週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

ドラマ

2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』<Reprise>

naotora

全てが地味なはずの「マイナー大河」が
大河ドラマの未来を拓いた


 今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』が終わりました。放映開始直後の記事で僕は「過去の大河ドラマとは別物なんだと分からせてくれた(でも僕は「過去の大河」の方が好きだけど)」という、極めて消極的で個人的な評価をしました。しかし、1年間の放送を見終えた今、僕はこの当初の評価を全力で撤回します。『直虎』という作品は、僕が思ってたよりもはるかに素晴らしいドラマでした。頭をすり下ろすくらいの勢いで土下座します。

 手のひらを返しすぎだと思われるかもしれませんが、僕は『直虎』は大河ドラマの未来を拓いたんじゃないかと思います。ポイントは、主人公の直虎含め、登場人物のほとんどが一般的に知られていないマイナーな人物ばかりだったこと

 誰もが知る歴史上の有名な人物ではなく、その脇にいた人物を主人公に据えるのは、近年の大河ドラマの流行りではありました。『天地人』の直江兼続や『軍師官兵衛』の黒田官兵衛、『花燃ゆ』の楫取美和など。大河も第1作から50年以上経ち、歴史上有名なメジャー人物はやり尽くしたという台所事情があるのでしょう。

 しかし、『官兵衛』でも指摘したように、いくらマイナー人物を主人公に据えたところで、物語は結局主人公の近くにいるメジャー人物を軸に進むことになるため、肝心の主人公は傍観者になったり、反対に主人公というだけでメジャー人物を超える活躍を見せたりといった、「ねじれ」が頻発していました。

(その点で僕は、メジャー人物がいなかった『八重の桜』に期待していたのですが、あの作品も中盤、京都の政治劇に話の重心が移ってしまい、せっかくのマイナー人物大河が生かせず惜しい結果になりました)

 これまで大河が取り上げてきたマイナー人物が、結局のところ「メイン人物の脇にいるマイナー人物」でしかなかったは、メジャー人物が映らないと関心を呼ばないだろう、歴史上有名な事件が絡まないと1年間もたないだろうといった、一種のマーケティング的発想によるものだったんだろうと思います。今回の『直虎』は、それが単なる幻想だったことを示しました。

 でもなぜ、メジャーな人物や有名な事件にも頼らなかった『直虎』が、あそこまで面白いドラマになれたのでしょうか。僕は、マイナー人物ばかりという従来の常識に反するこの作品の特徴が、むしろ面白さの大きな理由になっていると考えています。

 歴史上マイナーな人物は、残された史料が決して多くありません。直虎にしても直筆とされる史料は『龍譚寺文書』の1点だけですし、放映前には「直虎は実は男だった説」が報道されるなど、そもそも存在すら曖昧です。そうした人物を題材にドラマにするということは、必然的にフィクションの入り込む余地が大きくなります

『時代劇の「嘘」と「演出」』という本もありますが(めちゃくちゃ面白い本です)、歴史ドラマにおいてどこまで史実に基づくか、どこまでドラマとしての創造性を許容するかは常に制作者を悩ませる問題です。そして、取り上げる人物がメジャーな人物であればあるほど、フィクションの許容度は低くなる傾向があります。また、仮に従来とは異なる思い切った解釈をしたとしても、メジャーな人物や事件であれば、「独自の解釈をする」ということ自体が手垢にまみれてしまっていることが少なくありません(例えば、本能寺の変は秀吉が起こしたetc.)。

 その点、マイナーな人物であれば、史料という「縛り」も少なく、反対にフィクションに対する許容度は大きい。マイナー=話の結末を知らないから新鮮に見てもらえる視聴者が多いというシンプルな利点もあります。

 例えば『直虎』でいえば、寿桂尼と直虎との、緊張感がありつつも女城主同士で親近感を覚えあう関係などは、史実という「法の網目」をフィクションが上手くすり抜けた好例だったと思います。

 そして、フィクションと史実とが矛盾しないまま極めて高いレベルで融合したのは、なんといっても高橋一生演じる小野政次のキャラクターでしょう。「裏切り者として処刑された」とされる史実を維持しながら、その裏側に180度違う解釈のキャラクターと物語が築かれ、「本当はこうだったのかも」と想像が膨らみました。しかも、第33回「嫌われ政次の一生」放映直後、多くの人が指摘していたように、「今我々が知っている歴史とは、所詮勝者によって作られたものでしかない」という、歴史の見方そのものに対するメッセージが読み取れた点においても、素晴らしい脚本でした。

『直虎』の功績。それは、登場人物も取り上げる事件も一般的に知られていないという「マイナー大河」であることを逆手に取り、大河ドラマに「ドラマ」の面白さを取り戻したことです。違う言い方をするならば、「ここまでフィクションで作りこんでもいいんだ」と、創造の余地の上限を引き上げた(あるいはボーダーラインを引き下げた)ことです。僕が冒頭「『直虎』は大河ドラマの未来を拓いた」と書いたのは、この作品の成功により、これからの大河の題材選びと作り方がガラッと変わるんじゃないかと期待しているからです。

 にしても、16年『真田丸』と17年『直虎』は、前者は過去に散々題材になってきたメジャーなネタ、後者はほとんど取り上げられてこなかったマイナーネタという違いこそあれ、どちらも「大国に翻弄されながらなんとか生き残ろうとする小国の領主」という点で共通しているのが面白いですね。「天下をとる」や「新しい世を作る」といったプラスアルファで大きな何かをつかみ取ろうというのではなく、「生き残る」という究極の現状維持の方が感情移入を喚起するのは、今という時代性なのかもしれません。





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2017年大河ドラマ 『おんな城主 直虎』

naotora

僕の知ってる大河ドラマは死んだ
でも、きっとこれでいいんだ


今年のNHK大河『おんな城主 直虎』
正直、僕はまったく期待してなかったんだけど、
始まってみると意外や意外、けっこう面白いです

いろいろな事件が起こるのに台本がとてもよく整理されているし、
キャラクターもきっぱりはっきりしている。
子役の3人もめちゃくちゃ上手ですね。
おとわ役の新井美羽ちゃんは出演者クレジットで堂々の先頭を飾っていましたが、
これってもしかしたら『義経』(05年)の神木隆之介くん以来じゃないでしょうか。
あと、井伊谷のロケーションも素晴らしいですね。
毎日家からあんな景色が見られるなら僕も住んでみたい。
あんな場所よく見つけてきたなあ。

でも、今挙げたことはどれも、
僕の知ってる大河ドラマとは正反対の要素ばかりです。

僕にとっての大河ドラマとは、
まさに「大河」という名の通り、
重厚で骨太なものでした。

それは単に、作り込まれた衣装やセット、
大規模な野外ロケによる迫力ある合戦シーンといった、
「スケールの大きな時代劇」という意味ではありません。
むしろ、1年もの時間をかけて一人の主人公を追うことで見えてくるのは、
子供が生まれる喜びや愛する人と別れる悲しさ、
敵への激しい憎しみや時には肉親とも争ってしまう愚かしさといった、
時代の表層がいくら移ろっても変わらない普遍的な「人間」の姿でした。

僕はまるで、日曜8時からの45分間は、
そこだけ現代とは切り離された時間が流れているように感じていました。
TVの前で思わず背筋がピンと伸びるような、
見ている間は息をするのも憚られるような、
そんな緊張感こそが僕にとって大河ドラマの醍醐味でした。

それを思うと、『直虎』は(今のところ)驚くほどほのぼのしてます。
いえ、物語の中ではそれなりにハードな場面は出てくるのですが、
それでも最終的にはハッピーエンドになるんだろうという予感というか、
最低限の安心は保障されているような感覚があります。

それは例えば、元気いっぱいのおとわとそれを見守る気弱な直盛と厳しい千賀、優しい直平という
「絵に描いたようないい家族」の構図のせいかもしれませんし、
おとわと亀之丞、鶴丸の3人の関係とそれぞれのキャラクターが、
この先の展開が容易に想像できるほどわかりやすいせいかもしれません。
いずれにせよ、「この先どうなるんだろう」というハラハラドキドキよりも、
ある程度着地点を予想させたうえで、そこに向けてどうやって進むのかを、
いわば確認するためにドラマを見ているような気持ちになるのです。

元々大河ドラマは21世紀に入って以降、
こうした傾向が顕著でした。
現代劇と変わらない台詞回しや、「主人公は善、敵方は悪」という類型化されたドラマ、
その人自身の人生よりも主人公との関係性によって決まる「役割」重視の人物造形など、
かつての大河のようなリアルさやカオスさよりも、
見やすさや安心感の方に重点が置かれてきました。

