週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

■備忘録

「ランナー」始めて5年が経った



ランニングは運動ではなく
「哲学」である


この9月でランニングを始めてから丸5年になります。
この5年の間に転職があり、結婚があり、子供が生まれと、
大きなイベントがいくつもあったのですが(あ、劇団の公演も2回あった)、
その間、ひたすらずっと走り続けてきました。

もちろん、長い距離を連続して踏めるような調子のいいときばかりではなく、
走る気力が湧かずに短い距離でごまかしたり、風邪やケガで一時的に走れないときもありました。
それでも、一度として「やめる」ということは考えませんでした

最初に走り始めたときは500mで息が上がりました
でも、それがだんだんと(本当にだんだんと)息が続くようになり、
10km、20kmと走れる距離が延びていきました。
かつて学年で一番足が遅く、持久走の授業では何度も「オエエッ!」とえづいていたことを思うと、
こんなに長い距離を走れるようになったことも、一度もやめようと思わないほど走り続けられていることも、
我ながら(5年経ってもいまだに)つくづく驚いてしまいます。

ランニングの記録用にいつも使っているのが、「Runkeeper」というスマホアプリです。
確か走り始めて2回目とか3回目とか、とにかく間もない頃から、
このアプリで毎回記録をとっています。
今は日本語版がローンチされてるんですが、当時は英語版しかありませんでした。

Runkeeperによると、2011年9月から16年8月までに走った回数は767回
総走行距離は8194kmだそうです。
単純計算で2.38日に1回、1回平均10.6kmを走ってることになります。
ちなみに、これまでに消費した総カロリー数は623,656kcal
体重1kg減らすのに必要なカロリーはざっくり7000kcalだから、
おお、これまで体重89kg分走ったことになるのか。

そして、これまで1回のランニングで走った最長距離や時間、最速ペースなんかも見ることができます。
一部を見てみると、

■一番長く走った距離:40.5km
42.195kmは超えてた気がしたのですが、ギリギリ足りなかったみたいです。
調べてみると、2013年の9月、横浜から池袋まで走ったときのことでした。
国道15号線をひたすら20km北上して、目黒川にぶつかったらそのまま川沿いを上流へ走り、
新宿から明治通りを走る、というコースでした。

9月だったのでまだ気温が暑くて、めちゃくちゃキツかったのは覚えてます。
早稲田あたりで雑司が谷の崖の向こうに池袋サンシャインが見えたときは、
「おおおお…」と声が漏れました。

■一番高く上った標高:1129m
これ、ブログに以前書きました。
東海道ラン4日目に、小田原から三島まで、つまり箱根の山越えをしたときのことです。
(そのときの記事はこちら
実際には石畳が急すぎて半分以上は歩きだったんですが、
それでも1000m以上のぼって30km以上の距離を、しかも真夏の昼間に走るなんて、
我ながら正気の沙汰じゃないですね。
でも、記事にも書いたけど、藪をかき分けながら道なき道を走る「冒険」のようなルートは、
今でも一番楽しかったランとして記憶に残っています。
ちなみにスタートからゴールまで5時間19分という時間も過去最長でした。
(1km平均9:57という、早歩き程度のスピード)

■一番速かったペース:???
キロ3:18という記録がデータ上は残っているのですが、
これは明らかにGPSの不具合。
そんなに速いペースでは走れません。
5年経ってもキロ5分を切れるかな…くらいがせいぜいです。


ランニングは「足を前へ出す」という、たった一つの行為の繰り返しです。
走るという言葉を、そのまま「繰り返す」という言葉に置き換えても成立する気がする。
その半永久的な反復性こそが、ランニングの本質です。
(それが「退屈」だと感じる人の気持ちも、まあわかる)
でも、僕にはこの「ただ繰り返すだけ」ということが、思いのほか肌に合っていたようです。

レースに出て記録を狙うわけでもなく、仲間と一緒にワイワイ走るでもなく、
ただ半永久的な反復性の中に身を置くこと自体が僕には快感であり、走ることの醍醐味なのです。
もちろん、走っている時間が全部で10だとしたら、
気持ちいい時間なんて、せいぜい1か2です。
残りは全部しんどい。
そもそも気持ちいいなんて一度も思えずに、キツイまま走り終わることの方が多いかもしれません。
でも、そういうあてのない一種の探究の時間を、生活の中にコンスタントに設けることは、
実は最高の贅沢なんじゃないかと思うことがあります。

ランニングに向く/向かないを分けるのは、
体力があるかとか、運動が好きかとかではなく、性格なんだと思います。
それがどういう性格なのかといわれると難しいんだけど、とにかく僕は走ることに向いていた。
東海道ランのように旧道を探して歩いたり、東京中の暗渠を探して走ったりと、
歴史や地図、地形といった元々の趣味とランニングとが結びつくという、意外な展開もありました。
そう考えると、あのとき何の気なしに走り始めて、本当にラッキーだったと思います。

走ってるというとよく「ストイックだね」といわれますが、
少なくとも僕はストイックじゃないし、追い込んでもいない。
誰かと一緒に走ったりもしないし、レースにも出ないし、目標もない。
むしろ、「他人との競争」とか「自分の目標」なんていう煩わしいものから、
できるだけ自由になりたくて走っているのだから、
ただ自分の好きな場所を、好きなスピードで、好きな距離だけ走るというのが
唯一の僕のポリシーです。
そのために必要な走力と時間さえあれば、他には何も要らない。
僕にとってランニングとは運動ではなく、哲学なのだなあと思います。

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ついに「電子書籍デビュー」を飾ってしまった話

今週も本の話題。
でも、今日は僕自身の体験の整理のような、極めて個人的な内容です。

2015年は僕にとって「電子書籍元年」でした。

紙に印刷された文字を読むのと、液晶画面をスワイプしながら目で追うのとでは、
内容に対する親近感も理解度も全然違うだろう。
そもそも、装丁や紙の匂いやカバーの手触りといったモノとしての要素を含めて「本」である。
それを、モバイル端末の中の1ファイルとして、Yahooニュースと同じ感覚で消費する行為を、
「本を読む」などと間違っても呼びたくない。
…長年そんな風に考えて、頑なに電子書籍を拒絶していたのですが、ついに陥落しました。

理由は子供が生まれたことです。
子供が成長して子供の物が増えて、子供部屋なんかを作った日には、
既に本棚の容量の倍以上にまで増えてしまった僕の蔵書約2000冊は、明らかに「邪魔」です。
しかし、もうこれから先ずっと本を読まないなんてこともできそうもない。
要するに、これからも増え続けるであろう本をどこにしまっておくのか(いやもう無理だ)という、
極めて物理的な理由から、断腸の思いで電子書籍に手を出したのです。

子供が妻のお腹の中で大きくなり、生まれてからの生活を具体的にイメージし始めた時期に、
たまたま『本で床は抜けるのか』(西牟田靖)という本を読んでいたのもきっかけの一つです。

数千冊という蔵書を持つ著者が、木造アパートに仕事場を移したのをきっかけに、
本の持ちすぎで床が抜けた人はいるんだろうか?という疑問を持ったところから始まるルポで、
建築士の人に、何冊の本をどのように置いたら床が抜けるのかを実際にシミュレーションしてもらったり、
あまりの蔵書の数に実際に自宅の床が崩壊したという井上ひさしの伝説を追ったりする、
バカバカしい(いや本人にとっては深刻)テーマを大真面目に追求した面白い本です。
(終盤、著者の身に意外な展開が起きて、ラストは苦〜い気持ちになります)


この本を読みながら僕も、自宅でパンパンになった高さ2mの本棚3台と、
入りきらない本を詰めた業務用段ボール4箱を前にして、
今後の家族の生活というものを真剣に考えてみたところ、
思い切って処分する&電子書籍に切り替える(しかない)、という結論に至ったわけです。


んで、そこから約半年。
電子書籍での読書生活はどうかというと…


全然OK問題なし

もうね、今では紙の本と電子書籍があったら進んで電子書籍の方を買うし、
むしろ電子書籍がなければ電子化されるまで待つくらいの勢いです。

あれだけ紙の本へのこだわりをもっていた僕が、
なぜこんなにも簡単に180度の転向を遂げてしまったのか。
前置きが長くなりましたが、以下がその理由です。


理由その1:わざわざ専用の端末を買う必要がなかった

僕が電子書籍を購入しているのはKindle
それをiPhoneのKindleアプリで閲覧しています。
国内の大手書店チェーンも独自に電子書籍ストアをオープンし、
それぞれが独自のアプリを配布していますが、
本の購入元によってアプリをいちいち使い分けるのは煩わしいので、Kindleオンリーです。

