週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【本】●●年●月の3冊

2018年8月の3冊 〜飯嶋和一は何を描こうとしているのか〜

命はまるで
「流れ星」のように


 先月紹介した『雷電本紀』をきっかけに、作家・飯嶋和一の作品をひたすら読んでいます。とりあえずKindle化されている作品は全て読みました。一人の作家をここまでむさぼるように読んだのは、10年前の吉村昭以来かもしれません。久しぶりに「面白くて頭がおかしくなりそう」という感覚を味わいました。

 なんでこんなに面白いんだろう。読んだことある人には同意してもらえると思うんだけど、飯嶋作品って爽快感とはまったく無縁ですよね。むしろ、読んだ後は、何とも言えない重たい感覚が残ります。飲み込みづらいものを無理に胃に流し込んだような、疲労感に似たカタルシス。にもかかわらず、面白い

 飯嶋作品の特徴としてまず挙げられるのは、「悲劇」が多いということ。その最たる例が『神無き月十番目の夜』(1997年)です。


 慶長7年(1602年)に常陸の小生瀬村で起きた、女子供を含む300人もの村民全員が皆殺しにされた事件「生瀬一揆」を題材にしたこの作品は、物語の冒頭にまず結末が示され、その後は「なぜこのような事態が起きたのか」を丹念にたどるという構成をとっています。最後には全員が死ぬことを分かったうえで、その動かしようのないラストに向ってページをめくり続けるという、なんとも精神的にタフな読書を強いられる作品です

 しかし、この作品の悲劇性は、単に惨劇の規模や残酷さだけによるものではありません。傭兵集団として自治権をもっていた小生瀬村の人々の誇りや平穏な暮らしが、ほんのささいなボタンの掛け違えによって、無残なまでに破壊され尽くす様があまりに悲しいのです。

 権力者の横暴や怠慢(『雷電本紀』『神無き月十番目の夜』など)、経済第一主義(『汝ふたたび故郷へ帰れず』)、戦争(『スピリチュアル・ペイン』)といった巨大なシステムによって、家族とのささやかな生活や夢を追い求める自由な心といった「個」の幸せが、徹底的に破壊される。飯嶋作品における悲劇とは、決まってこのように「システムが個を破壊する」という形を取ります。逆に言えば、飯嶋和一という作家は、常に弱い立場である「個」の側に立ってきたということでもあります。

 江戸時代後期に自作の凧で空を飛んだといわれる世界最初の「鳥人」、備前屋幸吉の生涯を描いた『始祖鳥記』(2000年)は、飯嶋作品における「個」の位置付けが、もっとも端的に表れている作品です。


 幸吉が空を飛ぼうとするのは、本人にとってはあくまで探究心や単純な好奇心によるものです。しかし「飛ぶ」という行為が当時の常識からすればあまりに奇抜で突飛なために、幸吉の行動は政治的な文脈で解釈され、ついには犯罪者に仕立てあげられます。

 賞賛や評価のためではなく、ましてや世間にメッセージを投げかけたいわけでもなく、子供が遊びに没頭するように、ただ純粋に自分の心が求めるものを希求していく。幸吉や廻船問屋の源太郎、船乗りの杢平、浦安の塩問屋・伊兵衛ら本書の登場人物たちは、そうした瞬間の中にのみ自らの「生」を燃やす場所を見出します。

 個人の魂の救済を描くのは、古今東西の多くの物語に共通している点ですが、飯嶋作品の特徴は、その「個」を前述の通り、システムと徹底的に対比させているところです。これでもか!というくらいにシステムに「個」を叩きのめさせることで、平穏な生活の貴重さや権力を前にした個人の幸福の儚さなどが際立ち、重たいカタルシスが生まれるのです。

 そうした「システム(=悪)のスケール」という点では、大佛次郎賞を受賞した『出星前夜』(08年)がもっとも残酷です。


 この作品では、江戸時代最大の民衆蜂起である島原の乱の一部始終が描かれます。民衆が蜂起した直接のきっかけは、領民を死の淵まで搾取し続けた肥前島原藩・松倉家の悪政ですが、何十年にもわたるキリシタンへの弾圧も大きな背景の一つにありました。さらにその背後には、幕府の貿易統制や強圧的な西国経営といった時代の大きな流れがあります。そうした巨大な存在によって、罪のない子供たちが次々と死んでいく(物語の冒頭は天草地方の子供たちに疫病が流行るというシーンなのです)様子は、あまりの不条理に胸が潰れそうになります。

 島原の乱は、最後は幕府軍によって鎮圧されます。2万とも3万とも呼ばれる蜂起軍は一人残らず殺されます。彼らは重い年貢に苦しみ、心の拠りどころだった信仰も奪われ、ついには権力に殺されるのです。殺された民衆の中には、キリストが誰かも理解できないような小さな子供もいます。

 物語のラスト、登場人物の一人が夜道を歩きながら、命というもののあまりの軽さに絶望します。命の本源は死という永遠の中にあり、生はまるで、死に向かう前に一瞬だけ見える流れ星のように儚いと。けれど、その一瞬の光芒こそ愛しく感じてしまう気持ちを認めて、物語は結ばれます。

 ここで述べられる、流れ星のような命の儚さは、システムを前にした個が常に潰されるという飯嶋作品の共通の型と重なります。その意味で、『出星前夜』は飯嶋作品の核の部分がストレートに出た、総決算的な作品のように僕は思います。

 飯嶋和一はこの後、15年に『狗賓童子の島』を、今年18年に『星夜航行』を上梓しています。『狗賓童子の島』は間もなくKindle化されるはず。今か今かと、首を長くして待っているところです。




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2018年5月の3冊 〜ひたすらヤクザ本〜

 先月、中川右介の『角川映画1976-199』を読んだのがきっかけで、長い間読みたかったノンフィクション『映画の奈落 北陸代理戦争』(伊藤彰彦)を読みました。

 東映が1977年に製作した『北陸代理戦争』は、『仁義なき戦い』をはじめとする実録ヤクザシリーズの中の1作で、金沢で実際に繰り広げられていたヤクザ同士の抗争を題材にした映画です。他の実録ものは既に終わった事件を題材にしていたのに対し、『北陸代理戦争』は当時まさに進行していたリアルタイムの抗争をストーリーに絡めました。その結果、この映画の内容が逆に現実のほうにフィードバックされ、主役のモデルになった組長が映画と同じシチュエーションで殺されるという惨劇が起きたのです。


 映画という繋がりで手に取った本でしたが、実は読み終えて俄然興味が湧いてきたのは、「ヤクザ」という存在に対してでした(ちなみにノンフィクションとしては文句なしの面白さでした)。興味というのは「ヤクザって普段何してるの?」「どうやって暮らしてるの?」「どういう人がなるの?」といった、本当に素朴な好奇心です。

 ということで、ヤクザのことを知ろうといろいろ本を読んだのですが、その歴史についてもっとも体系的で詳しかったのが猪野賢治『やくざと日本人』。絶版だったので、わざわざ定価の数倍の値段で古書を買ったのですが、その価値はありました。

 まず、ヤクザの起源が戦国期の「かぶき者」にまで遡れるという、予想外の歴史の長さに驚き。その後、江戸時代になると「町奴」「旗本奴」といった形で、ヤクザも体制の下に組み入れられていくのですが、その人材的基盤となったのが、関ヶ原の西軍や大坂の陣の豊臣方についていた武士でした。

 戦に負けて浪人となった彼らは、なんとか次の時代での居場所を探そうと、仕官先を探したり寺社に居候したりするのですが、1635年の旗本諸法度で浪人の仕官や寺社・武家屋敷での寄宿を全面的に禁止されると、完全に前途を絶たれてしまいます。1651年の由井正雪の乱は、そうした行き場を失った浪人たちの不満が大きな背景になっていたとする本書の説はとても新鮮でした(これって常識なのかな)。


 実はこれを読みながら思い出したのが、山口組六代目組長・司忍が暴対法について語ったインタビュー(ネットで偶然目にしたことがあったのです)。司忍組長の発言の趣旨としては、「暴対法の締め付けが厳しくなり我々がいなくなると、行き場のない人間が生まれる。そうした人間は食べるために手っ取り早く犯罪に走るので、かえって治安が悪くなる」といった内容だったと思います。

 ヤクザは必要悪か絶対悪かという議論は、ヤクザをめぐる話のなかで頻繁に出てくるテーマですが、由井正雪の話を見ると、司組長の話が事実であることは歴史が証明してるんだよな〜と思いました。

 廣末登という若手の社会学者が書いた『ヤクザになる理由』『ヤクザと介護』という本があります。前者がヤクザになる人間を生む社会的環境について、後者がヤクザを辞めた人の実態について書かれた本で、この2冊を読むといわばヤクザの「入口」と「出口」を詳しく知ることができます。

 これらの本の中に、ヤクザを辞めた人が定職に就ける割合はわずか1%という驚異的な数字が出てきます。一方で、ヤクザを辞める人の多くが、そのきっかけを「家族ができたから」と答えるとも書かれています。

