週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

アニメ

映画 『夢と狂気の王国』

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「ジブリに未来はない」と
監督は語った


『エンディングノート』で脚光を浴びた映画監督・砂田麻美が、
スタジオジブリを約1年間かけて撮影したドキュメンタリ映画、
『夢と狂気の王国』を見てきました。

とても面白かったです。
面白かったし、とても新鮮でした。
ジブリを題材にしたドキュメンタリというのはこれまでにも何本も作られているので、
企画自体は目新しいものではありません。
(実際、鈴木プロデューサーは当初はこの企画に難色を示したそうです)
ではいったい何が「新鮮」だったのかといえば、
これまでのドキュメンタリのほとんどが「映画制作の舞台裏」を撮影していたのに対して、
この映画は「スタジオジブリの日常」を撮ることに焦点を当てていたからです。

例えば、黙々と机の上で鉛筆を走らせ続けるスタッフや、
うんうんと唸りながら絵コンテを切る宮崎監督といった「よくある光景」は、
この映画にはあまり映りません。
そのかわり、スタッフが仕事の合間にスタジオの屋上の庭園で休憩する風景や、
そこで交わす雑談といった、仕事以外の様子がたくさん映っています。

宮崎監督や鈴木プロデューサーのインタビュー的なシーンも挿入されますが、
話している内容も、例えば鈴木さんが「同僚としての宮崎駿」をどう見ているかだったり、
宮崎監督がスタジオの将来をどう考えているのかといった、
作品論から離れた、より漠然と「仕事」に関する話題が多い。
これまでのドキュメンタリが「創作集団としてのジブリ」を映していたとすれば、
この映画は「職場としてのジブリ」をとらえていると言い換えられるかもしれません。
一つの職場、一つの社会としてのジブリの空気というものを体験できる点が、
『夢と狂気の王国』という映画のもつ新鮮さではないかと思います。

とはいえ、被写体として最も多く画面に映るのは、やはり宮崎駿です。
スタジオの自分の席で、あるいはアトリエの部屋で、
彼はカメラ(砂田監督)を相手にいろいろな話を語るのですが、
その口調も内容も、とにかく常に怒りに溢れ、そして圧倒的に諦めきっているのが印象的です。

「20世紀の人間(自分のこと)は21世紀なんて生きたくないんだよ」
「スタジオ(ジブリのこと)の未来は決まってますよ。先細りで潰れます」

ジブリを描いたドキュメンタリの最高傑作である
「『もののけ姫』はこうして生まれた」が制作されたのは1997年。
当時50代だった宮崎監督も、このドキュメンタリの中でかなり辛辣な言葉を吐いていましたが、
あれから20年近く経って70歳を超えた今、その言葉の鋭さはほとんど抜身の刃のようです
ジブリの作品で育った世代の一人としては、
監督の絶望しきった言葉の一つひとつに冷や水を浴びせられ、突き放される思いがします。

では彼が、そんな諦念の中で一体何に作品づくりの動機を見出しているのか。
そのことについて映画には、鈴木プロデューサーが語る「宮崎駿評」とともに、
一つの答えが映されています。
それが何なのかは実際に映画を見ていただくとして(監督がこれまでもずっと口にしてきたことです)、
僕にはモチベーションそのものよりも、
彼の抱える諦念が深まれば深まるほどそのモチベーションが強くなることに「凄み」を感じました。

跳び箱の踏切板が、下へ沈む力が強いほど反動でより高く飛べるように、
宮崎監督の旺盛な創造力は、実は怒りや絶望といった感情が源泉となっている。
そしてその倒錯した創造力によって支えられたスタジオジブリ。
そこは確かに「夢」だけではなく「狂気」の王国なのかもしれません。

印象的だったのは、宮崎吾朗監督と川上量生プロデューサーのぶつかり合いや、
30代という若さで『かぐや姫の物語』のプロデューサーを務めた西村義明の奮闘といった、
次代のジブリを支えるであろう人物たちの姿でした。
(あるいはここに庵野秀明を含めてもいいかも?)
彼らの姿と、前述の「スタジオの未来はない」という宮崎監督の言葉との対比が、
映画を見終わっても頭の中で緊張感を生み、
スタジオジブリ自体が一つの物語になっていく予感を感じさせました。

<予告編>





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映画 『WXIII 機動警察パトレイバー』

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特撮映画の「魂」は
アニメに受け継がれた


実写化が決まりそれがYahoo!のトップニュースを飾るなど、
最初のOVA版が制作されてから20年以上経てもなお根強い人気を誇る『機動警察パトレイバー』。
OVA、TV、映画と、メディアを転々としながら拡大してきた同シリーズの、
現時点における最新の公式作品が、2002年に公開された劇場版『WXIII』です。

もっとも、「パトレイバー」という名を冠しているとはいえ、
この作品で肝心のレイバーが登場するのはクライマックスのみ。
それどころか、野明や遊馬ら特車二課の面子も、
ほんの少ししか出番がありません。
初期OVAや『THE MOVIE』の雰囲気を期待していたシリーズファンは、
さぞかしがっかりしたと思います。

しかし、この映画には「パトレイバー」シリーズの一作品という位置づけの他に、
もう一つの(そしてさらに重要な)側面があります。
それは、この映画が「怪獣映画」である、という点です。

この映画でレイバーが戦うのは、篠原重工でもシャフト・エンタープライズでもありません。
南極に墜落した隕石に付着していた細胞を培養して生まれた、「怪獣」です。

冒頭に起きる東京湾での飛行機の墜落事故。
それからほどなくして湾岸地域に相次ぐ、不可解な殺人事件。
やがて姿を現した、巨大怪獣。
主人公が偶然出会う、謎めいた科学者。
裏で暗躍する、バイオ企業と軍。
そしてクライマックスの、怪獣の誘導作戦と最終決戦。

物語を構成する要素。それらの組み合わさり方と展開の仕方。
いずれもが、かつての特撮映画やSFアニメが培ってきた「型」と呼ぶべきものです。
冒頭から何かがひたひたと忍び寄る怪しさや、
その「何か」がなかなか姿を現さないという緊張感。
ほとんどのシーンが夜か曇りか雨という、
暗い雰囲気で進行するあたりもたまりません。

この映画を見て感じるのは、
まず純粋に、優れた怪獣映画・特撮映画を見たという喜び。
そして、かつての怪獣映画・特撮映画の(大げさに言えば)魂は、
実写映画ではなく、アニメに継承されていたのかという驚きです。

