週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【ロック】峯田和伸

銀杏BOYZ日本武道館公演「日本の銀杏好きの集まり」

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「そこにいるマイ・フレンド」は
僕自身のことでした


 アンコールが終わって客席の電気が着くと、僕の席の近くにいた女の子が「こんなに泣くと思わなかった」と呟きました。一緒にライブを見てた妻も「これまでで一番泣いたライブだった」と言いました。そして僕にとっても、初めてポール・マッカートニーを生で見た2013年の東京ドーム公演を超えて、過去一番泣いたライブになりました。

 銀杏BOYZの武道館公演「日本の銀杏好きの集まり」は、初の武道館ワンマンとは思えないほど、雰囲気はいたって淡々としていました。あいにくの雨のせいもあったのかもしれませんが、お祝いムードという点では、6月にあったTheピーズの30周年公演のときのほうが、はるかに「お祭り」的な空気に包まれていたと思います。にもかかわらず泣けて泣けて仕方なかったのです。

 今年の7月、銀杏BOYZがリリースしたシングル<エンジェル・ベイビー>を初めて聴いたとき、僕は駅のホームで文字通り号泣しました。発売前だったのでYouTubeにアップされた粗い音質のラジオ音源だったのですが、いくら我慢しても次から次へと涙があふれてきました。

 その時に僕が思ったのは「これは俺だ」ということでした。ここで歌われているのは僕自身のことで、だからこの曲は「俺の曲」なんだと思いました。そして、俺の曲なんだから何度でも聴かなきゃと思って、家でも電車の中でも歩いているときも、しばらくのあいだは四六時中ずっと、粗い音質の<エンジェル・ベイビー>だけを聴いていました。この曲以外に聴くべき曲なんてないと思いました

 でも、ちょっと観念的な話になっちゃうのですが、ここで僕が言う「僕自身」というのは、会社に毎日おとなしく通って仕事をしたり、家で親としてふるまったりしている「今の僕」というのとは少し違うのです。じゃあどの「僕」なのかというと、毎日「死にたい」「消えたい」とばかり考えていた、20歳前後の頃の僕自身です

 当時からたくさん時間が経って、いつの間にか僕は「死にたい」「消えたい」と考えることは滅多になくなったけど、それは気づかないふりをしたり目をそらしたりするのが上手になっただけで、一枚皮を剥いでしまえば、依然としてそこには当時と何も変わらない、弱くて甘ったれで自分に自信が持てない、クソな僕がいます。<エンジェル・ベイビー>は、まさにその「クソな僕」に向けて歌われていました

 ただ、僕が泣いたのは「クソな僕」が未だに残っていることにショックを受けたからでも、「死にたい」という当時の悲しさが蘇ってきたからでもありません。むしろその逆で、そういうクソな僕でも許されたような、クソな僕でも「生きてていいんだよ」と言われたような、そういう感じがしたからでした。

 僕のちっぽけな青春や、今思うと死ぬほどイタイことやってたなって恥ずかしさや、「自分は特別だ」と思い込んでた自分の平凡さ、そしてそれを思い返して懐かしさを覚えてしまう俗っぽさまで含めて、そんなありきたりな自分というものが、銀杏の歌を聴いていると愛しく思えてくるのです。

 優しいふりをした歌があふれまくってるこの世界で、峯田は「お前はゴキブリだ」「蛆虫だ」と歌ってきます。なんて自分はちっぽけなんだろうと悲しくなります。でもその悲しさでこそ僕は救われる。どこまでもどこまでも自分のことを否定して、もうこれ以上否定しきれない、あとは死ぬだけってときに、最後に自分を肯定してくれる防波堤のような音楽です。

 10/13の武道館、1曲目に<エンジェル・ベイビー>を演奏するとき、峯田は「ハローマイフレンド!そこにいるんだろ!」と叫びました。その「マイフレンド」とは、僕のことでした。<夢で逢えたら>を演奏するとき「夢で会えたぜ!」と叫んだけど、あの瞬間に僕が会えたのは、他ならぬ僕自身でした。僕が武道館で泣けたのは、相変わらず僕がクソだからでした。そして、クソだけど生きていたいと思えたからでした。






