週刊「歴史とロック」

歴史と音楽、たまに本やランニングのことなど。

【ロック】70年代

特集「Neil Sedakaという不思議」〜最終回〜

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「日本のブリル・ビルディング」に
“刻をこえて”転生する


 なんのかんので3回目に突入してしまったニール・セダカの話。今回が最終回です。
#第1回
#第2回

 先週までは“音楽出版社”や“職業作曲家”、“自作自演歌手”といった、時代を反映したキーワードを軸にニールのキャリアを見てきましたが、肝心の、彼の音楽の話にほとんどふれてませんでした。ということで、最後は彼の音楽について書いてみたいと思います。といっても、一般的に知られる60年代の楽曲ではなく、70年代以降の楽曲をとりあげてみます。

 1962年に<Breaking Up Is Hard To Do>が全米1位を獲得したニールですが、彼の時代が本格的に訪れるかと思いきや、意外なことにそこからみるみる人気が低下してしまいます。63年の<Bad Girl>を最後にトップ50から遠ざかり、シングルを出してもチャート入りしないことすら珍しくなくなります。

 ビートルズのアメリカ上陸が64年の頭なので、ちょうど時代の潮目だったのかもしれません。前回、ニールは旧来の音楽出版社主導の時代と新しい自作自演歌手主導の時代の二つを内包していると書きましたが、ビートルズの登場とロックの誕生による時代の変化のいわば第2波には、乗り切れなかったのです。66年にはデビュー以来契約を続けてきたRCAからも離れることを余儀なくされ、レコード会社を転々とする不遇の時代を過ごすことになります。

 復活は74年。エルトン・ジョンが設立したRocket Recordsからリリースしたシングル<Laughter in the Rain>が全米1位に上り詰めます。翌75年にはエルトン自身も参加した<Bad Blood>で再び1位を獲得。その後も70年代の後半にかけてコンスタントにヒット曲を発表し、ニールは見事に第2の黄金期を迎えるのです。チャートアクションだけ見たら、60年代よりも70年代のほうがむしろ絶頂期といえます。


 劇的なカムバックへの伏線は大きく3つあったと思います。まず一つは、50年代からの盟友ともいうべきドン・カーシュナー(アルドン・ミュージックのオーナー)が、自身のレーベルからニールのアルバムを出してくれたこと。それが71年の『Emergence』と72年の『Solitaire』。いつの時代も人とのつながりって大事だなあと思わせてくれるエピソードです。

 二つめは、その時に出した2作目のアルバム『Solitaire』で優れたバックバンドと組んだこと。メンバーの名前はグレアム・グールドマン、エリック・スチュアート、ケヴィン・ゴドレイ、そしてロル・クレーム。つまりは後の10ccです

 レコーディングを行ったイギリスのストロベリー・スタジオの人脈でこの人選になったのだと思うのですが、演奏はタイトでキレがあり、コーラスも素晴らしく、彼らの力によって60年代のニールとはまったく違う音像が作り上げられました。ひと言でいえば「イギリスの音」になり、実際このアルバムからのシングルはアメリカよりもイギリスでヒットをします。このアルバムがなければ、後にエルトン・ジョンと接近することもなかったでしょう。ちなみに、このアルバムの表題曲は後にカーペンターズがカバーしてヒットをします(僕はカーペンターズ版のほうを先に知っていた)

 最後の3つめは、70年代に入り、シンガーソングライターの時代が訪れたことです。特にエルトン・ジョンやニールの元カノであるキャロル・キングなど、ピアノで弾き語るアコースティックスタイルのアーティストが登場したことは、その先駆者ともいうべきニール・セダカに再び追い風を吹かせる力になったと思います。そういえば、ベン・フォールズもニールへのリスペクトを公言していますが、ニール・セダカをピアノSSWの系譜の祖とする見方は面白そうな気がします


 最後に、ちょっとこじつけ混じりなのですが、もう一度職業作曲家としてのニールの話をしたいと思います。

 彼の歌を聴いたことはなくても、「ニール・セダカ」という名前はアニメファンなら一度は目にしたことがあるはずです。あまりに有名なのでもったいぶるまでもないのですが、答えは85年のアニメ『機動戦士Zガンダム』ですね。このアニメの前期OP<Z・刻をこえて>、後記OP<水の星へ愛をこめて>、そしてED<星空のBelieve>という3曲は、全てニールが作曲しています。

<Z・刻をこえて>は『Solitaire』に収録された<Better Days Are Coming>が、<星空のBelieve>は76年のアルバム『Steppin' Out』の<Bad And Beautiful>が原曲。そして<水の星へ愛をこめて>は、なんとZガンダムのための書き下ろしです。<水の星へ〜>は2018年にNHKの番組で行われた「全ガンダム大投票」のガンダムソング部門で1位を獲りました。僕も人生で最初に聴いたガンダムソングはこれでしたね。

 タネとしては、富野由悠季監督がニールの大ファンで、アメリカまでいって直接オファーしたからという、わりと普通なものなんですが、それがわかっていても、ガンダムとニール・セダカという組み合わせの不思議さには何度でも唸ってしまいます。



 んで、ここからは半分僕の妄想です。ニールがキャリアをスタートした50年代のように若い職業作曲家が同じく若いリスナーに向けてポップスを量産していた時代が日本にもあったとすれば、それは松田聖子中森明菜をはじめとする80年代のアイドルポップだったと僕は考えているのですが、そこに準じるのが同じく80年代のアニメソングシーンじゃないかと思うのです

 加藤和彦と安井かずみが手がけた、映画版『超時空要塞マクロス』(84年)の主題歌<愛・おぼえていますか>。松本隆と細野晴臣というはっぴいえんどコンビが作った『風の谷のナウシカ』(84年)の主題歌。そして、森雪之丞と玉置浩二による『めぞん一刻』の初代OP<悲しみよこんにちは>。いずれも、当時第一線でヒット曲を連発していた作家陣ばかりです(安田成美や斉藤由貴など、アニメソングの歌い手をそもそもアイドルたちが担っていたという背景はあるとは思います)。

 そうした日本のブリル・ビルディング期たる80年代アニメソングシーンの、それもガンダムシリーズというど真ん中の作品に、元祖ブリル・ビルディング期の中心的作家だったニール・セダカが乗り込んできたということに、なんとも因縁めいたものを感じる・・・と書いたらこじつけが過ぎると言われてしまうでしょうか。







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Emitt Rhodes 『エミット・ローズの限りない世界』