こうした変化を、僕は大河ドラマがアニメ化していくようだと感じていたのですが、
『直虎』がもたらす安心感は、もはやアニメ化とかそんなレベルを突き抜けて、
「朝ドラ化」という段階にまで到達したような気がします。

そう考えると、花をシンボリックに使った「みんなの歌」のようなオープニングも、
時代設定を無視した色艶のいい役者の肌も、
丁寧にキャラクターを説明してくれる衣装のデザインも、
なんだかすべて納得してしまいました。
ここまで振り切ってくれるなら、アニメ化大河ドラマを苦々しく感じていた保守派の僕としても、
むしろ清々しいくらいです

『直虎』の第1回を見終わった時に感じたのは、
「ああ、大河ドラマはもう本当に別のものになったんだな」という感慨でした。
本当はとっくの昔に変わってたんだろうけど、
僕はこの作品でようやく諦めがついた気がします。

もちろん、だからといって、
「昔の大河ドラマの方が圧倒的に面白い」という考えは揺るぎません。
ただ、これからは未来の作品にかつてと同じ面白さを期待するのではなく、
一人で静かに『武田信玄』(88年)の再放送や、
『太平記』(91年)の完全版DVDを見ていようと思います。




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プレミアムドラマ 『奇跡の人』

kiseki

「半径1メートルの世界」が
いつまでも美しくありますように


NHK BSプレミアムで4月から全8回にわたって放送されたドラマ『奇跡の人』
僕はどうしてもこの作品について書きたい。

別に主演が銀杏BOYZの峯田和伸だからってわけじゃないです。
相手役が麻生久美子で、峯田の俳優デビュー作となった、
田口トモロヲ監督『アイデン&ティティ』と同じ顔合わせだからってわけじゃないです。

いや、確かに見始めたきっかけは今書いたようなことでした。
でも、第1回を見たときから、僕はこの作品そのものに夢中になりました。
夢中になって、そしてボロボロ泣きました。
僕がこの作品を見ながら考えていたことはただ一つ。
「世界はなんて美しいんだろう」ってことです。

ドラマの主演は峯田だけど、この物語の主人公は、
麻生久美子演じる花の7歳の娘、海(住田萌乃)でした。
海は目が見えないし、耳が聞こえないし、言葉が喋れません
初めて海と会った峯田演じる一択が「ヘレン・ケラーみたいですね」と言った瞬間、
花が「この子はこの子だ!“〜みたい”とか言うな!」ってブチ切れるシーン、シビれまくりました。

そして、目も耳も口も不自由な海が、世界を知っていく冒険の旅こそが、
この『奇跡の人』という物語でした。
ただ、普通に考えれば、その旅のお供をするのは家族だったり心優しい親友だったり、
あるいはサリバン先生だったりするわけですが、
この物語の場合は、40歳手前になっても仕事もお金もない、
だけどロックという夢だけはあるという、おかしな男(一択)がその役割を負っています。

一択は海に対して「世界は美しい」とは言いません。
「君には生きている価値がある」などとも言いません。
かわりに「俺なんかにも生きてる意味っつうのがあると思うんだよね、
それが何かはわかんないんだけどさ」
などと、自信なさ過ぎることを言います。
一択はサリバン先生を意識していますが、海を力強く導くのではなく(そんな知恵もなく)、
彼自身が海と一緒に「俺はなぜこの世界に生きてるの?生きてていいの?」と悩むのです。

当然ですが、海が世界を知っていく過程は、おそろしくゆっくりです。
第2回では、海がスプーンを持ってスープを飲むことだけが描かれました。
だって、海にはスプーンもスープも見えないばかりか、「スプーン」という概念も知らないのだから。
そして、一択が世界を知っていくスピードも、同じように遅い。
とんでもなく不器用な彼は、「なぜこの世に『スプーン』という物が存在しているのか」
を考えるところからスタートするしか方法を知らないからです。

でもね、水が冷たいこと。風が吹くということ。
そんな小さなことが、海にとっては世界を知る大きな手がかりになります。
電車が通ると空気が振動して地面が揺れること。
手に持った何か(スプーン)で何か(スープ)を飲むということ。
当たり前すぎるほど当たり前で、些細すぎるほど些細な物事の一つひとつを、
一択と海を通じて、僕自身も再発見することになりました。
そして、何の変哲もない、見慣れたはずの日常が、
実はこんなにも美しかったのだと気づいて、僕は震えたのです。


だけど、次の瞬間、僕はふっと我に返り、そして大きなため息をつきます。
スプーンでスープを飲めるようになった。その一歩はなんて小さいのだろうと。
彼女がこの世界で生きていくためには、あとどのくらいの「一歩」を踏まないといけないのだろうと。

劇中でも述べられていますが、彼女は海を前にしても、それが自分の名前だと分からないし、
それどころか「名前」という概念すら知りません。
「海みたいな子が動物に生まれたらどうなる?生きていけなくなってすぐに死ぬだろう」という
山内圭哉演じる海の父親・正志の言葉は残酷ですが、真実を突いていると思わざるをえません。
この世界は、目と耳と口が不自由であっても生きていけるようには作られていない。
だとしたら、海は「間違って生まれた子」「生きてちゃいけない子」なわけです。
そんな子が、一体これからどうやって生きていけばいいのでしょうか。

僕はドラマを見終えてテレビを消すと、いつも娘の顔を覗き込みました。
娘が海と同じ境遇だったら、果たして運命を受け入れられるだろうかと、
絶望せずにいられるだろうかと思いました。
娘の存在が、消したテレビの先にいるはずの「これからの海」を想像させて、僕は途方に暮れました。


一択も花も、都倉アパートの住人たちも、一生懸命海が生きていることを祝福します。
僕だって、娘に対して「生まれてくれてありがとう!」と(本人は理解してませんが)全力で喜びを表現します。
でも、本当に大事なのは、大人が祝福することではなく、
子供が自分で自分を祝福できるようになることです。
誰かに言われたからではなく、自分自身の力で「生きててよかった!」と思えることです。
一択のいう「ラブ&ピース&ロック&スマイル」ってやつです。

そのために大人が何かしてあげられるとすれば、
「世界は美しい」ってことを、「この世界は生きる価値がある」ってことを、
見せてあげるくらいしかないんじゃないかなあと思います。
それは何も、壮大な大自然や地球の進化の歴史や名曲と呼ばれる音楽とかである必要はなくて、
足元の土の感触や、風のにおいや、スプーンの感触や温かいスープの味でかまわない。
手を伸ばして届く半径1メートルの世界にだって美しさはあるんだってことを、
教えてあげることくらいしかないんじゃないかなあと思います。

といいつつ、それは言ってみれば大人が一方的に抱いている「願望」に過ぎません。
だから、僕が「世界はなんて美しいんだろう」と思って泣けてしまったのは、
それが事実であるからではなく、
海の(娘の)これからを思って感じる不安と背中合わせになった、「祈り」であるからです。
「世界は美しい」というのは、僕にとっての「希望」なんだと思います。






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「期待していない」からこそ考えた『軍師官兵衛』の3つの見どころ

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2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』が始まりました。
ぶっちゃけて言えば、僕は今回はあまり期待していません。
理由は後述するとして、そんなローテンションの中でも、
どこか期待できるところや見どころはあるんじゃないかということで、
3つのポイントを考えてみました。

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ポイント1:「アクの強い役者」に注目

今回のキャスティングは意外性が少なく、
全体的にあっさりした顔ぶれが並びました(これはここ数年の傾向でもあります)。
そんなあっさりした面々ばかりだからこそ、
「濃さ」や「アクの強さ」が期待できそうな俳優の演技には注目したいところです。

筆頭は秀吉役の竹中直人でしょう。
1996年の『秀吉』で主役を演じて以来の再登板です。
当時30代だった竹中直人も今では50代ですが、
画面を見る限り、年齢による劣化や無理は感じません。
むしろ、18年ぶりに見た竹中秀吉は抜群の安定感で、
「あるべき場所にハマった感」すらあります。

かつての大河ドラマでは『太閤記』(1965)、『黄金の日日』(1978)とに連投した
緒形拳の秀吉と高橋幸治の信長のように、いわゆる「ハマリ役」というものがありました。
平成以降は絶えているので、竹中秀吉が再び前例を作って欲しいですね。

また、片岡鶴太郎演じる小寺政職もかなり期待がもてます。
何にも考えていないくせにさも思慮深そうなふりをする、あの芝居!
どこかイッちゃってる感じは、かつて鶴太郎が演じて衝撃的なインパクトを残した、
『太平記』(1991)の北条高時を彷彿とさせます。
それと、まだドラマには登場していませんが、陣内孝則の宇喜多直家というのも楽しみなキャスティングです。


