去る5/14は、明治維新の立役者にして日本の初代内務卿、
大久保利通の命日でした。

大久保さんは薩摩(鹿児島)の生まれで、
西郷隆盛と共に幕末期の薩摩藩のリーダーとして活躍します。
西郷さんが他藩との外交や軍の指揮官を務めた「表方」だとすれば、
大久保さんは、朝廷工作や事務処理といった裏方の仕事を担当した「縁の下の力持ち」的存在。
維新後も、西郷さんは途中で政府を辞めて鹿児島に戻りますが、
大久保さんは東京に残り、近代国家としてスタートしたばかりの日本の制度整備に奔走しました。

西郷さんと比べると地味な印象をもたれがちですが、
さまざまな困難や批判にめげずに裏方仕事を続けた大久保さんに、僕はとても惹かれます。
(なので、敬意と親しみを込めて「大久保さん」と呼びます)

命日直前のGW、僕は現在の東京に残る大久保さんの足跡を訪ねました。


◆旧内務省跡

大久保さんの東京時代の足跡というと、
ほとんどが維新後に限られます。
その代表的なものが、旧内務省跡。

内務省というのは、1873年(明治6年)に設立された官庁で、
地方行政・土木・勧業・警察の全てを所管していたという、
(財務省、法務省、文部科学省以外の全部、みたいなイメージ)
今では考えられないような、権力のほとんどを一手に握っていた組織でした。
明治4年から2年にわたる欧米諸国への外遊で、
日本の遅れを肌で痛感した大久保さんは帰国後、
権力の集中によって近代化のスピードアップを図ろうと考え、内務省の設立を建言。
自ら初代内務卿に就任しました。

内務省時代の大久保さんのエピソードには、
「大久保さんどんだけすごいんだよ」みたいな話がたくさん出てきます。

例えば、前島密(日本の郵便行政の基礎を作った人)の談話。
大久保さんは、何かこう人をギュッと緊張させる威厳というものを全身から発している人物だったらしく、
大久保さんが出仕すると、自然と内務省全体が粛然とした空気になったそうです。
大隈重信や伊藤博文、普段は無駄口ばかり叩く西郷従道といった、
革命の戦火をくぐってきた猛者ですら、
大久保さんの前では自然と遠慮してしまっていたと語っています。

大久保さんは、当時の日本人にしては背が高く(175cmくらいだったそう)、
長い髭をたくわえ、おまけに「喋ったところを見たことがない」と言われるほど寡黙な人でした。
部下が仕事の相談をしにやってきても、
大久保さんは長身の身を椅子に沈め、髭をピクリとも動かさず、
ただじーっと話を聞いているだけなもんだから、
部下もだんだん焦ってきて、当初言おうと思っている以上のことを洗いざらい話してしまうんだとか。
「あの人の前に出るとヤバかった」的な発言は、
前島密に限らずいろんな人が異口同音で証言しています。

そんな大久保さんですが、だからといって独裁者的だったわけではなく、
むしろ、仕事はどんどん部下に任せて、
「責任は俺が取る」とだけ言って後は自由に仕事をさせたそうです。
内務省で養蚕業の近代化の責任者を務めた佐々木長淳の談話によると、
大久保さんは「西洋のやり方に固執せず、日本独自の製糸業を模索しなさい」と、
一切の権限を佐々木に任せて仕事に当たらせたそうです。

また、佐々木は元越前福井藩士、前島密については農家出身の元幕臣と、
同郷の薩摩藩出身者をひいきせずに広く人材を登用した点も、
当時の政府官僚の中では異例といえます。
非常にリベラルな感覚をもっていたんですね。




前置きが長くなりました。
肝心の内務省があった場所ですが、
皇居のすぐ隣、現在の内堀通りに面した一角に建っていたそうです。


大きな地図で見る
ここは江戸時代、姫路藩の上屋敷があった場所で、
維新後、明治政府に接収され、大蔵省として機能していました。
官庁としては後発だった内務省は、しばらくここに間借りしていました。
(後、昭和8年に霞が関に移転)