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「ポールの双子」が
閉じた世界で育んだ音


 1967年、一人の青年が地元カリフォルニアの仲間と共に、Merry-Go-Roundという名のバンドでレコードデビューを果たします。彼はバンドでボーカル、ギター、そして作曲を担当しました。当時まだ10代だったにもかかわらず、楽曲はバングルズやフェアポート・インベンションにカバーされ、彼の名は優れた作曲家の一人として知られるようになります。

 その後ほどなくしてバンドは解散。すると彼は、実家のガレージに楽器を運び込み、録音機材も揃えて、自分だけのスタジオを作り上げます。彼はそこで自作の曲をレコーディングすべく、全ての楽器を自分で演奏し、さらにエンジニアリングやプロデュースまでも自力で行い、1970年、完全に一人だけで作ったアルバムを完成させました。

 彼はそのAll By Myselfなアルバムに、自分の名前をつけました。『Emitt Rhodes(邦題:エミット・ローズの限りない世界)』。セルフタイトルがこれほど実態を伴ったアルバムはないかもしれません。そして、このアルバムを聴いた人々は、その音楽性、とりわけメロディセンスが、ある人物のそれに酷似していることに驚いて、彼――エミット・ローズをこう呼ぶようになりました。「一人ポール・マッカートニー」。あるいは「ポールの音楽的双生児」と。

 この異名は、エミット自身にとっては面白くないものかもしれません。しかし、そうとしか呼びようのないくらい、エミット・ローズの音楽はポールと瓜二つです。むしろ(おかしい表現ではあるのですが)エミットの方がポールよりも「ポール」らしいとすら言える。2013年のポールの<NEW>を聴いたとき、「エミットに似ているなあ」と逆に再確認したくらいです。


 しかし、決して彼は「モノマネ」をしているわけではありません。メロディの運びもアレンジも、エミット自身の確信みたいなものが満ち満ちています。それに、似ているというのは、声やコードの運びといった表層部分を指してのことではなく、ノリとか発想とか、モノマネだけでは似せられない本質的根っこの部分です。だから、本当にたまたま似ていたと考えるべきなのでしょう。「音楽的双生児」という呼び名は、とても納得するところがあります。

 ただ、この作品を1枚のアルバムとして見たときに特筆すべきなのは、ポールに似てる云々ではなく、前述の「全部一人でやった」という点だと思います。

「音はたくさんあるのに演奏者は1人」というのは究極のDIYですが、見方を変えれば、ある種の不完全さでもあります。その不完全さ、欠落感からくる危うさや脆さは、個々の曲の曲調や歌詞とは関係なく、このアルバム全体を通奏低音のように覆っています。エミットの作るメロディはとても美しくセンシティブなので、むしろそれがよく際立つ。1人だけの閉じた世界がもつ「完全さからくる不完全さ」という点では、ポールよりも、ダニエル・ジョンストンを思い浮かべます。

 エミット・ローズはその後何枚かアルバムを出しますが、1人多重録音スタイルはやめてスタジオミュージシャンを使うようになりました。バンド感はその分増したものの、1枚目のような陰りや危うさは無くなってしまいます。結局、アーティストとしては大きなセールスに恵まれることなく、やがて彼はスタジオ経営者として第二の人生を歩み始めます。こうして、エミット・ローズという名は知る人ぞ知る伝説のミュージシャンとして、時間という巨大な川の流れにゆっくりと流されて消えていく…

 …と思っていたのですが、なんと2016年、まさかの新作アルバムをリリースしたのです。前作からはおそらく40年以上のブランクが空いているはずです。新作云々の前に、まず「生きてたんだ?!」というところから驚きでした。エミット・ローズは当時66歳。ジャケット写真はもう完全におじいちゃんです。


 んで、この最新作『Rainbow Ends』聴きました。残念ながら、やはり1人多重録音スタイルではなかったので1stのあの感じはなかったのですが、メロディは変わらずに瑞々しく、素晴らしいです。彼は一体何を思って再びマイクを手に取ったのでしょうか。音楽としては「良質」という以上のインパクトは残さない代わりに、40年間の物語を想像させるアルバムで、買って良かったと思える1枚でした。








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Stackridge 『The Man In The Bowler Hat』

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「田舎のビートルズ」と
呼ばれる所以


英国ブリストル出身のバンド、Stackridge(スタックリッジ)。
70年代初期に活躍したものの、2010年代の現在にあってはお世辞にも有名バンドとは言えません。
そんな、知る人ぞ知るコアなバンドStackridgeを僕が知ったのは、ビートルズがきっかけでした。
実は彼ら、「田舎のビートルズ」という異名をもっているのです。

僕が持っているのは、彼らが74年に出した3枚目のアルバム『The Man In The Bowler Hat』
邦題『山高帽の男』
評価的にもセールス的にもStackridgeの最高傑作と呼ばれる作品です。

確かに、ストーリー性の強いメロディラインや自由闊達なアレンジなどは極めてビートルズ的、
特に中期から後期にかけてのポールを彷彿とさせます。
聴いていると、田園を駆け抜ける乾いた風や、おじいちゃんの家へと続く夕暮れの道。
そうした、憧憬を誘う穏やかな風景がよく似合います。
こうしたところが、彼らが「田舎のビートルズ」と呼ばれる所以でしょう。



本人たちは自分たちをプログレッシブ・ロックのバンドであると自任していたようですが、
ピンク・フロイドやキング・クリムゾンといった「いわゆるプログレッシブっぽさ」はあまり感じません。
ただ、そこが逆に、
もしビートルズが70年代に入っても活動を続けてプログレッシブ・ロックにアプローチしていたら?
という想像をかき立てるともいえます。
(主導していたであろうポールが極端にプログレッシブに走るとも思えず、“ほどほど”だったのではないか)

と、ここまでStackridgeを「ビートルズの継承者」という
(本人たちにはずいぶんと失礼な)文脈で語ってきましたが、
実は、彼らの音楽がなんとなくビートルズに似ていることだけが理由ではありません。
彼らの音楽をビートルズになぞらえる、決定的な理由があるのです。
それは、この『The Man In The Bowler Hat/山高帽の男』のプロデューサーを、
他でもないジョージ・マーティンが務めているからなのです。