おそらく、映画のメインタッフを務めた年齢層(40代中盤?)は、
世代的に、子供の頃にウルトラマンやゴジラで特撮体験をしたクリエイターが多いのでしょう。
また、優れたクリエイターは、いつの時代も尖鋭的なメディアに集まるという「基本力学」を考えれば、
優秀なクリエイター達の才能が、“オワコン”となった実写特撮ではなく、
アニメという場所で花開いたのは当然と言えるかもしれません。
(今だったらどういう分野に集まるんだろう?ネット動画とかなのかな?)
ただ、「アニメで特撮を描く」というのは、どこか倒錯している感じも否定できず、
一抹のさみしさを覚えないではありません。

アニメも特撮同様に、かつてはロボットや宇宙や未来世界といった、
現実にはフィルムにおさめられない世界を専門に描く分野でした。
ところが近年、以前もこのブログで紹介した『千年女優』や原恵一監督の『カラフル』のように、
実写映画が担っていたような物語にまで進出し始めているアニメ作品が出始めています。
この貪欲な吸収力を見れば、アニメは今後も自らの可能性を広げ続ける気がします。

それに対して実写特撮は、明らかに先細りです。
日本の本格的な特撮怪獣映画は樋口真嗣監督の「平成ガメラシリーズ」を最後に、
今日まで作られてはいません(21世紀のゴジラシリーズはあまりにひどい出来なのでカウントしません)。
唯一元気なのはライダーや戦隊シリーズですが、
近年のヒーローものはターゲットが低年齢化しているため、、
最初期のウルトラマンのように「倒される怪獣の悲哀」などの渋い物語を描く余裕はなく、
また、制作会社ではなくスポンサーの玩具会社の力が大きいため、
「クリスマス商戦に向けて秋に変身合体する新しいロボットを登場させる」など、
かなり生臭い形で作品作りが行われているようです。

まあこういうことは時代の変化なので、良いも悪いもないんですが、
ただ個人的には、このまま放っておくと特撮が
単に「小さな子供が見るもの」という矮小なジャンルに貶められそうで、やきもきします。
(ヒーローものを見ていて辛いのは、物語がもはや子供に媚びているように見えるからです)
先日『パシフィック・リム』を見たときに何に感動したかって、
客席の年齢層の幅広さにでした。
字幕だったので子供は少なかったですが、
おじさんおばさんの夫婦とか、若いカップルなんかもいました。
(3Dの吹替版は子供たちが声を上げてイェーガーを応援しているそうです)
そういうのを見ると、特撮映画が子供だけじゃなくて大人にとっても、
エンターテインメントとして認知されてほしいと思わずにはいられません。

『パシフィック・リム』、『キングコング対ゴジラ』そして『WXIII』と、
特撮映画についてあれこれ書いてきましたが、
正直に言えば、僕が求めているセンスというものが、
かつての東宝特撮のムードを良しとする、多分に懐古趣味的なものであることは自覚しています。
仮にそういうムードをどっさり盛り込んだ特撮映画が制作されても、
それは「趣味映画」の範疇を超えるものではありません。

ただ、(これも何度も書いているように)なぜ『パシフィック・リム』や『キングコング対ゴジラ』が面白いかといえば、
「でっかいものとでっかいものが戦う」というシンプルな物語が、
僕らの素朴な好奇心を刺激するからです。
設定なんかは後付けでかまわなくて、むしろスキがあればあるほど楽しめるとさえ言えます。
『WXIII』にしても、ドラマのトーンはいたってシリアスですが、
設定の根本は、「宇宙の細胞によって培養された怪獣が東京湾で育つ」という、
突っ込みどころのある、ぶっ飛んだものです。
しかし、そのスキがあるからこそ、面白い。

観客としてのこういう素朴な心理というのは、
時代が移ってもそうそう変わるものではないと思います。
だから、特撮はもう一度、子供に媚びるでもなく、
あるいはゴチャゴチャと複雑にして大人層におもねるでもなく、
ましてや「映像ショー」という虚しい理想を追求するでもなく、
素朴なファンタジーとして開き直った作品づくりをしてほしいなあと思います。


<予告編>








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映画 『風立ちぬ』

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ナウシカ・ラピュタ世代の
「再びのリアルタイム」


宮崎駿の新作『風立ちぬ』を見てきました。

見終わった後、映画館のエレベーターで乗り合わせた客の一人(男性)が、
「あれで終わり?」と、不満を口にしていました。
その気持ち、分からないではないです。
確かに、これまでの宮崎作品にあったようなカタルシスや爽快感のあるラストではありませんでした。
でも、それが映画の価値を貶めているかというと、僕はそんなことはないと思います。
多分、この『風立ちぬ』という映画は、これまでの宮崎作品と根本的に違うんだと思います。

それを端的に表しているのが、「生きねば」というコピーです。
このコピーを見てパッと思い出すのは、『もののけ姫』のコピーである「生きろ」。
「生きろ」が他者に訴えかけるメッセージであるのに対し、
「生きねば」は自らに言い聞かせる独り言です。
これまでの宮崎作品は、宮崎駿が年下の世代(主に子どもたち)に対して物語を語りかけるように作られてきました。
しかし『風立ちぬ』は、宮崎駿が他の誰でもない自分自身に対して語りかける、
初めての一人称の映画だったんだと思います。

一人の男性が夢を追い、その中で一人の女性に出会い、別れ、そしてまた夢を追う。
『風立ちぬ』は、その姿をただ淡々と写した映画です。
それは物語というよりも、シンプルな風景画に近い。
これまで散々「物語」を語ってきた宮崎駿がいきなり一枚の風景画だけを提示してきたのだから、
人によってはがっかりもするでしょう。
風景画はそれ自体は何の説明もなく、その真意を理解できるのは本質的には風景を見た本人しかいないからです。

それは、ある意味では人生そのものであるとも言えます。
映画を見終わって感じる、映画と自分(観客)とが重なり合わない距離感のようなもの。
それは、壮大な冒険劇やファンタジックなキャラクターという
宮崎作品らしい「仕掛け」が無い、という不満などではなく、
「他人の人生と自分の人生とは同化できない」という、
生きる上での真理そのものなのです。
その意味で、僕はこの映画は宮崎駿が初めて作った「大人の映画」なんだと思います。
大人をターゲットにした映画、ではなく、大人の映画。
映画と観客との関係が、大人同士の関係性とそっくりそのまま同じであるという意味で、
『風立ちぬ』は「大人の映画」だと思います。

もう一つ、この映画について語る時に考えなければならないのは、「戦争」というファクターです。
戦争自体は、実はこれまでにも宮崎作品で絶えずその影がちらついていました。
『ナウシカ』は戦争の渦中の話だし、『ラピュタ』にも軍人が出てくるし、
『千と千尋』だって、湯婆婆と銭婆の間に暴力を用いた争いがある。
さらには『ポニョ』にだって、フジモトの抱える人間への敵意(争いの予感)があります。
そして、これまでの宮崎映画は、
そうした戦争に対してどの勢力にも与せず、
自分の道を進もうとする人物たちを描いてきました。