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銀杏BOYZ特別公演「東京の銀杏好きの集まり」

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「大人全滅」と歌うバンドが
いつしか「大人のバンド」になった


お盆の真っただ中、中野サンプラザで行われた銀杏BOYZワンマン
「東京の銀杏好きの集まり」に行ってきました。
スピーカーの真横の席だったので、しばらく耳鳴りが消えませんでした。
でも、耳鳴りが消えてしまうのが名残惜しかったくらい、最高に幸福なライブでした。

銀杏BOYZは6月から、単独では8年ぶりとなる全国ツアー、
「世界平和祈願ツアー2016」を回っていました。
今回のライブはそのファイナルという位置づけ。

この8年の間に銀杏BOYZはオリジナルメンバー3人が一気に脱退し、
メンバーは峯田和伸一人になってしまいました。
一時は、峯田一人による弾き語りスタイルでライブを行っていましたが、
今回のツアーはシングル『生きたい』のレコーディングに参加したメンバー3人
(藤原寛/後藤大樹/山本幹宗)が帯同し、久々の「バンド・銀杏BOYZ」でのステージとなりました。

中でも、藤原寛と後藤大樹の2人は、
長い間同じバンド(元andymori、現AL)のリズム隊を務めているだけあって、
ものすごい安定感&存在感でした。

安定したバンドに支えられて、峯田はいつも以上に「歌」に集中している印象でした。
<べろちゅー>、CDよりもややゆっくりめに演奏された<BABY BABY>
そして「9月11日」という歌詞を「3月11日」に変えて歌われた<夜王子と月の姫>
月並みですけど、曲が沁みてくるというか、
「これってこんな曲だったのか!」と再発見したようでした。

ところどころで挿入された弾き語りの歌もすごく良かった(特に<生きたい>)。
怒鳴ったり声がかすれたり、音を外したりしても、
どれだけ無造作でもその一つひとつが成立していて、ぞくぞくするくらいかっこいい峯田の佇まいは、
まるでボブ・ディランのようでした。

ただ、その一方で、ライブDVD『愛地獄』に収録されたRISING SUNのステージに見られるような、
オリジナルメンバー4人が放つ、何をしでかすかわからない強烈な緊張感はありませんでした。
スピーカーからは耳をつんざくような混沌としたノイズが常に流れていましたが、
それも根底では理性的にコントロールされていた印象です。
僕は、銀杏BOYZという、かつては大人になることを全身で拒絶していた少年達によるバンドが、
「大人の鑑賞にも耐えうるバンド」へと変わったんだと感じました。
(会場が中野サンプラザという「大人のホール」であることも象徴的です)

危険な臭いがプンプン漂っていた当時の銀杏BOYZを知っている人にとっては、
もしかしたら物足りなさを感じたかもしれません。
ただ、僕自身はこの変化をポジティブに受け取っています。
だって、ビートルズがツアーを止めて『Sgt. Pepper’s』を作ったように、
ブライアン・ウィルソンがビーチボーイズ本体から離れて『Pet Sounds』を作ったように、
銀杏BOYZだってずっと『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』『DOOR』のままじゃいられないし、
どこかで次のステップへと進む必要があったと思うから。

音源としてその変化が結実したのが14年の『光のなかに立っていてね』だったけど、
「バンド」として変わったこと(変わらざるをえなかったこと)が示されたのが、
今回のライブだったのかなと思います。
いわばその「お披露目」の場を運よく目撃できたことで、
僕としては改めて彼らをフォローし続けようという気持ちになりました。






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プレミアムドラマ 『奇跡の人』

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「半径1メートルの世界」が
いつまでも美しくありますように


NHK BSプレミアムで4月から全8回にわたって放送されたドラマ『奇跡の人』
僕はどうしてもこの作品について書きたい。

別に主演が銀杏BOYZの峯田和伸だからってわけじゃないです。
相手役が麻生久美子で、峯田の俳優デビュー作となった、
田口トモロヲ監督『アイデン&ティティ』と同じ顔合わせだからってわけじゃないです。

