週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【歴史】大河ドラマ

2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』<Reprise>

naotora

全てが地味なはずの「マイナー大河」が
大河ドラマの未来を拓いた


 今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』が終わりました。放映開始直後の記事で僕は「過去の大河ドラマとは別物なんだと分からせてくれた(でも僕は「過去の大河」の方が好きだけど)」という、極めて消極的で個人的な評価をしました。しかし、1年間の放送を見終えた今、僕はこの当初の評価を全力で撤回します。『直虎』という作品は、僕が思ってたよりもはるかに素晴らしいドラマでした。頭をすり下ろすくらいの勢いで土下座します。

 手のひらを返しすぎだと思われるかもしれませんが、僕は『直虎』は大河ドラマの未来を拓いたんじゃないかと思います。ポイントは、主人公の直虎含め、登場人物のほとんどが一般的に知られていないマイナーな人物ばかりだったこと

 誰もが知る歴史上の有名な人物ではなく、その脇にいた人物を主人公に据えるのは、近年の大河ドラマの流行りではありました。『天地人』の直江兼続や『軍師官兵衛』の黒田官兵衛、『花燃ゆ』の楫取美和など。大河も第1作から50年以上経ち、歴史上有名なメジャー人物はやり尽くしたという台所事情があるのでしょう。

 しかし、『官兵衛』でも指摘したように、いくらマイナー人物を主人公に据えたところで、物語は結局主人公の近くにいるメジャー人物を軸に進むことになるため、肝心の主人公は傍観者になったり、反対に主人公というだけでメジャー人物を超える活躍を見せたりといった、「ねじれ」が頻発していました。

(その点で僕は、メジャー人物がいなかった『八重の桜』に期待していたのですが、あの作品も中盤、京都の政治劇に話の重心が移ってしまい、せっかくのマイナー人物大河が生かせず惜しい結果になりました)

 これまで大河が取り上げてきたマイナー人物が、結局のところ「メイン人物の脇にいるマイナー人物」でしかなかったは、メジャー人物が映らないと関心を呼ばないだろう、歴史上有名な事件が絡まないと1年間もたないだろうといった、一種のマーケティング的発想によるものだったんだろうと思います。今回の『直虎』は、それが単なる幻想だったことを示しました。

 でもなぜ、メジャーな人物や有名な事件にも頼らなかった『直虎』が、あそこまで面白いドラマになれたのでしょうか。僕は、マイナー人物ばかりという従来の常識に反するこの作品の特徴が、むしろ面白さの大きな理由になっていると考えています。

 歴史上マイナーな人物は、残された史料が決して多くありません。直虎にしても直筆とされる史料は『龍譚寺文書』の1点だけですし、放映前には「直虎は実は男だった説」が報道されるなど、そもそも存在すら曖昧です。そうした人物を題材にドラマにするということは、必然的にフィクションの入り込む余地が大きくなります

『時代劇の「嘘」と「演出」』という本もありますが(めちゃくちゃ面白い本です)、歴史ドラマにおいてどこまで史実に基づくか、どこまでドラマとしての創造性を許容するかは常に制作者を悩ませる問題です。そして、取り上げる人物がメジャーな人物であればあるほど、フィクションの許容度は低くなる傾向があります。また、仮に従来とは異なる思い切った解釈をしたとしても、メジャーな人物や事件であれば、「独自の解釈をする」ということ自体が手垢にまみれてしまっていることが少なくありません(例えば、本能寺の変は秀吉が起こしたetc.)。

 その点、マイナーな人物であれば、史料という「縛り」も少なく、反対にフィクションに対する許容度は大きい。マイナー=話の結末を知らないから新鮮に見てもらえる視聴者が多いというシンプルな利点もあります。

 例えば『直虎』でいえば、寿桂尼と直虎との、緊張感がありつつも女城主同士で親近感を覚えあう関係などは、史実という「法の網目」をフィクションが上手くすり抜けた好例だったと思います。

 そして、フィクションと史実とが矛盾しないまま極めて高いレベルで融合したのは、なんといっても高橋一生演じる小野政次のキャラクターでしょう。「裏切り者として処刑された」とされる史実を維持しながら、その裏側に180度違う解釈のキャラクターと物語が築かれ、「本当はこうだったのかも」と想像が膨らみました。しかも、第33回「嫌われ政次の一生」放映直後、多くの人が指摘していたように、「今我々が知っている歴史とは、所詮勝者によって作られたものでしかない」という、歴史の見方そのものに対するメッセージが読み取れた点においても、素晴らしい脚本でした。