ところが、『風立ちぬ』の主人公・二郎は、戦闘機の設計を生業とする人物です。
つまり、間接的にせよ、結果として戦争に協力している。
ここが、これまでの宮崎作品のキャラクターたちと異なる点です。
二郎自身は、戦争に協力したいなんて露ほども思っていません。
考えているのはただ「美しい飛行機を作りたい」ということ。
しかし、現実にはその夢は「戦闘機を作る」ということでしか果たすことができないのです。

飛行機を作りたいという夢と、戦闘機を作らなければいけないという現実。
両者の間で二郎が葛藤を抱えていたことは、
たびたび出てくるカプローニとの会話で察することができます。
しかし、その二つになんとか折り合いをつけ、
さらには病気の妻と過ごす時間を削ってまでも仕事に力を注いだ結果、どうなったか。
国は戦争に負け、妻は彼の元からいなくなりました。
「持ち時間である10年」で、二郎は何かを手にするどころか、
一切を失ってしまったのです。
それでも明日はやってくる。
「生きねば」というコピーは、まさにこの瞬間の二郎の心情を表したものだったのでしょう。

僕は、これから二郎が何を頼りに生きていくのかが気になります。
菜穂子が夢の中で言ってくれた「生きて」という言葉なのか。
やっぱり、飛行機を作るという夢なのか。
傷は時間が経てば癒えるかもしれません。
でも、失った時間そのものは取り戻せない。
「生きねば」という言葉は、なんと残酷なのだろうと、
僕はラストシーンで感動するどころかむしろ慄然としました。
ラストシーンの映像そのものはとても美しいものでしたが、
しかし想像すればするほど、その美しさの中に悲しみの予感を感じました。

風景画のように静かで淡いキャラクターたち。
客席に近寄ってこないドラマ。
そして、「生きねば」という重たい決意。
心に秘めたものを正直に語ろうとすると、
言葉はミもフタもないものに、口調はぶっきらぼうになるように、
この映画のジブリらしからぬ「不親切」ともいえる要素はいずれも、
素の宮崎駿が自らの思いを語ろうとしていることの表れなんじゃないかという気がします。
鈴木プロデューサーはこの映画を「宮崎駿の遺言」と語ったそうですが、
(宮崎駿自身はそれを否定していますが)
あながち誇張であるとは思えません。

先日、池袋で開催されていた『風立ちぬ』の原画展に行ったら、グッズコーナーに、
僕が幼稚園とか小学校低学年の頃にボロボロになるまで見ていた『ナウシカ』のアニメ絵本が、
現役バリバリで置いてあってびっくりしました。
(第何版なんでしょうね)
かつてリアルタイムで『ナウシカ』や『ラピュタ』を見ていた世代は、
30〜40代という中堅の世代を迎えています(僕もその一人)。
そうしたナウシカ・ラピュタ世代にとって、ある時期以降のジブリ作品は、
リアルタイム感(自分がターゲットになっている感)よりも「ノスタルジア」を、
つまり、第2第3の『ナウシカ』『ラピュタ』の影を求めるものへと変わったと思います。
(僕にとっての境目は『千と千尋』でした)
しかしこの『風立ちぬ』は、僕たちナウシカ・ラピュタ世代にとっての、
「再びのリアルタイム」となる作品として位置づけられるのかもしれません。






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映画 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

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「シンジのための物語」なら
僕はもう見たくない


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のDVD/Blu-rayが発売されました。

劇場公開から約半年。
決して短くない時間が経っているにもかかわらず、
改めて見直してみると、
映画館で受けた「あの衝撃」がありありと蘇ってきます。

控えめに言っても、この『Q』という作品はかなりの問題作だったと思います。
いきなり「あれから14年経った」という展開の仕方は、
観客の予想の、遥か斜め上を行くものでした。
テレビ版とも劇場版とも異なる、
全く新しいエヴァの世界を目にすることができたこと自体は、
間違いなく興奮する出来事でしたが、
しかしその一方で、例えばヴィレ設立の経緯やサードインパクト直後の様子・描写など、
「空白の14年間」を埋めてくれる説明は驚くほど少なく、
それどころか「ヴンダーって何だ」「カシウスの槍って何だ」など、
新たな謎のバーゲンセール状態(しかもそれらはほとんど次回作への積み残し)になってしまったところに、
僕としては不満が残りました。

まるでとりつくシマがないところを指して
「そういうところこそが『本来のエヴァ』じゃないか」という、
「エヴァ原理主義」的意見も一定の理解はできます。
確かに、観客の「?」を無視してガンガン物語が進んでいく「取り残された感」は、
かつてのテレビ版や旧劇場版でさんざん味わった感覚です。
しかし、これまでの『序』『破』という2作を踏まえたときに、
つまり『エヴァンゲリオン』ではなく『ヱヴァンゲリヲン』という新たな物語と考えた場合、
僕は『Q』という作品が再び(『ヱヴァ』ではなく)『エヴァ』の雰囲気を持ち始めたことは、
「回帰」ではなく「後退」なんじゃないかと思います。


旧エヴァになくて新ヱヴァにある(正確に言えば「あった」)もの。
それは、シンジやレイ、アスカが「成長している」という実感でした。
より詳しく述べれば、成長を実感できる、という「達成感(カタルシス)」でした。
具体的には、『破』の記事で書きましたが、
シンジやレイやアスカが、
他人のことを思いやり、他人に対して心を開き、他人のために行動するようになるという「確かな温かさ」は、
かつての旧エヴァには見られなかったことです。

シンジたちは14歳のままなのに、間違いなく「成長」している。
かつて、彼らに自らを投影していた僕らリアルタイム世代にとって、
シンジたちの「成長した姿」は、僕ら自身が生きてきた証のように感じられました。
だからこそ、僕は映画館の座席で身体が震えるような感動を覚えたのです。

だから、『破』を見終えた時点で僕は、
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』という物語は、シンジたちの成長譚になるのだろうと予想しました。
それこそが、庵野秀明が当初語っていた
「閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だ」という言葉の意味なんだろうと。

しかし、その期待は(少なくとも『Q』では)裏切られました。

僕は、せめて空白の14年間におけるキャラクター達の変遷はもう少し描いてほしかったです。
『破』のラストで、レイを奪い返すために使徒に立ち向かうシンジに対し、
「行きなさいシンジくん!」とミサトが叫ぶ場面は、旧エヴァと新ヱヴァとを分つ象徴的なシーンでした。
あそこまでシンジの背中を押していたミサトが、
(14年経っているとはいえ)その直後に、なぜ同じシンジに対してああも冷たい態度を取るのか。