ポイント2:岡田准一は「老けメイク」が似合う

大河ドラマの大きな難点の一つである「老けメイク」。
年齢による見た目の変化をつけなければいけないというのはわかるのですが、
先週までつるっとした顔をしていた俳優が突如ヒゲをつけたり白髪を生やしたりする、
あの「とってつけた感」はなんとかならないものかとずっと思ってました。

その点、今回の主演・岡田准一の老けメイクはわりと良かったですね。
第1回目の冒頭、物語としては後半にあたる小田原攻めでの官兵衛の姿が映りましたが、
ヒゲや白髪のなじみ具合は自然だったし、岡田准一のくたびれた芝居も説得力がありました。
大河ドラマは毎回、登場人物たちがヒゲをつけ始めるあたりでテンションが一段落ちるのですが、
今回はそれが避けられるかもしれません。


ポイント3:「主役が脇役」をどこまで生かせるか

最後に挙げましたが、『軍師官兵衛』が面白くなるかどうかの最大のポイントはここだと思います。
冒頭、今回の作品に対して「期待していない」と書きました。
それは、『八重の桜』のときにも書いたように、
僕はかねてから「脇役・亜流の人物が主人公」という手法に疑問を感じていたからです。

黒田官兵衛という、これまで脇役として描かれてきた人物にスポットを当てること自体はいいでしょう。
しかし、同じ手法で作られた『風林火山』(2007)や『天地人』(2009)がそうだったように、
脇役人物を主役にしたところで、ドラマの軸は結局のところ、
「(秀吉や信長といった)主役級人物の物語」になってしまう可能性が非常に高いのです。
つまり、今回で言えば、主役は黒田官兵衛なんだけど、
ドラマそのものは官兵衛が仕える秀吉の物語になってしまうんじゃないか、ということです。
制作スタッフの「主役級人物は既にやり尽くした」という台所事情と、
「戦国時代は鉄板ネタ」という思い込みとが混じり合った結果なのでしょうが、
これでは何のために脇役を主人公にしたのか分かりません。
今回も、いかに「秀吉の物語」に流れず、「官兵衛の物語」にできるかどうか、
そのバランスや工夫が問われると思います。

ただ、この点について僕が期待できるなと思うのは、
脚本を担当する前川洋一が、とても素朴で骨太なストーリーを書いている点です。
第2回「忘れえぬ初恋」では、官兵衛が将来を約束したおたつが、
政略結婚のために他家へ嫁ぐことになってしまう、というストーリーでした。
官兵衛が気持ちを告げられずにいる間におたつの婚儀が決まってしまうというすれ違い。
そして、その婚儀の場を狙って敵が迫っているという運命性。
この、シンプルで力強いストーリーには、久々に「王道」を見た思いがしました。
信長や秀吉のシーンを最低限にとどめ、あくまで「主役は彼である」というように、
官兵衛への感情移入を切らさない作りにも、ポリシーを感じます。

ついつい忘れがちなんですけど、大河ドラマはあくまで「ドラマ」なので、
どれだけ濃い芝居を映そうが、いかに無名の人物を取り上げようが、
やっぱり話が面白くなくちゃ意味がないんですよね。

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ということで、まだ若干「及び腰」気味ではあるのですが、
今年も大河を見続けようかと思います。
特に有岡城の戦いなど、黒田官兵衛の人生において重要な意味を持つ事件が集中する、
前半〜中盤のドラマには期待してます。




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『あまちゃん』が終わってしまった

amachan

「ふるさと」は
自分の意思で選ぶもの


恐れていた時がついに来てしまいました…。
NHK連続テレビ小説『あまちゃん』、終了。
僕はこれからどうやって毎朝家を出ればいいのでしょうか。
これから毎晩、何を楽しみに眠ればいいのでしょうか。
お先真っ暗。僕は今、「あまロス症候群」のどん底にいます。
「あま外来」があるなら誰か紹介してくれ。

4月からの半年間で全156回。
ただの1度も見逃さなかったのはもちろんのこと、
ほとんどの回を1日2度(BSプレミアムの7:30版と23:00版、いわゆる「早あま」と「夜あま」を)見ました。
今までも夢中になったドラマはいくつかありますが、
『あまちゃん』ほど、次の放送が楽しみで、後の展開をあれこれ想像し、
そして見るたびに元気になれた作品は他にありませんでした。
北三陸の濃いキャラクターたちに腹の底から笑い、
東京編ではアキちゃんと一緒に「地元に帰りたい」とホームシックにかかり、
特にラスト1か月の震災編では、僕自身の3月11日がクロスオーバーし、
ドラマと現実とが地続きになるような、今まで味わったことのない強烈な感覚を味わいました。



しかし、僕は物語に熱狂する一方で、
放映中ずっと頭の片隅でモヤモヤと考えていたことがありました。
それは、「故郷」ということについて。

『あまちゃん』は、「故郷の再発見」を描いた物語だったと僕は見ています。
劇中で描かれた「再発見」は、大きく2つに分かれます。

一つは、春子やユイちゃん、ヒロシ(ストーブさん)ら、
北三陸で生まれ育ったものの地元に背を向けていた人たちが、
再び故郷に目を向け街を愛するようになるという再発見。

もう一つは、主人公・アキにとっての故郷の再発見です。
春子やヒロシ、ユイちゃんが北三陸を再発見していくきっかけを作ったのはアキの存在ですが、
よく考えてみると、アキ自身にとっての故郷は、北三陸ではありません。
故郷を「生まれ育った場所」とするならば、アキのそれは東京の世田谷です。
でも、高2の夏に北三陸を訪れたアキはすぐにこの場所を気に入り、
北三陸を「故郷」と呼ぶようになります。

アキは生まれ育った東京を「故郷」だとは感じていませんでした。
ドラマではほとんど描かれませんでしたが、
東京でのアキは母の春子曰く「地味で暗くて向上心も協調性も個性も華もないパッとしない子」でした。
アキ自身も「イジメられるというよりも、イジメられるほど相手にもされない子」と語っています。

そんなアキが、北三陸で夏ばっぱに出会い、海女の仕事に挑戦し、
やがて地元の人たちから愛される存在になっていく。
それはアキの資質であると同時に、アキ自身が北三陸に自分の居場所を見出し、
ここを自分の故郷にすると“決めた”からなのだと思います。
10代の少年少女にとって、学校であれ家庭であれ街であれ、
「自分の居場所」を確保できるかどうかはとても重大なことです。
アキが苦手だった潜りを克服して海女という「仕事」を得ようとしたのも、
地元の訛りをいち早く口にしたのも(本人は「訛りの強い袖が浜の海女と一緒にいるから」と言っていますが)、
僕はアキなりの必死のサバイバルだったんじゃないかと思います。


余談ですが、東京から北三陸に引っ越した途端の、アキの豹変とも言える性格の変化について、
僕は当初、違和感を感じていました。「そんなに性格変わるものか?」と。
この点について、アキはユイちゃんにこう語っています。
「おら、東京だとびっくりするくらいキャラ違うんだ」と。
性格が変わったのではなく、「キャラ」が変わっただけだというセリフに、
僕はものすごくリアリティを感じ、いっぺんに納得しました。
TPOに応じて服を着替えるのと同じように、
確かに僕らは付き合う相手や属する集団によって振る舞い方を変えています。
それは必ずしも演技というわけではなく、無意識にできてしまう本能的な処世術というべきでしょう。
(とりわけ自分を取り巻く環境に敏感な10代にとっては重要なテクニックです)
アキの変化を「キャラ」という一言で済ませてしまったクドカンの手際と感性は、素晴らしいと思いました。
物語全編を通して僕はこのセリフに一番しびれました。



「故郷」の話に戻ります。
かつては大嫌いだった北三陸に、再び向き合うことを決めた春子やユイ。
未知の土地だった北三陸に自分の故郷を見出したアキ。
一見正反対のようですが、両者とも、自分の意思でその場所を「選んだ」という点では共通しています。
この場合の「選ぶ」とは、そこに住むということではなく、
その場所を自覚的に「故郷」という地位に置くということです。
平たく言えば「ここが私の故郷!」と、自分の中で決めてしまうことです。
東京生まれのアキの場合はもちろんですが、北三陸生まれの春子やユイも、
例えば春子は夏ばっぱとの関係の中で、ユイは自分の夢と折り合いをつける中で、
2人とも最終的に北三陸を「ここが私の故郷!」と決めたんだろうと思うのです。

