今日は軽い歴史ネタを。
10世紀前半に、関東を拠点に中央政権に対して反乱を起こした平将門。
天皇や貴族といった権威による支配ではなく、
史上初めて武力という超リアリズムで国家を作ろうとした将門は、
ある意味早すぎた源平、武家政権の嚆矢ともいえる、かなりユニークでインパクト大な存在です。
しかしこの人の場合、そうした生前の業績よりも、
彼の死後に生まれた怨霊やら伝説やらといった数々の「いわく」の方が、
すっかり有名になってしまいました。
将門伝説にまつわる場所は全国にたくさんあるのですが、
そんななかで東京23区内に残る7か所の史跡を訪ねてみました。
--------------------------------------------------
その1:鳥越神社
651年の創建と言われる古い神社。
「寺は浅草、社は鳥越」といわれるほど、下町ではなじみの深い古社だそうです。

鳥越という名前の由来は、源頼義が陸奥に赴任する際に隅田川を越えようとしていたところ、
川面に立つ白鳥を見て浅瀬が分かり、無事に全員が川を越えられたから。
しかし名前の由来にはもう一つ、京都で切り落とされた将門の首が関東まで飛んできて、
この神社の上を飛び越えたから、という説もあります。
また、境内のどこかに将門の手が埋められているという伝説もあります。
実際の鳥越神社は、そんなダークな伝説が似つかわしくないほどクリーンな神社でした。

その2:兜神社
東京証券取引所の裏にある小さな神社。

名前の由来は、八幡太郎源義家が奥州征伐の際に兜を掛けて戦勝祈願をしたことから。
しかし鳥越神社と同様、ここにももう一つ、
平将門の兜が埋まっているからという説があります。
境内にあるこの兜岩の下に将門の兜が埋まってるらしい。

ちなみに、神社自体は小さいですけど、このあたり一帯の兜町という地名は、
この兜神社からきてます。
兜町っていったら日本の金融の代名詞みたいなもんですからね。
小さくても存在感は大きい神社です。
その3:将門の首塚
鳥越神社の真上を飛んできた将門の首が落ちてきたのがここ。

江戸時代、この場所は酒井雅楽頭の屋敷になりましたが、
この首塚は敷地内でもきちんと祀られていたそうです。
ちなみに近代になってから、この場所に官公庁の建物を建設しようとしたところ、
病人やけが人が続出して「将門の祟りだ」と恐れられた…という、
将門伝説の中でも最も有名な「いわく」がありますが…実際はどうなんでしょう?
これらの伝説は全部ウソだったという記事を読んだことがあるんだけど、見つけられませんでした。
真偽はどうあれ、将門が祀られているのは事実なので手を合わせてきました。

大手町のど真ん中ですが、昼間でも暗くて、なかなか迫力ある場所ですね。
10年以上前、仕事で通りがかった際に初めてこの場所を見つけた時は思わず鳥肌が立ちました。
その4:神田明神
神田明神の祭神に、大国主命(大黒様)と少彦名命(えびす様)と並んで、
平将門が名を連ねていることはどれだけ知られているのでしょうか。
1300年以上の歴史を持つ東京でも屈指の古社ですが、元々は将門の首塚の場所にあって、
それが江戸城拡張の際に現在の場所に移転してきました。

太田道灌や北条氏綱ら、関東を治めた武士たちは皆、ここで戦勝祈願をしたと伝わっています。
江戸に移封してきた徳川家康もかつて関東統治の元祖である将門を手厚く崇敬し、
その結果、この神社は江戸の総鎮守と位置づけられることになりました。

明治になると、朝敵である将門を祀るのはけしからん!ということで一時別殿に移されてしまいますが、
昭和59年になって(超最近じゃん!)本殿に戻りました。
その5:筑土八幡神社
昔いた会社がこの近くにあったので場所は知ってはいたのですが、訪れたのは初めて。

ここは神田川が侵食した武蔵野台地の突端に当たるんですよね。
なので、お詣りするにはかなり急な石段を登らなきゃいけません。

実はこの筑土八幡神社自体には、将門は祀られていません。
祀られていたのは、戦後までこの神社のすぐ隣にあった津久戸明神。
※『江戸名所図会』を見ると、確かに2つの神社が隣り合っています。不思議な光景…。

じゃあ現在の筑土八幡神社は全く関係ないじゃないかというと、
実は境内に将門の足が埋められているという伝説もあります。

その6:水稲荷神社
戦後すぐに計画されたものの、長らく未完成だった環状4号線。
未通区間の一つだった西早稲田〜目白台部分は2017年開通を目指して工事が進んでいます。
(おかげで長らくお気に入りだった神田川沿いのコースが走れない!)
その未通区間の西早稲田側の道路沿いに建つのが水稲荷神社。

