週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【本】アート・スポーツ

2018年4月の3冊 〜「80年代アイドル」の世界へ〜

 3月に読んだ『1979年の歌謡曲』『1984年の歌謡曲』からの流れで、日本の歌謡界が「J-POP」という名前で呼ばれるようになる前の時代について興味が湧いてきました。はっぴいえんどやYMOを軸とした70〜80年代のサブカル論やロック論なら何冊か読んだことがあるのですが、今回僕が興味をもったのは、ヒットチャートや賞レースといった、もっとマス向けな「芸能界」の話。

 ということで、最初に手を伸ばしたのが中川右介『山口百恵 赤と青とイミテイション・ゴールド』。タイトルのとおり、「山口百恵」という日本の戦後芸能史を代表する一つの「事件」に関する論考なのですが、同時代の歌手の動向やプロダクションとテレビ局の話などにも細かく触れていて、当時の雰囲気を知るにはうってつけでした。


 本書を読んで素朴に驚いたのは、山口百恵は女優としても成功した人だったということ。三浦友和との出会いが映像の仕事だったということはなんとなく知ってたんですけど、この2人をペアにして時代や舞台設定だけ変えた「百恵・友和映画」が、彼女が引退するまで映画会社のドル箱シリーズだったとまでは知りませんでした。

 活動期間の短さとその中で成し遂げた変化の振れ幅、そして今なお伝説として名を残すインパクト。本書を読みながら何度もイメージを重ねあわせたのは、ビートルズでした。




 そして、本書の続編に位置づけられるのが『松田聖子と中森明菜』(執筆はこっちが先)。


 本書では「アイドルポップス」について、洋楽の影響下にあった和製ポップスが発展したもので、演歌や反戦フォークなどの自虐的な世界観とは異なり、軽やかで幸福感に満ちた世界観をもつ音楽と定義しています。そして、70年代は亜流に過ぎなかったアイドルポップスを、一気に歌謡界の主流に押し上げて、業界の仕組みも人々の好みも全ての地図を「80年代仕様」に塗り替えたのが松田聖子であり、中森明菜でした。

 彼女たちの功績は、「歌が上手い」「可愛い」といった個人の才能だけによるものではなく、ウォークマンの登場による音楽をめぐるライフスタイルの変化や、享楽的で物質主義的なマインドに傾く世相の変化といった「時代」と彼女たちの資質とが呼応した結果でした。松田聖子の圧倒的な声量と「ぶりっ子」とまで呼ばれた仕草やビジュアル。それらは70年代でも90年代でもなく、1980年という時代だったからこそ支持されたのです。松田聖子のデビューにはさまざまな幸運が重なっていますが、本書を読むと、歴史的な必然でありそれが彼女の運命だったのだと、非科学的な納得をしてしまいそうになります。

 著者の中川右介『歌舞伎 家と血と藝』を読んで以来、絶対的な信頼を寄せているノンフィクション作家です。今回は上記2冊のほかにも『阿久悠と松本隆』、『角川映画 1976-1986』を読んだのですが、その芸能文化に関する圧倒的な知識と、それらを一種の「歴史書」としてまとめ上げる筆力には改めて舌を巻きました。







 そして、上記の2冊とは視点も切り口もまったく違うのですが、非常に面白かったのがクリス松村の『「誰にも書けない」アイドル論』


 上記2冊と何が違うかというと、こっちは徹底的に「主観」によって書かれているところ。主観といっても2万枚ものレコードを所蔵する、知る人ぞ知る音楽マニアのクリス松村ですから、その知識量はハンパじゃありません。しかも自分自身が熱心なアイドルファンとして当時を体験しているので、「高田馬場にあった通称『ポルノ噴水』のところに、なぜか看板をずっと掲げていた北泉舞子さん」とか、盛り込まれてるエピソードがいちいちリアリティありすぎ。下手なデータ本よりもむしろ資料性があります。ネットの存在で音楽の「消費速度」が加速していることへの批判も、著者がいうと説得力が違う。

 本書でクリス松村は、「アイドルは可愛くなくていい」と説きます。「アイドル」というものの魅力は、初めはあか抜けない少女だったのが、華麗な歌姫や女優として成長していく様を目撃することである。未完成だからこそファンは応援しようと思えるのだから、最初は「いも姉ちゃん」で構わないのだと(あるオーディション番組の審査員として著者が呼ばれた際、「歌姫の誕生ですね」という台詞をあてがわれたが断固拒否したというエピソードはかっこよすぎます)。

 考えてみると、確かに山口百恵も、デビュー当時はまだ子供の面影を残す少女でした。だから、80年代終わりに宮沢りえや後藤久美子といった「初めから完成された美少女」が登場したのは、アイドルブーム終焉を感じさせる出来事だったと書いています。

 しかし、「アイドルは応援するもの」という論で行くなら、今のAKBなどはまさに正統的なアイドルといえそうです。実際、握手会や総選挙といった「応援」を具現化できる仕掛けも豊富です。けれどクリス松村は、所詮は同じグループ、事務所内での閉じた競争であるところに(明記はしてないものの)不満を述べます。

 著者が、80年代のアイドルブームを終わらせた大きな契機の一つとして見ているのが、おニャン子クラブです。素人性を売りにしたことでアイドルから「成長」という重要な物語を奪い取り、しかもグループという形で売り出したことで一人ひとりが記憶に残らなくなり、結果的にアイドルの消費期限を早めました。

 松田聖子や中森明菜、小泉今日子といった少女たちが、並み居るベテラン勢の向こうを張って孤独な戦いに挑んでいた様を知っている身からすると、今のAKB総選挙など、閉鎖された世界で行われる学芸会のようにしか思えないのかもしれません(明確に書かれていはいませんが、本書は秋元康批判が大きな裏テーマになっています)。

「みんなで応援する」という感覚、そして応援するアイドルを送り込む「ヒットチャート」という場所。それらは人々の好みが細分化された今となっては消えてしまった、あるいは意味をなさなくなってしまったものです。「アイドル好き」がムーブメントではなく細分化された一つのクラスタと考えるなら、AKBの総選挙が「閉じた世界」であるのは、ある意味当然だともいえます。80年代のアイドルブームとは「みんな一緒」だった時代の、最後の花火だったのかなあなんて思いました。

 当時を知らない後追い世代の僕としては、もし当時を体験したら「みんなで応援するなんて気持ち悪い」と感じるだろうなあと思うのですが、同時に、そういう雰囲気がうらやましいという気持ちも、実を言えばちょっとだけあります。





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2018年3月の3冊 〜「音楽史」あれこれ〜

 2018年はなんだか読書がはかどりません。あれこれ手を出してはちびちび読んでいるのですが、なぜか1冊読み終えられない。読書にスランプってものはあるんだろうか。そんな中で比較的読めているのは音楽関連の本、中でも「音楽史」に関する本でした。

 年明けあたりからちびちび読んでた『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』は、頭がクラクラするくらい面白い本でした。

 アメリカの商業音楽の歴史を19世紀のミンストレル・ショウから現代のヒップホップまで時代を追いながら見ていくのですが、本書の特徴は、よくある人物中心史観(ロックでいえば、プレスリー、ビートルズ、ツェッペリン、ピストルズと追っていくような見方)ではなく、当時のアメリカを取り巻く世界の政治状況や技術の発達といった社会の動向全体から音楽を捉まえていく文化史的なアプローチをとっていることです

 このことにより、例えば「ブルースは黒人の哀歌である」とか「モータウンレコードは白人ウケを狙っていた」といった通説が否定され、逆に50年代後期からブリティッシュ・インベイジョン前夜の、ブリル・ビルディング・サウンドと呼ばれる職業作家たちによる若者向けポップスなど、これまであまり重視されてこなかったジャンルの歴史的な役割が照射されます。

 非常に刺激的だったのが、終章となる第11章「ヒスパニック・インベイジョン」です。過去に公民権運動や女性の自立などが叫ばれた時代に、その動きに呼応して音楽史における黒人や女性の貢献度や重要度が“上方修正”されたことを例に引き、ヒスパニック系の人口が総人口の1/4を占めるようになる2050年前後には、ラテン音楽がアメリカ音楽史に果たした役割が大きく注目を集めるだろうと説きます。そこではロックンロールすらもラテン音楽の下位ジャンルとして認識されるという予想と説得力は目からウロコでした。

 著者の大和田俊之は慶応法学部の若い教授。ネットでは本書と同様の趣旨によって書かれたエッセイやインタビューなども読めます。最近は雑誌『BRUTUS』の山下達郎Sunday Songbook特集(←これはバイブル!)でも寄稿していました。


 続いて読んだのは、ゴジラをはじめとする東宝特撮映画の音楽で有名な作曲家、伊福部昭『音楽入門』。これもめちゃくちゃ面白かった。

 これは前述の『アメリカ音楽史〜』よりもさらに扱ってる範囲が広くて、原始音楽から人類がどうやって音楽を作ってきたかという、音楽の歴史全体について書かれた本なのですが、ここでも特定の作曲家や演奏家に焦点を当てる人物中心史観は採られていません。本書が一貫しているのは「人が音楽をどのように聴いてきたか」という素朴な視点です。

 例えば最初は単なるリズムだけだったのが、徐々にメロディが生まれ、別のメロディと重ねる和声が生まれ、それと同時に最初はごく原初的な祭礼のためのものだったのが、宗教や科学と結びついて「音楽以外の何かを表現するもの」に変遷していったりします。

 それは言い換えれば、新たな美を探していく過程なのですが、芸術で唯一モチーフを必要としない=現実にある事象や感情に縛られない音楽には、もしかしたらまだこれから先も人類が出会ったことのない美的感覚が発見されるかもしれないという期待を抱かせます。

 去年亡くなった遠藤賢司(エンケンさん)もこの本を愛読してたらしいです。


 3冊目は一転して日本の歌謡界についての本。金曜深夜にBS TwellVで放送されている『ザ・カセットテープ・ミュージック』(←毎回欠かさず見てます)でMCを務める音楽評論家、スージー鈴木『1979年の歌謡曲』

 なぜ「1979年」なのかというと、70年代の歌謡曲全盛期に陰りが見えはじめ、ニューミュージックの足音がひたひたと聴こえてきた時代の転換期であるから…というのが本書の主張。阿久悠と松本隆の交代劇やサザンオールスターズの登場が音楽史に果たした役割が読み進めるうちに次々と明らかにされ、まるで歴史小説を読んでいるかのような痛快さがあります。

 1979年を「時代の転換期」とする解釈が100%客観的事実かと問われれば、それを証明できる人は誰もいないでしょう。「所詮、著者の主観じゃないか」と指摘されたらそれまでです(それゆえ「歴史”小説”を読んでいるかのような」と書きました)。でも僕は、評論という名前にひるまずに、自身が少年時代に体験したリアルタイムの衝撃や感動といった「主観」をむしろ前面に押し出してくる著者のスタイルを強く支持します。説得力のある分析や独創性のある解釈といったものだけでなく、その人個人の思い入れが込められてないと、文章や話を聴いて「この音楽を聴いてみよう」とはならないんだよなあ。