今月8日、90歳で亡くなったジョージ・マーティン。
言わずもがな、ビートルズのほぼ全ての作品のプロデューサーを務めた人物です。
単なるレコーディングのバックアップだけでなく、
メンバーに作曲を教え、ピアノを教え、時にプレイヤーとしてレコーディングにも参加しました。
クラシックに素養があり、またパーロフォン入社後はコメディレコードの仕事をしていたジョージの経験は、
ビートルズが「ビートルズ」になっていく上で、すさまじく大きな影響を与えました。

僕が最初に「ビートルズすげえいいな!」と思ったのは<In My Life>で、
中でも中盤に出てくるオルガンのソロに惹かれたのですが、
あれ弾いてたのビートルズのメンバーじゃなくて、ジョージ・マーティンだったんですよね。

ずっと後になって、アビーロードスタジオでの当時の写真を見たときに、
1人だけビシッとビジネスマンのような身なりをしているジョージ・マーティンは、
明らかにビートルズの4人よりも迫力があって(しかも彼だけ背が高いので)、
メンバーよりもインパクトがあったのを覚えています。

彼の死後、ポールがFacebookで、
「“5人目のビートルズ”という称号は、ジョージ・マーティンこそ相応しい」
と書いていて、思わずウルッとしました。

先日のデヴィッド・ボウイもそうですが、一人また一人と歴史的な、
そして個人的に思い入れの深い人が亡くなっていくのは、やはり辛いですね。
(そういえば、同じく“5人目のビートルズ”と呼ばれたアンディ・ホワイトも昨年亡くなりました)
ビートルズの作品よりも、ジョージ・マーティンをより強く感じられるような気がして、
彼が亡くなった日は、僕はずっとこの『The Man In The Bowler Hat/山高帽の男』を聴いてました。








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井上陽水 『氷の世界』

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日本初のミリオンセラーは
「狂気」のアルバムだった


井上陽水が1973年12月にリリースした『氷の世界』は、
113週(!)にわたってトップ10にランクインし続け、
ついに日本の音楽史上初めて100万枚を売り上げたアルバムになりました。
陽水は発売当時25歳でした。

今年5月、発売40周年記念盤が発売されたので、
僕は初めてこの、日本音楽史の金字塔ともいうべき作品を聴きました。

とりあえず結論から言うと、すごいアルバムでした。
聴き終えて(正確には聴いている途中から既に)圧倒されました。
完全にノックアウトです。

曲が良いからか。
もちろん、それは間違いないです。
例えば3曲目に収録された忌野清志郎との共作曲<帰れない二人>などは、
空前絶後の大名曲だと思います。
しかし、僕が「とんでもないすごいアルバム」と感じた一番の理由は、個々の楽曲の質の高さではなく、
アルバム全体を言いようのない緊張感が、
あえて言葉を探すなら「狂気」と呼ぶべき空気が貫いているところでした。

目の前に横たわるたった一つの隔たりが越えられないばかりに幸せが遠く去っていく。
その焦燥感をファンキーなサウンドで叩きつける1曲目の<あかずの踏切り>や、
一見、好きな人が去った失恋ソングなのに、
聴いているうちにワルツの可愛い曲調がなぜかその女性の死を予感させる<チエちゃん>など、
どの曲にもなにか正常じゃない、鬼気迫るものを感じます。

そしてそれは、歌詞の影響ももちろんあるのですが、
僕は陽水の歌声そのものから発せられる狂気なんじゃないかと思います。
当時25歳だった陽水の声は今よりも瑞々しく、しかしその中に、
何かに取りつかれている、あるいは何かに背中を追われているような切迫感があるのです。
このアルバムは、陽水の「声」抜きには成立しないアルバムだと思います。

しかし、だからこそ僕は思いました。
なぜこんな、取りようによっては「いびつ」なアルバムが、100万枚も売れたのかと。


付録のドキュメンタリーDVDを見ていたら、人類学者の中沢新一が、
<あかずの踏切り>を例にこんなことを言っていました。
 それまでのメッセージソングというのは、
 社会の理想や個人の幸福といった<到着点>を示すものばかりだった。
 それに対して井上陽水は、開かない踏切りを目の前にしてただ「待つ」こと、
 「待つしかない」ということを歌った。それが画期的だった。

そして、経済学者の榊原英資はこう語ります(榊原先生まで出てくるのがすごいですね)。
 『氷の世界』が発売された1973年というのは、ちょうど日本の高度経済成長が終わった年
 オイルショックが起きて戦後初めてマイナス成長を記録し、いきなり先行きが見えなくなった。
 そうした時代の空気が、このアルバムにマッチしていた。

作詞家のなかにし礼は、別の角度から同じようなことを語っています。
 それまでの歌謡曲は、職業作詞家が詞を書き、職業作曲家が曲を作り、
 歌手はそれを歌うだけ、というのが常識だった。
 しかし、1973年にはもう、我々職業作詞家の言葉では、
 時代の空気をすくい取れなくなっていたんだと思う。
 言葉も曲も自分の手で生み出す井上陽水の登場によって、「歌謡界」というものは終わったのだ。


アーティストがそれまでの「お仕着せ」を脱却し、自分が歌う曲は自分で作るというエポックは、
陽水が敬愛するビートルズが、当時のポップス界で果たした役割と、非常によく似ています。
時代の流れが変わり、それに既存の音楽が対応しきれなくなったときに、
突如全く新しいスタイルのアーティストが現れ、リスナーはそれを熱狂的に迎える。
『氷の世界』は、音楽界が時代と呼応したことで起きた、
一種の「新陳代謝」という面があるのかもしれません。

しかし、じゃあ、発売当時生まれてもいなかった僕が、
こんなにもこのアルバムに惹きつけられるのはなぜだろうと思います。
時代や世代を超えた普遍性があるからこそ、
『氷の世界』は日本初のミリオンセラーになったんじゃないか。
僕自身の実感としては、そっちの方がしっくりきます。

この作品のもつ普遍性。それはやはり、何度も言うように「狂気」なんじゃないかと思います。
僕がアルバムの中で最も狂気を感じるのは、表題曲<氷の世界>です。
この曲に関しては、歌詞を読むだけでその狂気が伝わります。

人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな
だけど出来ない理由は やっぱりただ自分が恐いだけなんだな

そのやさしさを秘かに 胸にいだいている人は
いつかノーベル賞でももらうつもりでガンバってるんじゃないのか


中沢新一も指摘していましたが、特に強烈なのは「人を傷つけたいな」という一言です。
このフレーズには、思わず背中に汗が流れるような、
まさに「氷の世界」なるゾクッとしたものを感じます。
そして、そういう思いを隠しているのは「ノーベル賞でももらうつもりなんだろう」と、
強烈な皮肉と共に鼻で笑っている。