太田道灌が狩りの最中にここで休憩した際に榎を植えたところ、
後にその榎の空洞から水が湧きだしたところから水稲荷と名付けられました。

源経基がこの神社の神託によって将門を討伐したとか、
藤原秀郷が将門討伐後、この地に稲荷神社を勧請したとか、
将門調伏の謂れが多く残る神社です。
僕が訪れたのは3月の末だったので、境内の桜が満開でした。

その7:鎧神社
ここは名前がズバリですが、将門の鎧を埋めたといわれる神社です。

埋めたのは将門の弟の鎧だったという説もあるのですが、
とにかく将門周辺の誰かの鎧が埋められたというのは事実のようです。
中央線・総武線の線路のすぐ近くにあるんですが、静かで美しい神社でした。
ちなみに境内には鎧保育園という名の保育園があります。

--------------------------------------------------
さて、以上7か所になるわけですが、
全ての場所を一つの地図にプロットすると、こうなります。
↓↓↓
赤:鳥越神社
オレンジ:兜神社
紫:将門の首塚
黒:神田明神
緑:筑土八幡神社
水色:水稲荷神社
ピンク:鎧神社
そしてこの7か所を線で結ぶと…
このように、きれいに北斗七星の形になります。
うおおお〜!ってなりません?
これは偶然ではなくて、将門の霊力によって江戸の町を守護しようと考えた天海僧正(家康のブレーン)が、
将門ゆかりの場所を、彼が祀っていた妙見菩薩のシンボルである北斗七星の形に揃えた
といわれています。
実際、この7か所は江戸の主要街道の出入り口にあたるので、
かなり計算されて配置されてるようです。
うんちくをもう一つ。
将門の子孫はその後、現在の千葉県に入植して千葉氏を名乗ります。
はるかに時代が下って江戸後期、千葉市の末裔を名乗る一人の剣客が、江戸に道場を開いて隆盛を極めます。
千葉周作です。
彼が開いた流派の名は北辰一刀流。
この北辰というのは北極星のことですが、
実は北極星を神格化した神様というのが、妙見菩薩なのです。
おおお〜、つながる。
ちなみに、鳥越神社の宮司は千葉氏の末裔が務めているそうです。
…と、まあ知ってる人にとっては今さら過ぎるネタではあります。
ただ、実際に自分の足で回ると、
見慣れた東京の風景に「将門」というレイヤーがかかり、全く別の景色が見えるような気がしました。
※次回更新は8/18の予定です
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10世紀前半に、関東を拠点に中央政権に対して反乱を起こした平将門。
天皇や貴族といった権威による支配ではなく、
史上初めて武力という超リアリズムで国家を作ろうとした将門は、
ある意味早すぎた源平、武家政権の嚆矢ともいえる、かなりユニークでインパクト大な存在です。
しかしこの人の場合、そうした生前の業績よりも、
彼の死後に生まれた怨霊やら伝説やらといった数々の「いわく」の方が、
すっかり有名になってしまいました。
将門伝説にまつわる場所は全国にたくさんあるのですが、
そんななかで東京23区内に残る7か所の史跡を訪ねてみました。
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その1:鳥越神社
651年の創建と言われる古い神社。
「寺は浅草、社は鳥越」といわれるほど、下町ではなじみの深い古社だそうです。

鳥越という名前の由来は、源頼義が陸奥に赴任する際に隅田川を越えようとしていたところ、
川面に立つ白鳥を見て浅瀬が分かり、無事に全員が川を越えられたから。
しかし名前の由来にはもう一つ、京都で切り落とされた将門の首が関東まで飛んできて、
この神社の上を飛び越えたから、という説もあります。
また、境内のどこかに将門の手が埋められているという伝説もあります。
実際の鳥越神社は、そんなダークな伝説が似つかわしくないほどクリーンな神社でした。

その2:兜神社
東京証券取引所の裏にある小さな神社。

名前の由来は、八幡太郎源義家が奥州征伐の際に兜を掛けて戦勝祈願をしたことから。
しかし鳥越神社と同様、ここにももう一つ、
平将門の兜が埋まっているからという説があります。
境内にあるこの兜岩の下に将門の兜が埋まってるらしい。

ちなみに、神社自体は小さいですけど、このあたり一帯の兜町という地名は、
この兜神社からきてます。
兜町っていったら日本の金融の代名詞みたいなもんですからね。
小さくても存在感は大きい神社です。
その3:将門の首塚
鳥越神社の真上を飛んできた将門の首が落ちてきたのがここ。

江戸時代、この場所は酒井雅楽頭の屋敷になりましたが、
この首塚は敷地内でもきちんと祀られていたそうです。
ちなみに近代になってから、この場所に官公庁の建物を建設しようとしたところ、
病人やけが人が続出して「将門の祟りだ」と恐れられた…という、
将門伝説の中でも最も有名な「いわく」がありますが…実際はどうなんでしょう?
これらの伝説は全部ウソだったという記事を読んだことがあるんだけど、見つけられませんでした。
真偽はどうあれ、将門が祀られているのは事実なので手を合わせてきました。

