週刊「歴史とロック」

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映画 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

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「シンジのための物語」なら
僕はもう見たくない


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のDVD/Blu-rayが発売されました。

劇場公開から約半年。
決して短くない時間が経っているにもかかわらず、
改めて見直してみると、
映画館で受けた「あの衝撃」がありありと蘇ってきます。

控えめに言っても、この『Q』という作品はかなりの問題作だったと思います。
いきなり「あれから14年経った」という展開の仕方は、
観客の予想の、遥か斜め上を行くものでした。
テレビ版とも劇場版とも異なる、
全く新しいエヴァの世界を目にすることができたこと自体は、
間違いなく興奮する出来事でしたが、
しかしその一方で、例えばヴィレ設立の経緯やサードインパクト直後の様子・描写など、
「空白の14年間」を埋めてくれる説明は驚くほど少なく、
それどころか「ヴンダーって何だ」「カシウスの槍って何だ」など、
新たな謎のバーゲンセール状態(しかもそれらはほとんど次回作への積み残し)になってしまったところに、
僕としては不満が残りました。

まるでとりつくシマがないところを指して
「そういうところこそが『本来のエヴァ』じゃないか」という、
「エヴァ原理主義」的意見も一定の理解はできます。
確かに、観客の「?」を無視してガンガン物語が進んでいく「取り残された感」は、
かつてのテレビ版や旧劇場版でさんざん味わった感覚です。
しかし、これまでの『序』『破』という2作を踏まえたときに、
つまり『エヴァンゲリオン』ではなく『ヱヴァンゲリヲン』という新たな物語と考えた場合、
僕は『Q』という作品が再び(『ヱヴァ』ではなく)『エヴァ』の雰囲気を持ち始めたことは、
「回帰」ではなく「後退」なんじゃないかと思います。


旧エヴァになくて新ヱヴァにある(正確に言えば「あった」)もの。
それは、シンジやレイ、アスカが「成長している」という実感でした。
より詳しく述べれば、成長を実感できる、という「達成感(カタルシス)」でした。
具体的には、『破』の記事で書きましたが、
シンジやレイやアスカが、
他人のことを思いやり、他人に対して心を開き、他人のために行動するようになるという「確かな温かさ」は、
かつての旧エヴァには見られなかったことです。

シンジたちは14歳のままなのに、間違いなく「成長」している。
かつて、彼らに自らを投影していた僕らリアルタイム世代にとって、
シンジたちの「成長した姿」は、僕ら自身が生きてきた証のように感じられました。
だからこそ、僕は映画館の座席で身体が震えるような感動を覚えたのです。

だから、『破』を見終えた時点で僕は、
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』という物語は、シンジたちの成長譚になるのだろうと予想しました。
それこそが、庵野秀明が当初語っていた
「閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だ」という言葉の意味なんだろうと。

しかし、その期待は(少なくとも『Q』では)裏切られました。

僕は、せめて空白の14年間におけるキャラクター達の変遷はもう少し描いてほしかったです。
『破』のラストで、レイを奪い返すために使徒に立ち向かうシンジに対し、
「行きなさいシンジくん!」とミサトが叫ぶ場面は、旧エヴァと新ヱヴァとを分つ象徴的なシーンでした。
あそこまでシンジの背中を押していたミサトが、
(14年経っているとはいえ)その直後に、なぜ同じシンジに対してああも冷たい態度を取るのか。

もちろん、ミサトの変化やその他の空白の14年間について、
経緯や背景を描かずに観客の想像力に委ねるのも一つの手です。
しかし、(くどいようですが「エヴァ」ではなく)「ヱヴァ」という物語においては、
ミサトの心理の変化を「描く」という選択肢をとってほしかったなあと思うのです。
正直、ヴンダーがどうした、カシウスの槍がどうしたという、
補完計画やネルフ絡みの謎については、僕はどうでもいいのです。
ただ、上述のようなミサトの14年間や、アスカやマリの14年間といった「人物の心理」については、
もう少し触れてもよかったんじゃないかと思います。
『序』『破』との最大の分断は、14年経ったという時間的な距離などではなく、
「誰の気持ちも分からなくなった」という、この落胆なんじゃないかと思います。

僕が今危惧しているのは、今回大量に放出された謎の解明と、
さらにうつ状態に陥ったシンジの回復という膨大な課題を、
果たして次回作だけで収拾できるのかということです。