僕は思います。この皮肉から逃れられる人っているんだろうかと。
『人を傷つけたい』と考えたことのない人」なんて、果たしているのだろうかと。

そのくらい、このフレーズには人間の本性を丸裸にする鋭さがあると思います。
そう考えると、これを歌う陽水は狂気というよりも、
むしろ誰よりも正常で、誰よりも正直なんじゃないかと思えてきます。
この、喉元に刃を突きつけられ、身ぐるみはがされるような感覚の中に、
僕は40年前も今も変わらない強いリアリティを感じます。

もし今の時代にこういうアルバムが出てきたら、
果たしてどう受け止められるんでしょうか。


帰れない二人>※清志郎とのデュエット版


氷の世界







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サンハウス 『有頂天』

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彼らの播いた種が
「バンド王国」という花を咲かせた


数多くのユニークなミュージシャン、バンドを輩出し、
1970〜80年代にかけて日本のロック/ポップシーンの一大震源地となった福岡(博多)。
パッと思いつくだけでもザ・ルースターズや、陣内孝則率いるロッカーズ、
ザ・モッズ(高校の先輩で大好きな人がいたなあ)、
最近だとスピッツの草野マサムネとか椎名林檎なんかも福岡出身ですね。
あ、あと大好きなバンド忘れてた。「天井裏から愛を込めて」のアンジー!

とにかく、ババッと挙げてくだけでも、
なんとなく独特の「濃さ」みたいなものを感じる顔ぶれが揃います。
そんな、日本におけるアイルランド的存在感を示す福岡博多。
80年代には、博多出身のロックバンドを指して「めんたいロック」なんて呼ばれた時期もありました。

そんな「めんたいロック」の源流・始祖にあたるバンドが、サンハウスです。
ギタリストの鮎川誠が、シーナ&ロケッツを結成する前に組んでいたバンド、といえば、
歴史の古さが想像できるのではないでしょうか。

結成は1970年。
当時、バンドといえばダンスホール専属のいわゆる「ハコバン」が主流だった中で、
サンハウスは「自分たちのブルースを追求する」ことを標榜し、
単に客の知ってる曲を演奏するだけじゃない、
オリジナルの日本語ロックを演奏するバンドとして注目を集めました。

同時期のバンドというと、僕はパッと村八分が浮かぶのですが、
どちらも米英のロックンロールやブルースを基調としている点は共通していますが、
サンハウスの方がよりサウンドが「陽気」です。
(村八分に比べればどんなバンドも陽気に聞こえますけどね…)
サンハウスの曲は、リフにしてもメロディにしても、
海外のブルースやロックのエッセンスを、さらにわかりやすく噛み砕いてくれるようなところがあります。
だからものすごくノリやすいし、定番曲が当たり前だった当時のダンスホールにおいて、
彼らがオリジナル曲にもかかわらず人気を獲得できたのが納得できる気がします。
このあたりはロックインテリ・鮎川誠の手際の良さかもしれません。

しかし僕は、サンハウスの最大の特徴は、ボーカル柴山俊之の書く詞にあると思います。
彼の詞はとにかくエロい!
例えば<レモンティー>という曲の詞の一部。

絞って僕のレモンを あなたの好きなだけ
たっぷり僕のレモンを あなたの紅茶の中に


「あなたの紅茶の中に僕のレモンを絞る」という、ただそれだけなのに、
なんなんでしょうか、このムワッと立ち上るミダラでヒワイな感じは。
いきなりの「絞って!」というフレーズもたまりません。

続いて<ミルクのみ人形>という曲の詞。

俺のミルクのみ人形は 大事な秘密の宝物
一滴も残さずミルクを 飲み干してくれるんだ


タイトルからしてそのものズバリ!という感じなんですけど、
もうなんかここまでいくと「爽やか!」とすら感じます。

柴山の書く突き抜けるようなエロい歌詞と、鮎川誠の作る陽性のサウンド。
この二つが組み合わさることで、サンハウスの曲は、
単に「ノリが良い」というだけでなく、官能的な部分にまで響く中毒性を獲得しました。
音だけではなく歌詞も一体となってグルーヴを生むという、
まさに「日本語によるロック」の好例といっていいと思います。

サンハウスは71年にアルバム『有頂天』でレコードデビューを果たします。
しかし、その後も一貫して活動拠点は福岡でした。
他の地域では海外のバンドに憧れてバンドを始める人が多かった中で、
福岡ではサンハウスに憧れてバンドを始める人が多かったそうです。

日本のロックの歴史がまだ浅かった当時、
自分たちの言葉でロックをする先輩が身近にお手本と存在していたことは、
地元福岡の後進たちにとってとても影響が大きかったんじゃないかと思います。
多分、海外バンドに憧れていた他地域に比べれば、
「自分たちにもできるんじゃないか」と焚きつけられた若きバンドマンも多かっただろうし、
「自分だったらこうやるのに」という刺激も、はるかに伝播しやすかったんじゃないでしょうか。
福岡という「ロック王国」が築かれる、その最初の種を播いたという点で、
サンハウスの果たした役割は極めて大きかったといえます。

少し話は変わるのですが、
ロックを「物語」として楽しむ上で、
「バンドと地域性」というのは、とても面白いコンテキストになると思います。
例えば大阪は、以前このブログでも紹介したミドリザ・50回転ズウルフルズなど、
やたらと濃厚なバンドが生まれてきます。
ブッチャーズやイースタン・ユース、怒髪天などを生んだ札幌も、
これまた一大バンド生産地です。
東京にしても一口で括れるわけではなく、
下北沢地盤のバンドとか、中央線沿線地盤のバンドとか、微妙に風合いが異なる。
(同じNYでもマンハッタン出身バンドとブルックリン出身バンドで異なるみたいに)
それと、出身バンドはパッと思い浮かばないんですが、
熊本って確か日本有数のライヴハウス集積地なんですよね。

その土地の地域性と出身バンドの音楽性との間に、
何らかのリンクがあるんじゃないかと想像するのって、けっこう面白いです。
ブッチャーズのあのスケール感は北海道の大自然が育てたものなのか…とか、
andymoriに漂うレトロっぽさはいかにも高円寺や阿佐ヶ谷あたりの雰囲気だよな…とか。

まあ、ただのこじつけと見るか、それとも実際に因果関係があるのか、真偽のほどは脇に置くとしても、
このようにバンド(アーティスト)を出身地別に見て系譜を辿ったり音楽を比較したりして、
人文地理学ならぬ「ロック地理学」を究めることは、音楽の楽しみ方の一つではあります。
「UKマンチェスター出身」と紹介されると、聴く前から「おお、じゃあUKロックの王道なんだな」と期待してしまう。
そういう色眼鏡やバイアス自体を、僕なんかはけっこう楽しんでしまいます。


これが伝説の<ミルクのみ人形>。


ライブ映像。<ロックンロールの真っ最中>の途中から<レモンティー>







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KISS 『ALIVE!』

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最高の「地獄」を
見てきたぞ!