もちろん、ミサトの変化やその他の空白の14年間について、
経緯や背景を描かずに観客の想像力に委ねるのも一つの手です。
しかし、(くどいようですが「エヴァ」ではなく)「ヱヴァ」という物語においては、
ミサトの心理の変化を「描く」という選択肢をとってほしかったなあと思うのです。
正直、ヴンダーがどうした、カシウスの槍がどうしたという、
補完計画やネルフ絡みの謎については、僕はどうでもいいのです。
ただ、上述のようなミサトの14年間や、アスカやマリの14年間といった「人物の心理」については、
もう少し触れてもよかったんじゃないかと思います。
『序』『破』との最大の分断は、14年経ったという時間的な距離などではなく、
「誰の気持ちも分からなくなった」という、この落胆なんじゃないかと思います。

僕が今危惧しているのは、今回大量に放出された謎の解明と、
さらにうつ状態に陥ったシンジの回復という膨大な課題を、
果たして次回作だけで収拾できるのかということです。

群像劇だった『序』『破』から、『Q』で一気にシンジの一人称の物語に転換したことを考えると、
結局、新ヱヴァも旧エヴァと同様に、最終的には「シンジの物語」に絞ろうとしているんじゃないかと思います。
もしそうだとしたら、補完計画や、ヴィレとネルフの対決といった「ストーリー」としての決着よりも、
シンジがあの状況からどう希望を見いだすのかという、
観念の話に着地する ―かつてのテレビ版と同じ轍を踏む― ことになります。
それは避けてほしい。
新ヱヴァには観念ではなく、今度こそ具体的で肉体性のある希望を描いてほしいと願います。
「具体的で肉体性のある希望」とは何か。
それは、シンジ一人の「心の救済」などではなく、
あのサードインパクト後のめちゃくちゃになった世界について、
そして生き残った人々について、
何らかの形での回復・修復を描くということです。

書いていて思い出したのですが、
『序』そして『破』と見てきて、僕は新ヱヴァが「シンジとレイの物語」になるんだろうと予想していたのでした。
『破』の第10の使徒(前ゼルエル)との戦いにおいても、レイとの関係というものが、
シンジを動かす大きな動機となっていました。
だから、レイを救うことを通じて、シンジ自身も救われる物語になるんじゃないかと考えたのです。
すごく、ピュアなラブストーリーになるんじゃないかと。
だとすれば、すごく「アリ」だと思いました。
それは(繰り返すように)、テレビ版も旧劇場版も、結局はシンジ一人の物語だったから。
シンジだけでなく、シンジとレイと(願わくばアスカやミサトやゲンドウも)共に何らかの再生を遂げるのであれば、
リメイクされる意味があるなあと思ったのです。

完結編となる次回作のタイトルは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』。
ここで再びタイトルが「エヴァンゲリオン」に戻ったこと。
そして、「:||」という、楽譜上で「反復=同じことを繰り返す」を意味する記号が付けられていることに、
何やら不穏な予感を覚えます。
けれど、もはや作品として鑑賞するというよりも、
一つの事件として、とにもかくにも最後まで「目撃する」ことが、
「エヴァを見る」ということの意味だと思うので、
期待しながら完結編の公開を待ちたいと思います。


映画 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 予告







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「世界を好きになろう」という意志

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映画 『コクリコ坂から』

スタジオジブリの最新作『コクリコ坂から』を見てきました。
細かいストーリーやトータルとしての感想は、いろんなところで書かれているので、
今回は物語の本筋とは直接は関係のないところについて書きたいと思います。

物語の舞台は、1963年の横浜です。
当時の横浜は既に日本最大の港湾都市として発展していましたが、
主人公の少女・海の暮らす街は、
まだ都市化の波が押し寄せてはいない、横浜の外れの港街です。
海べりには小さな波止場と商店街があって、
船乗りとその家族が暮らす木造の家が立ち並んでいます。
海に目を向けると、
沖には大型のコンテナ船や積み荷を運ぶタグボートが、煙を吐き出しながら盛んに行き交っています。
高度経済成長期真っ只中ですが、
この街には何となくのどかさが残っています。

決して多くのシーンが割かれているわけではありませんが、
映画ではこの街の人々の暮らしがよく描かれています。
船乗りや商店街の肉屋、魚屋、主婦や子供たち。
別に裕福な街ではないので、経済成長の華やかさなどとは無縁の生活ぶりなのですが、
それでも各自がその小さな世界の中で淡々と暮らしているのです。

実は僕は、この街の風景に、涙が出てきて仕方がありませんでした。
いろんな人が生きているという、ただそれだけのことに僕はものすごく震えたのです。

主人公の海は、母親が家を空けているため、
毎日、家族の食事の用意や洗濯をしています。
まだ日が昇らない内に起きなければいけないし、
放課後も遅くまで学校に残ることはできません。
けっこう苦労人なのですが、海自身は(少なくとも表面的には)そういう自分の生活を受け入れていて、
淡々と同じような毎日を繰り返しているのです。

僕は街の人を、そして主人公の海を見ながら「なんて世界は美しいんだろう」と考えていました。
人生はいろいろうまくいかないことや、泣きたくなることや、後悔することがたくさんあるし、
たまに「ああ、もっと違う人生があったのでは」というようなことを考えたりするけれど、
そんなことは詮ないことだから、今いるこの場所で黙々と毎日を過ごしていくしかない。
あの街で暮らしている登場人物たちは、
そういう葛藤(というほど大げさなものではないにせよ)を乗り越えてきたんだと思うと、
海や、街の人の、淡々とした生活のリズム感は、
それ自体がものすごく美しいものに思えてきたのです。

実は、昨年の『借りぐらしのアリエッティ』でも、一昨年の『崖の上のポニョ』でも、
僕は同じことを感じて泣きました。
1か月くらい前に、金曜ロードショーで放送された『魔女の宅急便』を見ても、やっぱり泣きました。
スタジオジブリの作品は、この世界の一切を肯定しようという、
無謀と言えるほどの意志があるから好きです。
ジブリの作品はどれもが生命賛歌であり、世界賛歌だと僕は思います。
子供の頃は、そういう感覚を直感的に受け取っていたのでしょう。
そして大人になった今、世界を肯定することは、とんでもなくエネルギーが要ることを知りました。
膨大なエネルギーを消費してもなお、世界を好きなろうとする気持ちは、
多分毎日を淡々と笑顔で生きていくことと同じことなのだと思います。