『直虎』の功績。それは、登場人物も取り上げる事件も一般的に知られていないという「マイナー大河」であることを逆手に取り、大河ドラマに「ドラマ」の面白さを取り戻したことです。違う言い方をするならば、「ここまでフィクションで作りこんでもいいんだ」と、創造の余地の上限を引き上げた(あるいはボーダーラインを引き下げた)ことです。僕が冒頭「『直虎』は大河ドラマの未来を拓いた」と書いたのは、この作品の成功により、これからの大河の題材選びと作り方がガラッと変わるんじゃないかと期待しているからです。

 にしても、16年『真田丸』と17年『直虎』は、前者は過去に散々題材になってきたメジャーなネタ、後者はほとんど取り上げられてこなかったマイナーネタという違いこそあれ、どちらも「大国に翻弄されながらなんとか生き残ろうとする小国の領主」という点で共通しているのが面白いですね。「天下をとる」や「新しい世を作る」といったプラスアルファで大きな何かをつかみ取ろうというのではなく、「生き残る」という究極の現状維持の方が感情移入を喚起するのは、今という時代性なのかもしれません。





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2017年大河ドラマ 『おんな城主 直虎』

naotora

僕の知ってる大河ドラマは死んだ
でも、きっとこれでいいんだ


今年のNHK大河『おんな城主 直虎』
正直、僕はまったく期待してなかったんだけど、
始まってみると意外や意外、けっこう面白いです

いろいろな事件が起こるのに台本がとてもよく整理されているし、
キャラクターもきっぱりはっきりしている。
子役の3人もめちゃくちゃ上手ですね。
おとわ役の新井美羽ちゃんは出演者クレジットで堂々の先頭を飾っていましたが、
これってもしかしたら『義経』(05年)の神木隆之介くん以来じゃないでしょうか。
あと、井伊谷のロケーションも素晴らしいですね。
毎日家からあんな景色が見られるなら僕も住んでみたい。
あんな場所よく見つけてきたなあ。

でも、今挙げたことはどれも、
僕の知ってる大河ドラマとは正反対の要素ばかりです。

僕にとっての大河ドラマとは、
まさに「大河」という名の通り、
重厚で骨太なものでした。

それは単に、作り込まれた衣装やセット、
大規模な野外ロケによる迫力ある合戦シーンといった、
「スケールの大きな時代劇」という意味ではありません。
むしろ、1年もの時間をかけて一人の主人公を追うことで見えてくるのは、
子供が生まれる喜びや愛する人と別れる悲しさ、
敵への激しい憎しみや時には肉親とも争ってしまう愚かしさといった、
時代の表層がいくら移ろっても変わらない普遍的な「人間」の姿でした。

僕はまるで、日曜8時からの45分間は、
そこだけ現代とは切り離された時間が流れているように感じていました。
TVの前で思わず背筋がピンと伸びるような、
見ている間は息をするのも憚られるような、
そんな緊張感こそが僕にとって大河ドラマの醍醐味でした。

それを思うと、『直虎』は(今のところ)驚くほどほのぼのしてます。
いえ、物語の中ではそれなりにハードな場面は出てくるのですが、
それでも最終的にはハッピーエンドになるんだろうという予感というか、
最低限の安心は保障されているような感覚があります。

それは例えば、元気いっぱいのおとわとそれを見守る気弱な直盛と厳しい千賀、優しい直平という
「絵に描いたようないい家族」の構図のせいかもしれませんし、
おとわと亀之丞、鶴丸の3人の関係とそれぞれのキャラクターが、
この先の展開が容易に想像できるほどわかりやすいせいかもしれません。
いずれにせよ、「この先どうなるんだろう」というハラハラドキドキよりも、
ある程度着地点を予想させたうえで、そこに向けてどうやって進むのかを、
いわば確認するためにドラマを見ているような気持ちになるのです。

元々大河ドラマは21世紀に入って以降、
こうした傾向が顕著でした。
現代劇と変わらない台詞回しや、「主人公は善、敵方は悪」という類型化されたドラマ、
その人自身の人生よりも主人公との関係性によって決まる「役割」重視の人物造形など、
かつての大河のようなリアルさやカオスさよりも、
見やすさや安心感の方に重点が置かれてきました。

こうした変化を、僕は大河ドラマがアニメ化していくようだと感じていたのですが、
『直虎』がもたらす安心感は、もはやアニメ化とかそんなレベルを突き抜けて、
「朝ドラ化」という段階にまで到達したような気がします。