これは特殊なケースではないと思います。
例えば、進学や就職で実家を出た途端、
住んでいるときは何とも思わなかった地元の風景や友達が、
自分にとっていかに大切だったかに気付く、ということはよくあります。
このとき、その人の中では、今まで気づかなかった故郷の価値に気づくという、
「故郷の再発見」が起こっているのだと思います。

生まれ育った土地を大人になっても離れない人であっても、
これだけ高速道路と電車が発達した世の中ですから、
それまでの人生のどこかの局面で「別の場所に移り住む」という選択肢が一度はあったはずです。
にもかかわらず、その場所を離れていないということは、
(何らかの事情で「離れられない」という人を除いて)やはり選択をした結果であろうと思うのです。
だから、故郷というものは、生まれ育った場所が自動的になるのではなく、
どこかのタイミングで自分の意思で選ぶものなんじゃないかと思うのです。

じゃあ、僕の場合はどうなのか。
僕がなぜ、『あまちゃん』を見ながらモヤモヤしていたかというと、
僕自身は「故郷を選ぶ」には至っていないからです。


故郷を「嫌い」になる

僕は、物心ついてから約20年、神奈川県の藤沢というところで育ちました。
「藤沢出身です」と自己紹介すると、たいていの人が「いいね〜」と返してくれます。
確かに海はあるし、冬でも暖かいし、江ノ電が走っていたりしてのんびりしているし、
客観的に見てもいい街だとは思います。
実際、大人になっても藤沢から離れない人、外に出ても再び戻ってくる人が大勢います。
でも僕は、少なくとも現段階では藤沢に戻る気はないし、
今でさえ、お盆と正月とどうしても必要な用事がある場合を除いて、基本的には足を向けません。

理由はいくつかあるのですが、
多分、一番の理由は、「藤沢を嫌いになるように自分を仕向けた」からです。

実は、東京に出てきてすぐの頃は、藤沢が恋しくて仕方ありませんでした。
用もないのに藤沢に行って、ネットカフェで一晩過ごして帰ったこともあります。
そして、藤沢への思いが募れば募るほど、
その反動で今住んでいる場所(=東京)がどんどん嫌いになっていきました。
「なんで海がねえんだよ!」とか、
「なんで有隣堂(神奈川では有名な書店チェーン)がねえんだよ!」とか。

でも、そうやって不満を膨らませていても、鬱屈が溜まるだけでいいことはありませんでした。
だから僕は、どうにかその気持ちを押さえ込む必要がありました。
そのために取った方法が、「藤沢を嫌いになる」ということでした。
幸か不幸か、ちょうどその頃、藤沢に関することでものすごく嫌な体験が重なり、
それに背中を押される形で、自然と藤沢と距離を置くことに成功したのでした。

こうして書くと、なんとも荒療治というか、不器用というか、
もっと他にやり方あるだろうと我ながら思うのですが、
当時はそれが一番いい方法だと信じて疑わなかったんですよね。
ただ、結果的には藤沢から離れられて良かったと思っています。
故郷への感傷というのは要するに過去への感傷ですから、
追求するのは不毛というものです。
(だから、過去への感傷を「地元愛」なんていうもっともらしい言い方に変えて、
地元から出ない人間や帰ろうとする人間を、僕は軽蔑しています)
少なくとも、今の僕は当時の僕よりもはるかに精神的にはフラットな状態を維持できている。

しかし、それじゃあ、僕が「故郷の再発見」をするときが来るとすれば、
それは一体どういうときなんだろうと考えます。


大吉さんの悲壮感と
ユイちゃんの「否応ない」決意


話は再び『あまちゃん』に戻ります。
物語の主要キャラクターの一人に、大吉さんという人物がいます。
大吉さんは高校卒業と同時に、開業したばかりの北三陸鉄道に就職し、
以来20年以上にわたって北三陸をなんとか盛り上げようと奮闘してきました。

僕は大吉さんがものすごく好きだったのですが、
それは、彼の行動には、単に「北三陸大好き!」という陽気な郷土愛だけでなく、
むしろ「最後の一人になっても北三陸に踏みとどまってやる」という意地や、
「故郷から離れられない」「ここで生きていくしかねえ」という諦めといった
悲壮な決意みたいなものが見え隠れして、とても人間くさかったからです。
北鉄開業当時を懐かしんで『ゴーストバスターズ』を歌っちゃうのも、
「K3NSP(北三陸をなんとかすっぺ)会議」なんていうイタいネーミングをつけちゃうのも、
その裏に大吉さんの悲壮感を感じるから面白かったんだと思います。
(そういえば『あまちゃん』という物語自体が、大吉さんのやぶれかぶれなウソから始まったのでした)

大吉さんに限らず、北三陸に住む大人たちの中には、
無邪気に故郷を愛しているだけの人はいません。
みんな、街の未来に不安を感じていて、
いつまで住み続けられるのだろうかという葛藤を抱えています。
そして、葛藤を抱えたうえで、それでも北三陸への愛が捨てられなかった人たちだけが、
あの街に残ったのだろうと思うのです。

だから僕は、「故郷を選ぶ」「地元に帰る」ということは、
決して心癒されるだけのものではなく、
別れたりヨリを戻したりを繰り返した挙句にようやく結婚を決めた恋人同士のように、
「この人は色々問題があるけどそこは目をつむり、連れ添うと決めた!決めたんだもん!」みたいな、
「覚悟」とか「諦め」とかに近いものなんじゃないかと思うのです。

ドラマでは、アキの親友のユイちゃんが、まさにこのような過程を経て、
北三陸を「故郷」として受け入れていく様子が描かれていました。
誰よりも東京に出たいと望んでいたユイちゃんが、
最終的に北三陸で「ご当地アイドル」としてやっていこうと決めるまでには、
夢への挫折や、家族との衝突、さらにはグレて高校を退学するという、
けっこうキツい体験の数々がありました。
そして、彼女の北三陸で生きていこうという決意は確固としたものではなく、
どちらかといえば「否応なく」というニュアンスのもので、
これからも何かがあればその決意は揺らいでしまうんじゃないかという気がします。
きっと、ユイちゃんはそれを繰り返しながら生きていくのだろうし、
彼女と多かれ少なかれ似たような体験を経て大人になったのが、
大吉さんら北三陸の大人たちなんだろうと思います。


もう一度僕の話。
実は最近、子供の頃に住んでいた家の近くを久しぶりに歩きました。
当時の家は既に壊されてきれいなアパートになっていましたが、
近所の公園や狭い路地沿いの雰囲気などはそのままでした。
正直、強烈な懐かしさがこみ上げました。
過去への感傷は禁じたはずなのに、それでも神経反射的に懐かしさがこみ上げるほど、
自分の中には藤沢に対する愛着があるんだなあと痛感してしまいました。

多分、僕が「故郷を選ぶ」ときがくるとしたら、
それは、藤沢に愛着を覚えてしまうもう一人の僕自身を、受け入れるときなのだろうと思います。

「藤沢は嫌い」と言いながら「やっぱり好きでした」というのは、
なんかあまりにレベルが低くて、僕いま、すごい恥ずかしいです。
恥ずかしいんですが、そういう恥をかきながら、
「嫌い」という自分を「好き」という自分に重ね合せていく(「元鞘に戻る」みたいなイメージ)が、
多分、僕にとっての「故郷の再発見」なのだろうと思うのです。


ドラマのラスト1か月は、震災後の北三陸が描かれました。
震災については藤沢も他人事ではなく、
南海トラフや東海地震が起きたら、かなりの確率で津波が押し寄せると言われています。
もしそうなった場合、アキや種市先輩や安部ちゃんが続々と北三陸に帰ったように、
多分僕も駆けつけるんだろうと思います。
でも、「失って初めて自分にとっての故郷がどこかわかった」というのだけは避けたい。
何かが起きる前に(もちろん、そんなことはあってほしくはないんだけど)、
僕は僕の故郷をもう一度発見しなければいけません。



もちろん買いました
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『純と愛』最終回を見て考えたこと

現実に「寄り添う」のか
現実を「忘れさせる」のか


NHKの朝ドラ『純と愛』が先週土曜日に最終回を迎えました。
放送中から賛否両論の激しいドラマでしたが、
最終回の終わり方については、
ネットを中心にものすごいたくさんの批判・バッシングが巻き起こりました。

見終わった直後は僕も唖然としました。
「え?これで終わり??」と。
最後の最後まで主人公の純ちゃんは残酷な現実から抜け出せないまま、
ハッピーエンドとはほど遠い結末に、
半年間見続けたことが全て徒労に終わったような、
そんなやるせない気持ちを感じました。