 本書とその続編にあたる『1984年の歌謡曲』は、このブログを続けるうえでの大きなヒントになった気がします。





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『ビニール・ジャンキーズ』 ブレット・ミラノ (河出書房新社)

9784309268064

彼らが「狂ってる」のならば
僕も一緒に狂いたい


 アナログレコードはポリ塩化ビニールでできていることから、「ビニール盤」などと呼ばれることがあります。ビニールのジャンキーとはつまり、レコードマニアのこと。この本は世界中のレコードマニアたちを著者が訪ねて取材したルポ。どの本だったか忘れちゃったけど、村上春樹のエッセイでもこの本が出てきました。

 マニアといっても、この本に出てくるのはハンパなマニアじゃありません。1枚のレコードに100万円以上ポンッと支払った猛者とかレコードを集めやすいからという理由だけでナッシュヴィルの大学に入学した人とか。ソニック・ユースのサーストン・ムーアや、R.E.M.ピーター・バックら、ミュージシャン界のヘビージャンキーたちも登場します。そして、世界中のジャンキーを訪ね歩く合間に、「9分間ウサギの悲鳴だけが録音されたレコード」や、「スーパーの棚に口内洗浄剤を並べる喜びを歌ったアルバム」なんていう、素晴らしくイッちゃってるレコードの話が挿入されます。

 中でも印象的だったのは、本書の後半に出てくる、オリビア・ニュートン・ジョンの強烈なマニアだったゾーイ。最初は単なるオリビアのファンだったのが、次第にエスカレートしていって、オリビアの名の付くものなら片っ端から手に入れなければ気が済まなくなり、「オリビア本人よりもオリビアに詳しい」と言われるほどに。やがて、ふとしたことから彼女はオリビアを追いかけることをやめるんだけど、そのときの「熱が冷めたとき、自分がおとなになったと気づいた」という言葉がやけに印象的です。

 似たような本に、北尾トロの『ニッポン超越マニア大全』があります。こっちは『ビニール・ジャンキーズ』よりもさらにニッチで、世界各国の軍隊用携帯食(戦闘糧食)だけを集める人とか、バスの降車ボタンだけを収集する人とか、なぜそれにハマるのか常人には理解できない圧倒的マニアたちが大勢登場します。


 趣味というものは、一般的には「余暇を活用して行うもの」と思われてます。つまり、仕事や本業があって初めて成り立つものであり、人生に華を添えるスパイスにはなったとしても、人生そのものにはなりえないと考えられがちです。ところが、これら2冊の本に登場する人たちは違います。趣味こそが生きがいであり、趣味こそが人生そのものなのです。

 彼らは皆、控え目に言っても「やりすぎ」です。自宅を潰してまで、家族に逃げられてまでレコードを集めてしまう(それも、残りの人生全てを使っても聴ききれない量を)なんて、到底理解できません。

 ですが、彼らはそもそも「他人に理解してもらおう」などとは露ほども考えていません。誰かに評価されることや、誰かと共有することを、まったく念頭に置いていないのです。確かに、中には仲間のレコードマニアと語り合う人や、収集したニッチなコレクションを整備して公開しようとする人もいます。でも、それは彼らが追究した結果であり、最初からそれが目的だったわけではありません。他人から白い目で見られようが非常識と思われようが、それが彼らの暴走を止めるブレーキにはなりえないのです。

 彼らのことを狂ってると思うでしょうか。それとも、彼らのことがうらやましいと思うでしょうか。

 僕は後者だなあ。もし彼らを狂ってるとするなら、僕は喜んで一緒に狂いたい。

 彼らのようなレベルとは到底比べ物にならないけれど、僕もこれまでの人生で「マニア」「オタク」と、あまりポジティブでない評価を、まあ平たく言えばバカにされたことがありました。でも、当時僕をバカにしてた連中が、30過ぎて趣味の一つも持てなくて、必死にカルチャースクールみたいの通ってたり、やることないから子供の写真と飲み会の写真ばっかりFacebookにアップしてたりするの、本当にざまあみろって思います








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2017年8月の3冊 〜岡っ引きと渡世人と座頭市〜

タカとユージの生きる場所は
「捕物帳」の中しか残ってないんじゃないか


 7月に東郷隆作品を読んでいたら止まらなくなって、結局8月も引き続き彼の作品に手を出してました。

 ただ、7月に読んでいたのは歴史小説だったのに対し、8月に読んだのは時代小説。同じジャンルと思われがちですが、過去に実在した人物を主人公にして、史実に基づいた物語を描いている作品が歴史小説で、歴史上の一時代を舞台にしているものの登場人物も物語もあくまでフィクションであるのが時代小説…というのが僕の解釈です。

 ちなみに、以前紹介した『国銅』や、2014年の本屋大賞を受賞した『村上海賊の娘』は、主人公はフィクションなものの周辺の登場人物や物語は史実に基づいているので、僕の感覚ではギリギリ歴史小説の範疇です。

 んで、東郷隆の時代小説です。まず読んだのは、芝の増上寺前を縄張りとする目明しが事件を解決していく、王道の捕物小説「とげぬきの万吉」シリーズ。『異国の狐』を皮切りに『のっぺらぼう』、『くちなわ坂』と計3作品があります。

 目明しというのはいわゆる「岡っ引き」のことで、正規の警察官である町奉行の下について実際の捜査を行う現場担当者のこと。警察といっても、当時はもちろんいわゆる法治国家なんかじゃないですから、賄賂を握らせて情報を聞き出したり、疑わしいと思えば多少強引でも捕えてしまったりと、なかなか手荒です。なので、目明しに任命されるのも、自ずと腕っぷしが強くて、なおかつその土地に顔が利く「ワル」が多かったそうです。当然、正規の武士ではなく、今風に言えば地元の祭を仕切るヤンキー上がりのおじさんを、非正規雇用で現場の警察官にしちゃうみたいなイメージでしょうか。

 話は変わるんですけど、こないだTVで『あぶない刑事』の再放送を見てたら、タカとユージがほとんどヤクザみたいで笑いました。囮を仕掛けて犯人にわざと証拠を出させたり、口を割らない容疑者を射撃場に連れて行って的の横に立たせてガンガン銃を撃って脅したり、当時はそれが痛快に映ったんだろうけど、今見るともはやリアリティを失い過ぎて、ただただ「古ッ!」という感じでした。

 乱暴だけども正義感が強く人情もあって痛快な江戸の目明しの捕物帳。それを現代に置き換える形で刑事ドラマが生まれたのだとしたら、昭和の刑事ドラマがコンプライアンスなんてものよりも人情に重きを置いていたのは必然だったのかもしれません。しかし、『踊る大捜査線』(1997年)の登場によってそうした刑事ドラマが一気に時代遅れになってしまった今、タカとユージみたいなタイプが生きられるのは、江戸の目明しという、永久に古びない歴史の世界の中しかないのかなあなんて思いました。



 次に読んだのは『いだてん剣法―渡世人 瀬越しの半六』。武士に生まれたものの、理由があって全国の博徒(平たく言えばヤクザ)専門の飛脚として生計を立てている男、半六の物語で、大前田英五郎大垣屋清八、若い頃の会津の小鉄といった幕末の大侠客たちが登場します。悪を懲らしめる捕物帳が時代小説の代表的な「陽」のジャンルだとすれば、「陰」の代表格が本書のようなアウトローものです。

 東郷隆のアウトローものだと他に『御用盗銀次郎』シリーズがあってこちらも滅法面白いのですが、ガンガン人を斬っていく銀次郎のほの暗い狂気がハラハラ感を生むのに比べると、『瀬越しの半六』は春風のようにさわやかな読後感があります。

 なかでも読んでて面白かったのは、彼ら渡世人の細かい所作の描写です。彼らは、世間のしがらみには縛られない代わりに、裏社会だけの厳格なルールがはりめぐらされた、ある意味では堅気の人よりもがんじがらめの世界で生きています。宿場に入ったらまず誰に仁義を切る(挨拶をする)のか、そしてその仁義の切り方はどういう段取りとセリフで行うのか、全部がきっちり決まっていて、それを一つでも間違えると瞬く間に自分の評判が落ちるのです。本書ではそういう細かい描写が随所に出てきます。



 この本を読んでいるとき、録りためておいた『座頭市物語』のTVシリーズ(74年)をたまたま見てたんですが、座頭市にもああいう博徒たちの所作なんかが細かく出てきます(座頭市自身が渡世人ですから)。んで、『瀬越しの半六』や『座頭市』を見ながら、今こういう江戸時代のアウトローたちのドラマを作ろうと思ったら技術的(知識の蓄積的)にできるんだろうか、と思いました。

 これは春日太一『時代劇はなぜ滅びるのか』『あかんやつら』に詳しいことですが、『水戸黄門』を最後に地上波から時代劇のレギュラー放送枠が消えたことは、単にブームの終焉というだけでなく、一つの技術体系が失われることを意味しています。21世紀において時代劇や時代小説は、エンターテインメントコンテンツというだけでなく一種の歴史的史料という面も持つのかもなあと思ったりします。(実際、映画『男はつらいよ』に映る1970年代の地方の風景なんて、もはや社会民俗学上の重要な史料になりえる気がします)

『座頭市』シリーズを見返しつつ、映画専門誌『シナリオ』の座頭市特集号(2014年9月号別冊)を買って読んでいたら、池広一夫監督がロングインタビューの中で「映画は一人じゃできない。いろんな人の力でできるもの」というようなことを語っていました。言葉自体は決して目新しいものではないものの、この一言には「技術体系が一度失われれば容易に取り戻せない」ということの証明のようにも思えて「うーん」と唸らざるをえなかったです。






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2017年5月の3冊 〜ジャイアント馬場と永大産業サッカー部の奇跡〜

『巨人軍の巨人 馬場正平』広尾晃

 ジャイアント馬場はプロレスラーになる前、実は巨人軍のピッチャーだったことは、どのくらい知られているのでしょうか。そんな「“ジャイアント馬場”になる前の馬場」を題材にしたノンフィクション。3月にプロレス関連本を立て続けに読みましたが、そのときはアントニオ猪木&新日系と女子プロレス系の本ばかりだったので、やはり次は全日系、つまりジャイアント馬場を読まずばなるまいと思い手に取ったのですが、いい意味で期待を裏切られました。
 というのは、馬場が巨人に入団したのは長嶋茂雄、王貞治の入団前夜(王貞治の最初の打撃練習で投手を務めたのは馬場だったそうです)。つまり、プロ野球が国民的なスポーツとして爆発的な人気を誇るようになる直前の時代になります。当時の各球団の二軍(馬場は野球選手時代のほとんどを二軍で過ごします)が一軍とは別に興業を組んで全国を廻り、しかもそれなりの人気を誇っていたこと。プロレスという文脈よりも、そうした当時のプロ野球の雰囲気が面白く、戦前のプロ野球の草創期を描いた激熱ノンフィクション『洲崎球場のポール際』を読んだ身としては、その続編のような気分で読みました。





