週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

舞台

舞台 『演劇企画フジサワパンチ シーン&シーン 〜2015・春 10周年大感謝祭〜』

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同じストーリー・同じ台詞なのに
作品が「変化する」ということ


先日見に行ってきた芝居のレビューを書きます。
が、おそらくこの作品のことを知っている人はいないでしょう。
なぜなら客席には僕を含め8人しかいなかったからです。
したがってレビューというものも、これが世界唯一だと思います。

その作品とは、演劇企画フジサワパンチの『シーン&シーン 〜2015・春 10周年大感謝祭〜』。
「演劇企画フジサワパンチ」という、この風変わりな名前の劇団(?)は、
その名も「フジサワパンチ」というステージネームで活動する俳優の、1人ユニットです。
サブタイトルにもある通り、今年の春で活動開始からちょうど10年を迎えました。
10年間、高円寺のライブハウス「ALONE」を拠点としながら、
延々とひたすら一人芝居を続けてきたのです。

実は、彼と僕とは劇団仲間で、15年以上一緒に芝居をやってきました。
ですので、形としてはまず劇団があって、
その後に彼が個人的にフジサワパンチというユニットを始めたということになります。
しかし、気付けば劇団よりもフジサワパンチの方が圧倒的に公演回数を回数を重ねていて、
「本体とサイドプロジェクト」のような関係は、今ではすっかり逆転してしまいました。

最近のフジサワパンチは、「シーン&シーン」と銘打って、
毎回7〜8人の異なるキャラクターを演じるというオムニバス形式をとっています。
今回は10周年ということで、これまで彼が演じてきたキャラクターのベスト版のような構成でした。
なので、感想も今回上演された8つのシーンについてそれぞれ書いてみます。

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■ コンタクトのアイランド
「コンタクトのチラシ配り」という生産性ゼロなアルバイトに、
異常な勤勉さと向上意欲を発揮する不器用な青年の物語。
フジサワパンチの定番ネタの一つで、僕が見に行くときはほぼ毎回見てる気がします。

最初にこのネタを見たのは僕がまだ20代の頃だったと思うのですが、
不思議なもので、当時は主人公の青年に対して、
「不器用だけど頑張れ!頑張ってればいつか正社員になれる!」みたいな、
のほほんとした牧歌的な空気を感じていたのですが、
30代半ばになった今見ると、
一体彼はいくつまでコンタクトのチラシ配りを続けるのか?」という、
こっちがハラハラするような悲壮感じみたものを感じるようになりました。
50歳くらいになっても彼がまだコンタクトのチラシ配りをしていたらどうしよう。

台本は変わらないのに、演じる側・見る側の年齢の変化でキャラクターが違って見える。
このことは、10年続けてきたからこその到達点かもしれません。


■ プロのトラ
初見でした。
「トラ」というのはドラマのエキストラのこと。
何十回とエキストラを経験して、
現場で出る弁当のメニューから助監督さんの性格にまで精通し、
いつの間にか業界人のようになってしまった「プロのエキストラ」のお話。

ただのエキストラのくせに俳優よりも俳優っぽくふるまう「プロのトラ」は、
ひとことで言えば「イタい」んだけど、前述『コンタクトのアイランド』と同様に、
考えようによってはものすごい悲哀を感じるお話でもあります。


■ 全力工事現場
建設会社で長年経理をしてきた中年社員が、
たまには現場の雰囲気を感じようと工事現場の歩道で誘導員をやってみたら、
トラックが出る時も歩行者が通る時も、
全身全霊の猛烈なハイテンションで誘導役をしてしまう、というお話。

台詞中心の芝居が多いフジサワパンチの中では、珍しく肉体系の芝居です。
アクションはキレキレでそれ自体は面白いんだけど、
30代のフジサワパンチが普通に全力でやってしまうから、
「経理畑の中年社員」という肝心のキャラ設定さえも吹っ飛んでしまうのが惜しい。


■ ノー・キャント・ロッカー
これも初見。
今回、実は一番笑ったのはこれでした。
自称シンガーソングライターの「りゅうぞう」がステージで喋って歌うという、
会場が実際のライブハウスであることを生かした芝居。

りゅうぞうはギターの弾き語りスタイルなんだけど、
小道具は使わずに、ギターを構えた状態(マイム)で芝居をしてるから、
僕はてっきり「ギターを持っているという設定」なんだと思ってたら、
後半、りゅうぞうは実際にギターを「持ってない(弾けないのでエアギター)」ということが分かります。

特にオチもないし、途中本当に自作曲(けっこう長め、しかもちょっといい歌風)を歌ったり、
つかみどころがなくてかなりシュールなんだけど、
りゅうぞうのキャラクターが本当に高円寺界隈にいそうな雰囲気があって、僕は好きでした。


