週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【歴史】あの人のゆくえ

「平将門伝説」を実際にたどってみた

今日は軽い歴史ネタを。

10世紀前半に、関東を拠点に中央政権に対して反乱を起こした平将門
天皇や貴族といった権威による支配ではなく、
史上初めて武力という超リアリズムで国家を作ろうとした将門は、
ある意味早すぎた源平、武家政権の嚆矢ともいえる、かなりユニークでインパクト大な存在です。

しかしこの人の場合、そうした生前の業績よりも、
彼の死後に生まれた怨霊やら伝説やらといった数々の「いわく」の方が、
すっかり有名になってしまいました。

将門伝説にまつわる場所は全国にたくさんあるのですが、
そんななかで東京23区内に残る7か所の史跡を訪ねてみました。

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その1:鳥越神社


651年の創建と言われる古い神社。
寺は浅草、社は鳥越」といわれるほど、下町ではなじみの深い古社だそうです。
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鳥越という名前の由来は、源頼義が陸奥に赴任する際に隅田川を越えようとしていたところ、
川面に立つ白鳥を見て浅瀬が分かり、無事に全員が川を越えられたから。
しかし名前の由来にはもう一つ、京都で切り落とされた将門の首が関東まで飛んできて
この神社の上を飛び越えたから、という説もあります。
また、境内のどこかに将門の手が埋められているという伝説もあります。

実際の鳥越神社は、そんなダークな伝説が似つかわしくないほどクリーンな神社でした。
IMG_0629




その2:兜神社


東京証券取引所の裏にある小さな神社。
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名前の由来は、八幡太郎源義家が奥州征伐の際に兜を掛けて戦勝祈願をしたことから。
しかし鳥越神社と同様、ここにももう一つ、
平将門の兜が埋まっているからという説があります。
境内にあるこの兜岩の下に将門の兜が埋まってるらしい。
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ちなみに、神社自体は小さいですけど、このあたり一帯の兜町という地名は、
この兜神社からきてます。
兜町っていったら日本の金融の代名詞みたいなもんですからね。
小さくても存在感は大きい神社です。



その3:将門の首塚


鳥越神社の真上を飛んできた将門の首が落ちてきたのがここ。
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江戸時代、この場所は酒井雅楽頭の屋敷になりましたが、
この首塚は敷地内でもきちんと祀られていたそうです。
ちなみに近代になってから、この場所に官公庁の建物を建設しようとしたところ、
病人やけが人が続出して「将門の祟りだ」と恐れられた…という、
将門伝説の中でも最も有名な「いわく」がありますが…実際はどうなんでしょう?
これらの伝説は全部ウソだったという記事を読んだことがあるんだけど、見つけられませんでした。
真偽はどうあれ、将門が祀られているのは事実なので手を合わせてきました。
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大手町のど真ん中ですが、昼間でも暗くて、なかなか迫力ある場所ですね。
10年以上前、仕事で通りがかった際に初めてこの場所を見つけた時は思わず鳥肌が立ちました。



その4:神田明神


神田明神の祭神に、大国主命(大黒様)と少彦名命(えびす様)と並んで、
平将門が名を連ねていることはどれだけ知られているのでしょうか。
1300年以上の歴史を持つ東京でも屈指の古社ですが、元々は将門の首塚の場所にあって、
それが江戸城拡張の際に現在の場所に移転してきました。
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太田道灌や北条氏綱ら、関東を治めた武士たちは皆、ここで戦勝祈願をしたと伝わっています。
江戸に移封してきた徳川家康もかつて関東統治の元祖である将門を手厚く崇敬し、
その結果、この神社は江戸の総鎮守と位置づけられることになりました。
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明治になると、朝敵である将門を祀るのはけしからん!ということで一時別殿に移されてしまいますが、
昭和59年になって(超最近じゃん!)本殿に戻りました。



