週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

村上春樹

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 村上春樹 (文藝春秋)

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君の感じた気持ちは
幻なんかじゃない


村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を早速読みました。
これから読む人もいると思うので、
できるだけネタバレはしないように、なるべく感想だけを書こうと思います。

僕は今回の作品、かなり好きだと思います。
「思います」と中途半端な物言いなのは、
読み終えて間もないので、読後の余韻にどっぷり浸っていて、
まだ冷静ではないから。
でも、今回の余韻はしばらく残りそうです。
それは、中編サイズの、決して長いとは言えない物語にも関わらず、
読んでいる間に次から次へといろんな感情が奔流となって出てきたからです。
村上春樹の本はいつも似たような心地になるのですが、
今回は特にそれが強かったように感じました。
「余韻の量」だけを比較すれば、
僕は前作『1Q84』よりも今回の『色彩を持たない〜』の方が多(強)かったかもしれません。
(もちろん、読んだばかりというバイアスはかかっていますが)

ネットなどでいろんな感想を見ていると、
今回は「わかりやすかった」と感じている人が多いようです。
そのことに、長年のファンの中にはある種のさみしさを感じた人もいるようです。
確かに、『1Q84』や『ねじまき鳥』などの長編のように、
ラストに向かうにつれて、物語が収束するよりもむしろ加速し、
異次元に向かって拡散するようにして終わる作品と比べれば、
今回の『色彩を持たない〜』は物語がしっかりと着地するような感覚があり、
しかもその着地点も比較的輪郭がとらえやすかったと思います。

しかし、そんなこととは関係なく、
僕は読んでいる最中も読み終えた後も、いろんな感情が渦巻くのを感じました。
中でも思い出されたのが、僕が20代の、まだ前半頃のこと。
物語の冒頭で主人公多崎つくるが過去の出来事を回想するのに呼応するかのようにして、
僕自身が当時抱えていた人間関係とか不安で退廃的な気持ちとかが、
泡のように意識の水面に浮かんできました。

普段は忘れている(忘れようと努めている)、
けれど今の自分を作る重要な要素であるヒリヒリした気持ちが、
ボロボロと掘り起こされていくような感覚。
こういう、「感情の棚卸」のような感覚は、
村上春樹を読むと必ずと言っていいほど味わえる感覚です。
(過去記事:『1Q84』村上春樹
特に今回の『色彩を持たない〜』は作品の世界が小さく、身近だったことで、
「棚卸」の感覚がむしろ強まったのかもしれません。
(同じく舞台が身近な『アフターダーク』も、特に好きな一冊に挙げられます)
その意味で、この先、読後の余韻が消えた後でも、
この作品は僕にとって「最も親密な一冊」として残るでしょう。



棚卸ということでいえば、今回の物語そのものが、
それと近いテーマを抱えています。

「記憶に蓋をすることはできる。でも歴史を隠すことはできない」
今作で何度か語られるフレーズです。

いくら忘れようと努めても、過去の事実は決して消えず、
あるとき、その事実と向き合わなければいけない瞬間がくる。
自分の人生から切り分けたはずの記憶を、
再び自分の中に組み入れなければならない瞬間がくる。
だから、16年前に蓋をした「ある記憶」と再び向き合っていく多崎つくるの戦いは、
ヒリヒリした気持ちが否応なしに蘇る僕自身の感覚と相まって、
読んでいてとてもしんどいものがありました。

でも、人生への警句、教訓としての響きをもつ上記のフレーズは、
物語の最後に、希望の言葉としても語られます。
ネタバレになるので具体的には書きませんが、その場面が本当に良かった。
すごく勇気が出ました。



村上春樹の作品は、感想を言葉に直すのがとても難しいですね。
語れるのはせいぜい読後の「気分」であり、
作品を通して味わった本当の気持ちは、なかなか言葉に直せません。
これまでも村上春樹を読むたびに、
「自分の気持ちなのに自分の言葉で語れない」という、妙なストレスを感じてきました。

でも、本当は、これは自然なことなんじゃないかと思います。
言葉に直せない何かがあるからこそ、
作家は物語という形を借りてその「何か」を紡ぐのであり、
だとしたら、受け取り手である読者もまた、
はっきりと手で触れる手ごたえや目に見える形として
その「何か」を感じられるはずはない。
だから、感想をうまく言葉に表せなくても、
それは日本語を知らないとか口下手だとかそんなことではなく、
むしろ極めてまっとうなことなんじゃないかと思うのです。