「これじゃ視聴者が怒るのもムリないよなあ」とネットの意見に同意する一方で、
しかし、もし僕がこの物語の脚本を書いていたらどうしただろうかと、
考え込まざるをえない部分もありました。
というのも、好きか嫌いかという感情は別として、
『純と愛』の最終回は、「『物語』をどういう態度で作るか」という、
個人的にすごく重要な問題を突きつけてきたからでした。
うまく書けるかどうかわからないのですが、
この数日間考えたことを備忘録として書き残してみたいと思います。



多分、最終回の最大の焦点は、
「果たして愛くんは目覚めるのかどうか」だったと思います。

勤めていたホテルが外資に乗っ取られたり、
再就職した民宿が火事で全焼したり、
お母さんが若年性アルツハイマーにかかってしまったり、
さらに、それが遠因となってお父さんが亡くなったりと、
半年間の放送のあいだ、主人公の純ちゃんの身にはとんでもない災難と不幸が降り続きました。
そして訪れた、「最愛の人が植物状態になる」という、
最後にして最大の悲劇。

「脳に腫瘍ができたんだから、そう簡単には目覚めないだろう」と冷静に予想する一方で、
「ここまでずっとかわいそうな目にあってきたんだから、
最後に一つくらい奇跡が起きてもいいだろう」という期待もありました。
じゃなきゃあ、あんまりだろうと。
王子様のキスでお姫様が目を覚ますという『ねむり姫』の絵本が、
物語の中でずっとキーになってきたという伏線も、
奇跡を期待する根拠でした。

しかし結局、愛くんは目覚めませんでした。

『純と愛』が、半年間かけてたどり着いた着地点。
それは、『ねむり姫』のような愛の奇跡などではなく、
最終回の、あの5分にも及ぶ純のモノローグで語られた、
「どんな過酷な運命に見舞われても、私は前を向いて生きていく」という、
悲壮なまでの決意だったのです。
確かに、じりじりと這い上るようにして純ちゃんがその決意に至った直後に、
愛くんがやすやすと目覚める場面を描いてしまったら、物語は台無しだったでしょう。

明確な救いもなく、明るい予感さえもなく、あるのはただ強烈な意志のみ。
そこにカタルシスはありません。
ありませんが、納得はできます。それも深いところで。
だって、「キスをすれば最愛の人が目を覚ます」なんていう奇跡が、
現実の人生には起きうるはずがないことを、僕らは知っています。

悲観論とは違います。
ニュースをつければ、いじめられていることを誰にも打ち明けられずに自殺したり、
わけも分からずに通り魔に刺し殺されたりすることは、
ごくありふれた日常として、すぐそこに現実として存在します。
ましてや、つい2年前に、2万人もの人の命とその人たちの生きていた日常が、
まったく唐突に失われるという巨大な絶望を目の当たりにした今、
「どんなに救いがなくても、私は生きていくんだ」というメッセージは、
なんというのでしょう、「それしかないよなあ」と諦めにも似た深い納得感を感じるのです。
『純と愛』は、視聴者にカタルシスを与えなかったのではなく、
「与えられなかった」のだと思います。
突き放すような結末のつけ方は、
あの物語がどこまでも現実にコミットしようとした結果なんじゃないかという気がするのです。



しかし……、
その一方で、こうも思うのです。
「物語は『物語』でいいじゃないか」と。

今回、ネットの感想を見ていて、僕が気になったのは、
「(『純と愛』は)朝から辛い気分になるからイヤだった」という意見がけっこう多いことでした。

「いかに現実が残酷か」ということを、わざわざ物語に教わるまでもない。
そんなことはもう十分わかってるから、
せめて朝の15分くらいは、それを忘れるくらい楽しい気持ちにさせてほしい――。

物語に束の間の「ブレイク」を期待する気持ちは、よくわかります。
というか、ぶっちゃけた話、現実にコミットしたシリアスな話よりも、
底抜けにバカなコメディを見て大笑いした方が、
明日を生きる活力が湧いてきたりするものです。

愛くんが目覚めないことに納得する一方で、
純のキスで愛くんがパッと目覚めるお気楽なハッピーエンドを見て、
「そりゃねえよ〜!」とテレビに向かって突っ込みたいという、
そんな真逆の欲求も僕の中にはあるのです。
そして、物語を作ることを考えたときに、
理屈に合わないそういう欲求は、決して否定すべきじゃないとも思うのです。

現実に「寄り添う」のか、現実を「忘れさせる」のか。
もちろん、これはあまりに極端な二元論であり、
物語を作るにはどちらか片方を選ばなきゃいけない、というわけではありません。
両方を同時に兼ね備えた優れた物語というのも、世の中にはたくさんあります。
完璧に寄り添うのも、完璧に忘れさせるのも幻想で、
要は作り手のバランス感覚なんじゃないかとも思います。

ただ、あえていえば、現時点での僕は後者の立場を取ります。
つまり、僕がもし『純と愛』の脚本を書いていたら、
なんとかして愛くんを目覚めさせるか、
もしくは全く別の展開を用意して、
強引にでも明るい予感を残して物語を終わらせたと思います。

僕は12年間、劇団で戯曲を書いてきましたが、
はじめの6年間は、実は圧倒的に前者の立場でした。
当時(20代前半)の僕にはまだ、
底抜けに明るいコメディを作ることが、現実から目をそむけているようにしか考えられなかったのです。
逆にいえば、ニュースも新聞もネットの掲示板も友人の噂話も、
あらゆる現実を取り込んでそこに切り込むことだけが「物語をつくる」ということなんだと、
当時の僕は思っていたのです。
だから(というのも変ですが)、最初の頃は悲惨で苦しい物語ばかり作ってました。

それが6年間続いた後に、僕は一気に方向転換して、コメディばかり書くようになりました。
その時期は、ちょうど僕やメンバーが社会に出た時期に重なります。
仕事でしんどい思いをしたり、病気をしたり、壮絶な離婚をした友人の話を見たり聞いたりするうちに、
自然と「笑える話」を求めるようになったんだと思います。

ある意味では、現実逃避的な心理だったのかもしれません。
しかし、言い換えればそれは(今にして思えば)、
僕が頭の中でこねくり回した「観念的な悲劇の物語」などよりも、
目の前の現実の方がはるかに複雑でシビアであることを、
身をもって体験したのだと思います。
だから僕は、観念よりも肉体(=ワッハッハと笑うこと)を重視するようになったのです。

だけど、そうは言っても、『純と愛』の最終回で描かれたような、
ああいうミもフタもないようなストレートなメッセージというのも捨てがたい。
捨てがたいというか、やっぱりあそこまで突き詰めていく姿勢が、
物語を作る基本だろうと今でも僕は思っているのです。

ただ、もしできるなら、僕はそれを笑いのオブラートに包んだり、
スカッとするようなカタルシスを担保にした上で、
ああいうストレートなメッセージを成立させたいなあと思います。
…ま、言うのはタダですから(笑)。





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『八重の桜』はなぜ期待できるのか

yae


2013年の大河ドラマ『八重の桜』がスタートしました。
現在、第3話までが放送されていますが、
僕は早くも、めちゃくちゃ面白いドラマになるのではないかと期待を膨らませています。
理由は大きく3つ。


その1:主人公は「ど」が付くほどマイナーな人物

ドラマが始まる前、果たしてどれだけの人が「新島八重」という人物を知っていたでしょうか。
僕は浅学にして名前すら知りませんでした。
新島襄ですら、決してメジャーとは言えない人物なのに、
その夫人のことなど、相当なマニアを除いて誰も知らなかったのではないでしょうか。
これまでほとんど取り上げられなかったマイナーな人物を主人公に抜擢したことは、
僕は素晴らしい決断だったと思います。

大河ドラマも今年で51作目。
正直、この10年くらいは「ネタ切れ」の感がありました。
『北条時宗』(2001年)あたりで第一級の有名人物は取り上げ尽くし、
後は過去に主人公として取り上げた人物を再登板させるか(ex.『義経』『龍馬伝』)、
「有名人物の脇にいる人物」にスポットを当てるかの(ex.『風林火山』『天地人』)、
大きく二つの方法でなんとかやりくりしていたのが、
ここ10年の流れだったと思います。