そう考えると、花をシンボリックに使った「みんなの歌」のようなオープニングも、
時代設定を無視した色艶のいい役者の肌も、
丁寧にキャラクターを説明してくれる衣装のデザインも、
なんだかすべて納得してしまいました。
ここまで振り切ってくれるなら、アニメ化大河ドラマを苦々しく感じていた保守派の僕としても、
むしろ清々しいくらいです

『直虎』の第1回を見終わった時に感じたのは、
「ああ、大河ドラマはもう本当に別のものになったんだな」という感慨でした。
本当はとっくの昔に変わってたんだろうけど、
僕はこの作品でようやく諦めがついた気がします。

もちろん、だからといって、
「昔の大河ドラマの方が圧倒的に面白い」という考えは揺るぎません。
ただ、これからは未来の作品にかつてと同じ面白さを期待するのではなく、
一人で静かに『武田信玄』(88年)の再放送や、
『太平記』(91年)の完全版DVDを見ていようと思います。




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「期待していない」からこそ考えた『軍師官兵衛』の3つの見どころ

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2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』が始まりました。
ぶっちゃけて言えば、僕は今回はあまり期待していません。
理由は後述するとして、そんなローテンションの中でも、
どこか期待できるところや見どころはあるんじゃないかということで、
3つのポイントを考えてみました。

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ポイント1:「アクの強い役者」に注目

今回のキャスティングは意外性が少なく、
全体的にあっさりした顔ぶれが並びました(これはここ数年の傾向でもあります)。
そんなあっさりした面々ばかりだからこそ、
「濃さ」や「アクの強さ」が期待できそうな俳優の演技には注目したいところです。

筆頭は秀吉役の竹中直人でしょう。
1996年の『秀吉』で主役を演じて以来の再登板です。
当時30代だった竹中直人も今では50代ですが、
画面を見る限り、年齢による劣化や無理は感じません。
むしろ、18年ぶりに見た竹中秀吉は抜群の安定感で、
「あるべき場所にハマった感」すらあります。

かつての大河ドラマでは『太閤記』(1965)、『黄金の日日』(1978)とに連投した
緒形拳の秀吉と高橋幸治の信長のように、いわゆる「ハマリ役」というものがありました。
平成以降は絶えているので、竹中秀吉が再び前例を作って欲しいですね。

また、片岡鶴太郎演じる小寺政職もかなり期待がもてます。
何にも考えていないくせにさも思慮深そうなふりをする、あの芝居!
どこかイッちゃってる感じは、かつて鶴太郎が演じて衝撃的なインパクトを残した、
『太平記』(1991)の北条高時を彷彿とさせます。
それと、まだドラマには登場していませんが、陣内孝則の宇喜多直家というのも楽しみなキャスティングです。


ポイント2:岡田准一は「老けメイク」が似合う

大河ドラマの大きな難点の一つである「老けメイク」。
年齢による見た目の変化をつけなければいけないというのはわかるのですが、
先週までつるっとした顔をしていた俳優が突如ヒゲをつけたり白髪を生やしたりする、
あの「とってつけた感」はなんとかならないものかとずっと思ってました。

その点、今回の主演・岡田准一の老けメイクはわりと良かったですね。
第1回目の冒頭、物語としては後半にあたる小田原攻めでの官兵衛の姿が映りましたが、
ヒゲや白髪のなじみ具合は自然だったし、岡田准一のくたびれた芝居も説得力がありました。
大河ドラマは毎回、登場人物たちがヒゲをつけ始めるあたりでテンションが一段落ちるのですが、
今回はそれが避けられるかもしれません。


ポイント3:「主役が脇役」をどこまで生かせるか

最後に挙げましたが、『軍師官兵衛』が面白くなるかどうかの最大のポイントはここだと思います。
冒頭、今回の作品に対して「期待していない」と書きました。
それは、『八重の桜』のときにも書いたように、
僕はかねてから「脇役・亜流の人物が主人公」という手法に疑問を感じていたからです。

黒田官兵衛という、これまで脇役として描かれてきた人物にスポットを当てること自体はいいでしょう。
しかし、同じ手法で作られた『風林火山』(2007)や『天地人』(2009)がそうだったように、
脇役人物を主役にしたところで、ドラマの軸は結局のところ、
「(秀吉や信長といった)主役級人物の物語」になってしまう可能性が非常に高いのです。
つまり、今回で言えば、主役は黒田官兵衛なんだけど、
ドラマそのものは官兵衛が仕える秀吉の物語になってしまうんじゃないか、ということです。
制作スタッフの「主役級人物は既にやり尽くした」という台所事情と、
「戦国時代は鉄板ネタ」という思い込みとが混じり合った結果なのでしょうが、
これでは何のために脇役を主人公にしたのか分かりません。
今回も、いかに「秀吉の物語」に流れず、「官兵衛の物語」にできるかどうか、
そのバランスや工夫が問われると思います。