元々持っていた端末がiPhone 6 Plusだったのは大きかったと思います。
スマホの小さな画面で本を読むと疲れるのでは?と心配していたのですが、
6 Plusの画面であれば特に問題ありませんでした。
なので、イニシャルコストはゼロ(もちろん本の代金はかかりましたが)。
「合わなかったらやめればいいや」と気楽な気持ちで始められたのは良かったです。


理由その2:同時並行読みができる

僕は複数の本を同時並行で読むクセがあるのですが、
紙の本の場合、外出する時に全部を持ち運ぶとかさばるし、
かといって1冊に絞るのも難しいし…という難点がありました。
なので、何百冊だろうが端末ひとつで本を持ち運びできるのは画期的でした。

実は一時期、Kindleの専用端末を検討したこともあったのですが、
複数端末を持つことになると結局持ち運びや使い分けの必要が出てくるので、
あんまり意味ないなあと思ってやめました。


理由その3:どんな本でも片手で読める

ゆっくりと自宅で時間を取ることが難しくなってしまったので、
本を読むのは通勤電車の中や会社の昼休みといったスキマ時間がメインになりました。
そういう環境を考えると、片手で操作できるスマホというのはUIとして理想的。
紙の本の場合、ハードカバーになると片手で読むのはかなりキツイです。
なので、これまで外出時は基本的に文庫本しか持ち運べなかったのですが、
電子化したおかげでハードカバー本も外で読めるようになりました。
この「片手で読める」って自明のことのようだけど、僕けっこう感動しました。


理由その4:バックライトがつく

これも当たり前と思われるかもしれないけど、僕が感動したことの一つ。
僕の貴重な読書時間には、電車の中と昼休みともう一つ、
布団に入ってから寝落ちするまでの時間、というのがあるんですが、
紙の本の場合、電気スタンドをつけなきゃいけないし(たまにつけっぱなしで寝るし)
たまにホテルとかでスタンドがない部屋だと読めなかったりするし、
環境に左右されるという難点がありました。
その点、スマホだとバックライトがつくので、電気を消しても読めるし、
途中で寝落ちしてしおりを挟み忘れても、次の日「どこまで読んだっけ?」と読み返す必要ないし、超便利。

---------------

このように、自分の読書スタイルを考えると、
紙の本よりも電子書籍の方がフィットする点がはるかに多かったのです。
「片手で読める」「何冊も持ち運べる」といったことは電子書籍そのものの売りですが、
実際に使ってみたら、インパクトは想像以上でした。
そう考えると、これまで当たり前だと思っていた紙の本というインターフェースに対して、
実は潜在的な不満を持っていたってことなんでしょうね…。

最後に、僕が考える紙の本の利点も書いてみます。
1つは、図版や写真が多い本は紙の方がいいと思います。
図版や写真は一度に視界に入る大きさが肝なので、
拡大縮小が自由な電子書籍よりも、そもそも大きく掲載している紙の本に分があります。
なので、地図の本とか歴史資料本なんかは紙で買ってます。
(あ、でも画面が大きいタブレットにしたら問題解決すんのかも…)

もう1つは、これは慣れの問題なのかもしれないけど、
やはりスマホという端末の主な使い方が影響しているのか、
どうしても電子書籍の内容は「情報」として流れていくような気がします。
フローとストックという、よく使われる表現を用いるなら、ストックされていく実感が紙の方に比べて少ない
わかりやすくいっちゃうと、飽きるのが早いように感じます。
だから、複雑で重たい内容の本は紙の本で買うようにしています。


さて、これで本というソフトの山の整理には着手できたわけですが、
我が家にはもう一つ、そして本よりもさらに巨大なCDというソフトの山が控えています。
でも配信はイヤなんだよな〜。





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『イニュニック〔生命〕』 星野道夫 (新潮文庫)

Inuuniq

「国家」という境界線が
存在しない世界の話


著者の故・星野道夫は動物写真家。
北米アラスカを拠点にしながら長年にわたり、
カリブーやブラックベアーなどの北の動物と自然を撮り続けてきました。

何カ月にも及ぶカリブーの群れとの追跡行や、原野の川をカヤック一艘で下る船旅。
イヌイットをはじめとする現地の人びと。そして零下50度という厳しく長い冬。
本書『イニュニック〔生命〕』は、そのようなアラスカでの暮らしの中で綴られました。

ある日、何の前ぶれもなく、ボーンという小さな爆発音が聞こえ、半年もの間眠っていた川は一気に動き始めた。すさまじい音をたて、ぶつかりあいながら流れに乗ろうとする無数の巨大な氷塊を見ていると、やはりこの土地の自然がもつ動と静の緊張感に立ち尽くしてしまう。あれほどきっぱりと季節の変わる瞬間を告げる出来事があるだろうか。

人の気配などない、名もない無数の入り江。水際まで迫るツガやトウヒの原生林。岸壁を落ちる氷河を源とする滝。この土地の入り江の美しさは、初めて見た者に言葉を失わせる。それは手つかずに残された自然のもつ、気配の美しさでもある。

簡潔で素朴な星野の文体が、アラスカの自然とよく合います。
アラスカの原野の多くは太古の昔からほとんど人の手が入っていません。
それだけ自然が厳しいということです。
しかし、そのような厳しい環境の中にも、動物や植物の営みがあり、
それらは驚くほど複雑かつ有機的に連携し合っています。
川も森も、その多くは名前さえ付けられず、
ただ連綿と生まれ、子孫を残し、死ぬというサイクルを繰り返しているのです。

そして夜空に浮かぶオーロラに、海に流れ着く氷河の欠片。
アラスカの自然は時間軸のケタが違います。
また、そこで暮らす人々の精神も、僕らとは異なる位相の中にいる。
読んでいるうちに、時間がゴムのようにグイーンと伸びるような、奇妙な感覚に包まれます。



ちょうどこの本を読んでいる最中に、
例の集団的自衛権に関する閣議決定が行われました。
この一連の、あまりに愚かな決定については、
もうきっと止められないんだろうと諦めていたので(そして実際その通りになってしまったので)、
たまたま手に取った本だったものの、本書は僕にとって一時的な現実逃避先になりました。

ページの合間から吹き込んでくるアラスカの凍てついた空気と、イヌイットたちの自由な精神の薫りは、
確かに一時的に僕を堅固な壁で覆ってくれました。
しかし同時に、ネットやテレビから入ってくる現実と本書とのギャップがあまりに激しいからこそ、
暗澹たる気持ちになっていったのも事実でした。

僕が不満(なんていう生易しい感情じゃないけど)なのは、
集団的自衛権の是非云々とかそんなことよりもまず、
「解釈改憲」という民主的プロセスを全く踏まないやり方で押し切ろうとしている点です。
僕は集団的自衛権そのものよりも、むしろこっちの方が危ないと思う。

とにかくもう、打ちひしがれています。
震災ではまるで感じなかった「絶望」という徒労感を、僕は今、感じています。
官邸前のデモにも、参加しようかなと一瞬考えたけど、結局やめました。
きっとあの人たちはそんな声には耳を傾けないだろうし、
そもそも一昨年12月の衆院選の段階で、原発再稼働も特定秘密法案も集団的自衛権も、
全部こうなることは決まっていたのでしょう。
(いやもちろん、行動するということは大切だとは思う)
安倍首相の資質に対する絶望感だけでなく、
彼(と自民党)を支持する人がこんなにもいるということに、僕は深い徒労感を覚えます。

だから僕は、一市民としての権利は今後も行使するとして、
(基本的には投票、デモに参加する可能性もあるかもしれない)
これからは「いかに国家に期待せずに生きていくか」を考えることに力を注ごうと思います。

人によっては「ハナから国家なんて期待してないよ」と言うだろうし、
「そんなの大前提でしょ」と言うかもしれない。
実際僕もそのつもりだったんだけど、実は内心では「日本」というものにわりと深く期待していたことを、
安倍政権発足以降のこの1年半で痛感してしまいました。
ちなみに僕が今指している「期待」というのは、「国が何かをやってくれる」ということではなく、
「そんなに日本は愚かじゃないだろう」「なんのかんの言っても日本はかつてと同じ轍は踏まないだろう」
ということです。「日本を評価している」と言い換えてもいい。
でもまあ、とにかくそれは大きく改めなくてはいけないのでしょう。

んで、国家に期待せずに生きていくにはどうしたらいいか。
月並かもしれませんが、結局はもう徹底的に、ヤケクソ的に、「個人」の世界に埋没し、
そこを充実させていくしかないんじゃないでしょうか。
具体的には趣味、家族、友人。そのあたりが頭に浮かびます。
自分だけの(厳密には家族や友人は「だけ」ではないですが、自分の責任と力が及ぶミニマムの)世界、
そこに自分自身のよりどころを求めるしかないんだろうなあと思います。
※他者に自由がゆだねられているという点で、仕事(サラリーマン限定)はその対象にはなりません