 子供が生まれたから真っ当に働こうと組を抜けたけど、仕事が見つからない。でもお金はいる。手元にあるのはヤクザ時代に身につけた犯罪の技術とネットワークだけ。となると、定職に就けなかった99%の元ヤクザは必然的に犯罪に手を染めます。しかも、今度は組の掟や暴対法といった縛りもないので、ヤクザ時代よりもむしろ凶悪な犯罪に手を付けやすくなる

 暴対法でヤクザを締め付けるのはいいけど、組を抜けた元ヤクザの人たちをどうフォローして社会復帰するかという「出口戦略」とセットで取り組まないと大問題になるよ…というのが著者の論ですが、これは司組長のインタビューと本質的には一致しています。

「入口」にしても、ヤクザを生む環境が、貧困や、古くは被差別部落など社会構造的な問題と関わっているのは明らかなので、「悪い人をやっつけろ」的に矮小化できる話じゃないんだよなあ…というのが何冊かヤクザ本を読んだ上での感想。そういう意味では、実録ものとか抗争ルポものとか、ヤクザをエンタメとして消化する系の本も何冊か読んではみたものの、個人的にはしっくりきませんでした。



 ただ、ヤクザをリアリズムで見ようとすると、当然ですがやはり(暴対法への疑問とかも含めて)陰惨で、1か月にわたってひたすら本を読んでたらさすがにしんどくなってきました。来月はもうちょい軽い本を読もう。




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2018年4月の3冊 〜「80年代アイドル」の世界へ〜

 3月に読んだ『1979年の歌謡曲』『1984年の歌謡曲』からの流れで、日本の歌謡界が「J-POP」という名前で呼ばれるようになる前の時代について興味が湧いてきました。はっぴいえんどやYMOを軸とした70〜80年代のサブカル論やロック論なら何冊か読んだことがあるのですが、今回僕が興味をもったのは、ヒットチャートや賞レースといった、もっとマス向けな「芸能界」の話。

 ということで、最初に手を伸ばしたのが中川右介『山口百恵 赤と青とイミテイション・ゴールド』。タイトルのとおり、「山口百恵」という日本の戦後芸能史を代表する一つの「事件」に関する論考なのですが、同時代の歌手の動向やプロダクションとテレビ局の話などにも細かく触れていて、当時の雰囲気を知るにはうってつけでした。


 本書を読んで素朴に驚いたのは、山口百恵は女優としても成功した人だったということ。三浦友和との出会いが映像の仕事だったということはなんとなく知ってたんですけど、この2人をペアにして時代や舞台設定だけ変えた「百恵・友和映画」が、彼女が引退するまで映画会社のドル箱シリーズだったとまでは知りませんでした。

 活動期間の短さとその中で成し遂げた変化の振れ幅、そして今なお伝説として名を残すインパクト。本書を読みながら何度もイメージを重ねあわせたのは、ビートルズでした。




 そして、本書の続編に位置づけられるのが『松田聖子と中森明菜』(執筆はこっちが先)。


 本書では「アイドルポップス」について、洋楽の影響下にあった和製ポップスが発展したもので、演歌や反戦フォークなどの自虐的な世界観とは異なり、軽やかで幸福感に満ちた世界観をもつ音楽と定義しています。そして、70年代は亜流に過ぎなかったアイドルポップスを、一気に歌謡界の主流に押し上げて、業界の仕組みも人々の好みも全ての地図を「80年代仕様」に塗り替えたのが松田聖子であり、中森明菜でした。

 彼女たちの功績は、「歌が上手い」「可愛い」といった個人の才能だけによるものではなく、ウォークマンの登場による音楽をめぐるライフスタイルの変化や、享楽的で物質主義的なマインドに傾く世相の変化といった「時代」と彼女たちの資質とが呼応した結果でした。松田聖子の圧倒的な声量と「ぶりっ子」とまで呼ばれた仕草やビジュアル。それらは70年代でも90年代でもなく、1980年という時代だったからこそ支持されたのです。松田聖子のデビューにはさまざまな幸運が重なっていますが、本書を読むと、歴史的な必然でありそれが彼女の運命だったのだと、非科学的な納得をしてしまいそうになります。

 著者の中川右介『歌舞伎 家と血と藝』を読んで以来、絶対的な信頼を寄せているノンフィクション作家です。今回は上記2冊のほかにも『阿久悠と松本隆』、『角川映画 1976-1986』を読んだのですが、その芸能文化に関する圧倒的な知識と、それらを一種の「歴史書」としてまとめ上げる筆力には改めて舌を巻きました。







 そして、上記の2冊とは視点も切り口もまったく違うのですが、非常に面白かったのがクリス松村の『「誰にも書けない」アイドル論』


 上記2冊と何が違うかというと、こっちは徹底的に「主観」によって書かれているところ。主観といっても2万枚ものレコードを所蔵する、知る人ぞ知る音楽マニアのクリス松村ですから、その知識量はハンパじゃありません。しかも自分自身が熱心なアイドルファンとして当時を体験しているので、「高田馬場にあった通称『ポルノ噴水』のところに、なぜか看板をずっと掲げていた北泉舞子さん」とか、盛り込まれてるエピソードがいちいちリアリティありすぎ。下手なデータ本よりもむしろ資料性があります。ネットの存在で音楽の「消費速度」が加速していることへの批判も、著者がいうと説得力が違う。

 本書でクリス松村は、「アイドルは可愛くなくていい」と説きます。「アイドル」というものの魅力は、初めはあか抜けない少女だったのが、華麗な歌姫や女優として成長していく様を目撃することである。未完成だからこそファンは応援しようと思えるのだから、最初は「いも姉ちゃん」で構わないのだと(あるオーディション番組の審査員として著者が呼ばれた際、「歌姫の誕生ですね」という台詞をあてがわれたが断固拒否したというエピソードはかっこよすぎます)。

 考えてみると、確かに山口百恵も、デビュー当時はまだ子供の面影を残す少女でした。だから、80年代終わりに宮沢りえや後藤久美子といった「初めから完成された美少女」が登場したのは、アイドルブーム終焉を感じさせる出来事だったと書いています。

 しかし、「アイドルは応援するもの」という論で行くなら、今のAKBなどはまさに正統的なアイドルといえそうです。実際、握手会や総選挙といった「応援」を具現化できる仕掛けも豊富です。けれどクリス松村は、所詮は同じグループ、事務所内での閉じた競争であるところに(明記はしてないものの)不満を述べます。

 著者が、80年代のアイドルブームを終わらせた大きな契機の一つとして見ているのが、おニャン子クラブです。素人性を売りにしたことでアイドルから「成長」という重要な物語を奪い取り、しかもグループという形で売り出したことで一人ひとりが記憶に残らなくなり、結果的にアイドルの消費期限を早めました。

 松田聖子や中森明菜、小泉今日子といった少女たちが、並み居るベテラン勢の向こうを張って孤独な戦いに挑んでいた様を知っている身からすると、今のAKB総選挙など、閉鎖された世界で行われる学芸会のようにしか思えないのかもしれません(明確に書かれていはいませんが、本書は秋元康批判が大きな裏テーマになっています)。

「みんなで応援する」という感覚、そして応援するアイドルを送り込む「ヒットチャート」という場所。それらは人々の好みが細分化された今となっては消えてしまった、あるいは意味をなさなくなってしまったものです。「アイドル好き」がムーブメントではなく細分化された一つのクラスタと考えるなら、AKBの総選挙が「閉じた世界」であるのは、ある意味当然だともいえます。80年代のアイドルブームとは「みんな一緒」だった時代の、最後の花火だったのかなあなんて思いました。

 当時を知らない後追い世代の僕としては、もし当時を体験したら「みんなで応援するなんて気持ち悪い」と感じるだろうなあと思うのですが、同時に、そういう雰囲気がうらやましいという気持ちも、実を言えばちょっとだけあります。





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2018年3月の3冊 〜「音楽史」あれこれ〜

 2018年はなんだか読書がはかどりません。あれこれ手を出してはちびちび読んでいるのですが、なぜか1冊読み終えられない。読書にスランプってものはあるんだろうか。そんな中で比較的読めているのは音楽関連の本、中でも「音楽史」に関する本でした。

 年明けあたりからちびちび読んでた『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』は、頭がクラクラするくらい面白い本でした。

 アメリカの商業音楽の歴史を19世紀のミンストレル・ショウから現代のヒップホップまで時代を追いながら見ていくのですが、本書の特徴は、よくある人物中心史観(ロックでいえば、プレスリー、ビートルズ、ツェッペリン、ピストルズと追っていくような見方)ではなく、当時のアメリカを取り巻く世界の政治状況や技術の発達といった社会の動向全体から音楽を捉まえていく文化史的なアプローチをとっていることです

 このことにより、例えば「ブルースは黒人の哀歌である」とか「モータウンレコードは白人ウケを狙っていた」といった通説が否定され、逆に50年代後期からブリティッシュ・インベイジョン前夜の、ブリル・ビルディング・サウンドと呼ばれる職業作家たちによる若者向けポップスなど、これまであまり重視されてこなかったジャンルの歴史的な役割が照射されます。