その5:筑土八幡神社


昔いた会社がこの近くにあったので場所は知ってはいたのですが、訪れたのは初めて。
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ここは神田川が侵食した武蔵野台地の突端に当たるんですよね。
なので、お詣りするにはかなり急な石段を登らなきゃいけません。
IMG_0656

実はこの筑土八幡神社自体には、将門は祀られていません。
祀られていたのは、戦後までこの神社のすぐ隣にあった津久戸明神
『江戸名所図会』を見ると、確かに2つの神社が隣り合っています。不思議な光景…。
tsukudo

じゃあ現在の筑土八幡神社は全く関係ないじゃないかというと、
実は境内に将門の足が埋められているという伝説もあります。
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その6:水稲荷神社


戦後すぐに計画されたものの、長らく未完成だった環状4号線。
未通区間の一つだった西早稲田〜目白台部分は2017年開通を目指して工事が進んでいます。
(おかげで長らくお気に入りだった神田川沿いのコースが走れない!)
その未通区間の西早稲田側の道路沿いに建つのが水稲荷神社。
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太田道灌が狩りの最中にここで休憩した際に榎を植えたところ、
後にその榎の空洞から水が湧きだしたところから水稲荷と名付けられました。
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源経基がこの神社の神託によって将門を討伐したとか、
藤原秀郷が将門討伐後、この地に稲荷神社を勧請したとか、
将門調伏の謂れが多く残る神社です。

僕が訪れたのは3月の末だったので、境内の桜が満開でした。
P1020224




その7:鎧神社


ここは名前がズバリですが、将門の鎧を埋めたといわれる神社です。
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埋めたのは将門の弟の鎧だったという説もあるのですが、
とにかく将門周辺の誰かの鎧が埋められたというのは事実のようです。

中央線・総武線の線路のすぐ近くにあるんですが、静かで美しい神社でした。
ちなみに境内には鎧保育園という名の保育園があります。
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さて、以上7か所になるわけですが、
全ての場所を一つの地図にプロットすると、こうなります。
↓↓↓

赤:鳥越神社
オレンジ:兜神社
紫:将門の首塚
黒:神田明神
緑:筑土八幡神社
水色:水稲荷神社
ピンク:鎧神社



そしてこの7か所を線で結ぶと…

このように、きれいに北斗七星の形になります。

うおおお〜!ってなりません?

これは偶然ではなくて、将門の霊力によって江戸の町を守護しようと考えた天海僧正(家康のブレーン)が、
将門ゆかりの場所を、彼が祀っていた妙見菩薩のシンボルである北斗七星の形に揃えた
といわれています。
実際、この7か所は江戸の主要街道の出入り口にあたるので、
かなり計算されて配置されてるようです。


うんちくをもう一つ。

将門の子孫はその後、現在の千葉県に入植して千葉氏を名乗ります。
はるかに時代が下って江戸後期、千葉市の末裔を名乗る一人の剣客が、江戸に道場を開いて隆盛を極めます。
千葉周作です。

彼が開いた流派の名は北辰一刀流
この北辰というのは北極星のことですが、
実は北極星を神格化した神様というのが、妙見菩薩なのです。
おおお〜、つながる
ちなみに、鳥越神社の宮司は千葉氏の末裔が務めているそうです。

…と、まあ知ってる人にとっては今さら過ぎるネタではあります。
ただ、実際に自分の足で回ると、
見慣れた東京の風景に「将門」というレイヤーがかかり、全く別の景色が見えるような気がしました。

※次回更新は8/18の予定です




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「ファミリーヒストリー」を調べてきた 〜後編〜

前回の続き。
祖父の葬式で自分のルーツの一つが岡山県高梁にあることを知った僕は、
昨年、大叔父の案内で同地を訪れました。
一度も行ったことのない街なのに、そこが自分の「故郷」だった。
その衝撃は、僕に「もっと家族の歴史を知りたい」と興味を抱かせました。