そして、今後もし、日本がいよいよ「アカン!」という時が来たら、
「自分だけの世界」を連れて、とっとと日本を捨てるのです。
非国民と言われようがなんだろうが気にしないくらい、
日本という国よりも大事な「自分だけの世界」を築くのです。
※そう考えると、さしあたり必要なのは英語とか貯金とかどこの国でも食える専門スキルとか、
 そういった汎用的な資産なのかもしれません



『イニュニック』の話に戻ります。
アメリカ合衆国の所属州という行政的な枠組みを無意味に感じさせる、
アラスカという大地の広がり。
そしてイヌイットや、著者をはじめアラスカに移り住んだ人たちがもつ、自由な精神性。
本書に書かれた世界を読んで(見て)いると、
これからの日本で生きていくことの勇気みたいなものが湧いてきます。

子どもや孫世代のことを考えると、
「自分の世界に没入しているだけ」というわけにはいかないのかもしれませんが、
しかしそれも本書に登場する、
アラスカに移住したジョーンズ一家のあり方がヒントになっているかも。

このタイミングでこういう本に出会えたことは良かったです。
とりあえずは、ね。





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「音楽で食わずに、音楽と生きる」ことについて僕も考えた

「仕事or趣味」という二元論は
ナンセンスなんじゃないだろうか


多くの愛読者(僕もその一人)をもつ音楽ブログ「レジーのブログ」で、
3月から『音楽で食わずに、音楽と生きる』という連載企画が始まっています。
昼間は音楽と関係のない仕事をしながら、
それ以外の時間で音楽ライターやバンドスタッフとして活動をしている人たちへのインタビュー企画です。
(これまでのところ、前口上1回、本編3回がアップされています)

前口上
case1 会社員×音楽ライター
case2 会社員×バンドスタッフ
case3 会社員×アーティストメディア編集者

記事を読むと音楽業界の(というほど僕は詳しくないですが)潮流の変化みたいなものを感じます。
きっと、かつてはレコード会社や有名雑誌といった、
いわゆる「業界の人たち」が強かったんだと思うのですが、
最近はそうした既存の枠に捉われない働き方や関わり方も生まれつつあるんだなあと。

ただ、僕がこの『音楽で食わずに、音楽と生きる』という企画で一番刺激を受けたのは、
ここに登場する人たちの「生き方」そのものです。

会社員として勤めながら、別の時間で違う仕事をする。
いわゆる「パラレルキャリア」の一つではあるのですが、この企画に登場する人たちは、
副業として稼いでやろう!とか、あわよくばこれを本職にしてやろう!というような、
ギラギラした目的で(別にそれが悪いってわけじゃないけど)二足のわらじをはいているわけではありません。
「音楽が好きだから」「楽しいから」というシンプルな「思い」によって、
彼らは自分独自の音楽との関わり方を見つけ出したのだと思います。

「音楽と関わる」というと、大抵、「音楽を仕事にする(音楽で食う)」こととイコールにされがちです。
(これ、映画とか演劇とかアート系は大体置き換え可能です)
もちろんそれは間違いではないんだけど、正確に言うなら「仕事にする」というのはしょせん手段であって、
「音楽と関わる」ということの本質は、その人の「思い」であるはずです。
好きな音楽と出会えた喜びであったり、音楽を通した人とのつながりであったり。
もちろん、ミュージシャンやレコード会社の社員や専業の音楽ライターになれれば理想なんでしょうが、
現実には誰もがそれをできるってわけじゃありません。
僕が言いたいのは、じゃあそうした「仕事」という手段を手にすることができないからといって、
「音楽と関わる」という思いまでを捨てる必要はないだろうってことです。

こういうのって「きれいごと」の一言で切り捨てられがちだし、
実際、何らかの事情で諦めざるを得ないケースとかいろいろあるとは思うのですが、
僕はどうしてもこの「きれいごと」(=思いが大事!)にこだわりたい。
というのは、僕自身がかつて劇団でこの問題に直面したからです。

劇団を旗揚げした当初、僕らは大学1,2年生でした。
だから、最初はひたすら芝居作りに没頭してればOKでした。
しかし、やがて大学3,4年生になると「プロを目指すのか、就職してスパッと辞めるのか」という、
おそらく全国の学生劇団が経験するであろう問題に直面することになりました。

当時、メンバーといろいろ議論をしたのですが、僕はこの問題について根本的に違和感がありました。
その頃の僕は寝ても覚めても芝居!というくらいに夢中になっていたので、
どちらかといえば「プロを目指す」派だったのですが、
しかし本心では「仕事か趣味か」とか「プロかアマか」という“括り”など、どうでもいいと思ってました。
というのは、プロを目指そうと趣味として続けようと、それはただの結果論であり、
プロだから本気でやる、趣味だから手を抜くということはないし、
プロだから楽しい、趣味だからつまらないということもないだろうと思っていたからです。
僕にとって大事なのは目の前の作品を一生懸命作ることであって、
会社員やりながらやろうが、フリーターしながらやろうが、
そんなことは大して重要じゃないというのが本音でした。
(もちろん、プロとアマの間には厳然たる違いがあることは重々承知しています。
 才能や努力の尺度としての「プロ」「アマ」というのはあるし、今はそれを棚上げして書いています)

結局、僕らが選んだのは「昼間は仕事をしながら劇団を続ける」というものでした。
この決断の背景には、「自分たちにはプロになれる才能も個性もない」という見切りがありました。
ですが、負け惜しみではなく、僕は「仕事をしながら劇団を続ける」という決断をしてよかったと思っています。
仮に理想を求めてプロを目指していたとしたら、売れないし食えないしで早晩僕らは潰れていたでしょう。
だから、昼間は会社に勤めて生活の基盤を確保した上で芝居を続けるという今のスタイルは、
「芝居を続けたい」という僕自身の希望に適っているし、
結果的にとても合理的な判断だったなあと思うのです。

ただ、前文のように、あくまで「結果的に」というエクスキューズがつきます。
「プロになるか、辞めるか」という二元論はくだらないと思っていたものの、
そのどちらでもない「仕事をしながら劇団を続ける」という選択について、
当時の僕らの身の回りにはロールモデルとなる先輩劇団がほとんどなかったので、
いざその方向へ進むのはけっこう不安がありました。
「プロになる」「辞める」以外の劇団のあり方が、当時の僕ら自身にも、正直イメージはついてませんでした。

でも、“結果的には”僕らはなんとか活動を続けて、それなりに楽しくやれている。
ちょっとイヤらしい言い方になってしまいますが、
同郷で同期の学生劇団には僕ら以上にプロを目指して活動をしている劇団がたくさんいましたが、
僕の知る限り、今でも残っているのは僕らだけです。
「どうだ、すごいだろう」と言いたいのではなく、
いち早く見切りをつけた僕らの方が結果的には長く続いているというのが、
なんというか、「『将来を決める』って難しいなあ」というように思うのです。

僕らは、当時直面していた「プロを目指すのか、就職してスパッと辞めるのか」という二元論の、
そのどちらでもない道を選びました。
多分、連載企画『音楽で食わずに、音楽と生きる』に登場した人たちも、
「仕事or趣味」というような、オール・オア・ナッシング的マインドに捉われなかったんだろうと思います。
中には、かつて専業で音楽関連の仕事に就くことを目指していた人もいるかもしれません。
もちろん、専業で音楽に関われることは素晴らしいことだけれど、
そこにこだわらなくても、兼業バンドスタッフやライター、あるいは音楽ファンが集うブロガーとか、
いろんな道があるんですよね。
そういう「第3の道」を行く彼らの生き方を、僕はすごくポジティブだと思うし、
人生の豊かさみたいなものを感じました。




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『あまちゃん』が終わってしまった

amachan

「ふるさと」は
自分の意思で選ぶもの


恐れていた時がついに来てしまいました…。
NHK連続テレビ小説『あまちゃん』、終了。
僕はこれからどうやって毎朝家を出ればいいのでしょうか。
これから毎晩、何を楽しみに眠ればいいのでしょうか。
お先真っ暗。僕は今、「あまロス症候群」のどん底にいます。
「あま外来」があるなら誰か紹介してくれ。

4月からの半年間で全156回。
ただの1度も見逃さなかったのはもちろんのこと、
ほとんどの回を1日2度(BSプレミアムの7:30版と23:00版、いわゆる「早あま」と「夜あま」を)見ました。
今までも夢中になったドラマはいくつかありますが、
『あまちゃん』ほど、次の放送が楽しみで、後の展開をあれこれ想像し、
そして見るたびに元気になれた作品は他にありませんでした。
北三陸の濃いキャラクターたちに腹の底から笑い、
東京編ではアキちゃんと一緒に「地元に帰りたい」とホームシックにかかり、
特にラスト1か月の震災編では、僕自身の3月11日がクロスオーバーし、
ドラマと現実とが地続きになるような、今まで味わったことのない強烈な感覚を味わいました。