 非常に刺激的だったのが、終章となる第11章「ヒスパニック・インベイジョン」です。過去に公民権運動や女性の自立などが叫ばれた時代に、その動きに呼応して音楽史における黒人や女性の貢献度や重要度が“上方修正”されたことを例に引き、ヒスパニック系の人口が総人口の1/4を占めるようになる2050年前後には、ラテン音楽がアメリカ音楽史に果たした役割が大きく注目を集めるだろうと説きます。そこではロックンロールすらもラテン音楽の下位ジャンルとして認識されるという予想と説得力は目からウロコでした。

 著者の大和田俊之は慶応法学部の若い教授。ネットでは本書と同様の趣旨によって書かれたエッセイやインタビューなども読めます。最近は雑誌『BRUTUS』の山下達郎Sunday Songbook特集(←これはバイブル!)でも寄稿していました。


 続いて読んだのは、ゴジラをはじめとする東宝特撮映画の音楽で有名な作曲家、伊福部昭『音楽入門』。これもめちゃくちゃ面白かった。

 これは前述の『アメリカ音楽史〜』よりもさらに扱ってる範囲が広くて、原始音楽から人類がどうやって音楽を作ってきたかという、音楽の歴史全体について書かれた本なのですが、ここでも特定の作曲家や演奏家に焦点を当てる人物中心史観は採られていません。本書が一貫しているのは「人が音楽をどのように聴いてきたか」という素朴な視点です。

 例えば最初は単なるリズムだけだったのが、徐々にメロディが生まれ、別のメロディと重ねる和声が生まれ、それと同時に最初はごく原初的な祭礼のためのものだったのが、宗教や科学と結びついて「音楽以外の何かを表現するもの」に変遷していったりします。

 それは言い換えれば、新たな美を探していく過程なのですが、芸術で唯一モチーフを必要としない=現実にある事象や感情に縛られない音楽には、もしかしたらまだこれから先も人類が出会ったことのない美的感覚が発見されるかもしれないという期待を抱かせます。

 去年亡くなった遠藤賢司(エンケンさん)もこの本を愛読してたらしいです。


 3冊目は一転して日本の歌謡界についての本。金曜深夜にBS TwellVで放送されている『ザ・カセットテープ・ミュージック』(←毎回欠かさず見てます)でMCを務める音楽評論家、スージー鈴木『1979年の歌謡曲』

 なぜ「1979年」なのかというと、70年代の歌謡曲全盛期に陰りが見えはじめ、ニューミュージックの足音がひたひたと聴こえてきた時代の転換期であるから…というのが本書の主張。阿久悠と松本隆の交代劇やサザンオールスターズの登場が音楽史に果たした役割が読み進めるうちに次々と明らかにされ、まるで歴史小説を読んでいるかのような痛快さがあります。

 1979年を「時代の転換期」とする解釈が100%客観的事実かと問われれば、それを証明できる人は誰もいないでしょう。「所詮、著者の主観じゃないか」と指摘されたらそれまでです(それゆえ「歴史”小説”を読んでいるかのような」と書きました)。でも僕は、評論という名前にひるまずに、自身が少年時代に体験したリアルタイムの衝撃や感動といった「主観」をむしろ前面に押し出してくる著者のスタイルを強く支持します。説得力のある分析や独創性のある解釈といったものだけでなく、その人個人の思い入れが込められてないと、文章や話を聴いて「この音楽を聴いてみよう」とはならないんだよなあ。

 本書とその続編にあたる『1984年の歌謡曲』は、このブログを続けるうえでの大きなヒントになった気がします。





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2017年12月の3冊 〜謎の一族「豊島氏」を追って〜

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※中野区松が丘2丁目に立つ江古田原沼袋古戦場碑

 秩父に河越(川越)、葛西に渋谷、江戸に河崎(川崎)…。かつての武蔵国である東京・埼玉・神奈川北部には、現在地名として残っている名前を苗字とした一族があちこちにいました。なので、謎の一族「豊島氏」を最初に知ったときも、豊島区という名前の由来になった一族、つまりは現在の池袋のあたりを治めていた小領主なのだろうと想像していました。

 ところが、それからしばらく経って、たまたま近所にある北区西ヶ原の平塚神社を訪れたところ、そこがかつて豊島氏が本拠とした平塚城の跡という伝説があることを知りました。平塚神社は最寄駅が京浜東北線の上中里駅。山手線でいうと、駒込駅の北の方にあります。池袋からかけ離れているどころか、豊島区ですらありません。

 また、同じく北区の王子の北側に「豊島」という番地があります。すぐ隣に足立区が迫り、北側を流れる荒川を渡れば埼玉県という、これまた池袋からは離れた地域です。この番地のことはランニングしてて偶然知ったのですが、東京に住んでる人間からすると「北区豊島」ってかなりの違和感。ですが調べてみると、むしろ北区豊島こそが「豊島」という地名の元祖であることがわかりました。上代の頃、現在の東京都北部一帯を指す豊島郡の群衙(役所)があったのも、そして初期の豊島一族が最初に拠点を構えたのも、実はこの「北区豊島」だったのです(諸説あり)。

 豊島氏とは、いったい何者なのか?ずっと気になってはいたのですが、ようやく腰を据えて関連本をいくつか読んでみました。

 ざっと概略を説明すると、豊島氏とは桓武天皇の曾孫である平良文を祖とする一族で、秩父氏や江戸氏、河越氏などと同じ、いわゆる秩父平氏に属する氏族になります。平良文より一代遡って高望王(桓武天皇の孫)を祖と考えると、千葉氏や三浦氏、土肥氏なども同族になり、逆に豊島氏から枝分かれした支族には、後に陸奥国の領主として戦国末期まで続いた葛西氏がいます。要するに、武蔵武士団の中では最古の部類に入る名門の一族ということになります。

 秩父平氏の一部が入間川を下って現在の北区豊島〜平塚神社あたりに入植し「豊島」を名乗り始めたのは10世紀末から11世紀初めごろ。その後豊島氏は武蔵の有力な領主として、源頼義・義家親子に従って前九年・後三年の役に従軍するなど、源氏との結びつきを強め、源頼朝が挙兵した際にも源氏方として働きます。

 鎌倉、南北朝期と時代が変わる中でも豊島氏は生き延び、最盛期は現在の板橋区、練馬区、北区、豊島区、荒川区、足立区といった東京の北部一円を所領としました。

 ところが15世紀。長尾景春が関東管領上杉家と争った際に景春方についた豊島氏は、上杉家の家宰である太田道灌と敵対することになり、1477年に現在の中野区江古田、沼袋付近で繰り広げた野外戦で大敗。そのまま豊島一族は滅亡してしまうのでした。

 その後、豊島という名前は、『のぼうの城』の題材になった忍城攻防戦の城方の武将や、『大奥』で知られる絵島事件の大奥女中・絵島の生家、さらには浅野内匠頭よりも前に江戸城内で刃傷事件を起こした豊島明重など、歴史上にチラホラと出てはくるのですが、彼らと武蔵の豊島氏とが明確につながっていることを示す証拠はないそうです。



 今回僕が読んだ豊島氏関連本の中で特に内容が充実していたのは、まず『豊嶋氏の研究』。情報の細かさと、豊島と名のつくものは片っ端から拾いまくる網羅性がとにかくすごい。初版が1974年という古い本なのですが、豊島氏全体の通史を知るにはこの1冊以上の本はありませんでした。

 著者の杉山博さんと平野実さんは共に仕事の傍らこつこつと研究を重ねた在野の郷土史家で、その人生をかけた仕事ぶりにひたすら頭が下がります。

 ちなみに、江戸中期の幕臣で、豊島氏に関する史料を集め、自身も豊島氏の子孫と名乗った豊島泰盈(やすみつ)という人物がいるのですが、本書によればこの泰盈さんの奥さんの実家というのが、僕の母方の祖母の実家と同じ家らしいのです。これは読んでて椅子から転げ落ちそうになりました。完全な他人だとばかり思ってた豊島氏が、まさか(遠くて薄い縁ですが)自分とつながりがあったとは


 次に『決戦−豊島一族と太田道灌の闘い』。これは豊島氏滅亡のきっかけとなった太田道灌との「江古田原・沼袋の戦い」にテーマを絞った本ですが、豊島氏という家の歴史にまで遡りながら戦いに至った背景にがっつりと言及しているため、豊島氏の概要を知るテキストとしても役立ちました。特に豊島氏の史跡に関する情報の緻密さは前述『豊島氏の研究』以上です。

 著者の葛城明彦さんは、近年の豊島氏関連の展示会やシンポジウムには必ず登壇する、現世代を代表する豊島氏研究家。文章がめちゃくちゃ明晰で、戦死者を弔ったといわれる「塚」の存在を発掘し、そこから江古田原・沼袋の戦いがどのエリアで行われたかを絞り込んでいく様子は、かなり興奮します。


 最後が『豊島氏とその時代−東京の中世を考える』。これは1997年に平塚神社のすぐ近くにある北区滝野川会館で行われた豊島氏に関する同名のシンポジウムの採録本です。9月に読んだ『戦国関東の覇権闘争』の著者で「国衆」研究の第一人者である黒田基樹さんをはじめ、錚々たる面子が豊島氏を語っています。内容は非常に専門的なのですが、シンポジウムそのものはあくまで一般向きだったので、各講演者が言葉を噛み砕いて説明しており、読みやすいです。