そして今年、そんなファミリーヒストリーをさらに明らかにできる、絶好の機会がやってきました。
大学で歴史を研究しているいとこ叔父(親のいとこ)が、
先祖の記録が書かれた昔の書物を見に行かないか」と誘ってくれたのです。
なんですか、その激しく心惹かれるお誘いは。

訪れたのはここ。
立川にある国文学研究資料館
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ここに、僕の先祖のことが載っている史料、
備中松山藩の『松山御家中由緒書』が眠っているらしいのです。

江戸時代、各藩は定期的に、家臣全員の家の歴史(由緒)をまとめて、文書に残していました。
そこには当代の家臣一人ひとりについて、
親は誰で祖父は誰で、代々どんな仕事をしていて…というような情報が、恐ろしく細かく書かれています。
当時、武士の給料(禄)は、本人の能力だけでなく、
それまでの祖先の功績に対して、つまり「」に対して支払われていました。
先祖の経歴がこと細かに書かれた「由緒書」は、いわば家臣たちの給与明細なのです。
(給与明細が200年以上も保管されて、しかも閲覧自由状態というのもすごい話です)

国文学研究資料館は、江戸時代初期に刊行された『太平記』や、
16世紀初頭に冷泉家が書写した『古今和歌集』など、大量の史料が所蔵されている、
歴史好きにとってのディズニーランドのような場所です。
#所蔵資料一覧はコチラ
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※館内は閲覧目的以外の撮影は禁止なので、写真はここまで

館内には、図書館のように書架に並べられている史料もあるのですが、
今回僕らが調べる大名家文書のように古いものについては、
事前に申請して、当日係の人が奥から運んできてくれるというVIP待遇システム。
おれ、研究職でも何でもないただのサラリーマンなんだけどいいんだろうか。

箱と包装で何重にも守られた『松山御家中由緒書』は、全部で2種類ありました。
一つが安永8年(1779年)に、もう一つが文政9年(1826年)に編纂されたもの。
それぞれが10冊前後で構成されていて、1巻からイロハ順に、
当代の家臣の名前に家系、家の出自、代々の当主の経歴なんかがズラッと書かれています。
まるで辞典のように機能性重視で編集されているところが、いかにも行政書類っぽくて生々しいです。

載っている情報がやけに多い人もいれば、ほんの数行で終わっちゃう短い人もいて、
「この人はめちゃくちゃ功績があるんだろうか」とか、「この人は登用されてまだ日が浅いんだろうか」とか、
書き込みの量を眺めているだけでも想像が膨らみます。

そして、本当に載ってました、僕のご先祖様の名前。
記述によるとウチの家祖(!)は、板倉家が高梁に移封される前、
まだ伊勢亀山藩の藩主だった時代に登用されたそうです。
寛永19年(1642年)生まれと書いてあるので、おお、400年も前なのか。

家祖様(と言えばいいんだろうか)は仕舞(略式の能)が得意だったらしく、
当時の板倉家の殿さまの前で踊りを披露したことがきっかけで登用されたと書いてあります。
一介の浪人身分だった家祖様が、小藩とはいえ譜代大名の板倉家当主にお目見えできたのは、
どうも亀山藩に縁のある旧知の知人数人を巻き込んで、彼らに仲立ちを頼み込んだからのようです。
コネやツテをフルに使って這い上がろうとする、かなりガッツのある人だったのでしょうか。
でも、この人がこの時チャンスをモノにしたおかげで今の僕があるわけですから、
そのアグレッシブさに感謝しなくちゃいけません。



…にしても不思議な感じです。
400年近くも前の家族のことを知るというのは、脇腹をゆっくりくすぐられるような、妙な気分です。
普通に暮らしているだけでは、家の歴史なんて、せいぜい曽祖父母の代くらいまでしか遡れません。
でも、今回それをさらに遡って知れたことで、
自分に流れている血が延々と受け継がれてきたものだということを、ものすごくリアルに感じました。
そして、自分もまた次の代へ継いでいく一人になることも。