『コクリコ坂から』予告編

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映画 『ドラえもん のび太の大魔境』

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「ドラえもん映画」は
子供だけのものじゃない


 今年で映画化30周年のドラえもん。東宝映画のシリーズものでは『ゴジラ』を抜いて最多作品記録を塗り替えたそうである。第1作『のび太の恐竜』の公開が1980年。ちょうど僕より1歳上、ということでこの公開年は忘れずに覚えている。ということはつまり、僕が生まれてからこのかた、世にドラえもん映画が作られなかった年は(ほぼ)なかったわけで、そう考えるとすごい。僕らtheatre project BRIDGEもたかだか結成10周年で浮かれている場合ではないのである。

 というわけで今回はドラえもんの映画について大真面目に語ろうと思う。

 一般的に言って、マンガやTVアニメの映画版というものは、あくまで通常フォーマットからの番外編、作品の質云々よりもファンを喜ばせるために作られる“おまけ”的存在である。事実、『クレヨンしんちゃん』や初期『ルパン三世』などのごく限られた例外を除いて、原作よりもインパクトを残した映画化作品はほぼ皆無といっていい。ドラえもんの映画版も、マンガの連載長期化とテレビアニメ化を受け、人気の高さを担保に制作された点においては、他のケースと違わない。

 だが、ドラえもんの映画はおもしろい。マンガやTVアニメの従属的な存在ではなく、それどころかむしろ映画が“主”といってもいいようなレベルの高さを誇っている。しかも安定して。ちなみに僕は通常のコミックス版は持っていないが、映画の原作コミックス「大長編ドラえもん」シリーズは持っているのだ。

 おもしろさの理由はおそらく、藤子・F・不二雄自身が映画の原作を執筆しているからだろう。宇宙や深海や恐竜時代といった壮大な舞台に、練られた謎解きや緊迫したサスペンス(ドラえもん映画は実はけっこう怖いのだ)。僕らは映画版に「TVアニメサイズでは見られなかったスケール感」をいくつも目撃するわけだが、それは「普段は描けないことを描ききってやろう」という藤子・F・不二雄自身の充実感とイコールなのだと思う。特に初期10作あたりは「あれもやりたい、これもやりたい」という初期衝動が感じられ、まるで水を得た魚のように、藤子が映画という広大なフィールドにペンを疾走させているのがわかる。

 原作者が主体的に関わっているかどうかがその映画化作品の成否を分けることは、例えば鳥山明抜きで制作された『ドラゴンボール』映画版、井上雄彦抜きで制作された『スラムダンク』映画版などの劣悪さを見れば明らかだ。残念なことにドラえもんにおいても藤子・F・不二雄の死後(『のび太の南海大冒険』以降)、映画版には妙な説教臭さや押しつけがましさが出てきてしまった。「とりあえず友情とか環境保護とかそういうテーマを入れときゃいいでしょ」みたいな、制作者の言い訳が聞こえてきそうな作品ばかりで、ひどく退屈でつまらない。原作を映画化するにあたってどんな内容のものが相応しいか、どこまでが“アリ”でどこまでが“ナシ”なのか、そのさじ加減はやはり原作者がもっともよく理解しているということだろう。

 ではドラえもん映画のなかでどれが一番おもしろいかということになると、これはもう悶絶級に難しい。『のび太の恐竜』は最高に泣けるし……『のび太の宇宙開拓史』はスケールの点では他の作品に劣るものの叙情性ではシリーズ一番だし……『のび太の海底鬼岩城』はめちゃくちゃ怖いし(鉄騎隊が怖すぎる)……『のび太の魔界大冒険』もめちゃくちゃ怖いし(宇宙に浮かぶデマオンの心臓が怖すぎる)……『のび太の宇宙小戦争』は「スモールライト」という仕掛けが素晴らしいし(主題歌<少年期>は名曲)……『のび太と鉄人兵団』はハードボイルドだし(リルルはシリーズ最高のゲストキャラ)……『のび太と竜の騎士』は舞台設定とラストのどんでん返しが秀逸だし……『のび太のパラレル西遊記』もこれまた怖いし(新聞越しにのび太パパの頭に角が見えるところが怖すぎる)……『のび太の日本誕生』はやっぱり怖いし(ツチダマが怖すぎる)……『のび太とアニマル惑星』はチッポとの別れに泣けるし(主題歌<天までとどけ>は名曲)……『のび太のドラビアンナイト』は四次元ポケットがなくなるという展開が斬新だし(主題歌<夢のゆくえ>は隠れた名曲)……『のび太と雲の王国』はドラえもんが壊れたり過去のキャラクターが再登場したりと総決算的物語だし(主題歌<雲がゆくのは>は隠れた名曲)……『のび太とブリキの迷宮』はついにのび太がドラえもん抜きで冒険をするという点で画期的作品だし(ナポギストラーの声が森山周一郎というキャスティングが冴えている)……。

 だが僕はここで『のび太の大魔境』を一番に挙げたい。1982年公開のシリーズ3作目。そしてシリーズ中もっとも過小評価されている作品でもある。確かに、恐竜時代や宇宙や深海に比べると「アフリカ」という舞台設定は地味だ。確かに、魔族や地底人や鉄人兵団に比べると「犬」というゲストキャラは呑気すぎるかもしれない。

 しかしこの映画には、もっとも素朴な形の冒険と興奮が詰まっている。子供の頃、宇宙や海の底よりも、「アフリカ」という国の方が、はるかにミステリアスなものを感じなかったか。また、宇宙人や魔法の世界の住人ではなく、「犬」というどこにでもいる生き物だからこそ、「もし言葉を解し、自分たちだけの国を持っていたら」という想像が掻き立てられる。僕は初めて『のび太の大魔境』を見た子供の頃、道端で野良犬に出会っては「ひょっとしたら…」とじっと見つめたものである。

 この映画にあるのは“日常”の匂いなのだ。「アフリカ」「犬」「夏休みどこ行こう」といった子供時分のリアリティにおいても、普段のTVアニメ版と何ら変わらないテンションで物語が始まるという点においても、この映画の物語は日常と同一地平線上にある。そして、その“いつもと一緒”なところから、やがてはアフリカの奥にある謎の国にまで“物語が拡大していく”という点で、まさに「映画化」の模範のような作品なのである。

 ドラえもんの映画はおもしろい。特に藤子・F・不二雄原作の作品は、大人になった今観ても充分おもしろい。今の子供たちが、藤子の手を離れた現在の映画版だけではなく、昔の、ちょっと怖かった頃のドラえもん映画にまで手を伸ばしてくれたらなあと思う。最新作『のび太の人魚大海戦』はただ今公開中。久々に観に行こうか、そして果たして一人で観に行くか(行けるのか)、う〜ん、悩み中です。