『1964年のジャイアント馬場』柳澤健

 柳澤健のプロレス関連の著書は3月にさんざん読みましたが、なんと彼はジャイアント馬場についても本を書いていました。
 プロレスラーは「アスリートである前にエンターテイナーである」という矛盾を抱えていて、その矛盾の中でもがき続けたのがアントニオ猪木であり、その前提を逆転させてあくまでアスリートであろうとしたレスラーたちの苦闘が日本の総合格闘技の歴史であり、逆にエンターテイナーとして振り切った真の「プロレスラー」であるのが長与千種であり、そしてジャイアント馬場である…というのが僕の解釈。
 んで、僕はなにせ史上最強のキング・オブ・ガチファイトを描いた『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』から格闘技周辺に興味を持ってきた人間なので、心情的には馬場よりは猪木寄り。だからこそ本書で書かれた伝説の「木村政彦VS力道山」戦における木村政彦評(ガチファイトを望んでたくせに、いざ本当にガチファイトを仕掛けられたら日頃の不摂生がたたってボロクソに負けた)を読んで「クソーッ!」という気分になりました。
 でも同時に一連の柳澤本、とりわけ本書中盤に出てくる、1950年代から60年代前半にかけての、アメリカのプロレス界におけるプロモーターやレスラーたちによる激しい興亡記を読んでいると、プロレスラーを「プロフェッショナル」と表現することに納得できるようにもなります。観客の心理を読む洞察力とそれに応える演技力、与えられたキャラクターを演じる冷静さなど、エンターテイナーに徹することは、ある意味ではアスリートであることよりもよっぽど賢明さや忍耐力が必要かもしれません。
 本書は馬場一人の評伝というよりも、馬場の目を通して見る日米プロレスの文化の違いや歴史に主眼が置かれています。これまで読んだ柳澤健の著作もそうだったように、本書もやはり「歴史書」でした。





『歓喜の歌は響くのか』斎藤一九馬

 ジャイアント馬場の余韻のなか、なかなか異なるジャンルの本には移れず、結局次に手に取ったのもスポーツノンフィクションものでした。まったくのゼロから作られた実業団サッカーチームが、創部してからわずか3年で正月の天皇杯決勝戦に進むという、ウソみたいな本当の話。ワンマン社長と熱血コーチの2人がタッグを組んで、強引なまでに上へ上へと上り詰めていく話自体も読み応えがあったのですが、同時に時代の空気のようなものに触れられるという点でも面白い本でした。
 舞台は1970年代。Jリーグが開幕したのは今から四半世紀近くも前のことですが、この本で描かれているのはそこからさらに20年近くも昔の話。Jリーグなんか影も形もない、それこそ実業団の選手レベルなのに練習方法をみんなで本で読んで考えるなんていう時代です。しかし、結局当時の強豪チームがその後のJリーグのチームの母体になったり、主役の永大産業にしても、チーム自体は潰れたものの育った選手たちが地元山口を拠点に子供たちのサッカー指導にあたって後年Jリーガーを輩出したりと、今につながるエピソードの数々には、知られざる歴史を読み解く興奮があります。一方で、社長とコーチの強引なやり方も、今の時代だったら許されないだろうなあという部分がたくさんあって、笑える半面、70年代だからこそ起きた奇跡という風にも思えてちょっと複雑。
 柳澤健のプロレス本にしてもそうでしたが、やはり僕は「それまで知らなかった歴史を知る」ということを読書に対して激しく求めているんだなあと思いました。






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2017年3月の3冊 〜UWFとアントニオ猪木とクラッシュ・ギャルズ〜

『1984年のUWF』柳澤健

 結末の決まっているプロレスとは違うリアルファイトを標榜し、アントニオ猪木の新日本プロレスから独立した格闘団体UWFのノンフィクション。増田俊也の『七帝柔道記』『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(←この数年で読んだ本の中でNO.1)そして『VTJ前夜の中井祐樹』にハマった身からすると、同じ『VTJ〜』を完結編とするもう1つのサーガを読んだ気がしました。
 10年以上前、当時バイトしてた男性ばかりの職場では、大晦日だけは控室のテレビをつけていいという決まりがあり、そこで毎年みんながチャンネルを合わせていたのが、PRIDEやK-1といった格闘技の大会でした。格闘技に大して興味がなかった僕はそこで初めて「こんなに人気があるんだなあ」と、選手の名前や技術よりも、その人気の高さに興味をもったのでした。
 エンターテインメントであるプロレスとスポーツである総合格闘技。両者はルールも目的もまるで異なるものですが、歴史を紐解けば、実は密接につながっていることがわかります。本書はいわば、僕がバイトの控室で目撃した熱狂が生まれるまでの、日本の格闘技の歩みを記録した「歴史書」です。




『1976年のアントニオ猪木』柳澤健

 前述『1984年のUWF』の前日譚にあたるノンフィクション。プロレスが総合格闘技へと進化を遂げようとする最初の一歩は、1976年にアントニオ猪木が戦った4つの試合にあった、というのが本書のあらすじ。
 なかでももっとも有名であり、決定的な役割を果たしたのが、6月に行われたモハメド・アリとの一戦です。立って構えるアリに対してリングに寝たままの猪木という異様な光景は格闘技に詳しくない僕でも知っている。そして、後に「猪木−アリ状態」という言葉まで生まれたこう着状態は、この試合が華々しい技の応酬と物語で観客に興奮と満足を与えることを目的としたプロレス(エンターテインメント)ではなく、ガチのリアルファイトだったからこそ生じたものでした。
 ところが、現在でこそ、ボクサーとレスラーが戦ったらああいう形でこう着状態に陥ることは合理的だと語られるそうですが、当時は観客もメディアも「つまらない試合」と酷評しました。「プロレスこそ最強である」とリアルでの強さを掲げた猪木が、ジャイアント馬場の全日本プロレスを超えるためにむ切った最大のカードだったアリ戦は、期待したような評価は得られず、猪木がその後プロレスから離れていく大きなきっかけになってしまいます。
 結局、あの試合の当事者は誰一人得をしなかったのですが、猪木がアリ戦で初めて日本にもたらした「異種格闘技戦」という概念と「プロレスこそ最強である」という幻想が、「プロレスから総合格闘技へ」という外国には例を見ない独自の進化を生むことになるのです。ある事件をマクロ的な視点から歴史の中に再定位するという点で、本書もやはり歴史書だと思います。




『1985年のクラッシュ・ギャルズ』柳澤健

 単にプロレスの試合を戦うだけでなく、レコードを出して大ヒットさせ、TVCMにも出演し、ミュージカルまでこなす。試合会場には連日、女子中高生を中心とした熱狂的な「親衛隊」が詰め掛け、涙を流しながらリングに向かってテープを投げる。そんな空前絶後の人気を誇った女子プロレスラー、クラッシュ・ギャルズ(長与千種・ライオネス飛鳥)を題材にしたノンフィクション。クラッシュ2人の評伝が中心ですが、本書には第3の主人公として、クラッシュ全盛期に親衛隊に入り、その熱狂が高じて女子プロレスの編集者・ライターになった伊藤雅奈子が登場し、独白形式で自身の人生とクラッシュとの関わりを語ります。彼女の存在によって、本書は単なる女子プロレスを題材にしたノンフィクションという枠に留まらず、人が何かに熱狂する「青春」とその終わりという普遍的なテーマにまで踏み込んでいます。
 長与千種というと僕にとっては、つかこうへい『リング・リング・リング』の印象なので、舞台の人という印象が強い。ただ、確かに女子プロレスラーがなぜ「つか芝居」をこんなにもモノにしてるのだろうかというのは長年不思議でした。それが、前掲『1984年〜』『1976年〜』と本書によって、プロレスラーにとって重要なのは単なる肉体の「強さ」だけでなく、身体一つで観客の心理をつかんで物語に引き込む、肉体を通じた一種の「演技力」であること、そして女子プロレスにおける最高の天才が長与千種であったことを知り、一気に氷解しました。
 本書は苦い読後感を残します。タイトルになっている1985年、すなわちクラッシュ・ギャルズの全盛期は、実は本書の半分くらいで通り過ぎます。残りの半分は「その後」のクラッシュの2人の話。何らかの成功を遂げた人物の人生を第三者が見ると、あたかも成功の瞬間がその人の人生のゴールであるかのように見えますが、実際にはその人の人生はその後も続いていきます。ましてや、クラッシュのように若い頃に成功した場合は、むしろその後の人生の方が長い。そして、手にした成功が大きいほど、相対的にその後の人生は「陰」になりがちです。当たり前ですが、成功は永遠に続きはしない。90年代、自らが主宰するプロレス団体を立ち上げ後進の育成にあたった長与千種ですが、結局自分を超えるスターを生み出すことはできず、団体は逼迫します。2000年にクラッシュ・ギャルズは復活を果たしますが、それは観客を集めるためにとった窮余の一策であり、自分の理想が崩れたことを意味していました。本書では「時代の流れ」という言葉に込めていますが、抗いようのない何かによって光が徐々に輝きを失っていく様は、無常感の一言です。




 ということでひたすら柳澤健のプロレスノンフィクションをひたすら読んだ3月でした。実はこの後、さらに柳澤氏の『1993年の女子プロレス』、そして『1985年〜』にも登場するノンフィクション作家・井田真木子の大宅賞受賞作『プロレス少女伝説』も読みました。柳澤健は元『Number』のデスクを務めていた人物でスポーツ関連の著作が多いですが、実は僕が初めて読んだのはラジオTBSの伝説の深夜番組を題材にした『1974年のサマークリスマス』でした。この本も最高に面白かったです。











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「ランニング小説」まとめ 〜変わりダネ編

ランニング・マラソンを題材にした小説、計37作品を、
内容ごとに分類してまとめて紹介する「ランニング小説」まとめ。
最後となる3回目は、「変わりダネ編」です。
#第1回:ストイック・アスリート編
#第2回:マラソンは人生編

これは、確かに人が走るシーンは出てくるものの、ランニング自体がテーマではなく、
殺人事件を解く推理小説だったり、SFだったり、
ランニング小説だと思って読み始めると面食らう作品群です。
今回読んだ小説の中で、一番当たり外れが激しく、同時に一番読み応えがあったのが、
このカテゴリに属す作品群でした。

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『沈黙の走者』 比嘉正樹
元箱根駅伝のランナーという経歴を持つ諜報員が、国際的な陰謀を防ぐために活躍するというサスペンスアクション小説。あらすじ書くだけでもトンデモ臭がしますが、中身はもっとぶっ飛んでます。電話が鳴る場面を、「電話が鳴った」と地の文で説明するんじゃなくて、この作者の場合「トゥルゥルゥルゥ・・・」と鍵カッコつきで台詞みたいに表現します。斬新!