群像劇だった『序』『破』から、『Q』で一気にシンジの一人称の物語に転換したことを考えると、
結局、新ヱヴァも旧エヴァと同様に、最終的には「シンジの物語」に絞ろうとしているんじゃないかと思います。
もしそうだとしたら、補完計画や、ヴィレとネルフの対決といった「ストーリー」としての決着よりも、
シンジがあの状況からどう希望を見いだすのかという、
観念の話に着地する ―かつてのテレビ版と同じ轍を踏む― ことになります。
それは避けてほしい。
新ヱヴァには観念ではなく、今度こそ具体的で肉体性のある希望を描いてほしいと願います。
「具体的で肉体性のある希望」とは何か。
それは、シンジ一人の「心の救済」などではなく、
あのサードインパクト後のめちゃくちゃになった世界について、
そして生き残った人々について、
何らかの形での回復・修復を描くということです。

書いていて思い出したのですが、
『序』そして『破』と見てきて、僕は新ヱヴァが「シンジとレイの物語」になるんだろうと予想していたのでした。
『破』の第10の使徒(前ゼルエル)との戦いにおいても、レイとの関係というものが、
シンジを動かす大きな動機となっていました。
だから、レイを救うことを通じて、シンジ自身も救われる物語になるんじゃないかと考えたのです。
すごく、ピュアなラブストーリーになるんじゃないかと。
だとすれば、すごく「アリ」だと思いました。
それは(繰り返すように)、テレビ版も旧劇場版も、結局はシンジ一人の物語だったから。
シンジだけでなく、シンジとレイと(願わくばアスカやミサトやゲンドウも)共に何らかの再生を遂げるのであれば、
リメイクされる意味があるなあと思ったのです。

完結編となる次回作のタイトルは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』。
ここで再びタイトルが「エヴァンゲリオン」に戻ったこと。
そして、「:||」という、楽譜上で「反復=同じことを繰り返す」を意味する記号が付けられていることに、
何やら不穏な予感を覚えます。
けれど、もはや作品として鑑賞するというよりも、
一つの事件として、とにもかくにも最後まで「目撃する」ことが、
「エヴァを見る」ということの意味だと思うので、
期待しながら完結編の公開を待ちたいと思います。


映画 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 予告







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映画 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』

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少年から大人へ
憎しみから愛へ


「自分は誰からも必要とされてない人間だ」。
僕が初めてそう思ったのは中学2年生のときだった。14歳だった。

足は遅いし球技は何をやってもヘタクソだし、運動はてんでダメ。
友達を笑わせられる話一つできない。
おまけにルックスも、クリクリでゴワゴワの髪の毛に牛乳瓶の底のような眼鏡という、
今で言う“イケてない”の極致。
ただ一つ、成績だけは飛び抜けて良かったのだが、
14歳の社会のなかで“勉強ができる”ということは、妬みの対象にこそなれ、
認められ、一目置かれることではなかった。
だから「自分はこの世に必要ない存在だ」という結論は、
僕にとって実にナチュラルな実感だった。
そして僕は生まれて初めて「死んでもいいや」と考えたのだ。

その年の冬、僕はギターを始めた。
何がきっかけで始めたのか、よく覚えていない。
しかしギターは、ギターだけは、他人から褒められ、認められるものだった。
だから僕は必死に練習した。
「ギターが上手ければ、僕は誰かに必要とされる」「ギターが弾ける僕は生きていてもいいんだ」。
そう考えていたのだ。
だが、翌年の春にギターがとてつもなく上手い転校生がやってきて、
僕のアイデンティティは脆くも崩れ去ってしまった。

『新世紀エヴァンゲリオン』は、誰かに必要とされ、愛されることを願う14歳の少年たちが、
巨大ロボットに乗り込み「使徒」と呼ばれる謎の生物と戦うことで、自分の価値を探す物語だ。
ストーリーのあちこちにばら撒かれたミステリアスな謎や、
ディティールの細かいクールなメカ描写にも夢中になったが、
それ以上に僕は物語の主人公たちに自分自身を投影した。
特にエヴァに乗ることに意地とプライドの全てを賭けているアスカというキャラクターには、
ギターに存在価値を預けていた自分と重なり、観ていて胸が苦しかった。
『エヴァ』は紛れもなく“僕の物語”だった。