『のび太の大魔境』は主題歌もとても良いのだ
<だからみんなで>

映画 『風の谷のナウシカ』

naucica
「チコの実」って
どんな味なんだろう


 先週の「金曜ロードショー」で『風の谷のナウシカ』を観ていたら、子供の頃に観た記憶が重なって、いろいろなことを思い出した。例えば王蟲の黄色い触手が子供の僕にはスパゲッティに見えて仕方なかったことや、腐海の深部に溜まった砂がコーンポタージュの素に似ているなと思ったこと。「“チコの実”って一体どんな味なんだろう」と興味津々だったこと、などなど。・・・こうやって書いてみると、食い意地が張ってる子供だったみたいでイヤだなあ。

 あとは、音楽がものすごく好きだった。もちろん今でもグッとくる。メインテーマを聴くと相変わらず胸がいっぱいになるし、<メーヴェとコルベットの戦い>が流れると鳥肌が立つ。そういえば、<ナウシカ・レクイエム>を歌っていた久石譲の娘は、ついこないだ歌手デビューしましたね。もう30歳過ぎの立派な大人になっていました。

 とにかく、子供の頃から何十回と、それこそビデオテープが擦り切れるくらいに、台詞を全部覚えてしまうくらいに観た映画である。ワンシーン、ワンカットごとに思い入れが詰まっていて、久しぶりに観たらそれが一気に噴き出してきた。単なる懐かしさを超えた、胸の奥に炎が上がるような感覚だった。

 同時に、大人になった今の目で観ても優れた映画だと改めて実感した。腐海をはじめ背景美術は四半世紀前の作品とは思えないほど美しいし、王蟲の造形や動きの表現などは未だに驚かされる。衣装やメカなど、小道具一つひとつに固有の文化・歴史が感じられるところも素晴らしいし、他のアニメにはない強烈な世界観がある。

 だが、このように冷静に鑑賞して感動するよりも、「王蟲の手はスパゲッティだ」と思ってる方が、作品の感じ方としてはなんとなく正しいような気もする。宮崎作品の何が優れているかと言えば、テーマやドラマではなく、画面を通して伝わってくる肌感覚なんじゃないかと思う。たとえば、大ババ様の作る妙なスープには画面から匂いを嗅ぎ取れるし、バカガラスのコンテナに満ちた炎には熱さを感じられる。テトの頬ずりにはくすぐったさを感じる。自然との共生という、ある意味使い古されたテーマが観念的なものに陥らないのは、画面を通した五感への刺激、つまり肉体性がその裏にあるからなのではないか。久々に『ナウシカ』を観ながらそんなことをぼんやり考えていた。

 ところで、映画『ナウシカ』は観てない人を探すのが難しいくらい超メジャーだが、原作『ナウシカ』はそれほど浸透していないように思う。全7巻の大作で、実は映画はこのうち2巻途中までの内容を、それも細部を変えてまとめたものなのである。つまり、5巻以上にわたって、映画の“続編”があるのだ。

 紹介したらキリがないが、とにかく映画が全てだと思っていた人はぶっ飛ぶくらいの衝撃を受けるはず。特に作品のなかで最重要テーマである腐海の設定が、映画版と原作版では180度真逆であるのが面白い。宮崎駿は本当はこう描きたかったのかという、彼の本音や悔しさみたいなものが感じ取れて、再度映画版を観るとまた違った見え方になる。

 全然関係ないんだけど、僕の友人に「子供はジブリ作品で育てる」と宣言していた女の子がいる。彼女は数年前にママになったのだが、果たして実践しているのだろうか。娘がナウシカみたいに育ったらどうなんだろう。すごい優しい子なのは嬉しいけど、家中虫だらけになったりしたらちょっとやだ。

『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』 福井晴敏 (角川書店)

gundam uc






懐かしく、そして新しい
「ガンダム、行きまーす!」


2007年2月から今年の8月までガンダム専門誌『ガンダムエース』にて連載されていた小説
『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』。
『終戦のローレライ』や『亡国のイージス』で有名な福井晴敏が執筆を担当し、
来年春にはアニメ化も決まるなど、このガンダムシリーズ最新作は話題に事欠かない。

だが、なんといっても特筆すべきはその内容だ。
物語の舞台は宇宙世紀0096。
これは映画『逆襲のシャア』で描かれた第2次ネオ・ジオン抗争から、わずか3年後にあたる。
これまで語られてこなかった時代だ。

物語はミステリー仕立てで進行する。
アナハイム・エレクトロニクスの実質的オーナーであり、
地球圏の陰の支配者<ビスト財団>が長年秘匿し続けてきた「ラプラスの箱」。
この謎に満ちたアイテムをめぐって、ネオ・ジオンの残党が出てくる。
ロンド・ベルが出てくる。ブライトさんが登場する。
カイやベルトーチカ、ハサン先生なんていうニクいゲストが登場する。
それだけじゃない、なんとミネバ・ザビが登場する。

このスケール感はどうだろう。
かつて『ポケットの中の戦争』や『第08MS小隊』といった
宇宙世紀シリーズの番外編が作られたことはあったが、
この作品はそれらとは根本的に違う。
『ガンダムUC』とは宇宙世紀本編の物語であり、
それも、アムロとシャアの息遣いが色濃く残る「ガンダム第1サーガ」の正統なる続編なのだ。

これは『スターウォーズ』で言うなら、
エピソード7〜9が映像化されるくらいにすごいことである。
つまり、もはや作られることはないだろうと諦めていた物語の作品化が実現したのだ。

しかも、ストーリーは最終的に
宇宙世紀の始まりと地球連邦政府創設の秘密にまで迫っていくのである。
鮮やかに塗り替えられる世界観。
ガンダム第1サーガはこの『ガンダムUC』をもって完結すると言える。
シリーズ最新作は、同時にシリーズ史上最大の問題作でもあったのだ。

ニュータイプ論に真っ向から切り込んでいる点でも本作は続編と呼ぶに相応しい。
主人公バナージ・リンクスは、宇宙世紀の時間軸的に言えば
アムロ、カミーユ、ジュドーに続く第1世代直系のニュータイプ。
バナージが「行きます!」といってカタパルトから飛び立つ場面などは、
感慨深くて涙が出そうになる。

思えば『機動武闘伝Gガンダム』以降、
ガンダムシリーズの主流は宇宙世紀とは別種の世界観を設定した作品群に取って代わられた。
ガンダムの名を冠するものの、宇宙世紀という世界観は継承せずに、
1本1本が独立したパラレルワールドとして描かれてきたのである。
だが、それら“分家”はことごとく、“本家”である宇宙世紀シリーズを超えることができなかった。

