今から約140年前、近代国家として産声を上げたばかりの日本において、
内務省という強力な権力機構を築くことで、
果敢にかじ取り役を務めた大久保利通。
東京に残る大久保さんの足跡を訪ねた記録の、後編です。
※前編はこちら
◆紀尾井坂
大久保さんの生涯は、暗殺という形で幕を閉じます。
1978年(明治11年)5月14日。
享年47歳でした。
暗殺の場所となったのは、現在の紀尾井町。
大久保さん暗殺事件は教科書などでは「紀尾井坂の変」と呼ばれますが、
実際の現場となったのは、ホテルニューオータニ前の路地だったと言われています。
大きな地図で見る
大久保さんは朝、自宅から馬車に乗って赤坂御所へ向かうところを襲われました。
このあたりは当時、一面の桑畑だったそうです。
路地の後ろはお堀(弁慶濠)。
さらに、紀尾井坂と清水谷坂に分かれるT字路の他に横道のない一本道だったことから、
暗殺者たちにとっては格好の待ち伏せ場所になったようです。
手を下したのは、島田一良以下、石川県士族6名。
斬奸状には、国会の開設や政府権力者の腐敗是正などを一向に改めない、
政府の専制に対する非難が書かれていました。
暗殺現場となった通りの、現在の様子です。赤坂見附側(お堀側)から見たところ。

奥の突き当りを左に曲がったところが紀尾井坂。
上れば赤坂御所は目と鼻の先になります。
現在、この通りと赤坂見附との間には弁慶橋がかかっていますが、
当時は橋はなく、大久保さんは赤坂御門(現在の半蔵門線永田町駅付近)側から迂回して
御所に通っていたと思われます。
殺される日も、上の写真の視点と同じように、
手前から奥に向かって馬車に揺られていたのでしょう。
歩いてみるとわかるのですが、
紀尾井坂のあたりは上智大学側の丘(外濠の土手?)と麹町の高台に挟まれた谷間になっていて、
霞が関方面から赤坂御所(四谷方面)へ赤坂御門経由で抜けようとすると、
一度大きく坂を下って、その後に今度は上らなければいけません。
暗殺現場の路地はいわば谷底にあたり、今でこそ道沿いは開けているものの、
当時はなんとなく暗く湿った通りだったんじゃないかという気がします。
通りをまっすぐ進むと、突き当りの右側に、清水谷公園があります。
この中に、大久保さんの哀悼碑が立っています。

これ、写真じゃ伝わりづらいのですが、目の前に立つと圧倒されるくらい、デカいです。

こんな巨大な慰霊碑って見たことない気がする。
あまりのデカさに呆然としつつ、手を合せました。
◆赤坂御所
清水谷公園を後にして、大久保さんが向かうはずだった赤坂御所を目指します。
現在の紀尾井坂。

かなりの斜度の坂で、確かに馬車にでも乗らないと毎日出勤するのは大変そうです。
当時大久保さんがどういうルートで通っていたのかはちょっとわかりません。
僕は四谷駅をグルッと回って赤坂御所、現在の迎賓館の正面に出ました。

赤坂御所は、元々は御三家の一つ、紀州藩の藩邸があった場所で、
維新後、仮の皇居にあてられていました。
大久保さんは数日に一度のペースで、
天皇に拝謁しに赤坂御所へ足を運んでいたそうです。
◆青山霊園
そして、この日最後に向かったのは、青山霊園。
大久保さんのお墓があるところです。
青山霊園は敷地が大きく、中は迷路のように入り組んでいるので、
事前にネットで大久保さんのお墓の場所を調べていきました。
(参考にしたのはこちらのサイト)
大久保さんのお墓は、敷地内を十字に走っている道路のうち、
青山通りから入った道沿いにあります。
わりとすぐに見つけることができました。

決して大きなお墓ではないものの、
訪れる者の気持ちをピリッとさせる、
静かな風格があります。
本や資料で知る大久保さんのイメージに相応しい雰囲気をもつお墓です。
本当は、お墓を写真に収めるのは無礼だなあと思ったのですが、
心の中でお断りをして、撮影しました。
やっぱりというか、この日訪れた場所の中では、
このお墓が一番グッとくるものがありました。
前回、「大久保さんに惹かれている」と書きましたが、
僕の場合は政治家、実務家としての大久保さんに憧れているのではなく、
すごく単純に、その「人となり」に興味があります。
「大久保さんの前に出ると威厳に打たれて汗が噴き出た」とか、
「笑ったところはおろか、喋ったところすら見たことがない」とか、
生前親交があった人が語る大久保さんの人間像は、
どれもが相当ファンタジックです。
人というよりも、なんだか「岩」とか「山」みたいです。
同郷の西郷さんをはじめ、規格外の「陽」の性質をもった人間は歴史上たくさんいますが、
「陰」あるいは「静」のベクトルで規格外の人というのは、
大久保さん以外にはなかなか見当たりません。
スター的資質を持たないのに、歴史に圧倒的な存在感を放つ大久保さん。
その大久保さんは、実際、評価通りの人だったのか。
もし会ったとしたら、やはり僕も威厳に打たれて背中に汗をかくのだろうか。
大久保さんのキャラクターに僕は、秀吉とか龍馬とかよりも強く、
「一度でいいから会ってみたい!」と思わせる磁力を感じます。
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内務省という強力な権力機構を築くことで、
果敢にかじ取り役を務めた大久保利通。
東京に残る大久保さんの足跡を訪ねた記録の、後編です。
※前編はこちら
◆紀尾井坂
大久保さんの生涯は、暗殺という形で幕を閉じます。
1978年(明治11年)5月14日。
享年47歳でした。
暗殺の場所となったのは、現在の紀尾井町。
大久保さん暗殺事件は教科書などでは「紀尾井坂の変」と呼ばれますが、
実際の現場となったのは、ホテルニューオータニ前の路地だったと言われています。
大きな地図で見る
大久保さんは朝、自宅から馬車に乗って赤坂御所へ向かうところを襲われました。
このあたりは当時、一面の桑畑だったそうです。
路地の後ろはお堀(弁慶濠)。
さらに、紀尾井坂と清水谷坂に分かれるT字路の他に横道のない一本道だったことから、
暗殺者たちにとっては格好の待ち伏せ場所になったようです。
手を下したのは、島田一良以下、石川県士族6名。
斬奸状には、国会の開設や政府権力者の腐敗是正などを一向に改めない、
政府の専制に対する非難が書かれていました。
暗殺現場となった通りの、現在の様子です。赤坂見附側(お堀側)から見たところ。