 タイトルに「とその時代」とあるように、豊島氏だけがテーマではなく、同時代の社会状況や歴史的な変化から豊島氏を捉えるという「横の視点」があるところが本書の大きな特徴です。この本を最後に読んだのですが、関東中世史という大きな枠から豊島氏に入っていった身としては、視点を再度俯瞰に戻してくれるという点で、締めに相応しい本でした。



 世間的にはほぼ無名といってもいい「豊島氏」。なぜ僕がこの謎の一族に興味を持ったかというと、「地元だから」という一点につきます。平塚城に北区の“元祖”豊島、軍事拠点だった練馬城(現・としま園)、そして彼らの領地のほぼ全域にわたって流れる石神井川。かつて豊島氏が支配した地域は、そのまま僕の生活エリアと重なるのです。

 ほとんどの人は知らないけれど、その人にとっては身近な歴史。教科書や歴史小説の対極にあるような、ローカルな歴史。こうした「小さな歴史」については、小倉美惠子の書籍『オオカミの護符』僕自身のファミリー・ヒストリーの話などで、これまで何度かブログにも書いてきました。今年書いた暗渠の話も、根っこは同じ気がします。

「小さな歴史」を知ると、見慣れたはずの景色がまったく違って見えてきます。近所のなんでもない公園が、実は昔は城だったと知れば、公園の前を横切る暗渠が天然の堀に見えてくるし、そこに城を建てようとした人の思考にも想像が働きます。その場所に馴染みがあるからこそ、見方が変わるのです。

 そうすると、ほんの少しだけ自分の住んでる地域が誇らしくなったり、好きになったりします。「小さな歴史」の積み重ねは、その人のアイデンティティを強く後押ししてくれるのです。これは、教科書に載るような「大きな歴史」にはできないことです。

 豊島氏は、日本の歴史全体から見れば大して重要ではない一族かもしれないけど、僕個人にとっては秀吉や竜馬よりも心惹かれる存在なのです。





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2017年9月の3冊 〜日本史の「難所」、関東中世史に足を踏み入れてみる〜

 日本史を一つの広大な森だとして、その森をあちこち探検してみると、蔦や草が絡み合ったり足元がぬかるんでいたりして、相当な準備をしないと深く分け入れない「難所」があります。その一つが、関東の中世史です。

 15世紀中ごろから16世紀終わりまでの戦国史だけに絞ったとしても、あまりの登場人物の多さと関係の複雑さに音を上げるはずです。『真田丸』を見ていた人は、前半の北条、上杉、徳川の間で繰り広げられる細かい話に正直うんざりしませんでした?あんなノリが200年以上ずっと続いているのが関東の中世なのです

 僕もこの「難所」に何度か挑んでそのたびに尻尾をまいて逃げてきたクチなんですが、7月、8月と久々に歴史絡みの本を読んでたので、その勢いを駆って再び挑むことにしました。

 まず手を伸ばしたのは、歴史小説家・伊東潤が書いた論評『戦国北条記』と、『真田丸』の歴史考証も担当していた黒田基樹の『戦国関東の覇権戦争』の2冊。実は後者の『戦国関東〜』は以前、意気揚々とチャレンジして無残に負けて(つまり途中で読むのを投げ出して)しまった経緯があります。なので今回は、ほぼ同じテーマを扱った『戦国北条記』をサブテキストにして、2冊を同時並行で読むことにしました。小説家の手によるものだけあって、『戦国北条記』は読みやすいだろうという目論見です。

 んで、これがうまく奏功して、めちゃくちゃスムーズに読めました。そういえば、あるジャンルについて勉強しようとするときに、いきなり専門書に手を出すのではなく、最初は新書や入門書のような軽い読み物から手を付けるのがいいと、立花隆も言ってた気がする。

 特に面白かったのは『戦国関東〜』のサブタイトルにもある「国衆」の存在です。たとえば後北条氏の領国は伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野と広大ですが、北条家が直接領域を支配しているのは、伊豆と相模、あとは武蔵の南側くらいだけ。じゃあ他の地域はどうなっていたかというと、北条に味方する小領主=国衆の支配領域だったのです。『のぼうの城』で有名になった忍城の成田氏も国衆です。今年の大河で舞台となっている遠江の井伊家も国衆ですね。つまり「●●家の領国」といっても、その実態は●●家が直接支配している領域だけではなく、主にその周縁部を拠点とする味方の国衆の領域を合わせたものだったわけです

 関東は15世紀半ばの享徳の乱以降、戦争が日常化したため、各地の領主は自立化し、城を拠点に一定の地域を領域化しました。これが国衆を生むきっかけになります。ある一定の領域を支配するという点では戦国大名と何ら変わりはなく、したがって国衆は北条や上杉の「家臣」ではなく、あくまで味方というだけです

 もちろん、軍事的には大名に比べると国衆は非力ですが、そのぶん生き残りに必死なので、少しでも自分が味方する大名の力に陰りが見えたりすると、即座に離反して敵方に付きます。しかも、こうした動きは周辺の国衆にも波及する傾向があります。大名同士が戦争をした結果、勝った方の支配領域が広がったり、負けたほうが狭まったりするのは、実は直接の勝負による領土の奪い合いというよりも、味方する国衆が離反した結果、彼らの領域がそのまま移動しただけ、というケースが多かったのです。こういったことから、規模は小さいとはいえ、大名は国衆を無下にはできませんでした

 僕が高校生の頃やりまくってたプレステの『信長の野望 天翔記』は、それまでのシリーズとは異なり国単位ではなく城単位で支配領域を広げながら天下統一を目指すという仕組みに変えた異端の作品だったのですが、今考えてみると実は歴史の実態に合っていたのは、むしろ異端の『天翔記』の方だったのかもしれません。




 でも、この2冊に書かれているのは、関東中世史の後半200年ほどの話。茫漠としまくっていて実態がつかめない謎期間なのは、さらにその前の時代です。

 そこで読んだのが、吉川弘文館の『武蔵武士団』。これ、超面白かったです。めちゃくちゃ勉強になりました。

 収穫はいろいろあるのですが、例えば長年気になっていた「坂東武者という言葉に象徴される、関東=武士というイメージはどこからきているのか?」という疑問。本書によると、ヒントは古代の蝦夷征伐にありました。関東は常に蝦夷征伐の最前線であり兵站基地だったため、自ずと武を尊ぶ伝統が生まれたんじゃないかと述べています。なるほど。

 そしてなんといっても秩父平氏です。平安時代になって、桓武平氏が秩父に入植します。この一族から、その後関東各地に蟠踞した中小領主たちに枝分かれしていくのですが、そのゴッドファーザーぶりがすごい。だって、千葉、土肥、三浦、葛西、畠山、豊島、江戸、河越、高坂などなど、この一族だけで関東全域が埋まりそうな勢いです。関東中世史に登場する名前の半分は秩父平氏系なんじゃないでしょうか。

 さらに武蔵には、後に「武蔵七党」と呼ばれた、より小規模な領主たちもたくさんいて、前述の戦国大名と国衆の関係のように、お互いにくっついたり離れたりしていました。関東戦国史を複雑怪奇にしている登場人物の多さと、それぞれがそれぞれの思惑で動きまくるカオスっぷりは、既にこの時代から見られていたわけです

 関東がユニークなのは、鎌倉政権が誕生してもおひざ元である相模と武蔵には守護が置かれず幕府の直轄地的な扱いをされたり、南北朝期以降も観応の擾乱や中先代の乱、鎌倉公方と上杉管領の争いなど戦争の火種が絶えなかったことで、強大な勢力による支配や統合を経験していないことです。例えば近畿のように、他の地域では中小領主たちがある程度強大な勢力に吸収されていくのに対して、関東では戦国期に入っても群雄割拠状態が維持されたのは、そのような地政学的な背景があったからだといえそうです。



 歴史を知ることの楽しさの一つは、地図や実際に目にする街の光景が、それまでとは違って見えてくることだと思います。そういう意味で、自分が住んでいる場所の歴史を知るのは一番楽しい。ただ、今回関東中世史の本を読んだのは、実は「本丸」へいくための準備段階でした。

 僕が本当に知りたいのは、今住んでいる東京23区北部をかつて収めていた秩父平氏の一族「豊島氏」です。その豊島氏という本丸にいきなり切り込む前に、まずは「関東」という大きな枠組みの中で秩父平氏や他の武蔵武士について知っておこうという作戦でした。これまでなかなか攻め落とせなかった関東中世史を(少しだけ)攻略できたので、この勢いでいよいよ次は豊島氏の本を読みます。




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2017年8月の3冊 〜岡っ引きと渡世人と座頭市〜

タカとユージの生きる場所は
「捕物帳」の中しか残ってないんじゃないか


 7月に東郷隆作品を読んでいたら止まらなくなって、結局8月も引き続き彼の作品に手を出してました。

 ただ、7月に読んでいたのは歴史小説だったのに対し、8月に読んだのは時代小説。同じジャンルと思われがちですが、過去に実在した人物を主人公にして、史実に基づいた物語を描いている作品が歴史小説で、歴史上の一時代を舞台にしているものの登場人物も物語もあくまでフィクションであるのが時代小説…というのが僕の解釈です。

