週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【歴史】こんな所へ行った

【東海道ラン】10日目:島田〜掛川

 東京の日本橋から京都の三条大橋まで、旧東海道550kmをガチで走る「東海道ラン」。

 前日は静岡の島田宿まで走りそのまま一泊。迎えた本日10日目は、掛川宿まで走ります。
(前回まではこちら)
#0日目:ルールと計画編
#1日目:日本橋〜川崎
#2日目:川崎〜藤沢
#3日目:藤沢〜小田原
#4日目:小田原〜三島
#5日目:三島〜吉原
#6日目:吉原〜江尻
#7日目:江尻〜府中
#8日目:府中〜藤枝
#9日目:藤枝〜島田

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(24)金谷宿へ



 朝6時、昨日訪れた大井神社前からスタートです。夜中に雨が降っていました。今はギリギリ止んでいます。
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 まずは1kmほど先の大井川を目指します。次の金谷宿は大井川の対岸にあります。島田宿と金谷宿は、大井川をわたる旅人の警戒と川止め時の逗留場所として東と西の両岸で栄えた、いわば双子の宿場だったんですね。



 道路わきの用水路。
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 神社の境内にある用水路もそうだったんだけど、なぜか水が乳白色をしています。石灰分が多く含まれているせいなんだろうか。



 やってきました、大井川。江戸時代は、川越人足に担がれたり背負われたりして渡るしかなかった大井川ですが、今はこの大井川橋で渡ることができます。
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 かつては、たびたび増水して旅人を足止めさせた難所でしたが、今はどうなんですかね。この日の水量はこんな感じ。きわめて少ない。
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 わたり切りました。ほぼ1km! たぶん、この旅始まって以来最長の橋でした。
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 旧東海道は、県道から1本南側に入った細い道。
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 島田宿と同様に、かつては金谷宿側のこちらにも川越人足たちの待機する番宿があったそうです。
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 大井川鐡道の線路をわたります。
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 と、ここで「模範的」といってもいい蓋暗渠を発見。
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 写真に収めずにはいられませんでした。



 大代川をわたります。ここから2kmほど下流で大井川に合流する小さな川です。
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 もう1本川をわたります。こちらは清水川。橋の手前で2つの小河川が合流しています。水好きにはたまらない光景
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 この先わずか300mほどで、先ほどの大代川に合流する超短命な川ですが、大井川という一級水系に属するので一級河川に指定されています。ちなみに「清水川」という川は全国に50本以上あります。川の世界の「鈴木さん」「佐藤さん」みたいなものか。



 金谷の中心街に入ってきました。旧東海道がそのまま町のメインストリートになっています。早朝なので誰もいないけど、小さな商店が並んでいて、これまでいろんなところで見てきた宿場町独特の雰囲気を確かに感じます。
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 そして到着しました。金谷宿の本陣、柏屋本陣です。メインロードのちょうど真ん中あたりにあって、今はJAの建物になっています。
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 江戸幕府が宿場を整備した当初から本陣を任されていた土地の名家だったそうですが、火事や地震などの天災に何度も苦しめられた歴史があるそうです。

 ということで金谷宿に到着です。

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(25)日坂宿へ



 続いて向かう日坂宿までは、山を一つ越えなくてはなりません。「小夜の中山」と呼ばれる峠は、東海道有数の難所として知られています。金谷宿本陣を過ぎると早くも道はゆるやかな上り坂に。
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 坂を上りきったところにJR東海道本線と大井川鐡道大井川本線の金谷駅があります。その手前にあるのが金谷一里塚。日本橋から53番目の一里塚です。
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 金谷駅には東海道線が停まっていました。大井川鐡道のほうは、この金谷駅が終点になります。
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 金谷駅を後にして、さらに傾斜を増した坂道に挑みます。東海道の難所の一つ「小夜の中山峠」への上り坂は、すでに始まっています。
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 金谷駅からわずか5分でこの高さまで登ってきました。雲間から太陽が。
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 そして出ました!石畳!これが難所として有名な金谷坂です。
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 オリジナルの石畳はわずかしか残っていなかったところを、30年ほど前に地元の人たちの手によって復元されたそう。坂のスタートにはトイレなんかも整備されていて、地元の人の歴史を大事にする姿勢に頭が下がる思いです
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 急な石畳は500mほどでおしまい。上りきるとそこには一面の茶畑が広がっていました。
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 そうか、このあたりはお茶の生産で有名な牧之原台地の一部なんですよね。



 と、ここで諏訪原城跡という史跡と遭遇。ちょっと寄り道してみます。
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 諏訪原城は天正元年(1573年)、武田勝頼が遠江攻略のために家臣・馬場信春に築城させた山城で、曲輪や井戸などの遺構がほぼ完全な形で残っていることから、国指定文化財になっています。

 なかでも圧巻だったのが空堀
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 これは外堀の一部なんだけど、このデカさと深さ!ほとんど谷です。
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 洗練された都市部の城では感じることのできない、人をガチで殺してやろうという意図が生々しく感じられて、背筋がヒヤッとしました。なかなか見ごたえあります、諏訪原城。



 東海道ルートに復帰しました。ここからは一転、下り坂です。
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 菊川坂と呼ばれる坂で、こっちの石畳は江戸時代後期のものが現役で残っています。
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 景色もいい。
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 坂を下りきると、間の宿(あいのしゅく)菊川宿に到着。
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 紛らわしいのですが、この菊川宿は、JRの駅がある静岡県菊川市とは関係ありません。菊川宿は島田市菊川。19世紀の終わりに明治政府が鉄道を敷設する際に、なぜか菊川駅(当時は堀ノ内駅)だけは旧東海道から5kmも離れた場所に作ったため、現在では「菊川」といえばJRの駅のほうを指すようになってしまいました。

 ですが、地名のオリジナルはこっちの菊川宿。『吾妻鏡』の時代から名前が確認できるほど古い歴史があり、鎌倉末期には京都で捕らえられて護送される日野俊基が、この地で歌を残しました。
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 菊川宿を過ぎると、道は再び上り坂に。小夜の中山はまもなくです。
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 沿道は相変わらず茶畑。
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 かなりの傾斜です。
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 坂を上りきったところにあるのが真言宗の久延寺(きゅうえんじ)。
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 このあたりが小夜の中山の頂上付近です。標高は250m程度とたいしたことないのですが、一つひとつの坂が急なのと、上ったり下りたりを何度も繰り返さなくてはならないので、けっこう体力を使います。たしかにこれは難所。



 ところで、小夜の中山といえば有名なのが、この久延寺の境内にある「夜泣き石」。
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 小夜の中山に住んでいた妊婦の魂が宿ったといわれる石で、生まれたばかりの赤子の代わりにこの石が泣き声を出して助けを求めたという伝説が残っています。

 ややこしいのですが、実はこの久延寺にある石は「レプリカ」です。本物の夜泣き石は明治時代に東京に運ばれて見世物にされるのですが、帰ってくる途中にどういうわけか、ここから北へ1kmほどいった国道1号線の沿道に置かれてしまいました。

 

 さて、道はゆるやかな下りへ。小夜の中山を越したのであとは下るだけです。
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 途中、佐夜鹿(さよしか)の一里塚を見かけました。
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 さらに下ると、夜泣き石跡を発見。
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 道が一部谷のようになっていた場所の、その底あたりにありました。先ほども出た夜泣き石ですが、元々はここにあったんですね。



 下り坂は最後は急に。国道1号線の高架をくぐれば、まもなく日坂宿です。
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 日坂宿へ入りました。右に見えるのは秋葉常夜灯
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 日坂宿はこれまでに何度となく火災にあってきました。そのため火除けにご利益があるといわれる秋葉信仰が盛んななんだそうです。



 そしてここが本陣跡。
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扇屋」という屋号をもつこの本陣は、江戸時代が終わってからも地域の小学校として使われていたそうです。

 ということで、25番目の宿場、日坂宿に到着です。

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(26)掛川宿へ



 今日のゴールである掛川宿目指して日坂宿に別れを告げます。ここが宿場町の端っこ。高札場と下木戸がありました。
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 宿場の出入口は防備のため、木戸がもうけられたり道が枡形になっていたりするケースが多いですが、日坂宿の場合はさらに逆川という天然の要害も利用していたようです。
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 宿場を出るとすぐに出会うのが事任八幡宮。「ことのままはちまんぐう」と読みます。遠江国の一宮で、2世紀終わりに建てられたというめちゃくちゃ古い神社です。
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 旧東海道ルートは県道415号線に沿って進みます。先ほど日坂宿の手前で交差した国道1号線の高架を、ここで再びくぐります。
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 1号線を過ぎたところで伊達方(だてがた)の一里塚を発見。
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 ルートはいったん415号線の脇道にそれて、
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 再び415号線に合流。
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 このパターンをしばらく何度か繰り返します。



 でも、それも本村橋の交差点でおしまい。ここからは左の脇道で一気に掛川市内を目指します。
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 ほどなく逆川をわたります。日坂宿の外れでわたったときはまだ山から出てきたばかりの細い渓流だったのに、いつのまにか護岸工事もしてもらえるような立派な都市河川になって…。
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 川の対岸に葛川の一里塚がありました。今回の旅では最後の一里塚です。
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 逆川をわたると、いよいよ掛川の町に入っていきます。実際、江戸時代もこの川が町の境界線であり、渡ったあたりに門があったそうです(そう考えると、逆川というのは日坂宿と掛川宿、2つの宿場の境界線を担っていることになるわけか)。

 んで、川をわたって門(今はありません)をくぐったところに、掛川独自の防備のための仕掛けがありました。それが「七曲り」(看板が見切れててすいません)。
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 文字通り、道を7回曲げています。本来は直線で済むところを、わざと道を曲げることで大軍の侵入を阻む仕掛けは、これまでの宿場でもたくさん見てきましたが、7回というのはさすがに初めてですね。

 では行ってみます。まず1個目の曲がり角。
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 2個目。今は普通の住宅街ですね。
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 3個目。
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 4個目。
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 5個目。ここは小さな枡形になってますね。
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 6個目。
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 そして最後、7個目。かつてはこのあたりに木戸と番所があったそうです。いやあ、七曲りしつこい!
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 城下町に入ってきました。
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 小さな川をわたります。先ほどの逆川が掛川城の南を流れており、そこから分流している無名の川なのですが、雰囲気的にはかつて堀だったように見えます
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 ちなみに逆川は、掛川城の天然の内堀になってます。2つの宿場の境界線として機能し、さらに城の内堀としても働く。逆川、すごいです



 そして見つけました。本陣跡。このあたりにかつて連雀沢野屋という屋号で本陣が構えられていたそうです(掛川宿にはもう1軒本陣があります)。
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 いまは「本陣跡通り」という飲み屋街になっているようです。歴史と現代の生活とを結びつけるこういう利用の仕方、いいですね
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 これでゴールですが、せっかくなので掛川城に上ってみることにしました。
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 天守に上ると掛川の町が一望できます。新幹線で通るたび「こじんまりしたいい町だなあ」と思ってたんですよね。
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 こちらが東側。こっちの方向から延々走ってきました。
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 そしてこっちが西側。つまりこれから走る方角です。ずっと向こうに浜名湖があるんだなあ。
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 ということで掛川宿までたどりつきました。次回(いつできるんだろう…)は浜松宿を目指します。浜松までたどりつけば、長かった静岡県もいよいよ終わりが見えてきます。





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【東海道ラン】9日目:藤枝〜島田

東京の日本橋から京都の三条大橋まで、
旧東海道550kmをガチで走る「東海道ラン」。

前回、府中宿から藤枝宿まで走ったのは2015年8月のこと。
その後、子育てやらなにやらで3年もブランクが空いてしまいましたが、ついに再開します!
うおおお!!

(前回まではこちら)
#0日目:ルールと計画編
#1日目:日本橋〜川崎
#2日目:川崎〜藤沢
#3日目:藤沢〜小田原
#4日目:小田原〜三島
#5日目:三島〜吉原
#6日目:吉原〜江尻
#7日目:江尻〜府中
#8日目:府中〜藤枝

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(23)島田宿へ



2018年11月、久々に東海道新幹線「こだま」に乗って静岡駅へ。
東海道線に乗り継いで、藤枝駅に降りたのは午後1時半。
駅のロータリーから1kmほど北へ向かうと、
前回ゴールした青木交差点が見えてきました。
こないだは写真奥の道を手前に向かって走ってきたのでした。

うおおお!
藤枝よ、私は帰ってきた!
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旧東海道ルートは住宅街へ。
ああ、何の変哲もない道を、かつての風景を想像しながら走るこの感じが懐かしい。
ちなみに、写真に映ってる松は旧東海道の風景を再現したものらしいです。
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道端に石柱が現れました。
田中藩と掛川藩の境界を示したものです。
ここから先は掛川藩の藩領。
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再び石柱出現。
細い道ですけど、これが「古東海道」と呼ばれる、
旧東海道よりもさらに昔の時代の東海道の跡だそうです。
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緩やかな坂道になっていますが、ここから先は「瀬戸の山越え」と呼ばれるルートで、
旧東海道が整備されてからも、大井川が溢れたときなどは、
旅人はこっちの道を歩いたようです。

古東海道」は、4日目の箱根越えのときに、山の中で一瞬交差したことがありました。
軽くネットで検索しただけだと、古東海道に関する体系的な情報はなさそう。
今度腰を据えて調べてみよう。



続いて道端に現れた、ちょっと不思議な生垣(?)。
実はこれ、大井川の洪水による水害を防ぐため、江戸時代に作られた堤防の跡です。
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当時は高さ3.6m、幅2.9m、そして長さ360mもある大堤防でした。
このときにかかった費用が1000貫(今でいうと1000万円以上)だったことから、
この堤防は「千貫堤」と呼ばれていました。



まもなく藤枝市から島田市に入ります。
道沿いの田んぼでうちの娘と同じくらいのこどもが遊んでました。
素敵な遊び場所だなあ。
奥にJR東海道線の線路が見えます。
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上青島の一里塚跡。日本橋から51番目の一里塚です。
このあたり、松並木が再現されていますが、
昭和30年代までは江戸時代そのままの鬱蒼とした松並木が残っていたそうです。
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島田市に入りました。
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大津谷川をわたって
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島田市街に入ってきました。
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う〜む。土曜の午後というのに誰もいない。
かつての島田宿は、静岡では府中に次いで人口の多い宿場町だったのですが。



島田宿の一里塚。宿場のなかに一里塚があるパターン。
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到着しました。ここが島田宿の本陣跡。
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いまは小さなカフェや雑貨屋が並ぶショッピングストリートになっています。
こじんまりとしてますが、とても雰囲気はよい。
本陣や御陣屋(代官所)跡にきちんと説明板もあって、
史跡の利用の仕方としてはなかなかいいなと思いました。


藤枝からここまでざっと10km。
ちょっと物足りないし、まだ時間もあるので、大井川まで足を伸ばしてみることにしました。
途中で立ち寄ったのが、大井神社
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島田宿の総鎮守で、安産祈願にご利益のあるといわれる神社。
三年に一度開かれる例大祭の「帯祭り」は日本三大奇祭の一つといわれています。
(ただし「帯祭り」をカウントしない説もあり、全国の祭り関係者たちの権益闘争がうかがえます)

んで、境内にある「帯祭り」の像がこれ。
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美しい模様の丸帯を太刀にかけて、それを自分の帯に挟んで練り歩くんだそうです。
昔は普通に丸帯を手にもって歩いてただけなのに、
いつの間にかこのいでたちになったんだって。
意味はわからないけどインパクトはある。


さて、大井神社を出てさらに西へ1kmほど進むと、
いかにもなにか歴史がありそうな場所にたどり着きました。
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これが、大井川の川越(かわごし)遺跡
沿道に並ぶ平屋は、川越人足が待機していた「番宿」を再現したもの。
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中を覗くと、ちゃんと人足が待機していました。
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江戸幕府は、大井川や安倍川、酒匂川などの主要な河川には、
防衛上の理由からあえて橋を作らせませんでした。
旅人は川越人足にお金を払って、担いでもらったり輿に乗ったりして川を越えました。

特に大井川は、たびたび増水が起きて渡河不能になり(川止めといいます)、
旅人は何日も手前の島田宿(反対方向の人は金谷宿)で足止めを食うことがありました。
そのため大井川は、
越すに越されぬ大井川」と歌われるほどの難所として知られることになったのです。

んで、旅人がいざ川を渡るときに渡し賃を払ったのが、この川会所
渡し賃と引き換えに「川札」を受け取り、その川札を川岸で待機している人足に渡せば、
金額に応じて肩車されたり輿に乗せられたりして川を渡る、という仕組みでした。
要するに今でいうところの切符売り場ですね。
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川会所の隣には島田大堤(おおつつみ)の跡。
たびびた増水する大井川から島田の街を守るため17世紀に造られた、
高さ3.6m、長さ6km弱という巨大な堤防の遺構です。
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そしてついに見えてきました。大井川!!
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うおおお!でけえ(気がする)!!
箱根と並ぶ東海道の難所であり、旅の前半のハイライトとして、
実は日本橋をスタートしたときから、ここに立つのが夢でした。
うおおお!!