いや、確かに見始めたきっかけは今書いたようなことでした。
でも、第1回を見たときから、僕はこの作品そのものに夢中になりました。
夢中になって、そしてボロボロ泣きました。
僕がこの作品を見ながら考えていたことはただ一つ。
「世界はなんて美しいんだろう」ってことです。

ドラマの主演は峯田だけど、この物語の主人公は、
麻生久美子演じる花の7歳の娘、海(住田萌乃)でした。
海は目が見えないし、耳が聞こえないし、言葉が喋れません
初めて海と会った峯田演じる一択が「ヘレン・ケラーみたいですね」と言った瞬間、
花が「この子はこの子だ!“〜みたい”とか言うな!」ってブチ切れるシーン、シビれまくりました。

そして、目も耳も口も不自由な海が、世界を知っていく冒険の旅こそが、
この『奇跡の人』という物語でした。
ただ、普通に考えれば、その旅のお供をするのは家族だったり心優しい親友だったり、
あるいはサリバン先生だったりするわけですが、
この物語の場合は、40歳手前になっても仕事もお金もない、
だけどロックという夢だけはあるという、おかしな男(一択)がその役割を負っています。

一択は海に対して「世界は美しい」とは言いません。
「君には生きている価値がある」などとも言いません。
かわりに「俺なんかにも生きてる意味っつうのがあると思うんだよね、
それが何かはわかんないんだけどさ」
などと、自信なさ過ぎることを言います。
一択はサリバン先生を意識していますが、海を力強く導くのではなく(そんな知恵もなく)、
彼自身が海と一緒に「俺はなぜこの世界に生きてるの?生きてていいの?」と悩むのです。

当然ですが、海が世界を知っていく過程は、おそろしくゆっくりです。
第2回では、海がスプーンを持ってスープを飲むことだけが描かれました。
だって、海にはスプーンもスープも見えないばかりか、「スプーン」という概念も知らないのだから。
そして、一択が世界を知っていくスピードも、同じように遅い。
とんでもなく不器用な彼は、「なぜこの世に『スプーン』という物が存在しているのか」
を考えるところからスタートするしか方法を知らないからです。

でもね、水が冷たいこと。風が吹くということ。
そんな小さなことが、海にとっては世界を知る大きな手がかりになります。
電車が通ると空気が振動して地面が揺れること。
手に持った何か(スプーン)で何か(スープ)を飲むということ。
当たり前すぎるほど当たり前で、些細すぎるほど些細な物事の一つひとつを、
一択と海を通じて、僕自身も再発見することになりました。
そして、何の変哲もない、見慣れたはずの日常が、
実はこんなにも美しかったのだと気づいて、僕は震えたのです。


だけど、次の瞬間、僕はふっと我に返り、そして大きなため息をつきます。
スプーンでスープを飲めるようになった。その一歩はなんて小さいのだろうと。
彼女がこの世界で生きていくためには、あとどのくらいの「一歩」を踏まないといけないのだろうと。

劇中でも述べられていますが、彼女は海を前にしても、それが自分の名前だと分からないし、
それどころか「名前」という概念すら知りません。
「海みたいな子が動物に生まれたらどうなる?生きていけなくなってすぐに死ぬだろう」という
山内圭哉演じる海の父親・正志の言葉は残酷ですが、真実を突いていると思わざるをえません。
この世界は、目と耳と口が不自由であっても生きていけるようには作られていない。
だとしたら、海は「間違って生まれた子」「生きてちゃいけない子」なわけです。
そんな子が、一体これからどうやって生きていけばいいのでしょうか。

僕はドラマを見終えてテレビを消すと、いつも娘の顔を覗き込みました。
娘が海と同じ境遇だったら、果たして運命を受け入れられるだろうかと、
絶望せずにいられるだろうかと思いました。
娘の存在が、消したテレビの先にいるはずの「これからの海」を想像させて、僕は途方に暮れました。


