週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【本】その他

ついに「電子書籍デビュー」を飾ってしまった話

今週も本の話題。
でも、今日は僕自身の体験の整理のような、極めて個人的な内容です。

2015年は僕にとって「電子書籍元年」でした。

紙に印刷された文字を読むのと、液晶画面をスワイプしながら目で追うのとでは、
内容に対する親近感も理解度も全然違うだろう。
そもそも、装丁や紙の匂いやカバーの手触りといったモノとしての要素を含めて「本」である。
それを、モバイル端末の中の1ファイルとして、Yahooニュースと同じ感覚で消費する行為を、
「本を読む」などと間違っても呼びたくない。
…長年そんな風に考えて、頑なに電子書籍を拒絶していたのですが、ついに陥落しました。

理由は子供が生まれたことです。
子供が成長して子供の物が増えて、子供部屋なんかを作った日には、
既に本棚の容量の倍以上にまで増えてしまった僕の蔵書約2000冊は、明らかに「邪魔」です。
しかし、もうこれから先ずっと本を読まないなんてこともできそうもない。
要するに、これからも増え続けるであろう本をどこにしまっておくのか(いやもう無理だ)という、
極めて物理的な理由から、断腸の思いで電子書籍に手を出したのです。

子供が妻のお腹の中で大きくなり、生まれてからの生活を具体的にイメージし始めた時期に、
たまたま『本で床は抜けるのか』(西牟田靖)という本を読んでいたのもきっかけの一つです。

数千冊という蔵書を持つ著者が、木造アパートに仕事場を移したのをきっかけに、
本の持ちすぎで床が抜けた人はいるんだろうか?という疑問を持ったところから始まるルポで、
建築士の人に、何冊の本をどのように置いたら床が抜けるのかを実際にシミュレーションしてもらったり、
あまりの蔵書の数に実際に自宅の床が崩壊したという井上ひさしの伝説を追ったりする、
バカバカしい(いや本人にとっては深刻)テーマを大真面目に追求した面白い本です。
(終盤、著者の身に意外な展開が起きて、ラストは苦〜い気持ちになります)


この本を読みながら僕も、自宅でパンパンになった高さ2mの本棚3台と、
入りきらない本を詰めた業務用段ボール4箱を前にして、
今後の家族の生活というものを真剣に考えてみたところ、
思い切って処分する&電子書籍に切り替える(しかない)、という結論に至ったわけです。


んで、そこから約半年。
電子書籍での読書生活はどうかというと…


全然OK問題なし

もうね、今では紙の本と電子書籍があったら進んで電子書籍の方を買うし、
むしろ電子書籍がなければ電子化されるまで待つくらいの勢いです。

あれだけ紙の本へのこだわりをもっていた僕が、
なぜこんなにも簡単に180度の転向を遂げてしまったのか。
前置きが長くなりましたが、以下がその理由です。


理由その1:わざわざ専用の端末を買う必要がなかった

僕が電子書籍を購入しているのはKindle
それをiPhoneのKindleアプリで閲覧しています。
国内の大手書店チェーンも独自に電子書籍ストアをオープンし、
それぞれが独自のアプリを配布していますが、
本の購入元によってアプリをいちいち使い分けるのは煩わしいので、Kindleオンリーです。

元々持っていた端末がiPhone 6 Plusだったのは大きかったと思います。
スマホの小さな画面で本を読むと疲れるのでは?と心配していたのですが、
6 Plusの画面であれば特に問題ありませんでした。
なので、イニシャルコストはゼロ(もちろん本の代金はかかりましたが)。
「合わなかったらやめればいいや」と気楽な気持ちで始められたのは良かったです。


理由その2:同時並行読みができる

僕は複数の本を同時並行で読むクセがあるのですが、
紙の本の場合、外出する時に全部を持ち運ぶとかさばるし、
かといって1冊に絞るのも難しいし…という難点がありました。
なので、何百冊だろうが端末ひとつで本を持ち運びできるのは画期的でした。

実は一時期、Kindleの専用端末を検討したこともあったのですが、
複数端末を持つことになると結局持ち運びや使い分けの必要が出てくるので、
あんまり意味ないなあと思ってやめました。


理由その3:どんな本でも片手で読める

ゆっくりと自宅で時間を取ることが難しくなってしまったので、
本を読むのは通勤電車の中や会社の昼休みといったスキマ時間がメインになりました。
そういう環境を考えると、片手で操作できるスマホというのはUIとして理想的。
紙の本の場合、ハードカバーになると片手で読むのはかなりキツイです。
なので、これまで外出時は基本的に文庫本しか持ち運べなかったのですが、
電子化したおかげでハードカバー本も外で読めるようになりました。
この「片手で読める」って自明のことのようだけど、僕けっこう感動しました。


理由その4:バックライトがつく

これも当たり前と思われるかもしれないけど、僕が感動したことの一つ。
僕の貴重な読書時間には、電車の中と昼休みともう一つ、
布団に入ってから寝落ちするまでの時間、というのがあるんですが、
紙の本の場合、電気スタンドをつけなきゃいけないし(たまにつけっぱなしで寝るし)
たまにホテルとかでスタンドがない部屋だと読めなかったりするし、
環境に左右されるという難点がありました。
その点、スマホだとバックライトがつくので、電気を消しても読めるし、
途中で寝落ちしてしおりを挟み忘れても、次の日「どこまで読んだっけ?」と読み返す必要ないし、超便利。