実際に川を渡るのは明日にとっておいて、
せっかくなので川沿いを走ることにしました。
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天気がいまいちなのが残念ですが、道も整備されていて走りやすいし、
景色も開けていて気持ちがいいです。
毎年秋にはこのコースを利用した「しまだ大井川マラソン」という大会が開催されています。


4kmほど下流へ向かって走ると、蓬莱橋(ほうらいばし)という橋があります。
下から見上げたところ。
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見てもらえばわかるとおり、全部木でできています。
全長は897.4m。木造歩道橋としては世界最長です

橋のうえに上ってみました。※中学生以上は100円
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橋の中央から島田市側に振り返ったところ。
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景観がユニークなので、いろんなドラマのロケ場所にも使われています。
NHK大河ドラマ『いだてん』でも、序盤のストックホルム大会の羽田予選で、
金栗四三たちが走るコースの一部として使われてました。
旧東海道のコースからはやや外れるものの、一度来てみたかったんですよね。



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ということで東海道ラン9日目、藤枝宿〜島田宿でした。
島田で一泊して明日10日目は大井川を越えて、掛川宿を目指します。




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「平将門伝説」を実際にたどってみた

今日は軽い歴史ネタを。

10世紀前半に、関東を拠点に中央政権に対して反乱を起こした平将門
天皇や貴族といった権威による支配ではなく、
史上初めて武力という超リアリズムで国家を作ろうとした将門は、
ある意味早すぎた源平、武家政権の嚆矢ともいえる、かなりユニークでインパクト大な存在です。

しかしこの人の場合、そうした生前の業績よりも、
彼の死後に生まれた怨霊やら伝説やらといった数々の「いわく」の方が、
すっかり有名になってしまいました。

将門伝説にまつわる場所は全国にたくさんあるのですが、
そんななかで東京23区内に残る7か所の史跡を訪ねてみました。

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その1:鳥越神社


651年の創建と言われる古い神社。
寺は浅草、社は鳥越」といわれるほど、下町ではなじみの深い古社だそうです。
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鳥越という名前の由来は、源頼義が陸奥に赴任する際に隅田川を越えようとしていたところ、
川面に立つ白鳥を見て浅瀬が分かり、無事に全員が川を越えられたから。
しかし名前の由来にはもう一つ、京都で切り落とされた将門の首が関東まで飛んできて
この神社の上を飛び越えたから、という説もあります。
また、境内のどこかに将門の手が埋められているという伝説もあります。

実際の鳥越神社は、そんなダークな伝説が似つかわしくないほどクリーンな神社でした。
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その2:兜神社


東京証券取引所の裏にある小さな神社。
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名前の由来は、八幡太郎源義家が奥州征伐の際に兜を掛けて戦勝祈願をしたことから。
しかし鳥越神社と同様、ここにももう一つ、
平将門の兜が埋まっているからという説があります。
境内にあるこの兜岩の下に将門の兜が埋まってるらしい。
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ちなみに、神社自体は小さいですけど、このあたり一帯の兜町という地名は、
この兜神社からきてます。
兜町っていったら日本の金融の代名詞みたいなもんですからね。
小さくても存在感は大きい神社です。



その3:将門の首塚


鳥越神社の真上を飛んできた将門の首が落ちてきたのがここ。
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江戸時代、この場所は酒井雅楽頭の屋敷になりましたが、
この首塚は敷地内でもきちんと祀られていたそうです。
ちなみに近代になってから、この場所に官公庁の建物を建設しようとしたところ、
病人やけが人が続出して「将門の祟りだ」と恐れられた…という、
将門伝説の中でも最も有名な「いわく」がありますが…実際はどうなんでしょう?
これらの伝説は全部ウソだったという記事を読んだことがあるんだけど、見つけられませんでした。
真偽はどうあれ、将門が祀られているのは事実なので手を合わせてきました。
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大手町のど真ん中ですが、昼間でも暗くて、なかなか迫力ある場所ですね。
10年以上前、仕事で通りがかった際に初めてこの場所を見つけた時は思わず鳥肌が立ちました。



その4:神田明神


神田明神の祭神に、大国主命(大黒様)と少彦名命(えびす様)と並んで、
平将門が名を連ねていることはどれだけ知られているのでしょうか。
1300年以上の歴史を持つ東京でも屈指の古社ですが、元々は将門の首塚の場所にあって、
それが江戸城拡張の際に現在の場所に移転してきました。
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太田道灌や北条氏綱ら、関東を治めた武士たちは皆、ここで戦勝祈願をしたと伝わっています。
江戸に移封してきた徳川家康もかつて関東統治の元祖である将門を手厚く崇敬し、
その結果、この神社は江戸の総鎮守と位置づけられることになりました。
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明治になると、朝敵である将門を祀るのはけしからん!ということで一時別殿に移されてしまいますが、
昭和59年になって(超最近じゃん!)本殿に戻りました。



その5:筑土八幡神社


昔いた会社がこの近くにあったので場所は知ってはいたのですが、訪れたのは初めて。
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ここは神田川が侵食した武蔵野台地の突端に当たるんですよね。
なので、お詣りするにはかなり急な石段を登らなきゃいけません。
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実はこの筑土八幡神社自体には、将門は祀られていません。
祀られていたのは、戦後までこの神社のすぐ隣にあった津久戸明神
『江戸名所図会』を見ると、確かに2つの神社が隣り合っています。不思議な光景…。
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じゃあ現在の筑土八幡神社は全く関係ないじゃないかというと、
実は境内に将門の足が埋められているという伝説もあります。
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その6:水稲荷神社


戦後すぐに計画されたものの、長らく未完成だった環状4号線。
未通区間の一つだった西早稲田〜目白台部分は2017年開通を目指して工事が進んでいます。
(おかげで長らくお気に入りだった神田川沿いのコースが走れない!)
その未通区間の西早稲田側の道路沿いに建つのが水稲荷神社。
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太田道灌が狩りの最中にここで休憩した際に榎を植えたところ、
後にその榎の空洞から水が湧きだしたところから水稲荷と名付けられました。
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源経基がこの神社の神託によって将門を討伐したとか、
藤原秀郷が将門討伐後、この地に稲荷神社を勧請したとか、
将門調伏の謂れが多く残る神社です。

僕が訪れたのは3月の末だったので、境内の桜が満開でした。
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その7:鎧神社


ここは名前がズバリですが、将門の鎧を埋めたといわれる神社です。
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埋めたのは将門の弟の鎧だったという説もあるのですが、
とにかく将門周辺の誰かの鎧が埋められたというのは事実のようです。

中央線・総武線の線路のすぐ近くにあるんですが、静かで美しい神社でした。
ちなみに境内には鎧保育園という名の保育園があります。
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さて、以上7か所になるわけですが、
全ての場所を一つの地図にプロットすると、こうなります。
↓↓↓

赤:鳥越神社
オレンジ:兜神社
紫:将門の首塚
黒:神田明神
緑:筑土八幡神社
水色:水稲荷神社
ピンク:鎧神社



そしてこの7か所を線で結ぶと…

このように、きれいに北斗七星の形になります。

うおおお〜!ってなりません?

これは偶然ではなくて、将門の霊力によって江戸の町を守護しようと考えた天海僧正(家康のブレーン)が、
将門ゆかりの場所を、彼が祀っていた妙見菩薩のシンボルである北斗七星の形に揃えた
といわれています。
実際、この7か所は江戸の主要街道の出入り口にあたるので、
かなり計算されて配置されてるようです。


うんちくをもう一つ。

将門の子孫はその後、現在の千葉県に入植して千葉氏を名乗ります。
はるかに時代が下って江戸後期、千葉市の末裔を名乗る一人の剣客が、江戸に道場を開いて隆盛を極めます。
千葉周作です。

彼が開いた流派の名は北辰一刀流
この北辰というのは北極星のことですが、
実は北極星を神格化した神様というのが、妙見菩薩なのです。
おおお〜、つながる
ちなみに、鳥越神社の宮司は千葉氏の末裔が務めているそうです。

…と、まあ知ってる人にとっては今さら過ぎるネタではあります。
ただ、実際に自分の足で回ると、
見慣れた東京の風景に「将門」というレイヤーがかかり、全く別の景色が見えるような気がしました。

※次回更新は8/18の予定です




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【東海道ラン】8日目:府中〜藤枝

旧東海道を東京・日本橋から京都・三条大橋まで走る「東海道ラン」。
7日目に静岡県の江尻宿から府中宿(静岡県静岡市)まで走った翌日、さらにそこから藤枝宿(静岡県藤枝市)を目指しました。

(前回まではこちら)
#0日目:ルールと計画編
#1日目:日本橋〜川崎
#2日目:川崎〜藤沢
#3日目:藤沢〜小田原
#4日目:小田原〜三島
#5日目:三島〜吉原
#6日目:吉原〜江尻
#7日目:江尻〜府中


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■ (20)丸子宿へ



前日、7日目の夜に泊まったのは、
キャバクラや風俗店が立ち並ぶ歓楽街のど真ん中のビジネスホテル。
刺激的すぎる立地でしたが、ご飯食べて速攻寝るという禁欲的1泊の成果で、今朝の体調はすこぶるいい!
昨日のゴール地点、府中宿の札の辻跡から8日目スタートです。
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まずは隣の丸子(まりこ)宿を目指します。


府中宿はあちこちにこんな感じで、町名の由来が書かれた小さな案内板があります。
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ちなみにここは梅屋町
由比正雪が立てこもった旅籠「梅屋」が町名の由来だそう。



国道362号を渡ると繁華街の雰囲気は消えて、一気に住宅街へ。
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現在朝の6時前。誰もいねえ。
少しでも暑さを避けようと5時半にホテルをチェックアウトしました。



1kmほどで安倍川に当たります。
その安倍川のほとりで生まれた江戸時代のご当地スイーツが「あべかわ餅」。
そして、そのあべかわ餅を昔からの製法で作り続けているのが、
安倍川を渡る手前にある甘味処「石部屋」です。
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創業200年を超す老舗ですが、朝6時なのでさすがに閉まってます。

石部屋の隣には、安倍川義夫の碑が立ってます。
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安倍川を渡る旅人が落とした財布を拾ってあげて、
旅人がそのお礼を渡そうとするも「落し物を届けるのは当然のこと」と、
頑として受け取らなかった川越人夫の喜兵衛。
彼の正直さを称えるために立てられた石碑なんだそうです。



その安倍川を渡ります。
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釣りしてる人がいました。気持ちよさそう。
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橋を渡ると静岡市駿河区に入ります。
旧道っぽい雰囲気が出てきました。
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丸子」の文字が見えてきました。
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国道1号線に合流しますがすぐに脇に逸れます。
このあたりが現在の丸子の街ですが、かつての宿場はもう少し先です。
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一里塚を発見。
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この丸子一里塚は、江戸から46番目の一里塚。
昨日最後に見た長沼一里塚が45番目だったから、あそこからちょうど4kmなのか。
もうちょい走ってきた気がするけども。



さらに進むと江戸方見附跡を発見。
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ここから丸子の旧宿場町ってことですね。



道沿いはこんな感じの雰囲気。いいですねえ。たまらんですねえ。
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さらに進むと脇本陣があり、
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問屋場があり、
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そして、本陣跡がありました。
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ということで、丸子宿に到着。
ここでちょうど、江戸から数えて20番目の宿場になります。
おお、もうすぐ折り返しじゃないか。


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■ (21)岡部宿へ

※宇津ノ谷峠まで


続いて岡部宿を目指します。
丸子宿からは8km前後の距離ですが、途中には宇津ノ谷峠という標高170mの峠越えがあります。

丸子宿本陣を後にすると、すぐに目に入ってきたのがこのお店。
とろろで有名な丁子屋(ちょうじや)です。
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創業はなんと慶長元年(1597年)。
400年以上もここでとろろ汁を提供していて、
松尾芭蕉の句や『東海道中膝栗毛』にも丁子屋のとろろ汁が出てきます。
今でも、東海道を旅するテレビ番組なんかがあると、たいていここは紹介されます。
が、朝の8時で店が開いているわけもなく、写真撮影のみ…(早朝スタートだとグルメ系は全滅ですね)。



丁子屋を後にして丸子川にかかる丸子橋を渡ります。
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橋を渡ったところに高札場の跡が。
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このあたりが丸子宿の外れです。



宿場を後にして走っていると、だんだんと山が近くなってきました。
宇津ノ谷峠はどれだろう。
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ここで一度国道1号線と合流。
しばらく1号線沿いと脇道を行ったり来たりしながら進みます。
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1kmほど走ると1号線沿いに道の駅があり、その奥にいよいよ「宇津ノ谷峠」の文字が出てきました。
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写真の奥に見える大きな陸橋を渡って山の中へ入っていきます。



陸橋を渡ると間もなくこんな分かれ道が。
箱根や薩埵峠を越えてきた身からすれば案内板を見なくても雰囲気で分かります。
旧道ルートは左。
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宇津ノ谷集落の中を走ります。
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右側の建物はお店ではなく全て一般の住宅です。
雰囲気ある街並みでいいですね。



そして発見しました。宇津ノ谷峠への入口。
もうなんか見慣れたよ、この出し抜けに現れて、問答無用に「ここから入れ」と迫ってくるこの感じ。
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足を踏み入れてみると、こういう感じ。
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宇津ノ谷峠は薄暗くて鬱蒼としていて…と聞いていたのですが、
真夏の強い日の光が射しこむせいか、むしろ静かで美しい森、という印象です。
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でも坂はかなり急です。走れません。
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ちょっとブレてますが、かつて峠にあった地蔵堂の石垣跡。
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太もものような、妙になまめかしい曲線の木。
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本格的な登りが始まってからここまでおよそ10分。実はもうここで登りは終わりです。
後はひたすら下るだけ。
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正直、ちょっと拍子抜けでした。むしろ涼しい山の中を歩けて軽いリフレッシュになったくらい。
どこが「難所」なのだろう?

帰ってきて調べてみたら、峠の標高は170mですが、
先ほどの宇津ノ谷峠の集落で既に標高80mくらいまで登ってきていたのです。
舗装された道で標高の半分を稼いじゃったんだから、そりゃあ楽だわ。
それに引き換え昔の旅人は未舗装の荒れた道をゼロから一歩一歩登ったんだから、
なんかちょっと申し訳ない気がしてきます。



※宇津ノ谷峠・岡部側登り口から


峠を降りてきました。
降り切ったところにあるのが、坂下延命地蔵堂
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昔からある地蔵堂で、旅人にとって格好の休憩所になっていたそうです。



再び走りはじめます。
旧道の脇を流れる川の名前は岡部川。
岡部宿まであと少しです。
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桝形(敵が攻めにくいように道をわざと折り曲げてるところ)の跡がありました。
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案内板はあるけどどこがどう桝形だったのかはよく分かりません。
が、桝形があるということは、ここから先が宿場町ということです。



さらに進むと左手に見えてきた、いかにも歴史のありそうな建物が。
岡部宿で最も大きかった旅籠「柏屋(かしばや)」です。
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国の登録有形文化財に指定されていて、隣には資料館もあります。
(やっぱり開いてなかった)



そして、柏屋の隣にある、その名も岡部宿公園が、かつて本陣があった場所。
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21番目の宿場、岡部宿にゴールです。



にしても暑い…。
この公園で小休止して靴を脱いだところ、
(汚い話で申し訳ないですけど)靴下がジャーッ!と絞れるくらいに汗をかいてました。

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■ (22)藤枝宿へ



次に目指すのがゴールの藤枝宿。
ここからはもうほとんどアップダウンはないはずです。

岡部宿公園を出るとすぐに旧道は左側の脇道へ。
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なかなかいい雰囲気の道です。
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ふと足元を見ると案内板が。「姿見の橋」とあります。
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東国へ下る旅をしていた歌人・小野小町が岡部宿へ泊まった際、
ここの橋で夕日に見とれていたところ、ふと橋の上から水面を見ると、
そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていました。
それを見た小野小町は、すっかり老いてしまったわが身を嘆き悲しんだ…という伝説をもつ橋だそうです。
今は細い水路しか流れてませんが、かつては顔を映せるくらいの川が流れ、
夕日を眺められるくらいに開けていたんでしょうか。



しばらくすると県道208号線に合流。
このあたりが岡部の街の中心地のようです。
ちなみにこのあたり市区町村的にはもう藤枝市に入っています。
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やがて国道1号線とぶつかります。
この不思議な形の石灯籠はなんだろう。常夜灯でしょうか。
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国道1号線には合流せずに横切るだけ。
そこからまた細い道へ入ります。このあたりは横内という地名。
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やがて朝比奈川を渡ります。橋の名は横内橋。
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セメントだけの武骨なつくりが素敵です。手すりもありません。



さらに進んでもう一度橋を渡ります。
今度は葉梨(はなし)川を渡る八幡橋。
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ここは駿府田中城への御成街道との追分になっていたそうです。



葉梨川を渡ると今度は鬼島と呼ばれる地域に入ります。
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こんな史跡がありました。鬼島の建場の跡。
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建場は「立場」とも書き、宿場と宿場の間にある幕府公認の休憩所のこと。
宿場に入れない旅人は泊まることもできたそうです。
これまで何度か見てきた「間の宿(あいのしゅく)」のようなものでしょうか。
ちなみにこの鬼島の建場には、あの弥次さん喜多さんも寄ったそうです(そんで昼間から酒を飲んだ)。



鬼島の建場を過ぎると、今度は右手に大きなクスノキが見えます。
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樹齢500年といわれる須賀神社の大楠で、静岡県の天然記念物に指定されています。



旅を続けます。
今度は本町という地域に入ってきました。
駅はもっと南の方にあるのですが、その名の通り、このあたりがかつての藤枝宿の宿場町でした。
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サッカーエース最中」というのが藤枝感あります。



常夜灯を発見。
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さて、だいぶ街の中心まで走ってきました。
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事前の下調べではこのあたりに問屋場跡や本陣跡があるはずなんだけど、見当たらず。
というか、藤枝宿では見附跡も高札場も、宿場特有の史跡を何一つ見つけられてません
上の写真の交番あたりに何かしらあるはずなんだけども…。

結局何も見つけられなかったので、仕方なくその場を後にしました。
まあ、こんなこともある



少し走ると、また川を渡ります。岡部宿から藤枝宿のルートは川が多い気がする。
瀬戸川を渡る勝草橋です。
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橋を渡ったところには江戸から50番目の一里塚である、志太の一里塚があります。


写真だけ見ると天気が良くて気持ちよさそうですが気温は30℃あります
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橋から約1km。青木の交差点で、国道1号線にぶつかりました(何度目だろう?)。
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東海道の旧道は写真のちょうど正面、交差点から斜めに入る細い道に伸びていきます。
が、今回の東海道ランはここまで。
僕は写真の左側に伸びる道を歩いてJR藤枝駅から電車に乗ることにしました。

府中宿からここまで22kmちょっとでした。
汗はめちゃくちゃかきましたが、身体には少し余裕があります。
なんだか物足りないというか、もったいないというか、ちょっと燃焼不足ではありますが、
まあ約1年ぶりの東海道ランなのでこれで良しとしましょう。

次回(いつできるんだろう?)は藤枝から掛川宿まで走る予定です。
予定ではあと4回走れば名古屋にたどり着けるはず。




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【東海道ラン】7日目:江尻〜府中

旧東海道を東京・日本橋から京都・三条大橋まで走る「東海道ラン」。
前回から10か月も空いてしまいましたが再び走りはじめました。

7日目の今日は江尻宿から府中宿(どちらも静岡県静岡市)まで走ります。

(前回まではこちら)
#0日目:ルールと計画編
#1日目:日本橋〜川崎
#2日目:川崎〜藤沢
#3日目:藤沢〜小田原
#4日目:小田原〜三島
#5日目:三島〜吉原
#6日目:吉原〜江尻


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■ (19)府中宿へ



前回、吉原宿から江尻宿まで走ったのが2014年の10月中旬の気持ちの良い秋晴れ。
今回は一気に季節が変わって2015年8月のお盆。
消耗しまくることが確定の超真夏ですが、
遠方に出かけてゆっくり走れるのはお盆休みしか無いのがサラリーマンの宿命。

元々は江尻宿から藤枝宿まで1日で走ろうと思ってたのですが、
ここ数カ月はあまり長い距離を踏めてなかったこともあり、日和って2日に分けることにしました。
初日の今日は江尻宿から府中宿までの10キロ強。
2日目の明日は府中宿から藤枝宿までの20キロ強を走ります。
しょぼすぎて悲しくなる…。


スタート地点は前回のゴール地点である清水銀座の交差点にある、洋菓子店前のこの看板から。
このあたりが江尻宿の中心地だったってことで前回、ここをゴールにしたのでした。
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この道の脇を巴川という川が流れているのですが、川に沿って400mほど進むと、
突き当たりに魚町稲荷神社があります。
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このあたりは16世紀に武田信玄が建てた江尻城という城で、
城将に任命された穴山梅雪がこの神社を造営したそうです。
穴山梅雪、『真田丸』にも出てましたね。武田家を裏切っちゃいましたけど。

神社の横にある稚児橋を渡ります。
江戸時代に入ってから徳川家康が架けた橋で、
河童頭の童子が川から上がってきてこの橋を渡ったという伝説があります。
なので橋の欄干には河童の像が。リアルで怖ぇよ
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しばらくこんな感じの道をまっすぐ走ります。
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今の気温はこんな感じ。
湿度が比較的低いのが救いですが、なかなか痺れる気温です。
紫外線は「非常に強い」
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左手に見えてきたのは1695年創業の追分羊羹
羊羹は日持ちがするので、東海道をいく旅人の道中食として提供していたそうです。
いまはレモン大福なんてのも売ってるみたい。
ちなみに追分とは、昔このあたりが東海道と清水湊への「清水道」との分岐点になっていたから。
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続いても道の左側に、今度はお墓らしき石塔を見つけました。
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これは通称「都鳥」と呼ばれた幕末の侠客・都田吉兵衛の墓。
静岡の侠客というと清水の次郎長が有名ですが、都田吉兵衛は次郎長一家と仲が悪く、
有名な次郎長の子分、森の石松をだまし討ちにして殺してしまいます。
しかし、ブチ切れた次郎長親分は吉兵衛を誘い出して敵討にします。それがこの場所。

その後誰も吉兵衛を弔う人がいないので、
可哀想に思った地元の人が、ここに供養塔を建ててあげました。
吉兵衛は浜松を地盤としてたので、清水には縁もゆかりもないのに。
昔の人は優しいなあ。よかったね、吉兵衛。