一択も花も、都倉アパートの住人たちも、一生懸命海が生きていることを祝福します。
僕だって、娘に対して「生まれてくれてありがとう!」と(本人は理解してませんが)全力で喜びを表現します。
でも、本当に大事なのは、大人が祝福することではなく、
子供が自分で自分を祝福できるようになることです。
誰かに言われたからではなく、自分自身の力で「生きててよかった!」と思えることです。
一択のいう「ラブ&ピース&ロック&スマイル」ってやつです。

そのために大人が何かしてあげられるとすれば、
「世界は美しい」ってことを、「この世界は生きる価値がある」ってことを、
見せてあげるくらいしかないんじゃないかなあと思います。
それは何も、壮大な大自然や地球の進化の歴史や名曲と呼ばれる音楽とかである必要はなくて、
足元の土の感触や、風のにおいや、スプーンの感触や温かいスープの味でかまわない。
手を伸ばして届く半径1メートルの世界にだって美しさはあるんだってことを、
教えてあげることくらいしかないんじゃないかなあと思います。

といいつつ、それは言ってみれば大人が一方的に抱いている「願望」に過ぎません。
だから、僕が「世界はなんて美しいんだろう」と思って泣けてしまったのは、
それが事実であるからではなく、
海の(娘の)これからを思って感じる不安と背中合わせになった、「祈り」であるからです。
「世界は美しい」というのは、僕にとっての「希望」なんだと思います。






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銀杏BOYZ 『光のなかに立っていてね』

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ノイズという「肉体音」と
あるバンドへの過剰な期待について


今年前半の最大の傑作が、前々回紹介したテンプルズの『サン・ストラクチャーズ』だとしたら、
最大の「問題作」は間違いなくこれです。
今年1月にリリースされた、銀杏BOYZの新作『光のなかに立っていてね』。
前作『DOORS『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』から、実に9年ぶりとなる新作でした。

衝撃を受け、混乱させられ、なんとか納得したものの、再び迷いの森に叩き込まれる――。
正直に言えば僕は未だにこの作品を、自分なりにつかまえられずにいます。
本当はリリースされた直後に記事を書こうと思ってたのですが、
なかなか言葉にすることができなくて時間がかかってしまいました。
本当は今でもうまく言葉にはできないのですが、
ゴチャゴチャならゴチャゴチャのまま、言葉にしてみます。

このアルバムを聴いたときに何よりも驚いたのは、
全曲にわたって施されたノイズ(打ち込み)の音でした。
もちろん、過去曲のリアレンジであったり、メンバー3人の脱退だったり、
他にもこの作品について語るべきところはありますが、
僕はひとまず「ノイズ」というテーマに絞って書いてみたいと思います。

というのも、やはりノイズ(打ち込み)というものが、
この作品と前2作との最も大きな違いだと思うから。
前2作にもハウリングの音や峯田和伸の叫びといった、広い意味でのノイズはありましたが、
『光のなかに立っていてね』で使われるノイズは「人工的につくられた、ノイズのためのノイズ」です。
そして、汗臭さにむせ返りそうなほど肉体的だった前作のイメージが染みついていた僕にとって、
ノイズという非肉体的な音には当初、すごく違和感を覚えたのです。

そもそも僕は、ノイズというものに対して馴染みがありませんでした。
はっきり言えば、「何がいいのか分からない」。
ノイズが一つの表現であるということは頭では理解できていても、
僕の耳はそれを単なる「不快な音」としてしか捉えられていなかったのです。

そんな中で、一つの記事を読みました。
↓↓↓
※大友良英『題名のない音楽会』でノイズ語る
「当時のスタンダードからするとビートルズはノイズ」(Real Sound)


この中で音楽家・大友良英は、ウッドストックでのジミ・ヘンドリックスを例に引き、
ノイズというのは『爆音で音を出したい』というプリミティブな衝動の表れ」と語っています。
ノイズは決して何かのメタファーであったり、観念的でひねくれた表現などではなく、
「でかい音を出してえ!」とか「でかい音は気持ちいい!」といった極めて肉体的なものなんだ、というのです。
『あまちゃん』で広く知られるようになった大友さんですが、元々は知る人ぞ知る、前衛ノイズミュージシャンです