しかし、僕は物語に熱狂する一方で、
放映中ずっと頭の片隅でモヤモヤと考えていたことがありました。
それは、「故郷」ということについて。

『あまちゃん』は、「故郷の再発見」を描いた物語だったと僕は見ています。
劇中で描かれた「再発見」は、大きく2つに分かれます。

一つは、春子やユイちゃん、ヒロシ(ストーブさん)ら、
北三陸で生まれ育ったものの地元に背を向けていた人たちが、
再び故郷に目を向け街を愛するようになるという再発見。

もう一つは、主人公・アキにとっての故郷の再発見です。
春子やヒロシ、ユイちゃんが北三陸を再発見していくきっかけを作ったのはアキの存在ですが、
よく考えてみると、アキ自身にとっての故郷は、北三陸ではありません。
故郷を「生まれ育った場所」とするならば、アキのそれは東京の世田谷です。
でも、高2の夏に北三陸を訪れたアキはすぐにこの場所を気に入り、
北三陸を「故郷」と呼ぶようになります。

アキは生まれ育った東京を「故郷」だとは感じていませんでした。
ドラマではほとんど描かれませんでしたが、
東京でのアキは母の春子曰く「地味で暗くて向上心も協調性も個性も華もないパッとしない子」でした。
アキ自身も「イジメられるというよりも、イジメられるほど相手にもされない子」と語っています。

そんなアキが、北三陸で夏ばっぱに出会い、海女の仕事に挑戦し、
やがて地元の人たちから愛される存在になっていく。
それはアキの資質であると同時に、アキ自身が北三陸に自分の居場所を見出し、
ここを自分の故郷にすると“決めた”からなのだと思います。
10代の少年少女にとって、学校であれ家庭であれ街であれ、
「自分の居場所」を確保できるかどうかはとても重大なことです。
アキが苦手だった潜りを克服して海女という「仕事」を得ようとしたのも、
地元の訛りをいち早く口にしたのも(本人は「訛りの強い袖が浜の海女と一緒にいるから」と言っていますが)、
僕はアキなりの必死のサバイバルだったんじゃないかと思います。


余談ですが、東京から北三陸に引っ越した途端の、アキの豹変とも言える性格の変化について、
僕は当初、違和感を感じていました。「そんなに性格変わるものか?」と。
この点について、アキはユイちゃんにこう語っています。
「おら、東京だとびっくりするくらいキャラ違うんだ」と。
性格が変わったのではなく、「キャラ」が変わっただけだというセリフに、
僕はものすごくリアリティを感じ、いっぺんに納得しました。
TPOに応じて服を着替えるのと同じように、
確かに僕らは付き合う相手や属する集団によって振る舞い方を変えています。
それは必ずしも演技というわけではなく、無意識にできてしまう本能的な処世術というべきでしょう。
(とりわけ自分を取り巻く環境に敏感な10代にとっては重要なテクニックです)
アキの変化を「キャラ」という一言で済ませてしまったクドカンの手際と感性は、素晴らしいと思いました。
物語全編を通して僕はこのセリフに一番しびれました。



「故郷」の話に戻ります。
かつては大嫌いだった北三陸に、再び向き合うことを決めた春子やユイ。
未知の土地だった北三陸に自分の故郷を見出したアキ。
一見正反対のようですが、両者とも、自分の意思でその場所を「選んだ」という点では共通しています。
この場合の「選ぶ」とは、そこに住むということではなく、
その場所を自覚的に「故郷」という地位に置くということです。
平たく言えば「ここが私の故郷!」と、自分の中で決めてしまうことです。
東京生まれのアキの場合はもちろんですが、北三陸生まれの春子やユイも、
例えば春子は夏ばっぱとの関係の中で、ユイは自分の夢と折り合いをつける中で、
2人とも最終的に北三陸を「ここが私の故郷!」と決めたんだろうと思うのです。

これは特殊なケースではないと思います。
例えば、進学や就職で実家を出た途端、
住んでいるときは何とも思わなかった地元の風景や友達が、
自分にとっていかに大切だったかに気付く、ということはよくあります。
このとき、その人の中では、今まで気づかなかった故郷の価値に気づくという、
「故郷の再発見」が起こっているのだと思います。

生まれ育った土地を大人になっても離れない人であっても、
これだけ高速道路と電車が発達した世の中ですから、
それまでの人生のどこかの局面で「別の場所に移り住む」という選択肢が一度はあったはずです。
にもかかわらず、その場所を離れていないということは、
(何らかの事情で「離れられない」という人を除いて)やはり選択をした結果であろうと思うのです。
だから、故郷というものは、生まれ育った場所が自動的になるのではなく、
どこかのタイミングで自分の意思で選ぶものなんじゃないかと思うのです。

じゃあ、僕の場合はどうなのか。
僕がなぜ、『あまちゃん』を見ながらモヤモヤしていたかというと、
僕自身は「故郷を選ぶ」には至っていないからです。


故郷を「嫌い」になる

僕は、物心ついてから約20年、神奈川県の藤沢というところで育ちました。
「藤沢出身です」と自己紹介すると、たいていの人が「いいね〜」と返してくれます。
確かに海はあるし、冬でも暖かいし、江ノ電が走っていたりしてのんびりしているし、
客観的に見てもいい街だとは思います。
実際、大人になっても藤沢から離れない人、外に出ても再び戻ってくる人が大勢います。
でも僕は、少なくとも現段階では藤沢に戻る気はないし、
今でさえ、お盆と正月とどうしても必要な用事がある場合を除いて、基本的には足を向けません。

理由はいくつかあるのですが、
多分、一番の理由は、「藤沢を嫌いになるように自分を仕向けた」からです。

実は、東京に出てきてすぐの頃は、藤沢が恋しくて仕方ありませんでした。
用もないのに藤沢に行って、ネットカフェで一晩過ごして帰ったこともあります。
そして、藤沢への思いが募れば募るほど、
その反動で今住んでいる場所(=東京)がどんどん嫌いになっていきました。
「なんで海がねえんだよ!」とか、
「なんで有隣堂(神奈川では有名な書店チェーン)がねえんだよ!」とか。

でも、そうやって不満を膨らませていても、鬱屈が溜まるだけでいいことはありませんでした。
だから僕は、どうにかその気持ちを押さえ込む必要がありました。
そのために取った方法が、「藤沢を嫌いになる」ということでした。
幸か不幸か、ちょうどその頃、藤沢に関することでものすごく嫌な体験が重なり、
それに背中を押される形で、自然と藤沢と距離を置くことに成功したのでした。

こうして書くと、なんとも荒療治というか、不器用というか、
もっと他にやり方あるだろうと我ながら思うのですが、
当時はそれが一番いい方法だと信じて疑わなかったんですよね。
ただ、結果的には藤沢から離れられて良かったと思っています。
故郷への感傷というのは要するに過去への感傷ですから、
追求するのは不毛というものです。
(だから、過去への感傷を「地元愛」なんていうもっともらしい言い方に変えて、
地元から出ない人間や帰ろうとする人間を、僕は軽蔑しています)
少なくとも、今の僕は当時の僕よりもはるかに精神的にはフラットな状態を維持できている。

しかし、それじゃあ、僕が「故郷の再発見」をするときが来るとすれば、
それは一体どういうときなんだろうと考えます。


大吉さんの悲壮感と
ユイちゃんの「否応ない」決意


話は再び『あまちゃん』に戻ります。
物語の主要キャラクターの一人に、大吉さんという人物がいます。
大吉さんは高校卒業と同時に、開業したばかりの北三陸鉄道に就職し、
以来20年以上にわたって北三陸をなんとか盛り上げようと奮闘してきました。

僕は大吉さんがものすごく好きだったのですが、
それは、彼の行動には、単に「北三陸大好き!」という陽気な郷土愛だけでなく、
むしろ「最後の一人になっても北三陸に踏みとどまってやる」という意地や、
「故郷から離れられない」「ここで生きていくしかねえ」という諦めといった
悲壮な決意みたいなものが見え隠れして、とても人間くさかったからです。
北鉄開業当時を懐かしんで『ゴーストバスターズ』を歌っちゃうのも、
「K3NSP(北三陸をなんとかすっぺ)会議」なんていうイタいネーミングをつけちゃうのも、
その裏に大吉さんの悲壮感を感じるから面白かったんだと思います。
(そういえば『あまちゃん』という物語自体が、大吉さんのやぶれかぶれなウソから始まったのでした)

大吉さんに限らず、北三陸に住む大人たちの中には、
無邪気に故郷を愛しているだけの人はいません。
みんな、街の未来に不安を感じていて、
いつまで住み続けられるのだろうかという葛藤を抱えています。
そして、葛藤を抱えたうえで、それでも北三陸への愛が捨てられなかった人たちだけが、
あの街に残ったのだろうと思うのです。