さらに進むと、交差点の右側に怪しい鳥居を見つけました。
柵の中に鳥居ってどういうこと?
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近づいてみると、なんと沼が口を開けてました
これは怪しい。怪しすぎる。
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歴史を調べてみると、この池の名前は「姥ヶ池」。
伝説は平安時代までさかのぼるそうです。
当時このあたりに住んでいた金谷長者という金持ちの一人息子が咳の病気にかかり、
彼の乳母が病気が治ることを祈ってこの池に身投げしたそうです。
そうすると一人息子の咳はたちまち止まり、以来、この池に祈願すると咳が治るといわれるようになったそうです。
東海道を旅する人もここで足を止めてお祈りしたんだとか。
僕も手を合わせました。



元のルートに戻ります。
踏切りで東海道線と静鉄清水線をまとめて渡ります。
静鉄は、前回江尻宿に到着してから静岡駅まで乗りました。
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道ばたに古そうな道標がありました。「久能寺観音道」と書いてあります。
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3kmほど南へ下ったところに久能寺というお寺があるのですが、
ここはその久能寺へ向かう道への分岐点になります。
久能寺はその名からも分かる通り、元は久能山にあったのですが、武田信玄が16世紀にこの場所に移築。
その後、明治に入ってから旧幕臣の山岡鉄舟が再興したことから、現在は「鉄舟寺」と呼ばれています。


さらに進むと左手に小さな地蔵堂がありました。
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この上原(うわはら)子安地蔵堂は、
武田勝頼を攻めようとしていた徳川家康と江尻城主の穴山梅雪とが会見した場所で、
このときの会見で、梅雪は勝頼への裏切りを決めたんだそうです。
つまり、武田家滅亡のきっかけを生んだ場所ってことですね。



県道に合流しました。
一里塚を発見。江戸から43番目の「草薙の一里塚」です。
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さらに進むと今度は道の反対側に巨大な鳥居が。
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地元の草薙神社の大鳥居でした。



さて、ここから府中宿までは残り7km程度。
もう街道沿いに史跡らしい史跡はありません。
代わりに、非常に複雑なルートを通ることになります。

まず、県道から1本南側の路地に入ります。
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東名高速の下をくぐり、
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ここから再び北へ進路を曲げて県道に戻るのですが、
そのまま北上し、静鉄の県総合運動場駅の踏切りを渡ります。
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さらにまっすぐ進んで、今度はJRの線路の上へ。
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東海道線と東海道新幹線をまとめて渡ります。
ビルがたくさん建っているあたりが、多分静岡の街、つまり目指す府中宿。
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陸橋を渡りきると、今度は線路沿いの道を進みます。
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このまま線路沿いを進むかと思いきや、右側の脇道に逸れます。
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大きな道路にぶつかりました。国道1号線です。
日本橋を出て以来、もう何度目の再会だろう。
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しかし、ルートは国道1号線からさらに脇道へ。
そこでまた一里塚を発見。
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この長沼一里塚で、先ほどの草薙一里塚から4km走ってきたことになりますね。



さらに進むと、今日3度目の静鉄線路と遭遇。
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いや、さっきJRの線路を渡った後に静鉄をくぐったので、正しくは4度目か。
もうなんかわからなくなってきた。

運よく電車とすれ違いました。清水行きですね。
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静鉄とは柚木駅でさよなら。国道1号を渡ります。
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もう1回JRの線路を(今度は下から)渡ります。
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脇道を進んで、
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さらにもう1回JRの線路をくぐります。
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もうね、草薙神社のあたりからずっと片手にスマホの地図アプリ握りっぱなしです。



ようやく静岡の中心へ近づいてきました。
「てんま」の文字がその証。
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伝馬町という名前は日本各地にありますが、
町名の由来は、伝馬と呼ばれる通信・輸送業者の拠点がそこにあったから。
都市の運営に欠かせない伝馬は、どの都市でも必ず中心部に本拠地を構えていたのです。



ようやく静岡の街の中心に到着しました。
伝馬町西交差点から「SHIZUOKA 109」を見上げたところ。
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このあたりにかつて府中宿の本陣があったそうです。
お盆休みで若い人が多いです。こっちは汗ダッラダラで明らかに場違いです。


脇に、西郷・山岡会見碑がありました。
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西郷隆盛と山岡鉄舟がここで会見し、江戸城開城への準備交渉が行われました。
この結果、勝海舟との会見が品川で行われ、無血開城が実現するのです。
ちょうど東海道ランの初日に、品川で西郷・勝会見碑をこの目で見てますから、感慨深いです。



ちょっと駿府城へ寄り道することにしました。
家康が晩年を過ごした城ですね。
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東御門から中へ入ります。
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かつての城郭なんかは残ってなくて、中は公園になっています。
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あんまり人がいない。暑いからかな。



再び街の中へ戻ります。
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城下町なので道がきれいな碁盤目状に走っていて、
人宿町通り」「呉服町通り」「両替町通り」など、昔の町名が道の名前に取られています。



今日のゴールは、呉服町通りから街のど真ん中を貫く七間町通りへ入ったところ。
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ここに札の辻跡があります。これを目印にしましょう。
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今日はこのまま静岡市内で1泊して、明日、藤枝宿を目指します。
ネオン街のど真ん中に建つ刺激的な立地のビジネスホテルでしたが、
部屋から1歩も出ずにご飯食べて速攻寝ました。
禁欲的に過ごして明日、藤枝宿を目指します。




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「ファミリーヒストリー」を調べてきた 〜後編〜

前回の続き。
祖父の葬式で自分のルーツの一つが岡山県高梁にあることを知った僕は、
昨年、大叔父の案内で同地を訪れました。
一度も行ったことのない街なのに、そこが自分の「故郷」だった。
その衝撃は、僕に「もっと家族の歴史を知りたい」と興味を抱かせました。

そして今年、そんなファミリーヒストリーをさらに明らかにできる、絶好の機会がやってきました。
大学で歴史を研究しているいとこ叔父(親のいとこ)が、
先祖の記録が書かれた昔の書物を見に行かないか」と誘ってくれたのです。
なんですか、その激しく心惹かれるお誘いは。

訪れたのはここ。
立川にある国文学研究資料館
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ここに、僕の先祖のことが載っている史料、
備中松山藩の『松山御家中由緒書』が眠っているらしいのです。

江戸時代、各藩は定期的に、家臣全員の家の歴史(由緒)をまとめて、文書に残していました。
そこには当代の家臣一人ひとりについて、
親は誰で祖父は誰で、代々どんな仕事をしていて…というような情報が、恐ろしく細かく書かれています。
当時、武士の給料(禄)は、本人の能力だけでなく、
それまでの祖先の功績に対して、つまり「」に対して支払われていました。
先祖の経歴がこと細かに書かれた「由緒書」は、いわば家臣たちの給与明細なのです。
(給与明細が200年以上も保管されて、しかも閲覧自由状態というのもすごい話です)

国文学研究資料館は、江戸時代初期に刊行された『太平記』や、
16世紀初頭に冷泉家が書写した『古今和歌集』など、大量の史料が所蔵されている、
歴史好きにとってのディズニーランドのような場所です。
#所蔵資料一覧はコチラ
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※館内は閲覧目的以外の撮影は禁止なので、写真はここまで

館内には、図書館のように書架に並べられている史料もあるのですが、
今回僕らが調べる大名家文書のように古いものについては、
事前に申請して、当日係の人が奥から運んできてくれるというVIP待遇システム。
おれ、研究職でも何でもないただのサラリーマンなんだけどいいんだろうか。

箱と包装で何重にも守られた『松山御家中由緒書』は、全部で2種類ありました。
一つが安永8年(1779年)に、もう一つが文政9年(1826年)に編纂されたもの。
それぞれが10冊前後で構成されていて、1巻からイロハ順に、
当代の家臣の名前に家系、家の出自、代々の当主の経歴なんかがズラッと書かれています。
まるで辞典のように機能性重視で編集されているところが、いかにも行政書類っぽくて生々しいです。

載っている情報がやけに多い人もいれば、ほんの数行で終わっちゃう短い人もいて、
「この人はめちゃくちゃ功績があるんだろうか」とか、「この人は登用されてまだ日が浅いんだろうか」とか、
書き込みの量を眺めているだけでも想像が膨らみます。

そして、本当に載ってました、僕のご先祖様の名前。
記述によるとウチの家祖(!)は、板倉家が高梁に移封される前、
まだ伊勢亀山藩の藩主だった時代に登用されたそうです。
寛永19年(1642年)生まれと書いてあるので、おお、400年も前なのか。

家祖様(と言えばいいんだろうか)は仕舞(略式の能)が得意だったらしく、
当時の板倉家の殿さまの前で踊りを披露したことがきっかけで登用されたと書いてあります。
一介の浪人身分だった家祖様が、小藩とはいえ譜代大名の板倉家当主にお目見えできたのは、
どうも亀山藩に縁のある旧知の知人数人を巻き込んで、彼らに仲立ちを頼み込んだからのようです。
コネやツテをフルに使って這い上がろうとする、かなりガッツのある人だったのでしょうか。
でも、この人がこの時チャンスをモノにしたおかげで今の僕があるわけですから、
そのアグレッシブさに感謝しなくちゃいけません。



…にしても不思議な感じです。
400年近くも前の家族のことを知るというのは、脇腹をゆっくりくすぐられるような、妙な気分です。
普通に暮らしているだけでは、家の歴史なんて、せいぜい曽祖父母の代くらいまでしか遡れません。
でも、今回それをさらに遡って知れたことで、
自分に流れている血が延々と受け継がれてきたものだということを、ものすごくリアルに感じました。
そして、自分もまた次の代へ継いでいく一人になることも。

とはいえ、こうして知ることができたのは、板倉家が史料を残し、それを国文学研究資料館が保管し、
そして偶然にも大叔父といとこ叔父が僕を導いてくれたからです。
僕のご先祖様が、公式に記録を残される武士という身分だったという幸運もあります。
家の歴史を知ることが自分のアイデンティティを豊かにしてくれる。
そのことを痛感する一方で、僕は「自分のルーツ」を辿る道が、いかにか細いものかも感じました。

高梁にある「ご本家」は(縁が遠いので詳細は分からないものの)、現在は当主不在のようです。
そして今年、祖父の後を追うように亡くなった祖母の実家も、
(そちらもわりと大きな武家の出なのですが)今は誰が家を継いでいるのか不明だそうです。

家(苗字)が戸籍から無くなること自体は、歴史が生み出す一種の自然淘汰なので、
過剰に嘆く必要はないと思うのですが(嘆いたところで僕にはどうしようもないし)、
その家が抱えていた歴史」が散逸してしまうのは、もったいないなあと思います。
とりあえず僕は、今回偶然知ったファミリーヒストリーを記録に残し、整理して、
次代の誰かにそれを伝えることにします。

--------------

2015年の記事は今回で最後です。
今年は秋に劇団の公演があったので途中更新が空いたりしてしまったので、
来年はリカバリするぞ!…と思っていた矢先、
11月に亡くなった祖母と入れ替わるように、娘が生まれました。
来年は子育ての合間を縫って(なるべく)更新します。
2016年もよろしくお願いします。




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「ファミリーヒストリー」を調べてきた 〜前編〜

2年前の秋、89歳で亡くなった祖父のお葬式で、
祖父の弟(つまり僕にとって大叔父さん)という人に会いました。
本当はそれまでにも何度か会ったことはあるはずなのですが、
地方に住んでいる大叔父と顔を合わせる機会など滅多になく、
彼を大叔父だと認識したのは、それが初めてでした。

葬式の後、精進落としの席で、
大叔父から祖父の家の話をたくさん聞きました。

祖父がバリバリのスポーツマンで、それもテニスや乗馬なんていう、
当時からするとものすごくハイカラな競技にのめり込んでいたこと。

祖父の父(つまり僕にとっての曽祖父)が若い頃、
東海道歩きにチャレンジし、全行程を踏破していたこと。

このブログでも書いているように、
僕も今、東海道を全て走りきる「東海道ラン」を続けています。
実は僕の叔父も東海道を制覇していて、彼もそれをブログに書いています。
そして曽祖父も、(残念ながら紛失してしまったのですが)旅の様子を絵日記に残していたそうです。
わずか4代の間に、家族の中から3人も東海道を歩く(走る)人間が出てきて、
しかも全員日記を書いているだなんて、やっぱり遺伝なんだろうかと笑いました。

しかし、大叔父の話の中で最も驚いたのは、祖父が岡山の出身だったことでした。
祖母が岡山の出ということは知っていたのですが、
祖父自身も岡山の人間だったなんて、僕はそのときまで知りませんでした。
祖父母がともに岡山の人間ということは、
僕の体に流れる血の半分は岡山の血ということになります。
つまり、僕は岡山のハーフだったのです。

それまで一度も訪れたことのない土地なのに、そこに自分のルーツがある。
その事実はかなり衝撃的でした。
しかし、ネガティブな衝撃などではなく、むしろ「自分の知らない自分」を知ることに、
くすぐったいような嬉しさがありました。

そのときから、僕は「家族の歴史」に興味を持つようになりました。
大叔父は、そんな僕の好奇心を歓迎してくれました。
そして翌年のGW、わざわざ岡山を案内してくれたのです。

向かったのは岡山県高梁市
もちろん行くのは初めて。
街の名前すら聞いたことがあるかないか程度の、
つまりはこれまでの人生で一度もかすりもしなかった土地です。
takahashi_map

江戸時代、高梁は備中松山藩の城下町でした。
備中松山藩は江戸時代を通じて何度か藩主が入れ替わっていますが、
最後に藩主となったのが、18世紀に転封してきた板倉家です。
僕の祖父の家は、その板倉家の家臣でした。

高梁は静かでこじんまりとした街でした。
けれど、現在も水路として街の中を流れる城の外堀の跡や、
その周囲に広がる整然とした町割りには、
かつてここが城下町だったという名残を色濃く残しています。
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当時の武家町には今でも塀と門を構えた大きな家が並んでいます。
もちろん、建物自体は何度も建て替えられているのでしょうが、
当時の雰囲気もそう変わらないだろうという気がしました。
そのくらい、静かで時間の流れ方がゆっくりとした街なのです。
IMG_1156

僕のご先祖様の「ご本家」も、この武家町のなかにありました。
そして、近所のお寺の墓地には、僕から数えて6代前の家族たちが眠っていました。
お墓に手を合わせながら「本当にここに住んでたんだ」という感慨と、
初めて訪れた場所で、初めて知った家族に向かって手を合わせることの不思議さを感じました。

僕の遠い家族たちも、武家町のどこまでも高い塀が続く道を歩いたのでしょうか。
そして、備中松山城の、あの長く険しい坂を(日本一標高の高い場所に天守閣をもつ城だそうです)、
汗をかきながら登ったのでしょうか。
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IMG_1167

自分のルーツがここにある。
実際に高梁を訪れても、なかなかその実感までは湧いてきません。
しかし代わりに、「もっと知りたい」という欲求が湧いてきました。
30歳を過ぎるまで訪れたことはおろか、気に留めたことすらなかったこの小さな街と、
ここで暮らしていた、会ったことのない僕の家族について、
「もっともっと知りたい」という興奮を覚えながら、僕は帰途に着きました。

…んで、2015年。
そんな「家族の歴史」をがっつりと知ることのできる、絶好の機会が訪れたのです。
(後編へ続く)




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【東海道ラン】6日目:吉原〜江尻

旧東海道を東京・日本橋から京都・三条大橋まで走る「東海道ラン」。
6日目の今日は吉原宿(静岡県富士市)から江尻宿(同静岡市)まで走ります。

(前回まではこちら)
#0日目:ルールと計画編
#1日目:日本橋〜川崎
#2日目:川崎〜藤沢
#3日目:藤沢〜小田原
#4日目:小田原〜三島
#5日目:三島〜吉原


10月中旬の気持ちの良い秋晴れ。
絶好の「ラン日和」ですが、僕のコンディションはというと、正直イマイチ。

前回(8月お盆)から2か月の間、実はほとんど走れてません。
というのは、9月は天候不良などで東海道ランどころか普通のランニングすら満足にできておらず、
そんな中でさらに9月の終わりに筋膜炎を起こしてしまい、
直近の1か月はほぼ強制ランオフ。
10km以上走るのはいつぶりだろう?

走る前から苦しむことが分かりきっているにもかかわらず、それでも走るという、
マゾヒスティックな東海道ラン6日目です。

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■ (14)吉原宿へ※やり直し



前回5日目は、箱根の山越えのダメージによって目標だった吉原宿の手前の、
元吉原宿(最初に吉原宿が開かれた場所)で中断しました。
新幹線こだまの始発に乗って新富士駅で下車。
そこからタクシーで、元吉原宿の最寄である東海道線の吉原駅まで移動。
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前回、息も絶え絶えにたどり着いた場所です。
この前は夏の暑い日だったのに、今日は半袖だと肌寒いくらい。
現在8時前です。

駅から300mほどの場所にあるこの交差点が、前回中断した場所。
2か月ぶりに東海道旧道に復帰です。
IMG_1825




ここから吉原宿まではひたすら内陸方向へ北上するルートです。
驚いたのは、大型トラックの数。
この時間からガンガン大型トラックが走ってるし、道沿いの空き地はもことごとく大型トラックの駐車場。
道がやけに広いのもトラック仕様なのでしょう。
IMG_1828

富士市は製紙業が盛んなんですよね。
僕でも名前を知ってるメーカーの大型工場をいくつも見ました。
(そういえば新幹線の窓からいくつも煙突が見えたなあ)
製紙業と、それを支える物流拠点で市の大半が覆われている、なかなかダイナミックな街です。
東海地震が起きるとトイレットペーパーが無くなる」という怖い話を聞いたことがありますが、
実際走ってみると納得してしまいました。



と、社会見学気分で走っていたら、道を間違ってしまいました。
(なんと幸先の悪い…)
1kmほど余分に走って和田川のたもとで正規のルートに復帰。
ちょうどそこに「平家越えの碑」が立っていました。
IMG_1829

富士川の戦い(1180年)で、源氏軍と対峙していた平家軍が、
水鳥の羽ばたく音を大軍の襲来だと勘違いして慌てて逃げ出してしまったという、
なんとも不名誉でかっこわるい事件が起きました。
富士川自体はここからもっと西側にあるのですが、
その故事にちなんだ碑が、この和田川のたもとに立てられました。



県道171号を進み、岳南鉄道の吉原本町駅の踏切りを渡ります。
IMG_1831

「本町」という地名からわかる通り、このあたりがかつての吉原の宿場町だった場所になります。
現在も商店街が広がっています。
富士駅や新富士駅周辺はほとんど何もないので、
街の中心地は今も昔も吉原宿一帯なんですね。
IMG_1833

上の写真の「コンドウ薬局」さんのあたりが、かつて吉原宿の本陣があった場所なんだそうです。

というわけで吉原宿に到着。
前回5日目のリベンジ達成です。




吉原宿おまけ。
コンドウ薬局の少し先で見つけた「長さん小路」。
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いかりや長介って富士市出身なんだって!