しかし、当然こうした対症療法的な作り方には限界があります。
特に後者の作り方は、
いくら「有名人物の脇にいる人物」を主人公に取り上げたところで、
物語そのものは「有名人物」である主人公の主人や伴侶を中心に流れていくわけですから、
結局のところ、戦国期なら戦国期、幕末なら幕末の、
過去の大河ドラマの「二次的派生品」に甘んじざるを得ません。
山本勘助が主人公の『風林火山』(2007年)よりも、
ストレートに武田信玄を取り上げた『武田信玄』(1988年)の方が、
どうやってもドラマとしてダイナミックになるに決まってます。
※『篤姫』(2008年)が面白かったのは、
 西郷や龍馬を描くことを潔く捨てて(幕末という「時代」を描くことを捨てて)、
 あくまで一人の女性の「人生」にフォーカスを当てたからだと僕は思っています。
 過去記事:2008年大河ドラマ『篤姫』

メジャーな人物はもう一巡したんだから、
せっかくなら「どマイナー」「超マニアック」な人物を主人公にすればいいのに、
信長や秀吉といった超有名人物を絡ませなければ視聴率を取れないと考えているのか、
結局選ばれるのはその周辺にいる「ちょっと有名」な人物ばかり(直江兼続とかお江とか)。
そういった「及び腰」の姿勢で面白いドラマが作れるわけないんです。
※その点で、僕は正直来年の『軍師官兵衛』はあまり期待していません。

こうした煮詰まり感と飽和感に対し、
『八重の桜』は風穴を開けられる可能性があります。
新島八重は、これまでのような「ちょっとマイナーな主人公」ではなく、
「ど」がつくほどのマニアックな人物。
今回のドラマが受け入れられれば、
NHKも今までの「有名人物依存」「戦国・幕末(たまに源平)依存」から脱却できるでしょう。
教科書には載らないけど、苛烈な人生を生きた人物や現代に取り上げる価値のある人物は、
歴史の中に山ほどいます。
僕はむしろ、そういう人物にスポットを当てることこそ、
大河ドラマの大きな意義なんじゃないかと思います。


その2:「ドラマ」を宿すディティール

大河ドラマの時代考証や映像美術は毎回素晴らしいのですが、
今回はその中にも、作り手の「志」を感じるような部分が目に留まります。

僕がまず「おっ!」と思ったのは、
第1話で出てきた、鶴ヶ城の内部のセット。
会津藩主・松平容保と家臣たちの場面でした。
江戸期の城、それも城主である容保が家臣と謁見するオフィシャルな部屋ですから、
何らかの装飾や明るい調度品があっても良さそうですが、
ドラマのセットは、まるで町中の剣術道場のように素朴で荒々しい部屋でした。
板敷の床も柱も、人の脂を長年吸い続けてきたように黒光りしています。
いかにも質実剛健、愚直なほど真っ直ぐな「会津」らしい。
リアルかどうかは別として、セットだけでドラマを感じさせるなんて、
これまで決して多くはなかったように思います。
セットという点では、象山先生の塾も素晴らしかったですね。
机(作業台?)の配置や書棚、応接間になっている怪しい地下の部屋など、
とてもオリジナリティを感じました。
八重の家の、鉄砲の練習部屋(?)なども、非常にインパクトがありますね。

ディティールということで言えば、
僕が今回なにより「いいな!」と思っているのが、会津弁です。
あまりに訛っているから、けっこうな頻度で聞き取れない(笑)。
でも、そこがいいんです。
優れた演出方針だと思います。
仮に台詞がなんとなくしか聞き取れなくても、
忠実(だと思うんですけど)な会津弁によってもたらされる空気感は、
それを補って余りあります。
多分、ここまで方言にしっかり取り組んだ大河は、
『翔ぶが如く』(1990年)の薩摩弁以来ではないでしょうか。
もしかしたら、去年の『平清盛』の時みたいに、
どっかのバカが下らないクレームをつけてくるかもしれません。
「何を話してるかわからない」とか「台詞は標準語にしろ」とか。
(あの「画面が汚い」という意見は、一体何だったんでしょうか)
僕は是非、最後まで今の「ネイティブ会津弁」を貫いて、
土臭いドラマのまま突き進んでほしいと思っています。


その3:「ならぬことはならぬ」に表れる具体性と身体性

3つめは、少しフワッとした話になります。

僕は、大河ドラマで一番多い失敗パターンは、
「物語が観念的になること」なんじゃないかと考えています。
「観念的」というのは、物語の軸が抽象的な言葉でしか表現できなくなる状態を指します。

史上最低の視聴率となってしまった昨年の『平清盛』は、
僕はけっこういいなと思っていたのですが、
残念ながら後半で、この「観念的」というパターンに陥ってしまいました。
物語のテーマを背負う概念として、何度も台詞に登場した「武士の世」。
清盛は何度となく、この「武士の世」という言葉を口にしていましたが、
結局最後まで視聴者は、それが具体的にどういうものなのか、
少しもイメージがつきませんでした。
にもかかわらず、ドラマ全体がまるでそこに逃げ込むように、
登場人物の言動の根拠は全てこのファジーな「武士の世」に頼りっきりになっていました。

『平清盛』は、清盛が夢見た「武士の世」という構想を、
敵であるはずの頼朝が引き継ぐという点に、
(その後700年近くに渡る武士主導の日本史の基礎は、実は清盛が築いたという点に)
従来にはない新しさや深さがあったと思うのですが、
肝心の「武士の世」がよくわからないままだから、いまいち伝わってこない。
僕は、『平清盛』が低空飛行を続けてしまった一番の理由は、
物語の要諦が、最後まで観念の域を出なかったからだと思っています。

同じような例が『義経』(2005年)です。
義経は何度も「自分は新しき国を作る」と口にするのですが、
言葉の響きがいいだけで、中身は全くわからない。
義経が平氏と戦うのも頼朝と仲たがいするのも、
全ての根拠は彼が理想とする「新しい国」にあるのですが、
結局それがどういうものなのか理解できないから、
さっぱり感情移入できないまま終わりました。

ここ最近で一番ひどかったのは『天地人』(2009年)です。
あのドラマは、何をするにも「義」という、
もう言葉自体が観念以外の何物でもないフレーズに頼りすぎたせいで、
「兼続も景勝もなんとなくいい人だった」という印象しか残らない、
見てるこちらをなんとも疲れさせたドラマでした。

逆に、観念を排除して、人物の行動とそれに伴う具体的な台詞だけで物語を動かしたのは、
ここ最近では『新選組!』(2004年)と『龍馬伝』(2010年)でした。
特に『龍馬伝』は、過去10年の大河ドラマの中では最も素晴らしい出来だったと思います。

『北条時宗』はかなりいい線をいっていたと思うのですが、
終盤にきて時宗が「(元との)戦争でも服従でもない『第3の道』を探す」という、
またもやフワッとした理想論ばかり口にすることが多くなって、
ラストで失速してしまった惜しいドラマでした。

ちなみに(話がどんどん脱線してますが)、
「新しい国づくり」というキーワードを多用しながらも、
緒形拳(足利貞氏)→片岡鶴太郎(北条高時)
→武田鉄矢(楠正成)→高嶋政伸(足利直義)&大地康雄(一色右馬介)という、
脇役の力演・怪演で継投し、力ずくで視聴者を寄り切ってしまった『太平記』(1991年)のような、
数少ない例外もあります。


さて、この「観念的」という問題に関して『八重の桜』はどうなのか。
もちろん、まだわかりません。
わかりませんが、僕は良い予感を感じています。

その根拠は、第1話のタイトルとなった「ならぬことはならぬ」。
会津の藩校・日新館の教えにある言葉ですね。
いいフレーズだなあと僕は思いました。
上記で紹介した例のように、
観念的という罠に陥るのは多くの場合、
キーワードとなる一つの台詞に頼りすぎることがきっかけになります。
その点では同じように見えますが、
しかし、この「ならぬことはならぬ」という言葉の中には、
その後の会津が殉じた美学が端的に表れており、
なおかつ、八重の人生のテーマ、すなわちドラマの今後を予感させるものがあります。
こういった、重みのあるフレーズに導かれる限りは、
ドラマは具体性と身体性を失わないだろうと思います。



いろいろ書いてきましたが、
まあ、それでも、まだ3回しか放送されてません。
今後、失速してしまう可能性もあります。
僕はそうならないよう応援しながら、最後まで見届けようと思います。




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2010年大河ドラマ 『龍馬伝』

ryomaden
完璧すぎるこの男
内心ムカついたこと、ありませんか?