だから僕は、「故郷を選ぶ」「地元に帰る」ということは、
決して心癒されるだけのものではなく、
別れたりヨリを戻したりを繰り返した挙句にようやく結婚を決めた恋人同士のように、
「この人は色々問題があるけどそこは目をつむり、連れ添うと決めた!決めたんだもん!」みたいな、
「覚悟」とか「諦め」とかに近いものなんじゃないかと思うのです。

ドラマでは、アキの親友のユイちゃんが、まさにこのような過程を経て、
北三陸を「故郷」として受け入れていく様子が描かれていました。
誰よりも東京に出たいと望んでいたユイちゃんが、
最終的に北三陸で「ご当地アイドル」としてやっていこうと決めるまでには、
夢への挫折や、家族との衝突、さらにはグレて高校を退学するという、
けっこうキツい体験の数々がありました。
そして、彼女の北三陸で生きていこうという決意は確固としたものではなく、
どちらかといえば「否応なく」というニュアンスのもので、
これからも何かがあればその決意は揺らいでしまうんじゃないかという気がします。
きっと、ユイちゃんはそれを繰り返しながら生きていくのだろうし、
彼女と多かれ少なかれ似たような体験を経て大人になったのが、
大吉さんら北三陸の大人たちなんだろうと思います。


もう一度僕の話。
実は最近、子供の頃に住んでいた家の近くを久しぶりに歩きました。
当時の家は既に壊されてきれいなアパートになっていましたが、
近所の公園や狭い路地沿いの雰囲気などはそのままでした。
正直、強烈な懐かしさがこみ上げました。
過去への感傷は禁じたはずなのに、それでも神経反射的に懐かしさがこみ上げるほど、
自分の中には藤沢に対する愛着があるんだなあと痛感してしまいました。

多分、僕が「故郷を選ぶ」ときがくるとしたら、
それは、藤沢に愛着を覚えてしまうもう一人の僕自身を、受け入れるときなのだろうと思います。

「藤沢は嫌い」と言いながら「やっぱり好きでした」というのは、
なんかあまりにレベルが低くて、僕いま、すごい恥ずかしいです。
恥ずかしいんですが、そういう恥をかきながら、
「嫌い」という自分を「好き」という自分に重ね合せていく(「元鞘に戻る」みたいなイメージ)が、
多分、僕にとっての「故郷の再発見」なのだろうと思うのです。


ドラマのラスト1か月は、震災後の北三陸が描かれました。
震災については藤沢も他人事ではなく、
南海トラフや東海地震が起きたら、かなりの確率で津波が押し寄せると言われています。
もしそうなった場合、アキや種市先輩や安部ちゃんが続々と北三陸に帰ったように、
多分僕も駆けつけるんだろうと思います。
でも、「失って初めて自分にとっての故郷がどこかわかった」というのだけは避けたい。
何かが起きる前に(もちろん、そんなことはあってほしくはないんだけど)、
僕は僕の故郷をもう一度発見しなければいけません。



もちろん買いました
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4月から大学生になります

4月から大学生になります。
専攻は史学(日本史)。
通信教育課程で、働きながら勉強します。

昨日、合格通知が届きました。
受け取った封筒はペラペラに薄くて、
一瞬「落ちたかな・・・」と思ったのですが、
封を開けたら、無事に振込用紙が入っていました。

あ〜、よかった・・・。
僕の受けた学校は、通信制とはいえしっかりと選考試験(レポート)があって、
基準に満たないと容赦なく落とされると聞いていました。
なので、「合格」の二文字を見た瞬間は、
しっかりとガッツポーズをとりました。

大学入学は、以前から考えていました。
実は、僕はかつて大学を辞めています。
その当時は法学部に在籍してました。
入学前はしっかり法律を勉強するぞ、と意気込んでいたのですが、
蓋を開けてみたら全く自分に向いていないことに気づき、
挙句に劇団を旗揚げしてそっちにのめり込み、
遠のいた足は、二度と大学に戻ることはありませんでした。

今にして思うと、法学部を選んだのは
「なんとなく役に立ちそうだから」
「なんとなく就職に有利そうだから」
という、多分に雰囲気的なものにすぎませんでした。
「自分の意志」というものがなかったんです。
我慢して勉強するというこらえ性もなく、
結局背中を向けたまま、僕は大学を去りました。

辞めたこと自体に後悔はないのですが、
(親には申し訳ないなあと思いますが・・・)
「なんであの時、本当に興味のある道に進まなかったんだろう」という、
自分をごまかしてたような感じは、
辞めた後も、喉に刺さった小骨のように、ずっと残っていました。

大学再入学を決意したきっかけは、いくつかあります。
背中を押してくれる友達がいたこと。
「教員免許を取ろう」という目標ができたこと。
そして、震災です。

人間は、いつどうなるかわからない。
だったら、決断を迷っているヒマなんかない。
それに、年金も社会保障もあてにできないこれからのことを考えると、
自分で自分の身を守るしかありません。
そう考えると、大して好きでもないことを不承不承、中途半端に続けるよりも、
好きなことに手を出して死ぬほど努力する方が、
リスクも少なく、むしろ合理的なんじゃないかと思うようになったんです。

・・・と、ここまで考えていたのが去年の話。
実は、その上でなお迷っていました。
迷っていたというか、単純に自信がなかったのです。
「自分は既に一度大学に失敗している。
今、大学に入り直しても、結局同じ轍を踏むんじゃないか」と。

そんな迷いを吹っ飛ばしてくれたのが、
以前ブログにも書いた、
ある建設会社の社長さんの話でした。

歴史学という学問は、
直接的に何かに役立つものではないし、
短期的なスパンで評価が得られるものではありません。
同時代に向けてというよりも、
次の世代のため、さらにその次の世代のために引き継いでいくべき、
ストック(財産)としての学問です。
どう考えても、「儲かる学問」ではない。

ただ、やっぱり誰かがやらなきゃいけないことなんです。
前述の社長さんの話を聞きながら思ったのは、
「衰退していく日本の伝統技術や文化を、俺が残すんだ!」という、
強烈な使命感です。
ある意味では完全なるボランティアなわけですが、
ただ、その社長さんの使命感によって、守られるものが確実にあるわけです。

誰かがやらなきゃいけない。
だったら、そのことに気付いた人間がまずはやるべきだろう。
ということで、それまでの迷いは一気に晴れて、
志願票の「史学専攻」に丸を付けました。

・・・と、ずい分勇ましいことばかり書いていますが、
所詮はまだスタートラインに立ったばかり。
聞くところによると、僕の行く学校は、
卒業率がわずか10%らしいです。
やっぱり、働きながら勉強を続けるというのは、
思ってる以上に大変なんだそうです。
う〜ん・・・頑張らねば。

ま、不安は尽きませんが、とりあえず4月から僕は大学生。
31歳からのキャンパスライフです。
なんと、来月下旬には「入学式」があるそうですよ。
不安は不安なんですが、いろいろ楽しみです。

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僕は、震災によって「生きよう」と思った。

震災のことについて書いてみようと思います。
と言っても、多分大したことは書けません。
誰かに向けてというよりも、
僕自身が震災のことを忘れないために、
あの日のことや、この1年間で感じたことを言葉に直してみようと思います。


3月11日は、僕は東京の八重洲のビルの中にいました。
今まで感じたことのない揺れに、「ついに来たか」と思いました。
僕は神奈川県の出身なので、子供の頃から東海地震の可能性を聞かされていました。
「遅かれ早かれ、いつかやって来る」と教えられてきた“その瞬間”が、
ついにやって来たんだと、一瞬、死を覚悟しました。
揺れが収まってまずやったことは、
両親に「とりあえず無事!」とメールを送ることでした。
「こういう時にはやっぱり家族のことを最初に考えるんだなあ」と、
妙に冷静に納得したのを覚えています。

18時頃まで八重洲にいたのですが、
電車が動く気配がなかったので、歩いて帰ることにしました。
(震度5程度で首都圏の電車が全部止まってしまったことにも驚きました)
板橋区にある僕の自宅までは、約20キロ。
革靴というハンデはあったものの、なんとか歩けるだろうと思っていました。
それに、その時点では東北であんなにひどいことが起きているとは知らなかったので、
「疲れるけど、明日は土曜日だしまあいいか」と、
わりと呑気に考えていました。

八重洲から東京駅の地下に入り、大手町まで抜けて、
内堀通りの手前で地上に出ました。
すると、目の前を信じられないくらい大勢の人がゾロゾロと列をなして歩いていました。
最初はそれが、歩いて帰る人の列だとはわかりませんでした。
日が落ちて薄暗い皇居の周りを、黙々と歩く人たち。
まだニュースも何もほとんど情報は手に入ってはいませんでしたが、
その異様な光景を目にして、
僕はようやく「とんでもない災害が起きたのかもしれない」と思いました。