ただ、この点について僕が期待できるなと思うのは、
脚本を担当する前川洋一が、とても素朴で骨太なストーリーを書いている点です。
第2回「忘れえぬ初恋」では、官兵衛が将来を約束したおたつが、
政略結婚のために他家へ嫁ぐことになってしまう、というストーリーでした。
官兵衛が気持ちを告げられずにいる間におたつの婚儀が決まってしまうというすれ違い。
そして、その婚儀の場を狙って敵が迫っているという運命性。
この、シンプルで力強いストーリーには、久々に「王道」を見た思いがしました。
信長や秀吉のシーンを最低限にとどめ、あくまで「主役は彼である」というように、
官兵衛への感情移入を切らさない作りにも、ポリシーを感じます。

ついつい忘れがちなんですけど、大河ドラマはあくまで「ドラマ」なので、
どれだけ濃い芝居を映そうが、いかに無名の人物を取り上げようが、
やっぱり話が面白くなくちゃ意味がないんですよね。

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ということで、まだ若干「及び腰」気味ではあるのですが、
今年も大河を見続けようかと思います。
特に有岡城の戦いなど、黒田官兵衛の人生において重要な意味を持つ事件が集中する、
前半〜中盤のドラマには期待してます。




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『八重の桜』はなぜ期待できるのか

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2013年の大河ドラマ『八重の桜』がスタートしました。
現在、第3話までが放送されていますが、
僕は早くも、めちゃくちゃ面白いドラマになるのではないかと期待を膨らませています。
理由は大きく3つ。


その1:主人公は「ど」が付くほどマイナーな人物

ドラマが始まる前、果たしてどれだけの人が「新島八重」という人物を知っていたでしょうか。
僕は浅学にして名前すら知りませんでした。
新島襄ですら、決してメジャーとは言えない人物なのに、
その夫人のことなど、相当なマニアを除いて誰も知らなかったのではないでしょうか。
これまでほとんど取り上げられなかったマイナーな人物を主人公に抜擢したことは、
僕は素晴らしい決断だったと思います。

大河ドラマも今年で51作目。
正直、この10年くらいは「ネタ切れ」の感がありました。
『北条時宗』(2001年)あたりで第一級の有名人物は取り上げ尽くし、
後は過去に主人公として取り上げた人物を再登板させるか(ex.『義経』『龍馬伝』)、
「有名人物の脇にいる人物」にスポットを当てるかの(ex.『風林火山』『天地人』)、
大きく二つの方法でなんとかやりくりしていたのが、
ここ10年の流れだったと思います。

しかし、当然こうした対症療法的な作り方には限界があります。
特に後者の作り方は、
いくら「有名人物の脇にいる人物」を主人公に取り上げたところで、
物語そのものは「有名人物」である主人公の主人や伴侶を中心に流れていくわけですから、
結局のところ、戦国期なら戦国期、幕末なら幕末の、
過去の大河ドラマの「二次的派生品」に甘んじざるを得ません。
山本勘助が主人公の『風林火山』(2007年)よりも、
ストレートに武田信玄を取り上げた『武田信玄』(1988年)の方が、
どうやってもドラマとしてダイナミックになるに決まってます。
※『篤姫』(2008年)が面白かったのは、
 西郷や龍馬を描くことを潔く捨てて(幕末という「時代」を描くことを捨てて)、
 あくまで一人の女性の「人生」にフォーカスを当てたからだと僕は思っています。
 過去記事:2008年大河ドラマ『篤姫』

メジャーな人物はもう一巡したんだから、
せっかくなら「どマイナー」「超マニアック」な人物を主人公にすればいいのに、
信長や秀吉といった超有名人物を絡ませなければ視聴率を取れないと考えているのか、
結局選ばれるのはその周辺にいる「ちょっと有名」な人物ばかり(直江兼続とかお江とか)。
そういった「及び腰」の姿勢で面白いドラマが作れるわけないんです。
※その点で、僕は正直来年の『軍師官兵衛』はあまり期待していません。