中学・高校の頃、MTVの「Classic MTV」という番組をよく見ていました。
60〜80年代の古いヒット曲のビデオばかりを流す30分番組で、
YouTubeなどなかった当時、
僕にとってはロック/ポップスの歴史を知ることのできる貴重な情報源だったのですが、
中でも強烈に印象的だったのが、Devoの「Satisfaction」とPoliceの「I Can't Stand Losing You」、
そしてKISSの「I was made for Lovin' You」でした。

白塗りのメイクにギラギラの衣装、電飾が埋め込まれたレスポール。
ボヤッとした古い映像の質感と相まって強烈な「キワモノ感」が画面全体から漂ってくるのですが、
曲そのものは耽美というかすごくポップで、
ボーカルもがなったり叫んだりせず、思い切りロマンティックに歌う。
「すごいヘンだけど気になるバンド」というのが、僕のKISSの第一印象でした。

あれから約20年。
僕は生まれて初めて生のKISSのステージを見に行きました。
「KISS MONSTER JAPAN TOUR」と題された武道館公演初日です。

正直、「7年ぶりの来日だし、次いつ来るかわからないから記念に見ておく」
という動機だけでチケットを買ったのですが、
いざ見終わった後は、ほとんどボーゼンとした足取りで武道館を出ました。
もうね、めちゃくちゃ楽しかったです。最高でした。

宙づり(!)の巨大スピーカーから放たれる爆音。
そしてその音に合わせて何度も上がる火花。
巨大な舞台装置を使って宙を舞うメンバー。
冒頭からアンコールまで、ド派手な仕掛けが「これでもか!」というくらいに続きます。
かつて僕が「Classic MTV」で度胆を抜かれたように、
もともとKISSというバンド自体が「地獄」や「悪魔」といった演劇的・ショー的な世界観を持っていますが、
ライヴはさらにそれを拡大した、エンターテインメントの極致と呼べるものでした。

しかも彼らは今年で結成40周年。
40年間(おそらく)同じようなことをやっているのでしょうから、
一つひとつのアクションや演出が、これ以上ないというほど完成されています。
ジーン・シモンズ(Ba)の火吹きや血吐きなんて、
もはや一種の「芸」と呼ぶべき域に達しています(実際「芸」なんですけどね…)。

しかしそうした派手な演出の一方で、例えばジーン・シモンズは血を吐いた後、
日本語で「チョットマッテネ」と言って水を飲んだり、
ポール・スタンレー(Vo)がいきなりアカペラで「上を向いて歩こう」を歌いだしたりと、
あえて「抜け」を作るような構成や間の取り方も実に上手い。

何より素晴らしいなあと思ったのは、
40年間もやっていながらマンネリになっていないことです。
セットリストも演出も、全ては定番化・パッケージ化しているはずなのに、
メンバーは未だにそれを楽しんでいるように見えました。
客席も、おそらくこれまで何度もKISSを見てきたであろう年齢層の高い「ベテラン」揃いなのに、
(僕の隣はトミー(Gt)のフェイスメイクをした外人のおばさんでした!)
むしろその定番化した世界観を積極的に楽しんでいる。
そうした客席との一体感も含めて、全てが完成されているなあと感動しました。


さて、そんなKISSですが、デビュー当初は思うようにセールスが伸びず、
(意外にも)苦労時代が続きました。
そんな状況を打破した出世作が、75年にリリースされた2枚組のライヴアルバム『ALIVE!』です。
最初にヒットしたのがライヴアルバムだったというところが、
KISSというバンドの本質を表しているようで、とても象徴的ですね。
ただ、実際にライヴを見終わった今、このアルバムを聴いても、なんだか物足りません。
いかにKISSのライヴが、聴覚だけではなく全身をフルに使って味わう「ショー」だったのかを実感します。

ライヴの途中、ポール・スタンレーが「来年も来るよ!」と言ってたんですけど、ホントなのかな。
当初は「記念に見とく」だけのつもりだったのに、
今では「来年も絶対行く!」と考えている自分がいます。


↓↓↓↓↓
アンコールの<Detroit Rock City>、<I was made for Lovin' You>、そして<Rock And Roll All Nite>という流れは、
分かっていながらもエキサイトして大声で歌っちゃいました。












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村八分 『ライブ+1』

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こんなかっこいいバンドが
40年前の日本にもいたんだ


ステージにメンバーが登場し、観客はそれを拍手で出迎える。
ライブ前のざわざわとした喧騒。
と、そこへいきなり客席から怒号が飛び、女性の悲鳴が響く。
それに対し、メンバーの誰かがマイクで「うるせえ!!」と怒鳴る。
続いてボーカルが「文句があるんだったらここ来たら?」と挑発する。
白けた雰囲気が広がる客席。
そんな中で、つんざくようなギターのリフがイントロを刻み始める――。

なんとも剣呑な雰囲気で始まるこのライブアルバムが、
村八分の『ライブ+1』です。

1960年代の終わりから70年代前半にかけて活動した、
日本のロックバンドの中でおそらく最古の部類に入るであろう伝説のバンド、村八分。
その短い活動期間で残した公式盤は、
1973年に京都大学で行われたライブを収録した、『ライブ』というライブ盤1枚のみ。
2001年、この『ライブ』がリマスターされ、
さらに未発表音源を1曲加えた『ライブ+1』として再リリースされました。

村八分」。もうバンド名からしてたまりません。
アンダーグラウンド感がたっぷりの、
これ以上ないというくらい「ロック!」なバンド名です。

前述のように、村八分はほとんどスタジオ音源を残しませんでした。
彼らはひたすらライブで演奏することを重視していたのです。
音はパッケージするものではなく、体験するものだと考えていたのでしょうか。
そうした刹那的で熱情的なメンタリティを持っていたからこそ、
バンドが短命で終わるのは、ある意味必然だったのかもしれません。
しかし、だからこそ彼らの残した音楽には、
「ながら聴き」など許さない、圧倒的な迫力があります。

