなたにも
たとえ季節に見放されても

<アンダーカレント>

手放した日々の先を
たおやかな祈りの その先を
照らしてほしいよ
でももう遅い

<はじまるならば>

なんか「そんなにさらけ出すの止めて!」という気になっちゃう。
「そういうのいいから!もういいから!」みたいな。

でも、澤部さんは悲しさそのものを歌いたいんじゃなくて、
そこからどうしたら再生できるかを音楽を通して探っている気がします。
その方法は歌詞として書かれる場合もあるし、メロディで表現されている場合もあるけど、
とにかく、漠然としながらも強い意志の力があります。

僕が好きなのはこの歌詞。
君が作れなかった歌は
いつまでも
君のものだよ 君のものさ!

<いい夜>

これ、最初に聴いたときは耳に引っ掛かってくれなかったんだけど、
歌詞カード読んで「ああ…」と崩れ落ちそうになりました。








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