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■ (15)蒲原宿へ



吉原本町の商店街を抜けると、再び裏道へ。
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小潤井川を渡る手前(奥に橋が見えるでしょうか)に西木戸跡がありました。
つまり吉原宿の宿場町はここまで。
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にしても川が多いです。
まだ5kmほどしか走ってないのに、既に3本くらい川を越えたような。
富士市とその北の富士宮市は、富士川をはじめとする何本もの川によって作られた扇状地になっています。
地図を見ると、富士山の西側を扇頂とする、まるで見本のようにきれいな扇状の地形が見て取れます。

そして、ちょうどこの吉原宿のあたりが静岡県内の東海道ルートでは最北部。
ここからは駿河湾の西岸に沿って、ひたすら(ほんとうにひたすら)南へ向かうことになります。



しばらくは幹線道路沿いのルートなのですが、
東海道でたまに出現する、「急な裏道進入」はここでも健在。
IMG_1844




潤井川を渡る富安橋の上から、後方に富士山が見えました。
写真のちょうど中央あたりにうっすらと見えてます。
IMG_1847



裏道を走ってます。水路のある道っていいですよねえ。
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一里塚を発見。左奥に石碑が見えます。
花畑と一緒でなんか可愛い。
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富士本町通りを横切ります。
このあたりは東海道線の富士駅の北側にあたり、商店街になっています。
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少し先に高札場の跡がありました。ここも石碑のみ。
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再び幹線道路に出てきました。
奥に見える高架は、富士駅から甲府駅までつながるJRの身延線
高架の左側が柚木駅になっています。
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また裏道へ。常夜灯が目印になっています。
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しかし天気が良い……。
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冒頭でも書いたように、前回以降、雨で何度か東海道ランを見送ったのですが、
やはり無理せず好天の日を待って正解でした。
早くも足に乳酸が溜まり始めているのですが、
天気が良いというだけで2割くらい疲労が軽くなっている気がします。



間もなく富士川です。川の手前の右側に松岡水神社がありました。
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ちょうどこのあたりが富士川の渡し船の乗り場があったそうです。
境内に石碑がありました。
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さて、いよいよ川を渡ります。橋はその名も「富士川橋」。
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東海道にかかる川というと大井川が有名ですが、
街道一の急流」と言われたのはこちらの富士川。
川の流れは江戸時代よりも西へ移動したそうですが、今もかなりの水量。
「轟々」という言葉がまさにぴったりのすごい音でちょっと怖かったです。
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富士川を渡ると、今度は急に細い路地に入ります。
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坂道を上ると先ほど渡った富士川橋が見えました。
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ここから先はしばらく山間の道(右手がすぐ山です)を行くことになります。
道沿いには、いかにも旧街道といった雰囲気の古いお宅が並んでいてとても気持ちがいい。
IMG_1869

このあたりは岩淵とよばれる集落で、
かつては吉原宿と蒲原宿の間で旅人の小休止場所として賑わった間の宿(あいのしゅく)でした。
上の写真の右手に見える立派な塀のお宅は、小休本陣(こやすみほんじん)だった常盤邸
国の登録文化財に指定されています。
(どうでもいいけど「こやすみほんじん」ってなんか可愛い)



常盤邸から1kmほど走ったところに岩淵の一里塚がありました。
日本橋から37番目の一里塚です。
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立派な塚ですねえ。
ぐるっと回り込む道路のカーブ具合も含めて、これまで見てきた中でもかなりハイレベルな一里塚です。



一里塚を過ぎるとさらに山深い道へ入ります。
奥に見える高架は東名高速。
IMG_1875

東名高速をくぐった先で小さな谷川を渡ります。
川の名前は谷津沢川(だと思う)。
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さらに1kmほど南下。新幹線をくぐります。
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再び山道を上る。
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東名高速の上に出てきました。
奥に高速道路の上にまたがった橋が見えるでしょうか。これからあれを渡ります。
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手すりとかサビだらけでけっこう怖い。
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高速道路を渡るとここからは一気に下り坂。
向こうに駿河湾が見える!
(なんで人は海を見るとテンションが上がるんだろう)
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坂を下りきった突き当りを右折。
番地名に「蒲原」の文字が見られるようになりました。
この道の100mほど左側を東海道線が走っています。
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一里塚を発見。一般のお宅の軒先にあります。
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とってつけたようなこの鳥居と社はなんなんだ…。
ひとつ前に見た岩淵の一里塚の立派さと比べると、「コレジャナイ感」がすごい。



一里塚の先に蒲原宿の東木戸跡がありました。
19世紀前半に作られたとされる常夜灯もあります。
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ここから蒲原宿に入ったことになります。



蒲原宿は当時の面影が残る、とてもいい雰囲気の宿場町でした。
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防火性に優れた「塗り家造り」と呼ばれる特別な普請で建てられた元商家の「佐藤家」や、
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同じく塗り家造りのナマコ壁が残る、元和菓子屋の「吉田家」など、
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かつての建物がキチンと保存されています。



そしてこれが、蒲原宿の本陣だった「平岡本陣跡」。
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中の土蔵は当時のままなんだとか。今でも人が住まわれてるそうです。
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平岡本陣の向かいには、旧旅籠屋の「和泉屋」があります。
今は向かって右側の4間が、お休み処になっています。
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実はこの元和泉屋のお休み処でお手洗いを借りたところ、
お店の奥さんに声をかけられ、中に上がらせてもらえることに。
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こちらが2階。
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奥さんが「この建物は震災でだいぶ傾いたんですよ」と言うので、
「関東大震災ですか?」と聞くと、「いいえ。安政の大地震です」との答えが。
時間のスケールが違い過ぎる…!

それにしても、この和泉屋といい、佐藤家や吉田家や平岡本陣跡といい、
蒲原宿は史跡の保存状態が素晴らしすぎます。
おかげで東海道を走っていてもとても気持ちいい。
でもそれは、奥さん曰く「残そうとみんなで努力しているから」とのこと。
う〜ん。そりゃそうだよな。
頭が下がります。

表に面した櫛形の手すりは、和泉屋の建築の特徴の一つ。
向こうに海が見えます。
IMG_1899

かつての東海道はもっと海に近い場所を通っていたのですが、
吉原宿と同様に、津波などの被害によって内陸側に移動してきたんだとか。

僕が「のんびりしてていいところですね」と言うと、
「いえいえ。蒲原や隣の由比は気性が荒い土地で有名なんですよ」と奥さん。
えええ、そうなんだ。
言葉づかいも激しくて、普通に喋っているだけなのに、
他所の人が聞くとまるで怒られてるように聞こえるんだそうです。

でもそんな風土があるとはにわかには信じがたいほど、
落ち着いてのどかな宿場町です。
蒲原宿、素晴らしいところでした。


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■ (16)由比宿へ



和泉屋さんでしっかり休憩をとって、再び走り始めました。
すぐに右手に高札場跡
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そして西木戸跡。ここで県道396号と合流。
蒲原宿とはお別れです。
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ここからはしばらく396号線を走ります。
2kmほどで左手に東海道線の蒲原駅が見えました。
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さらに1km。東名高速をくぐります。
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その先の分かれ道で県道396号(右)とはお別れ。
東海道は左のルートです。
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さらに進んでいると、それまで真っ直ぐだった道が、
小さくクランク状に折れ曲がっている場所がありました。
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実はここが由比宿の入口。
先ほどの蒲原宿の入口でも同じ形の道が見られたのですが、
宿場の入口は防備上の観点から(大軍が侵入しづらいように)、
このように道路が桝形(ますがた)に折れ曲がっているのです。

反対から見るとよく分かる。
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この桝形道路の横に建つのが旧商家の志田邸
説明板にはここにかつて東木戸があったことが書いてあります。
IMG_1913




東木戸の先、立派な木造の家(材木屋さんのようでした)の脇の壁に、
お七里役所跡」の説明板がありました。
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江戸時代、西国大名の中には江戸屋敷と領国とをつなぐ特別な連絡機関として
七里飛脚」を使っていた藩がありました。
ここは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡だったそうです。



やがて右側にものすごく目立つ門が見えてきました。
ここが由比宿の本陣跡
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「由比本陣公園」という名の公園になっているんですね。
中には美術館もあって中では当時の宿場町を再現したミニチュアや広重の絵が展示されてるそうです。
(スルーしてしまった!見ればよかった!)
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そして、由比本陣公園の向かいにあるのが、正雪紺屋
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四百年も続く染物屋で、由比正雪の生家と言われているんだとか。
(由比正雪と由比宿が同じ「由比」だったと初めて知った…)

蒲原宿から由比宿まではわずか4kmほど。
あっという間でした。



正雪紺屋の先にある資料館、「由比宿おもしろ宿場館」の入口に、
弥次さん喜多さん(だと思われる)がいました。
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■ (17)興津宿へ

※薩埵峠まで


次の興津宿までが、今日の一番の山場。
その理由は、急峻な坂が続く難所「薩埵峠(さったとうげ)」。
箱根峠・鈴鹿峠と並ぶ、東海道の三大難所の一つとして、古くから旅人を悩ませてきた場所です。

ちなみにどのくらい急かというと、
この日のつい2週間前に来襲した台風18号によって土砂崩れが発生し、
薩埵峠の直下を走る東海道線の由比〜興津間が10日以上にわたって不通になりました。
(開通したのはちょうどこの日の前日)
昔から地元の人は危ないって言ってたのよ」とは、先ほどの蒲原宿・和泉屋の奥さん談。
とにかくめっちゃ険しいらしいです。

不安を募らせながら由比宿からリスタート。
由比宿の本陣を過ぎて間もなく、由比川を渡ります。
ここで由比宿の宿場町は終わり。
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この由比川橋、歩道部分が自然木でつくられています。
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懐かしい家並みの道を走ります。
由比桜えび通り」という名前が付いてるみたいです。
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桜えびで有名な由比ですが、元々は蒲原の名産品として知られていたそうです。
由比に漁港ができたことで、その地位は移ってしまいましたが、
漁業者の数は実は今でも蒲原の方が多いらしいです。



東海道線の線路沿いに出てきました。
奥に由比駅が見えます。
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由比駅を過ぎると、由比宿の手前で別れた県道396号と再び合流。
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しかし、このまま396号を進むと思いきや、
東海道はすぐに1本脇の路地へと入っていきます。
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左手に海を見ながら走ります。
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この一本海側に県道と東海道線、そのさらに海側には東名高速が走っています。
山がすぐ近くまで迫っているので、狭いスペースに全部が密集しています。
それだけ山の傾斜が急ということですね。
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薩埵峠の案内板が現れました。あと約3km!
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案内板のすぐ先、道の右手に歴史のありそうな住宅が見えました。
このあたりの名主を務めていた小池氏の邸宅
現在は休憩場所として利用できるそうです。
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小池邸の他にも道沿いには歴史のありそうなお宅ばかり。
走っていて気持ちいいです。
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蒲原宿からここまで、素晴らしい景観続きです。
静岡やるなあ。



家並みが途切れ、徐々に山に近づいてきた感じがしてきました。
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西倉沢の集落に到着。
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薩埵峠の東側の登り口にあたる西倉沢は、
小休止のための間の宿(あいのしゅく)として、多くの旅人が腰を下ろしてきた場所でした。
写真に映る古いお宅は、西倉沢の本陣だった川島家



そしていよいよ見えてきました。薩埵峠の東側(由比側)の登り口です。
見てくださいこの挑発的な坂の角度。
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坂の入口に一里塚がありました。
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登り始めました。
いきなり目に入ってきた「落石注意」の看板。
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見た目以上にエグイ坂です。
さすがに走れないので歩きに切り替えます。

でも、景色は抜群!
左を向けばどこでもこの景色が見晴らせます。
海の向こうに見えるのは伊豆半島ですね。
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そして、振り返ればはるか向こうの方に富士山が!
(下の写真の真ん中あたりに顔を出しているのが分かるでしょうか)
IMG_1944



ちなみに、下を向くとこんな感じ。だいぶ登ってきました。
IMG_1945





登り始めて30分ほどで薩埵峠の頂上に到着。
この先は遊歩道になっていて、頂上には観光客用の駐車場があります。
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なんだかあっという間でした。
標高が100m強しかなく、箱根を越えてきた身からすれば、正直物足りないくらい。
ただ、坂の角度は箱根よりもキツかったかも。



ここからは下りです。公道から遊歩道へ。
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柵の向こうは崖です。
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展望台があったので後ろを振り返りました。
すると……、
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駿河湾とその奥の雲間から顔を出した富士山。
東海道随一の名勝であり、
五十三次の中で唯一当時と変わらない景色が眺められるのは、この薩埵峠だけだそうです。



あとはひたすら下るのみ。
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天気がいいのにほとんど人がいません(もったいない)。
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おっ、進路の先に何やら暗い「穴」が。
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なんだか箱根の石畳のような雰囲気になってきました。
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下りてきました。西側(興津側)の登り口は墓地になっています。
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※薩埵峠・興津側登り口から


薩埵峠を下りきった先は、ビニールハウスや畑が広がるエリア。
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とても静かです。
東海道は写真左奥へ。
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いかにも旧道沿いといった雰囲気の家並みを抜けて、
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海の近くまで出てきました。東海道線をくぐります。
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興津川を渡ります。橋を渡れば興津の町に入ります。
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興津に入りました。
史跡とかは少ないのですが、やっぱりどこか宿場町の匂いがしますね。
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一里塚を発見。
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こんな場所もありました。「興津宿公園」。
興津の歴史が書かれた説明板があるほかは、特に史跡や史料はありません。
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興津宿には本陣が2軒、脇本陣が1軒ありました。
まず東側の本陣跡を発見。
普通のお宅の玄関脇に石碑が立ってます。
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そして、道の反対側にある、当時から続く宿・水口屋が興津宿の脇本陣。
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さらにその先に、今度はもう一つの本陣(西本陣)跡がありました。
自転車屋さんの脇に石碑が立っています。
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というわけで、無事に薩埵峠を越えて興津宿に到着しました。
由比宿からここまでなんのかんので10kmありました。


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■ (18)江尻宿へ



いよいよ今日のゴールである江尻宿へ向かいます。
江尻は今の静岡市の清水です。
興津宿からは残りわずか5kmの距離なので、もう目と鼻の先。

…ですが既に足が限界(ランナー的に言うと「売り切れ」状態)にきています。
大したスピードで走っていないのに、ふくらはぎがビクビクッと攣りはじめるという…。
30km程度でこうなるとは、やはり9月以降のランオフによる衰えなのでしょう。



興津宿をスタートすると間もなく静清バイパスの高架をくぐります。
ここで国道1号線に合流。
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その先で今度は東海道線の線路の上を渡ります。
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ひたすら国道1号線を走ります。
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庵原川を渡ります(正直この辺りは写真に撮るものが少ない…)。
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さらに1kmほど走った辻町の交差点で、
東海道は右の脇道に逸れます。
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上の写真で、ちょうど分かれ道に立っている松が「細井の松原」。
主要街道である東海道は、整備の一環としていたるところに松が植えられていましたが、
このあたりにはかつて200本以上もの松が植えられていたそうです。
その後、細井の松原は太平洋戦争で松根油(航空機燃料)として全て伐採されてしまいました。
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細井の松原を後にして、旧道を走ります。
江尻宿まではあとほんの少し。
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左手に一里塚跡がありました。
街灯の手前に立てられた説明板(しかも板に紙を貼っただけのチープなもの)のみ。
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すぐ先には東木戸跡
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ここでも、居酒屋の壁に立てられた(もたせかけられた)説明板のみ。
蒲原宿、由比宿とはくらべものにならないチープさ…。
まあとにかくここから江尻宿ということです。



清水銀座の交差点。
ここまでずっと直進してきましたが、東海道はこの交差点で右折していきます。
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そしてここが、江尻宿の中心地。
本陣や脇本陣は全て焼失してしまったそうですが、
おそらくこの交差点付近にあったんだろうと言われています。

交差点脇の洋菓子店の前に看板がありました。
ここを今日のゴールとします。
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元吉原宿からここまで36km弱でした。
(序盤に迷子になって1kmくらい余分に走ってるけど)

ランオフによるブランク明けということもあり、肉体的にはめちゃくちゃキツかったです。
ですが、なんといっても天気が最高だったので、気分は爽快でした。
これまでで一番気持ちよく走れたんじゃないかなあ。

東海道ランを始める前は、
「昔の旅人気分を味わうために、雨の日も走ろう」と考えていたけど、撤回します。
やっぱり晴れの日を選んで走った方がいい!

次回7日目は、藤枝宿まで走る予定です。
年内に浜松あたりまでは行きたいなあ。



写真は静岡鉄道清水線
清水駅から終点の静岡駅まで乗って、新幹線で帰りました。
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【東海道ラン】5日目:三島〜吉原

旧東海道を東京・日本橋から京都・三条大橋まで走る「東海道ラン」。
5日目の今日は三島宿(静岡県三島市)から吉原宿(同富士市)まで走ります。

(前回まではこちら)
#0日目:ルールと計画編
#1日目:日本橋〜川崎
#2日目:川崎〜藤沢
#3日目:藤沢〜小田原
#4日目:小田原〜三島

前回の4日目には、小田原から箱根の山越えをして三島へ到着し、そのまま三島のホテルにチェックイン。
5日目の今日はその翌日になります。
前日の900m以上に及ぶ山上り&山下りのダメージを負ったままの、初の2日連続東海道ラン。
ある意味では箱根の山越え以上にチャレンジングな1日になりました。

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■ (12)沼津宿へ





山越えから一夜明けて、やはり筋肉痛が……!
痛いのは太ももの前側。しかも鈍い痛みではなく、ビキビキッ!という鋭い痛みです。
これはおそらく山下りのダメージですね。
確かに、下り坂をあんなに長い距離(約10km)にわたって走ったことなんてないもんなあ。
おおお、果たして俺は今日走りきれるのか。

しかも運の悪いことに今日は雨。
昨日までは曇り予報だったのに、今朝になって雨予報に変わってしまいました。
肉体的にも精神的にも「どよ〜ん」とした感じで、
昨日(4日目)にゴールした駿豆線の「三島広小路」駅からスタートします。
現在朝の6時。
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今日のコースは、3日目(藤沢〜小田原)と同じようにひたすら県道or国道。
この退屈さも大きな障害になりそうです。
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スタートしてすぐに左側にある秋葉神社
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かつてはここが上方見附だったそうです。
つまり「三島宿」はここまで。

そのほぼ向かいには「千貫樋」の説明板。
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千貫樋とは、戦国時代に北条氏康が今川氏と和睦した際に建設した樋のこと、らしい。
多分、写真の左奥に見える橋みたいなのがそうだよね?
大正時代にコンクリ製に修復したって書いてありますが、
ってことはそれまではずっとオリジナルが架かってたんでしょうか。すげえな。

さらにその先、右側に常夜灯
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幕末に建てられたものだそうです。
多分、この旅で初めて見た常夜灯になります。



しばらく行くと今度は一里塚を発見。
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この「玉井寺一里塚」は昔のまんまだそうです。
ちょっとした古墳くらいのビッグサイズ。
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やっぱり「昔のまま」「当時の姿と変わらない」と言われると感激しますね。
「同じものを目にしている」ということで大昔の旅人とつながれたような気がします。
東海道ランの醍醐味ですね。



一里塚からさらに1kmほど走ると右側に見えてくるのが、長沢八幡宮
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この神社の境内には、富士川の戦い(1180年)の際に、
参陣した源義経と兄・頼朝とが対面した際に腰かけた「対面石」というものがあります。
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幼くして生き別れた2人は久々の再会に涙を流して喜ぶという、
源平モノで必ず描かれる有名な場面の舞台ってことですね。
ただ、僕はそれよりも、対面する石と石との距離が近いことが気になりました。
仮にも総大将とその弟が、こんなカフェみたいな距離感で対面したんだろうか。



長沢八幡宮を過ぎると間もなく黄瀬川を渡ります。
前述の富士川の戦いで、源氏側が陣を張った場所としてよくこの川の名前も出てきますね。
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ちなみにGoogleマップとかで見ると、旧東海道沿いのこの場所には橋は無いことになってるのですが、
つい最近架けられたのか、ご覧の通り橋がありました。
黄瀬川を渡ると沼津市に入ります。



左側の脇道へ入ります。間もなく沼津の市街地。
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一里塚がありました。
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この北側に日枝神社があるのですが、その参道入り口の脇にあります。

三園橋交差点の歩道橋から。
奥に見えるのが三園橋。流れているのは狩野川です。
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再び脇道へ。すぐ隣は狩野川。
川廓通り」という名前は、この道がちょうど沼津城の城郭と川の間にあることから。
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奥に見える木の茂った場所が中央公園。かつての沼津城の本丸があった場所です。
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見に行こうかと思ったけど雨が強くてなんかもうスルー。

中心街へ入ってきました。スルガ銀行本店(沼津にあるんだね)の
駐車場の脇に「高田本陣」跡を発見。
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沼津宿は元々が城下町だったということもあり、
本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠が55軒という、なかなか大きな宿場町だったそうです。

というわけで沼津宿に到着。三島宿から約6kmでした。
現在朝の7時。雨は止みそうにない……。



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■ (13)原宿へ





実は沼津宿にたどり着いた時点で心は折れかかってました。
「これはひょっとして筋肉痛ではなく故障しているんじゃ?」と思うくらいの太ももの痛みと、
一向に止まない雨のダブルパンチで、
頭の中では「めんどくさい」「痛い」「やめたい」「帰って寝たい」という言葉がグルグルと回ってました。

が、せっかく泊りがけで来ているのに6km走っただけで終えるのはあまりにもったいない!という、
殊勝というか、意地というか、要は貧乏性というか、
まあとりあえずせめて10kmは走ろうと思い直し、再度スタートを切りました。

すげー走りたくねえ、と思いながら沼津本町の端の交差点へ。
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東海道はこの交差点を右折して一路西へと進むのですが、
僕は真っ直ぐ行くことに。
実はここで、あえてルートを外れてでも見たい場所がありました。

それが、千本松原
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沼津から富士市の田子の浦まで約10kmにもわたって広がる松林。
若山牧水井上靖といった作家が愛した場所で、日本百景のひとつにも選ばれています。
沼津宿の本陣跡から1km足らずの距離。

確かにこれは千本くらいあるかも。
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東海道の旧道を走る、というルールを破ることになりますが、
しばらくは松林の中を走ることにしました。
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きっと雨じゃなかったらもっときれいな景色だったんだろうなあ。
松林のすぐ隣がもう駿河湾です。




3kmほど走って東海道に戻りました。
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千本松原よりも1本内陸側を走る県道163号。
この真っ直ぐな道がかつての東海道です。
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しばらくはこの県道163号を走ることになります。



右側に見えたJR東海道線の片浜駅
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東海道線をずっと右手に見ながら走ってきましたが、
片浜駅の先で踏切りを渡り、今度は東海道線が左側に移ります。
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さらに1km。唐突に道ばたに標柱が現れました。
※「チャーハン」ののぼりの手前の黒い柱
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これがかつての原宿の問屋場跡だそうです。


そして、さらにその先に本陣跡を発見。
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原宿の本陣である渡邉家は、源頼朝の弟(義経の兄)である阿野全成の子孫なんだそうです。

しっかしなんていうか……ぶっきらぼうというか無愛想というか、
これほど情緒のない宿場町も珍しい。
当時の姿を偲ぶのは、道ばたに無造作に置かれた標柱だけです。
これじゃあ近隣の人でさえ、ここがかつて東海道の宿場町だったということを知らないんじゃないだろうか?