内堀通りからは竹橋、九段下、飯田橋と、
東京メトロ東西線沿い(目白通り)を歩きました。
地震による天井の崩落で死亡事故が起きた九段会館には、
警察官と報道のカメラが集まっていました。
通り沿いがオフィス街ということもあり、歩いて帰宅する人たちがあちこちから合流し、
歩道はまるで縁日のように人でいっぱいでした。
飯田橋交差点の歩道橋では、渡りきるのに20分近くかかりました。

そのまま目白通り沿いを歩いて江戸川橋。
神田川を渡り、目白台、雑司ヶ谷へ。
この辺りはたまたま裏道を知っていたので混雑は避けられたのですが、
池袋の手前で明治通りに出ると、
渋谷・新宿方面から来た人たちの列に再び巻き込まれました。

池袋が自宅までのちょうど中間地点にあたるため、
どこかで一休みしようかと思ったのですが、
どの店もことごとく満席で、結局そのまま自宅まで歩き通しました。
自宅に着いたのは21時半過ぎ。
さすがに疲れ果てていたのですが、玄関を開けてみると、
家具や本やCDが文字通りひっくり返っていて、
腰を落ち着けるのにさらに1時間近くかかりました。

※自宅はこんなでした
写真 (478x640)


自宅に帰って、初めてまともにテレビのニュースを見ました。
もっとも、ニュースの情報もその夜はまだ混乱していたので、
「何が起きたのか、そしてこれから何が起きようとしているのか」という、
漠然とした不安と恐怖だけを感じたまま、
とりあえず(本当に“とりあえず”という感じで)眠りにつきました。



・・・ここまでが僕の「3月11日」です。

死を具体的に覚悟したのも、
家がめちゃくちゃになったのも、
真剣に「日本がヤバイ」と思ったのも、
生まれて初めてのことでした。
そのせいもあって、僕は今回の震災が「他人事」だとは思えません。
自分に関わりのあることだと、
自分自身の身の上に起きた出来事なのだと感じています。
(そういう意味では、阪神大震災は僕にとって「他人事」だったんです)

しかし、その一方で、僕はちゃんと生きているし、家も失っていない。
家族や友人たちも元気です。
津波で家族や家を失った人や、
原発事故の被害を受けた人たちとの間には、
大きな隔たりがあります。
その悲しみを、僕が引き受けることはできません。
現実は「他人事」です。

とても情けない話ですが、
多くの人が即座にボランティアや物資輸送などのアクションを取っていく中で、
僕はただ、「他人事という現実」を認め、
自分の無力さを受け入れることに必死でした。

「できることをやろう」と色んな人が言いました。
じゃあ、自分にとって「できること」って何だろうと考えました。

僕はとりあえず、「生きること」に決めました。

2011年3月17日のブログに、僕はこう書いていました。


ちゃんと食べてちゃんと寝て、満員電車に揺られて一生懸命働いて、
家庭を築いて子供を産んで育てて。
そういう風に毎日をただひたすら生きていくことが、とても大事なことだと思う。
僕たちが、それぞれの場所で、ピンチをはねのけ、
ささやかでもいいから幸せを掴もうとすること。
今いる場所がたとえ自分が望んだ場所じゃなくても、
一人ひとりが今日を一生懸命生きることでしか日本の復興は遂げられないし、
それこそが亡くなった方や今も避難所で暮らしている方たちに対する誠意だと、
自戒も込めて、僕は思う。



1年経った今でも、この気持ちは変わっていません。
東北の被災者の人たちのことを考えれば、
僕には絶望する権利なんかない。
だったら、少なくとも僕は毎日を淡々と生きていかなくちゃいけない。
後悔しないように、一生懸命生活を送らなくちゃいけない。
それが、僕にとっての「できること」なんだと思っているのです。

この決意が正しいのかどうか、未だに迷います。
ものすごくレベルの低い「できること」なんじゃないかと、自分でも思います。
でも、それ以外に今のところ答えが見つかりません。

僕は、震災のちょうど1か月前に30歳になりました。
20代の10年間、実は僕は、ほとんど毎日死ぬことばかり考えていました。
些細なことに傷ついてばかりいて本当にいつも辛くて、
楽しいことや嬉しいことには目を向けることができませんでした。
何度か遺書も書きました。実際に死のうとしたこともありました。
30歳を迎えたられたのは、ただ「死ななかっただけ」でした。

そこへ震災がやってきました。
津波の映像を見て、流されてしまった人たちとその家族のことを想像して、
原発事故で「日本に住めなくなるかもしれない」と危機感を抱いて、
僕は初めて真剣に、「死にたい」と考えてばかりいた自分を恥じたのです。

・・・情けない話です。
とてもレベルの低い話だと思います。
「結局何も行動していない」と言われれば、認めるしかない。

でも、やっぱり正直に書くことが最低限の誠意だと思うから、
不謹慎だと思われるかもしれないけど、書きました。

僕は、震災によって「生きよう」と思った。
これが、僕が1年経って感じてる、今の正直な気持ちです。



さて、また明日から頑張ります!

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2012,2,7Tue 備忘録として/今日出会った方の話

 今日、初めて、人にインタビュー取材をしながら泣きました。
 この仕事に就いてから初めてのことです。

 インタビューしたのは、ある建設会社の社長さんでした。

 その方は元々ある建設会社で営業マンとして働いていましたが、建築作業がどんどん分業化・工業化していくのを見て、「このままだと大工や職人の技術が滅んでしまう」と危機感を抱き、自分で会社を作りました。

 その会社は設立以来、一切下請けに外注を出さず、大工も職人も「社員」として雇用し、ゼロから教育して徹底的に技術を仕込んでいます。今では大卒や院卒の学生が、大工になろうとその会社の新卒採用に殺到するようになりました。

 「日本の強みは技術」とはよく言われることです。

 あのジョブズがiPhoneを開発するとき、ボディーの裏面の研磨を依頼したのは、日本の小さな町工場の職人さんでした。ジョブズを納得させるだけの光沢は、世界中を探してもその小さな町工場の技術でしか出せなかったのです。そうしたニッチでディープな技術は、世界で最も手先の器用な日本人にしかできないお家芸です。逆に言えば、資源もない、市場としてもこれからやせ細っていくだけの日本にとって、「技術」だけが文字通り命綱なのです。

 その技術が今、絶えようとしています。特に、日本家屋を建てる大工さんや伝統工芸品を作る職人さんがいなくなることは深刻です。彼らがいなくなることは、日本の文化が絶滅することを意味するからです。今日話を聞いた社長さんは、そのことを痛切に感じていました。

 その社長さんは今、京都に支社を作って、そこに社員さんたちを大量に送り込み、建築技法だけにとどまらず、造園技術や調度品の知識、そして歴史に対する感性を学ばせようとしています。

 それだけではありません。京都で修業させた後、今度はアメリカやヨーロッパなどに大工さんを送り込み、そこで日本家屋の受注建築を始める計画を練っているそうです。欧米のハイクラスの人たちには、伝統の日本家屋に対する需要が絶対あるだろう、と見込んでいるのです(例えば既にアメリカでは今、日本の「風呂」がひそかなブームになっています)。

 社長さんが「俺ぁよ、いつかビバリーヒルズを日本家屋だらけにしてやるんだよ」と語った時、僕は泣きました。

 去年の震災以降、僕は日本の歴史について考えることが多くなりました。
 震災とどうつながるのか、うまく説明はできないけれど、伝統とか文化とか、そういう歴史を経たものは、何とかして次の世代に残さないといけないと強く感じるようになりました。それは別に、教科書に載るような重要文化財だけを指すのではなく、自分の家のお墓とか、地元に伝わる小さなお祭りとか、田舎のおじいちゃんが話すちょっとした方言とか、身近なものでいいんです。

 それらは普段は見向きもされないし、無くなったところで生活に影響はない。ましてや震災から復興しようという時に、伝統も文化も歴史も直接的には役に立ちません。

 でも、長いスパンで見た時に、それらは僕らを支える重要なアイデンティティのになるのです。

 戦前から戦後にかけて、金田一京助や知里真志保は北海道中を歩いて絶滅寸前の「樺太アイヌ語」を採集しました。仮に樺太アイヌ語が地上から消えても、社会も国家も僕ら個人の生活も、何も変わりません。

 でも、そういうことじゃないと思うんです。

 直接関わりはなくても、「樺太アイヌ語」は僕らの財産なんです。無条件に大事に残さないといけないものなんです。ある街の歴史が語られなくなること、ある職人の技術が失われること、それを「自然淘汰」として無視してしまっては、将来に大きな禍根を残すことになると僕は思います。だから、誰かがやらなきゃいけないと、僕はずっと考えてきました。