『強奪 箱根駅伝』 安藤能明
箱根駅伝の直前に神奈川大学駅伝チームの女子マネージャーが誘拐されるという、箱根駅伝を舞台にしたサスペンス小説。警察・テレビ局と誘拐犯との知能戦という物語の主軸よりも、総走行距離200km超という巨大駅伝を中継するテレビ局の舞台裏劇が面白いです。箱根駅伝のマニアックなサブテキストとして読めるかも。犯人の動機が弱すぎるのが玉にキズ。



『激走福岡国際マラソン』 鳥飼否宇
福岡国際マラソンを舞台に、出場するさまざまなランナーが互いの思惑や過去の因縁をぶつけあいながら戦う姿を描いた、サスペンス群像劇。マラソンは、選手が終始無言であるという、いわば沈黙のスポーツですが、本書の、短く区切られた章ごとに異なる選手に視点を移しながら進行するという構成は、選手たちがその沈黙の下でいかにいかに内面に葛藤を抱え、互いの肚を探りあい、し烈な駆け引きをしているかをあぶり出します。話のオチよりも、そうした高い臨場感が魅力の小説です。



『ラン』 森絵都
主人公・環はある日、知り合いにもらった自転車に乗って「あの世」に迷いこんで、事故で亡くなった家族と再会します。しかし、あの世へ行く唯一の交通手段だった自転車はある事情で手放さなくてはいけなくなり、環はあの世への道のり(40km)を自らの足で走るため、地元のランニングクラブに加入してランナーになるという、なかなかぶっとんだ小説です。物語は正直退屈。ランニングという観点でいうと、環がクラブの仲間と一緒に行う練習がけっこう細かく描写されているので、初心者ランナーの成長ストーリーとしてならそれなりに感情移入できるかも。



『彼女の知らない彼女』 里見蘭
多分、今回読んだ全作品のなかでこの小説が一番の変わりダネ。主人公は東京で平凡な暮らしを送る夏子。ある日彼女の元に、村上と名乗る男が現れる。彼は夏子に「君はもう一つの世界ではオリンピックを目指すマラソンランナーなんだ」と告げられ、混乱のままに夏子はデロリアン的マシンに乗ってもう一つの世界へやってくる。そして、ケガをして走れない「もう一人の自分」の影武者として、パラレルワールドでマラソンランナーになる…という、まさかの「SFマラソン小説」です。ランニングのディティールは細かくないので、ランナーとして読むべきところはほとんどありませんが、日本ファンタジーノベル大賞を受賞しただけあって、作品そのものはサラサラッと読むことができます。



『ジェシカが駆け抜けた七年間について』 歌野晶午
「変わりダネ」の中でも最も多かったのが、マラソンを舞台にしたミステリー・推理小説ですが、その中では本書が一番面白かったです。ある出来事をきっかけに命を絶ったはずの女性ランナーが、なぜか死後もあちこちに現れ、事件を巡る人たちを翻弄するという、ドッペルゲンガーをキーにしたミステリー。走るシーンそのものよりも、競技に賭ける選手たちの泥臭い執念が執拗に描かれており、事件のオチに至るまでの展開もスリリングで読みごたえがありました。



『沈黙のアスリート』 吉田直樹
ある若手の実業団女子マラソン選手の不審死をめぐるミステリー。心に傷を抱えた元実業団のエースや、彼の恩師でいわくありげなベテランコーチ、飄々とした実業団の親会社社長に、陰のある美人トレーナー…。いかにも胡散臭い登場人物が次から次へと登場しながら、物語は五輪招致をめぐる日本スポーツ界の水面下での争いにまで発展していくという、まさに王道的なエンターテインメントです。惜しむらくは、王道すぎて逆に読後に印象が残らないこと。なお、実業団が舞台とはいえ選手や試合が主題ではないので、ランナー視点で楽しめる部分は少ないです。



『42.195』 倉阪鬼一郎
無名の男子マラソン選手の息子が誘拐され、「息子を帰してほしかったら次の大会で2時間12分を切れ」という奇妙な脅迫状が届く、というところから始まる推理小説。作中、計2回のマラソンが描かれますが、ランナーやレースの描写に特段目新しいものはなく、また肝心の事件解決のオチも面白くありません。ただ、相当「変わりダネ」であることは確かです。



『ニューヨークシティマラソン』 村上龍
村上龍が1カ月のニューヨーク滞在を機に書いた短編集。ランニングに関係があるのは冒頭に収録された表題作のみになります。人種のるつぼであるマンハッタンの、最底辺に近い場所で暮らす若者が、ニューヨークシティマラソンに挑戦します。それは判で押したように同じ(それも鈍い絶望感に満ちた)毎日の中で、シャツの染み程度ながらも、鮮やかなアクセントになります。景色の描写は多くありませんが、枯葉の舞う秋を感じさせる小説です。ただ、ランニングという観点で言えば、練習の苦しみやレースの駆け引きみたいな描写は皆無なので、「ランニング小説」として括るべき作品ではないかもしれません。



『マラソン・マン』 ウィリアム・ゴールドマン
コロンビア大学で歴史学を学びながらマラソン選手を目指して厳しいトレーニングに明け暮れるリーヴィ。そんなリーヴィの平穏な日常が、ある事件をきっかけに崩れ、得体の知れない組織と関わりを持つことになる、というサスペンス小説です。走るシーンはごくわずかしか出てきませんが、終盤、非常に重要な場面でリーヴィの走る姿が描かれます。



『走る男になりなさい 』 本田直之
小さな出版社を舞台に、ワケあり社員たちが新刊雑誌の創刊に奮闘する、というストーリー。ランニングがどう絡むかというと、例えばチーム全員でランニングを始めたらコミュニケーションが円滑になったとか、運動で脳が活性化するとか、本書におけるランニングはあくまでビジネスにフィードバックするための一つの道具にすぎません。要はランニングをダシにした自己啓発本。著者はコンサルタントで、しかも版元もサンマーク出版だから推して知るべし、ではあります。こういう「ランニングは○○にいい」など、何らかの目的を達成するための手段としてランニングを捉えることは、僕のランニング観とは相容れないのでまったく楽しめなかったです。



『ららのいた夏』 川上健一
一介の女子高生がマラソンの日本記録を破ったり世界記録に迫ったり、しかも美人だからお茶の間の人気者になっちゃって、おまけに恋人だった同級生はドラフトでプロ野球選手になったりして、順風満帆かと思いきや、最後に女の子が不治の病にかかって死んじゃうという、全てが雑で、突っ込みどころ満載の小説。ランニング小説としても、青春小説としても何一つ面白いと感じるところがなく、退屈を通り越して苦痛でした。おすすめできなさすぎて、逆におすすめしたい。みんなでこの本の圧倒的な虚しさについて語ろう。


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これで3つのカテゴリは全て紹介し終えました。
しかし、ここまで紹介したのは36作品。今回僕が呼んだのは全部で37作品。
実は1作品だけ、どのカテゴリにも当てはめられなかったランニング小説があるんです。
次回は最終回としてその作品を紹介します。




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ランニング小説まとめ 〜マラソンは人生編

ランニング・マラソンを題材にした小説、計36作品を、
内容ごとに分類してまとめて紹介する「ランニング小説」まとめ。
2回目は、「マラソンは人生編」です。
#第1回:ストイック・アスリート編

前回は、スポーツとしてのランニング(マラソン)を描いた作品群でしたが、
今回は、ランニングを人生のメタファーとして描いている小説をまとめました。
マラソンは人生に似ている」とはよく言われる言葉ですが、
今回紹介する小説の中では、主人公が走ることを通して成長したり、苦難を乗り越えたりします。
中高生の青春小説ばかりかと思いきや、
中には中年の男性が、走ることで人生を再生していくような物語もあります。

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『遥かなるセントラルパーク』 トマス・マグナブ(全2巻)
今回読んだ全作品のなかでは最も長い距離のレースを描いた小説であり、そして、一番面白かった作品です。舞台は1931年のアメリカ。ロサンゼルスからNYに至る計5000キロ、期間3カ月にも及ぶ途方もない規模の大陸横断マラソンレースに、人生の一発逆転を狙って出場するランナー達と興行主の戦いと友情を描いた群像劇です。一人ひとりのキャラクターがとても魅力的でドラマとして十分に楽しめるだけでなく、肉体の限界に挑むランナー達の孤独と葛藤がしっかりと描かれていて、ランナーの視点からもリアリティたっぷりに読めました。過酷なスポーツを描いたエンターテイメント小説であり、前人未到の旅を描いた冒険小説であり、そして人生の意味を考えさせる哲学小説でもあり、さまざまな魅力にあふれた小説です。著者は元三段跳びの選手で、五輪チームのコーチまで務めたことがあるそう。この作品が処女作で、アメリカではベストセラーになったそうです。



『長距離走者の孤独』 アラン・シリトー
マラソンをテーマにした小説といえば筆頭に挙げられるのはコレでしょう。初めて読んだのは確か10代の頃。自分もランナーになったいま改めて読むと、当時よりも主人公スミスの年齢とは離れてしまったにもかかわらず、心に響くものがありました。「大人への反抗」「システムへの反抗」というような言葉が、この本を語る時に必ず出てくるキーワードだけど、本当はその前に、スミスがそもそも走ることに魅入られていったということが大事だと思う。スミスは走っている間だけは、何物にも束縛されない解放感を感じていた。自分が、他の誰かが用意したわけではない、自分自身の時間を持つことができた。彼は走ることで、「自由」を手に入れてたんじゃないかと思います。だから、感化院なんかのために走ることに彼は我慢ならなかった。走ることは自由であり、同時に孤独でもある。これは、僕自身の実感とも合致します。本書が名作と呼ばれる理由がわかった気がしました。



『フロント・ランナー』 パトリシア・ネル・ウォーレン
これはなかなか読みごたえがありました。生徒を誘惑したという疑惑をかけられた不遇の教師ハーランと、ゲイであることが理由で元いた学校にいられなくなった長距離選手のビリー。2人の男性の恋物語です。この本が最初に出版されたのは1974年。当時の社会のゲイに対する理解度は今よりもずっと低く、2人の恋は決してオープンにはできないものでした。そして、ランニングという競技がもつ禁欲性ともあいまって、2人の恋は実にもどかしく、切なく描写されます。物語はハーランの1人称で語られるのですが、彼のビリーに恋する目線を通して、なんだか僕自身がどんどんビリーに惹かれていくような錯覚を覚えます。アメリカにはLGBTのためのランニング団体があり、本書のタイトルを採って「フロントランナーズ」と名前を付けられているそうです。なお、本書の続編として『ハーランズ・レース』という作品がありますが、そちらは未読。



『チームII』 堂場瞬一
今回読んだ作品の中でも最も新しい作品。2015年の10月に発売された『チーム』シリーズの最新作。ここまで完全無欠のランナーだった山城悟が、「怪我」という初めての危機に見舞われます。その山城の窮地を、現在は母校・城南大学の駅伝部監督となった浦をはじめ、かつての学連選抜チームのメンバーが助ける、という話。これまでで最も山城の感情が濃く描かれていて、過去の登場人物が総登場する展開といいい、シリーズの総決算的な作品です。「友情と絆が孤独な男を救った」というような陽気な話ではなく、むしろそういった定番モノなドラマをもってしても、ジリジリとしか変化しない山城の頑なさがこれまで以上に強くて、やはり「読ませるなあ」という気がします。アスリート・山城ではなく、人間・山城を描いたという印象だったので、前2作は「ストイック・アスリート編」に入れましたが、この作品は「マラソンは人生編」にカウントしました。