本陣の先には西木戸(上方見附)跡がありました(やっぱり標柱のみ)。
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説明板によると、原宿は東西2.2kmあったと書かれていますから、
それなりに大きな宿場町だったはずですが、今ではその気配はまるで感じられません。

というわけで原宿に到着。
沼津宿からここまで7.5kmでした。


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■ (14)吉原宿へ



スタートの三島宿からここまでおよそ15km。
雨は止みましたが、代わりに足がほとんど動かなくなってきました。
ほとんど早歩きと変わらないスピードですが、これが限界。
今朝スタートした時点では太ももの筋肉痛だけだったのですが、
膝から下、ふくらはぎにまで痛みが広がってきました。
おまけに相変わらず背中の荷物が重い!
首から背中にかけてが張ってきているのが分かります。

この時点で、今日予定していたゴールの吉原宿までたどり着くことは諦めました。
代わりに、その手前のJR東海道線の吉原駅を今日のゴールに切り替え。
(吉原宿と吉原駅というのは距離が離れているのです)
「駅」と「宿」の違いはあるけど、とりあえず同じ「吉原」までは頑張って走ろうと。

本心は、原宿のすぐ隣にある東海道線の原駅や、
その隣の東田子の浦駅で電車に乗ってしまいたいのですが、
そうすると次回リスタートをするときにわざわざ移動してくるのが面倒くさい。
その点、吉原駅なら新幹線の新富士駅から近いので、次が楽だろうと。
一応そういう計算もあります。

ということで再びまた県道163号を走ります。
ホント、嫌になるくらい何もない一本道。
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東海道線を渡ります。
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富士市に入りました。
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足を交互に前に出すということだけに集中してます。



原宿から約3.5km。
間の宿(あいのしゅく)である柏原本陣跡を発見しました。
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大磯〜小田原間の松屋本陣、小田原〜箱根間の畑宿に続いて、
この旅3か所目の間の宿ですね。
道の向かいにJR東田子の浦駅があります。

田子の浦というと、ちょうど北側に富士山が見える絶好のビュースポットとして有名ですが、
何度も言うようにこの日は雨/曇りなので何も見えません。
つくづく思ったのですが、別に急いでる旅じゃないのだから、
もうちょっと天気のいい日を選んで走った方がいいですね。
次回はそうしよう。



柏原本陣の先、昭和放水路を渡ります。
放水路という名前ですが歴とした一級河川。
橋のたもとに昔は一里塚があったそうです。
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「檜」という名前の交差点で脇道へ。
案内板(下写真の左)が順路を示してくれています。
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実は、ちょうどこの檜交差点のあたりが、
元々の吉原宿があった場所なんだそうです。
「(元)吉原宿跡」と書かれた小さな標柱が立ってました。
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当初は宿場町をこの場所に築いたところ、
海が近いため(現在も400m弱しかない)たびたび高波などの被害に遭ってしまい、
中吉原宿、そして現在の新吉原宿と、内陸へと移転を繰り返したんだそうです。
確かに地図を見ると、ずっと海べりに伸びてきた東海道が、
吉原宿のとこだけ急に内陸に入ってるんですよね。
そういうことだったのか。

ある意味ここも吉原宿ということで、
今日の当初の目標も一応は達せられました(ということにしよう)。



先ほどの元吉原宿から約2km走ってきました。
東海道はこの交差点を渡り、写真奥に見える東海道線の踏切を渡って北へ向かいます。
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が、僕が向かうのは吉原駅なのでこのまま直進。
線路沿いを走ります。向こうに吉原駅が見えてきました。
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ゴォォォ〜ル!!
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あ〜しんどかった。



実はこの後、かなり強めの雨が降ってきました。
欲を出して吉原宿まで走らなくてよかった……。



初めての泊りがけのランでしたが、
やはり箱根の山越えのダメージが想像以上だったことと、
何より日頃のトレーニング不足(今年は正直あまり走れてません)が出たな、という感じです。
まあ先は長いので、昨日今日の2日間こそが今後に向けたトレーニングだと思うようにします。はい。



帰りの新幹線では、新富士駅の売店で買った「富士山弁当」を食べました。
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ご飯が富士山の形してる。
ちなみに筋肉痛はこの後3日間続きました。




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【東海道ラン】4日目:小田原〜三島

旧東海道を東京・日本橋から京都・三条大橋まで走る「東海道ラン」。
4日目の今日は小田原宿(神奈川県小田原市)から三島宿(静岡県三島市)まで走ります。

(前回まではこちら)
#0日目:ルールと計画編
#1日目:日本橋〜川崎
#2日目:川崎〜藤沢
#3日目:藤沢〜小田原

8月お盆のど真ん中。いよいよ今日は「天下の嶮」と呼ばれた箱根の山越えです!
約1000mを上って、さらに下りるというかなりの(というかこれまでのラン人生でも一番の)、
ハードなランになりそうです。
間違いなく東海道ラン前半のクライマックス。

そしてこの日はそのままゴールの三島に投宿して、翌日さらに走る予定。
いよいよ本当に「旅」になってきました。
そんな4日目のレポートです。

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■ (10)箱根宿へ

※山道ルートなのでGoogleマップが作成できません。詳しいルートマップはこちら



小田原に着いたのは朝7時すぎ。例の如く始発に乗って来ました。
前日までの雨雲がまだ少し残っていて、どんより曇っています。
おかげでお盆のど真ん中にもかかわらず気温は低めですが、かわりにものすごい湿気……。

スタートは前回ゴールした小田原宿本陣近くの「箱根口」交差点から。
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しばらくは国道1号線とその脇道を交互に進むようなルート。
東海道線、
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脇道へそれて東海道新幹線、
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そして箱根登山鉄道と、連続で3つの線路をくぐります。
高架をくぐったところで1号線と合流。
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しばしの間、箱根登山鉄道と並走。
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ここは箱根駅伝5区のコースですね。
湯本方面への道(写真左端)が既にこの時間から混んでるのはやはりお盆だから?



再び脇道へ。
実は、既にじわりじわりと上り坂が始まっています。
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小田原のスタート地点は海抜9mだったのが、既に50m越え。
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登山鉄道の入生田駅を過ぎたところ。がっつりと坂です。
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そしてやってきました三枚橋の交差点。
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まっすぐ進むのが国道1号線。つまり箱根駅伝5区のルートです。
小田原からここまでは箱根駅伝とほぼ同じコースをたどってきたのですが、
旧東海道はこの交差点を左折して早川を渡り、南側のルートを行くことになります。
ちなみに、小田原宿からここまでちょうど5km。

箱根駅伝ファンとしては5区のコースを走ってみたいところですが、
残念ながらここでお別れ。
奥に箱根湯本駅が見えます。
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そして、三枚橋を渡ったところから、一気に坂の斜度が増します。
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写真で伝わるかな?今までの坂とは比較にならない傾斜です。



小田原北条氏の菩提寺、早雲寺(写真撮り忘れた!)を過ぎて間もなく、
湯元茶屋一里塚跡」がありました。
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そして一里塚の少し先に、こんな分かれ道が。
道路の続きは左側。しかし東海道のルートは、なんと右側なのです。
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パッと見、どこかの家の私道にしか見えませんが、
実はこの先に、東海道箱根路の代名詞でもある「石畳の道」があるのです。


それがこれ。今日初めて出会う石畳です。
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なんと、ここの石畳はほぼ江戸時代当時のままだそう。
すげえ。マジでタイムスリップ。
ちなみに誰もいません。しかも薄暗くてちょっと怖い。
でもその怖さがまたいい!

途中、渓流を渡ります。
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石畳で出会った猫。
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元の道に戻りました。左の坂が石畳の出口。
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ここの石畳の道は300mほどしかありません。
しかしこの先あちこちに江戸時代当時の(一部は修復された)石畳が出てきます。
やっぱり箱根路はこれまでのアスファルトの道を行く旅とはキツさも情緒も全然違います。



旅を続けます。
石畳から2kmほど上り続けると、須雲川の集落に到着。
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案内板の説明によると、この集落は東海道が整備されるのと同時に、
旅人の休憩や道路の保守・維持のため、
幕府がわざわざ人を入植させて新たに作ったものなんだそうです。
こういう集落が、箱根路には一定距離ごとに作られたんだとか。



そして、須雲川集落から500mほど進むと、
箱根路の難所の一つ「女転(ころ)し坂」があります。
見てこの角度。
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馬に乗って坂を越えようとした夫人が、落馬して死んでしまったことから名付けられた坂。
確かにこの坂はエグかった。

そして女転し坂を上りきると、道路沿いにいきなり怪しげな山道への入口が出現。
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どうやらこれが旧東海道ルートらしいです。
入ってみると石畳の道が!
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先ほどの石畳のと同じように、ここも300mほどで車道に合流。
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こんな具合に、車道沿いにいきなり石畳or石段の旧道がヌッと顔を出して、
それをしばらく進むと再び車道に合流する、というのが箱根路の石畳の道のパターン。
この先ひたすらこのパターンを繰り返しながら進むことになります。



ということで再び旧道が現れました。
(このあたりから疲労により写真がブレ始めます。ご容赦ください)
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昨日までの雨で(台風が来てました)石が濡れていて滑ります。
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こんな橋を渡っちゃいます。
なんかもう、ちょっとした「冒険」になってきました。
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橋を渡ると今度は上り。
箱根は坂の一つひとつに名前が付いています。これは「大澤坂」。
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この角度、伝わるでしょうか。
足元が滑るのもあって、場所によっては手をつかないと上れません
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上りきったところで車道に合流。道の先は畑宿の集落です。
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寄木細工で有名な畑宿は、
前回3日目に大磯〜小田原間で見かけた「松屋本陣の跡」と同じ、間の宿(あいのしゅく)でした。
宿場間の距離が長い場合に、その中間に置かれたミニ宿場町です。
畑宿の本陣跡を通過します。
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そして再び石畳が始まります。
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写真奥に、同じく旧道を歩いている人が見えます。
ご年配の男性だったのですが、結局芦ノ湖までの上りの道で出会った「同好の士」はこの方だけでした。
真夏に箱根を走ろう(歩こう)と考える人はいないのでしょう……。

畑宿の石畳の道はこんな感じ。美しいですねえ。
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石畳を上りきると再び車道へ。
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通称「七曲り」と呼ばれるヘアピンカーブが連続する難所です。
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このあたりは時折車道を走りつつ、間を階段と石畳で上っていくという、
なんとも忙しいルートになります。
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上の写真は、箱根で最大の難所と言われた「樫木坂(かしのきざか)」。
今は階段が整備されていますが、昔はほとんど崖だったそうです。
どうやって上ったんだろう…。



階段を上りきるとまた石畳の道が始まります。
元箱根まで残り3kmの表示が。
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冒険。
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景色(見えないけど)。
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再び冒険。
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下の写真、別に僕が斜めに立っているわけではなく、
道自体がうねってるのです。
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ちなみに、石畳はただでさえ急な上にこの日は前日の雨で濡れていたので、
早々に「石畳は歩く、アスファルトは走る」というルールに切り替えて進んでおります。
とてもじゃないけど石畳は走れない。



箱根宿までの山上りはもうすぐ終わり。
間もなく芦ノ湖への下りの道に入ります。
多分これが最後の坂。その名も「追込坂」。
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正式な由来はともかく、旅人の心理にマッチした坂の名前です。

ここは石畳ではなく、こんな感じの砂利道。
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追込坂の端にあるのが「甘酒茶屋」。
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なんとこのお店、創業400年だそうです。
西へ向かう旅人は、ここで名物の甘酒を飲んで一休みしつつ、
間もなく芦ノ湖で通過する「箱根の関所」に向けて身支度を整えたんだとか。
お店では、今でも当時と変わらぬ甘酒を飲むことができます。
……僕は、自分でも引くくらい汗でドロドロだったので、遠慮しておきました(いつか絶対来よう)。


そして、いよいよ芦ノ湖へ向けて下りの始まりです。
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芦ノ湖の箱根宿から先にもう一度軽い上り坂があるのですが、
本格的な上りはもうおしまい。

ここまで「走り6:歩き4」くらいの割合だったのですが、
それでも800mは上ってきてますから、もう山上りはお腹いっぱい。
しかしホッとしたのもつかの間。
下りは下りですげえ角度です。
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足元に気をつけながら下ります。

途中、木の間から二子山が見えました。
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元箱根まで15分。頭の中は芦ノ湖の湖畔で休憩することでいっぱい。
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ちなみにこのあたりは、江戸時代の東海道(僕が走ってるコース)と、
鎌倉時代の東海道とが交わる地点だったそうです。

東海道の箱根の山越えルートは、鎌倉時代には湯坂路(ゆさかじ)と呼ばれる、
江戸時代のものよりも北側のルートを通っていました。
現在の箱根湯本駅のあたりから山に入り、湯坂山(547m)や浅間山(802m)、鷹巣山(834m)の尾根筋を伝って
芦ノ湖へと下るコースだったそうです。
その旧ルートと、江戸時代の新ルートとが合流するのがこのあたりだったんだとか。

ちなみに、さらに以前の平安時代の東海道は、
箱根は通らずに伊勢原や秦野を通り足柄峠を越えて沼津に入る、というルートだったそうです。



さて、いよいよ下り坂も終わり。
杉並木を抜けて……
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見えた!芦ノ湖
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右の鳥居は箱根神社の一の鳥居。ここに出てくるのか!
ここで、箱根湯本駅の手前の三枚橋で分かれて以来、
(たかが2〜3時間前なんだけど実感的には)久々の1号線合流。



芦ノ湖畔の東海道にはかつて杉並木が植えられていました。
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現在も1号線脇にその姿を残しています。




杉並木が終わると、「箱根関所」の看板が見えました。
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矢印に従って進むと、見えてきました。箱根の関所です。
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江戸幕府は東海道はじめ主な街道の各所に関所を設けていましたが、
箱根の関所は最も大きな規模を誇りました。

現在の建物は2004年、江戸時代末期に行われた箱根関所の解体修理の資料を基にして、
建物の寸法や使っている資材、建築技法まで当時のままに再現したという、
関係者のハンパじゃない情熱が込められた一大歴史施設になっています。
中では、当時の旅人がどんな風に取調べされたとか、
役人たちの生活の様子などを勉強できます。

が、僕は既に一度来たことがあるので今日はスルー。
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1号線に戻って先へ進むと、箱根ホテルの隣の海賊船乗り場に、
箱根駅伝栄光の碑」というものが立ってました。
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ちょうどこのあたりに、かつての箱根宿の本陣があったそうです。

箱根宿というのは、元々このあたりに町や村があったわけではなく、
「箱根山中に宿場がないと不便だろう」ということで、
東海道が整備された17世紀前半に小田原宿と三島宿から50軒ずつ取り立てられて、
いわば人為的に作られた宿場町でした。
本陣の数は全部で6軒と、東海道の宿場では最多のキャパシティを有しているのも、
「難所の中の宿場」という立地ゆえでしょう。
そうじゃなかったらこんな不便なところにわざわざ住まないよなあ……。

というわけで、なんとか箱根宿にゴール!
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■ (11)三島宿へ

※ルートはこちら



芦ノ湖畔で湖と海賊船を眺めながらソフトクリームを食べつつたっぷり30分休憩。
1000m近く上ってきたとはいうものの、歩きが多かったのもあって、
疲労度はそこまで深刻ではありません。

ということでランを再開。
リスタート地点はここ。箱根駅伝往路のゴール地点
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ゴールからスタートするということに若干の皮肉を感じつつ、走り始めます。



すぐにまた石畳の道が現れました(何度目だろう?)。
向坂」という名の坂です。おそらくこの日最後の上り坂です。
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ここまで通ってきた石畳の道もかなり鬱蒼としていましたが、
箱根宿から先(西)の石畳の道はその比ではありませんでした。
え?ここ通るの?通れるの?」みたいな道を何度も見ることになりました。


例えばこんな場所とか。
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なにこれ……。
トンネル(というよりすき間?)の高さは180cmもありません。
背中を丸めながら通らないと頭をぶつけます。
おまけに抜けた先の道が草で見えない。
これ、仮にも「東海道」だよね?