 ちなみに、以前紹介した『国銅』や、2014年の本屋大賞を受賞した『村上海賊の娘』は、主人公はフィクションなものの周辺の登場人物や物語は史実に基づいているので、僕の感覚ではギリギリ歴史小説の範疇です。

 んで、東郷隆の時代小説です。まず読んだのは、芝の増上寺前を縄張りとする目明しが事件を解決していく、王道の捕物小説「とげぬきの万吉」シリーズ。『異国の狐』を皮切りに『のっぺらぼう』、『くちなわ坂』と計3作品があります。

 目明しというのはいわゆる「岡っ引き」のことで、正規の警察官である町奉行の下について実際の捜査を行う現場担当者のこと。警察といっても、当時はもちろんいわゆる法治国家なんかじゃないですから、賄賂を握らせて情報を聞き出したり、疑わしいと思えば多少強引でも捕えてしまったりと、なかなか手荒です。なので、目明しに任命されるのも、自ずと腕っぷしが強くて、なおかつその土地に顔が利く「ワル」が多かったそうです。当然、正規の武士ではなく、今風に言えば地元の祭を仕切るヤンキー上がりのおじさんを、非正規雇用で現場の警察官にしちゃうみたいなイメージでしょうか。

 話は変わるんですけど、こないだTVで『あぶない刑事』の再放送を見てたら、タカとユージがほとんどヤクザみたいで笑いました。囮を仕掛けて犯人にわざと証拠を出させたり、口を割らない容疑者を射撃場に連れて行って的の横に立たせてガンガン銃を撃って脅したり、当時はそれが痛快に映ったんだろうけど、今見るともはやリアリティを失い過ぎて、ただただ「古ッ!」という感じでした。

 乱暴だけども正義感が強く人情もあって痛快な江戸の目明しの捕物帳。それを現代に置き換える形で刑事ドラマが生まれたのだとしたら、昭和の刑事ドラマがコンプライアンスなんてものよりも人情に重きを置いていたのは必然だったのかもしれません。しかし、『踊る大捜査線』(1997年)の登場によってそうした刑事ドラマが一気に時代遅れになってしまった今、タカとユージみたいなタイプが生きられるのは、江戸の目明しという、永久に古びない歴史の世界の中しかないのかなあなんて思いました。



 次に読んだのは『いだてん剣法―渡世人 瀬越しの半六』。武士に生まれたものの、理由があって全国の博徒(平たく言えばヤクザ)専門の飛脚として生計を立てている男、半六の物語で、大前田英五郎大垣屋清八、若い頃の会津の小鉄といった幕末の大侠客たちが登場します。悪を懲らしめる捕物帳が時代小説の代表的な「陽」のジャンルだとすれば、「陰」の代表格が本書のようなアウトローものです。

 東郷隆のアウトローものだと他に『御用盗銀次郎』シリーズがあってこちらも滅法面白いのですが、ガンガン人を斬っていく銀次郎のほの暗い狂気がハラハラ感を生むのに比べると、『瀬越しの半六』は春風のようにさわやかな読後感があります。

 なかでも読んでて面白かったのは、彼ら渡世人の細かい所作の描写です。彼らは、世間のしがらみには縛られない代わりに、裏社会だけの厳格なルールがはりめぐらされた、ある意味では堅気の人よりもがんじがらめの世界で生きています。宿場に入ったらまず誰に仁義を切る(挨拶をする)のか、そしてその仁義の切り方はどういう段取りとセリフで行うのか、全部がきっちり決まっていて、それを一つでも間違えると瞬く間に自分の評判が落ちるのです。本書ではそういう細かい描写が随所に出てきます。



 この本を読んでいるとき、録りためておいた『座頭市物語』のTVシリーズ(74年)をたまたま見てたんですが、座頭市にもああいう博徒たちの所作なんかが細かく出てきます(座頭市自身が渡世人ですから)。んで、『瀬越しの半六』や『座頭市』を見ながら、今こういう江戸時代のアウトローたちのドラマを作ろうと思ったら技術的(知識の蓄積的)にできるんだろうか、と思いました。

 これは春日太一『時代劇はなぜ滅びるのか』『あかんやつら』に詳しいことですが、『水戸黄門』を最後に地上波から時代劇のレギュラー放送枠が消えたことは、単にブームの終焉というだけでなく、一つの技術体系が失われることを意味しています。21世紀において時代劇や時代小説は、エンターテインメントコンテンツというだけでなく一種の歴史的史料という面も持つのかもなあと思ったりします。(実際、映画『男はつらいよ』に映る1970年代の地方の風景なんて、もはや社会民俗学上の重要な史料になりえる気がします)

『座頭市』シリーズを見返しつつ、映画専門誌『シナリオ』の座頭市特集号(2014年9月号別冊)を買って読んでいたら、池広一夫監督がロングインタビューの中で「映画は一人じゃできない。いろんな人の力でできるもの」というようなことを語っていました。言葉自体は決して目新しいものではないものの、この一言には「技術体系が一度失われれば容易に取り戻せない」ということの証明のようにも思えて「うーん」と唸らざるをえなかったです。






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2017年7月の3冊 〜2人の薩摩藩士のサーガ〜

『九重の雲 闘将 桐野利秋』

「嫌がる西郷隆盛を無理やり担いで暴発した狂犬の親玉」というイメージがあるかと思えば、「いやいや、単なる過激主義者とは違う合理的思考の持ち主で彼もまた下の者に担がれただけの犠牲者だった」という意見もあり、毀誉褒貶激しい人物である桐野利秋
 本書はその桐野を主人公にしているだけあって、基本的には彼を肯定的に描いてはいるのですが、一面的ではありません。たとえば「人斬り」と呼ばれたほどの男であるにもかかわらず、洋式銃の威力を知ると早々と刀に見切りをつけて乗りかえる合理的精神の持ち主として描く一方で、その合理的精神も「西郷」という理屈を超えた存在を前には退化してしまい、西南戦争に突入していく桐野については否定的に描いています。
 職業テロリストの陰惨さと古武士のような颯爽とした色気を併せ持ち、頭では分かっていてもついには近代人への一歩を踏み越えられなかった本書での桐野には、「最後の中世的英雄」というようなイメージを抱きます。





『狙うて候 銃豪村田経芳の生涯』

 村田経芳というと、明治陸軍に制式採用された初の国産洋式銃「村田銃」を発明した人物、としか知識がなかったのですが、タイトルにもある通り、彼は研究者であると同時に優れた射撃手=銃豪でもありました。
 彼の腕前がどのくらい優れていたかというと、幕末期に横浜で開かれた射撃大会に出場して、日本に駐留してた欧米の軍人を圧倒して優勝したほか、明治8年の欧州視察旅行では、イギリス、フランス、ドイツ、スイスと各地の射撃大会や軍人との試合を転戦して全て勝利を収めたほどでした。彼の活躍は欧州各地の新聞に載り、「ヨーロッパで一番の射撃手」と呼ばれたそうです。
 村田の出身地は薩摩です。同郷の友人や兄弟たちが、明治維新と西南戦争で次々と死んでいくなか、彼は天寿を全うして83歳まで生きます。晩年、「なぜあなたは生き延びられたのか」という質問に対して「技術屋に徹していたのがよかった」とした彼の答えには唸るものがありました。
 技術に徹していた=政治には手を出さなかったという意味なのですが、村田が国産様式銃の開発と軍制式化という壮大な夢に向けて突き進んでいる間に、友人たちは次々と非業の死に倒れ、西南戦争では同郷の人間同士が殺し合う(村田自身も参戦)ことになります。村田は「技術に徹していた」という言葉を、誇らしさと後ろめたさの両方を感じながら語っていたような気がします。





『銃士伝』

 関ヶ原の戦いの際、いわゆる「島津の退き口」で島津軍の殿を務め、追撃してくる井伊直政に重傷を負わせた兄弟の銃士や、高杉晋作が香港で買い求め、贈られた坂本竜馬が寺田屋事件の際に捕方に向けて発砲したといわれるリボルバー銃、近藤勇が伏見で狙撃されたときの銃など、日本史のさまざまな事件で登場する「銃」にフォーカスして書かれた話を集めた短編集
 著者の東郷隆(“りゅう”と読みます)は作家になる前、『コンバットマガジン』というガンマニア向けの雑誌の編集をしていました。『九重の雲』の桐野のウェストリー・リチャーズ銃にしても、『狙うて候』の村田銃にしても、この人の作品にやたらと銃が登場し、しかもその描写がめちゃくちゃ細かいのはこの経歴のためでしょう。
 ちなみに、この『銃士伝』にも桐野利秋と村田経芳が登場します。鳥羽伏見の戦いで、幕府軍の銃弾が降り注ぐまっただ中で村田が桐野にウェストリー・リチャーズ銃の撃ち方を教えるというシーンで、この場面は前述の2作品にもそれぞれの視点で描かれています。別々の3作品を読んだはずなのに、結果的には桐野利秋と村田経芳という、薩摩人でありながら明治以降対照的な人生を歩んだ2人のトリロジーを読んだような気分になりました。