とはいえ、こうして知ることができたのは、板倉家が史料を残し、それを国文学研究資料館が保管し、
そして偶然にも大叔父といとこ叔父が僕を導いてくれたからです。
僕のご先祖様が、公式に記録を残される武士という身分だったという幸運もあります。
家の歴史を知ることが自分のアイデンティティを豊かにしてくれる。
そのことを痛感する一方で、僕は「自分のルーツ」を辿る道が、いかにか細いものかも感じました。

高梁にある「ご本家」は(縁が遠いので詳細は分からないものの)、現在は当主不在のようです。
そして今年、祖父の後を追うように亡くなった祖母の実家も、
(そちらもわりと大きな武家の出なのですが)今は誰が家を継いでいるのか不明だそうです。

家(苗字)が戸籍から無くなること自体は、歴史が生み出す一種の自然淘汰なので、
過剰に嘆く必要はないと思うのですが(嘆いたところで僕にはどうしようもないし)、
その家が抱えていた歴史」が散逸してしまうのは、もったいないなあと思います。
とりあえず僕は、今回偶然知ったファミリーヒストリーを記録に残し、整理して、
次代の誰かにそれを伝えることにします。

--------------

2015年の記事は今回で最後です。
今年は秋に劇団の公演があったので途中更新が空いたりしてしまったので、
来年はリカバリするぞ!…と思っていた矢先、
11月に亡くなった祖母と入れ替わるように、娘が生まれました。
来年は子育ての合間を縫って(なるべく)更新します。
2016年もよろしくお願いします。




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「ファミリーヒストリー」を調べてきた 〜前編〜

2年前の秋、89歳で亡くなった祖父のお葬式で、
祖父の弟(つまり僕にとって大叔父さん)という人に会いました。
本当はそれまでにも何度か会ったことはあるはずなのですが、
地方に住んでいる大叔父と顔を合わせる機会など滅多になく、
彼を大叔父だと認識したのは、それが初めてでした。

葬式の後、精進落としの席で、
大叔父から祖父の家の話をたくさん聞きました。

祖父がバリバリのスポーツマンで、それもテニスや乗馬なんていう、
当時からするとものすごくハイカラな競技にのめり込んでいたこと。

祖父の父(つまり僕にとっての曽祖父)が若い頃、
東海道歩きにチャレンジし、全行程を踏破していたこと。

このブログでも書いているように、
僕も今、東海道を全て走りきる「東海道ラン」を続けています。
実は僕の叔父も東海道を制覇していて、彼もそれをブログに書いています。
そして曽祖父も、(残念ながら紛失してしまったのですが)旅の様子を絵日記に残していたそうです。
わずか4代の間に、家族の中から3人も東海道を歩く(走る)人間が出てきて、
しかも全員日記を書いているだなんて、やっぱり遺伝なんだろうかと笑いました。

しかし、大叔父の話の中で最も驚いたのは、祖父が岡山の出身だったことでした。
祖母が岡山の出ということは知っていたのですが、
祖父自身も岡山の人間だったなんて、僕はそのときまで知りませんでした。
祖父母がともに岡山の人間ということは、
僕の体に流れる血の半分は岡山の血ということになります。
つまり、僕は岡山のハーフだったのです。

それまで一度も訪れたことのない土地なのに、そこに自分のルーツがある。
その事実はかなり衝撃的でした。
しかし、ネガティブな衝撃などではなく、むしろ「自分の知らない自分」を知ることに、
くすぐったいような嬉しさがありました。

そのときから、僕は「家族の歴史」に興味を持つようになりました。
大叔父は、そんな僕の好奇心を歓迎してくれました。
そして翌年のGW、わざわざ岡山を案内してくれたのです。

向かったのは岡山県高梁市
もちろん行くのは初めて。
街の名前すら聞いたことがあるかないか程度の、
つまりはこれまでの人生で一度もかすりもしなかった土地です。
takahashi_map