---------------

このように、自分の読書スタイルを考えると、
紙の本よりも電子書籍の方がフィットする点がはるかに多かったのです。
「片手で読める」「何冊も持ち運べる」といったことは電子書籍そのものの売りですが、
実際に使ってみたら、インパクトは想像以上でした。
そう考えると、これまで当たり前だと思っていた紙の本というインターフェースに対して、
実は潜在的な不満を持っていたってことなんでしょうね…。

最後に、僕が考える紙の本の利点も書いてみます。
1つは、図版や写真が多い本は紙の方がいいと思います。
図版や写真は一度に視界に入る大きさが肝なので、
拡大縮小が自由な電子書籍よりも、そもそも大きく掲載している紙の本に分があります。
なので、地図の本とか歴史資料本なんかは紙で買ってます。
(あ、でも画面が大きいタブレットにしたら問題解決すんのかも…)

もう1つは、これは慣れの問題なのかもしれないけど、
やはりスマホという端末の主な使い方が影響しているのか、
どうしても電子書籍の内容は「情報」として流れていくような気がします。
フローとストックという、よく使われる表現を用いるなら、ストックされていく実感が紙の方に比べて少ない
わかりやすくいっちゃうと、飽きるのが早いように感じます。
だから、複雑で重たい内容の本は紙の本で買うようにしています。


さて、これで本というソフトの山の整理には着手できたわけですが、
我が家にはもう一つ、そして本よりもさらに巨大なCDというソフトの山が控えています。
でも配信はイヤなんだよな〜。





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『たった一人の生還』佐野三治(新潮文庫)

sanosanji
救助の瞬間から始まった
遭難者の再生の物語


 『おろしや国酔夢譚』を読んでからというもの、冒険や遭難、海といったキーワードに敏感になっている。先々週紹介した『王国への道』もそういった興味から手に取った本だ。そして今回紹介するのは、現代の海洋遭難を扱った本。

 1992年12月、年をまたいで行われる日本からグアムへのヨットレースに、佐野三治は6名の仲間と挑戦した。油壺から出航して3日後の夜、彼ら7人を乗せた「たか号」は転覆する。その後27日間、著者は太平洋上を漂流し、生還する。この本はその手記である。

 遭難は海の場合と山の場合と大きく2つに分けられるが、どちらの方がより怖いかと言われれば、海での遭難だろう。山は自分の足で自由に歩けるが、海の上を歩くことはできない。山の中で呼吸はできるが、海の中で呼吸はできない。人間が根本的に生存を許されない世界に放り出されるのだから、著者の感じた恐怖はどれほどのものかと思う。食べ物も水も無い、自分がどこにいるかすらわからない、なのに死は確実に忍び寄ってくる。そのような状況で人は何を思うのか。

 7人のクルーのうち、転覆した瞬間に蛇輪を握っていたクルーは、沈没する船とともに沈んでしまう。残された6人は、ライフラフトという屋根のついたゴムボートで脱出する。食料は1日につき6人でビスケット1枚。水もほんのわずかしかない。最初のうちはお互いを励ましながら、救助の瞬間を待っていた。だが身体の衰弱を止めることはできない。

 漂流して12日目、ついに死者が出る。クルーのリーダー的存在だった人だ。そこから一気に死が続く。13日目に3人、そして18日目、5人目の死者を水葬にすると、ついに筆者は一人になる。

 その後9日間、たった一人で漂流を続けた後、フィリピン船籍の船に発見されるのだ。計27日。およそ1ヶ月間、死と隣り合わせのまま、海の上を漂い続けたのだ。

 ライフラフトから引き上げられ、フィリピン船の甲板に下ろされた瞬間、著者は「助かった」ではなく「終わった」と思ったという。

 この手記はここでは終わらない。本の後半は、救助された後のことが綴られている。病院でのリハビリ、マスコミの報道。特にクルーの遺族との対面と、そこに至るまでの著者の葛藤には多くの紙面が割かれている。「自分だけが助かった」という事実が、遺族との対面を前にした著者の胸に重く、時に罪悪感となってのしかかる。

 著者一人だけが助かったことはもちろん、そもそもの「たか号」の転覆事故も、言うまでもなく偶然である。だが、不運な事故と生還という僥倖が、罪などあろうはずのない著者に、一生外せない十字架を背負わせた。コップ1杯の水の美味しさ、ベッドで眠れる安らぎ。そういった著者にしか触れられない喜びがある一方で、著者にしか抱えられない苦しみもあるのだ。

 運命という言葉をかけてあげたくなる。「生きて帰れたのだから、それでいいじゃないか」と言いたくなる。だが、遭難、そして生還という「不条理」を受け入れていく帰国後の彼の生活には、他人には立ち入ることのできない厳しさがある。だが、苦しみながら新たな人生を再生させていく著者の姿には、普遍的な感動がある。

 この本は遭難から救助にいたるまでの冒険譚ではない。救助の瞬間に呟いた「終わった」という言葉を境にして始まった、筆者の再生の物語だ。


※次回更新は8月24日(月)予定です
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