 ということで、2年ぶりくらいに歴史小説を読みまくった7月でした。





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2017年6月の3冊 〜川と地形づくし〜

『川はどうしてできるのか』藤岡換太郎

 6月は暗渠の記事を書いたこともあり、川のことをやたらと考えていたので、川や地形関連の本ばかり読んでました。
 まず読んだのが、講談社ブルーバックスの『川はどうしてできるのか』。「山」編、「海」編に続く「どうしてできるのか」シリーズの第3弾です。ナイル川がなんであんなに長いかっていうと、総延長7000kmに及ぶアフリカ大地溝帯に沿って流れてるからだとか、川は海に注いで終わりじゃなくて実は海底にも川の続きとなる「海底谷」があるって話とかは、普段東京23区の川(暗渠)しか考えてない身には実に刺激的。
 中でも、天竜川と信濃川は実は元々一本の川で、日本列島がユーラシア大陸にくっついていた時代は、ロシアのウスリー川と接続し大陸大河を形成していたという話は、スケールでかすぎて頭がクラクラしました。同時に「今は別々の川がかつては1本の川だった」という想像は、先日の暗渠記事で書いた「古石神井川時代、石神井川と藍染川とを結んでいたのは逆川だったのでは?」という思いつきと結びついて、意を強くしました。
 




『東京の自然史』貝塚爽平

 『ブラタモリ』の人気などで、東京の地形や歴史のうんちくを集めた街歩きガイドブックはたくさん出版されています。しかし、数千年、数万年というスケールのでかい時間軸で、海底まで含む東京の自然の歴史について解説した書籍、それも一般向けに書かれた書籍となるとほとんどありません。その中でもっとも有名なのが本書でしょう。
 東京の各台地の細かい違いや地層の分析とそこから読み取れる地殻変動の歴史など、興味がある人には興奮が止まらない(興味がない人には何が面白いかまったくわからない)本です。実は4〜5年前に一度読んでいるので再読なのですが、この間に他の関連本を読んだり、実際にあちこち足を運んできたせいか、納得度と興奮度は前回とは比べ物になりませんでした。中でも、前半に出てくる豊島台と本郷台の地形の違いに関する記述はヤバかった。いや、走ってると藍染川と谷端川の並走具合ってのは何らかの関連があるんだろうなと感じてたところだったのです。
 「川はどこを流れていたのか」を考えるのも超楽しいんですけど、「川はどうしてここを流れているのか」という、もう一つマクロレベルの疑問について考えるのも楽しいです(難しいけど)。





『江戸上水道の歴史』伊藤好一

 自然河川の暗渠をたどっていると、どこへ行っても必ず出くわす紛らわしい“曲者”が上水道です。僕の場合は千川上水だったのですが、どう見ても暗渠なんだけど、道幅がやけに広かったり、場所によっては高所を流れたりしていて、ずいぶんと頭を悩まされました。そんな江戸の町の上水道だけに的を絞って書かれたのが本書。さすが吉川弘文館というべきニッチなテーマ選びです。
 内容はもうすがすがしいくらいにザ・データ集で、江戸の町に引かれていた6つの用水(神田、玉川、青山、三田、亀有、千川)について、いつ誰が開いたのか、どこをどう流れていたのか、水銭(水道料金のこと)はいくらだったのかなど、あらゆる情報がガッツリ詰め込まれています。そして、本書に収録された膨大なデータは、「人の生活がいかに大量の水を消費するか」ということの裏返しでもあります。世界史の授業で「世界の文明は全て大きな川のそばで発生した」と習いましたが、この本読むと納得感ハンパじゃありません。
 江戸の町は家康の入府直後から、神田川を掘って隅田川に流したり、駿河台を崩して日比谷入り江を埋めたり、江戸湾に注いでいた利根川を鹿島灘方向に付け替えたりと、治水工事に力を注ぎました。その一方で、増え続ける人口と追いかけっこをするように上水道の整備を進めてきました。水をいかにコントロールして抑えるかに腐心しながら、同時に水をいかに引っ張ってくるかに躍起になっていたわけです。江戸(東京)の歴史というのはつくづく水の歴史だなあと感じます。






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2017年5月の3冊 〜ジャイアント馬場と永大産業サッカー部の奇跡〜

『巨人軍の巨人 馬場正平』広尾晃

 ジャイアント馬場はプロレスラーになる前、実は巨人軍のピッチャーだったことは、どのくらい知られているのでしょうか。そんな「“ジャイアント馬場”になる前の馬場」を題材にしたノンフィクション。3月にプロレス関連本を立て続けに読みましたが、そのときはアントニオ猪木&新日系と女子プロレス系の本ばかりだったので、やはり次は全日系、つまりジャイアント馬場を読まずばなるまいと思い手に取ったのですが、いい意味で期待を裏切られました。
 というのは、馬場が巨人に入団したのは長嶋茂雄、王貞治の入団前夜(王貞治の最初の打撃練習で投手を務めたのは馬場だったそうです)。つまり、プロ野球が国民的なスポーツとして爆発的な人気を誇るようになる直前の時代になります。当時の各球団の二軍(馬場は野球選手時代のほとんどを二軍で過ごします)が一軍とは別に興業を組んで全国を廻り、しかもそれなりの人気を誇っていたこと。プロレスという文脈よりも、そうした当時のプロ野球の雰囲気が面白く、戦前のプロ野球の草創期を描いた激熱ノンフィクション『洲崎球場のポール際』を読んだ身としては、その続編のような気分で読みました。





『1964年のジャイアント馬場』柳澤健

 柳澤健のプロレス関連の著書は3月にさんざん読みましたが、なんと彼はジャイアント馬場についても本を書いていました。
 プロレスラーは「アスリートである前にエンターテイナーである」という矛盾を抱えていて、その矛盾の中でもがき続けたのがアントニオ猪木であり、その前提を逆転させてあくまでアスリートであろうとしたレスラーたちの苦闘が日本の総合格闘技の歴史であり、逆にエンターテイナーとして振り切った真の「プロレスラー」であるのが長与千種であり、そしてジャイアント馬場である…というのが僕の解釈。
 んで、僕はなにせ史上最強のキング・オブ・ガチファイトを描いた『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』から格闘技周辺に興味を持ってきた人間なので、心情的には馬場よりは猪木寄り。だからこそ本書で書かれた伝説の「木村政彦VS力道山」戦における木村政彦評(ガチファイトを望んでたくせに、いざ本当にガチファイトを仕掛けられたら日頃の不摂生がたたってボロクソに負けた)を読んで「クソーッ!」という気分になりました。
 でも同時に一連の柳澤本、とりわけ本書中盤に出てくる、1950年代から60年代前半にかけての、アメリカのプロレス界におけるプロモーターやレスラーたちによる激しい興亡記を読んでいると、プロレスラーを「プロフェッショナル」と表現することに納得できるようにもなります。観客の心理を読む洞察力とそれに応える演技力、与えられたキャラクターを演じる冷静さなど、エンターテイナーに徹することは、ある意味ではアスリートであることよりもよっぽど賢明さや忍耐力が必要かもしれません。
 本書は馬場一人の評伝というよりも、馬場の目を通して見る日米プロレスの文化の違いや歴史に主眼が置かれています。これまで読んだ柳澤健の著作もそうだったように、本書もやはり「歴史書」でした。





『歓喜の歌は響くのか』斎藤一九馬

 ジャイアント馬場の余韻のなか、なかなか異なるジャンルの本には移れず、結局次に手に取ったのもスポーツノンフィクションものでした。まったくのゼロから作られた実業団サッカーチームが、創部してからわずか3年で正月の天皇杯決勝戦に進むという、ウソみたいな本当の話。ワンマン社長と熱血コーチの2人がタッグを組んで、強引なまでに上へ上へと上り詰めていく話自体も読み応えがあったのですが、同時に時代の空気のようなものに触れられるという点でも面白い本でした。
 舞台は1970年代。Jリーグが開幕したのは今から四半世紀近くも前のことですが、この本で描かれているのはそこからさらに20年近くも昔の話。Jリーグなんか影も形もない、それこそ実業団の選手レベルなのに練習方法をみんなで本で読んで考えるなんていう時代です。しかし、結局当時の強豪チームがその後のJリーグのチームの母体になったり、主役の永大産業にしても、チーム自体は潰れたものの育った選手たちが地元山口を拠点に子供たちのサッカー指導にあたって後年Jリーガーを輩出したりと、今につながるエピソードの数々には、知られざる歴史を読み解く興奮があります。一方で、社長とコーチの強引なやり方も、今の時代だったら許されないだろうなあという部分がたくさんあって、笑える半面、70年代だからこそ起きた奇跡という風にも思えてちょっと複雑。
 柳澤健のプロレス本にしてもそうでしたが、やはり僕は「それまで知らなかった歴史を知る」ということを読書に対して激しく求めているんだなあと思いました。






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2017年4月の3冊 〜海外在留日本人とストーン・ローゼズとトランプ支持者層〜