■ バーバー市橋
墨田区の下町で昔から営業している床屋の親父が、
お店で彼の友人と延々くだらない話を喋っている、というお話。
ベースのネタは何回か見たことがあるんだけど、会話の内容が毎回変わります。
今回は「花見したいけどまだ桜が咲いてないから、
友人の頭を桜に見立てて店で花見をする」というもの。

これまではいつも肝心の会話の内容がイマイチで、
強引に親父のキャラクターで持っていくようなところがあったんだけど、
今回は親父たちの話の内容が練られていて面白くて、初めて笑いました。


■ マー君
『コンタクトのアイランド』と並ぶフジサワパンチの定番ネタ。
久々に実家に帰ってきたヤンキーが母親と一緒にカレーの材料を買いに行く、というお話。

ストーリーの流れはわりとよくあるもので、
これもまた、以前はキャラクターで強引にもってくようなところがあったけど、
数年ぶりに見たら、台詞の間とか視線のちょっとした動きとか、
技術的な面が大きく改善されていて、オチが分かってるのにクスリとしてしまいました。


■ 富岩くんのお花見大作戦
基本的にフジサワパンチという俳優は、
何かを付け足す、加えるという「足し算」で役作りをする傾向があります。
『コンタクトのアイランド』や『マー君』、『バーバー市橋』といった古いネタが、
「キャラクターありき」で作られているのはそのせいだと僕は見ています。

ところがこの「富岩くん」というネタは、珍しく「引き算」で作られています。
台詞は少なく、ほとんど独り言で、しかもものすごく小声なんだけど、
その「主張しないこと」によって観客の注意を引き込ませています。
もうちょっと長い尺でもできるかどうか、見てみたい。


■ 近所の中畑さん
これもだいぶ前からやっているネタで、
OPが『コンタクトのアイランド』、ラストが『近所の中畑さん』というのが定番の流れ。
(つまりラモーンズでいうところの<Durango 95><Pinhead>だ)
フジサワパンチ演じる中畑さんという初老の職人が、
近所に住む若者に向かって他愛もない世間話や軽い人生訓を垂れるという会話劇です。

何回も見ているのですが、実はこれまでは毎回「良くないなあ」と思ってました。
理由は単純で、年齢が明らかにミスマッチだから。
20代で還暦の人を演じるのはさすがに相当難しい。
しかもこのネタ、かなりしっとりとした会話劇なのでごまかしも利きません。
なので、僕はずっと「なぜこのネタをやるのか」と思ってました。

ところが、演じるフジサワパンチが30代半ばになった今、
彼が中畑さんを演じる違和感は、だいぶ小さくなりました
もちろんまだ無理があるのですが、おそらくこれからさらに溝は縮むでしょう。
前述『マー君』が、年齢をとるごとに演じるのがキツくなっていくであろうこととは反対に、
この『近所の中畑さん』はこれからしっくりくるネタなんだろうなあと思いました。

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同じ劇団の仲間ということで、
「身内のひいき目」が無いと言ったらウソになるでしょう。
それに、身内の芝居のレビューをぬけぬけと書いてしまう、
僕の良識もどうなんだという突っ込みもあるかもしれません。
それでも何かしら感想を書きたいと思ったのは、
ひいき目を差し引い(たつもり)ても、今回の舞台が面白かったからです。

それは、『コンタクトのアイランド』や『バーバー市橋』、『近所の中畑さん』のように、
演じる側・見る側の年齢の変化によって、
芝居の印象が如実に変化することを実感できたからでした。
同じ物語、同じ台詞であっても、環境の変化によって絶えず作品がアップデートされるのは、
生の舞台にのみ与えられた特権です。
まさに、10年続けてきたことの成果といっていいでしょう。

ただ、同時に、そうした変化を共有できるのは、
フジサワパンチが何年も同じキャラクターを演じ続けているからでもあります。
それは、比較的フットワークの軽い一人芝居というスタイルだからこそできることです。
僕らの劇団のように、数年に一回しか公演を打てない状況では、
やはりまずは「新作をやろう」ということになるので、なかなか実現は難しい。
そういう意味で、彼のスタイルがうらやましいとも感じます。

そしてホームページもSNSのアカウントももたず、告知はごく限られた知人のみという、
時代に逆行するかのようにクローズドな活動を続けるフジサワパンチなので、
(だからこそ客席が8人なのです)
僕も次の公演予定とかまったく知らないのですが、
分かったらお知らせします。




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舞台 『朝日のような夕日をつれて 2014』

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「ひとりで立ち続ける」は
僕自身の言葉になった


劇作家・演出家の鴻上尚史が主宰するKOKAMI@networkの舞台、
『朝日のような夕日をつれて 2014』を見てきました。
鴻上さんがかつて率いた伝説の劇団「第三舞台」の出世作であり、
これまで計6回も再演を繰り返してきた代表作です。
第三舞台は2011年に解散してしまいましたが、
大高洋夫小須田康人という劇団時代からの役者2人を含めたプロデュース公演という形で、
実に17年ぶりに再演されることになりました。