考えてみれば当たり前のことですが、
日常生活の中でさえ、怒りにしろ悲しみにしろ喜びにしろ、
僕らが感じる深い感情は、到底言葉では追いつけません。
だけど、言葉が溢れ、自在に言葉を扱える人こそが「頭がいい」と思われる
(もちろん、そういう人は実際に「頭のいい人」なんですが)世間では、
「言葉に直せない」「「うまく喋れない」ということは、何かと不利に働いたり、
愚鈍な印象を持たれたりします(というか、そういう自意識が働きます)。
「すべらない話」のように、面白おかしく話ができる友人の陰で、
本当は言いたいことがたくさんあるのに何一つ口に出せず、
劣等感だけを積み重ねていた10代の頃から、
僕にとっては「なんでもかんでも言葉に直さなきゃいけない」ということが、
切実で巨大なプレッシャーでした。
20歳の頃には、「言葉に直せないなら、その感情はウソ(幻)なんじゃないか」という
極端な考えにまで至ったこともあります。

その強迫観念から解放してくれたのが、村上春樹でした。
彼の物語は僕に、
「本当に大事なものは、言葉に直せない(こともある)」ということを教えてくれました。
いくつもの「言葉に直せない気持ち」を抱え、
それらをまるで「負債」のように感じていた僕は、
彼の物語を読むことで、ようやく自分を肯定できるようになったんだと思います。
「言葉(形)に残らなくても、君が感じている気持ちは幻なんかじゃないんだよ」と。
偶然ですがそれは、今回の作品のラストで提示された希望の形と、
どこか似ているような気がします。






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僕も走ろう、バカみたいにずっと

hashirukoto

『走ることについて語るときに僕の語ること』
村上春樹

(文春文庫)


 僕の通ってた高校はやたらと体育でマラソンをさせる学校でした。運動が苦手な僕は、毎年マラソン授業のシーズンになると憂鬱で仕方がありませんでした。男子は全長4キロのコースだったのですが、とにかく僕は体力がなかったので、3年間で一度も完走できませんでした(ひどいでしょ?)。大体1〜2キロ走ると息が上がり、道の脇にうずくまって「オエッ!」とえづいてました。

 以来10年強、自分は走ることが苦手なんだと思っていたのですが、実は半年ほど前からランニングにハマっています。かつてはたった4キロすら完走できなかったのに、今では15キロくらいなら楽に走れるようになりました。もちろん、途中で歩くこともえづくこともなく。

 どういう風の吹き回しか。自分自身が一番驚いています。誰かに勧められたわけでも、俄かに健康志向になったわけでもなく、ある日突然「走ってみようかな」と思いついて、そのまま今日まで延々走り続けているのです。

 ランニング、超楽しいです。なんなんでしょうね、何が楽しいんだろう。楽しいといってもやっぱり走ってる時は苦しいし、時々「歩いちゃおうかな」とか考えるし、もう体育の授業じゃないんだから歩いたって怒られるわけでもないんだけど、結局走ってる。早朝走ってヘトヘトになっても、夕方くらいになるとまた走りたくなってウズウズしてくる。ちょっとくらい体調が悪くても走ってしまう。奥田英朗の『イン・ザ・プール』という短編に、水泳にハマってしまって、挙句夜中のプールに忍び込んでまで泳ごうとする「水泳中毒男」が出てくるけど、なんかちょっとわかる。ランニングにもそういう中毒的なところがあると思います。

 周知のとおり、今はランニングがブームです。僕がいつも走る近所の公園も、朝6時台からランナーだらけです。ガンガン走りこんでいるベテランランナーさんから、僕のようなビギナーランナーまで、いろんな人が走ってます。ただ、何度も集団の中を走るうちに気付いたんですけど、どうも全員が元々運動をバリバリやっていたわけではなさそうです。むしろ僕のように、これまで運動とは無縁だった人の方が多いような気がします(その人の風貌とか走る時の姿勢とかで、運動音痴は仲間を識別できるのです)。

 自分が走り始めてみて思うのですが、ランニングというスポーツにハマるかどうかの分かれ目は、運動神経や子どもの頃からの運動量というよりも、その人の性格に負う部分が大きいんじゃないでしょうか。ランニングは一人でやるスポーツなので、他人に気を遣う必要はないし、プロセスから結果に至るまで全てを自分で決定できる。究極の自己完結です。それが自分の性格とフィットしているかどうかが多分継続できるかどうかの分かれ目なんじゃないでしょうか。僕はどうやら性に合っていたみたいです。逆に子どもの頃からサッカーとか野球とか、団体競技をやっていた人は、ランニングなんて退屈すぎると感じるのかもしれません。

 村上春樹も著書『走ることについて語るときに僕の語ること』の中で似たようなことを書いていました。「ランニングを人に勧めようとは思わない。勧めてもやらない人はやらないし、勧めなくてもやる人は時が来ればやる。ランニングはそういうスポーツだ」と。これは、何らかの強い目的(例えばダイエット)のために走る人ほど三日坊主になりがちなのに対し、特に目的もなくランニングを始めた人(要は走るのが好きな人)の方が長続きするということと、どこか通じているような気がします。