江戸時代、高梁は備中松山藩の城下町でした。
備中松山藩は江戸時代を通じて何度か藩主が入れ替わっていますが、
最後に藩主となったのが、18世紀に転封してきた板倉家です。
僕の祖父の家は、その板倉家の家臣でした。

高梁は静かでこじんまりとした街でした。
けれど、現在も水路として街の中を流れる城の外堀の跡や、
その周囲に広がる整然とした町割りには、
かつてここが城下町だったという名残を色濃く残しています。
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当時の武家町には今でも塀と門を構えた大きな家が並んでいます。
もちろん、建物自体は何度も建て替えられているのでしょうが、
当時の雰囲気もそう変わらないだろうという気がしました。
そのくらい、静かで時間の流れ方がゆっくりとした街なのです。
IMG_1156

僕のご先祖様の「ご本家」も、この武家町のなかにありました。
そして、近所のお寺の墓地には、僕から数えて6代前の家族たちが眠っていました。
お墓に手を合わせながら「本当にここに住んでたんだ」という感慨と、
初めて訪れた場所で、初めて知った家族に向かって手を合わせることの不思議さを感じました。

僕の遠い家族たちも、武家町のどこまでも高い塀が続く道を歩いたのでしょうか。
そして、備中松山城の、あの長く険しい坂を(日本一標高の高い場所に天守閣をもつ城だそうです)、
汗をかきながら登ったのでしょうか。
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IMG_1167

自分のルーツがここにある。
実際に高梁を訪れても、なかなかその実感までは湧いてきません。
しかし代わりに、「もっと知りたい」という欲求が湧いてきました。
30歳を過ぎるまで訪れたことはおろか、気に留めたことすらなかったこの小さな街と、
ここで暮らしていた、会ったことのない僕の家族について、
「もっともっと知りたい」という興奮を覚えながら、僕は帰途に着きました。

…んで、2015年。
そんな「家族の歴史」をがっつりと知ることのできる、絶好の機会が訪れたのです。
(後編へ続く)




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「大久保さん」の足跡を訪ねて 〜後編〜

今から約140年前、近代国家として産声を上げたばかりの日本において、
内務省という強力な権力機構を築くことで、
果敢にかじ取り役を務めた大久保利通。
東京に残る大久保さんの足跡を訪ねた記録の、後編です。
※前編はこちら


◆紀尾井坂

大久保さんの生涯は、暗殺という形で幕を閉じます。
1978年(明治11年)5月14日。
享年47歳でした。

暗殺の場所となったのは、現在の紀尾井町。
大久保さん暗殺事件は教科書などでは「紀尾井坂の変」と呼ばれますが、
実際の現場となったのは、ホテルニューオータニ前の路地だったと言われています。

大きな地図で見る

大久保さんは朝、自宅から馬車に乗って赤坂御所へ向かうところを襲われました。
このあたりは当時、一面の桑畑だったそうです。
路地の後ろはお堀(弁慶濠)。
さらに、紀尾井坂と清水谷坂に分かれるT字路の他に横道のない一本道だったことから、
暗殺者たちにとっては格好の待ち伏せ場所になったようです。

手を下したのは、島田一良以下、石川県士族6名。
斬奸状には、国会の開設や政府権力者の腐敗是正などを一向に改めない、
政府の専制に対する非難が書かれていました。

暗殺現場となった通りの、現在の様子です。赤坂見附側(お堀側)から見たところ。
IMG_0682

奥の突き当りを左に曲がったところが紀尾井坂。
上れば赤坂御所は目と鼻の先になります。

現在、この通りと赤坂見附との間には弁慶橋がかかっていますが、
当時は橋はなく、大久保さんは赤坂御門(現在の半蔵門線永田町駅付近)側から迂回して
御所に通っていたと思われます。
殺される日も、上の写真の視点と同じように、
手前から奥に向かって馬車に揺られていたのでしょう。