大手町のど真ん中ですが、昼間でも暗くて、なかなか迫力ある場所ですね。
10年以上前、仕事で通りがかった際に初めてこの場所を見つけた時は思わず鳥肌が立ちました。
その4:神田明神
神田明神の祭神に、大国主命(大黒様)と少彦名命(えびす様)と並んで、
平将門が名を連ねていることはどれだけ知られているのでしょうか。
1300年以上の歴史を持つ東京でも屈指の古社ですが、元々は将門の首塚の場所にあって、
それが江戸城拡張の際に現在の場所に移転してきました。

太田道灌や北条氏綱ら、関東を治めた武士たちは皆、ここで戦勝祈願をしたと伝わっています。
江戸に移封してきた徳川家康もかつて関東統治の元祖である将門を手厚く崇敬し、
その結果、この神社は江戸の総鎮守と位置づけられることになりました。

明治になると、朝敵である将門を祀るのはけしからん!ということで一時別殿に移されてしまいますが、
昭和59年になって(超最近じゃん!)本殿に戻りました。
その5:筑土八幡神社
昔いた会社がこの近くにあったので場所は知ってはいたのですが、訪れたのは初めて。

ここは神田川が侵食した武蔵野台地の突端に当たるんですよね。
なので、お詣りするにはかなり急な石段を登らなきゃいけません。

実はこの筑土八幡神社自体には、将門は祀られていません。
祀られていたのは、戦後までこの神社のすぐ隣にあった津久戸明神。
※『江戸名所図会』を見ると、確かに2つの神社が隣り合っています。不思議な光景…。

じゃあ現在の筑土八幡神社は全く関係ないじゃないかというと、
実は境内に将門の足が埋められているという伝説もあります。

その6:水稲荷神社
戦後すぐに計画されたものの、長らく未完成だった環状4号線。
未通区間の一つだった西早稲田〜目白台部分は2017年開通を目指して工事が進んでいます。
(おかげで長らくお気に入りだった神田川沿いのコースが走れない!)
その未通区間の西早稲田側の道路沿いに建つのが水稲荷神社。

太田道灌が狩りの最中にここで休憩した際に榎を植えたところ、
後にその榎の空洞から水が湧きだしたところから水稲荷と名付けられました。

源経基がこの神社の神託によって将門を討伐したとか、
藤原秀郷が将門討伐後、この地に稲荷神社を勧請したとか、
将門調伏の謂れが多く残る神社です。
僕が訪れたのは3月の末だったので、境内の桜が満開でした。

その7:鎧神社
ここは名前がズバリですが、将門の鎧を埋めたといわれる神社です。

埋めたのは将門の弟の鎧だったという説もあるのですが、
とにかく将門周辺の誰かの鎧が埋められたというのは事実のようです。
中央線・総武線の線路のすぐ近くにあるんですが、静かで美しい神社でした。
ちなみに境内には鎧保育園という名の保育園があります。

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さて、以上7か所になるわけですが、
全ての場所を一つの地図にプロットすると、こうなります。
↓↓↓
赤:鳥越神社
オレンジ:兜神社
紫:将門の首塚
黒:神田明神
緑:筑土八幡神社
水色:水稲荷神社
ピンク:鎧神社
そしてこの7か所を線で結ぶと…
このように、きれいに北斗七星の形になります。
うおおお〜!ってなりません?
これは偶然ではなくて、将門の霊力によって江戸の町を守護しようと考えた天海僧正(家康のブレーン)が、
将門ゆかりの場所を、彼が祀っていた妙見菩薩のシンボルである北斗七星の形に揃えた
といわれています。
実際、この7か所は江戸の主要街道の出入り口にあたるので、
かなり計算されて配置されてるようです。
うんちくをもう一つ。
将門の子孫はその後、現在の千葉県に入植して千葉氏を名乗ります。
はるかに時代が下って江戸後期、千葉市の末裔を名乗る一人の剣客が、江戸に道場を開いて隆盛を極めます。
千葉周作です。
彼が開いた流派の名は北辰一刀流。
この北辰というのは北極星のことですが、
実は北極星を神格化した神様というのが、妙見菩薩なのです。
おおお〜、つながる。
ちなみに、鳥越神社の宮司は千葉氏の末裔が務めているそうです。
…と、まあ知ってる人にとっては今さら過ぎるネタではあります。
ただ、実際に自分の足で回ると、
見慣れた東京の風景に「将門」というレイヤーがかかり、全く別の景色が見えるような気がしました。
※次回更新は8/18の予定です
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