 こうして書いていても、改めて不思議な気持ちにとらわれます。どうして、「走る」というシンプルな行為そのものが、これほど楽しいのか。どこにハマる要素があるのか。わかりません。わかりませんが、とりあえず書いていたら走りたい気持ちになってきました。来月、BRIDGEの山本洋平くんとハーフマラソンに出場してきます。
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村上春樹と冒険

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『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』
村上春樹

(文藝春秋)



 僕が初めて読んだ村上春樹の小説は、『ねじまき鳥クロニクル』でした。たしか10代の終わり頃だったと思います。『ねじまき鳥』を最初に読んだというと、大体驚かれます。なんていうか、ビートルズで言えばいきなり『ホワイト・アルバム』から入る、みたいなものですから。しかし、これは狙ったものでもなんでもなくて、単に「実家の本棚にあったから読んでみた」という、ごく気軽なものでした。

 多くの読者と同じように、僕ももちろん、衝撃を受けました。「面白い!」という意味での衝撃ではなく、「わからん!」という混乱からくる、文字通りの衝撃でした。頭に焼き付いたのは強烈な性描写の多さと(ま、10代ですから)、あの皮剥ぎ人ボリスの場面。しかし、肝心の物語はというと、不可解すぎてまるで理解できませんでした。

 その後、デビュー作の『風の歌を聴け』から順を追って読んでいったのですが、正直、初めのうちは「村上春樹」というブランドへの憧れで読んでいたところが少なからずありました。しかし、それでも結局、一年か二年の間に長編も短編もエッセイもほぼ全作品を読んでしまったのは、やはり何か心に引っかかるところがあったからだと思います。ちょっとカッコつけた言い方をすれば、彼の作品には、当時の僕にとって何かしら大事なことが書かれているように思えていたのです。そのような予感が、しつこく僕を彼の作品世界へと導いたのでした。

 しかし、量を読んでもなお、「わからん!」という感覚は残りました。いくつか作品を読むことで、彼の作品に共通するコードのようなものが身に付くのではと考えていたのですが、いくら読んでも、むしろ読めば読むほど、物語の闇は深さを増しました。

 そうするうちに、僕は次第に「この物語は頭で理解するものではないのでは」と考えるようになりました。彼の小説には、不可解な出来事や意味深な台詞がたびたび登場します。その一つひとつの意味を解釈し、「正解」を解こうとする必要はないんじゃないかと思ったのです。なぜなら、なにも物語の謎が全て解けなくても、読み終えた時には必ず身体の中に何らかの強烈なイメージが残り、相変わらず彼の作品へと向かわせるあの「予感」めいたものが消えなかったからです。だったらそれでいいじゃないか。僕にとって彼の作品の面白さは、「理解できる」「できない」という範疇の外にあることに気付いたのです。

 先日、村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』を読みました。この本の中で、世の中に「村上春樹解読本」的なものが数多く出版されている風潮に対し、村上春樹自身は「虚しい」と語っていました。物語を、何でもかんでも整合性や意味付けに落とし込んで理解しようとするのは、一種のゲームです。頭の体操としてはそれなりに面白いかもしれませんが、「物語そのものを楽しむ」という点からすると、なんとなくそれは不毛ではないかと言うのです。

 では、整合性でも意味付けでもなく、トータルな世界として物語を楽しむために重要なのは何なのか。村上春樹はそれを「想像力」と答えます。

 「僕の物語では確かに不可解で脈絡のないような出来事が起きる。現実的な、物理的な観点からすれば、それらに整合性はない。しかし、肉体を離れ、自分が一つの想像力のカタマリになった時、どんな不思議な出来事も、それが真実であるということが、皮膚感覚でわかるのではないか」と、そのようなことを語っています。とても感覚的な話ですが、このイメージ自体が、まるで彼の小説のようで面白いですね。

 僕にとって村上春樹の小説は、冒険小説に似ています。彼の作品にはジャングルも深い海の底も宇宙も出てきませんが、そこには必ず不思議な体験があり、背筋の凍るような恐怖があり、何かへと向かう強い意志があります。それらは目に見えるものとは限らないし、特定の言葉で表せるものでもありません。しかし、確かに感じることができる。ページをめくるたびに、物語そのものに自分自身が溶けていくような感覚を味わいます。それは他の小説にはない感覚です。いわゆる冒険小説が未知の「場所」を旅するものだとすれば、村上春樹の小説は未知の「感覚」を旅するものと言えるかもしれません。「村上春樹の小説を読む」ということ自体が、僕にとっては冒険なのです。
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