歩いてみるとわかるのですが、
紀尾井坂のあたりは上智大学側の丘(外濠の土手?)と麹町の高台に挟まれた谷間になっていて、
霞が関方面から赤坂御所(四谷方面)へ赤坂御門経由で抜けようとすると、
一度大きく坂を下って、その後に今度は上らなければいけません。
暗殺現場の路地はいわば谷底にあたり、今でこそ道沿いは開けているものの、
当時はなんとなく暗く湿った通りだったんじゃないかという気がします。

通りをまっすぐ進むと、突き当りの右側に、清水谷公園があります。
この中に、大久保さんの哀悼碑が立っています。
IMG_0683

これ、写真じゃ伝わりづらいのですが、目の前に立つと圧倒されるくらい、デカいです。
IMG_0684

こんな巨大な慰霊碑って見たことない気がする。
あまりのデカさに呆然としつつ、手を合せました。


◆赤坂御所

清水谷公園を後にして、大久保さんが向かうはずだった赤坂御所を目指します。
現在の紀尾井坂。
IMG_0686

かなりの斜度の坂で、確かに馬車にでも乗らないと毎日出勤するのは大変そうです。

当時大久保さんがどういうルートで通っていたのかはちょっとわかりません。
僕は四谷駅をグルッと回って赤坂御所、現在の迎賓館の正面に出ました。
IMG_0688

赤坂御所は、元々は御三家の一つ、紀州藩の藩邸があった場所で、
維新後、仮の皇居にあてられていました。
大久保さんは数日に一度のペースで、
天皇に拝謁しに赤坂御所へ足を運んでいたそうです。


◆青山霊園

そして、この日最後に向かったのは、青山霊園。
大久保さんのお墓があるところです。

青山霊園は敷地が大きく、中は迷路のように入り組んでいるので、
事前にネットで大久保さんのお墓の場所を調べていきました。
(参考にしたのはこちらのサイト

大久保さんのお墓は、敷地内を十字に走っている道路のうち、
青山通りから入った道沿いにあります。
わりとすぐに見つけることができました。
IMG_0689

決して大きなお墓ではないものの、
訪れる者の気持ちをピリッとさせる、
静かな風格があります。
本や資料で知る大久保さんのイメージに相応しい雰囲気をもつお墓です。

本当は、お墓を写真に収めるのは無礼だなあと思ったのですが、
心の中でお断りをして、撮影しました。
やっぱりというか、この日訪れた場所の中では、
このお墓が一番グッとくるものがありました。




前回、「大久保さんに惹かれている」と書きましたが、
僕の場合は政治家、実務家としての大久保さんに憧れているのではなく、
すごく単純に、その「人となり」に興味があります。

「大久保さんの前に出ると威厳に打たれて汗が噴き出た」とか、
「笑ったところはおろか、喋ったところすら見たことがない」とか、
生前親交があった人が語る大久保さんの人間像は、
どれもが相当ファンタジックです。
人というよりも、なんだか「岩」とか「山」みたいです。
同郷の西郷さんをはじめ、規格外の「陽」の性質をもった人間は歴史上たくさんいますが、
「陰」あるいは「静」のベクトルで規格外の人というのは、
大久保さん以外にはなかなか見当たりません。

スター的資質を持たないのに、歴史に圧倒的な存在感を放つ大久保さん。
その大久保さんは、実際、評価通りの人だったのか。
もし会ったとしたら、やはり僕も威厳に打たれて背中に汗をかくのだろうか。
大久保さんのキャラクターに僕は、秀吉とか龍馬とかよりも強く、
「一度でいいから会ってみたい!」と思わせる磁力を感じます。






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「大久保さん」の足跡を訪ねて 〜前編〜

去る5/14は、明治維新の立役者にして日本の初代内務卿、
大久保利通の命日でした。

大久保さんは薩摩(鹿児島)の生まれで、
西郷隆盛と共に幕末期の薩摩藩のリーダーとして活躍します。
西郷さんが他藩との外交や軍の指揮官を務めた「表方」だとすれば、
大久保さんは、朝廷工作や事務処理といった裏方の仕事を担当した「縁の下の力持ち」的存在。
維新後も、西郷さんは途中で政府を辞めて鹿児島に戻りますが、
大久保さんは東京に残り、近代国家としてスタートしたばかりの日本の制度整備に奔走しました。