試しに、ウッドストックでのジミヘンの<Star Spangled Banner>を聴き返してみました。

すると、確かに途中からノイズ化し、曲としての原型がどんどん破綻していくものの、
その不快感の中に、いえ、むしろ不快感があるからこそ、
もっといけ!」みたいな、「やってしまえ!」みたいな、
不思議な恍惚感が湧いてきます(という気がします)。

衝動に身を任せる快感。
ちょっとかっこつけて言えば、「死」を疑似体験する快感。
大友さんも語っていますが、これって要はパンクと同じ感覚です。
ノイズにはこういう聴き方があったのかと、僕としては目からウロコが落ちる思いでした。
(ノイズミュージックを聴く人はこういう感覚で聴いているのかな?)

この体験は、『光のなかに立っていてね』を聴くうえで大きな手助けになりました。
銀杏BOYZは、かつてギターやシャウトでやろうとしていたことを、
今度はノイズと打ち込みでやろうとしているのではないか。
人工的な音であるが、そこに込められたものは限りなく肉体的なものなのではないか
そう考えると、僕の中での本作との距離感が、ぐっと縮まった気がしました。
そして、ノイズという非自然音であるからこそ、
彼らがほぼ全ての曲に対してノイズを多用している「過剰さ」が感じられ、その過剰さの中に、
狂乱的な絶叫と童貞少年の偏執的妄想に満ちた前作の匂いをかぎとれた気がしました。



では結局、銀杏BOYZは「変わってない」のか。
それともやはり「変わった」のか。
そして、変わってないにしろ変わったにしろ、
それは一体どういう意味があるのか。
どういうメッセージが込められているのか。

……このように、何かにつけ意味やメッセージを読み取ろうと躍起になるのは、
アーティストや作品と付き合う上で、非常につまらないことです。
何も分からないまま、ただそのアーティストや作品に翻弄されている方が、
何かを分かったような気になるよりもずっと「美味しい」だろうと思います。

ただ、その上でやはり何かを解釈したいと思わせる何かが、
銀杏BOYZにはあると僕は感じています。
何か大事なことを言っているのではないか。
聞き逃してはいけない言葉が隠されているのではないか。
こうした過剰な期待を、僕は彼らに対して持っているのです。

ありていに言えばこれは「依存心」のようなもので、
ちょっと歪んでいるなあと思うのですが、
でも多分、各世代に一人(一組)くらいの割合で、
(好きとか嫌いとかそういうのとはまったく別次元で)
こういう存在はいるんじゃないかと思います。
僕にとってはブルーハーツと銀杏BOYZがそれにあたります。

<ぽあだむ>







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銀杏BOYZ 『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』

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もしもパンク・ロックがなかったら
世界はきっとつまらない


映画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』『少年メリケンサック』を観て以来、銀杏BOYZばかり聴いている。
どちらの映画にも、銀杏BOYZのボーカル峯田和伸が出演していたからだ。
俳優業でのインパクトが強い峯田だが、彼の本業はバンドマンである。

峯田和伸は90年代後半からGOING STEADYというバンドで活動を始め、2003年に解散。
その後GOING STEADYのメンバーを母体とした新たなバンド、銀杏BOYZを結成し、今に至る。
だが、銀杏BOYZ名義で発表されている音源は多くはない。
アルバムは、2005年にリリースされたこの『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』と、
同時発売された『DOOR』の2枚だけだ。
ここ数年はもっぱらシングルばかりリリースしている。

彼らのライヴはめちゃくちゃ激しい。
メンバーはいつも大暴れだし(それでも演奏が乱れないのがスゴイ)、とにかく叫びまくっている。
一番激しいのはボーカルの峯田だ。
彼はステージに立つ時は常に上半身が裸で、盛り上がってくると下も脱いでしまう。
しょっちゅうスッポンポンになるので、これまで何度か公然猥褻で逮捕されている。