 その「誰か」に今日、会ったのです。国にも自治体にも頼らず、企業としてペイしながら、「伝統技術を絶やさない」という志を実践している。

 ものすごいことだと思います。

 特に「日本の伝統技術を海外で守る」というのは、驚異的な発想です。その壮大な夢に触れて、その方の志の大きさと、日本への深い愛に社長の目の前で泣きました。僕も何かしないとなと、今日ほど痛烈に感じたことはありませんでした。

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情報を相対化することの大切さ

culation




『キュレーションの時代』
佐々木俊尚

(ちくま新書)


 ITジャーナリストの佐々木俊尚が昨年出した『キュレーションの時代』。目からウロコの良著です。

 佐々木俊尚は以前から「情報のキュレーター」を標榜し活動している。「キュレーター」とは、元は博物館や美術館などで、特定のテーマに沿って展示物を選び、どう見せるかを考える職業のこと。たとえば、時代も画法もまったく異なる絵を同じ部屋に並べると、単体では見えてこなかった新たな世界、新たな文脈が見えてくることがある。埋もれていた無名の作品を掘り出してきたり、有名な作品でも全く新しい光を当てたりして、人々に提供するのがキュレーターという仕事の役割だ。

 このキュレーターが、「情報」というものに対しても有効ではないかと佐々木は言う。インターネットの普及で、情報はまるで海のように巨大な渦を巻いている。そこから必要な情報を拾い上げるのは大変だ。中には、人目に触れず埋もれていった貴重な情報もあるかもしれない。

 そこで、見識を持つ者が情報の海とユーザーの間に入り、独自の切り口で有益な情報をユーザーに紹介する役割を果たすと面白いのではないかというのである。実際、彼は毎朝Twitter上で、気になるニュースやブログの記事などを紹介している(@sasakitoshinao)。朝の通勤時に彼のキュレーションをチェックするのが僕の日課だ。

 本書は情報と個人との関係が、この10年間ほどでどうシフトチェンジしたかを解説している。これまでネットのさまざまなサービスの「機能」を説明した本は数多くあったが、それらが僕らの生活にどう影響し、どう変えていくのか、その可能性まで含めて解説してくれた本は少ない。本書は間違いなくその一冊。情報社会の変化のスピードはすさまじく、早すぎるためにフォローできなくなった途端にスネて諦めたくもなるのだが、本書を読むとそういった変化に対して肯定的になれる。

 僕はこの本を震災後に購入した。これまで僕は、新聞とテレビのニュースを主な情報源としてきたのだが、震災を機に、ネットを利用する割合が飛躍的に増えた。情報との距離感が大きく変わり、今後のヒントが欲しくて読んだのである。

 計画停電開始当初、交通機関が混乱し情報が錯綜するなか、「池袋駅の混雑状況」「丸ノ内線の遅れ具合」といったピンポイントな情報を得るのに役立ったGoogleのリアルタイム検索(Twitter)や、「放射線と放射能の違い」「原子炉の構造」といった初歩的な情報を発信し、根本的な疑問や盲点だった知識を埋めてくれたニュースサイトの記事や個人のブログなど、情報の質の深さ、バラエティの広さはマスメディアに比べて圧倒的である。

 ネットの情報は確かに玉石混交で、デマも多い(僕も今回一度引っかかってしまった)。また、集積される情報は膨大で、そのなかから必要な情報を見つけ出すのは大変だ。そのせいで、僕はこれまでネットを情報ツールとして利用することに少なからず抵抗感があったのだが、今回その認識を改めざるをえなかった。

 ネット、特にTwitterなどのソーシャルメディアが従来のマスメディアと異なっているところは、その情報の基盤が(匿名であれ記名であれ)「個人」に依っている点だろう。交通機関情報を例に取るなら、マスメディアがせいぜい路線単位の概略的な情報しか発信できないのに対して、ソーシャルメディアは実際に今現場にいるユーザーからの書き込みを閲覧できるため、「丸ノ内線池袋駅ホーム、入場規制中。30分並んでもまだ入れない」なんていうピンポイントかつダイレクトな情報が得られるのである。

 僕が(今更ながら)感動したのは、それだけ多くのユーザーがいたるところにいて、盛んにツイートを発信している、ということだ。例えば上記のツイートは、池袋駅や丸ノ内線を利用しない人にとってはまるで意味のない「独り言」にすぎない。だが、利用する人にとっては価値のある「情報」になる。圧倒的多数の人が読み飛ばすとしても、ユーザーがせっせとツイートを放り込むことで、見ず知らずの別のユーザーに、ある瞬間それが有益な「情報」として届く可能性を生んでいる。

 個々のユーザーの参画意識、それはつまり他ユーザーに対する期待や信頼だと思うのだが、そうした意識が共有されているからこそ、ソーシャルメディアは単なる会員制サービスではなく、情報インフラとして威力を発揮しているのだろう。僕なんかは何年も前にmixiをかじった程度の(それも友人との連絡手段止まりの)認識だったので、その点にとてもショックを受けた。

 もう一つ、僕がネットを利用していて感動(というと言いすぎなのだが)したのが、情報の多様性である。僕はGoogleリーダーを利用して毎日100〜200の記事をチェックするようにしているのだが、実にいろいろな視点から書かれた記事を目にする。原発の話題一つをとっても、科学や医療、経済や教育など、いろいろな切り口で書かれた記事がある。そうしたバラエティの広さは、たとえば特定の新聞、特定のニュース番組だけを追っているだけでは得られない。

 また、ネットの情報における多様性には、「立場」あるいは「視点」の多様性、という側面もある。前述のように、ネットの情報の多くは個人が発信したものだ。「日経ビジネスオンライン」や「ダイヤモンド・オンライン」などのニュースサイトであっても、掲載される記事のほとんどが署名記事である。

 個人と紐付いた情報は、当然その執筆者の個性や立場を反映する。極端な例だが、原発に反対する人は放射線の危険や安全管理リスクを指摘する記事を書くだろうし、支持する立場の人は原発の発電効率の良さや代替エネルギーの可能性の薄さを強調するだろう。ネットの情報のバイアスのかかり方は、例えば朝日新聞と読売新聞の違い、なんていうレベルではない。

 僕がいいなと思うのは、多様な視点を体験することで、ある情報やある立場について、自然とそれを相対化する力が養われていくところである。ネットはデマを広げる危険性もあるが、最低限の注意さえ払っていれば、逆にデマに惑わされない知性が身に付くのではないかとも思う。

 もちろん、僕には僕の視点があるだろうし、ピックアップする情報についても何らかのバイアスがかかっているだろう。そもそも、「バイアスがゼロの状態」や「完全中立公平な情報」なんてものがあるのかと思ったりもする。だが、少なくともそういったことを自覚できるかできないかは、大きな違いなんじゃないだろうか。

 というわけで僕もTwitter始めてみました。頑張ってツイートしています。
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『四百年後の東京』正岡子規(『飯待つ間』より)

僕の肩に乗るもの
新たな「日常」に向けて


 正岡子規の残した小説(というよりも書きなぐったメモという方が近いのだが)に『四百年後の東京』という作品がある。タイトル通り、未来の東京を描いたSF小説(?)なのだが、例えば400年後の御茶ノ水は日本一の歓楽街になっていて(なぜ御茶ノ水なのかはよくわからない)、地上よりもむしろアリの巣のように発達した地下街に飲み屋や娯楽施設が並んでいると書かれている。また、東京湾には大小何百もの船が停泊していて、中には青物船や洗濯船、蒸気風呂船、外科医船など船員たちを相手にした“生活サービス船”もあり、それらが行き交い海の上に一つの街を作っている、などとも書かれている。

 なんてことはない、子規の妄想をただ書きなぐったメモのような小品だ。だが、なんだか面白くて惹かれる。子規というと「俳句」だが、僕は彼の自由闊達な散文の方が好きだ。そして、彼の文章には深い日本への愛が感じられる。

 『四百年後の東京』にしても、今読めばそのイメージは決して目新しいものではないし、現実の東京は400年どころかわずか100年でこの小説の世界よりも発展した。だが、この小説には、日本土着の、なんともいえない、湿気混じりの猥雑な空気感がある。そして猥雑なくせにどこか品があるのだ。おそらくその品は、彼の綴る日本語のリズムの美しさが大いに関係していると僕は思っている。短文詩研究の第一人者だからなのか、散文の律動の美しさについても、品と色気があるのだ。

 この1ヶ月の間、何度となく思い出す言葉がある。
「国が滅ぶということは、その国の文化が滅ぶということだ。連綿と築かれてきた歴史が無に帰するということだ。それは絶対にあってはならないことなんだ」
 これは正岡子規の言葉である。と言っても、実際に本人が残した言葉ではない。一昨年から放送を続けているNHKドラマ『坂の上の雲』の台詞だ。日露開戦前夜、出征する秋山真之に向けて、病床の子規がこの台詞を口にする。