17年前に上演された(つまり前回の)『朝日のような夕日をつれて 97』は、
僕が初めて見た第三舞台の作品でした。
正確に言えば僕が見たのは生の舞台ではなく、ビデオでした。
ビデオでしたが、僕にとっては未だにあの『朝日 97』に勝る演劇体験はありません。

起承転結はおろか、「誰がああしてこうして」というストーリーの体裁すらとっていない物語。
マシンガンのように放たれる洪水のようなセリフ(しかもそのほとんどはギャグ)と、
そこに何の脈絡もなく挿入される大音量の音楽とダンス。
当時僕が知っていた「演劇」というもののセオリーをことごとく打ち砕くような作品だったのに、
なぜだかものすごく面白かったのです。

わからないのに面白い」という体験そのものが衝撃でしたし、
そしてその面白さは、単に「笑える」という表層の面白さだけではなく、
「こんなにもわけがわからないのに、言葉や役者の表情の一つ一つがグサグサ刺さる」という、
内面的な意味での面白さであることが、また衝撃でした。
あの作品を見る前と後とでは、僕の感性や思考の配列はガラリと変わったという実感があります。
そのくらい、僕にとっては強烈な体験をもたらした作品でした。

ただ、正直に言えば、僕は今回の『朝日 2014』にはそこまで期待はしていませんでした。
というのは、この作品が「男5人による延々と終わらない遊び」という、
役者(&スタッフ)同士の濃密な関係性を前提とした構造をしているため、
1回限りのアンサンブルであるプロデュース公演という形では、
限界があるだろうと思っていたからです。

例えば、長年連れ添った夫婦が「言葉を発しなくても成立する間」をもっていたり、
古い付き合いの友人グループが「グループ独特のノリ」をもっていたりするように、
『朝日』という芝居の面白さの核になっているのは、個々の役者の演技力というよりも、
劇団という濃厚な集団だけがもつ「非言語的な何か」でした。
だからこそ、出演者の半数以上を第三舞台以外の役者が占める今回の『朝日』では、
かつてのような面白さは期待できないんじゃないかと思っていたのです。
僕は、第三舞台が解散した今になって『朝日』が見られることに喜びを感じる半面、
実は内心では半信半疑な気持ちをもっていました。

で、実際に生で見たわけなのですが、結論から言うと、想像していたよりずっと面白かったです。
…ってなんかすごいイヤな言い方になっちゃってますけど、
でもホント、事前の心配が吹っ飛ぶくらい楽しめました。
楽しめた理由は単純。
半信半疑だった「第三舞台以外の役者」3人(藤井隆・伊礼彼方・玉置玲央)が、すごく良かったからです。

藤井隆のゴドー1は、歴代の中で初めて「ちょっと弱そうなゴドー」になったという点で新鮮でした。
(歴代ゴドーは全員体育会系だったところに初めて生まれた文化系のゴドーでした)
彼にしかない味が出てたと思います。
伊礼彼方のゴドー2はセリフ回しがすごく堂々としてて良かったです。
パワフルだし、賢そうにもアホそうにも見える幅広さがあるし、
将来的には彼がゴドー1を務める可能性もあるんじゃないかと感じました。
玉置玲央の少年も素晴らしかったです。ハイテンションなあの役に負けてなかったですね。

ただ残念だったのは(というか過去作を見てる人はほとんどそうだったと思うんだけど)、
舞台を見ている間ずっと、頭の中で「かつての『朝日』」と比べてしまったことです。
大高さんと小須田さんが目の前にいるのに、
僕は2人の芝居と頭の中の映像とが合っているかずれているのかの「確認」に追われてばかりでした。
もちろん、これは作品の出来が原因ではなく、
僕の思い入れ、あるいは「生の『朝日』を見るのが初めて」という個人の事情によるものです。
なので、今回の『朝日』がどうだったのかという感想については、ちゃんとは語れません。
「今回の『朝日』」を味わうためにも、もう一度見たいというのが今の正直な思いです。



……というのが見終わった直後の率直な気持ちだったのですが、
実は家に帰ってから、ふつふつと考えたことがあります。
それはこの芝居のテーマの一つでもある「ひとりで立ち続ける」ということについて。
ちょっと長いけど、オープニングとエンディングで登場人物全員が群唱する、
この作品のキーとなる一節を引用します。