そういう経歴やパフォーマンスの激しさばかりが目立つので、
峯田は(というかほとんどのロッカーが、だけど)とんでもなく下品で常識のない人間だと思われがちだ。
確かに初めてライヴを見たときは僕もちょっと怖かった。
だが、彼の作る歌を、1度でもちゃんと聴けば、それが誤解だということがわかるはずだ。
彼はものすごく素直で、ピュアなハートを持っている。
彼のブログなんかを読んでいても「正直な人だなあ」と思う。
こんなに正直だと、きっと生き辛いんじゃないかなあ、と思う。

峯田の書く詞は、いつもなんだか苦しそうだ。実際、苦しそうに歌う。
このアルバムのなかに『駆け抜けて性春』という歌がある。
その詞のなかに以下のような一節がある。

あなたがこの世界に一緒に生きてくれるのなら
死んでもかまわない あなたのために

あきれるくらいにストレートな歌詞だ。
「あなたのことが苦しいほど好き」という気持ちが、こぼれ落ちそうなくらいに伝わってくる。
良い詞だなあと思う。
「一緒に生きてくれるのなら」「死んでもかまわない」と、思い切り矛盾したことを言っているのだが、
この矛盾しているところにこそ、ありのままの気持ちの表れを感じる。
やはり峯田は正直な人なのだと思う。
言葉をごちゃごちゃ飾らない。マジメで、いつも本気な人なのだ。

一時期「青春パンク」というジャンルが流行ったことがあった。
でも僕にはどれもつまらなかった。
歌詞もメロディーも全て予定調和の、ああいうゆとり教育的音楽などが「青春」であるはずがない。
青春はもっと惨めで、自意識過剰で、切羽詰っている。
青春というならば「あの娘に1ミリでもちょっかいだしたら殺す」と、
好きな女の子への気持ちを殺意で表現する銀杏BOYZの方が、ずっとずっと青春だ。
青春という言葉を「性春」と表現する彼らの方が、ずっとずっと素敵だ。

僕はパンクというものがずっと苦手だった。
ピストルズもクラッシュも、ダムドもバズコックスも、いろいろ聴いてみたけれど、なかなか馴染めなかった。
単純すぎるギターはダサく思えてたし、
ジョニー・ロットンの声もジョー・ストラマーの声も、好みに合わなかった。

だが、銀杏BOYZを聴いて、パンクの見方が少し変わった。
というよりも、パンクというものを誤解していたことに気付いた。
パンクとは、ただ単に正直なのだ。
「全てのものに対してNO」という初期ロンドンパンクの精神は、その暴力性や衝撃度だけで語られるけれど、
ピストルズもクラッシュもみんな、ただ感じていることをありのままにパフォーマンスしただけなのである。
嘘臭いことを「嘘だ」と言い、好きじゃないことを「嫌いだ」というその精神こそがパンクなのである。
なのに僕はずっと音楽としてパンクを聴いているだけで、一番大事なハートの部分に気付かずにいたのだ。

利口になることを拒否し、上品に収まることを拒否し、適当な言葉でお茶を濁すことを拒否する。
ただただ真っ正直なパンク。
大人になればなるほど、パンクは心に沁みる音楽だ。
パンクのない世の中はきっとつまらないんじゃないかなあと、銀杏BOYZを聴きながら考えている。


<駆け抜けて性春>
ライヴ映像を基にしたPV。後半に一瞬聴こえる女性コーラスはYUKI。

映画 『少年メリケンサック』

少年メリケンサック






No Futureなおじさんたちが
No Futureなことをする


宮藤官九郎脚本・監督、宮崎あおい主演の映画『少年メリケンサック』
昨年の公開時は観れなかったので、ようやくDVDを借りて観ました。
めちゃくちゃおもしろかった!