こうした煮詰まり感と飽和感に対し、
『八重の桜』は風穴を開けられる可能性があります。
新島八重は、これまでのような「ちょっとマイナーな主人公」ではなく、
「ど」がつくほどのマニアックな人物。
今回のドラマが受け入れられれば、
NHKも今までの「有名人物依存」「戦国・幕末(たまに源平)依存」から脱却できるでしょう。
教科書には載らないけど、苛烈な人生を生きた人物や現代に取り上げる価値のある人物は、
歴史の中に山ほどいます。
僕はむしろ、そういう人物にスポットを当てることこそ、
大河ドラマの大きな意義なんじゃないかと思います。


その2:「ドラマ」を宿すディティール

大河ドラマの時代考証や映像美術は毎回素晴らしいのですが、
今回はその中にも、作り手の「志」を感じるような部分が目に留まります。

僕がまず「おっ!」と思ったのは、
第1話で出てきた、鶴ヶ城の内部のセット。
会津藩主・松平容保と家臣たちの場面でした。
江戸期の城、それも城主である容保が家臣と謁見するオフィシャルな部屋ですから、
何らかの装飾や明るい調度品があっても良さそうですが、
ドラマのセットは、まるで町中の剣術道場のように素朴で荒々しい部屋でした。
板敷の床も柱も、人の脂を長年吸い続けてきたように黒光りしています。
いかにも質実剛健、愚直なほど真っ直ぐな「会津」らしい。
リアルかどうかは別として、セットだけでドラマを感じさせるなんて、
これまで決して多くはなかったように思います。
セットという点では、象山先生の塾も素晴らしかったですね。
机(作業台?)の配置や書棚、応接間になっている怪しい地下の部屋など、
とてもオリジナリティを感じました。
八重の家の、鉄砲の練習部屋(?)なども、非常にインパクトがありますね。

ディティールということで言えば、
僕が今回なにより「いいな!」と思っているのが、会津弁です。
あまりに訛っているから、けっこうな頻度で聞き取れない(笑)。
でも、そこがいいんです。
優れた演出方針だと思います。
仮に台詞がなんとなくしか聞き取れなくても、
忠実(だと思うんですけど)な会津弁によってもたらされる空気感は、
それを補って余りあります。
多分、ここまで方言にしっかり取り組んだ大河は、
『翔ぶが如く』(1990年)の薩摩弁以来ではないでしょうか。
もしかしたら、去年の『平清盛』の時みたいに、
どっかのバカが下らないクレームをつけてくるかもしれません。
「何を話してるかわからない」とか「台詞は標準語にしろ」とか。
(あの「画面が汚い」という意見は、一体何だったんでしょうか)
僕は是非、最後まで今の「ネイティブ会津弁」を貫いて、
土臭いドラマのまま突き進んでほしいと思っています。


その3:「ならぬことはならぬ」に表れる具体性と身体性

3つめは、少しフワッとした話になります。

僕は、大河ドラマで一番多い失敗パターンは、
「物語が観念的になること」なんじゃないかと考えています。
「観念的」というのは、物語の軸が抽象的な言葉でしか表現できなくなる状態を指します。

史上最低の視聴率となってしまった昨年の『平清盛』は、
僕はけっこういいなと思っていたのですが、
残念ながら後半で、この「観念的」というパターンに陥ってしまいました。
物語のテーマを背負う概念として、何度も台詞に登場した「武士の世」。
清盛は何度となく、この「武士の世」という言葉を口にしていましたが、
結局最後まで視聴者は、それが具体的にどういうものなのか、
少しもイメージがつきませんでした。
にもかかわらず、ドラマ全体がまるでそこに逃げ込むように、
登場人物の言動の根拠は全てこのファジーな「武士の世」に頼りっきりになっていました。

『平清盛』は、清盛が夢見た「武士の世」という構想を、
敵であるはずの頼朝が引き継ぐという点に、
(その後700年近くに渡る武士主導の日本史の基礎は、実は清盛が築いたという点に)
従来にはない新しさや深さがあったと思うのですが、
肝心の「武士の世」がよくわからないままだから、いまいち伝わってこない。
僕は、『平清盛』が低空飛行を続けてしまった一番の理由は、
物語の要諦が、最後まで観念の域を出なかったからだと思っています。

同じような例が『義経』(2005年)です。
義経は何度も「自分は新しき国を作る」と口にするのですが、
言葉の響きがいいだけで、中身は全くわからない。
義経が平氏と戦うのも頼朝と仲たがいするのも、
全ての根拠は彼が理想とする「新しい国」にあるのですが、
結局それがどういうものなのか理解できないから、
さっぱり感情移入できないまま終わりました。