 正岡子規は俳句や和歌などの日本古来の定型詩に、自然主義的な方法論を持ち込んで、「描写」という新たなスタイルを作り上げた人物である。だが、彼自身が生涯のテーマとして掲げていたのは、単に句法を練り上げることではなく、日本の短文詩を研究することで、日本の文化そのものを捉え直すことにあった。日本が急速に近代化を遂げていく中で、産業や軍事力だけでなく、自国の文化も世界照準で考えていかなくてはならないと考えたところに、近代人・正岡子規の凄さがある。

 その子規が病床で、帝国ロシアとの国の存亡をかけた戦いに向かう真之に、ほとんど哀願するような勢いで言うのが上記の台詞である。子規を演じる香川照之の壮絶な演技と相まって、この台詞は脳裏に刻みつけられた。そしてこれは、子規と同じく「日本とは何か」をテーマに作品を書き続けた原作者・司馬遼太郎自身の思いでもあるように感じられた。この言葉が3月11日以来、何度となく頭に浮かぶ。

 今まで僕は、日本のことを、どちらかと言えば嫌いな方だったと思う。細かく言えば「嫌い」とハッキリ書くほどでもなく、「興味がない」「どうなってもいい」みたいな、取り立ててこれといった感情を抱くことすらない、突き放した感覚を持っていた。

 僕らの世代はバブルが弾けた後に思春期を迎え、日本全体に徐々に停滞感が漂ってきたのを肌に感じながら育った。「いい大学に入っていい会社に入って…」という従来のスタンダードは崩壊したものの、それに代わる新たな幸福のスタンダードは誰も見出せてはいなくて、将来について悩む僕らに対し、学校やマスコミは「やりたいことをやるのが一番」というあまりに無責任な言葉で突き放した。

 僕が10代の頃にブームになった松本大洋の『ピンポン』に、「人生は死ぬまでの暇潰し」という台詞が出てくる。日本がなんとなく年老いていく空気に侵されていく一方で、携帯やコンビニやインターネットなんかが急速に普及するという享楽的な雰囲気のなか、その『ピンポン』の台詞は強烈なリアリティがあった。日本という国に興味など、ましてや誇りなど、持ちようがなかったのだ。

 そのような鈍い退廃感の中で成人し、仕事をするようになり、そして、3月11日が来た。

 電車が止まり、物が無くなった。さらには放射能被爆するかもしれないという、予想だにしなかった恐怖に晒された。テレビやネットでは、次々と悲惨なニュースが流れた。自分の生まれた国が瀕死の重傷を負った姿を目にしながら、僕は初めて、自分が日本人であるという自覚を持った。

 それまでは、「日本」という国と「僕」という個人との間には、大きな隔たりがあった。もちろん、日本の社会保障制度なんかが自分の将来設計に少なからず影響を与える事実は認識していたし、選挙だって一応は毎回投票に足を運んできた。でも、例えば何らかの事情で急に外国籍を取ることになっても、僕は多分躊躇しなかったと思う。「日本」と「僕」との間に精神的なつながりはまるでなかった。

 だが、今回の震災で、日本という国の、その責任の一端を、僕も背負っているのだということを、俄かに知らされた。それまでは観客の一人だと思いこんでいたのに、いきなりスポットライトを浴びせられて、登場人物の一人になってしまったような気分だ。

 日本への情。それは僕の場合、日本の歴史や文化への愛情である。もちろん、今回の震災が、日露戦争のような国家そのものが滅びるような危機に晒されるわけでは(多分)ない。そういう意味では、上記の正岡子規の言葉がリフレインしている僕は、単なる誇大妄想の自意識過剰なのかもしれない。

 ただ、僕は初めて、自分が歴史の外にいるわけではなく、歴史の一部なのだと感じている。正岡子規や先人たちが受け継いできたものは、教科書や小説を通じて享受するものではなく、実際に僕の肩の上にも乗っているのだということを、ぼんやりと、だが確かに感じる。そうやって僕は、なんとなくではあるけれど、自分が日本人であることを感じているのだ。

 長かったような、あっという間だったような、時間感覚のおかしい1ヶ月だった。首都圏では電車のダイヤはほぼ元に戻り、コンビニの店頭にも徐々に品物が並び始めた。しかしその一方で、被災地では未だに行方がわからない人が1万人を超す。福島第一原発の事故も出口が見えない状態が続いている。放射線の検出量は基準値の周辺を行ったり来たりしている。

 そして、もはやテレビやネットを見なくても、日本が今危機的な状況にあることを身体が覚えてしまっている。東京に住む僕の生活は、一見震災前と変わらない。だが、身体の奥深くに根を張った危機感が、絶え間なく緊張を強いてくる。

 いつか原発の事故処理が終息し、放射能の脅威が去り、電力が復旧したとしても、決して“元通り”になどならないだろう。異常と正常の両極に引っ張られ、奇妙に捻じ曲げられた今のこの状態が、僕の新たな「日常」なのだという気がする。

 1ヶ月ぶりのブログである。正直、何を書いていいのかわからなくて、ずっと書けなかった。今もわからずに書いている。でも、混乱しながらでもいいから、「とりあえず」でもいいから、書いていかなきゃいけないと思っている。書くことで、考えていかなきゃいけないと思っている。

『希望の国のエクソダス』 村上龍 (文春文庫)

exodas
僕は僕のいる場所で
あなたはあなたのいる場所で


 まるで映画を見ているとしか思えないような毎日が続いている。被災地の状況や刻々と増える犠牲者の数、計画停電で混乱を極める都市生活に、未だ好転しない原発の問題。映画であってほしいけど、これは紛れもなく現実で、その証拠に毎日胸が痛む。

 ある日突然、それまでの生活が奪われた人たちの無念というのは、一体どれほどのものかと思う。亡くなった方たちの冥福を祈ると同時に、被災者の方たち、そして福島第一原発で必死の作業を続けている方たちに対し、力いっぱいのエールを送りたい。

 地震が起きた当日、僕は東京駅の近くにいた。あの日、おそらく何百万人にも上ったであろう“帰宅難民”に僕もなり、4時間かけて約20キロ離れた自宅まで歩いて帰ることになった。そして靴擦れだらけになって帰ってみると、部屋の中は本棚やCDが全てひっくり返っており、元通りに直すのに翌日いっぱいまでかかった。

 もちろん、東北の方たちに比べれば取るに足らない被害だ。だが、生まれてこの方大きな災害に見舞われたことのなかった僕にとっては、強烈な体験だった。

 阪神大震災の時には、子供だったのと、距離的にも離れていたことで、心の中ではどこか自分とは関係のないことだと思っていた。だが、今回は違う。自分も被災したという意識もあり、「一体自分には何ができるのか」をずっと考えている。

 まず、僕は徹底的に節電に協力しようと思う。今この文章も携帯を使って書いている。エアコンが使えなかろうが、電車が止まって歩いて帰ることになろうが、それが最終的に被災者の支援と日本の復興につながるのであれば、いくらでも協力する。そして積極的な募金である。

 今、具体的にできることは限られている。そして個人が一人で発揮できる力というのは、悲しいほどに小さい。けれど、今は自分の頑張りが、やがては大きな力の一部になることを信じて、できることをやるしかないと思う。

 しかし、時間が経って、被害の全容が明らかになり、原発も安全が確認され、電気の供給が元に戻ったとしても、被災地の復興はもっとずっと長くかかるだろう。もちろん、日本全体の回復も。今は目に見えてピンチだから関心も高いし支援への動きも活発だが、1年後、2年後、もっと先まで今回の震災を記憶し、関心を持ち続けることも、僕らに課せられた使命だと思う。

 そう考えると、何より僕らが被災者とその復興のためにやらなければならないのは、きちんと生きることだと思う。

 ちゃんと食べてちゃんと寝て、満員電車に揺られて一生懸命働いて、家庭を築いて子供を産んで育てて。そういう風に毎日をただひたすら生きていくことが、とても大事なことだと思う。

 政治や経済において、これからどんどん悪いニュースが流れることになるだろう。確かに今回のダメージから被災地や日本全体が回復していく中で、政治や経済が果たす役割は小さくない。でも、日本の復興の本当の主役は僕らのはずである。僕たちが、それぞれの場所で、ピンチをはねのけ、ささやかでもいいから幸せを掴もうとすること。今いる場所がたとえ自分が望んだ場所じゃなくても、一人ひとりが今日を一生懸命生きることでしか日本の復興は遂げられないし、それこそが亡くなった方や今も避難所で暮らしている方たちに対する誠意だと、自戒も込めて、僕は思う。

 今日、NYタイムズに載った村上龍の文章を読んだ。僕はとても感動した。英文だけれどそんなに難しくないので、良かったら読んでみてください。

http://www.nytimes.com/2011/03/17/opinion/17Murakami.html?_r=2
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