トンネルを抜けるとこんな感じ。
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なんかもう軽いジャングルだよ。

走る、というよりも「分け入る」みたいな感じでなんとか向坂を上りきると、
一度国道1号に出ます。
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しばらく進むと「箱根峠」の交差点が。
ここが箱根の最高点。手元のGPSだと標高852mとなっていました。
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この箱根峠から先は三島市。つまり、ついに静岡県に入ったことになります。



箱根峠の交差点の脇にあるパーキングエリア。
歩道(東海道)が石畳風に舗装されていました。
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そして、再び本物の石畳が始まります。
道の左側にダンジョンのごとく口を開けた怪しい道が。
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草も木もボーボーで先が見えない……。
「本当に11km行けば三島に着けるのかよ?」と肩をゆすって問い質したいです(←誰に?)。
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予想以上の秘境っぷりに思わず「マジかよ」と声が出ました。
でも、闇のような木々の暗さと木漏れ日のコントラストが怖くも美しい。
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一度国道1号に出て――
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再び石畳(また指が映り込んでしまった…)。
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藪が道の3分の2くらいを埋めています。
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空が見えました。
鬱蒼とした森は終わった……と思ったら今度は足元がヤバイ。
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道が見えない……。
草の間から覗く石畳を頼りに進みます。
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『トトロ』の世界に迷い込んだかのよう。
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ようやくこの「草の道」も終わった。
……と思ったらいきなり民家の軒先に出てきた。
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何度も言いますけど、これ「東海道」ですからね。
1000年以上の歴史をもつ日本最大の街道ですからね。
ちなみに、相変わらずここまでずーっと1人です。
歩いている人、走ってる人は誰もいません。

奥に見える車道は国道1号。一度合流します。
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んで、例の如くすぐにまた石畳へ。
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さっきまでの鬱蒼とした道が嘘のような、美しい林の道。
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あ、奥に歩いている人がいる!今日2人目の同好の士です。
しかも軽い小走りで走ってました。
んで、こっちも走ってるもんだから、自然と競争になっちゃって(こういうのやりにくいですね)、
なんとなくお互い気まずい、みたいになっちゃいました。

ちなみに箱根峠以降、下りに入ってからは、傾斜が比較的ゆるやかになってきたこともあり、
基本は石畳の場所も走ってます。
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やがて到着したのが、山中城跡。
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せっかくなので山中城を見ていくことにしました。



山中城は16世紀後半に小田原北条氏が領国の西の備えとして築いた山城で、
本丸、二の丸、三の丸、さらに三か所の出丸という、かなり大規模なつくりを誇っていました。
しかし、1590年の秀吉の小田原攻めの際に、圧倒的な大軍の前にわずか1日で落城したそうです。

僕が見たのは、城の一番西側(敵側)に築かれた岱崎(たいざき)出丸
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土塁跡や空堀跡など、当時の形がとてもよく残されています。

土塁の上から三島の方角を見たところ。
手前に見えるのが空堀ですね。
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実際に歩いて回ると、かなり大きな城だし、
山の傾斜を利用して作っているから、攻める側からすれば相当落としづらそうだなあという印象。
なのにこれを1日で落とした秀吉の軍隊というのは、
いったいどんだけえげつない大軍だったんだ。
(後から調べたら、山中城攻めには計7万人が動員されたそうです)

山中城は国の史跡に指定されていますが、ここでもやはり誰もいません。
(僕と、一匹の蛇しかいませんでした)
「兵どもが夢の跡」ってやつですねえ。



東海道へ戻ります。
岱崎出丸の前の石畳を一路西へ。
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このあたりは傾斜もゆるやかで、石畳もきれいに敷かれているので、
ガンガン走ります。

この日は旧道の一部が工事のため通行止めでした。
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仕方なく国道へ迂回。曇ってるけど景色がきれい!
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再び旧道へ。既に箱根峠から300m近く下っています。
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また旅人泣かせのよくわからん道が出現……。(正解は左)
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国道に合流し、
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再び石畳を走ります(とにかくこのパターンの繰り返し)。
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笹原一里塚。ここでついに石畳は終わりです(多分)。
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石畳は終わりましたが、実はここからが難所。
箱根の西側で最も急峻といわれる「こわめし坂」が始まります。
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確かに傾斜はかなりエグめ。
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写真を撮り損ねてしまったのですが、
上の写真の奥にはさらに急な坂になっています。



こわめし坂が終わると、しばらくは住宅街の中を走ります。
三ツ谷という集落。写真では分かりにくいですが、ここもゆるやかに下っています。
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三島の街がだいぶ近くなってきました。
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小学校の手前(その名も「坂小学校」という)で脇道にそれます。
写真右側の下り坂が東海道。
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案内板に従って、
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細い道を駆け下ります。
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そしてその先で再び石畳の旧道へ(まだあった!)。
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ここも草がボーボー過ぎ。
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旧道は終わり(今度こそラストじゃないか?)。
再度、車道に合流。
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しばらく進むと、国道1号と合流します。
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現在、標高約150m。700mも下りてきたのか!
三島の街まであとわずかです。

ひたすら1号線を下ります。
このあたりも松並木が残ってますね。
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錦田の一里塚を発見。日本橋から28番目の一里塚です。
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一里塚の隣にある、木製(っぽい作り)の手すりがついた歩道橋を渡ります。
その名も「一里塚歩道橋」。
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歩道橋の上から箱根の山方面を望む(ほとんど見えないけど)。
あそこにいたのか〜。
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五本松の交差点から脇道に逸れます。
このあたりの坂は「愛宕坂」というそうです。足元は石畳風。
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愛宕坂を下ると東海道線の踏切りを渡ります。
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小田原から南へ抜けて熱海を回ってきた線路と、箱根の山を越えてきた僕とが、再会!
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1kmほど進むと大場川。
この新町橋が三島宿の入口です。
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現在でも、この新町橋を境に三島の中心街が始まります。



そして三島の街の最大の名所といえば、三嶋大社
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『日本書紀』『続日本紀』にも記述が残るという、とんでもなく古い神社で、
伊豆に流された源頼朝が挙兵の際に源氏再興を祈願したことから、
中世以降は特に武士の崇敬を集めてきました。

中に入ってみました。15000坪という広大な境内ですが、
かつてはさらにこの数倍は広かったそうです。
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本殿。三島に縁もゆかりも無いので軽く恐縮しつつ、旅の無事を祈ってきました。
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本殿前に建てられているテントは、おそらく御礼祭の準備と思われます。
御礼祭は3日後、ということでした。



三嶋大社から約500mほどで本陣跡を発見。
三島宿の本陣は2軒あり、こちらは「世古本陣」の跡。
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もう1軒の「樋口本陣」の跡も道の向かいにあります。


そしてもう一つ見ておきたいものが。
世古本陣の100mほど先に、三石神社という神社があります。
その境内にある「時の鐘」です。
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現在の鐘は昭和に入ってから作られたもので、櫓もなんだかモダンなのですが、
鐘自体は江戸時代からありました。
「時の鐘」という名の通り、三島宿に時間を知らせる鐘だったそうです。

境内の横を小川が流れていて、子どもたちが遊んでました。
良い光景でした。



三石神社のすぐ横が、伊豆箱根駿豆線の「三島広小路」駅。
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かつても今も三島の中心街は、JR三島駅前ではなく(ここから1kmほど離れてます)、
この三島広小路のあたりなんですね。



というわけで、本陣跡もチェックできたし、本日のゴールはここ。
小田原宿からここまで32kmでした。
いやしかし、街→山→街、山上り→山下りとドラマチックすぎるコースを走ってきたせいか、
気持ち的には50kmくらい走ってきたような……。

今夜は三島泊。
明日、再びここからスタートして、吉原宿を目指します。





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【東海道ラン】3日目:藤沢〜小田原

旧東海道を東京・日本橋から京都・三条大橋まで走る「東海道ラン」。
3日目の今日は藤沢宿(神奈川県藤沢市)から小田原宿(同小田原市)まで走ります。

(前回まではこちら)
#0日目:ルールと計画編
#1日目:日本橋〜川崎
#2日目:川崎〜藤沢

台風が近づいているということでこの日はどんより天気。
予報では雨に降られるかどうか、ギリギリなところ。
正直走るかどうか迷ったのですが、
これから先、泊りがけになると雨に降られることもあるだろうということで、
その予行練習という意味も込めて走ることにしました。

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■ (7)平塚宿へ





例のごとく始発に乗って、前回のゴール・藤沢宿の最寄駅、小田急線の藤沢本町駅へ。
駅の前の坂を上った伊勢山橋(下は小田急線)が今日のスタート。
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本当は藤沢宿の本陣と伊勢山橋とは500mほど離れているのですが、
なにせこのあたりは僕の地元なので、知りすぎるほどに知っているこの500mは省略。
(藤沢本町駅なんて高校時代の通学駅でしたから)

今日のルートはひたすら大きな道(大半が国道1号)沿いを進むルート。
地図をこまめに確認する必要はない反面、正直面白さには欠けるコースです。
ただ、瞬間的に脇道に逸れるルートもあるので、そこらへんが見どころ(走りどころ)。

伊勢山橋から約1km。早速「脇道」が出現。
写真の右側の細い道へ。
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道のカーブ具合とか見るとなんとなく左側が旧道じゃないかと思うんだけど、違うみたいです。
ちなみにこの脇道はわずか100mほどで再び元の大きな道(県道43号)に合流。

そして引地川を渡ります。
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もうね、(しつこいようですが)めっちゃ地元!
なんの感動も感慨も無え!



藤沢本町から約2km。道路の案内板に早くも「小田原」の文字が現れました。
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やがて1号線に合流。すぐに現れたのが一里塚跡。標柱のみ立っています。
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茅ヶ崎市に入ります。
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写真の通り、かつての東海道沿いは松の木が立っていたことにならって、
沿道は松並木になっており、国道沿いでありながら、とても情緒があります。

ここまで計6つの宿場を走ってきてなんとなく分かってきたことは、
こうした史跡を保存したり、標柱や案内板を立てて共有したりすることに対して、
熱意のある自治体とそうでない自治体があるということ。

ここまででとても好印象をもったのは、川崎市です。
標柱や碑だけでなく、必ず案内板を脇に立て、時には絵や地図入りで詳しい説明をしていました。
東京都の各区(中央、港、品川、大田)も横浜市も、ほぼ必ず説明板を用意していましたね。

茅ヶ崎市なんて、市内に宿場はなかったのに、
上の写真のように松並木を作ったり、歩道を石畳風(?)にしたり、とても熱意を感じます。
※茅ヶ崎の松並木にあった説明板。
IMG_1421


まあ、石碑にしろ松並木にしろ説明板にしろ、道行く人のほとんどはスルーしちゃうんだけど、
あるときフッと地元の歴史を知りたいと思った時に、そのための手軽な環境があるかないかというのは、
ものすごく大事なことなんじゃないかと思います。



ルートに戻ります。茅ヶ崎駅の手前。一里塚がありました。
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さっきの藤沢の一里塚からちょうど一里(約3.9km)、ということですね。

茅ヶ崎駅前の交差点。地下歩道をくぐります。
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どうでもいいですけど、ここを右に曲がってすぐ左側にある市民文化会館で
高校のとき合唱コンクールやりました。

鳥井戸橋を渡ります。下を流れるのは千ノ川(ちのかわ)。
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そして鳥井戸橋を渡るとすぐ右側に大きな鳥居が見えてきます。
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これは茅ヶ崎の総社、鶴嶺(つるみね)神社の参道入り口の鳥居。
再びどうでもいいけど、僕の高校時代の担任の前赴任先がこの近所の鶴嶺高校でした。



またも橋を渡ります。下を流れるのは小出川
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ちなみにこの3日目のルートでは、数えきれないくらい橋を渡ることになりました。
(最初のうちは律儀に全部撮ってたのですが、後半は撮ったり撮らなかったりグダグダです)

ここで茅ヶ崎市が終わり平塚市へ入ります。
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そしてやってきました、馬入橋
相模川を渡ります。
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写真に見えるように、橋のど真ん中が日本橋から62km地点。
もっともこれは国道1号上での計算なので、
旧道を走っている僕の走行距離とは微妙に違うのですが、
いずれにせよ「遠くへ来たな」感が妙に深くなります。

もっともそれは62kmという距離よりも「相模川を渡る」ということのインパクトかもしれません。
藤沢に住んでた僕にとって、相模川のこちらと向こうというのは大きく距離感が違うのです。
相模川からこちらは「知ってる土地」。相模川の向こうは「知らない土地(非日常の場所)」。
正直、日本橋からこの馬入橋までは、どこか普段のランニングの延長線上という感覚がありました。
それが、ここを境に一気に「」になったような気がします。

その「旅」の心細さを煽るかのように、ここで雨が降り始めました。
まだ小雨程度で気になるほどではありませんが、まだ前半なのでこれからの天気が心配。



馬入橋を渡ったところで国道1号から離れます。
1号はここから花水川の手前まで大きく内陸側へ膨らむルートを取る(下写真右側)のですが、
東海道はこのまま真っ直ぐ(分かりづらいけど写真左側)進みます。
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平塚駅前の交差点。奥に見えるのが駅。
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道は駅前の商店街へ。
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湘南ベルマーレの本拠地なので旗がありますね。
ちなみにベルマーレのホームスタジアム、平塚市総合公園のグラウンドは、
高校時代に陸上競技会(という行事があるんです)で3年間通いました。
今も使ってるんだろうか。



そして商店街が途切れたあたりに江戸方見附跡がありました。
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今の平塚の街の中心はこれよりも手前ですが、
かつての平塚宿の町並みはここから先1.5kmにわたって広がっていたそうです。
今とはちょっとずれてたんですね。

脇本陣跡を発見。
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続いて高札場の跡を発見。しっかり石碑と説明板が用意してあっていいですね。
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そして、ありました、本陣跡
神奈川銀行平塚支店の目の前に標柱のみ立っています。
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藤沢宿からここまで約14kmでした。
宿場間の距離としてはこれまでで最長です。
でも道は平たんな分、わりと身体は楽チン。


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■ (8)大磯宿へ





旅を続けます。
本陣跡を通り過ぎると、再びここで旧道は脇道に逸れます。
写真右側の道が旧東海道ルート。
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分かれ道に建つ消防署の分署の脇に、問屋場(といやば)の跡がありました。
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問屋場とは、幕府の書状や参勤交代中の大名の荷物などを運ぶ人馬をリレーするための中継地のこと。
本陣や見附に比べると地味な存在ですが、
東海道が整備されたそもそもの目的である「物流網」という点を考えると、
実はこの問屋場こそがもっとも重要な役割を担った施設でした。

負わされてる責任としても物理的な仕事量としても、問屋場の仕事は激務でした。
そのため一つの宿場に複数の問屋場が設けられ、交代制で仕事を担当しているところもありました。
この平塚宿でも東と西の2か所の問屋場があったそうです。
ちなみに上の写真の問屋場は「西組問屋場」。



旅を続けます。
花水川に差し掛かりました。既に平塚市を抜けて大磯町へ入っています。
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この花水橋の平塚側のたもとに一里塚がありました。
IMG_1443

でもこれ、平成になってから「一里塚を現代に蘇らせよう」として造られた
「平成の一里塚」というもの。
江戸時代にこの場所に一里塚があったのかどうか、前後の一里塚との距離を考えるとだいぶ怪しいです。
(気持ちは分かるんだが紛らわしいなあ)

橋を渡って少し行くと、道はなだらかな下り坂に。
化粧坂(けわいざか)という坂です。
東海道線をくぐります。
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戸塚駅の踏切りで内陸側に渡りましたが、
ここから小田原までは再び海側を走ることになります。

……と今(この記事を書いているまさに今)になって気付いたのですが、
僕、化粧坂のルートを間違ってました。
本当は、坂が始まる手前の「化粧坂」の交差点で、
1本内陸側に伸びる脇道に進まなきゃいけなかったのでした。
なんてことだ……。

でも正しいルートで進むと踏切りがないみたいなので、
どっちにしろ上の写真の高架下をくぐらなきゃいけなかったもよう。
じゃあいいか。

東海道線をくぐって1kmほど進めば、もうそこは大磯駅前。
国道1号沿いにあるNTT大磯センターの建物の脇に、小島本陣跡。
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大磯消防署前の交差点に建つ中南信用金庫本店の入り口横に、尾上本陣跡。
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大磯宿には計3か所の本陣があったそうですが、
幕末まで続いたのは小島・尾上の2か所だったそうです。

平塚宿からここまで、わずか3km。短っ!!
ここまで隣接してると、わざわざ宿場を分ける意味ないんじゃ……。
「着いたぜ!」という感慨も何もないので、そのまま小田原宿へ走ります。

路地の向こうに一瞬、海が見えました。(写真じゃ分かりづらいですけど)
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■ (9)小田原宿へ





大磯宿から小田原宿まではおよそ16km。
宿場間の距離は、渡し船で移動する宮宿(愛知県)〜桑名宿(三重県)を除けば、
東海道の全行程の中で最長です。
既にここまで16km強を走り、
例によって3.5kgの荷物によるダメージがジワジワきているコンディション的には、
ここからはかなりしんどい旅になりそう。



大磯宿を過ぎてすぐ、大磯中学のあたりから有名な松並木のエリアになります。
松並木は東海道が整備された当初から植えられていたそうです。
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雰囲気がとても良くて疲れを忘れます。
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ただ、松並木はほんの500mほどでおしまい。
再び国道沿いの、あまり代わり映えのしない景色を延々と走ることになります。
このあたりはずっとこんな感じ。
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松並木から約1km。間もなく大磯城山公園です。その手前で小さな川を渡ります。
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川の名前は「血洗川」。なんとも恐ろしい名前です。
※名前の由来はこちら

そして、城山公園前の交差点で国道1号と分かれて脇道(写真右側)を進みます。
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ちなみにそのまま1号線を進むと左側に大磯ロングビーチがあります。

脇道を進んでます。道は大きく右へカーブしますが、東海道はこのまま直進(写真左側)。
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再び川を渡ります。川の名前は不動川
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城山公園前から約1kmほどで国道1号に合流。
合流する手前に一里塚がありました。「江戸から十七里」の文字。
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ここで大磯町が終わり。二宮町に入ります。
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またまた川を渡ります(ホント多い)。川の名前は葛川(くずがわ)。
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大磯ロングビーチの周囲を流れ、海の手前で先ほど渡った不動川と合流します。
もっと上流に行くと桜がキレイなんだそうです。

二宮駅前を通り過ぎます。
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二宮駅から約1km。また一瞬だけ脇道に逸れるパターン。
(このあたりは川、駅、脇道しか撮るものがございません)
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でもこの脇道、ほんの500mくらいですが、雰囲気は良かったです。
まずは旧道カーブ
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そして路地。高架の上を通っているのが国道1号です。
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そして再び国道へ。合流するポイントには道祖神があります。
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二宮と国府津のちょうど中間付近。なだらかな下り坂にさしかかるところでまたも脇道へ。
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道が分岐するところに一里塚がありました。日本橋から18番目の一里塚です。
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脇道を進むと、「松屋本陣の跡」という標柱と説明板が。
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前述のように大磯宿と小田原宿とは16kmも離れているので、
ちょうど真ん中あたりに位置するこの場所には、
茶屋や商店が立ち並び、旅人達の休憩所になっていました。
こうした宿場間の休憩所のことを、間の宿(あいのしゅく)と呼びます。
松屋本陣は、幕府役人や大名が休憩所として利用していたそうです。

ちなみにこの松屋本陣の跡は、思い切り普通のお宅の庭の中に立っています。
自宅の敷地に史跡があるってすごいね。
IMG_1474




松屋本陣を過ぎると下り坂。坂の先で国道1号に再び合流します。
坂の名前は押切坂。曇ってて写真には映ってないけど、向こうに海が見えました。
(指が映り込んでしまった…)
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押切坂を下りきったところにあるのが押切橋。
下に流れるのは中村川
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川を渡って先はゆるい上り坂。坂の途中でついに小田原市に入りました。
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海が見える〜。またしても写真には映ってないけど、伊豆半島の方までぼんやり見えました。
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国府津駅を通過します。小田原まではあとひと駅分の距離。
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国道1号、国府津駅前の様子。
小田原市に入ったからなのか、道の雰囲気がどことなく「歴史」っぽい感じになりました。
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立派なお宅。昔はお店だったのでしょうか。
このあたりは古い建築がたくさん並んでます。
IMG_1487

路地もいい感じ。写真は撮れなかったけど猫がいました。
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親木橋の交差点。森戸川を渡ります。
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そして、ついに案内板に「箱根」の文字が見えてきました。
12kmと聞くとそんなに遠くない気がするけど……。
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ようやく来ました、酒匂川
…それよりもまず「シカに注意」の表示板に目が行く。
シカ出るの、ここ?!
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ちなみにこの後、写真の右に映ってるおじさんに、
「東海道走ってんの?頑張って!」と応援されました。

これを渡れば小田原市内。ゴールはもうすぐ。
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ちなみに、酒匂川には昔は橋などなかったので、
多摩川や相模川と同様に旅人は渡し船を利用していました。
その渡し場が、下の写真の真ん中に見える、階段状になっている場所らへん。
(さっきのおじさんに教えてもらいました)
IMG_1494