西郷さんと比べると地味な印象をもたれがちですが、
さまざまな困難や批判にめげずに裏方仕事を続けた大久保さんに、僕はとても惹かれます。
(なので、敬意と親しみを込めて「大久保さん」と呼びます)

命日直前のGW、僕は現在の東京に残る大久保さんの足跡を訪ねました。


◆旧内務省跡

大久保さんの東京時代の足跡というと、
ほとんどが維新後に限られます。
その代表的なものが、旧内務省跡。

内務省というのは、1873年(明治6年)に設立された官庁で、
地方行政・土木・勧業・警察の全てを所管していたという、
(財務省、法務省、文部科学省以外の全部、みたいなイメージ)
今では考えられないような、権力のほとんどを一手に握っていた組織でした。
明治4年から2年にわたる欧米諸国への外遊で、
日本の遅れを肌で痛感した大久保さんは帰国後、
権力の集中によって近代化のスピードアップを図ろうと考え、内務省の設立を建言。
自ら初代内務卿に就任しました。

内務省時代の大久保さんのエピソードには、
「大久保さんどんだけすごいんだよ」みたいな話がたくさん出てきます。

例えば、前島密(日本の郵便行政の基礎を作った人)の談話。
大久保さんは、何かこう人をギュッと緊張させる威厳というものを全身から発している人物だったらしく、
大久保さんが出仕すると、自然と内務省全体が粛然とした空気になったそうです。
大隈重信や伊藤博文、普段は無駄口ばかり叩く西郷従道といった、
革命の戦火をくぐってきた猛者ですら、
大久保さんの前では自然と遠慮してしまっていたと語っています。

大久保さんは、当時の日本人にしては背が高く(175cmくらいだったそう)、
長い髭をたくわえ、おまけに「喋ったところを見たことがない」と言われるほど寡黙な人でした。
部下が仕事の相談をしにやってきても、
大久保さんは長身の身を椅子に沈め、髭をピクリとも動かさず、
ただじーっと話を聞いているだけなもんだから、
部下もだんだん焦ってきて、当初言おうと思っている以上のことを洗いざらい話してしまうんだとか。
「あの人の前に出るとヤバかった」的な発言は、
前島密に限らずいろんな人が異口同音で証言しています。

そんな大久保さんですが、だからといって独裁者的だったわけではなく、
むしろ、仕事はどんどん部下に任せて、
「責任は俺が取る」とだけ言って後は自由に仕事をさせたそうです。
内務省で養蚕業の近代化の責任者を務めた佐々木長淳の談話によると、
大久保さんは「西洋のやり方に固執せず、日本独自の製糸業を模索しなさい」と、
一切の権限を佐々木に任せて仕事に当たらせたそうです。

また、佐々木は元越前福井藩士、前島密については農家出身の元幕臣と、
同郷の薩摩藩出身者をひいきせずに広く人材を登用した点も、
当時の政府官僚の中では異例といえます。
非常にリベラルな感覚をもっていたんですね。




前置きが長くなりました。
肝心の内務省があった場所ですが、
皇居のすぐ隣、現在の内堀通りに面した一角に建っていたそうです。


大きな地図で見る
ここは江戸時代、姫路藩の上屋敷があった場所で、
維新後、明治政府に接収され、大蔵省として機能していました。
官庁としては後発だった内務省は、しばらくここに間借りしていました。
(後、昭和8年に霞が関に移転)

で、行ってみたのですが……



IMG_0644

なんか工事してる!
ここって確か三菱だったかりそなだったか、
銀行系のオフィスビルが建っていたんじゃなかったっけ。
ビルでも公園でも、せめて何かしら建っていれば、
対比することで140年前の情景に思いをはせることもできるのに、
この状態じゃあさすがにそんな余地はありません。