例えば「戦争と人」、「人類の革新(成長)」というテーマ。
これら“本家”ガンダムが取り組んできた命題は“分家”シリーズでも受け継がれた。
受け継がざるをえなかった、といった方が正しいかもしれない。
なぜならこれらのテーマこそがガンダムが「ガンダム」たる所以だったからだ。

“分家”独自のものと言えば、たとえばガンダムWなどに見られる機体デザインの変化や、
キャラクターデザインがより女性ファン層向けのものになったといった、
マイナーチェンジでしかなかった。

つまり“分家”は世界観は異なるのに、物語の骨格自体は常に“本家”をどう踏襲するか、
あるいはどう壊すかの二択でしか作られてこなかったのである。
皮肉なことに、原作者である富野由悠季自身が関わった
『∀ガンダム』や『Zガンダム』のリメイクですら、
2次的解釈を施した派生品にしかならなかった。

90年代以降、ガンダムシリーズは明らかに長い停滞期にあった。
もっともその責任は決して作り手側だけに問われるものではなく、
我々ファンも負うべきものである。
ファーストから『逆襲のシャア』までの第1サーガ以外に「ガンダム」のあり方はないとする
ファンの保守性が、作り手の足を引っ張ってきた部分は少なくないだろう。

だが今回の『ガンダムUC』は、その行き詰まり感に風穴を開けることができるかもしれない。
それは、原作者の富野以外に踏み込むことがタブー視されてきた宇宙世紀第1サーガに、
初めて富野ではない人間が手を入れたからだ。

福井晴敏の手によるガンダムは、僕としては充分に「ガンダム」として、
それも“本家”の作品として受け入れられた。
ランバ・ラルを髣髴とさせる叩き挙げの軍人ジンネマン。
職務を全うすることに命を燃やす連邦の特殊部隊隊長ダグザ。
参謀本部と乗組員の板ばさみに喘ぎながらも、
次第に能力を開眼させる<ネェル・アーガマ>の艦長オットー。

己の使命と信念に突き進む大人たちがかっこよく描かれる一方で、
彼らもまた組織や国家というオールドタイプの概念に捉われているというジレンマの構造。
そして、そんな大人たちを軽蔑する少年の目。
ガンダムが描き続けてきた世界がまさにここにある。
富野由悠季の手を離れたにもかかわらず、この『ガンダムUC』は、正真正銘“本家”ガンダムだ。

この作品が前例となり、
今後富野以外の人間による宇宙世紀シリーズが制作される道が開けるはずだ。
(安彦良和の『GUNDAM THE ORIGIN』も一役買っているだろう)
これはシリーズ全体にとって極めて大きな意味を持つことではないだろうか。

来年春より1話50分、全6巻のOVAという形でアニメ化が開始される。
原作のボリュームは到底収まりきらないだろうから、かなり省略されることが予想される。
なので、まずはこの小説から入ることがおすすめ。
ハードカバー全10巻という量は長そうに見えて、
一度ページを開いたらラストまで一気に読み通せるはず。

アニメ版公式サイト
「SPECIAL」というコンテンツでは最新のプロモーション映像を視聴可能。感涙です。




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映画 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』

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少年から大人へ
憎しみから愛へ


「自分は誰からも必要とされてない人間だ」。
僕が初めてそう思ったのは中学2年生のときだった。14歳だった。

足は遅いし球技は何をやってもヘタクソだし、運動はてんでダメ。
友達を笑わせられる話一つできない。
おまけにルックスも、クリクリでゴワゴワの髪の毛に牛乳瓶の底のような眼鏡という、
今で言う“イケてない”の極致。
ただ一つ、成績だけは飛び抜けて良かったのだが、
14歳の社会のなかで“勉強ができる”ということは、妬みの対象にこそなれ、
認められ、一目置かれることではなかった。
だから「自分はこの世に必要ない存在だ」という結論は、
僕にとって実にナチュラルな実感だった。
そして僕は生まれて初めて「死んでもいいや」と考えたのだ。

その年の冬、僕はギターを始めた。
何がきっかけで始めたのか、よく覚えていない。
しかしギターは、ギターだけは、他人から褒められ、認められるものだった。
だから僕は必死に練習した。
「ギターが上手ければ、僕は誰かに必要とされる」「ギターが弾ける僕は生きていてもいいんだ」。
そう考えていたのだ。
だが、翌年の春にギターがとてつもなく上手い転校生がやってきて、
僕のアイデンティティは脆くも崩れ去ってしまった。

『新世紀エヴァンゲリオン』は、誰かに必要とされ、愛されることを願う14歳の少年たちが、
巨大ロボットに乗り込み「使徒」と呼ばれる謎の生物と戦うことで、自分の価値を探す物語だ。
ストーリーのあちこちにばら撒かれたミステリアスな謎や、
ディティールの細かいクールなメカ描写にも夢中になったが、
それ以上に僕は物語の主人公たちに自分自身を投影した。
特にエヴァに乗ることに意地とプライドの全てを賭けているアスカというキャラクターには、
ギターに存在価値を預けていた自分と重なり、観ていて胸が苦しかった。
『エヴァ』は紛れもなく“僕の物語”だった。

本放送、そして当時の完結編にあたる映画『Air/まごころを、君に』からおよそ10年。
エヴァンゲリオンが“ヱヴァンゲリヲン”と名を改めて再び制作されるという話を聞いたときには、
「なぜ今更?」と思った。
ブームを支えたかつての中高生たち(つまり僕たち)を当て込んだ、
多分に商業的な匂いのする試みにしか見えなかった。
何より、思春期が終わると同時にエヴァを“卒業”した身としては、
徒に当時の記憶を掘り起こされたくはなかった。


だがそれは杞憂に過ぎなかった。
結論から言うと、素晴らしい。
「素晴らしい」という言葉などでは足りないほど、本当に素晴らしい。
かつて10年前の旧エヴァンゲリオンは、全てこの新ヱヴァンゲリヲンのためにあったのではないか。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は単なるリメイクではない。
2年前に『序』を観た段階で、すでにその思いは強くあったのだが、
今回の『破』を観て、それは確信に変わった。

では「単なるリメイク」と一体何が異なるのか。
マリやヱヴァ6号機といった新たなキャラ、新たな設定の登場か。
「人類補完計画」の全貌が今度こそ明らかにされるという期待か。
はたまた、美しく生まれ変わった映像か。

いや、そうではない。
そんな些末なことはどうでもいいのだ。
新ヱヴァが紡ごうとしているもの、それは旧エヴァの時には希薄だった“生への意志”である。

例えばそれは、復元されたセカンドインパクト前の海の匂いを嗅いでシンジが言う
「本当の海って生臭いんですね」という言葉に対し、加持が言う台詞。
例えばそれは、「他人と話すのもそんなに悪くないって思った」というアスカの言葉に対し、ミサトが言う台詞。
本編では実にサラッと挿入されるこれらの台詞には、かつてのエヴァにはなかった、
世界を肯定しようとする前向きな思いが宿っている。