小田原の街に入りました。
(もうこのあたりヘロヘロです)
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江戸口見附跡がありました。
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ここまでずーっと1号線を真っ直ぐ走ってきましたが、
この「新宿」の交差点でいったん1号線から離れます。
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小田原市内でいいなあと思ったのが、これ。
町名が書かれた石碑。このあと至る所で見ました。
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1号線に再び合流。
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やがて右側に「ういろう」。
『水曜どうでしょう』2010年原付東日本制覇の旅で、
藤村Dが「これが小田原城じゃねえ?」と勘違いした、あの場所です。
IMG_1507

ういろうといえば、歌舞伎の「外郎売」が有名ですが、
僕も一応、芝居をやってますので外郎売は一通り覚えてます。
で、発祥の地ということで、このあたりには外郎売の文句に出てくる名前をよく目にします。

例えば、「青物町を上りへおいでなさるれば」の青物町の交差点。
1号線に合流する直前にある交差点です。
IMG_1504

それと、「欄干橋町」の石碑。
これは「欄干橋 虎屋藤右衛門 ただ今は剃髪いたして〜」の欄干橋ですね(多分)。
IMG_1508

そういえば、「神奈川」「戸塚」「藤沢」といった東海道沿線の地名が外郎売には出てきますね。

実は「ういろう」の店の向かいが、かつて小田原宿の本陣があった場所なんだそうです。
石碑があるということだったのですが、見つけられませんでした。



そして、やってきました。箱根口の交差点。
IMG_1509

いよいよ次回は箱根の山越え。
東海道ラン前半のクライマックスでしょう。
そんな、緊張感と期待とを高まらせるこの交差点を今日のゴールとしました。


最後はかなりバテバテで、おまけに天気も悪かったのであまりスカッとしないランになってしまったのですが、
どんな形にしろ小田原まで来た、というのは達成感があります。
もっとも、次回4日目はさらに強い達成感を感じることになるでしょう。
なにせ箱根の山を一気に越えるのですから。

というわけで、次回は小田原宿から箱根の山を越えて、三島宿を目指します。

※次回レポートは3週間後(の予定)です。




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【東海道ラン】2日目:川崎〜藤沢

旧東海道を東京・日本橋から京都・三条大橋まで走る「東海道ラン」。
2日目の今日は川崎宿(神奈川県川崎市)から藤沢宿(同藤沢市)まで走ります。

(前回まではこちら)
#0日目:ルールと計画編
#1日目:日本橋〜川崎

1日目から約1カ月空いて、今日は8月頭。
季節はすっかり夏で、朝5時半の時点で既に気温は25℃。
おまけに前回は20kmの行程でしたが今回の走行距離は30kmを超える予定。
なかなか厳しいランになりそうです。

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■ (3)神奈川宿へ





スタートは前回ゴールした場所と全く同じ、川崎宿の「中の本陣」跡から。
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しばらくは川崎駅東口の繁華街の中を走ります。
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1kmちょっとほど走ると京急線・南武線の八丁畷駅を超えます。
道沿いは住宅街に。
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右側に熊野神社がありました。
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弘仁年間(9世紀前半・平安時代)に紀州熊野神社から勧請されたとされる古い神社。
なかなか雰囲気が良い神社でした。

例大祭が近いらしく、道沿いには紙垂(しで)が飾られていました。
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熊野神社から少し進んだ左手にある「市場の一里塚」。
日本橋から5番目の一里塚です。ここもお祭り仕様に。
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鶴見川を渡ります。
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鶴見川橋を渡ると左手に「鶴見橋関門旧蹟の碑」がありました。
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幕末に横浜が開港すると、攘夷浪士による外国人の襲撃事件が相次ぎました。
そのため、幕府はここに関所を設けて、江戸から横浜に入る人を監視したそうです。


ここまで真っ直ぐだった東海道はJR鶴見駅の手前で左(海側)に折れます。
写真は京急鶴見駅の高架下。
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京急線をくぐって駅前の商店街を抜けます。
おお、ベイスターズの旗が。
意外とこういうもので移動してきたことを感じる。
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やがて国道15号にぶつかります。六郷橋で分かれて以来ですね。
東海道のルートは国道を突っ切って、写真左手の細い路地へと伸びます。
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ここからは再び住宅街の中を進みます。番地でいうと鶴見区の生麦
写真に映る高架はJR鶴見線。国道駅がすぐ右手にあります。
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どうでもいいけど「国道駅」って名前、大胆に開き直っててすごい。



鶴見線の高架をくぐると、道沿いに魚屋さんが軒を連ねているのが目に入りました。
魚屋というか、ほとんどが「貝屋」さん。
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このあたり、昔は海岸沿いの道だったのでしょう。

脇の路地もいい感じ。
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そして旧道カーブ
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単なる住宅街かと思っていたのですが、
このあたりは走っててめちゃくちゃ楽しいです。



そして生麦といえば、生麦事件
国道15号と合流する手前に碑が立っていました。
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元々は道の左側(海側)にあったそうですが、高速道路の建設に伴って右側に移りました。
かなりきれいに整備されています。
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さて、東海道は再び国道15号へ合流。
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写真はJR新子安駅と京急の子安駅の中間を流れる入江川
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先ほどの貝屋さんもそうですが、川崎〜神奈川にかけての道沿いが
かつては漁村であったことを偲ばせる光景に出会えるのは、
やはり旧道だからこその醍醐味でしょう。



横浜駅のすぐ手前までやってきました。
写真に映る川は、滝の川。
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この滝の川に架けられた「滝の橋」を中心にして、かつて神奈川宿の本陣が置かれていたそうです。

ということで神奈川宿に到着。
川崎宿からここまで、ちょうど10kmでした。




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■ (4)保土ヶ谷宿へ





滝の橋の本陣をすぎると国道から青木町の商店街に入ります。
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実際に走っていると、地図を見なくても、
古い家が多かったり、昔からあるんだろうなあという小さな商店が並んでいたりといった「沿道の雰囲気」で、
旧東海道を嗅ぎ分けられるようになってきます。
実際に旧道時代からそこに住んでいるお宅が多いんだろうし、
住民が入れ替わったとしても、「街道」という特別な立地の名残は、
商店街のような形で残っています。

そして「寺社」というのも、旧道を嗅ぎ分ける目印の一つ。
この青木町の商店街にもありました。
洲崎大神(すざきおおかみ)です。
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1191年に源頼朝が館山の安房神社を勧請して建立した神社。
鬱蒼としていてとてもいい雰囲気。ひんやりとしていて、ちょっと休憩させてもらいました。
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商店街を突っ切ると、京急の神奈川駅の改札に出てきます。
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陸橋の青木橋でJRを渡ります。
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北品川の手前で渡ってからここまでずっとJRの線路よりも海側を走ってきましたが、
ここで久しぶりに陸側に移ります。



青木橋を渡って再び旧道へ。
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道の先が微妙に上り坂になっているのが分かるでしょうか。
実はこの先、保土ヶ谷から藤沢までは坂の多い難所コースなのです。
ここまでほとんど坂らしい坂を走ってないので、これが今回の旅で初の坂になります。


坂の手前の右側に神社(旧道の目印!)がありました。
大綱金比羅神社(おおつなこんぴらじんじゃ)です。
かつてはここに一里塚がありました。
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坂を上ります。
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このあたりは「台町」という番地で、その名の通り台地になっているんですね。
そして台地の頂上付近にあるのが「神奈川関門跡」。
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先ほど、川崎宿の先の鶴見川のたもとで見た「鶴見橋関門」と対をなす、
旅人を監視するための神奈川宿の西側の門になります。



台町を上った後はすぐに下り、その後は再び住宅街。
このすぐ左側50mを横浜環状1号線が通っています。
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さらに進むと、再び商店街が出現(ほら!)。
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わざわざアーチがあるところがレトロでいいですねえ。
名前は「松原商店街」。


そして商店街を突っ切った先が、相鉄線の天王町駅
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高架をくぐって、駅前の道を南に向かって進みます。
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そしてこの道を真っ直ぐ進んだ先が保土ヶ谷宿。
高札場跡がありました。
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「高札場」というのは、幕府や藩の法令を貼り出す掲示板のようなもの。
多くの人が集まる宿場には、ほぼ例外なく高札場がありました。

ここで再び、東海道線を渡ります。
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そして、先ほどの台町を過ぎてからほぼ一本道で進んできた旧東海道は、
踏切りの先で、現在の国道1号と合流する形で直角に右(西側)に折れます。
その曲がり角が保土ヶ谷宿の本陣跡。
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信号機の隣に立っている細長い碑が本陣跡
手前の道が国道1号です。

道のこちら側に脇本陣跡もありました。
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保土ヶ谷宿に到着です。神奈川宿からはあっという間。
距離にして5kmちょっとしかありませんでした。



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■ (5)戸塚宿へ





いよいよ後半戦です。

ここまでの走行距離は約15kmで予定のちょうど半分くらい。
普段ならこの程度はむしろ短いくらいの距離だし、
おまけに写真を撮りながらなのでかなりゆっくり走っているのですが、
実は既に疲れ始めています。

その原因は、荷物
実は、背中のランニングバッグには、服が丸々2着分入っているのです。
予備の水や財布など細かいものも含めて重さは約3.5kg(試しに家の体重計で測りました)。
たかが3.5kgなのですが、延々背負って走っていると、
背中、肩、ふくらはぎあたりにじわじわダメージが蓄積されていくのが分かります。

なぜ服が2着分も入っているかというと、1着は帰りの電車用
(汗だくのまま電車に乗るわけにはいきません)
そしてもう1着は、ランニングの途中で着替えるための予備のウェアです。
「予備のウェアなんて要らないんじゃないか?」と思われるかもしれませんが、
みなさんはご存じないのです。夏のランニングでかく汗の量のものすごさを。
どのくらいすごいかというと、Tシャツ短パンは言うに及ばず、
靴下がジャーッ!と絞れるくらいの量、といえば伝わるでしょうか。
(ちなみにこの日、僕が摂取した水分の量は全部で5.2リットルでした。その間トイレはたったの1回)

そういうわけで、ランニング中に着替えられる準備をしておかないと、
服を着たままお風呂に入っちゃいました!みたいな状態で
後半のつらい時間帯を走らなければいけないのです。

この日もしっかり、予備のウェアが活躍しました。
1号線を進んだ先、再び脇道(下の写真右側の道)へと逸れた先のコンビニで、
全身フル着替えをしました。
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そしてここで着替えたのは、単に行程のちょうど半分だからというだけではありません。
この後に今日最大の難所が待ち受けているからです。
それが、これ。
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右側の案内板の「権太坂」の文字が読めるでしょうか。
箱根駅伝2区の難所として知られる権太坂ですが、本物はこっち(旧道※駅伝は国道)の方。
1kmほどの距離の間に一気に60m強を上ります(傾斜度6%)。

写真で斜度が伝わるでしょうか。かなりエグイです。
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上から見下ろしたとこ。
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1kmで60m上ると書きましたが、
正確に言うとそのうち50mの高さまでは、最初の500mで上ります。
つまり圧倒的に前半がきつい。

途中、権太坂の石碑がありました。
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権太坂という名前は、旅人が道ばたのお年寄りに坂の名前を訪ねたところ、
そのお年寄りは耳が遠かったため自分の名前を聞かれたと思い、
「権太」と答えたところからきているそうです(『新編武蔵風土記稿』)。
坂のエグさとは裏腹に、ネーミングの由来はずいぶんのどかじゃねえかオイ。



そして、権太坂を上りきったところにあるのが「境木地蔵尊」。
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小さな林に囲まれた静かな地蔵堂です。
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実はこのあたりが、ちょうど武蔵国相模国との境になっていました。
境木、という名前はここからきています。
近くに標柱が立っていました。
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さて、ここから今度は一気に下ります(やれやれ忙しい)。
坂の名前は焼餅坂。昔は坂沿いの茶屋でお餅が売られてたそうです。
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少し進むと一里塚の跡がありました。
この「品濃一里塚」は日本橋から9番目の一里塚で、
ほぼ江戸当時のままの姿だそうです。
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道は完全に住宅街の路地。
ここがかつて日本の交通の大動脈だったとは信じられないようなのどかな道です。
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この先に陸橋があります。その下は環状2号線。
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このあたりは品濃坂と呼ばれる坂だったそうです。
すぐ近くにJR東戸塚駅があります。



坂を下りきると川とぶつかりました。
平戸永谷川というそうです。少しだけこの川沿いを進みます。
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この日差しの強さ、分かります?
建物の陰もないので、容赦なく体力が奪われていきます…。



やがて国道1号線に合流。
ここから今日のゴールの藤沢宿までは、ほぼ国道1号沿いを進むことになります。
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不動坂交差点。
ここで一瞬だけ国道1号線から分かれて左側の小さな道へ。
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再び国道1号線に合流。戸塚駅までもうすぐです。
ここで見つけたのが、江戸方見附跡
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見附」というのは元は番兵を置いた軍事施設のことで、
例えば江戸城の外濠沿いには「赤坂見附」「四谷見附」「市ヶ谷見附」といった多くの見附がありました。
(飯田橋駅西口に蔦の絡まった巨大な石垣がありますが、あれは「牛込見附」の跡ですね)

東海道の各宿場の入口にもこうした見附があり、
江戸側にあるものが「江戸方見附」、京都側にあるものが「上方見附」と呼ばれています。
もっとも、東海道の見附は軍事施設というよりも、
「ここから○○宿ですよ」という、各宿場の入口(出口)を表す一種の標識だったそうです。
つまり、ようやくここで僕も戸塚宿へ入ったことになります。



さらに300mほど進むと吉田大橋。ここで柏尾川を渡ります。
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上の写真のパネルに載っている絵は、歌川広重の「戸塚 元町別道」。
橋のたもとに「左かまくら道」という石柱が描かれているのですが、
ここは東海道、かまくら道、さらにもう少し先に八王子道と、
主要な街道が交差する交通の要衝だったそうです。



橋を渡るとJR戸塚駅。ここで本日3度目の東海道線横断です。
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同じく踏切り待ちをしているランナー2名は、どうやら僕と同じように東海道を走っているっぽい雰囲気。
(バックパックを背負っている時点でかなりの長距離ランナーだと想像つきます)
ここからこの2人vs僕の、壮絶なデッドヒートが始まるのです…。



このまま国道1号沿いを進み、戸塚消防署の手前に本陣跡を見つけました。
戸塚宿には2つの本陣があったそうですが、そのうちの一つ「澤邊本陣跡」。
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なお、この標柱の裏手は今も澤邊さんが住まわれているそうです。

というわけで戸塚宿に到着。保土ヶ谷宿からはおよそ9.5km。
権太坂はエグいし、日差しはキツいし、既に乳酸はパンパンです。
正直、このあと藤沢まで走りたくない気持ち満々…。

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■ (6)藤沢宿へ





藤沢まで走りたくないのは疲れてるってのもあるんですが、
そもそもモチベーションが上がらない。
なぜなら藤沢は僕の生まれ故郷だから!
知らない土地を走るのであれば、その新鮮さが疲れを忘れさせてもくれるのですが、
20年暮らして見慣れまくった街へ向かう今さら感は、
むしろ疲労を2割増しくらいに感じさせます。

うおお、全然ワクワクしねえ。
しかししょうがない。行くしかないので走ります。

本陣跡から500mほど進むと、先ほどの「江戸方見附」と対になる
上方見附跡」がありました。
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つまりここが(京都に向かう僕にとっては)戸塚宿の出口になります。
どうでもいいですけど、さっきの戸塚宿江戸方見附跡はフォルクス、
こっちの上方見附跡はサイゼリヤと、両方とも今はファミレスが建っています。
旅人はここで腹ごしらえをしろってこと?なのかな。



この先の交差点でイヤ〜なものを見つけました。
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交差点の名前見てください。「大坂下」。
絶対この先上り坂じゃん。
なにこの「覚悟しとけよ」みたいな感じ。

そして実際に始まりました上り坂。
大坂」や「戸塚の坂」など呼ばれる難所です。
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1kmで約50m上ります(斜度5%)。
斜度だけ見れば権太坂(斜度6%)よりもほんの少し楽なのですが、
前半キツいけど後半は楽な権太坂と違って、
この大坂は同じような勾配が延々1km続きます。

歩道の先に、先ほどであったライバルランナーの方の姿が見えます。
見るからにベテランランナーさんだったのですが、
さすがにこの坂はキツいらしく、歩いていました。
(僕は走りましたけど!)

坂を上りきったとこ。
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写真の中央に「つり具」という看板が見えるでしょうか。
あそこが箱根駅伝の2区→3区の戸塚中継所
駅伝のコースは僕が走ってきた旧道ルートとは微妙に違うのですが、最後が上り坂であるところは一緒。
今年2014年大会の覇者・東洋大の2区ランナー、服部勇馬くんは走り終えた直後、
なにあの坂!ムリなんだけど!」と叫んでました。
確かに最後の最後でこのダラダラした上り坂はキツいだろうなあ。

そして坂を上りきったところで箱根駅伝のコースと合流。
ここから遊行寺までは箱根駅伝3区とまったく同じルートを走ることになります。
写真は国道1号と分かれ、県道30号線に入ったところの松並木。
木陰がありがたい……。
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そして間もなくすると遊行寺坂に入ります。
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別名「道場坂」と呼ばれるこの坂は、高低差約50m。
権太坂や戸塚の大坂同様の急坂です。
箱根駅伝3区では最初の勝負ポイント。そして復路8区ではランナーを最後に苦しめる難所です。

下りきる手前にあるのが、遊行寺
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下りきったところを右に折れて、境川を渡ります。
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境川を渡って国道467号に入ると、もう藤沢宿のまっただなか。
藤沢公民館へ入るこの路地のあたりがかつて本陣だったんだとか。
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本当はこの先に本陣跡の標柱が立ってたらしいのですが、
疲れ切ってるのと、地元すぎて新鮮味ゼロなのとで、思い切りスルーしました。
(だって藤沢公民館って昔、劇団の稽古で嫌というほど通った場所なんだもの)

というわけで、最後グダグダ気味でしたが、なんとか藤沢宿に到着。
川崎宿からここまで、32.40kmでした。
1日目(日本橋〜川崎20km)から一気に10km増えたというだけでなく、
読んでもらって分かるように、途中何度も坂のアップダウンがあったので、疲労感は比べものになりません。
おまけに暑かった!

次回3日目は、藤沢宿から小田原宿まで走る予定です。




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【東海道ラン】1日目:日本橋〜川崎

7月上旬の日曜。
天気は薄曇り。気温は20度をちょっと切るくらい。
コンディションとしては悪くありません。

始発に乗って日本橋に到着したのは朝5時半ちょうど。
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いよいよです。京都までの長い旅が始まります。
おおお…。高まる!

たもとに日本各地までの里程標がありました。
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京都までは503kmとあります。
旧東海道だと550kmなので、これはおそらく現在の車道を基準にした距離なのでしょう。
でもまあとにかく「とんでもなく遠い」というのは分かる。

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■ (1)品川宿へ

今日は初日ということでまずは小手調べ(←弱気)。
2番目の宿場、川崎宿までの約18kmを走ります。





スタートしました。
品川駅まではひたすら銀座中央通り、つまり国道15号(第一京浜)を走ります。
6時前の京橋付近。誰もいないです。
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銀座の真っただ中を走ります。
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見慣れた景色のこの場所が、
はるか京都までつながっているかと思うとなんか不思議。

新橋。ゆりかもめをくぐります。
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大門を通り過ぎ、古川を渡ります。
古川、つまり広尾の天現寺橋を境に上流が渋谷川と呼ばれる川です。
渋谷駅の真下を流れるあの川ですね。
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こういう光景を見ると必ず思い出してしまうのが、
映画『パトレイバー2』のしのぶさんと柘植の密会シーン。
(あれは確か日本橋川だったけど)

田町の手前まで来ました。
本日最初の史跡を発見。勝海舟と西郷隆盛の会見の跡地です。
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江戸城の無血開城を決めた、あの会談の場所ですね。
こんなところにあるのか。歩道のすぐ脇に碑が立っています。
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泉岳寺まで来ました。品川駅はもうすぐ。
ここで、「高輪大木戸跡」を発見。
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昔はここが江戸市内への南の玄関口にあたり、
石垣と木戸(江戸後期には廃止)が築かれていました。
暗くて見えづらいですが、上の写真に石垣が映っています。
これは当時のままだそうですよ。

旅人を見送る人は、ここでお別れをしたそうです。
つまり東海道的には、ここから先がいよいよ「旅」となるわけです。


品川駅を通り過ぎて、八ツ山橋を渡ります。
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これからしばらくは東海道線よりも東側(海側)を行くことに。
ちなみに、箱根駅伝1区の最初の勝負どころである「新八ツ山橋」は、この隣にあります。

八ツ山橋を渡ると京急線の北品川駅。
その脇にある「北品川本通り」が旧東海道になります。
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日本橋からずっと広い国道沿いを走ってきましたが、
ここからはしばらく裏道を進むことになります。
微妙なカーブがいかにも「旧道」という感じ。
情緒、高まる!