ここ最近で一番ひどかったのは『天地人』(2009年)です。
あのドラマは、何をするにも「義」という、
もう言葉自体が観念以外の何物でもないフレーズに頼りすぎたせいで、
「兼続も景勝もなんとなくいい人だった」という印象しか残らない、
見てるこちらをなんとも疲れさせたドラマでした。

逆に、観念を排除して、人物の行動とそれに伴う具体的な台詞だけで物語を動かしたのは、
ここ最近では『新選組!』(2004年)と『龍馬伝』(2010年)でした。
特に『龍馬伝』は、過去10年の大河ドラマの中では最も素晴らしい出来だったと思います。

『北条時宗』はかなりいい線をいっていたと思うのですが、
終盤にきて時宗が「(元との)戦争でも服従でもない『第3の道』を探す」という、
またもやフワッとした理想論ばかり口にすることが多くなって、
ラストで失速してしまった惜しいドラマでした。

ちなみに(話がどんどん脱線してますが)、
「新しい国づくり」というキーワードを多用しながらも、
緒形拳(足利貞氏)→片岡鶴太郎(北条高時)
→武田鉄矢(楠正成)→高嶋政伸(足利直義)&大地康雄(一色右馬介)という、
脇役の力演・怪演で継投し、力ずくで視聴者を寄り切ってしまった『太平記』(1991年)のような、
数少ない例外もあります。


さて、この「観念的」という問題に関して『八重の桜』はどうなのか。
もちろん、まだわかりません。
わかりませんが、僕は良い予感を感じています。

その根拠は、第1話のタイトルとなった「ならぬことはならぬ」。
会津の藩校・日新館の教えにある言葉ですね。
いいフレーズだなあと僕は思いました。
上記で紹介した例のように、
観念的という罠に陥るのは多くの場合、
キーワードとなる一つの台詞に頼りすぎることがきっかけになります。
その点では同じように見えますが、
しかし、この「ならぬことはならぬ」という言葉の中には、
その後の会津が殉じた美学が端的に表れており、
なおかつ、八重の人生のテーマ、すなわちドラマの今後を予感させるものがあります。
こういった、重みのあるフレーズに導かれる限りは、
ドラマは具体性と身体性を失わないだろうと思います。



いろいろ書いてきましたが、
まあ、それでも、まだ3回しか放送されてません。
今後、失速してしまう可能性もあります。
僕はそうならないよう応援しながら、最後まで見届けようと思います。




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2010年大河ドラマ 『龍馬伝』

ryomaden
完璧すぎるこの男
内心ムカついたこと、ありませんか?


 年末の『坂の上の雲』が大々的なイベントだったせいで、こちらは少々日陰に追いやられた感があるが、何はともあれ今年の大河ドラマ『龍馬伝』がスタートした。「龍馬が福山雅治ってどうなの?」と不審の声はあちこちで聞こえるが、何はともあれ僕は1年間見守ろうと思う。なにせ龍馬なのだから。

 坂本龍馬を嫌いな人っているんだろうか、と思う。そりゃ中にはいるんだろうけど、間違いなく圧倒的少数派だ。だってかっこいいもの。強くて、ユーモアがあって、自由闊達で、歴史の表舞台に風のように舞い降りたかと思ったら、去り際も鮮やか。おまけに名前まで洒落ている。そしてその「龍馬」という名を口にするだけで(あるいは文字に書いてみるだけで)、なんだか胸に青空が抜けるような、清々しい気分になる。

 そんな日本史上最大のスター坂本龍馬に欠点を挙げるならただ一つ。あまりに完璧すぎることだ。そう、みんな実は内心龍馬に嫉妬したことが一度くらいはあるんじゃないか。僕は『竜馬がゆく』を初めて読んだとき、正直ちょっとムカついた。ああいう見事な快男子には、憧れ以上に敗北感を抱くことになり、切ない。

 実は今回の『龍馬伝』、そういう嫉妬が最初の切り口になっている。そのネガティブな感情の主は岩崎弥太郎(香川照之)。ドラマ冒頭はいきなり、弥太郎の痛烈な龍馬評、「あんな腹の立つ男はいない!」という言葉で始まるのである。龍馬と弥太郎は同じ土佐に生まれ育ったいわば幼なじみ。だが弥太郎は、剣の腕が立つのに温和な平和主義で、おまけに女の子からもモテる龍馬にいつも嫉妬していた。今回のドラマは基本的にこの岩崎弥太郎の視点で進むことになる。