 年末の『坂の上の雲』が大々的なイベントだったせいで、こちらは少々日陰に追いやられた感があるが、何はともあれ今年の大河ドラマ『龍馬伝』がスタートした。「龍馬が福山雅治ってどうなの?」と不審の声はあちこちで聞こえるが、何はともあれ僕は1年間見守ろうと思う。なにせ龍馬なのだから。

 坂本龍馬を嫌いな人っているんだろうか、と思う。そりゃ中にはいるんだろうけど、間違いなく圧倒的少数派だ。だってかっこいいもの。強くて、ユーモアがあって、自由闊達で、歴史の表舞台に風のように舞い降りたかと思ったら、去り際も鮮やか。おまけに名前まで洒落ている。そしてその「龍馬」という名を口にするだけで(あるいは文字に書いてみるだけで)、なんだか胸に青空が抜けるような、清々しい気分になる。

 そんな日本史上最大のスター坂本龍馬に欠点を挙げるならただ一つ。あまりに完璧すぎることだ。そう、みんな実は内心龍馬に嫉妬したことが一度くらいはあるんじゃないか。僕は『竜馬がゆく』を初めて読んだとき、正直ちょっとムカついた。ああいう見事な快男子には、憧れ以上に敗北感を抱くことになり、切ない。

 実は今回の『龍馬伝』、そういう嫉妬が最初の切り口になっている。そのネガティブな感情の主は岩崎弥太郎(香川照之)。ドラマ冒頭はいきなり、弥太郎の痛烈な龍馬評、「あんな腹の立つ男はいない!」という言葉で始まるのである。龍馬と弥太郎は同じ土佐に生まれ育ったいわば幼なじみ。だが弥太郎は、剣の腕が立つのに温和な平和主義で、おまけに女の子からもモテる龍馬にいつも嫉妬していた。今回のドラマは基本的にこの岩崎弥太郎の視点で進むことになる。

 これはとても興味深いアプローチの仕方で、つまり僕ら視聴者は、龍馬べったりではなく、距離をおいて客観的、批評的立場から坂本龍馬を眺めていくことになるのである。生まれながらにしてヒーローだったわけではなく、悩み傷つきながら一歩一歩僕らの知る「坂本龍馬」になっていくという、極めて“生身”な龍馬が描かれることになるだろう。それは、「自由で豪快で海を眺めて夢を語る」みたいな、現在流通しているステレオタイプの龍馬とはまったく異なる人物像になるはずだ。

 第1回を見た限りでは、“福山龍馬”は気の優しい文系青年、みたいな感じでかなり意外。だが、「まさかの福山雅治」というそもそものキャスティング含め、意外性が今回のドラマの重要な切り口となりそうなので、観るこちらとしても、まっさらな気持ちでいた方が楽しめそうだ。

 脚本は『HERO』や『容疑者Xの献身』の福田靖が、演出チーフは『ハゲタカ』の大友啓史が担当(音楽の佐藤直紀も『ハゲタカ』チーム)。ドリームチームのようなスタッフ布陣にも期待大。

 第1回再放送は土曜の13:05からです。


『龍馬伝』公式HP

スペシャルドラマ 『坂の上の雲』

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ついに始まった大作ドラマ
“青春”日本の姿に涙する


 最初の制作発表から実に6年。待ちに待ったドラマ『坂の上の雲』の放映がついに始まった。

 「待った甲斐があった」とはまさにこのこと。僕はもうテレビの前でずっと泣きっぱなしです。素晴らしい。まだたった2回しか放送されていないが、断言してしまおう。これは本当に素晴らしいドラマである。

 何がそれほど素晴らしいのか。脚本も俳優の演技も非の打ちどころがないし、渡辺謙のナレーションも味がある。美術の凝り具合などは、はっきり言って大河ドラマよりも数段上である。細かく挙げよと言われればキリがない。だが、そのような細部の一つひとつが個別に優れているというよりも、全てが組み合わさりトータルとして、ボリュームもスケールも桁外れなあの原作の映像化を成し遂げた、この一点に尽きる。

 「司馬作品の映像化など過去にいくらでも例があるじゃないか」と言われそうだが、このドラマは過去の映像化作品とは根本的に違う。ディティールをとことん突き詰めるだけでは、はたまたストーリーを丹念に追うだけでは、司馬作品は「司馬作品」にはならない。なぜなら、そこに司馬遼太郎の息遣いというものがないからだ。彼の持つ独特のユーモアや、決して主人公に感情移入しすぎないクールなタッチ、それでいて深く漂う人間(日本人)への愛情。司馬作品を「司馬作品」たらしめているのは、ストーリーやテーマといった作品の外郭以外の部分にこそある。その司馬の体温のようなものを映像に封じ込めなければ、“司馬作品を映像化した”とは言い難い。そして、そのような成功例は決して多くはないのである。

 もちろん、「原作と映像は別物」という考え方はある。だが、こと『坂の上の雲』という作品に関しては、その考え方は通用しない。それは、この作品が描いている時代に関係がある。

 以前『翔ぶが如く』について書いた時にも触れたが、司馬遼太郎の創作の原点には、太平洋戦争という忌まわしい体験がある。信長、竜馬、土方歳三。彼が主人公たちを皆、合理的精神の持ち主として描いているのは、思想の暴走が招いた太平洋戦争に対する反省があるからだ。

 『坂の上の雲』の主人公である秋山兄弟は軍人だ。ただし、昭和の軍人のような「思想中毒」ではなく、合理的な思考を旨とする、理性的な技術屋としての軍人である。明治日本が欧米列強の脅威から身を守るためにやらなければならなかったのは、一にも二にも技術と知識の習得であり、とにかく日本人全体が猛烈な勢いで勉強した結果、大国ロシアに勝ち、世界の強国から“ナメられない”地位をどうにかこうにか手に入れるのである。だが、「大国ロシアに勝ってしまった」、このことが軍部の増長を生み、ひいては太平洋戦争まで続く、合理性を欠いた「思想中毒」の遠因ともなった。

 『坂の上の雲』が難しいのはそこである。物語のクライマックスは日露戦争の勝利だが、後の歴史を見ればわかるように、それは決して手放しで喜ぶべきものではない。司馬遼太郎は明治時代を日本の「青春」と喩えたが、日露戦争はその「青春」の到達点であると同時に、近代日本が道を違えた第一歩として、ある反省とともに見つめなければならないのである。そのバランス感覚を間違えれば、戦争を礼賛する作品になってしまう。この『坂の上の雲』は、司馬遼太郎の目を、その感覚を通じてこそ初めて感動が味わえる作品なのだ。

 先週の第2回までは、まだ物語は穏やか。秋山真之、秋山好古、正岡子規の3人が、近代国家としての胎動期を迎えた日本のなかで、自分の進むべき道を探している。いよいよ今週日曜の第3回から、物語は日清戦争に突入する。青春の日本が最初に迎える大きな試練だ。

 僕は日本の近現代史が嫌いだ。なぜなら侵略の歴史だからだ。古代、中世、近世とワクワクしながら日本史を追ったところで、結末部分で気持ちはひっくり返る。日本という国が嫌いになってしまう。

 だが、『坂の上の雲』という作品は、ほんの少しだけ、日本人であることを誇りに思わせてくれる。司馬遼太郎は「この作品の主人公は日本人全員というべきであり、3人の青年は当時の日本人の一典型にすぎない」と語っていたという。僕は、物語に登場する人間が皆一様に使命感と希望とプライドを持って生きている姿に、涙してしまうのである。
 

NHK公式ホームページ

ドラマ 『リミット 刑事の現場2』

「優しさによる救済か
 憎しみによる厳罰か」


 現在土曜21時にNHKで放映されているドラマ『リミット 刑事の現場2』が面白い。

 タイトルに刑事と名がついているが、犯人探しやトリック暴きを主とするいわゆる刑事ドラマとは趣を異にする。罪を犯した人間と、それを追跡する人間、そして被害者と遺族のその後の人生を描くことに重きを置いた作品だ。

 人間の良心の存在を信じ、被害者加害者双方に対して救いの道を探そうとする若い刑事(森山未來)と、有能だが暴力的で「刑事とは人を憎む仕事」と言って憚らない老刑事(武田鉄矢)。この2人の主人公の衝突が、「人は人を罰せられるのか」「憎しみは消えるのか」といった根本的かつヘヴィな命題を浮き彫りにする。この世界には、完璧な絶望もない代わりに単純な希望もない。全ては混沌としていて、僕らはその中で悩み続け、何かを選び取っていくしかないのだという厳然たる事実を、このドラマはナイフのような鋭さでもって観ている者に突きつける。

 NHKの土曜21時というのはいつも重厚なドラマを放送する枠で(以前紹介した『ハゲタカ』も確かこの枠だった)、僕はこの枠自体のファンなのだが、多少引いた目で見れば、こんなヘヴィな作品を放送するには確かにこの時間帯以外にないように思える。平日夜に『ハゲタカ』やこの『リミット』のような、体力を要する作品を観てしまったら、翌日仕事に行く気力がなくなるもの。ただ、間違いなく意欲作であり秀作揃いの枠である。

