
勝手気ままに
動き始める人たち
先々週からテレビ朝日で『Dr.伊良部一郎』というドラマが始まった。日曜深夜という放映時間のせいか何なのか、はっきり言ってあまり話題になっていないのだが、この作品の主人公「伊良部一郎」は、知る人ぞ知る“有名人”である。
元々は、奥田英朗の小説『イン・ザ・プール』から生まれたキャラクターである。職業は神経科(ドラマでは心療内科)の医師。彼の元にはさまざまな心の悩みを抱えた人たちが訪れる。だがこの伊良部、医師というイメージとは遠くかけ離れた人物なのだ。
子供のようにワガママで、傍若無人。患者をまるで“都合のいいカモ”だと言わんばかりに、診察そっちのけで自分の話ばかりを繰り広げ、得体の知れない注射を打ちまくる無茶苦茶な医者なのである。おまけに髪は薄く、腹はでっぷりと出ていて、見た目もいかにも胡散臭い。当然、訪れた患者は真っ先に“引く”のだが、知らず知らずのうちに伊良部のペースに巻き込まれ、いつの間にか症状が回復している、というのが毎回のストーリーである。
『イン・ザ・プール』で初登場したこの強烈なキャラクターは、さらに『空中ブランコ』、『町長選挙』という続編を生み、「伊良部シリーズ」と呼ばれる人気シリーズとなっている。映像や舞台にもなっており、ドラマ化されたのも今回が初めてのことではない。ちなみに、奥田英朗は『空中ブランコ』で直木賞を受賞している。シリーズものの2作目、しかも連作というスタイルの小説が直木賞をとるのも珍しい。
「キャラクター」というものは、程度の差こそあれ、作為的な存在である。作者はキャラクターを、作品の意図やテーマを自身の代わりに語る拠り代として、あるいは物語を然るべき方向へ導くための人工的な装置として、練り上げるのである。
しかし、ごく稀に、作者の意思と関係なく生まれるキャラクターというものがある。まるで独立した生命を持っているかのように、そのキャラクターは勝手に動き回り、勝手に発言し始めるのである。作者とキャラクターの主従の関係は逆転し、作者は彼、あるいは彼女の行き先を追いかけるようにしてペンを走らせるしかなくなる。
・・・というような話を以前、漫画家のハロルド作石が語っていた。『BECK』の名物キャラクター「斉藤さん」は、紙の上にペンを置くだけで勝手に“動き”始めてしまうらしい。確かに斉藤さんという、ひょっとしたらあの作品の中で一番生き生きしているかもしれない人物のことを思うと、それも納得できる。
不遜を怖れず言えば、僕にも似たような体験はある。例えば昨年上演した『バースデー』で言うと、オカマのヒロミや、レストラン従業員の谷川さんは、まさに僕の意思を超えて勝手に動き始めるキャラクターだった。執筆中に一度だけ、谷川さんの台詞に僕自身が笑ってしまったことがある。
こういう場合、作者である僕はとにかく必死である。なにせ頭の中でひたすらヒロミや谷川さんが喋っているので、とにかく手を動かして彼らの言葉を文字に書き起こさなくてはならない。テープ起こしを延々とやっているようなものなのだ。そして当然の結果、彼らの台詞の量は異様に多くなり、後々削ったり切り離したりといった、本来であればあまり必要ではないパズル的な作業が発生してしまう。
だが、そういう勝手なキャラクターの方が、作者が意図的に作り上げたキャラクターよりも魅力的な場合が多い。それは一言で言えば「生命力の有無」である。たとえそのキャラクターが、主人公を導いたり大事なテーマを語ったりといった、作品の核心に触れる存在でなくても、生命力が躍動する人物には自然と目が行き、問答無用のインパクトとリアリティを与えるものである。そういうキャラクターをなるべく多く生み出したいと思うけれど、なかなか意図してできるものではない。難しいところである。
今回紹介した「伊良部一郎」も、ひょっとしたら奥田英朗の意思を超えたキャラクターだったのではないかという気がする。伊良部のあのワガママな性格は、「設定」というよりも、彼自身の自己主張の強さのように思えてしまうのだ。しかも、それに対して作者が半分匙を投げてしまっているようにさえ見え、そこがまた面白い。「こんな奴いるはずねえよ」と思いながらも、「どこかにいたら面白いな」と思ってしまうのである。