 これはとても興味深いアプローチの仕方で、つまり僕ら視聴者は、龍馬べったりではなく、距離をおいて客観的、批評的立場から坂本龍馬を眺めていくことになるのである。生まれながらにしてヒーローだったわけではなく、悩み傷つきながら一歩一歩僕らの知る「坂本龍馬」になっていくという、極めて“生身”な龍馬が描かれることになるだろう。それは、「自由で豪快で海を眺めて夢を語る」みたいな、現在流通しているステレオタイプの龍馬とはまったく異なる人物像になるはずだ。

 第1回を見た限りでは、“福山龍馬”は気の優しい文系青年、みたいな感じでかなり意外。だが、「まさかの福山雅治」というそもそものキャスティング含め、意外性が今回のドラマの重要な切り口となりそうなので、観るこちらとしても、まっさらな気持ちでいた方が楽しめそうだ。

 脚本は『HERO』や『容疑者Xの献身』の福田靖が、演出チーフは『ハゲタカ』の大友啓史が担当(音楽の佐藤直紀も『ハゲタカ』チーム)。ドリームチームのようなスタッフ布陣にも期待大。

 第1回再放送は土曜の13:05からです。


『龍馬伝』公式HP

スペシャルドラマ 『坂の上の雲』

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ついに始まった大作ドラマ
“青春”日本の姿に涙する


 最初の制作発表から実に6年。待ちに待ったドラマ『坂の上の雲』の放映がついに始まった。

 「待った甲斐があった」とはまさにこのこと。僕はもうテレビの前でずっと泣きっぱなしです。素晴らしい。まだたった2回しか放送されていないが、断言してしまおう。これは本当に素晴らしいドラマである。

 何がそれほど素晴らしいのか。脚本も俳優の演技も非の打ちどころがないし、渡辺謙のナレーションも味がある。美術の凝り具合などは、はっきり言って大河ドラマよりも数段上である。細かく挙げよと言われればキリがない。だが、そのような細部の一つひとつが個別に優れているというよりも、全てが組み合わさりトータルとして、ボリュームもスケールも桁外れなあの原作の映像化を成し遂げた、この一点に尽きる。

 「司馬作品の映像化など過去にいくらでも例があるじゃないか」と言われそうだが、このドラマは過去の映像化作品とは根本的に違う。ディティールをとことん突き詰めるだけでは、はたまたストーリーを丹念に追うだけでは、司馬作品は「司馬作品」にはならない。なぜなら、そこに司馬遼太郎の息遣いというものがないからだ。彼の持つ独特のユーモアや、決して主人公に感情移入しすぎないクールなタッチ、それでいて深く漂う人間(日本人)への愛情。司馬作品を「司馬作品」たらしめているのは、ストーリーやテーマといった作品の外郭以外の部分にこそある。その司馬の体温のようなものを映像に封じ込めなければ、“司馬作品を映像化した”とは言い難い。そして、そのような成功例は決して多くはないのである。

 もちろん、「原作と映像は別物」という考え方はある。だが、こと『坂の上の雲』という作品に関しては、その考え方は通用しない。それは、この作品が描いている時代に関係がある。

 以前『翔ぶが如く』について書いた時にも触れたが、司馬遼太郎の創作の原点には、太平洋戦争という忌まわしい体験がある。信長、竜馬、土方歳三。彼が主人公たちを皆、合理的精神の持ち主として描いているのは、思想の暴走が招いた太平洋戦争に対する反省があるからだ。

 『坂の上の雲』の主人公である秋山兄弟は軍人だ。ただし、昭和の軍人のような「思想中毒」ではなく、合理的な思考を旨とする、理性的な技術屋としての軍人である。明治日本が欧米列強の脅威から身を守るためにやらなければならなかったのは、一にも二にも技術と知識の習得であり、とにかく日本人全体が猛烈な勢いで勉強した結果、大国ロシアに勝ち、世界の強国から“ナメられない”地位をどうにかこうにか手に入れるのである。だが、「大国ロシアに勝ってしまった」、このことが軍部の増長を生み、ひいては太平洋戦争まで続く、合理性を欠いた「思想中毒」の遠因ともなった。

 『坂の上の雲』が難しいのはそこである。物語のクライマックスは日露戦争の勝利だが、後の歴史を見ればわかるように、それは決して手放しで喜ぶべきものではない。司馬遼太郎は明治時代を日本の「青春」と喩えたが、日露戦争はその「青春」の到達点であると同時に、近代日本が道を違えた第一歩として、ある反省とともに見つめなければならないのである。そのバランス感覚を間違えれば、戦争を礼賛する作品になってしまう。この『坂の上の雲』は、司馬遼太郎の目を、その感覚を通じてこそ初めて感動が味わえる作品なのだ。