『ひとりの記憶 海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち』橋口譲二

 昭和初期、日本の植民地政策や戦争で外国(主にアジア)に赴き、さまざまな事情で日本に戻らずに現地で一生を終えようとする日本人のインタビュー集。
 途中、書かれている内容の重さに何度となく読み進めるのを断念しようかと思いました。けど、ページを繰る手は止まらない。そんな本でした。「重い」といっても、凄惨であるという意味ではありません。日々の生活の営みや将来の夢、そうした人の人生をあまりにも簡単に吹き飛ばしてしまう時代(戦争)というものの重さ。そして、その中で一人の人間が下してきた決断の重さです。
 聞いたことのないような南の島で一生を畑作りに費やした人や、外国人のもとに嫁ぎ、日本人であることを隠しながら生活し、その結果今では日本語を忘れてしまった人。人の人生はなんて重く、同時になんて儚いんだろう。僕は何度もページを繰る手を止めては、胸に迫る何かをやり過ごさなくてはなりませんでした。
 このインタビューが収録されたのは10年も前。おそらく、今ではもう何人もの人が亡くなっているでしょう。




『ザ・ストーン・ローゼズ 自ら激動なバンド人生を選んだ異才ロック・バンドの全軌跡』サイモン・スペンス

 バンド結成前から2011年の再結成までを記録した、ローゼズの最新にして唯一の評伝。上下2段組で全365ページというボリュームもさることながら、メンバー含む100人近くの関係者へのインタビューによって構成された内容は、とにかく“濃い”です。来日公演に合わせて余裕を持って読み始めたのに、1ヶ月くらいかかって読み終えたのは結局公演直前でした。
 邦題サブタイトルは「自ら激動なバンド人生を選んだ異才ロック・バンドの全軌跡」。本を開く前はマユツバだろ?大げさなコピーだな?と思ってたのですが、いざ読んでみると、本当にこのバンドは無茶苦茶でした。
 テレビ出演やアメリカツアーといった、いわゆる「チャンス」を、「えええ?」みたいな理由でことごとくドブに捨ててしまう破天荒ぶり。それでも圧倒的ともいえる支持を得ているのが不思議でもあり、じゃあ90年当時、抜群のコンディションでアメリカに上陸してたらどうなったんだろうという想像も掻き立てられます。
 伝説のあの1stアルバム完成が、本の中ではちょうど全体の半分あたり。猛烈なスピードで向こうからやってきて、あっという間に姿を消してしまう。まさに暴風のようなグループであったことがわかる本です。




『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』J.D.ヴァンス

 米ケンタッキー州の片田舎に育ち、現在は法律家として活躍する著者による自伝的ノンフィクション。といっても、著者J.D.ヴァンスが本書で描きたかったのは、自身のサクセスストーリーではなく、自分が育った故郷の町ジャクソンとそこに住む人々のことでした。ジャクソンは、住民の1/3が貧困状態にあり、離婚や薬物などの問題を抱えているといわれる白人労働者階級の貧しい街です。著者自身も父親がおらず、母親は薬物中毒で何度もリハビリ施設に入所しています。ジャクソンのような、アパラチア山脈周辺の田舎の町に暮らす白人労働者たちは、ヒルビリー(=田舎者)と呼ばれます。
 ジャクソンは、元々は巨大な自動車工場を中心に、そこで働く人々とその家族によって作られた街でした。巨大資本に依存した町は、当然ながらその資本が縮小、撤退すると、途端に苦しくなります。政府の支援によって手厚く守られている黒人系やヒスパニック系と異なり、街を出ていく金も支援もなかったヒルビリーたちは、貧しくなる街に取り残されるしかありませんでした。そうして彼らの中に、厭世的な気分や既存の政府への不信感、自分たちの仕事を奪う外国人たちへの恨みが醸成されていったのです。
 本書の中に明記はされていませんが、読み終わって真っ先に感じるのは、彼らヒルビリーこそトランプ大統領の支持者層なのだろう、ということです。あとがきにも書いてありますが、実際本書は昨年の大統領選後「トランプを支持したのは誰なんだ?」という動機で手に取られ、ベストセラーにまで上りました。ヒルビリーの貧困は社会構造的な背景をもつものですが、著者はその解決には公的な支援だけでは不十分で、ヒルビリー自身の「貧困から抜け出そう」という意思が不可欠だと述べます。ところが、現実には多くのヒルビリーが、その意思(とその基になる平和な家庭や小さな成功体験)を持つことを自ら放棄している。きっと、本書を読んだ人はみんな途方に暮れたんじゃないでしょうか。
 僕自身は、実は本書を一種の「子育て指南書」として読みました。著者が、ヒルビリーの環境に生まれながら薬物中毒にも犯罪者にもならずにすんだ大きな背景には、姉による絶対的な愛情と、祖母による「あんたはやればできる子だ」という絶え間ない励ましがありました。「子供の成長には安心して過ごせる家庭が必要」ということはよく言われることですが、本書を読むと、それを極めて実際的なレベルで痛感できます。







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2017年3月の3冊 〜UWFとアントニオ猪木とクラッシュ・ギャルズ〜

『1984年のUWF』柳澤健

 結末の決まっているプロレスとは違うリアルファイトを標榜し、アントニオ猪木の新日本プロレスから独立した格闘団体UWFのノンフィクション。増田俊也の『七帝柔道記』『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(←この数年で読んだ本の中でNO.1)そして『VTJ前夜の中井祐樹』にハマった身からすると、同じ『VTJ〜』を完結編とするもう1つのサーガを読んだ気がしました。
 10年以上前、当時バイトしてた男性ばかりの職場では、大晦日だけは控室のテレビをつけていいという決まりがあり、そこで毎年みんながチャンネルを合わせていたのが、PRIDEやK-1といった格闘技の大会でした。格闘技に大して興味がなかった僕はそこで初めて「こんなに人気があるんだなあ」と、選手の名前や技術よりも、その人気の高さに興味をもったのでした。
 エンターテインメントであるプロレスとスポーツである総合格闘技。両者はルールも目的もまるで異なるものですが、歴史を紐解けば、実は密接につながっていることがわかります。本書はいわば、僕がバイトの控室で目撃した熱狂が生まれるまでの、日本の格闘技の歩みを記録した「歴史書」です。




『1976年のアントニオ猪木』柳澤健

 前述『1984年のUWF』の前日譚にあたるノンフィクション。プロレスが総合格闘技へと進化を遂げようとする最初の一歩は、1976年にアントニオ猪木が戦った4つの試合にあった、というのが本書のあらすじ。
 なかでももっとも有名であり、決定的な役割を果たしたのが、6月に行われたモハメド・アリとの一戦です。立って構えるアリに対してリングに寝たままの猪木という異様な光景は格闘技に詳しくない僕でも知っている。そして、後に「猪木−アリ状態」という言葉まで生まれたこう着状態は、この試合が華々しい技の応酬と物語で観客に興奮と満足を与えることを目的としたプロレス(エンターテインメント)ではなく、ガチのリアルファイトだったからこそ生じたものでした。
 ところが、現在でこそ、ボクサーとレスラーが戦ったらああいう形でこう着状態に陥ることは合理的だと語られるそうですが、当時は観客もメディアも「つまらない試合」と酷評しました。「プロレスこそ最強である」とリアルでの強さを掲げた猪木が、ジャイアント馬場の全日本プロレスを超えるためにむ切った最大のカードだったアリ戦は、期待したような評価は得られず、猪木がその後プロレスから離れていく大きなきっかけになってしまいます。
 結局、あの試合の当事者は誰一人得をしなかったのですが、猪木がアリ戦で初めて日本にもたらした「異種格闘技戦」という概念と「プロレスこそ最強である」という幻想が、「プロレスから総合格闘技へ」という外国には例を見ない独自の進化を生むことになるのです。ある事件をマクロ的な視点から歴史の中に再定位するという点で、本書もやはり歴史書だと思います。




『1985年のクラッシュ・ギャルズ』柳澤健

 単にプロレスの試合を戦うだけでなく、レコードを出して大ヒットさせ、TVCMにも出演し、ミュージカルまでこなす。試合会場には連日、女子中高生を中心とした熱狂的な「親衛隊」が詰め掛け、涙を流しながらリングに向かってテープを投げる。そんな空前絶後の人気を誇った女子プロレスラー、クラッシュ・ギャルズ(長与千種・ライオネス飛鳥)を題材にしたノンフィクション。クラッシュ2人の評伝が中心ですが、本書には第3の主人公として、クラッシュ全盛期に親衛隊に入り、その熱狂が高じて女子プロレスの編集者・ライターになった伊藤雅奈子が登場し、独白形式で自身の人生とクラッシュとの関わりを語ります。彼女の存在によって、本書は単なる女子プロレスを題材にしたノンフィクションという枠に留まらず、人が何かに熱狂する「青春」とその終わりという普遍的なテーマにまで踏み込んでいます。
 長与千種というと僕にとっては、つかこうへい『リング・リング・リング』の印象なので、舞台の人という印象が強い。ただ、確かに女子プロレスラーがなぜ「つか芝居」をこんなにもモノにしてるのだろうかというのは長年不思議でした。それが、前掲『1984年〜』『1976年〜』と本書によって、プロレスラーにとって重要なのは単なる肉体の「強さ」だけでなく、身体一つで観客の心理をつかんで物語に引き込む、肉体を通じた一種の「演技力」であること、そして女子プロレスにおける最高の天才が長与千種であったことを知り、一気に氷解しました。
 本書は苦い読後感を残します。タイトルになっている1985年、すなわちクラッシュ・ギャルズの全盛期は、実は本書の半分くらいで通り過ぎます。残りの半分は「その後」のクラッシュの2人の話。何らかの成功を遂げた人物の人生を第三者が見ると、あたかも成功の瞬間がその人の人生のゴールであるかのように見えますが、実際にはその人の人生はその後も続いていきます。ましてや、クラッシュのように若い頃に成功した場合は、むしろその後の人生の方が長い。そして、手にした成功が大きいほど、相対的にその後の人生は「陰」になりがちです。当たり前ですが、成功は永遠に続きはしない。90年代、自らが主宰するプロレス団体を立ち上げ後進の育成にあたった長与千種ですが、結局自分を超えるスターを生み出すことはできず、団体は逼迫します。2000年にクラッシュ・ギャルズは復活を果たしますが、それは観客を集めるためにとった窮余の一策であり、自分の理想が崩れたことを意味していました。本書では「時代の流れ」という言葉に込めていますが、抗いようのない何かによって光が徐々に輝きを失っていく様は、無常感の一言です。