『ランナー』 あさのあつこ
長距離ランナーとして将来を嘱望されつつも、家庭の問題で陸上部を退部した少年・碧李(あおい)が、再度ランナーに復帰するまでを描いた小説。碧李は走ることで自分を支え、そしてまた走る中でさまざまな決断を下していきます。10代の少年少女を主人公にしたランニング小説は多いですが、その中でも本書はかなり重たい内容の作品です。しかし、「走るということは何なのか」という根源的な問いの一端に触れる快作だとも思います。劇中で語られる「(走ることは)肉体だけが生み出せる快感だ」という言葉が印象的。



『スパイクス ランナー2』 あさのあつこ
『ランナー』の続編。陸上部に復帰したものの思うように記録が出せないでいる主人公・碧李の、ある試合の一日を描いた作品で、初めて彼のライバル的ランナーが登場します。前作に比べて、より「競技者」シフトの物語になっていますが、かといってストイックさには欠けるし、新しいキャラクターはあまり魅力的とはいえないし、読み応えでは第1作に遥かに及びません。



『レーン ランナー3』 あさのあつこ
『ランナー』『スパイクス』に続くシリーズ第3弾。さらにシリーズは続きそうな予感はあるけど、もういい加減辞めといた方が良さそう。第1弾にあった瑞々しさはもうどこにもありません。



『シティ・マラソンズ』 三浦しをん、あさのあつこ、近藤史恵
ニューヨーク、東京、パリ。世界3都市のシティマラソンを舞台にした3人の作家による短編集。三浦しをんとあさのあつこは既にランニング小説を書いているけど、近藤史恵は未確認。でも、3作の中では近藤による『金色の風』が一番良かったです。「走ることでその街のことを深く知ることができる」というのは僕自身がまさに今身をもって体験しているところ。ランニングが人の精神に与える作用を、簡潔かつ端的に表してるなあと感じました。



『そして、僕らは風になる』 田中渉
春でも夏でも年中サンタクロースの格好をして街を徘徊している元陸上選手が、母校の陸上部に所属する先天性の難病を患った男子生徒のコーチをするというお話。語り口は軽いのですが、2人のキャラクターの設定がユニークなのでけっこう面白かったです。特にサンタは、過去に彼の身に起きた悲しい出来事が理由で年中サンタの格好をしているのだけど、悲劇とサンタの格好というミスマッチが悲しくて印象的です。金栗四三高橋尚子といった歴代の名ランナーたちの名言が随所に散りばめられているのも面白い。



『もういちど走り出そう』 川島誠
かつて400mハードルでインターハイ3位という成績を収めたことのある歯科医師が主人公。高級住宅街で富裕層を相手にした歯科医院を開き、順風満帆だった彼だったが、妻が小説を書いて新人賞を受賞したことから、人生の歯車が狂い始める、というストーリー。不協和音にまみれていく生活の中で、彼は久しぶりにランニングに取り組み始めます。医院でバイトしている女子大生と浮気しまっくたり、彼の背徳っぷりはどうも必要以上に過剰で鼻白むものがありますが、ランニングが生活に一種の規律をもたらしている、という描写は納得できます。



『RUN!RUN!RUN!』 桂望実
天賦の才能を持つものの、チームメイトとの協調性ゼロの独立自尊の学生ランナー岡崎優が、突然の兄の死によって変調をきたし、さらに、自分が「遺伝子操作で生まれた人間かもしれない(=足が速いのは努力のせいではなくそのように「作られた」からだ)」という疑いを持つようになり、競技を続ける意欲を失ってしまう。そのどん底からの再生を描いたストーリー。物語の要素としてはどれも「おっ!」と惹かれるものがありますが、実際に読んでみると、例えば「孤高のランナー」というキャラクターの点では堂場瞬一の『チーム』シリーズの山城に遥かに及ばず、また、走ることで自分自身を再生させるというストーリーの点でも、あさのあつこ『ランナー』の方が優れています。



『マラソン』 笹山薫
マラソンに挑戦する自閉症の少年を描いた物語。韓国の同名映画のノベライズ版で、実話に基づいているそうです。少年の病気に翻弄される家族の話なので、ランニングという観点では読むべきところはほとんどありません。



『17歳のランナー』 草薙渉
これは短距離もの。テニス部に所属し、平凡な高校生活を送っていた主人公ツトムが、体育の授業で100m走を走ってみたら、いきなり9秒台を叩きだして・・・という、かなりぶっ飛んだ設定で幕を開けます(でもまあ桐生祥秀選手みたいな例もあるからありえない話ではないんだよなあ)。仲間との友情や恋など、いわゆる青春小説の定番ネタがたくさん盛り込まれてるんだけど、どのドラマもいまいち盛り上がりに欠けるし、肝心のランナーとしての描写も少ないし、読み終わっても何も残りません。

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次回は、ランニング小説の仮面をかぶったサスペンス、ファンタジー、さらにはSFという、
知らずに読み始めたら度胆を抜く作品群「変わりダネ編」をお送りします。




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ランニング小説まとめ 〜ストイック・アスリート編

一体世の中にはランニング(マラソン)を題材にした小説はどのくらいあるんだろうか
そんなことをふと考えたのは2年ほど前のこと。
以来、細々とランニング・マラソン小説を探し、見つけては買い、計37作品を読破しました。
いずれも今回読むのが初めての作品ばかりです。

驚いたのは、ひと口に「ランニング小説」といっても、内容は多岐にわたることでした。
ストイックな競技者を描いたもの。
ランニングを通して主人公の成長(再生)を描いたもの、
ランニングはあくまでモチーフで、スポーツとは全く異なるジャンルのもの。

そこで、読了した37作品のランニング小説(一部、短距離が題材の作品も含まれています)を、
内容別に3つのカテゴリに分けて感想をまとめてみたいと思います。
3つのカテゴリは、「ストイック・アスリート編」、「マラソンは人生編」、「変わりダネ編」。

なお、自力で探せる限りは読んだつもりですが、
おそらく漏れている作品もあると思いますのでご了承ください(でもかなり読んだぞ!)。
また、「Aの要素もあるけどBの要素もある」というように、本当は複数のカテゴリにまたがるものの、
無理矢理3つのカテゴリのどれかに押し込んだ作品もあります
以上のような点を踏まえたうえで、あくまで「私家版」「暫定版」として読んでいただけると幸いです。

第1回目の今回は「ストイック・アスリート編」です。
文字通り、競技者である主人公を通して、
スポーツとしてのランニング・マラソンを描いた小説群です。

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『チーム』 堂場瞬一
箱根駅伝の学連選抜チームを描いた小説。走れなかったチームメイトの期待を背負って走る選手、競技者としてのプライドや記録挑戦だけを動機に参加する一匹狼な選手。寄り合い所帯ゆえの葛藤や、自校出場の夢が叶わなかった「敗者」としてのコンプレックスを抱えた選手たちのドラマは、とても読み応えがあります。また、本書は走っている最中の選手たちの心理描写が非常に細かく(自分の肉体や他の選手の動きに対する過敏な反応、沿道の景色に見入ったり子供の頃の記憶が不意に浮かんできたりする脈絡のない精神状態etc)、読みながらまるで自分自身が走っているような苦しさを味わえます。今回読んだ本の中では最も迫力がありました。



『ヒート』 堂場瞬一
小説『チーム』に登場した一匹狼の天才ランナー・山城と、目立った記録を残せないまま選手としてのピークを終えようとしていたベテランランナー・甲本の2人を軸に、架空の国際大会「東海道マラソン」の創設を描いた物語。『チーム』の続編といわれていますが、前作よりもさらにハードで男臭く、かなり面白いです。本書では「ペースメーカー」が大きなテーマの一つになっています。「透明の存在」であるペースメーカーが実質的にレースの主導権を握る現代のマラソン。確かに選手の負担は軽減され、結果的に好記録が生まれやすいものの、2013年の東京マラソンやびわ湖マラソンでは、ペースメーカーが設定ペースを保てなかったせいで選手は翻弄され、結果的に記録も見ごたえもない、つまらないレースになりました。ペースメーカーという制度は、マラソンの「競技としての純粋性」を損ねているのではないか。本書はその疑問に鋭く迫ります。



『風が強く吹いている』 三浦しをん
映画化もされた有名作品。陸上初心者だけで結成された大学駅伝チームが、箱根駅伝の出場を目指す、というストーリー。荒唐無稽だけど、とても面白いです。駅伝という競技が持つ独特の湿っぽさ(「仲間のために走る!」みたいなノリ)がなくて、むしろ、初心者のくせに本気で勝ちにいっているあたりに痛快さを感じます。走っている最中の描写(息遣い、筋肉の様子、周囲の風景、地面の感触etc)は、堂場瞬一と並んで一段飛びぬけています。



『一瞬の風になれ』 佐藤多佳子(全3巻)
青春陸上小説No.1」という帯の文句から、なんとなく色眼鏡で見ていたんだけど、めちゃくちゃ面白かった。主人公は、高校に入って陸上を始めた男の子、新二。軽い気持ちで走り始めたものの、部活の仲間や先生と関係を深めるうちに、あるいはライバルとの試合を経験するうちに、徐々に短距離にのめりこんでいく様子が、新二自身の朴訥とした語りで描かれます。舞台は高校の部活ですが、0.1秒を削り出そうとする様は紛れもないアスリートであり、またそこに至るまでのトレーニングやメンタルの描写も細かく、十分「アスリートもの」として読むに耐えます。ちなみに著者の佐藤多佳子はこの本の他に、北京五輪で銅メダルを獲得した男子100m×4リレーの4選手を取材した『夏から夏へ』というインタビュー集も書いてます。そちらも面白かった。



『カゼヲキル』 増田明美(全3巻)
非凡な才能を秘めた田舎の女子中学生が、マラソンの五輪代表になるまでの10年間を描いた小説。作者は、元選手で現在は解説者として知られる増田明美。あとがきに曰く「五輪や世界陸上では選手の『今』しか見えないが、彼らはスタートラインに立つまでに少なくとも10年以上の歳月を準備・練習に費やしてきたことを伝えたかった」。物語はよくあるシンデレラストーリーのようですが、決してご都合主義には映らないのは、まさに著者のいう10年間の準備とステップが必要だったことを読んで納得できるからでしょう。元トップ選手だからこそ書ける小説という感じ。「一流マラソン選手ができるまで」を垣間見れる作品。



『標なき道』 堂場瞬一
才能もある。練習もしている。経験も十分に培った。けれど勝てない。そんな「二流選手」を抜け出せない実業団ランナー・青山の元に、見知らぬ男から「絶対に検出されない薬がある」という電話がかかってくる。「ドーピング」を切り口に、どんな手を使ってでも勝ちたいと望む、競技者の“業”を描いた小説。物語全体がむしむしと暑苦しい湿気に包まれているような、ずっしりとした読み応えのある本です。元々は『キング』というタイトルで、後に改題されたそうです。



『冬の喝采』 黒木亮(全2巻)
元中長距離走者で、早稲田大学時代は瀬古利彦と共に箱根駅伝を走ったこともある著者の自伝小説。ものすごく面白かったです。主人公(著者)は、ランナーとしての才能を発揮し始めた矢先にケガに見舞われ、そこから約4年間にも渡ってケガに悩まされる不遇の時代を過ごし、本書の前半はほとんどがこのケガの時代について紙面を割いています。考えてみれば、「ケガをしたランナー」をここまで延々と描いた作品は珍しい。「成績に残るのは氏名とタイムと順位だけ。どれだけ血のにじむような努力をしても、競技者の人生というものはたった1行に集約される」という、ミもフタもない世界にアスリートたちは生きているのだなあとハッとさせられます。