バンドの中心は、柴田和志(ボーカル)と山口冨士夫(ギター)。
この2人が大ファンだったというストーンズの影響を強く受けつつも、
村八分はさらに荒々しく乱雑で、
数年後のパンクロックの登場を予言しているかのようです。
特に柴田和志(通称チャー坊)の、まるで呪詛のようなシャウトは強烈です。
ジョン・ライドンはチャー坊の歌い方を真似してるのではないかと勘ぐりたくなります。
しかもチャー坊は、その「歌」というよりも「叫び」に近い声で、
「かたわ」「めくら」「びっこ」といった言葉を矢継ぎ早に畳みかけます。

山口冨士夫の、力でねじ伏せるようなソリッドなギターリフと、
それにねっとりと絡みつく、切羽詰ったチャー坊の「叫び」。
まるで、巨大な蛇が地面を激しくのたうち回っているかのような怨嗟的サウンドは、
聴く者の心を強烈な緊迫感の渦に叩き込みます。
さまざまなアーティストが村八分をカバーしましたが、
そのどれもがオリジナルに決定的に及ばないのは、
この「何かに取り憑かれたような切迫感」が、
彼ら以外には作り出せないからでしょう。
いえ、仮にオリジナルメンバーが再結成をしたとしても、
この『ライブ+1』の空気は再現不能かもしれません。
「今、この瞬間」を切り取っているという意味では、
これ以上の「ライブアルバム」はなかなか見つからないと思います。

こんなかっこいいバンドが、
40年も前の日本にいたなんて。
そんな、なんとも誇らしい気分にしてくれる1枚です。

<夢うつつ>







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あれから2ヶ月、ローウェル・ジョージ

LittleFeat-DixieChicken

LITTLE FEAT 『DIXIE CHICKEN』


 震災から2ヶ月が経ちました。あれからたった2ヶ月しか経っていないことに驚かされます。もっと長い時間が経ったように感じます。

 一部の地域を除いて、首都圏の生活は以前のリズムをほとんど取り戻したといっていいでしょう。街の明るさが減ったくらいで、電車もダイヤ通りに走っているし、スーパーにもコンビニにも商品が戻ってきました。テレビのニュースでも、震災以外の情報が占める割合が増えてきています。

 しかし、2ヶ月前のあのショックというものは、依然として気持ちの底の方に、生の形のまま残っています。「以前とは違う」という感覚が、木の根のようにがっちりと食いついて離れません。自分の身体の外と内、どっちの「現実」が本当なのか、まだ混乱しています。

 ただ、今にして思うのは、結局僕がこの2ヶ月の間にやったことというのは、ただなす術もなく混乱していただけではないかという後ろめたさです。節電をして、募金をして、自分からニュースを掻き集めて関心を持ち続ける。それが僕にできた精一杯だったと思う一方で、例えばその気になればボランティアに行けたでしょうし、もっと直接的で具体的なアクションを起こせたのではないかとも思のです。節電も募金も、単なる言い訳なんじゃないかとさえ思うこともあります。

 2ヶ月前から続くこのショックというリアルと、避難生活や原発や風評被害というリアル。僕の身体の外と内の2つのリアルには、明らかに温度や質に差があるのです。

 そんななかで、先日ネットのニュースで精神科医の香山リカの文章を読みました。

 「今回のような災害が起きると、人は被災者に対して深く同情すると同時に、心のどこかで『自分でなくて良かった』と感じる。多くの人は、そのように感じることに対して罪悪感を持ってしまう。しかし、それは『分離』という、心が持つ重要な防衛機能である。被災者に対して被害を受けていない人間が無理に同化しようとすれば、そこから抑鬱状態に陥る可能性もある。そうならないためにも『自分でなくて良かった』と感じることは正しい反応だし、その感覚を否定する必要はない」と語っていました。僕はけっこうこの記事に救われました。

被災していない人にも「共感疲労」という苦しみがある
(ダイヤモンド・オンライン)

 「罪悪感」や「後ろめたさ」って、けっこう多くの人が感じてるんじゃないかと思います。震災直後の「震災ハイ」状態が落ち着いてきたから余計に。でも、香山リカが言うように、それをあまりにシリアスに感じ過ぎてしまってはいけない。僕らにできる一番大事なことは、やっぱり毎日の生活をしっかり送ることだと思うので(3/17のエントリー)、精神のバランスを崩してしまっては元も子もありません。それに、そもそも直接被害を受けていない人間が被災者に同化できるわけないし、またその必要もないと思います。

 自分の無力さに対して絶望しないことって、難しいですね。実際、1人の力ってホントに小さいですから。ただ僕が思うのは、自分の無力さを「自覚」することと、そのことに「絶望」してしまうことは、似ているように見えて大きな違いがあるんじゃないかということです。

 「自分は何もできない」という事実にふさぎ込んでしまうのは簡単ですが、それは被災者のことを考えているように見えて、自分にだけ目を向けているに過ぎません。直接的被災者ではない人間に今(そしてこれから)求められるのは、被災者に気持ちを(たとえ誤解や勘違いが含まれていても)寄り添わせることです。そして、自分の生活を淡々と、粛々と、営んでいくこと。自分の無力さを受け入れることは、そのための第一歩であり、必要な手順なんじゃないかと思います。

 ・・・どうも観念的な話ばかりになってしまいました。最後に思いっきり観念的で個人的なことなことを一つ。

 震災が起きてからしばらく音楽が聞けませんでした。かけてもなかなか耳に入ってきませんでした。しかし1ヶ月くらい経った頃でしょうか、テレビをつけていたらリトル・フィートの「ディキシー・チキン」が流れたんです(なんかのVTRのBGMとして使われてました)。その時、ようやく久しぶりに「音楽を聞く」という感覚を味わいました。

 リトル・フィートは70年代に活躍したアメリカのバンドです。ブルースやゴスペルやR&Bといった、アメリカ南部の音楽をルーツに持つ、かなり濃いめ・渋めの音を鳴らすバンドなのですが、そのなんとも土っぽい匂いがとても心地良かった。国も時代も違うのに、しかも耳を傾けているこちらの状況も決して普通とはいえない状態なのに、なぜか自然にフィットしてしまうのですから、やっぱり音楽って力がありますね。この曲をタイトルに冠したアルバム『ディキシー・チキン』(1973年)は、もう何年も聞いていなかったアルバムだったのですが、以来繰り返しかけるようになりました。