 ということでひたすら柳澤健のプロレスノンフィクションをひたすら読んだ3月でした。実はこの後、さらに柳澤氏の『1993年の女子プロレス』、そして『1985年〜』にも登場するノンフィクション作家・井田真木子の大宅賞受賞作『プロレス少女伝説』も読みました。柳澤健は元『Number』のデスクを務めていた人物でスポーツ関連の著作が多いですが、実は僕が初めて読んだのはラジオTBSの伝説の深夜番組を題材にした『1974年のサマークリスマス』でした。この本も最高に面白かったです。











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2017年2月の3冊 〜小池重明とJ-POPの「ヒット曲」と日本人の渡来ルート〜

『真剣師 小池重明』団鬼六

金銭を賭けた将棋で生計を立てる非プロ=アマの棋士「真剣師」。その中でも最強と言われた小池重明の評伝。先月読んだ『赦す人』から、団鬼六つながりで手に取ったんだけど、これはねー、めちゃくちゃ面白かったです。
2年連続アマ名人位を獲得したばかりか、当時将棋連盟の会長を務めていたプロの名人にも完勝してしまうという、無類の将棋の強さ。しかし、棋力とは裏腹に私生活は破滅的。金を盗んで女と逃げること5回(うち3回は人妻)。けれどすぐに生来の酒好きとギャンブル好きが祟って愛想を尽かされる。困り果てた小池を見かねた友人知人が援助の手(金)を差し伸べると、その時は涙を流して「今度こそ生まれ変わる!」というものの、舌の根も乾かないうちに借りた金で再び酒とギャンブルに溺れる…という、読んでて気持ちいいくらいのクズっぷり
将棋の才能がなければ本当にただのダメ人間ですが、しかし小池の破滅っぷりは将棋の才能の代償のようにも見えてきます。すさまじい光はその分深く濃い影を生むように。間違いなく後世にも語り継がれる不世出の天才ですが、本人にとってはあれほどの将棋の才能を持ったことが果たして幸せだったのかはわかりません。一種の寓話のような読後感を味わった一冊でした。




『ヒットの崩壊』柴那典

90年代と違い、今はミリオンセラーの曲といってもほとんどの人がタイトルすら知らない。売上と「流行ってること」がイコールではなくなり、その結果ヒット曲が見えなくなった。じゃあ「今流行ってる音楽」はどこにあるの?というのが本書のあらすじ。今起きている変化を整理して一つひとつ言語化してくれているので「なるほどー」という感じ。いい意味でサラッと読めます。
でも、なんとなく思ったんだけど、みんなが同じ曲を聴いて盛り上がったり、後でその曲を聴いて一緒に懐かしんだりという価値観そのものが今後は消えていくんじゃないかという気がします。個人的にもみんなバラバラの音楽を聴いてる状況の方が好き
本書では、人々の興味が細分化された現代においてもなお「共通体験」になりうるものもの(つまりヒット曲が生まれる基盤)として卒業式や結婚式というイベントを挙げているんだけど、僕は卒業式や結婚式のような極めて個人的なイベントだからこそ、「ヒット曲」なんかに蹂躙されたくないと思う。結婚式に<Butterfly>なんか流されたら、「私だけの大切なイベント」がたちまち他の人と交換可能なありふれたものになっちゃう気がしません?
とりあえず、ヒット曲でもなんでもないのに「これがヒット曲です」というツラをしたり、それが通用しないとなったら過去の(本物の)ヒット曲を引っ張り出して「音楽って素晴らしいですね」と臆面もなく語り始める音楽番組(大晦日のあの番組とかね)とか本当に滅びて欲しいですね




『日本人はどこから来たのか?』海部陽介

タイトルにもなっているこの謎は古典的といってもいいくらいお馴染みのもので、僕もこれまで何冊か同じテーマの本を読んだことがあります。が、その中では本書が最も面白かったです。理由は、とにかくロジカルなこと。国立博物館の博士を務める著者はこの本を書くにあたり「信頼に足る証拠(遺跡や化石)以外は参考にしない」という態度を徹底しています。数ある既存の学説や可能性を、証拠を基に一つひとつ排除していき、最後に残ったのが真実(だろう)という本書の進め方は、推理小説的な興奮があります。なかでも対馬ルートと沖縄ルートがぶつかる奄美大島の石器の話や、井出丸山遺跡(静岡県)から出土した3万7000年前の石器の中から、伊豆七島である神津島産の黒曜石が見つかった話なんかは「おおおう!」と唸りました。人類史や古代史って、一つの発見で簡単に定説が覆るから、歴史時代の研究よりもむしろ日進月歩な分野なんだなあ。
ただ、ひとつ言えるのは、渡来ルートについてはさまざまな説があるにせよ、日本人という民族の大半が大陸から渡ってきたことは明らかです。最近は在日外国人のことを悪く言う人が目立ちますが、日本列島に来たのが早いか遅いかというタイミングの違いがあるだけで、所詮は我々みんな「在日」なわけです。この極めて単純な事実にすら気づかずに聞くに堪えないヘイトをまき散らすああいうアホな輩には心底うんざりします。







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2017年1月の3冊 〜ブータンと脱北者支援と団鬼六〜

『未来国家ブータン』高野秀行

昨年末に『謎の独立国家ソマリランド』を読んで衝撃を受けて、高野秀行による同じ「異国冒険ルポ」というつながりで手に取ったのが本書。ブータンというと経済ではなく国民の「幸福度」で豊かさを測るGNH(国民総幸福)を提唱していることで有名でだけど、ブータンの幸福というのは仏教によって生活も人生の目的も規定され、「あれこれ迷わない安心感」という側面が強く、決して「自由」という意味ではない。また、GNHというアイデアが生まれた背景には、インドと中国という大国に挟まれて、いつ併合されるかわからないから「なんとかブータンのオリジナリティをひねり出さないと」という危機感もあった。…なんて地政学的歴史的なリアルを本書で知って、GNHにロマンを感じてた僕としてはしょっぱい気持ちになっちゃったんだけど、それでもなお、本書で描かれるブータンは魅力的な国に映ります。仏教にせよ、民族の伝統にせよ、その社会の中で合理性をもち、その合理性を住民も信じていて、社会が自己完結してる姿こそ「幸福」なんじゃないか。軽い読み口とは裏腹に「幸せって何なんだろう」という命題について考えさせられる、重い読後感が残る本でした。




『脱北、逃避行』野口孝行

Kindleで積ん読になってた本。著者は脱北者支援のNPOで活動をしている男性。本書の前半は、著者が中国まで赴いて脱北女性を保護し、中国公安の目を逃れながら日本への脱出を目指す、さながらサスペンス小説のような緊迫感のある逃避行劇が書かれる。…が、個人的には本書で面白かったのは前半よりも、中国の公安に捕まった著者が、看守所で拘束されていた1年間の生活が記録された後半。意気軒昂だった著者が、単調で自由のない生活の中で徐々に精神的にしんどくなっていく様子は、吉村昭的なドライな筆致もあって、読んでて辛くなります。でも、同房の中国人犯罪者達と花を育てたり、旧正月はみんなでTVで歌番組を見たり、不思議なユーモアもある。読みながら僕は、(本書のテーマとは外れるけど)中国の田舎ってこんななんだなーと想像しました。




『赦す人 −団鬼六伝−』大崎善生

団鬼六といえば言わずもがな、『花と蛇』に代表されるSM小説のパイオニア。本人もさぞかし背徳的で変態的な「陰」な人物なんじゃないかと思い込んでいたら、本書を読んで驚きました。確かに鬼六はギャンブルもお酒もすごいし女性関係だって派手なんだけど、でも決してジメジメと暗いわけではなく、むしろサービス精神が過剰で周囲に人が絶えない、徹頭徹尾「陽」の人でした。そして、SM小説というジャンルを確立したのも、崇高な何かがあったとかではなくて、「とにかく読者が楽しめればいい」という、これも一種のサービス精神によるものだった。鬼六の生き様を見てると「ああ、俺は人生をまだまだ楽しんでないんだな」なんて気持ちになります。
大崎善生は20歳の頃、夢中になって読んでいた作家でした。でも当時は小説家として。『聖の青春』を機に、まさか10年以上の時を経て、今度はノンフィクション作家として再び付き合うことになるとは。






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