『神の領域―検事・城戸南』 堂場瞬一
主人公の検事・城戸は、大学時代に箱根駅伝を途中棄権した元ランナー。彼が、大学陸上部の選手の殺人事件の捜査をきっかけに、かつて同期だったある天才ランナーと、陸上競技界を覆う闇を追及する、というストーリー。堂場瞬一は今回何冊も読みましたが、どれも良かったです。本書は『標なき道』と同様に「ドーピング」がテーマになっています。ただ、どちらもそれを単に犯罪としてではなく、競技者や指導者が抱える、勝利への飽くなき欲求という「業」として描いているところに、クライム小説やサスペンスではなく、あくまで「スポーツ小説」であることを感じます。



『19分25秒』 引間徹
陸上競技を題材にした小説の中でもかなり珍しい(と思う)、「競歩」を描いた作品。義足というハンディを持っているにもかかわらず、世界記録を超えるスピードを誇る謎のランナーと出会った主人公の大学生が、自身も競歩を始めて徐々にのめり込んでいく、というストーリー。物語自体は特別印象に残るものではないけど、運動と無縁だった主人公がだんだんと「アスリート」に変貌していく過程がけっこうみっちり描かれているので、ランナーとしてはけっこうリアリティをもって読めると思います。



『メダルと墓標』 外岡立人
3つの作品からなる短編集で、マラソンに関連するのは1つ目の『メダル』という小説。独自のトレーニング理論を研究する大学助教授が、大学の新入生の中に才能のある選手を見出し、自らの理論に基づいたトレーニングを課しながら日本選手権を目指す。だが、その選手は白血病を抱えていて…というお話。著者が現役の医療関係者なので、「遅筋繊維」「大体四頭筋」「グリコーゲン」など、トレーニングに関する場面の描写がやたらと専門的



『800』 川島誠
短距離としては長すぎ、長距離としては短すぎる「800m」という競技に打ち込む高校生男子2人を主人公にした小説。主人公の一人・広瀬の、クールなランニング哲学と理性的な練習方法は、ランナーとして参考になる部分がないわけではないのですが、広瀬も、もう一人の主人公・中沢も、やたらと女の子といちゃいちゃしてばかりいるので、僕は「こんなリア充な高校生は大嫌いだ」とずっと思ってました。


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次回は、マラソンと人生とを重ね合せて、
走ることで苦難を乗り越える姿を描いた作品群、「マラソンは人生編」をお送りします。




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『走る生活』 高部雨市 (現代書館)

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頭で読むんじゃない
「身体」で読むのだ


非常にユニークな本でした。
内容そのものもさることながら、
本全体の流れがアップダウンの起伏に富んでいて、
まるで上級者向けのマラソンコースを走っているかのように、
読む者の体力が問われるような、そんな本でした。

本書の前半は、短いルポの連作で構成されています。
養護学校で陸上部のコーチをしている元ランナー。
病気を抱えながら、走って日本を一周したおじいさん。
ランニングにハマり、仕事を辞めてランナー達のサロンを開いた夫婦。
有名無名のランナー達の、タイトル通りの「走る生活」が、
まるでピッチ走法のように短いリズムで次々と紹介されていきます。

ここまではごく普通の、ランニングをテーマにしたノンフィクション。
しかし、著者自身が主人公として語り始める後半になると、様相が一変します。

いきなり出てくるのが、1971年の三里塚闘争の一幕。
デモに参加していた学生時代の著者が、
成田の農村地帯を、機動隊に追われながら必死になって走る場面が延々と続きます。
それも、「回想録」というような生易しい筆致ではなく、
村上龍の『五分後の世界』の戦闘シーンのような、異様な迫力とテンションで。
ジュラルミンの盾を振りかざして追ってくる機動隊員からなんとか逃げようと、
「私」は走り続けます。
転んでも、服が破れても、仲間が捕まっても、
心臓が破れ、肺が血を吹こうとも、
「私」は、とにかく走って走って走り続けるのです。

唐突に出てきたこの場面に、
おそらく読み手の大半は頭に「?」マークがダダダッと点灯するではないでしょうか。
確かに、「走って」はいる。
でも、競技や趣味、ライフワークとしての「ランニング」ではなく、
「私」が体験したのは、文字通り生死をかけた、
いわば生き物としての原初的な「走り」です。

続いて出てくるのは、
時代は遡って1969年のオーストラリア
(この不思議な時間軸の移動も藪から棒です)
19歳の著者が、オーストラリアの田舎に住む著名なランニングコーチに弟子入りする場面。
コーチの自宅の近所の砂丘で、
著者はマンツーマンの特訓を受けるのですが、
桜木花道と安西先生の夏合宿のように、
19歳の著者は74歳のコーチに、完膚なきまでに叩き伏せられます。

次の章では、もう走る場面すら出てきません。
1983年の初夏(またも時間が飛びます)、
北海道で酪農を営む友人の手伝いに訪れた筆者の、
1カ月間の牛との格闘の日々の記録です。

依然として、頭の中には再び「?」マークが激しく点灯します。
けれども、なぜだかページをめくる手は止まりません。
だんだんと、身体じゅうの筋肉がムズムズしてくるのが感じられます。
まるで、文字が直接、筋肉に刺激を与えてくるようです。

この、「牛の話」のあたりで、徐々に本書の全貌が見えてきます。
著者が語りたいのは、競技、あるいは趣味としての「ランニング」ではなく、
生物としての人間が、肉体を酷使することで見えてくる風景なのです。
「走ること」は、その端的な例にすぎません。

汗を滴らせながらトロッコで牛の糞尿を運ぶ。
1日15時間、ひたすらサイロにたまった牧草を踏み固める。
筋肉はあっという間に強張り、食事と睡眠だけでなんとか肉体を維持する毎日。
「走る」場面こそ出てこないものの、
肉体が悲鳴を上げるごとに世界が少しずつ再構築されていくような感覚は、
「走る」ことが人間に与えるものと同じものなのです。

本書では、「走る」(あるいは「肉体を酷使する」)ことの対極を表す言葉として、
経済効率」という言葉がしばしば出てきます。
著者は、さまざまな人物の言葉を借りて、
競技としてのランニングを「世俗的なもの」と批判します。
「走ること」は本来、もっと自由であり、
内なる魂を解き放つ行為なのだと。
そしてそれは、何もかもが経済に集約され、効率だけが重視される現代社会への、
強烈なアンチテーゼなのだと。

もう2年も前の記事になりますが、
年に1回以上ランニングをした成人の数が1000万人を超えた、というニュースが報じられました。
#ランナーが1000万人突破!“ブーム”を超えた背景は(Number Web)
この記事の時点から時間が経っているとはいえ、
僕自身の実感からいうと、少なくともランナー人口は減ってはいません。

「ランニングブーム」というものは、
もしかしたら著者の訴えるものとは相反するものかもしれません。
しかし、結局のところ、両者が求めるものは、
程度の差こそあれ、本質的には同じなのではないかと思います。

走る時に感じる激しい拍動。
息苦しさ。
ふと訪れる恍惚感。
それらは全て、自分が生きているということの最も強烈な実感であり、
「肉体」という固有のものを通してしか味わえない、
究極の「自分だけ」の感覚です。
経済の規模や効率を追求することの限界に、国全体が直面して約10年。
ブランド品や流行品を消費することではなく、
肉体を動かすことに充実感を覚える人が増えてきたことは、
極めて自然な流れであるように思います。

『走る生活』の初版は1996年。
ですが、ここに書いてあることは、
初版当時よりもむしろ2015年の今の方が、
よりリアリティを感じるかもしれません。






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『ミック・ジャガーは60歳で何を歌ったか』 中山康樹

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「老いたロッカー」たちは
今、何を歌うのか?


今年の1月28日、音楽評論家の中山康樹さんが亡くなりました。
元々はジャズ専門誌『スイング・ジャーナル』の編集長でしたが、
ロックにも造詣が深く、以前このブログでも紹介した『ビートルズの謎』をはじめ、
ビートルズビーチボーイズ、ディラン、ストーンズなど、
主に60年代のロック・アーティストに関する書籍を数多く執筆してきました。

多作の人だったので(Amazonで検索するたびに新刊が出ていた印象がある)、
僕はまだすべての著書を読んだわけではないのですが、
自分の音楽観、音楽歴史観を育む上で、この人の影響は少なくありませんでした。
中山さんの書籍を読んだことで「音楽との付き合い方」は間違いなく幅が広がったし、
また、キッパリとした物言いは崩さないものの、
この音楽を精一杯肯定しよう」という愛情に満ちた姿勢も、とてもリスペクトしていました。
これからも末永く付き合っていきたいと思っていただけに、残念でなりません。


僕がこれまで読んだ中山さんの著書の中で、特に印象に残っているのがこれ。
『ミック・ジャガーは60歳で何を歌ったか』

ミック・ジャガー71歳、ポール・マッカートニー72歳、ボブ・ディラン73歳
ブライアン・ウィルソン72歳……(全て2015年4月現在)
60年代というロックミュージックの草創期を支えたアーティスト達も、
今や続々と古希を迎えています。
本書の主役は、そんな「老いたロッカー」たちです。

全盛期のような曲はもう書けない。歌声も衰えてしまった。
それでも彼らは、今でも精力的に新譜を出し、
ホールやライブハウスに会場をスケールダウンしながら、ステージに立ち続けています。
ザ・フーロジャー・ダルトリーは、71歳を迎えた今も、
Hope I die, before get old(老いる前に死にたいぜ)」(<My Generation>)と歌っています。

ロックという音楽は、まだせいぜい60年やそこらの歴史しかありません。
つまり、ロックにとって「老い」というものは、これまで未知の領域だったのです。
だからこそ、「老いたロッカー」たちの歌に耳を傾けることは、
ロックの行く末や可能性を知るためのヒントになると、中山さんは言います。

この本の最大のポイントは、老いたロッカーたちの「」に焦点を当てている点でしょう。
エリック・バードンロジャー・マッギンなんていう人たちが今何をしているのかなんて、
よほどのファンか、音楽ニュースを相当丹念に読む人でなければ知らないはずです。
60〜70年代のバンドを取り上げた雑誌や書籍のほとんどが彼らの全盛期、
つまり「過去」にしか焦点を当てようとしない中で、
ここまで丁寧にスターたちの「今」を追跡した本は珍しいのではないでしょうか。


本書を最初に読んだのは今から4〜5年前でした。
当時も「老いたロック」という切り口の斬新さに驚いたのですが、
一昨年から去年にかけて、そんな老いたロッカーたちが立て続けに来日したことで、
僕は彼らの姿を生で見る機会に恵まれました。
(過去記事)
KISS
ポール・マッカートニー
ローリング・ストーンズ
ボブ・ディラン
ウィルコ・ジョンソン