LITTLE FEAT「DIXIE CHICKEN」

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Simon & Garfunkel 『Bridge Over Troubled Water』

bridge over





40年経った今もなお
語られないエンディング


『明日に架ける橋』はサイモン&ガーファンクルにとって5枚目の、そして最後のアルバムである。

数限りないアーティストによってカバーされた超メジャーな表題曲のほか、
本作には<コンドルは飛んでいく><セシリア><ニューヨークの少年>
そして不朽の名曲<ボクサー>など、
「サイモン&ガーファンクル」というアーティストのイメージを
今日に至るまで刻印し続けている有名曲が多く収録されている。

特に<ボクサー>は、僕自身がサイモン&ガーファンクルにのめり込むきっかけとなった曲なので、
個人的にとても思い入れが深い。
あのイントロのアルペジオが聴こえ、二人が「I’m just a poor boy・・・」と歌い始めると、
たちまち僕の網膜には重い雲がたれこめた空に裸の街路樹、みぞれ混じりの雨、
真冬の街の景色が浮かび、なんだか涙が出そうになる。
まるで一編の詩、一幅の風景画のようなこの曲は、
10代の終わりから20歳頃にかけての僕にとって、大事な“テーマ曲”だった。

そんな、名曲揃いの文句無しの名盤『明日に架ける橋』であるが、
サイモン&ガーファンクルという枠の中で言えば、
すなわちデビューアルバム『水曜の朝、午前3時』から4枚目『ブックエンド』までの流れから見れば、
異色な印象を受ける作品である。

それは、このアルバムのオープニングに顕著だ。
1曲目<明日に架ける橋>はピアノの伴奏のみで展開され、
3コーラス目からオーケストラが入って壮大なクライマックスを見せる。
アルバムの幕開けを飾る曲にギターがまったく使われないのは、
これまでの彼らの作風からすれば画期的なことだ。

次の2曲目はフォルクローレの古典<コンドルは飛んでいく>、
そしてサンバやボサノヴァ的なノリの<セシリア>と、
冒頭3曲は前作までの彼らからすればどれも“らしくない”曲ばかりである。
その分、<アイ・アム・ア・ロック>『サウンド・オブ・サイレンス』収録)を髣髴とさせる
4曲目<キープ・ザ・カスタマー・サティスファイド>が妙に懐かしく、
ここに至ってようやく腰を落ち着けられた気分になる。

<明日に架ける橋>のような、静かに始まり、途中でストリングスが合流し、
ラストはダイナミックに展開するという手法は、前述の<ボクサー>でも用いられており、
初期の頃のようないわゆるフォーク・デュオという範疇には収まらない音楽的変化が
本作には随所に見られる。
アルバム終盤に、彼らのルーツであるエヴァリー・ブラザーズのカバー曲<バイ・バイ・ラヴ>の、
それもライヴ・バージョンが収録されてるのは、新たなステージに進んだ者が敢えて示した矜持と見るべきなのかもしれない。

このように『明日に架ける橋』は、『ブックエンド』以前とは一線を画すアルバムであり、
もしこの後も彼らの活動が続いていたらどんな音楽が作られたのだろうという“if”を夢想させる作品である。
彼らのデビューアルバム『水曜の朝、午前3時』のリリースが1964年。
そして『明日に架ける橋』がリリースされたのが1970年。
つまり、活動休止後、彼らの活動期間に比して実にその6倍近い時間が経っている。
にもかかわらず、彼らの残したインパクトというものは未だに強烈だ。
活動を休止してからも彼らは何度か再結成ツアー(つい昨年も来日しましたね)を行っているが、
それが毎回概ね好意的に迎えられているのは、最後のアルバム『明日に架ける橋』において
永久に語られることのないエンディング」を残したからではないだろうか。

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今年、僕が所属する劇団theatre project BRIDGEは結成10周年を迎えます。

僕らはいつも劇場で、開演前と終演後、客席に音楽を流しています。
曲目は芝居の内容に応じて毎公演異なります。
(例えば前回『七人のロッカー』では、開演前に『アビィ・ロード』を流しました)。
ただし、2000年の旗揚げ公演から、2006年の第8回公演『Lucky Bang Horror』までは、
1曲だけ必ず流す曲がありました。
その曲を流す箇所も決まっていました。
開演直前の1曲と、終演直後の1曲です。
つまり、芝居本編はその曲に挟まれた形で上演されていました。
実はそれが<明日に架ける橋>でした。

この曲を選んだ理由は恥ずかしいくらいに単純で、タイトルに「BRIDGE」が入っているから、でした。
今から10年前の蒸し暑い夏の夜、僕の家にメンバー数人が集まって、
劇団名が「theatre project BRIDGE」に決まった時のことでした。
ちょうどラジカセにサイモン&ガーファンクルのCDが入っていたのを見つけた僕が、
「じゃあうちらのテーマ曲は<明日に架ける橋>でいこう」と言いました。
以来7年間(奇しくもサイモン&ガーファンクルの活動期間と同じ時間!)、
<明日に架ける橋>は劇場に流れ続けました。

その後、次第に芝居の内容と<明日に架ける橋>の壮大なテンションとの間にズレを感じるようになり、
第9回公演『クワイエットライフ』からは使わなくなりました。
お客さんのなかに、かつて<明日に架ける橋>が客席に流れていたことを覚えている方はいないでしょう。
テーマ曲といっても、それは所詮メンバーだけの内輪ネタでした。

しかし、未だにこの曲を聴くと、誰もいない客席やロビーのざわめきなど、
終演後の劇場が瞼の裏に浮かびます。
劇団の活動のなかでいつか見た光景、誰かに言われた一言、そのときの気持ちを思い出します。
他の劇中BGMを聴いても何も感じないのに、<明日に架ける橋>を聴くときだけは、
妙に感傷的な気分になるのです。
10年前にその場のノリで選んだこの曲は今、本当に内輪ネタの、そして本物のテーマ曲になりました。










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BOB MARLEY & The WAILERS 『UPRISING』

uprising
激しく燃えさかる炎が
静かな祈りに変わるとき


 彼の音楽を聴いたことがあるかどうかはともかく、ボブ・マーリーという名前を知らない人はいないと言っていいんじゃないだろうか。没後30年になろうという今もなお聴き継がれ、語り継がれるレジェンド・オブ・ロック。今更紹介することなど気が引けるほど、その名前はあまりに大きい。