宮崎あおいが演じるのは、大手レコード会社の契約社員。
ある日彼女はインターネットで、無名のパンクバンド
「少年メリケンサック」の衝撃的なライヴ映像を目にする。
早速スカウトをしにメンバーの元へ赴くが、現れたのはアルコール臭い中年親父(佐藤浩市)。
実は映像は25年も前のもので、少年メリケンサックはすでに解散していたのである。
だが、すでにライヴ映像はネット上で話題を呼んでしまい、
レコード会社は全国ツアーを組んでしまった。
宮崎あおいはやむなく、汚いおじさんに変わり果てたメンバーを連れてツアーに出る。
・・・というのが大まかなストーリー。

この、少年メリケンサックならぬ「中年メリケンサック」となってしまった
おじさんメンバー4人(佐藤浩市・木村祐一・田口トモロヲ・三宅弘城)が、アホで汚くて面白い。
他にも、田辺誠一演じる売れっ子アーティスト(黒人のガードマンが過剰なまでに取り巻いている)や、
勝地涼演じるアマチュア・ミュージシャン(愚にもつかない歌を弾き語る)など、
音楽好きの人には間違いなく“ツボ”な強烈キャラクターが続々登場する。
こういう「いかにも」なキャラクターで笑いを取りにくるのは、
ある意味音楽業界に対する宮藤官九郎なりの皮肉とも受け取れるが、
僕などはその毒気がツボにハマってしまい、ほとんどずっと笑ってしまっていた。

クドカンの笑いのセンスは非常に個性的なものと思われがちだが、
実はとてもオーソドックスであると僕は思う。
『少年メリケンサック』で例を挙げるなら、
足腰がフラフラすぎてマイクスタンドにぶらさがるようにして歌う田口トモロヲや、
緊張のあまり肩を叩かれただけでオナラが漏れてしまう三宅弘城などなど、
クドカンの笑いはあくまでキャラクターの生理が生み出す滑稽さや可笑しさであり、
「笑わせるための笑い」は実は一つもない。
笑いは脚本の枠を逸脱することはなく、計算され、制御されているのだ。
でなければ、彼は「脚本家」としてこれほど評価されていないはずである。

だが、この映画に関しては、他のクドカン作品に比べて情緒的である印象を受けた。
ギャグも台詞のノリも相変わらず冴え渡っている。
なのに観終わった後に残るのは儚さ、なのである。

酒浸りで、いい年して未だにエロ本読んだり喧嘩したり、
少年メリケンサックのおじさんたちは正真正銘のダメ大人ばかり。
身体もボロボロだから、もういつ死んでもおかしくない。
三宅弘城の劇中の台詞を借りれば「本格的に“No Future”」なのである。
そんなおじさんたちが、髪の毛を立てて汗だくになりながら「世界人類を撲殺せよ!」とか歌う姿は、
悲壮感を通り越してバカバカしく、滑稽を通り越して儚く映る。
No Futereな人たちがNo Futureなことをやっているのは、息が止まるくらいに美しい。

以前クドカンがインタビューで
ありったけのロックへの思い入れを『少年メリケンサック』に注いだ」と語っていたのを読んだことがある。
グループ魂というバンドを実際に組んでいることでも明らかだが、
それ以外でも、例えば刹那的で毒気のある笑いのセンスや、
情けない人間ほど愛しく書き込むキャラクター造形、
そして「意味」や「解釈」を無効化するストーリーなど、
宮藤官九郎という個性のなかには、たしかにロック的な匂いを嗅ぎ取ることができる。
インタビューの言葉をそのまま受け取れば、
『少年メリケンサック』は、クドカンにとってのいわば「私小説」ということになるかもしれない。
この映画にどことなく感じる湿り気は、そういうことなのだろう。

観終わった後、僕は無性にパンクが聴きたくなり、セックス・ピストルズを何度もぶっ通しで聴いた。
ジョニー・ロットンのがなる「No Future」は、いつにも増してキラキラしていた。