彼らの姿を実際に見て思ったのは、「老いたロッカー」のあり方は、大きく2つに分かれるということ。
一つは、かつての自分のヒット曲をひたすら繰り返し演奏し続ける「懐メロ派」。
もう一つは、今でも精力的に新曲を作り続け、己の音楽を追求し続ける「求道派」。
KISSやストーンズやウィルコは前者。
ディランは間違いなく後者。まだ生で見てませんが、ブライアン・ウィルソンも後者でしょう。
ポールは中間、やや前者寄りでしょうか。

上に挙げた中で最も圧倒されたのは、ディランです。
新曲を作り続けることで、自らの創造力の変遷や興味の移ろいを、
(たとえそれが往年のファンには受け入れられないとしても)
克明にドキュメントし続ける姿勢そのものに、強烈な「凄み」を感じました。

一方の懐メロ派にも、大いに感情移入するところがありました。
KISSやストーンズのように、「同じことをひたすらやり続ける」という
愚直とも呼べるスタイルには、ある意味では求道派以上のストイックさを感じたし、
ポールのように「老いたからこそ歌えるビートルズ」を提示するのも、
一つのあり方だと納得させられるものがありました。
特にポールのステージには、「次世代にビートルズを伝えなきゃ」という、
老いから来る使命感のようなものがあったのが印象的でした。

ただ、どちらのタイプにも共通して言えるのは、
前述のように、ロックが「老い」という領域に足を踏み入れてから日が浅いので(変な言い方だな)、
ミックもポールもディランも、まだ「老いたロック」を模索している最中だということです。
(パイオニアというのは年老いてもまだ「開拓」しなければならない運命なんですね…)
そして当然のことながら、リスナーも「老いたロック」を聴くのは初めてなので、
僕ら自身も彼らの音楽をどう消化していくかを模索する必要があるとも言えます。

僕が思うのは、ロックが「老い」という領域に入ったことで、
ロックという音楽は「ロールモデル」になりつつあるのではないかということ。
最盛期を過ぎ、衰え、さまざまな人生の波を乗り越えながら音楽を続ける。
かつてのロックレジェンドたちがそうした姿を晒すことで、
ロックという音楽は、一過性のファッションやスタイルではなく、
より普遍的でより具体的な、生き方のサンプルになるんじゃないかと思うのです。
社会的にも高齢化が進んでいるこのタイミングで、
彼らレジェンドたちが老いていく姿を見られるというのは、
なんかちょっと不思議な符号という気がします。

中山康樹さんの著書のなかに『愛と勇気のロック50』という本があります。
ディスクレビュー本なんですが、取り上げられているのは「老いたロッカー」たちの最新盤。
つまり、年老いてから作ったアルバムだけを取り上げたレビュー本なのです。
(当然、取り上げられているほとんどのアルバムを知りませんでした)
ちょうど本書の姉妹編のような内容なので、併せて読むと面白いと思います。








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『END OF THE CENTURY』と『I Love RAMONES』

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なぜ彼らは最後まで
「パンク」でいられたのか


先週、ラモーンズのドキュメンタリー映画『END OF THE CENTURY』のリバイバル上映を見てきました。
オリジナルが公開されたのは2003年。
メンバーや家族、関係者のインタビューを基に、
バンドの結成から解散、そして02年のロックの殿堂入りまでを追った、
ラモーンズそのものに焦点を当てたドキュメンタリーとしては唯一の映像作品です。

そして映画を見終わった直後、僕は自宅の本棚で読まずにとっておいた、
書籍『I Love RAMONES』を手に取りました。
こちらは、ラモーンズ愛が高じてメンバーと友達になり、
ついには日本のラモーンズファンクラブを設立した、
カメラマンの畔柳ユキが2007年に書き下ろしたものです。

バンドのドキュメンタリーというと、
そのバンドが「いかにすごかったか」だけを手放しで褒めまくる作品が多いものですが、
この2作品はラモーンズに対する冷静な(けれど愛のある)批評性があって、
どちらも非常に見ごたえ(読みごたえ)がありました。

映画『END OF THE CENTURY』では、メンバーの不和や解散、「レコードが売れない」といった、
いわばバンドの「負の歴史」を描くことに多くの時間を割いています。
メンバーに対する個別のインタビューで、それぞれが語る言い分が全く異なっていることも、
そのまま映像に収められています。

書籍『I Love RAMONES』は、メンバーと個人的に親交のある著者が、
プライベートやバックステージで実際に体験した出来事を軸に書かれているため、
メンバーの日常をすぐ横で眺めているような臨場感があり、
僕のような後発のファンにとっては、いわゆる記録本や資料本よりも貴重な本でした。
映画を「正史」とすれば、本はちょうど「裏面史」のような位置づけになるでしょうか。

2つの作品を見て(読んで)驚いたことはいくつもあります。
例えば、オリジナルメンバーの中で最も早くバンドを抜けた初代ドラマーのトミーが、
実は結成時はバンドのマネージャー兼プロデューサー兼エンジニア役であり、
ラモーンズ・サウンドの草創期に置いて非常に大きな役割を果たしたこと。
しかし、そのトミーの脱退について「ショックだった」としながらも、
ジョニー(Gt)もディー・ディー(Ba)も、サウンドへの影響は「全くなかった」と答えていること。
特に映画の中でジョニーが語った、
誰が歌っても誰が演奏してもラモーンズはラモーンズだ」という言葉は、とても意外でした。

また、イギリスではピストルズクラッシュらの「兄貴分」として、ロンドンパンク・ムーブメントのきっかけをつくり、
アルゼンチンでは7万人収容のスタジアムでのライブをソールドアウトさせたりと、
海外では圧倒的な影響力と人気を誇っていたにもかかわらず、
本国アメリカでは解散間際までストリップ小屋と一緒になった汚いライブハウス回りを続けていたことも、
やはりとても意外でした。

ただ、中でも最もショッキングだったのは、
(おそらく多くの観客・読者もそうだったように)ジョーイ(Vo)とジョニーの関係です。

かつて、ジョーイにはリンダという仲の良いガールフレンドがいました。
しかしリンダはその後、あろうことかジョニーと付き合うことになってしまいます。
ジョニーが奪ったのか、リンダの意志だったのかは定かではありませんが、
いずれにせよ結果的に2人はリンダをめぐって非常にナイーブな関係になってしまうのです。

このエピソード自体は有名な話ですので僕も知ってはいたのですが、
2つの作品、とくに書籍『I Love RAMONES』には、
当時の2人の関係やバンドの空気がどのようなものだったかが、克明に記録されています。
詳しく説明するのは野暮なので書きませんが、
バンドやスタッフにとっても、そして本人たちにとっても、相当ストレスフルな状態だったようです。

で、僕は何に驚いたかというと、
そんなナーバスな状態に陥ったにもかかわらず、バンドが存続し続けたということです。

ジョーイが、リンダとジョニーとの出来事を題材にして作ったといわれる、
<The KKK Took My Baby Away>という曲があります。


KKKが彼女を奪い去ってしまった。彼女はもう戻ってこない」という歌詞を、
当のKKK=ジョニーを前に堂々と歌うジョーイもすごいですが、
それを平然と弾きこなし、さらにはライブで定番のセットリストに加えてしまうジョニーもすごい。

この曲が発表されたのは1981年ですから、
リンダをめぐる「事件」が起きたのは70年代末から80年代初頭だと推測できます。
そしてラモーンズの解散は96年。
ということはつまり、ラモーンズは10年以上にわたってこのストレスを抱え続けたわけです。
しかも、ツアーを回り、毎日のようにステージに立ち、合間にアルバムを出すという、
超コンスタントな活動をいっさい緩めることなく。

興味深いのは、普段はまったく口を利かないほどギスギスしていたジョーイとジョニーが、
「ラモーンズ」という場所においては、ある種の信頼関係で結ばれていたことです。
普段は口を利かないのに、ステージ上のリハーサル中だけは言葉を交わすこと。
ジョーイの死の翌年、ラモーンズがロックの殿堂入りを果たした際に、
授与式で恒例となっているライブをやるのかと聞かれたジョニーが、
ジョーイが歌わなきゃラモーンズじゃないから」と断ったこと。
書籍『I Love RAMONES』には、そうしたエピソードが綴られています。
特にジョニーの発言は、
前述の「誰が歌っても誰が演奏してもラモーンズ」という言葉と明らかに矛盾するのですが、
本人はリップサービスなどではなく、本気でそう思っていた節がある。

他の全てはバラバラでも、肝心の音楽で信頼関係があったからこそ、
彼らはバンドを続けられたのでしょうか。
僕も劇団という生産集団をやっていましたが(てゆうか今でも一応やってますが)、
実際、ある生産集団内における人間関係の煩わしさは、
才能や作品と全く関係ないにもかかわらず、それだけで十分、創作への動機をくじきます。
僕がもしジョニーかジョーイの立場だったら、多分辞めてるでしょう。
それが容易に想像つくだけに、僕は彼らのことをすごくプロフェッショナルだなあと思うし、
それでも辞めない」という情熱に対して(妙な言い方ですが)うらやましいと感じました。


映画も書籍も、ラモーンズの生々しい空気が封じ込められています。
そのことで、確かに意外に感じたり、ショックを受けたりすることはありますが、
だからといって別に幻滅したりはしません。
むしろ、彼らを手放しで称賛するような内容だった方がガッカリしたでしょう。
なぜなら、ドキュメンタリーだからといって取り繕わない姿勢、
あるいは畔柳ユキの目に映った「不完全なバンド」としての彼らの姿に、
評価されなかろうが、仲が悪かろうが、
結局最後までスタイルがブレなかったラモーンズの「頑固さ」と同じものを感じて、
奇妙に安心してしまうからです。


映画『END OF THE CENTURY』予告編









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『村八分』 山口冨士夫 (K&Bパブリッシャーズ)

yamaguchi

ドラッグよりも酒よりも
ギターを掴みとれ


ギタリストの山口冨士夫が亡くなりました。

日本最古のロックバンドの一つ、村八分のギタリストであり、
村八分以前にはザ・ダイナマイツというバンドで
グループサウンズブームの一角を担い(本人は負の歴史だと語っていますが)、
村八分解散後はTEARDROPSや裸のラリーズで精力的に活動するなど、
まさに日本のロックの歴史そのもののようなアーティストでした。

山口冨士夫のギターについて語るとすれば、
ただただ「かっこいい」の一言に尽きます。
ギザギザの刃で力任せに身体を叩き割られるような、
ハードで粒立ったカッティング。
深い音楽的素養と豊かな引き出しを感じさせる、
官能的でインパクトのあるメロディライン。
僕は、キース・リチャーズよりもアンガス・ヤングよりも、
山口冨士夫こそが「キング・オブ・ギターリフ」だと思います。

そんな山口冨士夫が、村八分時代について語った自伝的回顧録が、
その名も『村八分』という書籍です。

これは本当に貴重な本です。
それはなにも、多数掲載されている豊富な写真や、
中島らもが村八分に触発されて書き下ろした短編小説『ねたのよい』や、
8曲入りの未発表ライヴCD付という、豪華な付録だけが理由ではありません。