で、行ってみたのですが……



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なんか工事してる!
ここって確か三菱だったかりそなだったか、
銀行系のオフィスビルが建っていたんじゃなかったっけ。
ビルでも公園でも、せめて何かしら建っていれば、
対比することで140年前の情景に思いをはせることもできるのに、
この状態じゃあさすがにそんな余地はありません。



でも、よく見てみると、前の歩道に小さい説明板が立っていました。



IMG_0642

文字、薄っ!
かろうじて読めますが、もうちょっとメンテナンスしてほしいなあ。
歴史が風化していくまさに最前線をモロに見てしまった気がして、
なんだか初っ端から物悲しい気持ちになってしまいました。





◆自宅跡

気を取り直して、次へ行きます。
次に向かったのは、大久保さんの自宅跡。
多分、東京時代の大久保さんは、そのほとんどを内務省と赤坂御所(現在の赤坂迎賓館)、
そして自宅で過ごしていたんじゃなかろうかと思います。

ただ、内務省と赤坂御所の跡地はわりとすぐに調べられるのに対し、
大久保さんの自宅の住所については、さっぱり情報がない。
「裏霞が関にあった」「麹町三年町にあった」というざっくりした記述は見つかるものの、
具体的に史跡になっていたり、碑文が立っていたりするわけではなく、
資料を見ながら自力で探し当てるしかありませんでした。

ヒントになったのは、『大久保利通』(佐々木克監修/講談社学術文庫)に収録されている、
大久保さんの三男、大久保利武の談話。
この中に
「(裏霞ヶ関の)今のベルジック(ベルギー)の公使館、あれが元の家でお粗末な西洋造りでした」
という発言を見つけました。

調べてみると、確かに当初1870年(明治3年)に品川に建てられた駐日ベルギー大使館は、
一度横浜居留地に移転した後、1893年(明治26年)に霞ヶ関に引っ越しています。
しかし、肝心の住所が分からない。

どうしようかなあと何気なくWikipediaを見ていたら、
大久保さんの自邸について「(旧丹羽左京大夫邸及び旧佐野日向守邸跡、後にベルギー公使館)」という記載が。
まさかWikipediaに救われるとは…。
よく「Wikipediaはウソが多い」なんて言われますが、
今回のケースの場合、「ベルギー公使館」というヒントは別資料で既に得られているわけですから、
古地図上で「旧丹羽左京大夫邸及び旧佐野日向守邸跡」を調べて、
その位置が明治後期の地図で「ベルギー公使館」の位置と重なれば信憑性も担保できます(多分)。

早速、江戸と明治と現在、3種類の地図を探しました。
んで、どうやら「ここだろう」と思われるのが、以下の場所。
国会議事堂の脇、現在衆議院第二別館が建っている場所あたりだろうと思われます。


大きな地図で見る


このあたり、明治の初めころは「麹町区三年町裏霞ヶ関」と呼ばれていました。
三年町の地名は、現在は三年坂という坂の名前に残っています。
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財務省、文部科学省、金融庁という官庁街のど真ん中を走るこの三年坂を上りきったところが、
かつて大久保さんの自宅があった場所です。


多分、ここ。
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三年坂の方から。
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内務省跡と同様に、ここにも当時の様子をうかがえるものは残っていません。
ですが、「ここでご飯を食べ、寝起きしていたのだ」という肌感覚から広がる想像は、
内務省よりもずっと、大久保さんを身近に引き寄せます。
しばし呆然としました。

職場ではムッツリと黙って、威厳によって人を圧倒した大久保さんですが、
自宅ではうってかわって、とても子煩悩ないいパパだったそうです。
次男の牧野伸顕は「一度も怒られたことがない」と語っています。
出勤前は幼かった長女の芳子を抱いて離さず、
また、どんなに忙しくても、週末は必ず家で家族と夕食を食べるようにしていたそうです。
このあたりのエピソードは「大久保利通」というパブリックイメージからするとかなり意外で、
なんだか親近感が湧いてきます。

次週後編では、
大久保さんの終焉の地となった紀尾井坂と、
青山霊園のお墓を訪ねます。







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