でも、よく見てみると、前の歩道に小さい説明板が立っていました。



IMG_0642

文字、薄っ!
かろうじて読めますが、もうちょっとメンテナンスしてほしいなあ。
歴史が風化していくまさに最前線をモロに見てしまった気がして、
なんだか初っ端から物悲しい気持ちになってしまいました。





◆自宅跡

気を取り直して、次へ行きます。
次に向かったのは、大久保さんの自宅跡。
多分、東京時代の大久保さんは、そのほとんどを内務省と赤坂御所(現在の赤坂迎賓館)、
そして自宅で過ごしていたんじゃなかろうかと思います。

ただ、内務省と赤坂御所の跡地はわりとすぐに調べられるのに対し、
大久保さんの自宅の住所については、さっぱり情報がない。
「裏霞が関にあった」「麹町三年町にあった」というざっくりした記述は見つかるものの、
具体的に史跡になっていたり、碑文が立っていたりするわけではなく、
資料を見ながら自力で探し当てるしかありませんでした。

ヒントになったのは、『大久保利通』(佐々木克監修/講談社学術文庫)に収録されている、
大久保さんの三男、大久保利武の談話。
この中に
「(裏霞ヶ関の)今のベルジック(ベルギー)の公使館、あれが元の家でお粗末な西洋造りでした」
という発言を見つけました。

調べてみると、確かに当初1870年(明治3年)に品川に建てられた駐日ベルギー大使館は、
一度横浜居留地に移転した後、1893年(明治26年)に霞ヶ関に引っ越しています。
しかし、肝心の住所が分からない。

どうしようかなあと何気なくWikipediaを見ていたら、
大久保さんの自邸について「(旧丹羽左京大夫邸及び旧佐野日向守邸跡、後にベルギー公使館)」という記載が。
まさかWikipediaに救われるとは…。
よく「Wikipediaはウソが多い」なんて言われますが、
今回のケースの場合、「ベルギー公使館」というヒントは別資料で既に得られているわけですから、
古地図上で「旧丹羽左京大夫邸及び旧佐野日向守邸跡」を調べて、
その位置が明治後期の地図で「ベルギー公使館」の位置と重なれば信憑性も担保できます(多分)。

早速、江戸と明治と現在、3種類の地図を探しました。
んで、どうやら「ここだろう」と思われるのが、以下の場所。
国会議事堂の脇、現在衆議院第二別館が建っている場所あたりだろうと思われます。


大きな地図で見る


このあたり、明治の初めころは「麹町区三年町裏霞ヶ関」と呼ばれていました。
三年町の地名は、現在は三年坂という坂の名前に残っています。
IMG_0673

財務省、文部科学省、金融庁という官庁街のど真ん中を走るこの三年坂を上りきったところが、
かつて大久保さんの自宅があった場所です。


多分、ここ。
IMG_0679


三年坂の方から。
IMG_0675

IMG_0676



内務省跡と同様に、ここにも当時の様子をうかがえるものは残っていません。
ですが、「ここでご飯を食べ、寝起きしていたのだ」という肌感覚から広がる想像は、
内務省よりもずっと、大久保さんを身近に引き寄せます。
しばし呆然としました。

職場ではムッツリと黙って、威厳によって人を圧倒した大久保さんですが、
自宅ではうってかわって、とても子煩悩ないいパパだったそうです。
次男の牧野伸顕は「一度も怒られたことがない」と語っています。
出勤前は幼かった長女の芳子を抱いて離さず、
また、どんなに忙しくても、週末は必ず家で家族と夕食を食べるようにしていたそうです。
このあたりのエピソードは「大久保利通」というパブリックイメージからするとかなり意外で、
なんだか親近感が湧いてきます。

次週後編では、
大久保さんの終焉の地となった紀尾井坂と、
青山霊園のお墓を訪ねます。







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