2月に読んだ本をいくつか紹介します。
『半島を出よ』 村上龍 (幻冬舎)
ずいぶん前に買ったきり、膨大なボリュームに尻込みして本棚に放置していたのだが、先月『空港にて』を読んだのをきっかけに手に取った。
北朝鮮の特殊部隊が福岡を制圧し、それを自衛隊も在日米軍でもなく、日本の社会からドロップアウトした元少年犯罪者たちが迎え撃つ、というストーリー。一見荒唐無稽だが、膨大な量の取材を糧に生み出された細部の設定や描写はとてもリアル。村上龍はこれまで日本の終末感について数多くの作品を通じて語ってきたが、今回はいつになくキナ臭い。「物語のラストが知りたい」という欲求よりも、「同じことが現実に起こりうるかも」という生々しい切迫感がページをめくらせる。結局読み終えるのに1週間もかからなかった。
『黒いスイス』 福原直樹 (新潮新書)
雪を頂いたアルプスの山々に、透明な水を湛えた湖と森。永世中立を国是に定め、治安の良さは世界有数。「住んでみたい国」をアンケートに取れば常に上位。そんな誰もが一度は憧れる平和国家スイスの“裏の顔”を暴く、かなり衝撃的な内容の本。
一時期スイスは、政府の援助のもとにロマ族(ジプシー)の子供を次々と誘拐していた。外国人がスイス国籍を取得する場合、住民投票にかけられる。スイスはかつて、広島型原爆の6倍の規模の核爆弾を作ることを計画し、アルプス山中深くに核実験施設を建設した。・・・これ全て事実なのだそうである。今まで思い描いていたスイスのイメージが音を立てて崩れていく。
だが暴露することが目的の週刊誌的な本ではなく、あくまで正確な情報を伝えることで、読者のスイス認識の中立性を促そうという姿勢で書かれている。「他人のふり見て我がふり直せ」じゃないけど、日本にも同じような黒歴史があり、それを繰り返さないための自戒が本書の延長線上にはある。
『漂流』 吉村昭 (新潮文庫)
ここ半年ほど吉村昭の小説ばかり読んでいる。多分2冊に1冊は彼の小説を読んでいる。
吉村作品には歴史や戦争、自然(動物)など、いくつかのジャンルがあるが、そのうちの一つに漂流民を題材にした作品群がある。『大黒屋光太夫』や『破船』『アメリカ彦蔵』などがそれだが、その代表作が本書。その名もズバリの『漂流』である。
内容もタイトルを裏切らない。主人公が無人島に流れ着きそこで生き抜くという、文字通りの漂流なのである。しかもこの無人島というのが、水も湧かない、木も生えていない火山島で、唯一の食料が島を訪れる渡り鳥。当然冬季になると鳥たちはいなくなるので、夏の間に鳥肉の干物を作り、飲料水は鳥の卵を器にして貯めた雨水だけ。過酷極まりない。
他の作品には、例えば大黒屋光太夫がロシアを旅したり、彦蔵がアメリカを旅したりするように、漂流といってもそこに冒険というニュアンスが含まれているが、この『漂流』にはそういうロマンは欠片もない。生か死か、ただそれだけの乾ききったハードな物語である。
なお、他の吉村作品の例に漏れず、本書もほぼ事実を題材にしている。こんな人がいたのか、とただただ感動するばかり。
『お坊さんが困る仏教の話』 村井幸三 (新潮新書)
「あの世はあるのか」「戒名は本当に必要なのか」などなど、生活者の視点から仏教にまつわるさまざまな質問・疑問について考察する本。宗派ごとの戒名のランク、値段の相場など、いわばお坊さんの「企業秘密」のような内容に触れていることからこのタイトルになったのだろう。ちなみに筆者は仏教関係者ではなく、ただ趣味で仏教を学んでいるという元テレビマン。
お釈迦様が何をしたかに始まり、日本への仏教伝来から今日までの仏教史をわかりやすく噛み砕いて説明してくれるので、仏教入門書としては最適である。日本に伝わった仏教は歴史の中で徐々に土着の祖霊信仰と結びつき、葬式仏教へと発展した。日本社会で生き延びるために本来の仏教とは異なる概念を積極的にブレンドしていったのである。悪く言えばいい加減、良く言えば懐が深い。仏教の持つなんともいえないこの柔らかさ、おおらかさに僕は惹かれる。
『昆虫―驚異の微小脳』 水波誠 (中公新書)
昆虫の脳みその大きさはわずか1立方ミリメートル。だがそのミクロな脳のなかに、人間に勝るとも劣らない優れた神経交感システムが構築されている。
例えばミツバチ。形や色を認識できるであろうことはなんとなく予想できるが、よくよく実験をしてみると彼らの認識能力というのはもっと高度で、例えば対称・非対称の区別なんかは朝飯前らしい。また、単に形を覚えるだけではなく、「同じものを選ぶ」「違うものを選ぶ」といった形状の同一性や非同一性も理解できるんだそうである。
文章自体は平易なのだがどうしても学術用語が多く、読むのはけっこう大変。だけどかなりの知的興奮が味わえる良書。昆虫に対する認識が改まります。