 音楽史には彼の他にも、例えばジョン・レノンやジミ・ヘンドリックスといった、同様のスケールを持つ巨人たちが存在する。だが、ボブ・マーリーという名前の響きは特に異質であるように思う。彼の音楽には、他のレジェンドたちとは異なる“重さ”を僕は感じる。この重さを抜きに、ボブ・マーリーの音楽を聴くことはできない。

 僕が最初にボブ・マーリーを聴いたのは高校生の頃だった。「のんびりしてていいな」というのが最初の印象。初めて聴くレゲエのリズムはゆったりとしていて優しく、燦々と輝く南の太陽を想起させた。

 しかし、歌詞カードを読んだ僕は、その印象を真逆へと改めなければならなかった。貧困と飢餓、暴力と差別。そこには第三世界の壮絶な現実と権力に対する激しい怒りが綴られていたからだ。今まで読んだどの歌の歌詞よりも、切迫した生々しさがあった。フレーズの一つひとつに、血と涙が滲んでいるようだった。リズムと言葉とがあまりに不揃いなこの音楽をどう聴いてよいのかわからず、僕は混乱した。

 ボブ・マーリーの音楽は、常に「戦い」という2文字を負っている。戦いを鼓舞し、戦い疲れた者を癒す音楽だ。彼の音楽の持つ重さとは、今まさに戦いの渦中にいる当事者だけが持つ重さである。そこが、例えばジョン・レノンやボブ・ディランの歌詞とは根本的に異なるところだ。

 だから、彼の音楽に本当の意味でのリアリティを感じることができるかと聞かれれば、「否」と答えざるをえない。日本という安全地帯に生まれ育った僕は、60〜70年代のジャマイカやアフリカに感情移入できるほどのバックグラウンドを持ち合わせてはいないのだ。

 それでも僕は彼の音楽に魅かれる。その重たさゆえに、なかなか片手間に聴くことを許してくれない音楽だけど、僕は彼の歌を聴き続けている。僕だけではなく、世界中の人が彼の音楽を聴いている。それはなぜなのだろう。

 1980年にリリースされた『UPRISING』は、ボブ・マーリーの遺作となったアルバムでもある。この翌年、彼は亡くなる。

 本作のレコーディング中からすでに体調が優れなかったらしい。死を前にした彼の心理を反映してか、このアルバムにおける怒りの表現は過去の作品とは微妙に異なる。『BURNIN’』(‘73)や『SURVIVAL』(’79)が激しく燃える赤い炎だとしたら、この『UPRISING』は静かに燃える青い炎。怒りと悲しみは、鋭く研がれた刃ではなく、祈りによって表現されている。このアルバムにおける彼の歌声はいつになく優しい。

 なぜボブ・マーリーは、激しい怒りと嘆きの言葉を、ゆったりとしたレゲエのリズムで表現したのか。それは彼の音楽が、戦いの音楽であると同時に、祈りの音楽でもあるからなのだと僕は思う。そして、怒りは共有できなくとも、祈りは国境や時代を超えてすべての人の胸を打つ。なぜなら、祈りとは人の持つ優しさが紡いだものだからだ。

 アルバムのラストを飾る<REDEMPTION SONG>で、ボブ・マーリーはこう歌う。「俺が今まで歌ってきたのは、すべて救いの歌なんだ。自由を求める俺たちの救いの歌なんだ」と。この“俺たち”のなかには、多分僕も含まれている。


ライヴで<REDEMPTION SONG>を演奏するボブ・マーリー

Janis Joplin 『PEARL』

janis





「鬼気迫る」とは
彼女のことだ!


白人女性ブルースシンガーの最高峰、ジャニス・ジョプリンの代表作であり、彼女の遺作となったアルバム。
この『パール』のリリースを3カ月後に控えた1970年10月4日、
ジャニスはヘロインの過剰摂取で亡くなってしまう。

今から40年も前のアーティストである。
ロック雑誌などで彼女のことが語られるとき、必ずと言っていいほどセットになるのが、
ヒッピー・ムーブメントサマー・オブ・ラブといった当時の世相やカルチャーだ。
81年生まれの僕には、そういった時代の空気はよくわからない。

僕が感情移入するのは、彼女の年齢である。
享年27歳
その若さで、なぜこれほど鬼気迫る歌声を聞かせられるのか。
同い年の僕は、ただただ圧倒される。


高校時代からシンガーを志したジャニスは、20歳のときに地元テキサスを離れ、
ヒッチハイクをしながらサンフランシスコを目指す。
当時のサンフランシスコはヒッピーなど当時の若者文化のメッカというべき街。
彼女はそこで、コーヒーバーなどで歌いながら歌手になるチャンスを待ち続ける。

転機は24歳のときに訪れる。67年に行われたモントレー・ポップ・フェスティバル
20万人以上を動員し、ジミ・ヘンドリックスがギターを燃やしたことでも有名な、伝説の野外コンサートである。
前年に加入したビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー
ボーカルとしてステージに立ったジャニスは、
その圧倒的なステージングで聴衆からも音楽業界からも一躍注目されることになる。

その後バックバンドを変えながら3枚のアルバムをリリースし、
ウッドストック・フェスティバルをはじめ、大規模なステージでライヴを行い、大スターとなったジャニス。
そんな彼女が、新たに結成されたバックバンド、
フル・ティルト・ブギーとともに制作に挑んだのが、この『パール』だった。


ジャニスは決して「美声」の持ち主ではない。
以前本稿でシュガーキューブスを紹介したときに、
ビョークの声を「地上でただ一つしかない楽器」と書いたけれど、
ジャニスの場合はそれとは対照的。
無数の引っ掻き傷を受けたかのようにかすれ、引きつれた歌声は、
持ちうる情念の全てを叩きつけるかのようであり、
そこには楽器的な美というよりも、一人の女性の人格そのものがさらけ出されたような生々しい迫力がある。
まさに「ソウル」。

女性シンガーだからと言って、ジャニスには「歌姫」という呼称は似つかわしくない。
刹那的で激しく、夏の日のスコールのように歌うジャニスは、姫というよりもむしろ魔女のようだ。
だがその魔女は、狂おしいほどに激しい雨を降らせた後、陽炎という名の儚く切ない夢を見せる。








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