 『リミット』は全5回放送で、先週第2回が終わったところ。これまでに観たところだと、老刑事梅木を演じる武田鉄矢がとにかく良い。人間そのものへの不信と憎悪。まるで悪鬼か修羅のような、超然とした存在感を感じさせる。連続通り魔事件の犯人に対し、「お前みたいな奴は死んでしまえ!」と言い放つシーンなどは胸が締め付けられ、涙が出そうになった。演技というものはここまで行けるものなのか。

 第2回では、梅木には過去に婚約者がいて、その婚約者が殺されてしまったという事実が判明。彼は犯人への憎しみを決して絶やすことなく心のうちに育て続け、その憎悪によって自らを刑事という職業に駆り立ててきたのだった。

 そして、かつて婚約者を殺した犯人が仮釈放されることが決定する。それを聞いた梅木は言う。「絶対にあいつを殺す」。

 まだドラマは折り返し地点にも至っていない。それなのに、すでに物語は身を裂かれるような悲しみと憎しみでいっぱいである。果たしてこの先、どのような物語が紡がれるのだろうか。暗い海の底を知っている者の方が、太陽の明るさと温もりをより深く味わえるように、このヘヴィなドラマがたとえ一瞬でも、豊かな光明を登場人物たちに照らすことを期待して、今週も僕は第3回を観るのである。


公式サイト。第3回を観る前にあらすじなどをここでチェック

映画 『ハゲタカ』

hagetaka
アンチ・ヒーローの仮面をかぶった
真のヒーローの誕生


 2007年2月にNHKで放映され、国内外で高い評価を獲得したドラマ『ハゲタカ』。その続編にあたる劇場版が現在公開中である。

 ドラマ版も劇場版も本当に素晴らしい作品。役者、脚本、音楽、とにかく何もかも全てが良い。おすすめです。

 この作品、タイトルだけ見るとハードなアクションもののようにも思えるが、全く違う。タイトルの由来は、ちょっと前に流行った「ハゲタカファンド」「ハゲタカ外資」の、あの“ハゲタカ”である。

 ハゲタカファンドとは、業績が落ち込んだ企業に目をつけ、株式を大量に取得するなどの方法で経営権を奪取し事業を再興させ、企業価値が再び上がったタイミングを見計らって保有している株、あるいは企業そのものを売却し利益を得る、いわゆるバイアウト・ファンドのこと。だが、一部の企業経営者やマスコミには、彼らの行為がまるで相手の弱みにつけこんで食い物にしているように映ったことから、死肉をついばむハゲタカにイメージを重ね合わせ、誰からともなく「ハゲタカファンド」と呼ぶようになったのである。特にそのファンドが外資である場合、日本人の保守的性格を刺激し、ネガティブなイメージをさらに煽ることになった。

 物語の主人公は、投資ファンドのファンド・マネージャー、鷲津政彦。あらゆる手法と大胆不敵な行動力で次々と企業買収を成功させる彼を、人は「ハゲタカ」と呼んで畏れる。鷲津と買収を仕掛けられた企業側との攻防が物語の軸だ。

 劇中では“TOB”や“ホワイト・ナイト”といったM&Aにまつわる専門用語が頻繁に出てくる。企業名などは当然架空のものだが、明らかに「あの会社のことだな」とわかるような設定ばかり。非常にコンテンポラリーなテーマを持つ作品だ。

 だからと言って、決してお堅い作品という訳ではない。確かにニュースがわかる程度の知識を持っていなければ理解しにくい部分はある。だが『ハゲタカ』は紛れもなくエンターテイメントだ。なぜなら、この作品が描こうとしているのは経済でも金融でもなく、人間だからである。

 鷲津政彦はなぜ「ハゲタカ」になったのか。この作品は、なにより鷲津という一人の人間を掘り下げている。鷲津だけではない。とにかくキャラクター一人ひとりをとことん濃密に描いている。

 この深い人間描写を可能にしているものは、“お金”の存在だ。ただの紙切れが、なぜ時に人を不幸にし、時に人を殺してしまうのか。お金という何の情緒もないものを媒介にすることで、愛や友情を正面切って描いた作品よりもむしろ深く、人間の生の姿が見えてくる。そして同時に、「お金では決して買えないもの」がぼんやりと浮かび上がってくるのだ。

 企業買収をテーマに据えた社会性と時代性、しかし最終的には人間の持つ普遍性を深く追求する骨太で繊細な志、しかもそれらをあくまでサスペンス・ドラマにしてくるんでしまう構成力。どれをとっても『ハゲタカ』は真のエンターテイメントと呼ぶに相応しい作品である。

 主人公鷲津は常に寡黙だ。そしてクールであり、感情を表に出すことがない。能面のままに何百億もの金を右へ左へと動かす彼の姿は、まさに「ハゲタカ」という呼び名そのものであり、金の亡者のように見える。だが本当は・・・なのである。全てがつながった瞬間に、このアンチ・ヒーローが、まったく新しいタイプのヒーローに見えてくる。

2008年大河ドラマ『篤姫』

「幕末」を描かずに
一人の女性の人生を描いた快作


 とても面白く、見応えのあるドラマだった。
 正直に言えば、放映開始前はあまり期待していなかった。まず、少し前の「大奥ブーム」に乗った、安易な商業精神が気に食わなかった。なにより主人公の篤姫という存在が気がかりだった。篤姫は、歴史上特にこれといった功績のない第13代将軍徳川家定の、その正室にすぎない。幕末という日本史の一大転換期を描くには、主人公の人間関係、ドラマの主要な舞台があまりに限定されているため、やがては西郷隆盛や大久保利通、あるいは坂本龍馬といった人物のシーン、つまり主人公不在のシーンが増えて、空疎なドラマになってしまうのではないかと思っていたのだ。
 確かに他の大河ドラマに比べると、主人公不在のシーンは多かった。また、大きな政治的事件もサラッと描かれる程度であり、江戸から明治へ変わる瞬間など、ほとんどナレーションだけで過ぎていった。
 だが、『篤姫』は面白かったのだ。
その理由はとても単純で、「時代」を描くことを最小限に留め、篤姫という一人の個人の「人生」をひたすら丹念に描いたからだ。

 大河ドラマは一年を通して一人(あるいは複数)の人物の生涯を描くのが基本スタイルだ。だが、実際に“描く”ことのできた作品はわずかで、主人公を“追う”だけの作品が大半だったように思う。脚本やキャスティングなどの問題もあるのかもしれないが、最大の原因は「大河ドラマ」であることから生じる、視聴者と制作者双方の期待の大きさではないだろうか。
 大河ドラマは一つのイベントのような感がある。誰を主人公にするのか、キャスティングはどうなるのかといった枠組みに視聴者も制作サイドも盛り上がりがちだ。一人の人物の生涯を描くのが基本とは言え、大河ドラマはこのようなイベント性を帯びた視聴者の関心と期待から免れ得ない。通常の時代劇と違って、なにせ日本最大規模のドラマなのだから無理もない。
 問題は盛り上がった結果、一人の人物の一生を描くという力点が、例えば合戦シーンをいかに細かく再現するかといった単なる映像美、あるいは主人公に感情移入させるために「憂国」「愛」などといった薄っぺらな動機づけなど、安易なエンターテイメント性に走ってしまいがちなところだ。
 これは、主人公の日本史(特に政治史)における存在感の重さと比例する。ヒーローやヒロインはすでに誰もがその生涯を知っているため、ドラマ化する際には前述のような要らざる付加価値が多くなる傾向がある。その点篤姫は、時代の中枢からやや離れたところにいる、いわば傍流の人物であったことで、そのような問題から無縁だったといえるのかもしれない。そういえば、人の一生を描いたという点では傑作だった1987年の『独眼竜政宗』の主人公、伊達政宗も日本史においては傍流の存在だ。次回、09年大河ドラマ『天地人』の主人公、直江兼続もまた極めて傍流の存在だ。

 今月14日に放映された最終回、篤姫が死を迎えたとき、僕は彼女の枕頭でその死を看取った気がした。歴史上の人物としてではなく、一人の人間としての篤姫の一生が、計50回の放送のなかにあったのだと思う。満足感でもなく、達成感でもない、一人の人間の一生を確かに見たのだという、静かな気持ちだった。
 明日26(金)から3夜連続で総集編が放送される。また、完全版DVDも前半にあたる第1集がすでに発売されており、後半の第2集も2月には発売予定。
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