旧エヴァが14歳の少年たちの視点に座し、
他人の存在を、世界を受け入れようともがき苦しんだ結果、
ヒリヒリとした痛みと絶望に満ち満ちていたのに対し、
新ヱヴァには「確かに世界は汚濁と混沌だらけだけど、それでもきっとどこかに愛はあるよ。
世界は生きるに値する場所だよ」という力強いメッセージがこめられている。
まるで大人になった今の自分が、
「死んでもいいや」とばかり考えていた、少年(チルドレン)だったかつての自分に向けて、
救いの手を差し伸べているかのように、僕には思える。

少年から大人へ。
憎しみから愛へ。
10年の重みがここにある。
この変化は総監督庵野秀明の変化であり、そしてまた僕ら自身の変化でもある。
楽観的になったわけではない。
絶望を叫ぶよりも希望を語る方がはるかに痛みを伴うものだ。
僕らはただ、10年間を経て、その痛みに耐えようとする覚悟が強くなっただけだ。
しかし、だからこそ今、本気で誰かを愛し、
他人を受け入れみんなで生きていくことの大切さを共有したいと願っている。

『破』では、シンジはレイのために、レイはシンジのために、そしてアスカはシンジとレイのために行動する。
彼らがはっきりと他人のために行動を起こすのは、旧エヴァでは見られなかったことだ。
10年前も今も、3人は変わらずに14歳だ。
だが、彼らは「変化」している。
この変化はつまり、庵野秀明、そして僕らの10年を反映したものなのだ。

僕は一昨日映画を観たのだが、まだ熱にうなされているような状態が続いている。
ちょっとでも思い出せば涙が溢れてきてしまう。
気持ちは醒めるどころか、ますます加速して渦を巻いている感じだ。
実はあまりに興奮してしまい、昨日も劇団のメンバーと観に行ってしまった(ちなみに全員ともすでに2回目)。

客層はやはり同世代の20〜30代くらいが多いように見えた。
おそらく全員が、10年前からのファンなのだろう。
そしてみんなきっと、シンジやレイやアスカの変化を感じ、
そしてその変化を感じ取れるようになった自分自身の変化に気付き、
あれから過ごしてきた時間について思いを馳せているんじゃないだろうか。

『エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)』とは、僕らの世代にとっての貴重なアンセムだ。
10代半ばに、そして20代の終わりに再びエヴァに出会えたことはなんと幸せなことだろう。

テレビ本放送がスタートした1995年という20世紀末からこの21世紀初頭へ、
10年間で現実はどんどん行き詰まりを見せている。
だからこそ、ささやかな愛と優しさに満ちた作品として生まれ変わったヱヴァンゲリヲンには、
勇気をもらうことができる。

素晴らしい。
何度言っても足りない。
身体が震えるほど素晴らしい。


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』予告編

映画『千年女優』

千年女優
たった一度会っただけの「彼」を追って
どこまでも突っ走るラブストーリー

 
 今敏監督のアニメ映画『千年女優』は、爽快感のあるラブストーリーだ。

 物語は、30年前に映画界を引退した女優、藤原千代子が自身の半生を振り返るという形で始まる。太平洋戦争前夜、女学生だった千代子は雪の降る学校の帰り道、ある青年と出会う。彼は警察に追われており、千代子は咄嗟に自宅に匿う。

 だが翌日、千代子が学校へ出かけている間に、青年はいなくなる。特高に隠れていることがばれたのだ。千代子は彼に一目会おうと駅へ向かって走る。息を切らしてホームに駆け込む。彼の乗り込んだ列車は動き出したところだった。千代子は列車を追う。が、追いつかない。

 千代子の脳裏に、昨夜交わした彼との約束が蘇る。「助けてくれたお礼に、いつか君を僕の故郷へ連れていこう。僕の故郷はとても寒いところでね、今の季節は辺り一面雪になるんだ」。遠く離れていく列車を見つめながら、千代子はいつか必ず彼に会いに行こう、そして約束を果たそうと心に決める。

 その後の千代子の人生は、青年を追うことに費やされる。映画界に入ったのも、このことがきっかけだ。満州でロケをする映画に出演を依頼されたのだ。彼の故郷は寒いところ、それは即ち満州ではないかと千代子は考えたのだ。奇しくもそのデビュー作で彼女が演じたのは、思い慕う男性を追って大陸へ渡る少女の役だった。

 満州で青年を見つけられず失意の千代子をよそに、女優藤原千代子は一躍スターダムに躍り出て、次から次へと映画に出演する。幕末の京都を舞台にした時代劇では、新撰組に追われる「彼」を逃がす町娘の役。戦国時代を舞台にしたアクション映画では、敵に捕らわれた「彼」を助けるためにくの一に身をやつす某国の姫の役。千代子が演じるのはいつも、一人の男性を追いかける女の子の役だ。千代子の演じる役と千代子自身の人生が重なり、溶け合い、映画『千年女優』は浮遊感と疾走感を帯び始める。

 太平洋戦争は終わり、戦後の復興に伴って映画界は黄金期を迎える。千代子は中年と呼ぶべき年齢に差し掛かった。初めて彼に会ったあの日から、もう何十年も過ぎている。その間に千代子は幾度となく涙を流し、苦しんできた。それでもなお、千代子は「彼に会いたい」という気持ちを失わない。

 映画中盤、千代子は叫ぶ。「こうしている間にも私はあの人のことをどんどん好きになっていく。毎日毎日、私はあの人のことをどんどん好きになる!」。

 人を好きになることに理由などなく、「好きだから好きなんだ!」ということしかない。『千年女優』の素晴らしい点は、限界ギリギリまでスピードをあげたメタフィクションという手法で、人を好きになる気持ちそのものを観客に伝えきってしまうところだ。「一目会っただけの人を何十年も好きでいるなんてウソだ」などという突っ込みを抱くどころか、過剰な設定がむしろ清々しさを生んでいる。


 最後に出演した映画で千代子が演じたのは、「彼」を追って何十光年もはるか彼方に向けて旅立つ女性宇宙飛行士の役だった。1度出発したら2度と帰ってくることのない旅。だが、彼女の顔は笑っている。「今度こそ彼に会える」という期待を胸に、千代子を乗せたロケットは地上から切り離される。

 ところで、肝心のあの青年がその後一体どうなったのか。実はラストシーン近くで、答えは明かされるのだ。千代子はその答えを知らない。そしてこの答えをどう思うかは、観る者によって違うだろう。
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