本放送、そして当時の完結編にあたる映画『Air/まごころを、君に』からおよそ10年。
エヴァンゲリオンが“ヱヴァンゲリヲン”と名を改めて再び制作されるという話を聞いたときには、
「なぜ今更?」と思った。
ブームを支えたかつての中高生たち(つまり僕たち)を当て込んだ、
多分に商業的な匂いのする試みにしか見えなかった。
何より、思春期が終わると同時にエヴァを“卒業”した身としては、
徒に当時の記憶を掘り起こされたくはなかった。


だがそれは杞憂に過ぎなかった。
結論から言うと、素晴らしい。
「素晴らしい」という言葉などでは足りないほど、本当に素晴らしい。
かつて10年前の旧エヴァンゲリオンは、全てこの新ヱヴァンゲリヲンのためにあったのではないか。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は単なるリメイクではない。
2年前に『序』を観た段階で、すでにその思いは強くあったのだが、
今回の『破』を観て、それは確信に変わった。

では「単なるリメイク」と一体何が異なるのか。
マリやヱヴァ6号機といった新たなキャラ、新たな設定の登場か。
「人類補完計画」の全貌が今度こそ明らかにされるという期待か。
はたまた、美しく生まれ変わった映像か。

いや、そうではない。
そんな些末なことはどうでもいいのだ。
新ヱヴァが紡ごうとしているもの、それは旧エヴァの時には希薄だった“生への意志”である。

例えばそれは、復元されたセカンドインパクト前の海の匂いを嗅いでシンジが言う
「本当の海って生臭いんですね」という言葉に対し、加持が言う台詞。
例えばそれは、「他人と話すのもそんなに悪くないって思った」というアスカの言葉に対し、ミサトが言う台詞。
本編では実にサラッと挿入されるこれらの台詞には、かつてのエヴァにはなかった、
世界を肯定しようとする前向きな思いが宿っている。

旧エヴァが14歳の少年たちの視点に座し、
他人の存在を、世界を受け入れようともがき苦しんだ結果、
ヒリヒリとした痛みと絶望に満ち満ちていたのに対し、
新ヱヴァには「確かに世界は汚濁と混沌だらけだけど、それでもきっとどこかに愛はあるよ。
世界は生きるに値する場所だよ」という力強いメッセージがこめられている。
まるで大人になった今の自分が、
「死んでもいいや」とばかり考えていた、少年(チルドレン)だったかつての自分に向けて、
救いの手を差し伸べているかのように、僕には思える。

少年から大人へ。
憎しみから愛へ。
10年の重みがここにある。
この変化は総監督庵野秀明の変化であり、そしてまた僕ら自身の変化でもある。
楽観的になったわけではない。
絶望を叫ぶよりも希望を語る方がはるかに痛みを伴うものだ。
僕らはただ、10年間を経て、その痛みに耐えようとする覚悟が強くなっただけだ。
しかし、だからこそ今、本気で誰かを愛し、
他人を受け入れみんなで生きていくことの大切さを共有したいと願っている。

『破』では、シンジはレイのために、レイはシンジのために、そしてアスカはシンジとレイのために行動する。
彼らがはっきりと他人のために行動を起こすのは、旧エヴァでは見られなかったことだ。
10年前も今も、3人は変わらずに14歳だ。
だが、彼らは「変化」している。
この変化はつまり、庵野秀明、そして僕らの10年を反映したものなのだ。

僕は一昨日映画を観たのだが、まだ熱にうなされているような状態が続いている。
ちょっとでも思い出せば涙が溢れてきてしまう。
気持ちは醒めるどころか、ますます加速して渦を巻いている感じだ。
実はあまりに興奮してしまい、昨日も劇団のメンバーと観に行ってしまった(ちなみに全員ともすでに2回目)。

客層はやはり同世代の20〜30代くらいが多いように見えた。
おそらく全員が、10年前からのファンなのだろう。
そしてみんなきっと、シンジやレイやアスカの変化を感じ、
そしてその変化を感じ取れるようになった自分自身の変化に気付き、
あれから過ごしてきた時間について思いを馳せているんじゃないだろうか。

『エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)』とは、僕らの世代にとっての貴重なアンセムだ。
10代半ばに、そして20代の終わりに再びエヴァに出会えたことはなんと幸せなことだろう。

テレビ本放送がスタートした1995年という20世紀末からこの21世紀初頭へ、
10年間で現実はどんどん行き詰まりを見せている。
だからこそ、ささやかな愛と優しさに満ちた作品として生まれ変わったヱヴァンゲリヲンには、
勇気をもらうことができる。

素晴らしい。
何度言っても足りない。
身体が震えるほど素晴らしい。


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』予告編
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