 先週の第2回までは、まだ物語は穏やか。秋山真之、秋山好古、正岡子規の3人が、近代国家としての胎動期を迎えた日本のなかで、自分の進むべき道を探している。いよいよ今週日曜の第3回から、物語は日清戦争に突入する。青春の日本が最初に迎える大きな試練だ。

 僕は日本の近現代史が嫌いだ。なぜなら侵略の歴史だからだ。古代、中世、近世とワクワクしながら日本史を追ったところで、結末部分で気持ちはひっくり返る。日本という国が嫌いになってしまう。

 だが、『坂の上の雲』という作品は、ほんの少しだけ、日本人であることを誇りに思わせてくれる。司馬遼太郎は「この作品の主人公は日本人全員というべきであり、3人の青年は当時の日本人の一典型にすぎない」と語っていたという。僕は、物語に登場する人間が皆一様に使命感と希望とプライドを持って生きている姿に、涙してしまうのである。
 

NHK公式ホームページ

2008年大河ドラマ『篤姫』

「幕末」を描かずに
一人の女性の人生を描いた快作


 とても面白く、見応えのあるドラマだった。
 正直に言えば、放映開始前はあまり期待していなかった。まず、少し前の「大奥ブーム」に乗った、安易な商業精神が気に食わなかった。なにより主人公の篤姫という存在が気がかりだった。篤姫は、歴史上特にこれといった功績のない第13代将軍徳川家定の、その正室にすぎない。幕末という日本史の一大転換期を描くには、主人公の人間関係、ドラマの主要な舞台があまりに限定されているため、やがては西郷隆盛や大久保利通、あるいは坂本龍馬といった人物のシーン、つまり主人公不在のシーンが増えて、空疎なドラマになってしまうのではないかと思っていたのだ。
 確かに他の大河ドラマに比べると、主人公不在のシーンは多かった。また、大きな政治的事件もサラッと描かれる程度であり、江戸から明治へ変わる瞬間など、ほとんどナレーションだけで過ぎていった。
 だが、『篤姫』は面白かったのだ。
その理由はとても単純で、「時代」を描くことを最小限に留め、篤姫という一人の個人の「人生」をひたすら丹念に描いたからだ。

 大河ドラマは一年を通して一人(あるいは複数)の人物の生涯を描くのが基本スタイルだ。だが、実際に“描く”ことのできた作品はわずかで、主人公を“追う”だけの作品が大半だったように思う。脚本やキャスティングなどの問題もあるのかもしれないが、最大の原因は「大河ドラマ」であることから生じる、視聴者と制作者双方の期待の大きさではないだろうか。
 大河ドラマは一つのイベントのような感がある。誰を主人公にするのか、キャスティングはどうなるのかといった枠組みに視聴者も制作サイドも盛り上がりがちだ。一人の人物の生涯を描くのが基本とは言え、大河ドラマはこのようなイベント性を帯びた視聴者の関心と期待から免れ得ない。通常の時代劇と違って、なにせ日本最大規模のドラマなのだから無理もない。
 問題は盛り上がった結果、一人の人物の一生を描くという力点が、例えば合戦シーンをいかに細かく再現するかといった単なる映像美、あるいは主人公に感情移入させるために「憂国」「愛」などといった薄っぺらな動機づけなど、安易なエンターテイメント性に走ってしまいがちなところだ。
 これは、主人公の日本史(特に政治史)における存在感の重さと比例する。ヒーローやヒロインはすでに誰もがその生涯を知っているため、ドラマ化する際には前述のような要らざる付加価値が多くなる傾向がある。その点篤姫は、時代の中枢からやや離れたところにいる、いわば傍流の人物であったことで、そのような問題から無縁だったといえるのかもしれない。そういえば、人の一生を描いたという点では傑作だった1987年の『独眼竜政宗』の主人公、伊達政宗も日本史においては傍流の存在だ。次回、09年大河ドラマ『天地人』の主人公、直江兼続もまた極めて傍流の存在だ。

 今月14日に放映された最終回、篤姫が死を迎えたとき、僕は彼女の枕頭でその死を看取った気がした。歴史上の人物としてではなく、一人の人間としての篤姫の一生が、計50回の放送のなかにあったのだと思う。満足感でもなく、達成感でもない、一人の人間の一生を確かに見たのだという、静かな気持ちだった。
 明日26(金)から3夜連続で総集編が放送される。また、完全版DVDも前半にあたる第1集がすでに発売されており、後半の第2集も2月には発売予定。
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