『半島を出よ』 村上龍 (幻冬舎)
ずいぶん前に買ったきり、膨大なボリュームに尻込みして本棚に放置していたのだが、先月『空港にて』を読んだのをきっかけに手に取った。
北朝鮮の特殊部隊が福岡を制圧し、それを自衛隊も在日米軍でもなく、日本の社会からドロップアウトした元少年犯罪者たちが迎え撃つ、というストーリー。一見荒唐無稽だが、膨大な量の取材を糧に生み出された細部の設定や描写はとてもリアル。村上龍はこれまで日本の終末感について数多くの作品を通じて語ってきたが、今回はいつになくキナ臭い。「物語のラストが知りたい」という欲求よりも、「同じことが現実に起こりうるかも」という生々しい切迫感がページをめくらせる。結局読み終えるのに1週間もかからなかった。
『黒いスイス』 福原直樹 (新潮新書)
雪を頂いたアルプスの山々に、透明な水を湛えた湖と森。永世中立を国是に定め、治安の良さは世界有数。「住んでみたい国」をアンケートに取れば常に上位。そんな誰もが一度は憧れる平和国家スイスの“裏の顔”を暴く、かなり衝撃的な内容の本。
一時期スイスは、政府の援助のもとにロマ族(ジプシー)の子供を次々と誘拐していた。外国人がスイス国籍を取得する場合、住民投票にかけられる。スイスはかつて、広島型原爆の6倍の規模の核爆弾を作ることを計画し、アルプス山中深くに核実験施設を建設した。・・・これ全て事実なのだそうである。今まで思い描いていたスイスのイメージが音を立てて崩れていく。
だが暴露することが目的の週刊誌的な本ではなく、あくまで正確な情報を伝えることで、読者のスイス認識の中立性を促そうという姿勢で書かれている。「他人のふり見て我がふり直せ」じゃないけど、日本にも同じような黒歴史があり、それを繰り返さないための自戒が本書の延長線上にはある。
『漂流』 吉村昭 (新潮文庫)
ここ半年ほど吉村昭の小説ばかり読んでいる。多分2冊に1冊は彼の小説を読んでいる。
吉村作品には歴史や戦争、自然(動物)など、いくつかのジャンルがあるが、そのうちの一つに漂流民を題材にした作品群がある。『大黒屋光太夫』や『破船』『アメリカ彦蔵』などがそれだが、その代表作が本書。その名もズバリの『漂流』である。
内容もタイトルを裏切らない。主人公が無人島に流れ着きそこで生き抜くという、文字通りの漂流なのである。しかもこの無人島というのが、水も湧かない、木も生えていない火山島で、唯一の食料が島を訪れる渡り鳥。当然冬季になると鳥たちはいなくなるので、夏の間に鳥肉の干物を作り、飲料水は鳥の卵を器にして貯めた雨水だけ。過酷極まりない。
他の作品には、例えば大黒屋光太夫がロシアを旅したり、彦蔵がアメリカを旅したりするように、漂流といってもそこに冒険というニュアンスが含まれているが、この『漂流』にはそういうロマンは欠片もない。生か死か、ただそれだけの乾ききったハードな物語である。
なお、他の吉村作品の例に漏れず、本書もほぼ事実を題材にしている。こんな人がいたのか、とただただ感動するばかり。
『お坊さんが困る仏教の話』 村井幸三 (新潮新書)
「あの世はあるのか」「戒名は本当に必要なのか」などなど、生活者の視点から仏教にまつわるさまざまな質問・疑問について考察する本。宗派ごとの戒名のランク、値段の相場など、いわばお坊さんの「企業秘密」のような内容に触れていることからこのタイトルになったのだろう。ちなみに筆者は仏教関係者ではなく、ただ趣味で仏教を学んでいるという元テレビマン。
お釈迦様が何をしたかに始まり、日本への仏教伝来から今日までの仏教史をわかりやすく噛み砕いて説明してくれるので、仏教入門書としては最適である。日本に伝わった仏教は歴史の中で徐々に土着の祖霊信仰と結びつき、葬式仏教へと発展した。日本社会で生き延びるために本来の仏教とは異なる概念を積極的にブレンドしていったのである。悪く言えばいい加減、良く言えば懐が深い。仏教の持つなんともいえないこの柔らかさ、おおらかさに僕は惹かれる。
『昆虫―驚異の微小脳』 水波誠 (中公新書)
昆虫の脳みその大きさはわずか1立方ミリメートル。だがそのミクロな脳のなかに、人間に勝るとも劣らない優れた神経交感システムが構築されている。
例えばミツバチ。形や色を認識できるであろうことはなんとなく予想できるが、よくよく実験をしてみると彼らの認識能力というのはもっと高度で、例えば対称・非対称の区別なんかは朝飯前らしい。また、単に形を覚えるだけではなく、「同じものを選ぶ」「違うものを選ぶ」といった形状の同一性や非同一性も理解できるんだそうである。
文章自体は平易なのだがどうしても学術用語が多く、読むのはけっこう大変。だけどかなりの知的興奮が味わえる良書。昆虫に対する認識が改まります。