「そこにいるマイ・フレンド」は
僕自身のことでした
アンコールが終わって客席の電気が着くと、僕の席の近くにいた女の子が「こんなに泣くと思わなかった」と呟きました。一緒にライブを見てた妻も「これまでで一番泣いたライブだった」と言いました。そして僕にとっても、初めてポール・マッカートニーを生で見た2013年の東京ドーム公演を超えて、過去一番泣いたライブになりました。
銀杏BOYZの武道館公演「日本の銀杏好きの集まり」は、初の武道館ワンマンとは思えないほど、雰囲気はいたって淡々としていました。あいにくの雨のせいもあったのかもしれませんが、お祝いムードという点では、6月にあったTheピーズの30周年公演のときのほうが、はるかに「お祭り」的な空気に包まれていたと思います。にもかかわらず泣けて泣けて仕方なかったのです。
今年の7月、銀杏BOYZがリリースしたシングル<エンジェル・ベイビー>を初めて聴いたとき、僕は駅のホームで文字通り号泣しました。発売前だったのでYouTubeにアップされた粗い音質のラジオ音源だったのですが、いくら我慢しても次から次へと涙があふれてきました。
その時に僕が思ったのは「これは俺だ」ということでした。ここで歌われているのは僕自身のことで、だからこの曲は「俺の曲」なんだと思いました。そして、俺の曲なんだから何度でも聴かなきゃと思って、家でも電車の中でも歩いているときも、しばらくのあいだは四六時中ずっと、粗い音質の<エンジェル・ベイビー>だけを聴いていました。この曲以外に聴くべき曲なんてないと思いました。
でも、ちょっと観念的な話になっちゃうのですが、ここで僕が言う「僕自身」というのは、会社に毎日おとなしく通って仕事をしたり、家で親としてふるまったりしている「今の僕」というのとは少し違うのです。じゃあどの「僕」なのかというと、毎日「死にたい」「消えたい」とばかり考えていた、20歳前後の頃の僕自身です。
当時からたくさん時間が経って、いつの間にか僕は「死にたい」「消えたい」と考えることは滅多になくなったけど、それは気づかないふりをしたり目をそらしたりするのが上手になっただけで、一枚皮を剥いでしまえば、依然としてそこには当時と何も変わらない、弱くて甘ったれで自分に自信が持てない、クソな僕がいます。<エンジェル・ベイビー>は、まさにその「クソな僕」に向けて歌われていました。
ただ、僕が泣いたのは「クソな僕」が未だに残っていることにショックを受けたからでも、「死にたい」という当時の悲しさが蘇ってきたからでもありません。むしろその逆で、そういうクソな僕でも許されたような、クソな僕でも「生きてていいんだよ」と言われたような、そういう感じがしたからでした。
僕のちっぽけな青春や、今思うと死ぬほどイタイことやってたなって恥ずかしさや、「自分は特別だ」と思い込んでた自分の平凡さ、そしてそれを思い返して懐かしさを覚えてしまう俗っぽさまで含めて、そんなありきたりな自分というものが、銀杏の歌を聴いていると愛しく思えてくるのです。
優しいふりをした歌があふれまくってるこの世界で、峯田は「お前はゴキブリだ」「蛆虫だ」と歌ってきます。なんて自分はちっぽけなんだろうと悲しくなります。でもその悲しさでこそ僕は救われる。どこまでもどこまでも自分のことを否定して、もうこれ以上否定しきれない、あとは死ぬだけってときに、最後に自分を肯定してくれる防波堤のような音楽です。
10/13の武道館、1曲目に<エンジェル・ベイビー>を演奏するとき、峯田は「ハローマイフレンド!そこにいるんだろ!」と叫びました。その「マイフレンド」とは、僕のことでした。<夢で逢えたら>を演奏するとき「夢で会えたぜ!」と叫んだけど、あの瞬間に僕が会えたのは、他ならぬ僕自身でした。僕が武道館で泣けたのは、相変わらず僕がクソだからでした。そして、クソだけど生きていたいと思えたからでした。
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