また史跡を発見しました。「土蔵相模」跡。かつての旅籠屋です。
写真の中央に木製の碑が立っているのが分かるでしょうか。
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すごい地味な扱いをされてますが、
高杉晋作ら長州藩士が英国公使館焼き討ち事件(1862年)の密議をしたり、
桜田門外の変(1860年)の首謀者である水戸藩士たちが泊まったりした、
歴史的事件の舞台になった場所です。
今はファミマってところがしみじみしますね。

土蔵相模跡からさらに500mほど走ったところにありました。
品川宿本陣跡
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今は「聖蹟公園」という小さな公園になっています。
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本陣」というのは、幕府の役人や参勤交代の大名が泊まる宿泊所のこと。
地元の名家や裕福な家の家屋があてられたそうです。
ちなみに、宿泊客が本陣に泊まりきれない場合に開放された予備の宿泊所は「脇本陣」といいます。

一方、一般の旅人が泊まる宿屋が「旅籠」と「木賃宿」です。
両者は、食事を提供する宿(旅籠)と素泊まり専門の宿(木賃宿)という違いがあります。

これからの東海道ランでは、「本陣跡」をもってその宿場のゴール、セーブポイントとしていこうと思います。
というわけで、まずは1つ目の宿場「品川宿」までたどりつきました。



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■ (2)川崎宿へ



そのまま北品川の商店街を突っ切って、裏道を走り続けます。
やがて品川橋を渡ります。橋の下を流れているのは目黒川
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品川橋は、江戸時代は「境橋」と呼ばれていたそうです。
目黒川が境になって、北品川宿と南品川宿とに分かれていたことが呼び名の理由。
つまり、まだまだこの先も品川宿のエリア内ってことになります。
最低でも沿道に1km以上は宿場町が広がっていたことになりますね。

再び裏道を走り続けます。
出ました、「旧道カーブ」!
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さらに2kmほど走るとまた橋がありました。
流れているのは立会川
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橋の名前は浜川橋、またの名を「涙橋」といいます。
この先には、かつて江戸時代に罪人の処刑場があり、
ひそかに見送りに来た親族が、涙を流してこの橋で別れたことから呼ばれたそうです。

少し進むと、その罪人の処刑場がありました。
鈴ヶ森刑場跡です。
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ちょうどここで旧東海道は再び国道15号と合流します。
その交差点の一角に跡地が設けられていました。

これが「首洗の井戸」。
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周囲に高い建物があるわけではないのに、なんとなく暗い雰囲気。
ちゃんと慰霊碑に手を合わせてきました。

さて、ここから先は再び国道15号を走ります。(正直、つまらない・・・)
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京急蒲田駅を通過。(正直、つまらない・・・)
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呑川を渡ります。
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間もなく東京都も終わりです。

多摩川の手前、一瞬だけ脇道に逸れます。
左が旧東海道、右が国道。
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この脇道を少し進むと・・・・


きました六郷橋
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多摩川を渡って神奈川県へ入ります。
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南側(神奈川県側)の橋の欄干に船のオブジェがありました。
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江戸時代、この場所に橋はなかったので、
東海道を旅する人は渡し船を利用していました。
通称「六郷の渡し」。

東海道の交通上のネックは、途中に大きな河川が多いことでした。
そのため、旅人は何度も渡し船に乗る必要があったのです。
この後、東海道はいたるところに「〜〜の渡し」が出てきます。


六郷橋を渡りきると、国道15号と別れて再び裏道へ。
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こういう石碑をちゃんと残してあるところがいいですね。

川崎は、上の写真のような石碑はもちろん、
あちこちに丁寧な説明板も用意してあって、歴史を大事にしてるんだなあという印象を受けました。
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多分、歩道の石畳風なデザインも、東海道を意識してのことでしょう。
すごく素敵な演出。

さあ、本陣に到着です。
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本陣というのは一つの宿場の中にいくつかあって、
写真にもある通りここは川崎宿の「中の本陣」。かつ丼との組み合わせがシュール…。
川崎宿には他に「佐藤本陣」と「田中本陣」があります。
佐藤さんと田中さんのお宅が本陣にあてられていたんでしょうね。

ということで1日目はこれでおしまい。
ネットの情報だと日本橋〜川崎宿は17km強とあったのですが、
終わってみたら本日の走行距離は、20.7kmでした。
(この誤差が怖い。これからの計画がどうなるのだろうか…)

でもまあ、この日は比較的涼しかったし、距離も短かったので、かなり楽しく走れました。
後半は晴れ間も見えたしね。

2日目は川崎宿から僕の地元、藤沢宿まで走ります。




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【東海道ラン】0日目:ルールと計画編

いよいよ「東海道ラン」を始めます。
旧東海道を東京から京都まで、
自分の足でひたすら走り続けるというこの企画を思いついたのは、昨年の春。
ランニング練習日誌 〜2013年春編〜
計画に1年以上を費やしてしまいましたが、ようやく今年の7月にスタートを切りました。

もちろん、一気に走り通せるわけはないので、何日かに分けて走ります。
静岡以西は泊りがけになるでしょう。
なので、不定期にはなりますが、これから随時レポートをアップしていきます。
※ちなみにこの記事を書いている8月下旬現在、僕は静岡の吉原宿(富士市)までたどり着いています。

レポート第1回となる今回は「ルールと計画編」と題して、
今回の旅のルールと全行程のスケジューリングについて書こうと思います。
いずれも考えに考え抜いたものですが、なにせ「やってみなきゃ分からない」という世界なので、
スケジュールなんかは今後変わっていく可能性が高そうです。
まあ、そういうところも含めて「ドキュメンタリー」としてお付き合いください。

まずは東海道ランを始めるにあたって、僕が立てたルールについて。


■「旧道」にこだわる

東海道は江戸と京都をつなぐ昔の街道。
古くは古代の律令時代(7世紀)からあったそうですが、きちんと整備されたのは江戸時代の初期。
江戸の日本橋から京都の三条大橋までの約550kmが結ばれました。

よく「東海道=国道1号線」だと思われがちですが、厳密にはイコールではありません。
1号線はあくまで東海道に「沿って」引かれた道路であり、
かつての旧道は1号線の脇道や、場所によっては大きく離れた山道を通ったりしています。

国道1号線をひたすら走るだけなら道に迷う心配もないので楽なのですが、
どうせならやっぱり昔の人がたどったのと同じ旧道を行きたい。
旧道を走りながら昔の風景を想像しつつ、
また1号線と比較することで「昔はこんなに不便だったのか」と実感することもできそうです。
ということで、今回の東海道ランは「旧道」にこだわってみたいと思います。
※以降「東海道」と書く場合は旧東海道のことだと思ってください。



■セーブポイントは「宿場」にする

かつて東海道には江戸〜京都間に計53か所の宿場が置かれていました。
いわゆる「東海道53次」ですね。
※ちなみに東海道は17世紀前半に大阪まで延伸し、その場合宿場の数は57になります。

冒頭書いたように、今回の東海道ランは何回かに分けて行うので、
途中あちこちに「セーブポイント」を設けることになります。
そのセーブポイントは、53か所の宿場から選ぶというのが、2つ目のルール。

かつて東海道を往来した人たちは宿場から宿場へと泊まりを重ねながら移動しました。
僕もそれに倣おうかと。

ただし、宿場間の距離というのは一定ではありません。
短いところで3km、長いところでは16km以上も離れています。
なので、スケジュールが非常に重要です。
調子に乗って安易に宿場をスルーするとえらい目にあいそう。
※なお、各宿場間の距離はこちらのサイトに載っています。
東海道53次距離表 旅行用心集版



■1日の走行距離は「MAX35km」に(なるべく)抑える

泊りがけで2日以上連続で走ることが多いことを考えると、
今の僕の走力では1日に走れる距離はせいぜい40kmがいいところ。
しかし、箱根をはじめ、いたるところで山道があることや、道に迷うリスク、
さらに途中で観光(寄り道)する時間的余裕を考慮して、
ひとまず1日に進む距離は35kmを限度にすることにしました。
(それでも荷物を背負いながら走るからかなりしんどそう・・・)


【全体のスケジュール】

以上のルールを踏まえた上で、全体のスケジュールを立ててみました。

1日目:日本橋〜川崎(18km)
2日目:川崎〜藤沢(31km)
3日目:藤沢〜小田原(32km)
4日目:小田原〜三島(32km)※箱根の山越え
5日目:三島〜吉原(24km)
6日目:吉原〜江尻(28km)
7日目:江尻〜藤枝(28km)
8日目:藤枝〜掛川(27km)
9日目:掛川〜浜松(32km)
10日目:浜松〜吉田(35km)
11日目:吉田〜岡崎(27km)
12日目:岡崎〜宮(32km)
13日目:桑名〜関(40km)※宮〜桑名間は渡し船(非走行区間)
14日目:関〜石部(40km)
15日目:石部〜京都(36km)


難しかったのは、「何回かに分けて走る」という制約により、
全てのセーブポイントが「途中で引き返せること(=駅が近い。できれば新幹線)」、
もしくは「泊まれること(=ホテルや宿屋が近くにあること、そこそこ賑わってること)」の、
どちらかの条件を満たすように設定することでした。
その結果、当初の予定よりも1日の行程が短くなり、
上記のように15日間という長めのスケジュールになりました。
まあ、急ぐ旅ではないので別にいいや(お金はかかるけど…)。

あとは天気ですね。こればかりはいかんともしがたい。
9月以降は3連休がたびたびあるので、うまくそれを利用しようと思うのですが、
天気が悪ければ(台風シーズンなんだよなあ…)順延するつもりです。
なんとか年内にはゴールしたいと考えてるのですが、果たしてどうなることか。

というわけで、次回からは実際に走ったレポートを書いていきます。

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「渋谷の城」を訪ねてみた

渋谷に「城」があったことをご存知でしょうか。
東京には江戸城しか城がないと思われがちですが、
実はあったんです。
その名も、「渋谷城(しぶやじょう)」。
そうです、都心のど真ん中、トップ・オブ・ザ・繁華街の渋谷の街に、
かつてお城が建っていたのです。

もっとも、城といっても姫路城や熊本城のような、
いわゆる「お城」ではありません。
ああいった、天守をもつ壮麗なお城が歴史に登場するのは戦国期以降のこと。
渋谷城はもっとずっと昔、
平安時代の終わりごろに建てられたと見られています。


ダイナミックなルーツをもつ「渋谷一族」

渋谷城に住んでいたのは「渋谷氏」という一族でした。
渋谷氏は元々は河崎氏を名乗り、今の川崎市一帯を根城にしていました。
(川崎という地名は河崎氏からきています)
その河崎氏が11世紀の終わりごろに今の渋谷に移り住んだのを機に、
「渋谷氏」を名乗るようになります。
渋谷城は、河崎氏改め渋谷氏の、新たな拠点として建てられました。

なお、河崎氏が渋谷氏を名乗るようになったきっかけについては上記の説のほかに、
相模国(今の神奈川県)の渋谷荘に移り住んだから、という説もあります。
渋谷荘は、今は小田急江ノ島線の「高座渋谷」という駅名にその名を残しています。
川崎から相模渋谷荘に移り住んだ河崎氏が「渋谷氏」を名乗るようになり、
そこから今度は武蔵野台地の東部に移住し、
その土地を新たに「渋谷」と名付けた、という流れです。
(ずいぶんと放浪したがる一族のようですね)

神奈川出身の僕は子供の頃から、
「なんで神奈川に『渋谷』があるんだろう」と疑問に思ってましたが、
まさか本当に東京の渋谷と関係があった(可能性がある)とは。
高座渋谷は、東京渋谷とは似ても似つかない、のんびりした田舎町です。
そんな高座渋谷が実は東京渋谷の「親」にあたるなんて、
歴史をひも解くと興味深い関係性が出てきます。

ちなみに、渋谷氏の先祖・河崎氏のルーツをさらにたどっていくと、
桓武平氏にまで行き着きます(つまりは桓武天皇までさかのぼれます)。
今から1000年以上前、平安時代のはじめの頃に関東に移り住んできた桓武平氏の一族は、
はじめに「秩父氏」を名乗り、関東一帯に次々と勢力を伸ばしていきます。
(あの平将門を輩出したのもこの一族です)
この秩父平氏からは、今の東京23区の西側半分を治めていた大豪族「豊島氏」や、
「江戸」という都市名の由来になった「江戸氏」などが生まれました。
このように渋谷氏は、関東一円の歴史がすっぽり入ってしまうような、
なんともダイナミックなルーツをもった一族だったのです。


渋谷の谷を見下ろす「渋谷城」

前置きが長くなってしまいました。
で、肝心の渋谷城は一体どこにあったのか?

ここです。

大きな地図で見る

けっこう駅近です。
この、金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)という神社が建っている場所に、
かつて渋谷城がありました。

ということで、行ってきました。
渋谷駅を出て明治通りを恵比寿方面へ進むと、
ほんの400mほどで見えてくる並木橋交差点。
ここで明治通りと交差している、その名も「八幡通り」が金王八幡宮への参拝ルート。
この八幡通りは元々は鎌倉街道として整備された、歴史のある道です。
多分、渋谷氏もこの道を通ったのでしょう。

並木橋交差点から見上げた八幡通り。
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なかなかの傾斜の坂です。
渋谷はその名の通り、渋谷川が削ったゆるやかな谷になっていますが、
このあたりは特に「黒鍬谷」と呼ばれていました。
渋谷城はその黒鍬谷の縁に建てられていたのです。
鎌倉街道沿いというアクセスの良さと、
谷を見下ろす台地の上という要害性を兼ね備えた、
なかなか武骨なお城だったようですね。

八幡通りを進むと……

ありました。金王八幡宮の鳥居です。
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周りの木が日の光を遮って、
ここが日本を代表する繁華街であることを忘れてしまいます。
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金王八幡宮は、先述の河崎氏の頭領・基家という人が、
源義家に従って後三年の役(1087年)で活躍し、
その武功として渋谷の地に勧請することを許されたことで建てられました。
河崎氏は結局、この八幡宮を中心に館を構えることになり、
それがやがて「渋谷城」と呼ばれるようになったのです。

八幡宮の境内をウロウロしていたら、
渋谷城の痕跡を見つけました。
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本殿の脇に、無造作にボンッと置いてあった「砦の石」。
城の礎石として使われていたのでしょうか。
解説を読むと、渋谷城はその後、1524年に小田原の北条氏と上杉氏との戦争の際に
火をかけられて焼失したそうです。
こうして、渋谷城はおよそ400年ほどの歴史を終えたのでした。

渋谷城はなくなりましたが、
八幡宮はその後も残りました。
江戸時代に出版された観光ガイドブック『江戸名所図会』では、
絵入りで紹介されています。
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通称「赤門」と呼ばれる境内への入り口の門は、
江戸中期の建立として伝わっており、
現在は渋谷区の指定有形文化財になっています。
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『江戸名所図会』が出版されたのは江戸の終わりの頃ですから、
上記の絵に描かれた門は、まさに今目の前にある門と同じものなんでしょうね。
おおお……。


「渋谷金王丸」の伝説

金王八幡宮は、当初は単に「八幡宮」、あるいは「渋谷八幡宮」と呼ばれていました。
名前が変わったのは平安時代の終わりごろ。
渋谷一族に「金王丸(こんのうまる)」という男児が生まれ、
後に源義朝(頼朝・義経のお父さん)の家来として武功を立てました。
その活躍は世間に大きく知られることになり、彼にちなんで「金王八幡宮」と改称したそうです。

金王丸の主人である義朝は平治の乱(1159年)で亡くなりますが、
彼自身は生き残って出家し、名前を土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)と改めます。
ドラマや小説で義経の物語を読んだことのある人は、
この名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。
義経が頼朝と袂を分かち、奥州へと落ち延びていく際、
鎌倉から差し向けられた刺客として登場する人物です。
土佐坊昌俊の名前は知っていましたが、まさか彼が渋谷生まれだったとは!
物語だと、昌俊は武蔵坊弁慶にばっさり殺されちゃいますが、
実際のところは諸説あり、出家したのち、
諸国をめぐりながら旧主の源義朝の魂を弔い続けたとも言われています。

ちなみに、源義朝の愛妾で、義経の母として知られる常盤御前。
(都で一番の絶世の美女だったそうです)
旧主が愛した常盤御前を、
金王丸が渋谷まで連れてきて(こう書くとすっごいチャラい感じになりますね)、
八幡宮の近くの松で一緒に義朝の死を悲しんだ、という伝説があります。
このことから、八幡宮の南の地域を「常盤松」と呼ぶようになりました。
八幡宮のすぐ近くにある実践女子中・高校では、
校歌の中に「常盤の松の〜」という一節があり、
金王丸と常盤御前の足跡を残しています。

金王八幡宮の奥には、「金王御影堂」という小さな社がありました。
中には、金王丸が自分の姿を掘った木像が納められているそうです。
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金王丸の足跡を残す御影堂。
そこは今では、近所の猫の格好の昼寝場所になっていました。
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最後に御朱印をいただいて、
金王八幡宮へのお詣りは、おしまい。
P1020122



渋谷をずっと見守ってきた「渋谷氷川神社」

さて、せっかくなので金王八幡宮の南にある、
氷川神社(通称:渋谷氷川神社)にも足を伸ばしてみました。

大きな地図で見る

1092年創建と言われていますから、金王八幡宮とほぼ同時期に建てられたことになります。
かなり古い神社ですね。
P1020134

参道は長く、とても立派です。
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本殿への階段を上ります。
渋谷は本当に凸凹の地形ですね。
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と、ここで再び金王丸の痕跡(?)を発見しました。
P1020141

上記写真の奥の方に、相撲の土俵があるのが見えるでしょうか。
かつてここでは毎年、氷川神社の祭日になると、
「金王相撲」というものが行われていました。
いつから始まったかは定かではないものの、かなり古くから行われており、
江戸時代には江戸の町中から見物客が集まったそうです。
さすがに金王丸自身が相撲をとったわけではなさそうですが、
彼の名前はこんなところにも残っているのですね。

※ちなみにこちらは渋谷川に架かる「金王橋」。
 渋谷川が駅の地下を通り開渠になって、最初にくぐる橋です。
 こんなところにもひっそりと金王丸の名前が残っています。
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渋谷氷川神社の本殿へお詣り。
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歴史を感じる質朴な佇まいは、
絶えず時代の波と共に移ろっていく渋谷の街とは対照的です。
P1020147

一切の喧騒から隔てられたこの場所の空気を吸うと、
なんだか不思議な安心感が湧いてきます。
絶えず変わっていくものの中で、ここだけがずっと変わらないからなのかもしれません。
現代における神社やお寺の存在意義って、
厄払いとか縁結びとかだけじゃなくて、
こういう「日常と切り離す」という部分もあるんじゃないでしょうか。

そんなことを考えながら、お詣りを終えました。
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