少年メリケンサック(25年前)の<ニューヨークマラソン>
この映像が物語の始まり。ボーカルは峯田和伸が演じている。

映画 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』

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走れ!!
僕らのイケニエとして


現在公開中の映画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を観に行った。
同名コミックの映画化作品で、2006年に岸田國士戯曲賞を受賞した
ポツドールの三浦大輔が脚本・監督を手がけている。
主演は銀杏BOYZの峯田和伸
僕は、この峯田が演じる主人公、田西(たにし)を見ていて、切なくて仕方なかった。

あらすじは――不器用で口下手で、何かと空回りの多い29歳の営業マン田西は、
同僚のちはる(黒川芽以)に思いを寄せている。
ライバル会社の青山(松田龍平)の手を借りて、なんとかちはると親密になれた田西だったが、
ある事件をきっかけにちはるに軽蔑されてしまうことに。
その後、ちはるは青山と付き合い始めるが、妊娠させられた挙句捨てられてしまう。
それを知った田西は、青山に決闘を申し込む。

冴えない男が恋をきっかけに成長していく、というのは物語の定石の一つだが、
この『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は、そういった一般的なビルドアップ・ロマンスとは異なっている。
なぜなら、最後まで田西には救いというものが訪れないからだ。
救いとは「彼は、明日からきっと(ほんの少しだとしても)幸せな人生を送るだろう」という予感のことである。
それがこの映画にはない。
田西はタイトルの表すとおり、ひたすらガムシャラに走りまくって、
その過程でボロボロに傷つきまくるだけなのである。切ないのだ。

田西というキャラクターには吸引力がある。
だがそれは、彼の不器用さやかっこ悪さがいじらしいからではない。
彼のちはるを思う気持ちに魅かれるのだ。
劇中、田西は言う。
「おれ、本気になれるの、ちはるさんのことだけだった」と。
この台詞がえらく心に沁みる。

本気になれるということは、エネルギーを注ぎ込める何かを持っているということだ。
だが、その何かを見つけるのは、実際にはひどく難しい。
いかに多くの人が本気になれる何かを見つけられず、エネルギーを持て余しているのかは、
趣味的な資格試験の受験者の増加や、満員続出のカルチャー・スクールの習い事教室を見れば明らかだ。

エネルギーのハケ口としてもっとも手っ取り早いのは恋愛だ。
しかし、本気で人を好きになるのは、それはそれで難しい。
大人になればなるほど、気持ちは自然とコントロールできてしまうし、
傷つかないように演技をすることも上手くなる。
田西ほど女性に対しておっかなびっくりな人間は現実には稀だが、
それはこのキャラクターがリアルでないということではなく、単に現実の僕らが処世術に長けているにすぎない。だからこそ「本気」という言葉を口にできる田西に魅かれてしまうのだ。

しかし、田西は結局は報われない。
たとえ本気になっても、良い結果が訪れるとは限らないとこの映画はいうのである。
「ちょっとくらい田西に良い目を見させてやれよ」と思う。
だがその一方で、もしこれが明快なハッピーエンドであったなら、
果たして僕はこの映画に魅かれただろうか、とも思う。
ちはると結ばれたり、青山をボコボコにしてやっつけるようなラストであれば、
スカッとはするだろうが、リアルは感じない。
そう簡単に報われたら、こちらとしてはたまったもんじゃない。
簡単に報われないからこそ、大人は本気になりたくてもなれないのだ。

田西は観客のリアルを一身に背負い、
ある意味観客の人身御供として、本気で人を好きになり、本気で傷だらけになる。
そして、何もかもが無惨な結果に終わりボロボロになった田西は、街の中を全力疾走する。
涙を拭い払うためなのか単なるヤケクソなのか、田西が走りながら何を考えているのかはわからない。
ただ、そんなボロボロになっても人は全力で走れるんだという、奇妙な感動がある。
その田西の走る姿を映して、映画は終わる。

田西を演じる峯田和伸の存在感は圧倒的。
名演を通り越して“絶演”とも言うべき壮絶な芝居を見せており、
彼を観るためだけでも映画館に行く価値があると思う。
早くも今年の最高傑作の1つに出会ってしまった。


『ボーイズ・オン・ザ・ラン』予告編
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