朝日のような夕日を連れて
僕は立ち続ける
つなぎあうこともなく
流れあうこともなく
きらめく恒星のように
立ち続けることは苦しいから
立ち続けることは楽しいから
朝日のような夕日をつれて
ぼくはひとり
ひとりでは耐えられないから
ひとりでは何もできないから
ひとりであることを認めあうことは
たくさんの人と手をつなぐことだから
たくさんの人と手をつなぐことは
とても悲しいことだから
朝日のような夕日をつれて
冬空の流星のように
ぼくは ひとり


初めて『朝日』を見た19歳のとき、僕はこの「立ち続ける」というフレーズに強く憧れました。
誰にも寄りかからずに、何物にもすがらずに、ひとりで立ち続ける。
それは、強い意志や自負心とは裏腹に、親の庇護を受けなければならなかったり、
さみしさに負けてその場限りの連帯に逃げ込んでばかりいた当時の僕にとって、
目指すべき指標であり、ある意味では耳の痛いフレーズでした。

で、14年経って久々にこのフレーズを耳にして(今でもそらで言える!)思ったのは、
『ひとりで立ち続ける』なんて不可能じゃないか?」ということ。
さみしさを紛らわすために何かに依存することをやめたり、
「自分が何者でもない」ということから目を背けるためにどこかに所属することを一切拒否したり、
そんな鋼鉄のような心の持ち主は、果たして世の中にどれだけいるのでしょうか。
少なくとも僕はムリだし、この先も多分そうはなれないような気がします。

14年前に初めて『朝日』を見たのは、ちょうど僕が仲間と一緒に劇団を立ち上げた直後でした。
大学のくだらない人間関係ゲームを断ち切って、何物の庇護も受けずに自分の好きなことをやる。
そういう思いが、「ひとりで立ち続ける」というフレーズと重なりました。

しかし、実際の当時の僕自身はというと、大学からドロップアウトしたという負い目を打ち消すために、
劇団という存在にすがっていました。
一生懸命に芝居を作っていた情熱の正体は、なんのことはない、
「何者でもない自分」から逃避するための必死さに過ぎなかったのです。
「ひとりで立ち続ける」というフレーズに憧れていたくせに、
実際にはどんどんそこから遠い場所へと走っていただけだったんですね。

自分がそういう悪循環的な精神状態に陥っていることを自覚し、
そしてそこから抜け出すのに、結局僕は10年かかりました。
抜け出すというのは、「劇団が無くなっても困らない」という状態に自分をもっていくこと。
多分、当時の僕は劇団が無くなったら生きていく支えを失うようなダメージを負ったでしょう。
「依存」ということの見本例のような状態だったのです。

ただ、すごく厄介だなと思うのは、劇団への依存から抜け出すために僕がとった方法は、
新たな依存を作り出す」ということでした。
それは例えば趣味であったり、仕事上の目標であったり、家族だったりしたのですが、
要は「劇団が無くなっても俺には○○がある」という風に自分を作り変えることでした。
一応、既にそのときには「依存」というものへの自覚と警戒心があったので、
あくまで劇団への重たい依存から抜け出すため、バランスを取り戻すための、
「一時的でテクニック的な依存」ではあったのですが、
結局新たな何かにすがらなければ別の何かを捨てられない自分にがく然としたのを覚えています。
だから僕は「ひとりで立ち続ける」というフレーズに対して、
高く分厚い城壁を前にしたような、ほとんど呆然とするような思いを持つのです。

しかし、だからといって『朝日』のこのフレーズが、
今の僕にとって説得力がないかというと、そうではありません。
上掲の一節を改めて読み返してみると、14年前には感じなかったあることが見えてきます。

14年前の僕にとって、「ひとりで立ち続ける」と語っている人物は、「僕以外の誰か」でした。
それは、既に「ひとりで立ち続ける」ことを成し遂げた強く立派な誰かであり、
その誰かが僕に対して指し示す目標が、「朝日のような夕日をつれて僕は立ち続ける」ということでした。
しかし、今の僕にとってこのフレーズを語る人物は、「僕自身」に他なりません。
「ひとりで立ち続ける」ことの成否を問うているのではなく、
「ひとりでは耐えられない」ことを自覚した上で、
それでもひとりで立ち続けようとする「意志」としてこのことを語る、僕自身なのです。

何かにすがって生きることの甘美さを経験し、
同時に何かにすがって生きることの危うさを知り、
けれどその危うさを知ったところで結局(一時的にせよ)何かにすがりつくことをやめられない。
そのことを身をもって知った今の僕にとって「ひとりで立ち続ける」というこのフレーズは、
14年前よりもずっと「自分の言葉」になったのかもしれません。

なんだか、大きな螺旋階段を上って、
結局再びこのフレーズに戻ってきたような、そんな気がしています。


YMOの『Public Pressure』より<The End Of Asia>。
さすがにこの曲を生で聴いたときは鳥肌立ちました。







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