奥の突き当りを左に曲がったところが紀尾井坂。
上れば赤坂御所は目と鼻の先になります。
現在、この通りと赤坂見附との間には弁慶橋がかかっていますが、
当時は橋はなく、大久保さんは赤坂御門(現在の半蔵門線永田町駅付近)側から迂回して
御所に通っていたと思われます。
殺される日も、上の写真の視点と同じように、
手前から奥に向かって馬車に揺られていたのでしょう。
歩いてみるとわかるのですが、
紀尾井坂のあたりは上智大学側の丘(外濠の土手?)と麹町の高台に挟まれた谷間になっていて、
霞が関方面から赤坂御所(四谷方面)へ赤坂御門経由で抜けようとすると、
一度大きく坂を下って、その後に今度は上らなければいけません。
暗殺現場の路地はいわば谷底にあたり、今でこそ道沿いは開けているものの、
当時はなんとなく暗く湿った通りだったんじゃないかという気がします。
通りをまっすぐ進むと、突き当りの右側に、清水谷公園があります。
この中に、大久保さんの哀悼碑が立っています。

これ、写真じゃ伝わりづらいのですが、目の前に立つと圧倒されるくらい、デカいです。

こんな巨大な慰霊碑って見たことない気がする。
あまりのデカさに呆然としつつ、手を合せました。
◆赤坂御所
清水谷公園を後にして、大久保さんが向かうはずだった赤坂御所を目指します。
現在の紀尾井坂。

かなりの斜度の坂で、確かに馬車にでも乗らないと毎日出勤するのは大変そうです。
当時大久保さんがどういうルートで通っていたのかはちょっとわかりません。
僕は四谷駅をグルッと回って赤坂御所、現在の迎賓館の正面に出ました。

赤坂御所は、元々は御三家の一つ、紀州藩の藩邸があった場所で、
維新後、仮の皇居にあてられていました。
大久保さんは数日に一度のペースで、
天皇に拝謁しに赤坂御所へ足を運んでいたそうです。
◆青山霊園
そして、この日最後に向かったのは、青山霊園。
大久保さんのお墓があるところです。
青山霊園は敷地が大きく、中は迷路のように入り組んでいるので、
事前にネットで大久保さんのお墓の場所を調べていきました。
(参考にしたのはこちらのサイト)
大久保さんのお墓は、敷地内を十字に走っている道路のうち、
青山通りから入った道沿いにあります。
わりとすぐに見つけることができました。

決して大きなお墓ではないものの、
訪れる者の気持ちをピリッとさせる、
静かな風格があります。
本や資料で知る大久保さんのイメージに相応しい雰囲気をもつお墓です。
本当は、お墓を写真に収めるのは無礼だなあと思ったのですが、
心の中でお断りをして、撮影しました。
やっぱりというか、この日訪れた場所の中では、
このお墓が一番グッとくるものがありました。
前回、「大久保さんに惹かれている」と書きましたが、
僕の場合は政治家、実務家としての大久保さんに憧れているのではなく、
すごく単純に、その「人となり」に興味があります。
「大久保さんの前に出ると威厳に打たれて汗が噴き出た」とか、
「笑ったところはおろか、喋ったところすら見たことがない」とか、
生前親交があった人が語る大久保さんの人間像は、
どれもが相当ファンタジックです。
人というよりも、なんだか「岩」とか「山」みたいです。
同郷の西郷さんをはじめ、規格外の「陽」の性質をもった人間は歴史上たくさんいますが、
「陰」あるいは「静」のベクトルで規格外の人というのは、
大久保さん以外にはなかなか見当たりません。
スター的資質を持たないのに、歴史に圧倒的な存在感を放つ大久保さん。
その大久保さんは、実際、評価通りの人だったのか。
もし会ったとしたら、やはり僕も威厳に打たれて背中に汗をかくのだろうか。
大久保さんのキャラクターに僕は、秀吉とか龍馬とかよりも強く、
「一度でいいから会ってみたい!」と思わせる磁力を感じます。
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