残された映像や音源が少なく、「伝説」と称される村八分。
その村八分について、柴田和志(チャー坊)との出会いからバンド解散に至るまでの全てを、
他ならぬ山口冨士夫自身が膨大なページを割いて語っているという、希少な記録という点。
そして、グループサウンズの舞台裏であったり、ドラッグであったり、
京都というカウンターカルチャーの震源地について触れていることで、
期せずして60年代末から70年代前半という文化の混沌期に関する、
一種の「史料」になっている点。
この両面で本書は、村八分という枠を超えて価値のある本だと思います。

ただ、実を言えば読んでいる最中はそんなことよりも、
山口冨士夫の「語り口調」にただただ惹き込まれました。

本書はおそらく、プロのライターがインタビューを書き起こして作ったんだと思うのですが、
あえて読みやすい文章にはまとめずに、
山口冨士夫の口調を(おそらく)ほぼそのまま掲載しています。
おかげで、しょっちゅう話は脱線するし、訳の分からない登場人物が次から次へと出てくるし、
読みにくいことこの上ないのですが、
しかし、だからこそ山口冨士夫の生々しい体温が伝わってきます。
これほどまでに迫力のある独白というものを、僕はこれまで読んだことがありません。
夏の京都に照りつける日差しや草いきれ、むせ返るような畳の匂い。
山口冨士夫の訥々とした語りの中に、極めて村八分的な、
湿度の高く粘っこい空気がゆらゆらと立ち上ります。

ドラッグや、それによる逮捕歴といった、センセーショナルというか、
極めてロック的なエピソードについても、山口冨士夫は臆することなく語っています。
本書の帯はそのことについて「全ての真実を赤裸々に語る」と書いていますが、
僕はむしろ、山口冨士夫はそういうことについて恥ずかしそうに語っている印象を受けました。

「大事なことはそんな些細なことじゃない」
「本当に大事なことは、全ての向こう側にあるんだ」
「それを見るためには、クスリも酒も要らない」

そんな意味の言葉を、山口冨士夫は(これまた訥々と)語っています。
なんか、「もっとハッキリと『コレだ!』と言ってくれよ!」とヤキモキします。
でも、同時に「やっぱりこの人でさえもそれを言葉にはできないんだなあ」とも思います。

そんな「言葉で表せない場所(境地)」へ至るための手段として、
ドラッグでも酒でもなく、なんのかんの言いながら結局最後まで彼は「ロック」を選んだ。
不器用な求道者の七転八倒の試行錯誤が、この本には記されています。


ザ・ダイナマイツ<トンネル天国>
この曲で山口冨士夫が鳴らすギターには、
GSという枠に収まりきらない「ロック」としての響きが感じられます







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『キャパの十字架』 沢木耕太郎 (文藝春秋)

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「贋」だからこそ見えてくる
キャパの新たな物語


先日、横浜美術館で開催されていた
「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展に行ってきました。

世界で最も有名なカメラマン、ロバート・キャパ。
しかし、若き日の彼に、公私にわたってパートナーを務めた、
ゲルダという女性がいたことは、あまり知られていません。
まだ駆け出しカメラマンだった20代前半のキャパの恋人であり、
同時にマネージャー的存在でもあったのがゲルダです。
そもそも「ロバート・キャパ」という名前自体が、
キャパことアンドレ・フリードマンとゲルダの2人で考え出した、
架空のアーティストネームでした。

ゲルダは元々は学生でしたが、アンドレと出会ったことで自身も写真を撮るようになります。
その後、ゲルダはカメラマンとして独り立ちしますが、
最初期の頃は、2人が別々に撮った写真を、
まとめて「ロバート・キャパ」名義で発表したりもしていたのです。
ゲルダの写真とキャパの写真とを分けて展示するのは、
日本では今回の「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展が初めてだそうです。

展覧会は、まずゲルダの写真展を見た後に、
キャパの写真を見るという構成でした。
しかし、後半のキャパの写真展があまりにすごすぎて、
正直にいうと、最初に見たゲルダの印象はほとんど残りませんでした。
キャパの写真は、もうなんていうか完全に別格。
1枚目の写真(デビュー作の、あのトロツキーの演説写真)からして、
もう全然空気が違う。
キャパの写真は全部で193点も展示されていたのですが、
大げさではなく、僕は全部の写真にずーっと鳥肌が立ちっぱなしでした。

さて、今年はキャパの生誕100周年にあたります。
今回の展覧会はじめ、今後もいろんな企画が催されるのだろうと期待しているのですが、
そんなアニバーサリーイヤーの初っ端である2月、
キャパに関する衝撃のドキュメンタリー本が出版されました。
それが、沢木耕太郎の『キャパの十字架』。

1936年、キャパがスペイン内乱の取材の際に撮影した写真「崩れ落ちる兵士」。
銃弾に撃たれた兵士が、今まさに崩れ落ちようとしているその瞬間を収めたこの写真は、
米グラフィック誌『LIFE』に掲載されるなどして、
無名だったキャパを一気に「世界一の戦場カメラマン」として有名にしました。

しかし、この写真については、
かねてからその真贋を問う議論がありました。
「撃たれた瞬間を狙って撮る」なんてことが、本当にできるのだろうか、と。
沢木耕太郎の『キャパの十字架』は、
この真贋問題に対して、ものすごく衝撃的な一石を投げかけます。
曰く、「これは撃たれた瞬間などではなく、演習中の兵士が偶然転んだ瞬間を、
しかもキャパではなく、ゲルダが撮った写真だ」と。

本書には、この結論に至るまでの、
沢木耕太郎の綿密な取材と検証が記録されています。
スペインには3度も足を運び、
写真に写っている「雲」の形に注目することで、
実際に写真が撮影された場所を割り出します。
同時に、キャパとゲルダが使っていたとされる当時のカメラの「画角の違い」にメスを入れ、
さらには、人体模型を使って写真に映る兵士の「影」の角度を検証します。
その緻密さと徹底ぶりは執念を感じさせるほど。
結果的に導き出された結論云々よりも、
そこに至るまでの課程で味わえる推理小説のような興奮こそが本書の魅力です。

ただ、沢木耕太郎もあとがきで書いているように、
本書の目的は「キャパの虚像を剥ぐ」ということではありません。
それが分かるのは、終章となる「キャパへの道」。
ここで書かれている、キャパの出世作「崩れ落ちる兵士」と、
ノルマンディー上陸作戦の現場を撮影したキャパ後期の代表作「波の中の兵士」とをつなぐ、
沢木耕太郎の渾身の「ストーリー」には、
「崩れ落ちる兵士」を「贋」としたからこそ感じられる新たなキャパ像があります。

僕は本書を、横浜美術館の展覧会に行く前に読みました。
そして、沢木耕太郎が提示したキャパの物語を念頭に、写真を眺めました。
それを「余計な先入観」と見るか、「鑑賞の手助け」と見るかは、
判断の微妙なところです。
ただ、一つ言えるのは、
写真に限らず、アートを見る際に文脈(感情移入)を持つことは、
決して間違った見方ではないということでしょう。
なぜなら、文脈を持つことは、その作品(あるいは作家)に近づくための、
最も手軽な入口になりえるからです。

そして、実際にキャパの写真を見て感じたのは、
たとえこちらが解説本や何かを基に凝り固まった先入観をもって臨もうとも、
真に力のある作品は、それをいとも簡単に打ち砕き、
「で、お前は本当は何をどう感じるの?」というメッセージを向けてくることです。

横浜美術館の「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展、
今月の24日までやってます。
ホームページ






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『天才 勝新太郎』 春日太一 (文春新書)

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「夢中になること」の天才

酒とタバコと高級車。金遣いも遊び方もとにかく派手。
そんな豪放磊落なイメージの陰に隠れた、
創作者としての勝新太郎に迫ったドキュメンタリー。

いやあ、すごい本でした。
「作ること」にとり憑かれ、
一匹の“鬼”と化した男の姿が克明に記された衝撃の本です。

勝新太郎は1950年代半ばに映画俳優としてデビューしました。
当時は映画産業の華々しい勃興期だったので、
比較的早い段階から主演を任されるようになりますが、
市川雷蔵ら当時のスターと比べるとずんぐりした体形で声も野太い勝新太郎は、
長い間B級の、映画会社からすれば「つなぎ」の映画の話しか回ってきませんでした。

転機になったのは61年公開の『悪名』と、続く62年の『座頭市物語』。
従来にはなかった、哀愁と猥雑さが同居したエネルギッシュなヒーロー像に、
勝新太郎のパーソナリティーが見事にマッチし、
一気にスターに上り詰めます。

しかし、カメラの前で言われた通りに演技するだけでは
徐々に飽き足らなくなった勝新太郎は、
『座頭市』シリーズで監督や脚本、編集までを自らの手で行うようになります。
映画会社から独立して「勝プロダクション」を設立し、
「自分が作りたい作品」を目指して突き進みます。

勝新太郎は徹底的に現場にこだわります。
脚本家が上げてきた脚本が現場で捨てられて、
その場で全く新しいストーリーができるなんてことは日常茶飯事。
スタッフは混乱し、予算はガンガン嵩んでいきますが、
それでも勝新太郎の考えるアイデアは誰よりも面白く、
他のどんな映画よりも野心的で新しかった。
だからスタッフは文句も言わず彼に付き合い、
緒形拳をはじめ名だたる俳優たちが彼との共演を望みました。

その根底にあるのは、
「絶対にファンをガッカリさせない」という繊細なほどのサービス精神(あるいは強烈なプライド)と、
「この役はどういう人物なのか」という徹底したリアリティへのこだわりでした。
後年、黒澤明の『影武者』の現場で、
黒澤監督の演技プランに対して「武田信玄はそんなことはしない」と言い放ち、
それが監督の怒りを買って映画を降板することになりますが、
これは彼が創作者として飽くなき探求心を持っていたがために起きてしまった事件といえます。

勝新太郎と聞いて僕が真っ先に思い出すのは、
1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』での豊臣秀吉です。
あの演技は強烈でした。
人というよりも、もはや「怪獣」のようでした。
主演の渡辺謙を掌で転がすように扱う圧倒的な存在感。
政宗と初めて対面する小田原籠城戦の場面では、
カメラテストまで一切渡辺謙と顔を合わせないようにして、
血気盛んな政宗と老練な秀吉とのガチンコの緊張感を出した、
なんていうかっこよすぎるエピソードがあります。

とにかく規格外な勝新太郎。
人はここまで芸の虫になれるのかと、感動を通り越して呆然とする思いです。
本書のタイトルに「天才」とありますが、
これは単に演技の才能があるとか、そういう上辺のことを指した評価ではありません。
強いて言えば、「夢中になること」の天才。
作品に対して、時に非常識にも狂っているようにも見えるほど没頭できる、
その過剰な創作意欲こそが巨大な才能なのです。
劇作家の鴻上尚史は「才能とは夢を見続ける力のこと」と言いました。
だとすれば、勝新太郎はまさに「天才」と呼ぶに相応しい人物でした。


ニコニコ動画で見つけました。
『独眼竜政宗』(87年)での秀吉(勝)・政宗(渡辺謙)の初対面シーン







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